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― Deeper and Deeper ―

 

 「Blue birds, singing a song........ Nothing but blue birds, all day long....」

 得意のナンバーを口ずさみながら、グラスに水を注ぐ。
 きゅっ、と蛇口を閉め、振り返る。髪を掻き上げつつ、咲夜はグラスに口をつけた。
 カーテンを開けた窓から覗くのは、絶好の秋晴れ。『Blue Skies』がよく似合う光に、思わず顔がほころぶ。直射日光が苦手なアグラオネマの“レオン”も、たまには日光浴も悪くないだろう。窓際に歩み寄り、“レオン”の鉢を180度回転させてやった。

 「Blue days, all of them gone, Nothing but blue skies, from now on.....」

 ベッドの縁に腰を下ろし、更に一口、水を飲む。
 すると、背後から伸びてきた腕が、咲夜を後ろから抱きすくめた。
 「……」
 「……ねみぃー……」
 水を飲みながら、視線だけ後ろに向ける。
 まだ目が覚めて間もないのだろう。半ば圧し掛かるようにしながら呻く声は、半分寝ぼけているような声だった。苦笑した咲夜は、首の辺りに顔を埋めている奏の頬に、手にしているグラスを軽く押し付けた。
 「水、いる?」
 「…いやー、いい」
 「っ、とと…、こら、危ないって」
 咲夜を引き寄せてこちらを向かせようとする奏に、咲夜は慌てて、グラスを窓際のボックスの上に置いた。ギリギリ、水をこぼすことなくグラスが手を離れたところで、焦れたような唇が、喉元を捉えた。
 「い…っ、ちょ、痕つけないでよ?」
 「つけないつけない」
 くすくす忍び笑う奏の声は、もう眠そうではなかった。つられるように、咲夜も小さく笑った。
 「吸血鬼がここ狙う理由、なんか今、わかった気ぃする」
 耳の下数センチの、喉の横。まだ僅かに唇を触れさせたまま、奏が言う。
 朝の白い光の中では、奏の髪は、ほとんど金色に見える。綺麗――― 一瞬、見惚れつつ首を傾げると、キャミソールの細い肩紐がスルリと滑り落ちる。
 「皮膚が薄いからなんじゃないの? なんかの本で、そう読んだ気する」
 「そーゆーんじゃなく、もっと、本能的なもん。…こうしたくなる、何かがある。ここには」
 そう言いながら、またさっきと同じように、唇を押し付ける。くすぐったさにちょっと笑い声をたてながら、咲夜は奏の髪を指で梳いた。

 ―――…うん。
 吸血鬼の気持ちはわかんないけど、大人しく血を差し出しちゃう美女の気持ちは、ちょっとわかった気、する。

 耳たぶまで這い上がってきた唇が一旦離れ、おはよう、と呟く。
 「…おはよ」
 なんて、くすぐったい日常。
 唇を重ねながら、これって、ちょっと外国の映画みたいだな、なんてことを、頭の片隅で思った。

***

 「―――怪しい」
 ヨッシーの低い唸りに、咲夜は、草加せんべいをバリン、と割りながら、キョトンと目を丸くした。何故なら、今の「怪しい」は、どう見ても自分に対して言われたセリフだからだ。
 「は?」
 「怪しい。ここ最近のお前の脱皮ぶりは、あまりに怪しすぎる。怪奇現象だ」
 「…何それ。脱皮だの怪奇現象だの、人外生物扱い? 失礼な」
 「バカ。そういう“脱皮”じゃない。お前はモスラか」
 呆れたような顔をしたヨッシーは、すぐ隣で、やはりバリバリと草加せんべいを食べている一成に目を向けた。
 「なぁ、一成。お前も思うだろ?」
 「ん? んー…、そうだなぁ」
 一瞬、ちょっと狼狽したような目をした一成だったが、チラリと咲夜を見、それから軽く咳払いをした。
 「まあ、なんて言うか―――私生活が透けて見えそうで、時々、困る」
 「私生活?」
 「…俺には、説明できない」
 「要するにアレだ」
 言いよどむ一成に代わり、ヨッシーがびしっ、と咲夜を指差し、答えた。
 「前、常連客に言われただろ。女っぽさというか、色艶みたいなもんが出てきた、って。あれの、バージョンアップだ」
 「……」
 「1、2ヶ月前までは、確かに色気は出てきたけど、まだ何か実感の伴ってない、変に綺麗すぎる部分があったんだよな。なのに、今は―――特にスローバラードは、凄まじいな。“I'm a fool to want you”とかな。情念というか、情愛というか、こう生々しいもんを感じる」
 「…生々しい、って…」
 なんか嫌なんですけどそれ、と呟きつつ、咲夜はますます不服そうに唇を尖らせ、一成はますます気まずそうな顔になった。が、ヨッシーは、ますます興味津々で身を乗り出してきた。
 「怪しい。これは、相当な意識改革が、私生活の中で起きたに違いない」
 「ないない。なーんもありません、意識改革なんて」
 「ま、訊かなくても、想像はつくけどな」
 「……」
 ―――そんなに人の色恋沙汰が楽しいもんかね。
 ジロリ、とヨッシーを睨み、ことさらにバリバリと音を立てて、草加せんべいをかじる。そんな咲夜を見て、傍観を決め込んでいた一成も、相変わらずだな、と苦笑し、フォローに回った。
 「まあ、でも、羨ましいよ。人間的な成長が、そこまで歌に反映される、ってのは。俺なんて、就職しようが恋をしようが、ピアノにどれほどの変化があったか、正直自信がない。その点、声はダイレクトだからなぁ…」
 「ああ、確かに、そうだなぁ…。その代わり、精神的なダメージも、モロ、ダイレクトに声に出るのが難点だけどな」
 ニヤリと笑ってヨッシーが放った一言に、咲夜がせんべいをかじるバリバリという音が止まる。
 …痛い。身に覚えがあるだけに、非常に痛い。
 「つまりだ。咲夜は、できるだけ幸せでいろ、ってことだな」
 ヨッシーがそう言って、咲夜の頭にポン、と手を乗せる。と、ちょうどそこで、ヨッシーの携帯が鳴った。
 恐らく、妻からなのだろう。携帯を手に取ったヨッシーは、大慌てで電話に出て、「もしもし」と言いながら控え室を出て行った。ドアもきちんと閉めず、半開き状態だ。
 「…そう言うヨッシーのベースも、子供生まれて、幾分丸くなったよな」
 ぼそっ、と一成が呟く。その通りなので、思わず咲夜も笑ってしまった。
 つられるように、一成もちょっと笑ったが―――小さく息をつくと、テーブルを指で弾き、感慨を滲ませた笑みを口元に浮かべた。
 「上手くいってるみたいで、安心した」
 「……」
 「歌を聴けば、よくわかる。咲夜が、麻生さんの時とは違う種類の恋をしてるのが」
 さすがに、動揺が顔に出てしまう。
 多分、もうわだかまりはない、と知らせたくて、あえて一成の方からこの話題を持ち出してきているのだと思うが……やはり、一成との間で、こういう話はし難い。瞳を揺らした咲夜は、どういう顔をすればいいかわからない、曖昧な笑みを浮かべた。
 「…ごめん。一成」
 「え?」
 「待つ、って言ってくれたのを断ったのに……選んだのが拓海じゃなく、奏で」
 躊躇いがちに咲夜が言うと、一成は、少し驚いたように目を見開き、それから苦笑した。
 「俺はむしろ、一宮でよかった、って思ってる」
 「え?」
 「…そりゃ、恋愛対象だった時も、確かにあったけど―――俺にとっての咲夜は、やっぱり、“女”であるよりまずヴォーカリストだから。もし咲夜が麻生さんと…ピアニストとくっついてたら、“男”の俺は祝福できても、ピアニストの俺がキツイと思う。たとえ一緒にステージに上がるのが、麻生さんじゃなく俺でも」
 「…そういうもん?」
 「同業者に対する心理ってのは、結構複雑なんだぞ」
 眉根を寄せた咲夜は、試しに、一成が自分以外のジャズ・シンガーと結婚することを想像してみた。しかも、自分よりずっと実力も知名度も上の、比較にならないようなジャズ・シンガーと。
 途端―――咲夜の表情が、一気に渋いものになった。
 「…ちょっと、わかった気がした」
 「はは…、だろ? それに―――そういうのを抜きにしても、一宮で良かった」
 そう言って、一成は、どこか満足げな笑みを見せた。
 「咲夜の歌聴いて、しみじみ、そう思うよ。…麻生さんを想ってた時には出せなかった感情が、一宮が相手だと、あそこまで自由に出せるんだから」
 「……」
 「最近の“I'm a fool to want you”―――俺がこの歌の“you”なら、あんな歌声で求められたら、一発でダウンする。身悶えするほどの情愛みたいなものを感じて、時々焦るけど……今の咲夜だから、歌えるようになった歌だと思う。努力じゃ手に入れられない、凄い収穫だろ?」
 「…うん」
 素直に、頷けた。
 自分の歌がどれほど変わったか、本当は、あまりよくわかっていないけれど―――もし、一成が言うほどに変わっているのだとしたら、それは……間違いなく、奏が原因だと、はっきりとわかるから。

 あの日から。
 1ヶ月前、奏と初めて抱き合った、あの日から―――咲夜は、それまで知らなかった自分と、毎日向き合っている。
 一線を越えてしまったら、もう戻れない。そんな気がして、ずっと怖かった。
 そして、ずっと恐れていたそれは、やっぱり事実だった。日々、深みに嵌っていく自分がいる。深く―――どこまでも深く。もう戻ることができない所まで。
 性格だとか外見だとか付き合い方だとか、そんなこと無関係に、どうしようもないほどに触れたくなる、衝動。知らなかった―――こんなものが、この世にあるなんて。いや、あったとしても、自分の中にも、それがあったなんて。愛しい、恋しい、愛されたい、抱きしめられたい……そんな感情が、溢れて、溢れて、止められなくなることがあるなんて。
 拓海を密かに想い、報われることなど微塵も望むことなく、ただ、この想いを永らえることだけを望んでいた、あの頃には、絶対に生まれることがなかったであろう、この感情。これは、一成の言うとおり、奏と、だからこそ生まれた感情だと思う。
 リカの一件がもたらした、不安、焦燥、嫉妬、孤独、切望……そして、抱き合って初めて知った、身も心も満たされる幸福。どれも、奏との間だからこそ、生まれた感情―――綺麗事だけでは済まない、血の通った恋愛感情だ。

 「あ……っ、と、それよりさ」
 気恥ずかしいような、気まずいような、なんとも言えないその場の空気を吹き飛ばすように、咲夜は、少し高めの声で話題を切り替えた。
 「“Boogaloo House”のライブで()る曲、いつまでに提出するんだっけ」
 「ん? ああ…、本番1ヶ月前には、って話だから―――11月中には決めて出さないとな」
 年末にあるライブイベントの話だ。数組が順々に登場しては数曲ずつ披露し、夜通しジャズ三昧で過ごす、というオールナイトイベントで、今回は一成だけではなく、ヨッシーも加えた3人で出演することになっている。
 「ヨッシーもやっぱり、“Let it be”は入れよう、って言ってるな」
 「そっか…。最低4曲って話だよね。ううー…、早く曲決めて、歌いこみやらないと」
 「…なあ、咲夜」
 歌いこみ、という単語に、僅かに表情を変えた一成は、言葉を選ぶように、慎重に切り出した。
 「その後、見つかったか? 定期的に歌いこみできるような練習場所」
 「えっ」
 咲夜の表情が、ギクリと固まる。ちょっとバツが悪そうに、咲夜は首を竦めた。
 「あ…、うー、まだ」
 「…そうか」
 「スタジオ借りるにも、結構高いんだよねぇ。1人で借りるなんて想定してないのかな。それより何より、前もって予定決めとくなんてできないじゃん。よし、今日歌うぞ、って思い立ったら、自由に練習できる、ってのが一番ありがたいんだけど……そういう恵まれた環境なんて、なくて当然かもなぁ…」
 「―――やっぱり、麻生さんのところ、ってのは、無理か」
 「……」
 これまで、月に1度程度は、拓海の部屋を借りて思う存分声を出していたことを知る一成としては、当然のこと。
 けれど―――咲夜が、つい最近まで、拓海にも思いを寄せていたことをも知る一成としては、この気まずそうな沈黙の意味を察することができるのも、当然のことだ。
 「…無理だよな。さすがに」
 「…無理っていうか…」
 無理、ではないのだけれど。
 合鍵は返してしまったが、どうしても必要があるなら、拓海に事前連絡し、在宅時に中に入れてもらえばいいだけの話だ。今も拓海は咲夜の叔父なのだし、それ以上にジャズの大先輩・師匠でもある。色々あった事実は消えないが、月1くらいの頻度なら、親戚権限で甘えるのも、許容範囲かもしれない。
 でも―――…。
 「…まあ、もう少し、考えてみる」
 考える当てもさほどないまま、そう答える。当てがないのは、一成にもバレているのだろう。少し心配そうなその顔は、1ミリたりとも緩まない。
 「うちの楽器店のスタジオなら、俺の名前で予約取って、こっそり咲夜を潜り込ませるって手も…」
 「あああ、いいから、そういうのは! バレたら一成、クビだよ? 自力でなんとか出来ないんじゃ、意味ないしさ」
 「でも…」
 「大体、今までの環境が贅沢すぎたんだよ。もっと稼いで定期的にスタジオ借りられるようになるか、短時間練習で100パーセントに持っていくように、頑張らないと」
 明るくそう言って、また草加せんべいをバリバリ食べ始める咲夜に、一成もそれ以上、この件について意見することはしなかった。


 拓海を頼る訳にはいかない。少なくとも……暫くは。
 それは、咲夜の気持ちの問題、というよりも、むしろ、奏の気持ちの問題で。

 ―――何か、あったのかな…。
 思わず、眉をひそめる。
 あれ以来―――リカの件で、拓海に話を聞きに行って以来、奏は、これまで以上に、拓海の名前に過剰反応するようになってしまった。
 何があったのか、訊くこともままならないが……とにかく、咲夜は、当分拓海とは会わないようにしよう、と決めていた。
 自分の迂闊な行動が、奏を不安にさせるのなら―――たとえそれが不当な理由でも、今は、奏を優先する。リカの件で、自ら、不安を覚える方の立場を経験したからこそ、咲夜は、そう決めていた。


***


 「はい、ちょっと手を挙げてみて。……はい、いいわね。じゃあそこでターンして」
 指示に従い、まだ体にきっちりフィットしていない服で、ポーズをとる。その傍から、まち針を持った手が伸びてきては、問題箇所を手早くつまみ、まち針を刺していく。
 「はい、OK。じゃあ、7番の衣装は一宮君ということで…」
 「以上で終了です。着替えていただいて結構ですよ」
 最後のコールに、ホッ、と緊張が解ける。
 思わずデザイナーが見惚れるような笑みを作ると、奏は「お疲れ様でした」と言って、ジャケットを脱いだ。


 「お疲れ」
 着替えを終えたところで、ポン、と背中を叩かれた。振り返ると、佐倉だった。
 「男は早く終わったみたいね。こっちは苦戦してるわよ」
 「何、まだそっちの衣装合わせ終わんないの?」
 「斬新なデザインが多いものねぇ…。デザイナーのこだわりを感じるわ。もうミリ単位でうるさいうるさい」
 「…男でよかった」
 「悪いけど、こっち終わるまで、少し待ってて。まだ打ち合わせがあるから」

 今日、奏たちが参加しているのは、とある国内デザイナーのファッションショーの衣装合わせである。
 専属契約を結ばず、しかもショーのギリギリまでモデル選考をするデザイナーらしく、奏と、更に佐倉の事務所所属の女性モデル1名に白羽の矢が立ったのは、つい2週間前のこと―――しかも、ショーは11月下旬ときている。あと1ヶ月と少しだ。
 11月下旬といえば、もう、奏の28歳の誕生日は過ぎている。が、奏はこの依頼を、二つ返事でOKした。根っからの舞台好きなのだ。
 そして、この仕事を引き受けたことにより、奏の「28歳の誕生日で引退」という計画は、ナシになった。佐倉に再提示した条件どおり、今年いっぱい―――年末までの活動、ということになる。
 ―――今年いっぱい…、か。

 『また、改めて連絡するよ』

 チラリと脳裏を掠めたものを、苦笑とともに、追い払う。
 気にしないフリをしながらも、頭の片隅にはいつも、6月にイギリスに帰国した際、時田から聞かされた話が残っていた。まさかな、と思いながらも、いや本当に連絡がくるのかも、と考えてみたり―――でも、もう10月。あれから、4ヶ月経つ。その間、時田と電話で話したことも1、2度あるが、“あの件”については、奏からは触れたくなかったし、時田も口に出さなかった。
 ―――さすがに、もう連絡はないだろうな。
 隣に立つ佐倉の横顔を流し見、奏は心の中でそう呟き、密かに安堵の息をついた。
 その、微かなため息のようなものを聞き逃さなかったのか、佐倉がこちらを向き、何? という目をした。
 「いや、別に」
 「そ? なら、いいけど」
 「あ! 一宮さーん!」
 2人の会話に、突如、全く無関係な声が割って入った。
 誰だ、と2人して声の方に目を向けると、既に衣装合わせが終わったらしい女性モデルが2人、奏と佐倉の方へと駆け寄ってくるところだった。どちらも、過去に1度、奏と一緒に仕事をしたことがある、比較的若手のモデルだ。
 「こんなとこにいたんだぁ。あ、佐倉さんも、お疲れ様です」
 「お疲れ様」
 佐倉の顔も、業界ではすっかり知られている。一応、先輩かつ同業者のエージェントである佐倉にペコリとお辞儀する後輩モデル2人に、佐倉は余裕の笑みを返した。
 まだ学生っぽさの残っている女性モデル2名は、「あなたが言いなさいよ」「えーっ、あなたが言ってよ」などと小声でゴチャゴチャやっている。結局、右側の子の方が、奏に向き直った。
 「あのっ、一宮さん。今日ってこの後、お時間あります?」
 「は?」
 「もしよければ、一緒にご飯食べに行きませんか? 実は、明日がこの子の誕生日で…」
 そう言って、右の子が左の子の背中を軽く押す。明日誕生日だという左の子は、はにかんだような笑顔で「そうなんです」と小さく付け加えた。
 …実に、わかりやすい構図だ。内心の微かな緊張感を笑顔で隠し、奏は、少し困ったような口調で答えた。
 「あー…、そういうことか。ごめん、今日は、先約があるから」
 「えっ、そうなんですか?」
 「…もしかして、佐倉さんと?」
 残念そうな声になる誕生日の主役とは違い、右側の子は、途端に興味深げな目つきになり、佐倉をチラリと見る。あたしじゃないわよ、という顔で、佐倉が迷惑そうに眉根を寄せると、興味津々の目は再び奏に向けられた。
 「あ、いや、仕事の関係者じゃないから」
 「えーっ、もしかして、デートですか!?」
 「嘘っ! 一宮さん、彼女いるんですか!?」
 ―――なんだよ、その、いないと決めてかかってたようなセリフ。
 おおかた、ロンドン時代の奏同様、適当に遊び倒しているばかりで特定の女に縛られたりはしていない、と想像していたのだろう。ムカつく―――けれど、そのそのムカムカを根性でねじ伏せ、奏は極めてあっさりした笑顔を作った。
 「ハハ、まーね」
 すると、残念がっていた筈の左の子までもが、好奇心に目を輝かせだした。
 「うわぁ…、興味あるー…。どんな人だろ、一宮さんの彼女って」
 「きっと凄い美女ですよねー…」
 「しょ、紹介して下さいっ。あ、紹介が駄目なら、遠くからちょっと見るだけでもっ!」
 「うんうん、あたしも見たい! 今日デートなら、こっそりついてって、ひと目だけ見せてもらっていいですか!?」
 一体、どんなあり得ない美女を想像しているのやら―――幻の珍獣でも目撃したがっているみたいな2人のはしゃぎように、少々苦笑する。隣にいる佐倉は、無言で呆れていた。
 「うーん、悪いけど、パス」
 「えーっ」
 「なんでぇー?」
 一気に不服顔になる2人に、奏は、これまでで一番完璧な笑顔を返した。
 「プライベートと仕事は、きっちり分けたいんだよな、オレ」
 「……」
 正論―――かつ、つけ入る隙ゼロ。反撃の勢いを削ぐ奏の一言に、不服顔だった彼女らも、言葉を失う。
 「まあ、そんな訳で、Happy Birthday. 本番では、がんばろーぜ」
 ポンポン、と2人の頭を続けて軽く叩き、奏が極めて上機嫌そうにそう言う。彼女らも、愛想笑いのような笑みとともに「がんばりましょう」などと返してきた。
 こうなると、彼女たちが食い下がることは、不可能に等しい。じゃあ失礼します、と去って行く2人を、奏は手を振って見送った。
 「―――…Good job.(お見事)
 感心したようにそう呟いた佐倉は、少し驚いたような顔で、奏を流し見た。
 「一体、どういう心境の変化?」
 「何が」
 「今の場面、いつものキミなら、咲夜ちゃんのことを色々突っ込まれたら、鬱陶しいほっとけ、ってムキになって、挙句には“彼女なんて実在しないんじゃないか”って疑いかけられて、結局店まで連れて行く羽目になるパターンよ」
 「…無茶苦茶言ってくれるな、全く」
 全否定はできないが、そこまでボロボロではない……と思いたい。ムッとしたように眉を顰めた奏は、すぐ傍の壁に寄りかかった。
 そんな奏を、暫しじっと見ていた佐倉は、同じように壁に寄りかかり、腕組みした腕を指でトントン、と叩いた。
 「―――もしかして、姫川リカが原因?」
 「……」
 奏の横顔が、僅かに険しくなる。
 緊張感を伴った目を奏が向けると、佐倉はため息をつき、奏を制するように片手を挙げた。
 「そうピリピリしないの。…麻生さんに聞いたのよ。細かいことは聞いてないけどね。相手はモデルらしいから、何か気がついたら力になってやってくれ、って。で、キミの仕事関係者で、咲夜ちゃんとの間で揉め事起こしそうな子、って言ったら、あの子しか浮かばなかったから、そう思っただけ」
 「…ふぅん」
 「キミたちのプライベートに立ち入る気はないけど―――大丈夫なの? その後」
 「大丈夫だよ」
 不機嫌な声で答えた奏は、視線を前に向け、鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。
 「咲夜に何かあったら、オレが全力でなんとかするから、あんたも麻生さんも心配しなくていいよ」
 「…あっそ」
 「そっちこそ、大丈夫なのかよ」
 「何が?」
 「麻生さん。咲夜の心配なんかしてる暇あったら、あんたとのこと、もうちょい真剣に考えさせた方がいいんじゃない?」
 奏の言葉に、佐倉は、心外だといわんばかりの顔で、片眉を上げた。
 「失礼な。あたしたちだって、人のことにばっかりかまけてる訳じゃないわよ」
 「…なら、いいけど」
 「何なの? 妙につっかかるわねぇ。…まあ、何があったのか、知らないけど、」
 言葉を切った佐倉は、奏の顎に手をかけこちらを向かせると、真っ直ぐにその目を見据え、どこか満足げに口の端をつり上げた。
 「何にせよ―――ここ最近、いい目をするようになったじゃない」
 「……」
 「元々、目力はある方だったけど……ゾクゾクするような凄みと色気が出てきた。惜しいわね、今年いっぱいで終わらせるのは」
 「…残念。もう引き止め工作には乗らねーって決めたから」
 「―――やっぱり、相当変わったわね」
 ぺしっ、と奏の頬を軽く叩いた佐倉は、再び腕組みをして、衣装合わせの行われている部屋のドアの方へと目を向けた。はたかれた頬を申し訳程度にさすった奏は、肩を竦めつつ、佐倉とは反対の方向を向いた。

 ―――まだまだ修行が足りないよな、オレも。
 スタッフが右往左往する様を見ながら、小さくため息をつく。
 反応するな、といくら言い聞かせても、その名前を聞いただけで、頭に血がのぼり、殺気を帯びてしまう。それに気づいているのか、最近では、咲夜ですらその名前を滅多に口にしなくなっている。
 咲夜と付き合っていくなら、絶対、避けて通れない名前―――だから、過剰反応するのはまずい、もっと冷静になれ、と思うのに。

 麻生拓海。
 彼は、現在、奏にとって最も苦手で、最も油断ならない男だ。


***


 目の前に並んだ豪華ディナーの味を、奏は、ほとんど味わうことができなかった。

 「―――…」
 「…大丈夫か? 一宮君」
 血の気の引いた顔で固まっている奏に、向かいの席にいる拓海は、まるで対照的な余裕の笑みを浮かべていた。
 「その様子じゃあ、露ほども考えたことはなかった、って感じだなぁ。よほどそのモデルの子の“なんとも思ってません”ぶりがお見事だったのか、それとも君が呆れるほどの鈍感だったのか―――真相のほどを確かめたくなるな」
 拓海から聞かされた話は、後に奏が知ることとなる真相の、一部分だけだった。
 “Jonny's Club”に最近入って来たバーテンダーが、咲夜にしつこくアプローチをかけていたこと。適当にあしらっていたところ、ある日偶然、彼が思いがけない人物と繋がっていることを知ってしまったこと。そして、その本人を問い詰め、最低な真相を―――咲夜が賭けの道具にされていたという事実を掴んでしまったこと。でも、それだけの事実だけでも、奏にとっては十分すぎるほどショッキングだった。
 名前は、拓海も聞いていないと言った。けれど、確認するまでもなかった。奏がメイクを担当し、今週の土曜日に最後の撮影を控えているモデル―――当てはまるのは、リカ以外、いないのだから。
 「……あ…の…」
 辛うじて絞り出した声は、微かに震え、掠れていた。駄目だ、落ち着け―――苛立ったように舌打ちした奏は、おもむろにワイングラスを手に取り、あまり得意ではない赤ワインを、一口飲んだ。今ほど、アルコールの助けを必要としたことはない。グラスを置いて、大きく息を吐き出し、改めて拓海の顔を見据えた。
 「それで……咲夜は、なんで、オレに」
 「何故話さなかったのか、って?」
 奏の言葉の先を読み取り、拓海が言う。ふっ、と笑った拓海は、ワイングラスに手を伸ばし、どこか楽しげに答えた。
 「確証がなかったから、と言ってたよ。でも、それだけじゃない―――君にもある程度、想像はついてるんじゃないかな」
 「……」
 「話しても、信じてもらえないかもしれない―――自分よりあの子を信じるかもしれない。ほんの少しだけ、そう思ったら、怖くて言えなくなった。そう言ってたよ、咲夜は」
 多分、この時のショックは、どんな単位でも表せないと思う。
 冗談だろ、とか、んな訳あるか咲夜を信じるに決まってるだろ、とか、いろんな言葉が頭の中を駆け巡るけれど、何ひとつ、実際の声になって出てくることはなかった。
 「まあ、そう落ち込むこともないよ」
 ワイングラスに口をつけつつ、拓海はあっさり、そう言った。
 「前に、言っただろう? 咲夜は、こと恋愛に関しては、まるっきり自信がなくて、少々臆病が過ぎるところがある、一宮君が強引になってちょうどいい位だ、って」
 自信―――…。

 『誰だってね、大切なものを手に入れてしまうと、それを手放すのが怖くて怖くて、臆病になるの。…臆病になってる自分を、何も恥じることはないわよ、奏。ただ―――臆病になっているのは、何も自分だけじゃない、ってこと、少しは考えてあげて』

 愛されている自信がないから、疑ってしまう―――千里の言葉が、あの時とは全く逆の視点から、はっきりと実感できる。
 咲夜と言い合いになった時、奏は、咲夜に信じてもらえないことに憤った。が…、そうではなかった。咲夜は奏を信じていなかったんじゃない―――信じることができなかったのは、自分自身のことだ。
 拓海から、ちゃんと聞いていたのに。咲夜を不安がらせるな、と言われていたのに。全く……自分の迂闊さに、腹が立つ。苛立ったように髪を掻き毟った奏は、はぁ、と疲れたように息をついた。
 「…ごめん。麻生さんに、せっかく忠告してもらってたのに」
 珍しいほど素直に奏が言うと、拓海は、少し驚いたような顔をし、それから愉快そうに笑った。
 「そういう一宮君、嫌いじゃないけど、拍子抜けしてイマイチだなぁ。俺に殴りかかってきた時みたいな一宮君の方が、俺としちゃあ好みなんだけど」
 「……」
 「それで?」
 かたん、とグラスを置いた拓海は、脚を組み、軽く首を傾げた。その雰囲気が、どことなく咲夜と似て見えて、奏は一瞬ドキリとした。
 「これから、どうする気なのかな、一宮君は」
 「…とりあえず、咲夜につきまとってる奴に、直接会う。他にもちょっと、気になることがあるし…」
 咲夜が前後不覚に近い状態で帰って来たことについては、咲夜も拓海に話していないようなので、うやむやにしておいた。
 「で、問題のモデルの子は?」
 「…明日にでも、土曜の仕事は、キャンセルする」
 怒りを抑え、奏が低く答えると、拓海は、やっぱりそうきたか、とでも言いたげに、大きく息をついた。
 「君の性格なら、そう答えると思った」
 「当たり前だろっ。咲夜を賭けの道具に使うような女と、もう仕事なんてできるかよっ」
 「それじゃあ、今まで君に黙ってた咲夜の努力は、全部水の泡になる、って訳だ」
 「……」
 「男相手に直談判するような咲夜が、年下の同性の女の子1人黙らせること位、その気になれば簡単にできただろう、ってことは、一宮君にも想像がつくだろ? なのに、黙ってた。君だけじゃなく、彼女にも何も言わなかった。…その意味、君にもわかるよな」
 …拓海の言うとおりだ。奏にも、その理由は想像がついた。“お人形”と呼ばれるリカに、かつての自分の姿を重ね、苦々しい思いをしていることは、他ならぬ奏自身が咲夜に何度も語っていた。なんとかしてやりたい、いい仕事にしたい―――奏からそんな言葉を聞かされて、咲夜がその仕事を台無しにできる筈もなかった。
 ―――でも…こんな話を聞いちまったってのに、それでもまだリカと仕事をしたりしたら、それはそれで、また誤解されるんじゃないか? こんな裏事情を知っても一緒に仕事ができるのは、なんだかんだ言ってリカが好きだからなんじゃないか、とかって。…それって、私情を仕事に持ち込んでボイコットするようなプロ根性のない奴、って思われるより、結果的にまずくないか?
 わからない―――咲夜のことになると、何が正解なのか、途端に見失ってしまう。好きだから、嫌われたくないから、失うのが怖いから、その真意を推し測って、真実を見失ってしまう―――本当に、千里の言ったとおりだ。
 そういう奏の葛藤を見抜いてか、拓海は密かに苦笑し、暫く黙ってワインを飲み続けた。奏に、考える時間を与えているらしい。そして、十分な時間が過ぎたと判断したところで、おもむろに口を開いた。
 「念のために訊くけど―――その、問題の女の子のこと。一宮君は、恋愛対象として、これっぽっちも好きじゃない?」
 「……え?」
 唐突な質問に、奏の目が丸くなる。が、直後、不愉快そうに、その眉間に深い皺が寄った。
 「何言ってんだよ、当たり前だろ」
 「じゃあ、その子が君に、仕事上の好意以上の好意を持ってることには、1ミリも気づいてなかった?」
 「ああ。迂闊だったとは思うけど、本当に、」
 「気づかずに、彼女に咲夜を会わせたし、咲夜に彼女とのことを喋ったし、親身に相談にも乗って、家にも来させてしまった訳だ」
 「……家に来させた訳じゃねーよ。来るなんて前もって知ってたら、止めるに決まってるだろ」
 「―――…甘いねぇ…」
 大きなため息とともにそう言い、拓海は呆れたようにそう言った。
 「そんなことじゃあ、この先、また咲夜が俺に泣きついてくるのは、目に見えてるな」
 「…っ、なんだよそれっ」
 「恋が上手くいかなかった場合、男は“君と一緒に死ぬ”という発想に突っ走り、女は“あの女さえいなければ”という発想に突っ走る」
 突如、恐ろしいことをサラリと言った拓海は、怪訝そうな顔をする奏に、くすっと笑った。
 「残念ながら、君は女性と多く接する職業に就いている。しかも、モテてきた割には醜い恋愛に関しての知識が乏しい上に、女に非情になりきれない男ときている。まあ、そこが、君の愛すべきところだろうけどね」
 「……」
 「ま、俺は、みなみがいても、咲夜を受け入れるだけの余裕はまだ残せると思うから、別に構わないよ。叔父と姪の関係は、切れるもんじゃないし。ただ―――あまり度重なるようだと、保証できないよ」
 「保証?」
 眉をひそめる奏に、拓海は、挑発するような笑みを口元に浮かべ、奏を見据えた。
 「ある日突然、自制心失くしてもう1度手を出さないとも限らない、ってこと」
 「……っ!!」
 ガタッ! と、奏が座っている椅子が音を立てた。
 憤りに、顔が紅潮するのが、自分でもわかる。ここがレストランでなければ、前のように、拓海の胸倉を掴んでいただろう。テーブルの上に置いた拳は、今にも殴りかかってしまいそうになるのを必死に押さえ込んだせいで、小刻みに震えていた。
 ところが、そんな奏の反応を見た拓海は、いきなり吹き出すと、可笑しそうに笑い出した。
 「ハハハ…、そうそう、その反応。それが見たかったんだ」
 「…な…んだよ…っ! 何が言いたいんだよっ!」
 くっくっ、と笑った拓海は、小さく息をつくと、前に乗り出し気味になっていた体を、椅子の背もたれに預けた。
 「安心した。俺の所に殴りこみに来た時と、君は何も変わってない」
 「……」
 「君の咲夜に対する気持ちが、あの時よりほんの少しでも減っているようなら―――本気で、手放したことを後悔するところだった」
 「…減ってる訳ないだろ。何言ってんだよ、あんた」
 「俺は、咲夜が18を越えた頃から、咲夜の話を誰にもしたことがない」
 奏の言葉を無視するかのように、拓海はそう言って、ふっと笑った。
 「俺を良く思ってない輩は少なくないし、女関係も派手だったしな。そいつらの矛先が、咲夜に行くのだけは避けなければ―――そう思って、限られた人間以外、絶対に咲夜を会わせないようにしてた。楽屋に呼ぶことがあっても、“俺の部屋に自由に出入りしている、血の繋がらない姪”だなんて、決してバレないようにしてた」
 「……」
 「…言いたいこと、わかるよな?」

 “守り通せないのなら、奪い返すぞ”

 ぞくっ、と、背筋が寒くなる。…わかる。拓海の言わんとしていることは。
 打ち消したくても、常に引きずってしまっている、拓海の影―――もし、本当に拓海が奪い返しに来た時、咲夜を繋ぎとめておける自信など、今の奏にはまるでない。その自信のなさを、拓海は見抜いているのだろう。
 咲夜にどう思われるか、なんて迷って1歩引いていたら、横から掻っ攫われる。奏は、奥歯をぎりっと噛み締めると、拓海を真正面から睨み据えた。
 そんな奏の顔を見つめ、拓海は、僅かに表情を緩めた。
 「…それでこそ、一宮君だ」
 「……」
 「誤解されたら、誤解を解けばいい。逃げようとするなら、全力で追いかければいい。…そういう一宮君だから、咲夜を託せたんだ」
 ―――…畜生…っ。
 悔しさが、こめかみの辺りで、ズキズキと脈打つ。つい数分前、土曜日の仕事をどうするかについて迷っていた、その奏の迷いを見抜いた上での挑発だったのだと、今のセリフでわかる。まんまと挑発に乗ってしまった自分が、悔しい。
 「…とことん、食えない奴だな、あんた」
 「ハハ…、おかげさまでね。まあ、安心していいよ。俺が多少の未練を見せたところで、咲夜を今更奪い返すなんて無理そうだから」
 そう言うと―――拓海は、実にさりげない口調で、とんでもないことを奏に暴露した。
 「あいつ、俺にキスされてもフリーズするばっかりだったし、戻ってくるか、って訊いたら、即、首振ってたからな」
 「……」

 ―――は?
 …今、なんて…。

 「…面白いほどに、正直な顔してるなぁ、ほんとに」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている奏に、拓海がまた肩で笑う。それで、何かのスイッチが入ってしまったのだろう。一気に険しい顔になった奏は、半ば腰を浮かすようにして身を乗り出した。
 「あ……っ、あんた、何考えてんだよ!? 佐倉さんいるのに、他の女にそんな真似するなんて…!」
 「あはは…、まあまあ、これで本気になっただろ? 咲夜を泣かすと、こういう男が、そういう真似する訳だ」
 「泣かさねーよっ!」
 「そうしてくれ」
 奏の怒りを受け流すようにそう言うと、拓海は再びワイングラスを手にし、グラスの中の赤い色に、僅かに目を細めた。
 「…いくら俺でも、泣いてるあいつを目の前にして理性を保つのは、結構至難の業だからな」
 そう呟いた声だけは、少しのからかいも含んではいなかった。


***


 「―――…奏?」
 「…え、」

 我に返った奏の目の前には、咲夜の怪訝そうな顔があった。
 パチパチと瞬きをし、周囲に軽く目を向ける。そして、ここが咲夜とよく行くカフェであることと、今が夕飯の真っ最中であることを思い出した。
 「どしたの、怖い顔で黙りこくって」
 変なヤツ、という顔をした咲夜は、そう言って頬杖をつき、手にしていたスプーンで、リゾットの器をコンコン、と叩いた。そんなに怖い顔をしてたのか、と焦った奏は、思わず自らの頬を叩き、引きつった笑みを返した。
 「…わ、悪い。ちょっと、考え事してた」
 「今日って来月のショーの衣装合わせだったんでしょ? 嫌な仕事相手でもいた?」
 「いや、そういう訳じゃ」
 ―――単に、佐倉さんと話したせいで、あいつのこと思い出しただけで。
 拓海のことを、これ以上は引きずりたくなかった。咳払いをした奏は、まだ半分ほど残っているパスタをフォークに巻きつけた。
 咲夜は、それでもまだ訝しげに眉をひそめていたが、問い詰めるのも無粋と思ったのか、それ以上は何も訊かなかった。それよりも重要な話を思い出したらしく、再びリゾットを口に運びながら、少し弾んだ声で切り出した。
 「そう言えばさ。次の月曜って、奏の誕生日じゃない?」
 「あー、そうだったな。忘れそうだった」
 頭の中に、今月のカレンダーを思い描く。次の月曜は、27日―――奏の、28回目の誕生日だ。
 「誕生日でモデル引退、ってのがなくなったせいで、あんまり意識してなかったからなぁ…」
 「平日だから、当然仕事だよね。どうしよっか」
 「どうしようか、って?」
 「決まってるじゃん。誕生日祝い」
 そう言うと、咲夜は苦笑を浮かべ、軽く首を傾げた。
 「去年の奏の誕生日は、最悪だったからね」
 「…ああ、あれなぁ…」
 去年の10月27日は、確かに最悪だった。
 初めて店以外でのメイクの仕事を請け負えたのは、唯一、いい思い出。でも―――気まぐれを起こして足を向けた音大祭で、そこにいる筈のない咲夜を舞台の上に見つけ、大喧嘩になってしまったのは、最悪の思い出だ。結局、約1ヵ月後の咲夜の誕生日に無事仲直りできたから良かったが、あの1ヶ月間は、心底きつかった。
 あれから、もう1年―――いや、まだ、1年。
 一成や明日美のこと、拓海や佐倉のこと、そして……自分たち2人のこと。とんでもなく凝縮された1年で、もう1年も経ってしまったのか、と思う一方、まだ1年しか経っていないのに、こんなに変わってしまったのか、と驚かされる。
 「大体、去年のあの大喧嘩だって、お前が変な気ぃ回してオレに嘘なんかつくから、あーゆー修羅場になったんだよな。ほんと、そういう部分変わってねー」
 少し口を尖らせて奏が言うと、咲夜も軽く眉を上げ、対抗した。
 「それを言うなら、奏の方も全然変わってないじゃん。あの頃から超鈍感で、人の気遣い完全無視でブチ切れてさ」
 「オレが鈍感なら、わかるように言やぁいいんだよ」
 「それを言えない事情ってもんがあること位、少しは察しろ、ってことじゃん」
 「鈍感なヤツに、そんな高度な真似、できるかっ」
 「鈍感を自慢するなっ」
 「……」
 「……」

 そこまで言い合って。
 不機嫌な顔をキープしきれず、2人して、吹き出した。

 


 鍵を閉める間すら、もどかしい。
 ガチャン、と、咲夜が後ろ手で鍵をかける音を聞きながら、待ちきれないように口づけた。
 肩からバッグが滑り落ち、自由になった両手で、咲夜が奏の頭を掻き抱く。靴を脱ぐ間もなく、ひとしきり、唇を求め合った。
 足りない―――どれほど激しく口づけても、まだ足りない。やっぱり、拓海との会話を思い出してしまったことで、いつも以上に歯止めが効かなくなっているのかもしれない。焦燥感にも似たものが、胸の奥をジリジリと焦がしていた。
 「…っ、バ……カ、ここじゃ、まずいって、」
 わき腹に滑り込んできた手を押し留めて、辛うじて咲夜がそう言う。
 「な…んだよっ。別にいいだろ」
 「…外の廊下、木戸さんとか蓮君も通るのに…」
 途端、奏の顔が、不愉快そうな表情に変わる。奏が何を考えたのかなんて、咲夜にはお見通しなのだろう。苦笑した咲夜は、軽く首を傾け、指に絡んだ髪を梳いた。
 「知らないよ? …声、聞かれても」
 「―――聞かせるか、バカ」
 声を封じるように唇を封じると、靴を脱ぐことも許さないまま、咲夜を抱きかかえた。奏の首の後ろに両腕を回した咲夜は、決して離れないよう、ぎゅっ、と奏に抱きついた。


 全く……どうかしている。
 自慢ではないが、女性経験は、かなり豊富な方に入ると思う。遊びだった相手もいれば、お互い好き合ってそうなった子もいた。ただの憂さ晴らしの時もあれば、寂しさを人肌の温かさで誤魔化した時もあった。野生本能に衝き動かされていた十代の頃ならまだしも、経験を重ねてからは、こと女に関しては、ある程度自分をコントロールできる方だと思っていた。
 なのに、あの日、ずっと欲しくてたまらなかったものを、ついに手に入れてからは―――コントロールが、まるで効かない。
 コントロールを失ったら、蕾夏を傷つけてしまった時の自分に戻ってしまうのではないか、と、ずっと恐れていたけれど……今の奏は、あの時とはまた別の種類の、制御不能な暴走状態―――自分でも想像だにしなかった類の、暴走状態だ。

 …ゾクゾクする。
 自分の唇に、それ以上の熱さで応える、この唇にも。不思議なほどに手のひらに馴染む、この肌にも。
 日頃とはまるで違う表情に、目に、声に……煽られる。止まらない。満たされても、満たされても、足りない。
 “溺れる”という状態を、奏は、生まれて初めて体験していた。まさか、自分が、1人の女にのめりこみ、溺れきってしまう日が来るなんて―――そう考えると、可笑しくて仕方ない。


 ―――…あいつも…こんな恋を、したのかな。
 唐突に、ある男の顔が、脳裏に浮かぶ。
 1人の女に、一生分の情熱を使い果たしてしまった、哀れな男―――奏の、そして累の……遺伝子上の、父親。
 自分を裏切った女を、憎んで、憎んで、なのに最後まで憎みきれなくて―――そんな彼を、奏はずっと、愚かで哀れな男だと思っていた。そんな女に執着せず、新しい女を見つければいいのに、と、いつまで経っても本気の恋に踏み出そうとしない彼に、時に苛立ったりした。
 でも……今、こうして咲夜を抱いていると、彼の気持ちが、少しわかる気がした。
 もし、この先、咲夜が自分を裏切り、他の男に走るようなことがあったら―――もしかしたら自分も、その先の人生を、咲夜を引きずったまま生きることになるのかもしれない、と。


 時々、少し、怖くなるけれど。
 こんな風に、後先考えることなく溺れてしまう自分たちが、時々、不安になるけれど。

 この先に、何があろうと、構わない―――今は、深く、深く、どこまでも深く溺れてしまいたい。そんな想いに衝き動かされるように、奏も、そして咲夜も、無我夢中で相手の体を抱きしめた。


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