←BACKHome. TOPNEXT→




― She -side Yuuya- ―

 

 ―――…あ…。

 家庭教師のバイトの帰り道。
 アパートの方向から歩いてきて、優也と2メートルほどの間を置いてすれ違った人。街灯で僅かに確認できたその顔に、優也は、デジャヴのようなものを感じた。
 振り返り、確認する。
 視線の先には、日本人形のような黒髪。服装は違うけれど―――多分、あの時の、あの女の子。
 今から2週間ほど前―――雨の夜、アパートの前に立ち尽くし、うな垂れて泣いていた、あの女の子だ。

 優也とすれ違い、遠ざかっていく彼女の今日の背中も、あの日同様、暗く沈んでいて、寂しそうに見えた。
 どうしてあの時、あんな雨の中で、傘もささずに立っていたのだろう? 一体、誰を訪ねて来ているのだろう? やはり今日も、アパートを訪ねた帰りなのだろうか? そして……今日は、ちゃんとその人に会えたのだろうか?
 ―――高校生…いや、うーん、大学生? 多分、僕と同じ位の年齢だよなぁ。だとしたら…穂積、とか。穂積の高校時代の同級生とか? うーん…。
 明日にでも、蓮にちょっと訊いてみようか、と一瞬思う。が……その考えは、ものの2秒で打ち消された。
 女嫌い、と言っても過言ではないほど、女性絡みの話が大嫌いな蓮のことだ。蓮を訪ねて来た女性がいるのでは、という推測を立てただけでも、「冗談だろ、そんなのいる訳ない」と眉根を寄せるであろうことが、すぐに想像できたのだ。

 ―――なんで、女の人に関してだけ、ああも極端なのかなぁ…? 他では凄くバランス取れた奴なのに。潔癖症? その割に掃除嫌いだとか言ってたし…。
 やっぱり、女の人絡みで、何かもの凄く嫌な体験をしたのかな。
 考えてみたら、僕って、高校生までの穂積のことって、何も知らないよなぁ…。趣味の話は色々してるけど、過去の話って全然聞いたことないし。ああ、夏休みにお兄さんの話とかお母さんの職業を初めて聞いたけど、中学高校で何やってたとか、お兄さんの婚約者の話とか―――ちょっとは話題にのぼってもおかしくない話なのに、1度も聞いた覚えがない。
 …考えてみると、穂積って、結構謎の多い奴かも。

 などと、珍しく蓮のことを色々考えているうちに、アパートに着いた。
 ちょっとミルクパンの顔を見て行こうかな、と階段下を覗くと。
 「…あれ? マリリンさん?」
 少し驚いた声で呼びかけると、ミルクパンを抱いた後姿が、ん? という感じで振り返った。その振り返った顔を見た途端、優也は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
 「ど……っ、どーしたんですか、その顔っ!!!!」
 「え?」
 顔がどうかした? とマリリンが首を傾げる。本人には、全く自覚がないらしい。ああ、この場に鏡があったら、マリリンの目の前に突きつけたい位だ。
 「な…なんか、すさまじい顔ですよ?」
 「すさまじい?」
 「…今にも、倒れそう」
 早い話、マリリンは、相当やつれていた。
 きちんとメイクは施してあるので、顔色に関してはさほどでもないが―――明らかに、頬がこけた。目の下の隈も隠しきれていない。目の表情も、半分死んでいる。喩えるなら―――…。
 「幽霊、レベルですよ、それ」
 「あらら…。そーお? 自分ではそこまで行ってないつもりなんだけどー…」
 「…鏡、見てます?」
 「見てるわよ? でも、毎日見てるからねぇ…。徐々に幽霊に近づいてるんだったら、ちょっと気づき難いかも」
 あっけらかんとそう言うと、マリリンは、あーあ、とため息をつきながら、腕に抱いていたミルクパンを物置の寝床に戻した。半分眠ってしまっていたのか、ミルクパンは、鳴き声ひとつ上げることなく、大人しく寝床の中で丸まった。
 「最近、さっぱり姿見えなかった気がするけど…どうしてたんですか?」
 マリリンが物置の扉を閉める様子を見ながら、訊ねる。
 実際問題、ここ最近、マリリンの姿を見ることは滅多になかった。夏休み前辺りから徐々に見かける回数が減り、9月に入ってからは、もしかして旅行にでも行ってるんじゃないか、と思うほどに、さっぱり姿を見せなくなっていた。1度、編集者らしき人物が「それじゃあ来月もよろしくー」と言って帰って行くのを見たので、仕事はちゃんとしているらしいとわかったが、一時は蓮との間で病気説まで飛び交ったほどだ。
 「どうしてた、も何も、ひたすら部屋でお仕事よ」
 腰を伸ばしたマリリンは、その言葉を裏付けるように、疲れた様子で左手で右の肩を揉んだ。
 「もーねー、書いて寝て、書いて寝て、書いて寝て…、気がついたら、いつの間にか夏が終わってるじゃないの、って感じよ」
 「そんなに? でも―――連載本数、変わってないでしょう?」
 頭の中で、海原真理の連載本数を数えてみる。勿論、今書いているのはもう少し先の掲載分だろうが、週刊誌1本、月刊誌2本で、あとは書下ろしが多かったように思う。
 「書き下ろしでも増えたんですか?」
 「…ま、そんなとこ。連載もクライマックス迎えてるのがあるしねぇ…。同時進行が複数重なると、脳の疲労が体にまで及んでくるのよねぇ。化粧するのも億劫だ、ってノーメイクでいた日も時々あったし」
 「えっ、ノーメイクの日があったんですか!?」
 「あるわよぉ、そりゃあ。でも、やっぱり時々この格好しないと駄目みたい。いいストレス解消になるんだろうけど、手間がかかるんで、こういうスケジュールの時はキツイわー」
 「……」
 ―――…ってことは、素顔のマリリンさんが拝めるチャンスが、ごろごろ転がってる、ってこと?
 しまった、もっと注意深く101号室の出入りをチェックしておけばよかった、などと、方向違いなことを後悔した優也だったが。
 「あ…っ、そ、そうだ。マリリンさん、いつからここにいた?」
 「え? ここ、って、ミルクパンのとこ? そーねぇ…15分位?」
 15分―――ならば、可能性はある。優也は、少し身を乗り出すようにして訊ねた。
 「あ、あのっ、じゃあ、その間に女の子、見ませんでしたか?」
 「女の子?」
 「ええと、大体僕と同じ位の年齢で……日本人形みたいに真っ黒な髪で、この辺まであって。背は、多分咲夜さん位。服は…うーん、思い出せないんだけど、とにかく、顔もお人形みたいに凄く整ってて可愛い筈なんだけど」
 記憶を一生懸命掘り起こして説明する優也に、マリリンは怪訝な顔をしつつも、丁寧に答えた。
 「そんな目立つ風貌の子なら、嫌でも記憶に残ると思うけど―――少なくとも、アタシがここにいる間に、ここから見える範囲に姿を見せたのは、ちょうど帰ってきた木戸さんだけだわね。あとはゼロ」
 「…あ…、そうなんだ」
 「…ふぅん? その女の子が、どうかしたの?」
 興味津々の様子でニヤニヤしだすマリリンに、優也は慌てて、なんでもない、と首を振った。実際、別にマリリンがニヤニヤするような裏事情は何もない。第一 ―――あの子が何者なのか、優也には、まるで見当がつかない。

 ただ、気になるだけで。
 あんな雨の中、ずぶ濡れになってまで、彼女が何故あそこに立っていたのか―――誰かがその理由を聞いてあげないと、あの子はずっと、あのままのような気がして。…根拠なんてないけれど、なんとなく。

 次、また会うようなことがあったら、一度声をかけてみた方がいいだろうか。
 なおも詳細を聞きたがるマリリンを必死に誤魔化しつつ、優也は珍しく、そんなことを考えていた。

***

 「確かに、レンダリングとかやるには、Pentiumマシンの方がいいんだけど…高いよねぇ」
 優也がボヤくと、隣を歩く蓮も、缶コーヒーをあおりながら、渋い顔で空を見上げた。
 「そもそも、レンダリングをノートPCでやろうってのが間違いな気するけどな」
 「でも、デスクトップは、場所取るし…。バイト代貯金すれば、バリューモデル程度ならデスクトップは買える気がするんだけど」
 「…バリューモデルも、レンダリングはキツイだろ」
 「おおーい、穂積!」
 前方から飛んできた声に、蓮に続き、優也も前方に目を凝らした。
 見れば、同じゼミの4年生が2人……いや、3人、並んで歩いてきていた。見た瞬間、2人に見えてしまったのは、比較的体格のいい男性2人の隣に、女性としても小柄な真琴がちょこんといたからだ。
 「いやー、ちょうど良かったぜ。お前ら、ゼミの帰りか」
 「はあ…」
 男の先輩2人のうち、片方にそう訊ねられ、蓮は怪訝そうな顔をしつつも、一応頷いた。
 「この後、急ぎの予定ある?」
 「…バイトまでは、暇ですけど」
 蓮の返答に、真琴を除く2人の顔が明るくなる。何だろう、と蓮の横顔に不安が走った。
 「そっか! じゃあ、ちょっと時間いいかな。俺たち、お前に相談事があるんだよ」
 「相談事?」
 「バイクだよ、バイク。俺らも、卒業前にバイク買うことにしたんだけどさ、最近興味持ち出したばっかだから、どうにも候補絞り込めなくて」
 「穂積、バイクには詳しいだろ? ほら、カタログと広告いくつか集めてきてるから、10分でいいから、ちょっと相談乗ってくれよ」
 そう言って、もう1人の先輩が、丸めて持っていたカタログの束を掲げてみせた。なんだ、そういうことか、と少し安堵した顔になった蓮は、どうする? という視線を優也に向けた。
 「うん、僕はいいよ」
 ニコリと笑って優也が答えると、蓮もそれを受けて「わかりました」と先輩たちに答えた。
 「よっしゃー、そんじゃあ秋吉、お前はその間、マコの相手をしてなサイ」
 「え?」
 ポン、と先輩に肩を叩かれ、思わずキョトンとする。
 そんな優也の目の前で、真琴は、いつも通りのへらっと脱力した笑顔を見せた。

 

 立ったままでは何なので、ということで、結局5人は学食に移動した。

 「秋吉君いてくれて、助かっちゃったよ〜」
 自販機で買ってきた紙コップ入りの紅茶を両手で口に運びつつ、真琴はえへへ、と笑った。
 「ゼミ始まる前にお互いのレポの見直ししようって約束してたから、わたしだけ先に行く訳にもいかないしねぇ。でも、バイクのことなんて、全然わからないし」
 「…僕も、ちょっと助かりました。さっぱりわかんないです、あの手の話は」
 そう言いつつ、隣のテーブルに目を向ける。そこでは、男3人が、大量のカタログや広告をテーブルいっぱいに広げて、何やら熱く語り合っている。当然、その中心にいるのは、相談を受けている蓮の筈なのだが、口数の少ない蓮はポイントポイントで喋ればいいや、と思っているらしく、今、隣から聞こえてくる声の90パーセントは、先輩2人の声ばかりだ。
 「秋吉君は、あーゆーのに興味ないの?」
 「ないなぁ…。スピード出るものって、苦手で。穂積の後ろに乗っけてもらっても、いまだに時々目が回るし」
 「穂積君て、血液型はA型かなー」
 「えっ、なんでですか?」
 「A型は日頃ストレスを溜め込んでる分、スピード狂になるんだって」
 「…僕、A型なんですけど」
 「あ、わたしもA型ー」
 「……」
 「自動車教習所で、“キミは免許を取るのは諦めた方がいい”って言われたちゃったよ〜。血液型診断なんて、やっぱり当てにならないね〜」
 ―――うーん…、相変わらず、どうリアクションしていいか困るなぁ、この人の話は。
 正直なところ、優也は、真琴のことが少し苦手だ。
 といっても、それは、こういう奇抜な話題の転換が多くてついていけないからで―――それを抜きにすると、実は、1対1で顔を合わせても緊張せずに済む、珍しい異性でもある。
 咲夜なども、確かに緊張しなくて済む女性ではあるのだが、その感覚はむしろ「同性と話している感じ」に近い。要するに、女の子特有のキャピキャピした感じが咲夜にはゼロなので、そもそも女であることをほとんど忘れてしまっている存在なのだ。
 でも、真琴の場合―――なにせ、この喋り方である。しかもルックス的にも、女の子っぽい。猫っ毛な長い髪をしているし、服装もスカートを穿いていることが断然多い。顔だち自体はあっさり顔だが、丸顔なので、全体から受ける印象は、明らかに“女の子”だ。なのに―――何故か、他の女の子と相対した時のような緊張感や戸惑いは、ほとんどない。
 ―――やっぱり、尊敬してる人、ってのが大きいのかなぁ…。
 頭の片隅でそう考えた優也は、ふとあることを思い出し、思わず「あ、」と声に出して言ってしまった。
 考えてみれば、ずっとずっと話を聞きたいと思っていた真琴と、差し向かいだなんて―――こんなチャンス、滅多にない。
 「あのっ、マコ先輩」
 突如、勢いづいて優也が切り出すと、真琴はちょっと目を丸くした。
 「なーにー?」
 「マコ先輩って、大学院に進むんですよね」
 「そうだよ〜?」
 「…やっぱり、研究者っていうか、大学教授が将来の目標、ですか」
 優也の質問に、真琴は更に目を丸くし、首を傾げた。
 「えー…、どうかなぁ。大学院出ても、お偉い先生になる人なんて、ほんの一握りじゃないのぉ?」
 「じゃあ―――…」
 何のために、大学院に行くんですか?
 そう訊こうとして―――やめた。駄目だ。やっぱり、自分の悩みをぶつけないことには、質問の意図がボケてしまう。軽く頭を振った優也は、改めて話の仕切り直しをした。
 「その、実は……今、僕自身が悩んでるんです。大学院、行くべきかどうか」
 「え、なんで〜?」
 「…親や親戚は、行かせる気満々なんです。将来は立派な数学者になってくれ、って感じで、なんていうか、プレッシャーが凄くて…。僕も数学は好きだし、卒研をやったら、もっと本格的にやりたくなるような気もするけど、その―――数学者とか、教授になるとか、そういう具体的な未来まで、まだ描けなくて。マコ先輩の言うとおり、そういう道選ぶ人って、極少数でしょう? でも、結局普通の企業に就職するんだったら、大学院なんて行かずに4年で卒業して普通に就職した方がいいんじゃないか、と…」
 「…ふむー」
 珍しく眉間に皺を寄せた真琴は、その表情に似つかわしくないノホホンとした声で、一言唸った。
 「つまりアレなのですね。まとめるとぉ、秋吉君は、早く大人になりたーい、と」
 「……」
 ―――まとめると、そうなるの?
 なんか違う気もするが、突き詰めるとそれこそが正解のような気もして、ちょっとドキッとする部分もある。
 「マコ先輩は、そういう悩み、なかったですか?」
 「ん〜、3年の頃に、ちょっとだけ、あったかなぁ」
 そう言って、ずずっ、と紅茶をすすった真琴は、一度小さく息を吐き出すと、優也を真っ直ぐに見て、ニコリと笑った。
 「でも、結局出て来たのは、行ってみたいから行く、っていう、すごぉくシンプルな答えなんだけどね〜」
 「行ってみたいから…」
 「…んー、秋吉君とは、同じ研究をするよしみもあるから、教えちゃおうかなぁ」
 もったいぶった言い方をした真琴は、少し身を乗り出し、それまでより少しだけ声のボリュームを下げた。
 「あのね。死んだおばあちゃんが残した格言があるの」
 「格言?」
 「やりたい、と思ったことは、それを周囲が許してくれる限りは、悔いが残らないよう精一杯やりなさい、って」
 「……」
 「わたしねー、中学まで、フルートやってたの」
 浮かせていた腰を下ろすと、真琴はまた、紅茶の入った紙コップを両手で包んだ。
 「吹奏楽部でねぇ。昔からこのテンポだから、周りと合わせるのが大変だったけど、フルートがとっても好きだったから、一生懸命頑張ってたのね。県大会とかにも出たしねー、賞も取ったしねー、優秀なのだよ、うちの中学は」
 「へぇ…、知りませんでした」
 「でも、中2の終わりに、病気になっちゃってねぇ」
 いつもより若干早口で、まるで付け足すみたいに、ポツリと。
 危うく聞き逃しそうになったその言葉に、優也の背中に、緊張が走った。
 「凄く凄く頑張って、1ヶ月しか学校休まなかったのね。あれ以上頑張れなかったから、春休みの演奏会に出られなかったのは、全然悔しくないの。それに―――こっちの耳」
 再びのんびりした口調になりながら、真琴は左の耳を指差してみせた。
 「病気のせいで、全然聞こえなくなっちゃって、元々トロいわたしじゃあ合奏に参加するのはもう無理だよ、ってわかった時にもね。それまで凄く、凄く、一生懸命部活動やってたから、諦められたの」
 「……っ、」
 眼鏡の奥の優也の目が、大きく見開かれた。
 左耳が、全く聞こえない―――全然、気づかなかった。いや、そんなことより……そんなに大好きなことを、病気という不運で辞めなくてはいけなかったなんて。
 「もしもねぇ、中2までの部活をすごーく手抜きしてたり、耳聞こえなくなった後に精一杯のことをやらずに甘えたり諦めたりしてたら、今もまだ、引きずってたと思うよー。でも、わが人生に悔いなし、って感じだったから、早く立ち直れたのー」
 ショックを受ける優也とは対照的に、そう話す真琴の表情は、いつも通りのノホホンとしたものだった。どことなく自慢げに笑った真琴は、また紅茶を一口飲み、ほとんど空に近くなった紙コップをテーブルに置いた。
 「あの時の経験からねぇ、わたし、今やりたいと思っていることは、今やっておかなくちゃ、と思うようになったの」
 「今……」
 「いつかやれる、って思ってると、できずに終わるかもしれないでしょ」
 「……」
 「高校生の時、数学の本で“やわらかい数学”って表現見て、えぇー、何これ、変なのーっ、て思って、位相幾何学(トポロジー)に興味を持っちゃって―――ふーん、コーヒーカップとドーナツが、この学問の上では同じ形なのかぁ、って思ったら、もっともっと、色々知りたくなったのね。両親に“大学で数学やりたい”って言ったら、いいよ、って言われたから、ここ受けたの。でも、まだまだ知りたいことがいっぱいあって―――もう少し、勉強したいな、って親に相談したら、生活費を自分で稼げるなら大学院行ってもいいよ〜、って」
 そこまで言うと、真琴はふふっ、と笑い、頬杖をついて、優也を真っ直ぐ見つめた。
 「だから、わたしは、大学院に行くのさ〜。勉強したいことがあって、それを許してくれる環境があるから。就職した方がいいかなぁ、って迷う部分もあるけど……もし1年後、わたしが死んじゃったとしたら、就職と勉強、どっちができなかった方が後悔するかなぁ、って考えたら、多分勉強の方だな〜、と思ったから」
 「……」
 「頑張って勉強して、究極の万華鏡(カレイドスコープ)を作るナリよ〜」

 ―――…この人は…。

 たんぽぽの綿毛のような、ふわふわと脱力した笑顔を見せる真琴を、優也は、なんとも言えない驚きを持って見つめてしまった。
 あまりにスローテンポで、会話もちぐはぐで、こんなにノンビリした人が一人暮らしだなんて信じられない、とさえ思っていたのに―――とんでもない。真琴は、優也よりはるかに大人で、はるかに強い。

 「…僕は、マコ先輩ほど、数学に対する思いが強くないから…」
 今、真琴のように未来を想像してみても、どっちをやり残す方が後悔するのか、いまいち自信が持てない。半端な自分が、余計情けなくなってきて、優也は泣き笑いのような弱々しい苦笑を浮かべた。
 ところが真琴は、その言葉にキョトン、と目を丸くした後、可笑しそうに笑った。
 「あははは〜、思いなんて、別に強くないよ〜」
 「でも…」
 「単に、世間とか周りの人とかの“視線”に、わたしは鈍感で秋吉君は敏感だ、ってことなんじゃないのぉ?」
 「!」
 何故か、ギクリとした。
 今の言葉の何に、こうもギクリとしたのか―――それは、わからないけれど、何故か。
 「大学院にいく“べき”か、なんて悩むってことは、成人したのに親のすねかじりなんてー、とか、親の期待を裏切れないー、とか、自分の気持ち以外をすごーく気にする人なのですネ、ユーは」
 「……」
 なんだか、ぐっさりと、その言葉が心臓に突き刺さる。なのに、真琴はニコリと笑い、頬杖をやめて、ぴょん、と背中を伸ばした。
 「一方わたしは、わがままな奴だ、少しくらい世間体を気にしろ、と、おじいちゃんに怒鳴られるのですぅ〜」
 「……」
 「どっちもどっち、じゃないのかなぁ〜。社会的責任とか人間関係を大切にするのは大事なことだしぃ、でも世間体だけにこだわらないことも大事だしぃ。だから、もしユーがもうちょっとわがまま息子になったら、その時は一緒に、究極の万華鏡を完成させましょ〜」
 「…ハハハ…」
 思わず、脱力した笑いが漏れる。
 なんだか―――ぐっさり、と痛いところを突かれた途端、憑き物が落ちたように、背中が楽になった。
 自分という人間は、自分に自信がないあまり、自分以外の目を気にし過ぎてしまう―――密かに自覚していた自分の欠点を、真琴から明るく指摘されたからこそ、あれほどぐっさり胸に来たのだ。
 世間体や親の心象ばかり気にして、自分の意志を通せない小心者、と自分で自分を責めている部分があったが……真琴にあっさり言われて、なんだかわかった気がした。自分は確かに、周囲の目を気にしてしまう傾向が高い人間だけれど、それ以上に―――貫き通すだけの「自分」が、まだしっかりと持てていないのだ、と。

 『親の押し付けで、何かを始めることはできても、興味を維持はできないだろ。だから、普通に就職したい、って希望も、数学者になりたい、って希望も、秋吉自身の夢、なんじゃないかな』

 ―――うん…、やっぱり、穂積が言ったとおりだ。
 親がああ言うから、同期がみんな就職するから―――大学院と就職で揺れる優也の気持ちの大半は、この2つのせめぎ合いだ。そっちばかりに気を取られて、肝心な自分の望みを、まだきちんと自覚できていない。自覚できるような段階に、まだいないのだろう。
 「じゃあ、来年、就職に焦りもせず卒研に夢中になっているようだったら、マコ先輩の後について行きますね」
 「うむ。よろしい。かかってきなさい、後輩よ」
 別に戦いを挑んだ訳じゃないのに、真琴はそう言って、ドン、と胸を叩いた。
 その、どうにも噛み合わない会話が、妙にツボに入ってしまい、優也は思わず大笑いしてしまった。隣のテーブルの連中が、いつも大人しい秋吉がどうしたんだ!? と色めき立つほどに。

***

 10分でいいから、と言われたバイクの相談事は、結局、倍の20分に及んだ。

 「何を話してるのかと思ったら、例の話だったんだ」
 再び歩き出しながら、蓮が納得したように頷く。
 「で、どうだった?」
 「うん。穂積の話聞いた時もそうだったけど…なんか、気が楽になった」
 さっき真琴と話したことを思い出しつつ、優也はくすっと笑った。
 「マコ先輩って、“こうすべき”っていう考えが、全然ない人なんだよね」
 「べき?」
 「大人ならこうす“べき”、男なら女ならこうある“べき”、みたいな、固まった考え方をしない人なんだ。今、ハムレットが“生きるべきか死ぬべきか”って悩んでいたら、僕は、国のことを考えると…いやでも倫理的に…、なんて言ってハムレットと一緒に頭を抱えると思うけど、マコ先輩は、“え〜、生きたかったら生きればいいよ〜、死にたかったら、迷惑かけないように死んだら〜?”って言うと思う」
 「ハハ…、今のは、ちょっと似てた」
 真琴を真似た優也の口調に、蓮は思わず吹き出した。そして、優也が何故気が楽になったのか察しがついたのか、なるほどなぁ、と相槌を打った。
 「確かに、マコ先輩みたいに我が道を行く人がいてくれると、あれでもオッケーなのか、って気が楽になるよな」
 「うん。特に僕は、自分の道が見えないから、つい“こうすべき道”を探そうとしちゃって……マコ先輩の話聞いてたら、僕に足りないのは、貫き通したいほどの“自我”だな、って思った」
 「別に秋吉が自我が弱いとも思わないけどな。コンパ飲み会拒否の姿勢は貫けてるじゃないか」
 「う…っ、社交面に関しては、むしろ協調性を養わないとまずいのかな…」
 「冗談だよ。秋吉が付き合いのいい奴になったら、俺が困るよ」
 自身も飲み会の類にあまり顔を出さない蓮は、そう言って苦笑した。
 「それで―――大学院、どうするか決められそう?」
 「…うーん…、まだ、暫くかかりそうだなぁ…」
 ため息をついた優也は、思わず空を見上げた。
 「マコ先輩は、もし自分が1年後に死ぬことになったら、就職できなかったことと、やりたかった研究ができなかったこと、どっちを悔やむだろう? って考えて、勉強しなかった場合の方が後悔するな、って思ったから、大学院を選んだんだって」
 「へーえ…」
 「でも、今の僕は、どっちがより後悔するか、はっきり明言できそうにないんだ。多分…もう少し時間をかけないと、答えが出ないんだろうなぁ…」
 「…1年後に死ぬことになったら、か。なんか、見た目からは想像つかない考え方するな、マコ先輩も」
 「うん…、見た目より、ずっと大変な経験してきた人だからこそ、出てくる発想かも」
 「大変な経験?」
 「……あ、」
 うわ、まずかったかな、これ。
 不思議そうな蓮の視線が横顔に注がれて初めて、自分が無意識のうちに口にしてしまった言葉に気づき、焦る。
 勿論、優也が「大変な経験」と表現したのは、病気が原因で吹奏楽を諦めざるを得なくなった話なのだが―――迂闊に明かしてはまずい気もするし、自分も一番驚いた事実なので、蓮にも知ってもらいたい気もする。迷った末、口の堅い蓮にならば…と考え、優也は改めて口を開いた。
 「…僕も今日初めて聞いたんだけど―――マコ先輩、ずっとやってた吹奏楽を、病気で片耳聞こえなくなったせいで、諦めたんだって。中学の時」
 「片耳…」
 少し考えるような表情をした蓮は、自分の左の耳を指差した。
 「もしかして、左の耳?」
 「え…っ、ほ、穂積、知ってたの?」
 「いや。マコ先輩って、教授の話聞く時、左斜めに顔向け気味なんだよ。こんな感じで」
 そう言うと、蓮は立ち止まり、首を左に僅かに傾けた。優也から見ると、蓮は真正面を向いておらず、若干右の頬をこちらに向けている感じになる。
 「普段そんなことないのに、なんでかな、と思ってたけど―――秋吉の話聞いて、納得。重要な話になると、聞こえる右耳をいつもより相手に向けるんだな、無意識に」
 「…うそ…、僕、全然気づかなかった」
 「真ん前に座ってたから、偶然気づいただけだよ」
 あっさりそう言って、蓮はまた歩き始めたが、軽いショック状態の優也は、すぐには動き出せなかった。
 ―――も…もしかして僕って、もの凄く迂闊な奴なんじゃ…?
 大体蓮の隣に座っている優也だから、蓮の真ん前に座っていた、ということは、優也のほぼ前に座っていた、ということにほかならない。なのに、蓮は気づけて、自分は気づけなかった―――偶然だと蓮は言うが、やはりちょっとショックだ。
 「じゃあ、さっきの“もし1年後に死ぬことになったら”って話は、吹奏楽諦めざるを得なくなって後悔してるから、次からは後悔しないように、って意味かな」
 少し先に行ってしまった蓮が、優也が置いてきぼりになっていることにも気づかず、そう訊ねる。ハッ、と我に返った優也は、慌てて蓮に追いつき、また隣に並んだ。
 「い、いや、そうじゃなくて―――今、やりたいと思っていることをやるべし、ってのは、吹奏楽の話よりずっと前からの、おばあさんの格言なんだって。その格言に従って吹奏楽にも全力投球してたからこそ、諦めることができた、って、マコ先輩言ってた」
 「……」
 「もっとやっておけば良かった、って思いがあったら、今も引きずってたと思う―――それまでやってきた事に悔いがないから、立ち直れた、って」
 「…へぇ…」
 「凄いよなぁ…マコ先輩。早く退院できるように頑張ったのだって、吹奏楽に1日も早く復帰したかったからだろうに、よく諦めついたなぁ…。僕なら、仲間に迷惑かかるってわかってても、未練だらけで部から離れられないかも」
 「―――マコ先輩にだって、未練はあったと思うよ」
 ぽつりと、蓮が呟く。
 その声が、少し前までとは微妙にトーンが変わってる気がして、優也は僅かに眉をひそめ、蓮の横顔を確認した。
 蓮は、視線を幾分落とし気味にし、数歩先の地面を見つめていた。その横顔は、厳しい訳でも険しい訳でもないが、なんだか―――いつもの蓮より硬いものを感じさせる表情だった。
 「今だからこそ、笑って話せるんだ。多分……諦める時は、もの凄く葛藤したと思う。完全に無理な訳じゃない分、余計に」
 「……」
 「俺も、挫折組だから、なんとなくわかる」
 「…挫折、組?」
 突如出てきた言葉に、優也の胸が、小さく跳ねる。なんだか…聞いてはいけない話に踏み込んでしまった気がして。
 けれど蓮は、優也の方に目を向けると、苦笑とも微笑ともつかない曖昧な笑みを浮かべ、サラリと答えた。
 「俺も、中学の時、大怪我で陸上諦めた経験があるからさ」
 「…穂積…が…?」
 「でも、俺もマコ先輩と同じ。諦める時は辛かったし、怪我したことには後悔があるけど、ずっとベスト尽くしてきたから、もっと沢山走っておけばよかったとか、あと1秒タイムを縮めておきたかった、なんて後悔はしてない」
 「―――…」

 やっぱり―――自分という人間は、少し、迂闊なのかもしれない。
 何故、蓮が、大学に入る前の話を、あまり口にしないのか……今なら、理解できる。いや、普通話題にのぼっても不思議ではないのに、と疑問に思った時点で、気づいてもよさそうなものだったのだ。
 口にしたくない、辛い思い出があるから。
 その思い出のせいで、その頃の記憶の全てが悲しい色合いになってしまうような思い出が、あるからだ。

 「…ご…めん…」
 うな垂れて優也がそう言うと、蓮は驚いたように目を丸くし、慌てて優也の肩に手を置いた。
 「な、なんで秋吉が謝るんだ? 話すような機会がなかっただけで、別に知られちゃまずい話でもないし」
 「…でも、なんか、ごめん」
 「だから、謝るなよ…」
 困り果てたような顔になる蓮に、優也も、変に暗くなってしまっては悪いな、と思い直し、なんとか口元に笑みを作った。
 それを見て、蓮もホッとしたように、表情を和らげた。そして、気まずくなりかけた空気を一掃するためか、少し茶化すようにして、思わぬことを言い出した。
 「そう言えばさ。こっちのテーブルで、実はちょっと、盛り上ってたんだ」
 「え? 何で?」
 「先輩たちが、話してる秋吉とマコ先輩見て、結構お似合いだ、って」
 「……えぇ!!?」
 周囲の通行人が思わず振り返るほど、素っ頓狂な声が出てしまった。
 慌てて口を手で押さえた優也は、面白がるような顔をしている蓮を、まじまじと見つめた。
 「ちょ…っ、ちょっと、それ、ほんとに!?」
 「本当に」
 「えー……」
 別に、嫌な訳ではないが―――どういう反応をすればいいのか、悩む。優也は、眉を八の字に下げた困惑顔で、首を捻った。
 「マコ先輩には、もっとこう、テンション高い人が似合う気がするんだけど…」
 「でも、秋吉が緊張せずに普通に話せる、貴重な“女性”なのは確かだよな」
 さっき自分自身でも考えたことを蓮に指摘され、訳もなく焦る。女性とは友人としてすら無縁で来た優也にとって、こういうネタでからかわれた経験など、これが初めてのことだったのだ。
 「そっ、それは……っ。それに、別にマコ先輩だけが平気な訳じゃないよ。咲夜さんにだって、一度も緊張したことないしっ。マリリンさんも……あ、マリリンさんは男か」
 「……」
 「と、とにかく、マコ先輩だけじゃないし、むしろ、話が噛み合う分、咲夜さんの方が話はしやすいよ。まあ、咲夜さんはそもそも、女の人って感じがあんまりしないから、平気なのかもしれないけど―――…」
 ぶつぶつとそう言い訳した優也だったが。
 ふと、蓮の表情の微妙な変化に気づき、キョトンと目を丸くした。
 「―――穂積?」
 「…えっ」
 怪訝そうな優也の声に、蓮は、我に返ったように目を瞬いた。
 「何?」
 「…何、って……なんか、今、なんとも言えない顔してたよ?」
 「…なんとも言えない顔?」
 「なんか……固まってた」
 他に表現のしようがなくて、そう答える。
 すると蓮は、ちょっと狼狽したように僅かに瞳を揺らし、直後、なんのことだかわからない、とでも言うように、首を傾げた。
 「別に、固まった覚えはないな」
 「…そう?」
 「うん」
 「…なら、いいけど」

 ―――何、今の反応。
 いや、そもそも穂積、今の話の何に反応したの?

 ちょっと、気になる。
 …実を言えば、かなり気になる。
 でも、蓮が、また涼しい顔に戻って前を向いてしまったので、優也は、突っ込んで訊ねる機会を失った。
 やっぱり穂積って、謎だなぁ―――チラリと蓮の横顔を流し見、優也は、釈然としない気分に、首を捻るしかなかった。


←BACKHome. TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22