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― She -side Ren- ―

 

 『蓮―――…!』

 …誰かが、呼んでる。

 『遅いぞ、蓮ーっ!』

 通りのはるか先で手を振る姿が、アスファルトの熱気で、まるで陽炎みたいに揺らぐ。
 俺よりずっと背が高くて。
 俺よりずっと足が速くて。
 追いつけない―――悔しい。悔しい。悔しい。

 『あーあ、膝、すり剥いちゃってるよ。ほら、見せてみなって』
 『…うるさいっ。この位、平気だ。触るなっ』
 『そんなこと言うなよ。蓮を怪我させたら、またおばさんに叱られるんだからな』
 『俺が勝手に走って、勝手に転んだんだ』
 『…蓮って、可愛くねぇーっ』

 絶対、勝ってやるんだ。
 こいつよりもっと大きくなって、こいつよりもっと速くなって、絶対、絶対―――……

 

 「………っ!!」
 耳元で繰り返される電子音に、目を開けた。

 鼓動が、速い。一瞬、今の音の正体がわからず、息を詰めてしまう。やがて、それがすぐ傍に放り出してあった携帯電話の音だと理解した蓮は、慌てて体を起こし、携帯電話を手に取った。
 「もしもし」
 留守番電話直前で、ギリギリ電話に出られた。まだ半分、夢を引きずった状態で取った電話は、夢とはまるで関係ない人物からだった。
 『蓮? お母さんよ』
 「…ああ…、何?」
 声の主がわかって、一気に脱力した。返事をしながら時計に目をやると、昼の1時を過ぎたところだった。
 『今、どこか出かけてる? それとも家?』
 「家だよ。なんで?」
 『実はねぇ…、お父さんが風邪こじらせちゃって、今病院から戻ってきたところなのよ』
 「えっ。こじらせた、って…どんな具合なんだよ」
 『気管支炎併発ですって。熱と咳が酷くてね。今は落ち着いてるけど、ほら、日頃全然病気しない人でしょ? お母さんも慣れなくて、必要以上にオロオロしちゃってるのよ』
 「…大丈夫かよ…」
 母のオロオロぶりは、想像に難くない。日頃は優秀な税理士としてバリバリ働いているが、素に戻るとかなりドジで、天然ボケの入っている人なのだ。それとは逆に、父の寝込んだ姿というのは、まるで想像がつかない。元気いっぱいというタイプではないが、風邪をひいても市販薬を飲めば1日2日でちゃんと復活してくる人だったので。
 『今は落ち着いてるから大丈夫。ただ、ねぇ―――クライアントの税務担当者と会う約束があって、2時半には出ないとまずいのよ。6時までには戻れると思うけど、やっぱり、こんな状態のお父さんを置いていくのが心配で…』
 「兄貴は? 今日、休みだろ?」
 今日は土曜日で、兄が勤めている公認会計士事務所は第2・第4土曜日は休みの筈だ。
 『(かなめ)は、朝から出てるわよ。車出してたから、遠出してるんじゃないかしら』
 「父さんが寝込んでるのに? …何やってるんだよ…」
 『仕方ないわよ。このところ忙しくて、本当に久しぶりなんだもの。お父さんも“気にせず行ってこい”って言ったしね』
 つまり、婚約者と久々にドライブデート、という訳だ。本来、蓮など足元にも及ばないほどの親孝行者な筈の兄なのに、全く―――女に狂うと、父が倒れているのを承知でデートを優先できる神経になってしまうらしい。これだから、恋愛なんて馬鹿馬鹿しい、としか思えないのだ。
 「…わかった。ちょうどバイト休みだし、俺がそっち行くよ」
 ため息をついた蓮は、結局、母が頼む前に自分からそう言っていた。


 電話を切ると、忘れていた夢の余韻が、戻ってきた。
 何故、あんな夢を見たのだろう? あんな、昔の話―――まだ自分が小学校に上がって間もない頃の、遠い遠い昔の話、なんて。
 ―――やっぱり、一昨日、秋吉にあんな話をしたせいかな…。

 『残念ながら来月の大会は諦めていただくしかありませんが、リハビリさえきちんとすれば、日常生活に支障のない状態まで回復できるでしょう。ただ……走ることに関しては、もう、今までと同じようには……』

 医者から告げられた一言を思い出す時、脳裏に浮かぶのは、何故か―――蓮の背後で、蓮以上に青褪めた顔で凍りついていた、兄の顔だった。
 その幻影を振り払うかのように頭を振った蓮は、弾みをつけて立ち上がった。

***

 幸いなことに、この日の天候は、バイクを飛ばすには悪くない晴天だった。
 フルフェイスのヘルメットでは、風を切る爽快感は半減とはいえ、蓮はこの、スピードに乗って風を切る感覚がとても好きだ。自分の脚で走っていた頃もそうだった。何故バイクを始めたのか、という質問への答えは、間違いなく「風を感じて走るのが好きだから」、だろう。久々に見た夢のことも忘れて、蓮は、短いツーリングをそれなりに楽しんだ。

 実家が近づいてくると、大きな団地群が見えてくる。
 実は、あの団地は、ごく最近まで、蓮にとっての“我が家”だった。父と母が結婚した頃にできた団地で、兄も、そして蓮も、あの団地で生まれ育ったのだ。
 2年前、兄が結婚後に同居することを視野に入れて、それまで住んでいた団地からそう離れていない場所に、念願の一戸建てを購入した。“ベルメゾンみそら”に移り住むまでの2年弱、蓮もその家に住んでいたことになるが、こうして遠くから見た時、まだ新しい本当の“我が家”より、あの古びた団地群の方が、自分の“我が家”として、しっくり馴染む気がする。
 ―――何も今時、同居にしなくてもいいのに…。変なところで前時代的だよな、兄貴も。
 両親は「2人とも現役だし、同居はもっと先でいいのでは」と言ったのに、それでも同居にこだわったのは兄の方だ。まあ、兄なりに考えがあってのことだろうが、彼女の方はそれでいいんだろうか? これまでの兄と彼女の関係を見ていると、黙って俺について来い、タイプなだけに、少々心配だ。
 …いや。
 心配など、しないことにしたのだった。
 もうあの2人に、自分の生活をかき回されたくはない。蓮は、面倒な連中のことを、再び頭から追い払った。


 実家に到着したのは、2時ちょっと前だった。
 「あら、髪の色、変えちゃったの?」
 ヘルメットを取った息子の頭を見て、母が少し驚いた顔をした。
 夏休み中、明らかに金色をしていた蓮の髪は、いつの間にかブラウンになっていた。それでもまだ、本来の蓮の髪の色より随分明るいが、これまでの飛び抜けたような金髪よりは自然だ。
 「ああ…うん。気分転換に」
 「ま、来年就職活動する時には、さすがにあの頭じゃまずいもんねぇ…。そろそろ髪色も戻して、慣らしておいた方がいいわね」
 「…まあ、ね」
 実を言えば、髪の色を変えた理由の中に、就職活動なんて微塵も入っていなかったりするのだが―――蓮は適当に言葉を濁し、家の中に入った。
 「父さんは?」
 「眠ってる。蓮が来ることも、お母さんが出かけることも言ってあるから、このまま眠らせておいてあげましょ」
 「そっか…。わかった」
 「いただきもののメロンがあるけど、食べる?」
 「うん」
 ダイニングキッチンに入ると、テーブルの半分ほどに、A4の紙やら手帳やら電卓やらが散らばっていた。どうやら、母が出かける前の準備作業をここでやっていたらしい。仕事関係のものは触ってはいけない、というのが穂積家のルールなので、蓮は、書類の広がっていない席を選んで腰を下ろした。
 「どう? 一人暮らしは、もう慣れた?」
 「慣れた、っていうか……ここ住んでても、あんまり変わらなかっただろ?」
 母は、家事もちゃんとやりたい、という意志のもと、昔から6時退社を徹底し、こなしきれなかった作業は自宅で行っている。母の生活ペースは、そんな感じでずっと変わらないのだが、父は帰宅時間がバラバラである。多くの日本の家庭がそうであるように、子供の頃は特に、夕飯の食卓には父がいないのが当たり前の状態だった。
 加えて、兄と蓮は、年齢が6つ離れている。蓮が高校生のうちに、兄は大学を卒業し、働き始めた。部活動をしておらず、塾通いもしていなかった蓮は、帰宅すると誰もいないのが常となっていた。兄の帰宅時間がバラバラになり、蓮も大学生になってバイトなどを始めると、夕飯の時刻も各自バラバラの頻度が高くなった。この家に引っ越してきてからの2年間、母と蓮の2人で夕食をとることが、一番多かったと思う。
 「あら、でも、朝も夜も、自分以外誰も帰ってこないし、誰も起きてこない生活、って、やっぱり慣れるのに暫くかからない?」
 一人暮らしをした経験のない母は、メロンを切りながら、そう言って首を傾げた。
 「それに、家事の全てを自分1人でやらなきゃいけないでしょう?」
 「ああ…、確かに、自炊はまだ慣れないな。でも、俺しかいない、って生活そのものは、意外と違和感なかった」
 「そうねぇ。ひとりが寂しくてシクシク泣いてる蓮は、想像できないわねぇ」
 「…想像でもやめろよ」
 「ふふふ……ああ、でも、お兄ちゃんにはきっと無理ね」
 笑いながら母が言った一言に、蓮は、怪訝そうに眉をひそめた。
 「ああ見えて要は、子供並みの“寂しがり屋”だから。朝起きたら、家中のカーテンが閉まってて薄暗い状態、なんて、絶対耐えられないと思うなぁ」
 「…ま、一人暮らしの可能性ももうないから、いいんじゃない」
 そう言いながら、兄が同居にこだわるのは、その寂しがり屋な性格故なのだろうか、と頭の片隅で思う。意外に子供じみた部分を持つ兄だから、口では言えないが、案外そんな本音を隠していても不思議ではないかもしれない。
 そんなことを、頬杖をついてぼんやり考えていると。
 「―――ねえ、蓮」
 メロンの乗った皿を蓮の前に置いた母が、少し心配げな声で、切り出した。
 「要はああ言うけど―――やっぱり、蓮が戻ってきて、要たちが暫く外で暮らす方が、上手くいくんじゃない?」
 「……」
 「要たちが同居しないんなら、蓮が家を出る必要はない訳だし―――和美ちゃんだって、子供の頃から知ってるっていっても、新婚早々義理の両親と同居だなんて、息苦しくてやり難いと思うのよ。お母さんは、嫁姑問題とは関わらずに済んできたから余計、上手くいくのかどうか、心配で…」
 「…和美のやつは、何て?」
 近い将来、義理の姉になる人の名を、これまでどおり呼び捨てにして、訊ねる。他に呼びようもないから、仕方ない。
 「和美ちゃんは、同居については問題ないって言ってるけど―――蓮が家を出て行ったことを、まだ気にしてるみたいよ。いずれは独立するにしても、何も学生のうちからじゃなくても、って」
 「…まだ、そんなこと言ってるのかよ」
 つい、うんざりしたような口調になってしまう。
 元々、社会人になったら独立するつもりだった。それを早めたのは、勿論、新婚夫婦の邪魔をしたくないから、というのもあるが、それ以上に、早めに一人暮らしに慣れておいて、社会人になる時は仕事のことだけ考えられるようにしておきたいからだ――― 一人暮らしを決めた時、両親にも、兄にも、そして和美にも、そう説明済みだ。あれから4ヶ月経つのに、まだこだわっているのだろうか。全く…面倒な話だ。
 「和美に、言っといてくれよ。俺を理由にするな、って」
 「…もぉ…、また、そういう冷たい言い方して」
 不愉快そうな顔でメロンをすくう蓮に、母は少し眉を寄せた。
 「和美ちゃんのことだから、結婚したら蓮とも一緒に暮らせるんだ、って、ちょっと楽しみにしてたんだと思うわよ? それが、同居するより先に蓮が出てっちゃったんだもの。がっかりしたり心配になったりしても、仕方ないんじゃないの?」
 「…もしそうなら、母さんが心配するようなことも、ないんじゃないかな」
 「え?」
 「同居で窒息しないか、って話」
 母の言葉を逆手に取り、論点をすり替える。そうでもしないと、この最高に不愉快な話題から逃れられそうになかった。
 「決めたのは兄貴の独断かもしれないけど、和美も、同居する気満々みたいじゃないか。俺はむしろ、母さんたちが息苦しい思いするんじゃないか、って方が心配だよ」
 「お母さんたちは、大丈夫よぉ。大体、仕事で留守にしてる時間の方が長いんだし―――ああ、でも、引退してからの方が問題かもしれないわねぇ…。和美ちゃんと台所戦争するなんて、考えただけで気が重いわ」
 まんまと論点のすり替えに乗ってしまった母は、すっかり「定年後の嫁姑関係」に頭が行ってしまっているようで、立ったまま難しい顔でぶつぶつ言い始めた。密かに小さく息をついた蓮は、メロンを一口食べ、ぽつりと呟いた。
 「―――本来なら必要ない金を使わせる羽目になってることは、申し訳ないと思ってるよ」
 「…え?」
 「俺の、家賃とか、光熱費とか。ここに住んでりゃ、要らない筈だろ」
 キョトンとした母は、意味を理解した途端、何を言ってるの、という苦笑を浮かべて、蓮の肩をパシン、と叩いた。
 「バカねぇ。うちは今、3人も働き手がいるのよ? 2人揃って学費の安い大学に行ってくれた孝行息子で、お父さんもお母さんも大助かりよ」
 母の笑顔に、なんともいえない微妙な表情を返しつつ、蓮が心の中で呟いたのは―――やっぱり、「ごめん」、だった。

 多分、両親は、知らない。
 蓮が何故、頑なにこの家から出て行くと主張したのか、その本当の理由を。
 言えない―――言う訳にはいかない。そのことが、親に強いている金銭的負担以上に、申し訳なかった。

***

 それから間もなく母は出かけて行った。
 本を片手に父の部屋に行った蓮は、ベッドサイドに椅子を持ってきて、そこで本を読みながら過ごすことにした。
 薬が効いているのか、父は、深く眠り込んでいる様子だった。普段の眠っている顔とほとんど変わらないその寝顔に、一瞬、本当に病気なんだろうか、と疑いたくすらなったが、額に乗せられたタオルを持ってみると、取り替えて間もないのに既に熱くなっていて、驚いた。慌ててタオルを取り替えたが、よく眠っている父は、その程度で目を覚ます様子もなかった。
 結局、父が目を覚ましたのは、母が出かけてから1時間ほど経ってからだった。

 「どう、気分は」
 「…ああ…、喉が渇いた」
 あれだけ熱が出ていれば、当然だろう。寝汗も相当かいていたので、着替えさせ、氷の入った水を持ってきた。
 「悪かったなあ、蓮…。せっかくの土曜日を、こんな用事で潰してしまって」
 水を飲んで一段落すると、父はそう言って、すまなそうな顔をした。
 「いいって。どうせ、家でボーッとしてたんだから。…それより、父さんが寝込むほどの風邪ひくなんて、驚いた」
 「父さんだって驚いたさ。あー…、このところ、新商品会議が紛糾してたからなぁ…。ストレスも溜まってたのかもしれない」
 「あ、そう言えば、10月から発売になった季節限定のチョコレート。同じアパートに住んでる大学の友達が、ハマった、って言ってた」
 「そうか」
 父の顔に、嬉しそうな笑みが浮かぶ。蓮も、思わず微笑んだ。

 蓮の父は、食品メーカーの菓子部門の企画・開発室に勤めている。どんな商品が当たるかを細かにリサーチし、それに基づいて新商品を生み出していく、重要な部署だ。
 食品の中でも、父が携わっている菓子の部門は、季節限定商品やコンビニタイアップ商品なども多く、新商品を発表するサイクルがとてつもなく早い。ロングラン商品を生み出すのも重要だが、流行に沿った商品をいいタイミングで出していくセンスというのも必要だ。結果、父の部下には、若者が多い。スナック菓子やスイーツを食べる現役世代、という訳だ。
 蓮が小さい頃は、父は、同じ菓子部門でも、“おまけ”の担当をしていた。職務権限で、レアものの“おまけ”のカードをこっそり入手してもったことがある蓮としては、まだ“おまけ”に喜んでいた時代に父が“おまけ”担当から外れたことは、ちょっと悲しい出来事だった。何故なら、“おまけ”のない“お菓子本体”の方は、蓮はあまり好きではなかったからだ。
 そんな蓮だが、ある程度の年齢になって以降は、父の会社の新製品は、必ず1回は食べるようにしている。
 兄は、母の税理士という職業と比較して、女子供相手のお菓子の開発なんて、と、父の仕事を少し軽んじている節があるが―――クラスメイトが全員「よく食べるよ、それ」と言うような商品を開発している父は、蓮にとって、自慢の父なのだ。

 「…俺も、何か作り出す仕事がしたいな」
 ポツリと蓮が言うと、父は、少し意外そうな顔をした。
 「そんなこと、考えてたのか? コンピューター関連に進むとばかり思ってたよ。高校の頃から、得意だっただろう?」
 「ん…、同じコンピューター使うんでも、商品設計をしたりとか、そういう方面。ああ、でも、もしそうなら、数学より工学に進んだ方が良かったのかな、俺…」
 「出身学部で、職業が決まる訳でもないだろう。父さんの職場だって、経済学部以外の出身が多いぞ。工学部の人間がお菓子を作ってるって、不思議だろう?」
 「ハハ…」
 「まあ…、なんにしても、お前の力が活かせる仕事が見つかるといいな」
 そう言って、蓮の手をぽんぽん、と叩くと、父は「少し疲れた」と言って、また目を閉じた。
 ―――なんだかんだで、俺も結構、親の影響受けてるよな…。
 母の影響で、母と同じ士業を選んだ兄もそうだが―――何かを生み出す仕事がしたい、という自分も、案外父の影響を色濃く受けているのかもしれない、と蓮は思った。


 その後も、父は、眠ったり起きたりを何度か繰り返し、母が帰ってくる頃には、熱もかなり下がって、起き上がれる位になった。
 「まー、随分元気になったじゃない」
 「蓮の看病が良かったからね」
 「じゃあ蓮、あんた、お父さんのおかゆ作ってくれる? お母さん、大急ぎで夕飯作っちゃうから」
 と帰宅した母から命令が下り、蓮は、父の分のおかゆを作ることになった。
 胃腸の弱っている父でも食べられるように、と、おかずは豆腐ステーキだった。おかゆに豆腐ステーキってどうなんだ? と少々疑問に思いつつも、久しぶりに食べる母の料理は、やっぱり口に馴染んでいて、おいしかった。ちょうど、母が好きなクイズ番組をやっていたので、家族3人、それを見ながらのんびりと夕食をとった。

 帰ってきて良かったな、と、思った。
 ―――ここまでは。


 「ただいま」
 夕飯の後片付けを始めて間もなく、玄関から、声がした。
 「あら、珍しく早いわねぇ…」
 洗った皿を蓮に渡しつつ、母が廊下の方を振り返って呟く。その声に、半ば被さるようにして、もう1つの声が玄関から聞こえてきた。
 「こんばんは」
 「……っ、」
 特徴のある、掠れた声。
 蓮の顔が、一瞬、強張った。
 廊下をこちらに歩いてくる、2つの足音。蓮は、その音に背を向け、母から受け取った皿を手早く拭いた。早く、早く―――1秒でも早く、全ての食器を拭き終えてしまうように。
 「あれ、蓮、来てたのか?」
 キッチンを覗いて第一声、兄は、蓮の後姿に、少し驚いたような声を上げた。その声に、蓮自身は振り向かなかったが、母が振り返り、呆れたような顔をした。
 「お父さんの看病をしに来てもらったのよ。要もお礼言いなさい。蓮がいてくれたから、お母さんも仕事に行けたし、あんたも楽しいデートから無理矢理呼び戻されることもなかったんだから」
 「ご…ごめんなさいっ。おじさんが病気だなんて、あたし、ちっとも…っ」
 焦ったような和美の声に混じって、「…だって、本人がいいって言ったじゃないか」という、不服そうな兄の声が聞こえる。
 相変わらずな、兄。
 …相変わらずな、和美。
 うんざりした気分にため息をついた蓮は、ついに最後の1枚を拭き終え、「和美ちゃんは気にしなくていいのよー」などと和美に話している母に、布きんを手渡した。
 「はい、これ。…片付けも終わったし、俺、そろそろ帰るよ」
 「え? あらぁ…でも、せっかく要と和美ちゃんも帰って来たことだし」
 「友達と約束があるんだ」
 勿論、大嘘だ。でも、優也という友達が同じ所に住んでいることは両親とも知っていることなので、残念がりつつも、その言葉を鵜呑みにしてくれた。
 リビングでテレビを見ていた父にも「俺、帰るから」と声をかけた蓮は、置いておいたヘルメットとバックパックを掴み、まだ突っ立ったままだった兄や和美と、今日初めて向き合った。
 休日ということもあり、いつもスーツ姿の兄も、今日はラフな格好だ。その隣に立つ和美も、お馴染みのジーンズ姿であることに、少しホッとする。結納の時の女っぽいスーツ姿は、蓮の目には完全にコスプレにしか映らなかった。
 「悪いな、ゆっくりできなくて」
 微かに笑みを作り、蓮が兄に向かってそう言うと、兄の方も笑みを見せた。
 「いや。お前の方こそ、悪かったな、わざわざ」
 「じゃ、ごゆっくり」
 和美の方にも目をやり、一言そう言うと、蓮は足早に実家を後にした。
 一瞬、目の端に映った和美の目が、何か言いたげに揺れていたが―――その目を、あえて無視して。


 体に感じる夜風が、やけに気持ちがいい。
 熱くなってるんだな、と、蓮の中の冷静な部分が、そう分析する。何故熱くなってるのか、その理由の方は、分析するまでもない。あの、一瞬だけ見えた、和美の目―――結納の前にも見せた、あの、もの言いたげな目のせいだ。
 昔は、あんな奴じゃなかった。
 男勝りで、カラカラと快活に笑って、言いたいことはズバズバ言う、そういう奴だった。
 大体、もの心ついたばかりの頃は、蓮は和美を「カズミ兄ちゃん」と呼んでいたのだ。今もショートヘアーの和美だが、幼い頃は更に思いきった短髪だった。それに、いつも日焼けしていた。和美を男の子だと思っていた団地の住人は、少なくなかった筈だ。
 それが、今は、あの体たらく。
 小さい頃は、蓮を子分扱いしていた女が、蓮を呼び止めることも、言いたいことをぶつけてくることもできない。
 大笑いだ。ガキ大将を颯爽とやっつけてみせた和美は、すっかり忘却の彼方だ。
 ―――ったく…、何が“一緒に暮らすのを楽しみにしてた”だよ。5歳10歳の頃みたいに、まだ俺に慕われてるとでも思ってるのか? あの女は。だとしたら、救いようがないバカだ。親戚になるだけでも最大限我慢してるんだ。その上、同じ家に暮らす? 嫌に決まってるだろ、そんなの。
 「……っ、と!」
 イライラのあまり、信号を見落としそうになった蓮は、慌ててブレーキをかけ、大きく息を吐いた。
 …まずい。このままだと、事故を起こしてしまいかねない。少し、落ち着かなくては。
 それに、頭に血が上ったせいか、急激に喉が渇いてきた。ヘルメットのシールドを上げた蓮は、グルリと辺りを見渡した。
 見れば、交差点を越えた先に、ちょうどコンビニがある。あそこで一旦休憩を取るかな、と考えた蓮だったが―――交差点名を確認し、ふと、気づいた。

 ―――ここ、咲夜さんの店の、すぐ近くじゃないか。

 「……」
 暫し、迷う。
 信号が青に変わったことに背中を押されたように、蓮は、急遽、目的地を変更した。

***

 「You'd be so nice to come home to... You'd be so nice by the fire... While the breeze on night, Sang a lullaby, You'd be all my heart could desire―――…」

 “Jonny's Club”のドアを開けると、さっそく、歌声が店内から流れてきた。
 時計を見ると、ちょうど9時過ぎ―――2度目のライブの時間に、偶然来店した、という訳だ。さっきまでのイライラを帳消しにしてくれるラッキーに、蓮はホッと息をついた。
 店内は、ほどよく混んでいる。ドリンク1杯だけのつもりなので、カウンター席にしようか、と思ったが、残念ながらカウンターは埋まっていた。しかも、その大半が女性客だ。仕方なく、蓮は、中央に残っていた2人用の小さめのテーブルを選び、コーラを注文した。
 ステージに目を向けると、咲夜は、歓迎会をここでやってもらった時と同じ歌を歌っていた。
 ジーンズにコットンシャツという飾らない服装に、さして広くもない簡素な舞台―――けれど、相変わらず、震えがくるような、なんとも言えない歌声だ。思い出したら無性に聴きたくなって、発作的にここに来てしまったのだが……来て正解だったかもしれない。咲夜の歌声を聴いていたら、沸騰しかけていた体中の血が、緩やかに凪いできた気がする。
 ―――しっかし…、日頃、廊下で見かける咲夜さんとは、まるで別人だな。
 何の気なしにそう考えた蓮の脳裏に、思いがけない映像が蘇った。
 「……」
 途端―――蓮は、一昨日、優也の前でそうなってしまったのと同じように、固まってしまった。


 眠気の覚めないまま、開けたドア。
 驚いたようにこちらを見た、2人。
 今から3週間ほど前、自宅の廊下という極めて日常的な場所で偶然目撃してしまった、あの抱擁シーンは、蓮の中の奏と咲夜の位置づけを変えてしまっていた。
 あまり女の人という感じがしない―――優也は咲夜を、以前、そんな風に形容していた。蓮もそれには賛成だった。勿論、咲夜が女なのはわかっていたし、だからこそ、不気味な悪戯を変質者やストーカーに結び付けて心配もしたのだけれど……そういう性別の“女”ではなく、「男と女」という意味合いでの“女”を、咲夜には感じられなかった。だから、奏と咲夜が付き合っているという話を聞いても、なんだかピンとこなかった。
 けれど―――あのシーンを目撃した途端、そのピンとこなかったものが、一気に「きて」しまったらしい。
 あれ以来、何かの拍子にあの場面が脳裏に浮かんでしまうと、異様な焦りと気まずさ、そして蓮特有の嫌悪感が蘇ってしまう。蘇ると、蓮の中の感情処理回路が、ショートを起こす。結果……フリーズする。

 …わかっている。
 思い出すだけで固まってしまうほど、あの場面にショックを受けた、本当の理由は。
 蓮はあの日、奏と咲夜を見た瞬間に、「あの時」のことを―――兄と和美の関係を知った時のことを、思い出してしまったのだ。
 性別のなかった存在が、ある日、突然、生々しいまでに「男と女」に変わってしまう―――少年時代に体験したあの出来事と同じ経緯を辿ったせいで、蓮は無意識に、奏に兄を、咲夜に和美を重ねてしまったのだ。どこにも似た要素がない人たちなのに。


 ―――…やっぱり、こういうのを、一種のトラウマって言うのかな…。
 大きくため息をついた蓮は、運ばれてきたコーラを手元に引き寄せ、一口飲んだ。
 けれど、喉の奥で弾ける炭酸の刺激くらいでは、また蘇ってしまった嫌な気分は拭い去れなかった。幾分地毛の色に近くなった髪を乱雑に掻き毟った蓮は、コーラを更に飲みながら、再びステージに目を向けた。

 「Time and time again I said I'd leave you...... Time and time again I went away.......」

 曲目は、さっきまでのアップテンポは終わり、新たなスローナンバーに変わっていた。
 楽曲のサビの部分なのか、咲夜は、かなりの高音域を伸びやかに歌っていた。ヒアリングがあまり得意ではない蓮には、咲夜の歌う英語が、完全には聞き取ることができないが、切れ切れに伝わってくる内容と曲のムードから、これが切ない恋の歌であることだけは、なんとなくわかる。
 そのせいだろうか。なんだか―――歌っている咲夜は、普段よりずっと、艶やかで女らしく見える気がする。やっぱり、日頃見る咲夜とは別人みたいだ。

 「I'm a fool to want you..... Pity me, I need you......」

 “狂うほどに、あなたが欲しい”―――…か。

 こんな歌詞を歌う時、やはり、咲夜の脳裏には、奏の姿があるのだろうか。…なんだか、また別次元の生々しさがあって、いまいち想像がつかない。
 でも、何故だろう―――蓮からすれば、恋愛の浅ましさ、欲深さをそのまま表現しているみたいな歌詞の筈なのに、嫌な感じはしなかった。
 いや、むしろ……胸が痛むような、それでいて鼓動が速くなるような、不思議な気分だった。
 狂うほどに欲しい人がいる、というのは、こんなに切ないものなのだろうか―――咲夜の歌声を聴きながら、蓮は、自分の知らない世界を垣間見たような気がして、少し落ち着かない気分を味わっていた。

***

 ライブも終わり、店内も明るくなった。
 1人で、しかもソフトドリンクでは、正直間が持たない。蓮は、まだ半分ほど残っていたコーラを、少し急ぎ気味に飲んだ。

 「あ、やっぱり蓮君だ」
 「!!」
 残り4分の1ほどになったところで、背後から声をかけられ、蓮は思わずグラスを落としそうになった。
 慌てて顔を上げると、驚いたように目を丸くした咲夜が、蓮を見下ろしていた。
 「どーしたの? 珍しいじゃん。ていうか、歓迎会以来じゃない?」
 「ど…、どうも」
 まさか本人が来るとは思ってもみなかった。喉に詰まりかけた炭酸にちょっとむせながら、蓮は気まずそうな顔で軽く頭を下げた。が、頭を下げてから、これでは咲夜の質問にさっぱり答えていない、ということに気づき、手にしていたグラスを置いた。
 「偶然、ここの近くを通りかかったんで、寄ってみたんです」
 「へー、そうなんだ。1人? 優也君とかは?」
 「1人です。今日は、その……実家の帰りなんで」
 「ふーん」
 「…あの、なんでわかったんですか?」
 「ん? ああ、ステージからでも、カウンターの傍とか、ステージのライトが届く範囲なんかは、結構顔がしっかり見えるんだよね。この席の場合は微妙だったんだけど、なんか全体の雰囲気でわかった」
 …全くの計算外。まさか、向こう側からこっちの顔が確認できるなんて。
 参ったな、という顔をする蓮に、咲夜はちょっと苦笑し、蓮の向かいの席に腰かけた。そして、近くの店員を呼び止めて、「ごめん、水だけもらえる?」と頼んだ。どうやら、喉は渇いているけれど、長居をするつもりはないらしい。
 「あれ? そう言えば、髪の毛、どうしちゃったの?」
 「えっ。あ、ああ…」
 そう言えば、咲夜と奏には、髪色を変えてから一度も会っていないのだった。自身でもまだ見慣れないブラウンの髪を弄りながら、蓮はバツが悪そうに説明した。
 「…2週間ほど前に、気分転換で」
 「ふぅん…、大人しい方向に気分転換って、珍しいね。あ、前より派手な色にするのって、かなり厳しいか。ハハ…」
 ちょうどそこに、頼んでいた水が運ばれてきた。店員にお礼を言いながらグラスを受け取った咲夜は、軽く首を傾げるような仕草をして、蓮に目を向けた。
 「でも、前の髪には、蓮君のこだわりみたいなもんを感じたんだけど―――何か、心境の変化?」
 「…別に、こだわりがあった訳じゃ…」
 ますます、バツが悪い。蓮は、咲夜の視線を避けるように目を逸らすと、コーラが僅かに残ったグラスに口をつけた。

 別に、こだわりがあった訳じゃない。
 髪の色なんて、何でも良かった。ただ、自分の外見を、変えたかっただけ―――そして、変える必要がなくなったから、戻したくなった。それだけだ。
 でも、何故変えたかったのか、そして何故変える必要がなくなったのか、それを他人に説明するのは、酷く難しい。何故なら……触れたくない話を避けてそれを説明するのは、不可能に近いから。

 これ以上突っ込んだことを訊かれたら困るな、と、蓮は密かに身構えたが、幸いにして、咲夜がこの件でそれ以上の質問をぶつけてくることはなかった。
 グラスの水を半分ほど飲むと、咲夜はホッと息をつき、何かを思い出したように顔を上げた。
 「あ、そう言えばさ。奏のやつ、一体いつの間に、蓮君のことを“蓮”って呼び捨てするようになった訳?」
 「え?」
 咄嗟に、何のことを言われているのかわからず、眉をひそめる。俺って呼び捨てされてたかな、と記憶を辿った蓮は、3週間前の奏との会話を思い出し、ああ、と頷いた。
 「俺が、頼んだんです」
 「蓮君が? なんで?」
 「…いや、だって…、一宮さんが俺のこと、“蓮君”て呼んだから」
 「は?」
 「さすがに、なんかむず痒くて―――それならまだ、蓮、って呼び捨てされた方がましだから、頼んだんです」
 「……」
 多分、奏が蓮のことを“蓮君”と呼ぶ場面を想像してみたのだろう。直後、咲夜は吹き出し、可笑しそうに笑った。
 「ハハハ、変な感じーっ! あー、確かに、奏が呼ぶなら“蓮君”より“蓮”って呼び捨てかもなぁ」
 「…なんで一宮さんがいきなり“蓮君”なのか、そっちの方が、俺にはよくわからないな…」
 「私がそう呼んだからじゃない?」
 あ、なるほど。
 あっさり出てきた答えに、瞬時に納得する。
 奏の性格を熟知している訳ではないが、自分の彼女が、さして親しくもない男を“蓮君”などと呼んだら、ムッとして対抗してきそうな性格であることは、なんとなく想像できる。
 ―――…ってことは、あのセリフも…。

 『心配かけて悪かったな。でも、もう全部解決したから。ああいうことはもう二度と起こらないから、安心しろよ』

 郵便受けの件を奏に話した、数日後。たまたまアパートの入り口のところで顔を合わせた奏は、そう言って蓮の肩を叩いた。
 何がどう解決したのか、詳細を聞きたい気もしたが、「安心しろよ」の一言が「何も訊くな」という無言のニュアンスに聞こえ、「わかりました」としか返事ができなかった。
 今にして思えば、あの時のセリフは、蓮が咲夜に肩を貸して帰って来た時の延長線上にあったのかもしれない。あの夜、奏が見せた、「オレの女に勝手に触るな」というあからさまな目―――だから、あの言葉の意味も、「何も訊くな」ではなく「もうお前は首を突っ込むな」だったのかもしれない。
 正直、この手の独占欲や嫉妬心は、蓮が一番苦手とする心理だ。けれど、奏の場合、その感情表現はあまりにもストレートだ。陰湿さゼロの嫉妬というのは、案外、微笑ましく感じるものなんだな、と今日初めて思った。

 「よっぽど咲夜さんに惚れ込んでるんだな、一宮さんは」
 苦笑混じりに蓮がそう言うと、咲夜は一瞬、キョトンと目を丸くした。
 そして、次の瞬間―――何も答えずに、くすっ、と、小さく笑った。

 その、笑顔が、あまりに意外で。
 普段のあっけらかんとした咲夜ではなく、まるで別の―――そう、まるで、さっきの切ない歌を歌っている時の咲夜のように、艶やかで。
 不覚にも―――心臓が、ドクリ、と鳴った。

 「ハハ…、冷やかされる経験なんてぜーんぜんない人生だったから、なんか変な感じだなぁ」
 一瞬前の笑みを消し、いつもの調子でそう言って笑った咲夜は、うーん、と一度大きく伸びをした。その動作のおかげで、動揺しかけた蓮も、幾分冷静さを取り戻せたのだが。
 「さて、と。じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
 「えっ」
 ガタン、と席を立ち、咲夜が呟いた一言に、蓮はちょっと目を丸くした。
 「帰るんですか」
 「ん? 帰るよ。蓮君見かけたから、ちょっと声かけたけど、今日の仕事はもう終わったし」
 「…あ、じゃあ…」
 少し、迷う。けれど、もうコーラは飲んでしまったし、これ以上何か飲み食いする気もない。そして、咲夜にしろ蓮にしろ、帰る場所は同じ所だ。意を決した蓮は、思い切った提案を口にした。
 「―――俺、送ります。バイクで来てるんで」

***

 「あー、蓮君見つけられて、ほんと良かった。1回やってみたかったんだよなー、バイクの後ろに乗っけてもらうの」
 「…はあ」
 「大学の時の先輩で、いっつもバイクで通学してた奴がいたんだけどさ、女なんか乗せられるか! それどころか、俺の愛車に指一本触れさせねぇ! っていうオーボーな奴で、結局1回も乗せてくんなかったんだよなー。ケチだと思わない?」
 「……」
 ―――そこまでは言ってないけど、似たようなことなら、したことあるかも…。
 初めての二人乗りに期待を膨らませまくっている咲夜をチラリと見た蓮は、どう返事をしていいものやら、困った。
 それにしても、バイクで送る提案が、こんなにウケるとは思わなかった。まるで、ゴーカートに乗せてもらう子供が如きはしゃぎようだ。さっき一瞬見たあの艶やかな笑顔は、もしかしたら幻だったんじゃないか、と本気で思ってしまう。
 「それにしても、随分離れたとこに停めたね」
 蓮の横を歩きつつ、咲夜がそう言って、髪を掻き上げる。
 「うちの店、基本的に酒飲み客が多いから歩きが大半だけど、たまーに車やバイクで来るお客さんは、すぐ近くのコインパーキングに停めてるよ?」
 蓮がバイクを停めたのは、店から数ブロック離れた有料パーキングである。徒歩10分弱、といったところだろうか。そこまでの間には、路上駐車している車も多いし、コインパーキングも2、3設けられているが、蓮はそうした施設は利用しなかった。
 「…俺、バイクはちゃんとしたパーキングにしか停めたくないんで」
 「ちゃんとした、って―――屋根ついてるパーキング? なんで?」
 「だって、まだローンも終わってないのに、傷とかつけられたら嫌だし」
 「うーん…、そこまで治安悪くないと思うけどな、この辺」
 「いや、悪戯とかじゃなくても、過失であり得るから」
 「…なんか、ほんと、大切にしてるね。あのバイクのこと」
 感心したように呟く咲夜に、蓮は苦笑を返した。
 「今のところ、一番大事なものだから」
 「ははー、バイクが恋人、ってやつね」
 「…まあ、それに近い、かな」
 「たまぁに、いるよね。モノに愛情注ぎすぎちゃって、人にまで回す余裕ない人。そのタイプ?」
 「そこまでマニアじゃないつもりなんだけど…」
 むしろ、バイクというものに対する愛情よりも、ローンが残っている、という問題の方が、バイクにやたら気を遣う原動力となっている気がする。筋金入りのマニアから見たら、蓮がマニアを名乗るなど、十年早いだろう。
 「見た目だと結構派手な生活送ってそうなのに、真面目だよね、蓮君て。大学生くらいまでの男なんて、女欲しいー、誰でもいいからやらせろー、ってがっついてる奴か、でなけりゃ趣味や遊びに走りまくってる奴が大半だと思ってたのに」
 「が―――…」
 がっついてる、って。
 あっけらかんと咲夜が口にした言葉に、思わず返答に詰まる。が、面白がるような目でくすくす笑っている咲夜に気づいた蓮は、からかわれてなるものか、と咳払いをした。
 「…周りが適度にがっついてるおかげで、俺と秋吉は、ホモ疑惑までかけられて、迷惑です」
 「あははははは」
 事実なのに、ウケたらしい。咲夜は面白そうに盛大に笑った。
 妙な噂を立てられた身としては、笑い事ではない。蓮は不服そうな顔になり、軽く咲夜を睨んだ。そのせいではないだろうが、咲夜は、すぐに笑うのをやめ、それまでより幾分真面目な口調になった。
 「うーん、でも―――優也君の方は、そのうち、彼女作ったりするんじゃないかな」
 「…そうですね」
 隣のOLに密かに想いを寄せるような優也だから、そのうち、実現可能な恋だってするだろう。それは、そう遠くない未来の話のような気がする。
 「蓮君は、彼女作んないの? 結構モテそうなのに」
 「俺は―――多分、駄目です」
 「駄目? なんで?」
 「……」
 ちょっと、言いよどむ。
 適当な誤魔化し方は、いくらでもある。なのに―――何故か、適当にはぐらかす気になれなかった。軽く唇を噛んだ蓮は、まだ誰にも語っていない本音を、口にした。

 「…俺は、出会い方が、悪かったから」
 「出会い方…?」
 「“恋愛”ってやつとの、出会い方が」
 抽象的な話に、咲夜の表情が、怪訝そうなものに変わる。暫し考えた末、咲夜は眉をひそめ、首を傾げた。
 「もの凄い辛い初恋だった、とか?」
 「…いや、そうじゃなくて―――間近で見せつけられて、うんざりしたから」
 脳裏に蘇ったものに、蓮の目元が、僅かに歪む。
 「恋愛、なんて、結局は欲と欲のぶつかりあい―――醜くて、おぞましくて、汚い部分の方が、綺麗な部分よりはるかに多い、っていう現実を」
 「―――…」
 その言葉に、咲夜の表情が、微妙に変わった。
 「同級生が、誰が可愛いだの、早く経験してみたいだの騒いでても、その実態はアレなのか、と思ったら、吐き気しかしなかった。たまに、いいな、と思う子がいても、少しでも愛や恋が絡んできて、そういう部分を垣間見てしまうと、なんか……」
 それ以上は、上手く、説明ができなかった。はぁっ、とため息をついた蓮は、顔を上げ、苦笑を咲夜に返した。
 「…すみません。恋愛に病的な嫌悪感がある、なんて、わからないですよね、普通」
 ところが、蓮のその言葉を受け止める咲夜の顔は、予想外なほどに真摯なものだった。蓮の言葉に、咲夜はゆっくりと首を振り、どことなくぎこちない笑みを浮かべた。
 「ううん…、そんなこと、ない」
 「……」
 「よく、わかる。蓮君のその気持ちが」
 意外な反応に、蓮は、返す言葉を失った。そんな蓮に、咲夜は、それまでの空気を振り払うかのように、ニッ、と彼女らしい笑みを作ってみせた。
 「ま、私みたいな奴でも、今、フツーに恋愛できてるんだし? 蓮君もそのうち、彼女とバイク二人乗りが一番のバイクの醍醐味になったりするかもよ」
 「…は、はあ…」
 ちょうど、バイクを停めているパーキングまで、あと数メートルに迫っていた。戸惑っている蓮を置いて、咲夜は「さー、二人乗り二人乗りー」と言いながら、先に歩いて行ってしまった。


 ―――…もしかして…。

 もしかして、この人も、似たような経験をしているのかもしれない。
 愛や恋に出会うより早く、より生々しい、ドロドロした現実を―――“男と女”の醜悪さを目の当たりにするような、経験を。


 その日、蓮は、生まれて初めて、“女の人”をバイクに乗せた。
 小学生の時、バツゲームで、自転車の後ろに和美を乗せて学校まで走らされたことがあったけれど―――背中から回された咲夜の腕は、その当時の和美の腕より、まだ華奢に感じた。あんな迫力のある歌声が、一体どこから出てくるんだろう、と不思議に思うほどに。
 日頃、一番よく乗せる相手が、背丈に比べて体重が軽めの優也だから、相手が咲夜になったところで、とんでもなく後ろが軽くなった、という感覚は、全くない。背中にくっつく体の感じも、大した違いはないように思える。けれど……不思議なことに、後ろに乗っているのが“女の人”だというだけで、背中がいつもより緊張し、なんだか落ち着かない気分になった。

 カーブを曲がるたびに背後から聞こえる、悲鳴とも歓声ともつかない声に苦笑しつつ、蓮はふと、思った。
 咲夜の言うとおり―――案外、こういうのも、悪くはないかもしれない、と。


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