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― 秘密 ―

 

 本屋の雑誌コーナーをぶらぶら見て回っていた咲夜は、ふと、ある雑誌に目を留めた。
 「……あれ、」
 普段、まず買うことのない、文芸雑誌。その表紙に、かなり大きな字で、連載小説のタイトルらしきものと一緒に、ある作家の名前が書いてあったのだ。

 『空蝉(うつせみ)の残像   辻村 (たかし)

 辻村 喬―――読んだことはないが、名前は知っている。蓮の歓迎会の席か何かで、優也が「最近はまっている作家」として名前を挙げていたからだ。
 ―――へー、こういう小説専門雑誌って買ったことないけど、大学生でもこういうのに載ってるような作家も読むのかぁ。
 文芸雑誌を手に取った咲夜は、奏の姿を探し、首を伸ばした。
 奏は、さっきと同じ、外国の雑誌が置かれているコーナーに居座っていた。手にしているのは、海外のファッション関係の雑誌のバックナンバーらしい。こういう大きな本屋でないと、洋書はなかなか揃っていないので、読み貯めしている、という感じだ。仕事の参考のために見ているので、もの凄く難しい顔で誌面を睨んでいる。女性向けファッション誌を真剣に読んでいる男の図は、少々怪しいかもしれない。
 ページをめくる奏の手首には、逆輸入モノのG-SHOCK―――そして、似たタイプのG-SHOCKが、咲夜の手首にもはまっている。奏の誕生日は明日だし、咲夜の誕生日はまだ1ヶ月近く先だが、「1日早いけど、せっかくの休日なんだし」とお祝いを兼ねて出かけた今日、偶然これらを見つけて一目惚れしてしまったので、お互いの誕生日プレゼントとして購入したのだ。
 全く違うシリーズのものだが、こうして遠くから見ると、まるでお揃いで着けているように見える。なんだかくすぐったい気分にちょっと口元を緩めつつ、咲夜は再び文芸雑誌に目を向けた。
 辻村 喬の連載は、今月号から始まったようで、巻頭を飾っていた。なるほど、だからこんな大きな文字で表紙に書かれていた訳だ。多分、来月以降だったら、咲夜の目に留まることもなかっただろう。
 どれどれ、と、さっそく『空蝉の残像』を読み始めた咲夜だったが―――…。


 結局、僕らの恋は、何だったのだろう?
 人を傷つけて、自分も傷ついて、それでも選んだ恋だった。永遠を信じるほど、もう子供ではなかったけれど、それでも―――永遠に近いものを感じ、そうして手を取り合った恋だった。


 「……」
 ―――…ん??
 なんだか、もの凄く、読んだ覚えのある出だしだな、これ。

 どこで読んだんだっけ、と眉根を寄せて記憶を手繰り寄せながら、続きを読む。そして……読み進めるにつれ、咲夜の目が、どんどん大きく見開かれていった。
 既視感(デジャヴ)、なんてもんじゃない。
 続く文章も―――登場人物の名前こそ異なっているが、それ以外は、これとまるで同じ文章を、咲夜は以前、一度だけ読んでいる。そして、それは、こんなところに掲載されてはおかしい筈のものだった。
 間違う訳が、ない。
 読ませてもらったのは、6月。茶封筒に入ったA4のプリントの束。何の説明もなしに読み始め、その内容に驚き―――でも、あの小説がきっかけで、咲夜は、その時囚われていた泥沼みたいな自己嫌悪から、なんとか這い上がることができた。だから、間違う筈がないのだ。

 これ、マリリンさんが、編集にボツ食らった小説じゃん。

 一体、何が、どうなっているのか―――頭の容量いっぱいに居座った巨大なクエッションマークを前に、咲夜は、ファッション雑誌を読む奏以上に難しい顔で、思わず首を傾げた。

***

 呼び鈴を2度鳴らし、暫し待ったが、ドアの内側からは何の気配も感じられなかった。
 「…うーん、留守か」
 「日曜だしな。どっか出かけてるのかも…」
 101号室の前で、奏と咲夜が残念がっていると、まるでマリリンの代わりに呼び鈴に応えたみたいに、103号室のドアが開いた。
 「―――あれ?」
 2人がそこにいるとは予想外だったのだろう。103号室から出て来た優也は、ちょっと驚いたように目を丸くした。
 「こんばんは…。どうしたんですか? 2人揃って」
 「こんばんは」
 「よっ。ミルクパンのか、それ」
 優也が手にしている皿を目で示して奏が訊ねると、優也も不思議そうな表情を僅かに和らげた。
 「ええ。さっき見たら、なんか喉渇いてそうだったんで。…マリリンさん、留守なんですか」
 訊ねつつ、優也はミルクパンの棲家である物置へと歩み寄った。2人の様子から、マリリンを訪ねて来たのだということは想像がついたのだろう。
 「あー…、オレは用ないんだけど、咲夜が、な」
 「咲夜さんが?」
 「ん、ちょっと、訊きたいことがあって。でも、留守みたい」
 「マリリンさん、このところずっと、連載や書き下ろしで部屋にこもりっぱなしだったから…。気晴らしに出かけてるんじゃないかな」
 「そっかー…」
 残念、とため息をついた咲夜だったが、ふと、あることを思いつき、胸に抱いていた雑誌でもって、ミルクパンに水をあげている優也の背中をポン、と叩いた。
 「ねえ、優也君。ちょっと訊きたいんだけどさ」
 「え?」
 皿をミルクパンの寝床に置いて振り返った優也の目の前に、咲夜は例の文芸雑誌をつきつけた。
 「この、辻村 喬って作家。優也君、結構好きだって言ってたよね」
 「あ。連載、始まったんですか?」
 でかでかと表紙に書かれた名前とタイトルに、優也の目がキラキラと輝く。立ち上がった優也は、表紙に目が釘付けになったまま、咲夜から雑誌を受け取った。
 「僕、まとめ読み派なんで、連載中は読まないようにしてるんですよ。今度のは長編なのかなぁ…。だとしたら、新書で出るの、相当先だろうなぁ…」
 「あ…あの、さ。この作家って、どーゆー人なの?」
 「どういう、って?」
 「経歴とか」
 顔を上げ、キョトン、と目を丸くした優也は、今度は困ったような顔になって首を傾げた。
 「うーん…、経歴、かぁ。デビュー作の“筆者略歴”には、出身地と趣味くらいしか書いてなかった気が…。それ以降は、主な作品で、既刊本のタイトルが並んでるだけだし」
 「いつ頃から書いてる人?」
 「ええと、2年くらい前に、“期待の新人”て感じで中編が出版されて―――あ、そうそう、その本の帯を、マリリンさんが書いてたんですよ」
 「えっ」
 「僕が辻村 喬の本読み始めたのも、マリリンさんが帯書きしてたのがきっかけだし。ほら、この雑誌を出してる、清陵出版。マリリンさんが、公募で賞を取ったのも、この清陵出版なんですよ。辻村 喬の本も清陵出版からしか出てないんで、きっと、同じ出版社で本出してる縁で帯書きしてあげたのかな、と僕は思ったんだけど…」
 そう言って、優也は雑誌をクルリとひっくり返し、裏表紙の隅っこを指差した。咲夜と奏がその手元を覗き込むと、確かに「清陵出版」という字が印字されていた。
 「同じ出版社の縁…。一応、繋がりはある訳か」
 「…だからって、ネタのやり取りまでする?」
 「ネタ?」
 出版社名を睨みつつ、腑に落ちない、という顔をする2人に、優也の方が余計怪訝そうな顔になる。
 マリリンに先に話を聞きたかった気もするが―――意を決した咲夜は、思い切って説明を始めた。
 「実は、さ。私、この“空蝉の残像”とほぼ同じものを、6月に読んだんだ」
 途端、優也の目が、大きく見開かれた。
 「え!? ど、どこでですか!?」
 「マリリンさんに、渡された。A4の紙にプリントアウトした形で」
 「…え…えぇぇ??」
 「ほら、マリリンさんの代表作の…なんだっけ、“暁坂トライアングル”? 文芸サークルの中で起きる三角関係の話。あれの続編だったんだけど―――中身が、マリリンさんの恋愛小説にしてはちょっと重たすぎるっていうか、前作でハッピーエンドになった主人公カップルが別れちゃう話なもんだから、編集さんにボツ食らったんだって言ってた。で……そのボツになった小説と、この“空蝉の残像”が、そっくり同じ」
 「に…、似てる、とかじゃなくて?」
 「似てるっていうレベルじゃないよ。人の名前とか、細かい部分が違ってたりするけど、どう見ても同じ話だよ」
 「……」
 唖然、という顔になった優也は、慌てて手にした雑誌のページをバサバサとめくった。
 「ど…っ、どういうことだろう…!? でも、こうして掲載されてる、ってことは、ちゃんと出版社の編集は通ってるんだろうし…」
 「…だから、それが訊きたかったんだって、マリリンさんに。考えられるとしたら、うーん―――辻村 喬がネタに困ってマリリンさんのボツ原稿をもらった、とか?」
 「そんな、まさか! それならまだ、マリリンさんが咲夜さんに見せた原稿が辻村 喬の原稿だった、って方が現実味ありますよ」
 「ええー? なんで辻村 喬が、マリリンさんの代表作の続編書く訳?」
 咲夜と優也が混乱に陥る中、それまで蚊帳の外状態だった奏が、突如、あっけらかんとした声を上げた。
 「なんだ。それなら、マリリンさんが辻村 喬なんじゃねぇ?」
 「―――…」
 その言葉と同時に、咲夜と優也は一瞬固まり、続いてパッ、と顔を上げ、奏に目を向けた。
 咲夜の表情も、優也の表情も、揃って「目から鱗」である。極々軽い気持ちで言ったつもりの奏は、そんな2人の良すぎる反応に、え、という顔になった。
 「…マリリンさんが、辻村 喬…」
 「…どうなんだろ。私、辻村 喬の小説って、この連載が読むの初めてだけど」
 「か…考えてもみなかったけど、そう言えば、辻村 喬の作品って、マリリンさんの初期の作品に、ちょっと似てるかも…。売れっ子になってから、時々軽いテイストも混ぜるようになったけど、その前って結構重たい恋愛モノが多かったような…。文体も似てるし」
 「お…っ、おいおいおい。あ、あんまりマジに受け取るなよっ。オレ、辻村 喬の本なんて、1文字も読んでないんだから」
 奏が焦ってそう言った時、入り口の方から、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
 ハッとして、3人同時に振り返る。が、足音の主はマリリンではなかった。
 「おや、こんばんは」
 「……どうも」
 いつもどおりの明るい声でヒョコッと頭を下げる木戸に、3人もバラバラに会釈した。どうやら、土日を利用して家族のいる秋田に行っていたらしく、私服姿の木戸の手には、小振りなボストンバッグが提げられていた。
 「どうかしましたかね、皆さんお揃いで」
 3人の顔を順々に見ながら、木戸が不思議そうな顔で訊ねる。一番近い位置に立っていた、という事情もあり、結局、3人を代表して奏が答える羽目になった。
 「あ、いや、その、マ……海原さんにちょっと用事があったんだけど、留守みたいなんで」
 「海原さん? ああ、海原さんなら、ホラ。今、一緒に―――…」
 言いながら、木戸は後ろを振り返った。3人も、木戸の背後を窺う。…が、そこには、誰もいなかった。
 「ん? 変だな…おーい、海原さん! 海原さーん!?」
 「……」
 夜10時にはふさわしくない木戸の大きな声に、アパートの入り口の陰から、誰かが、実に遠慮がちな様子でこちらを覗いた。
 ―――が、しかし。

 …誰、これ。

 それが、木戸を除く3人の頭に、その瞬間、同時に浮かんだ言葉。
 何歳くらいだろう? よくわからないが、落ち着いた色合いのファッションや醸し出すムードからして、30代以降だろう。なかなか洒落たベージュのジャケットに、オリーブカラーのチノパンツ、少し長めの髪を後ろで1つに束ねた、その人は……奏にとっても、咲夜にとっても、そして優也にとっても、まるで見覚えのない“男性”だった。
 ぽかん、とする3人の前で、“彼”は、顔を見られるのを避けるかのように、気まずそうに斜め下を向いていた。そして、目だけをこちらに向け、どことなく恨みがましい目つきで、木戸の顔をチラリと見た。
 しかし、“彼”の気持ちは、木戸には全く伝わらなかったらしい。
 「いやー、いきなり消えるから、驚きましたよ。一体どうしたんですか、海原さん」
 「えっ?」
 ホッとしたような木戸の一言に、3人の驚きの声が重なる。途端、“彼”は大きなため息をつき、ガクリとうな垂れた。
 「…木戸さん…」
 「はい?」
 うな垂れたまま、“彼”が、木戸の背後を指差す。木戸も、それを見て初めて“彼”の脱力の意味を察し、ぎこちない笑顔で背後を振り返った。
 「……」

 「えええええぇ!!!!??」

 直後―――“ベルメゾンみそら”のエントランスに、3つの叫び声がこだました。

***

 「…粗茶です」
 トレーに乗せて、まとめてコトリ、と置かれた、5つの湯のみ。
 狭い部屋に定員オーバー気味に詰め込まれた面々―――年齢順に、木戸、奏、咲夜、優也の4人は、それぞれの表情で、いただきます、と頭を下げた。
 何故自分がここにいるのかわからず、妙にそわそわした顔つきの、木戸。
 意外なことに、一番落ち着いた表情の、優也。
 頭の中の2つの人物像がどうやっても一致せず、難しいパズルでも解いているような顔をした、咲夜。
 そして、奏は―――4人の中で唯一、もの凄く生き生きとした表情をしていた。職業病の成せる業である。
 「うわ…、やっぱ、きっちり手入れしてるだけのことはあるよなー。こんなに間近で見ても、オレより年上の男の肌じゃないよ、これ。こんだけ美肌キープしてりゃあ、ファンデーションのノリもいいだろうなぁ。酒と煙草と夜更かしで肌荒れしまくりの女に、爪の垢煎じて飲ませてやりてー」
 「…一宮さん。お茶、冷めるから」
 そう言って、ゴホン、と咳払いをした“彼”―――海原真理(まさみち)は、なんとか涼しい顔をキープして、自分の湯飲みを口に運んだ。
 ―――うーん…、やっぱり、見た目では結びつかないよなー…。
 自らもお茶を口にしながら、咲夜は、ちょうど向かいの席に座っている真理の顔をチラリと見、また首を傾げた。
 咲夜が知る「海原真理」は、かなり派手な顔だちだった。目も大きめで、口も結構大きく、全体的にメリハリのある顔……の、筈。なのに、今目の前にいる「海原真理」は、実にあっさりした顔だちをしている。どちらかというと、優しげな顔―――以前、大学時代には「薄幸の美形の文学青年」の路線で女性に人気があった、と真理自ら言っていたが、この風貌なら納得だ。美形、という感じとはまたちょっと違うが、目鼻立ちが上品で、整った印象がある。
 ド派手なマリリンと物静かな真理が結びつかず、どうにも困ってしまうのだが……唯一、咲夜にだけ確信できる、2人のキャラクターの共通項があった。
 それは、声。高さの違いは確かにあるが、日頃聞くマリリンの声と真理の声を、咲夜の耳は、ちゃんと「同一人物の声」として聞き分けていた。
 「…でも…木戸さん、よくわかりましたよね。夏に初めてマリリンさんの素顔見た時も、この顔だったんでしょう?」
 優也がそう言って、木戸と真理の顔を見比べる。木戸が真理の素顔を知ることとなった経緯は、お茶を待つ間に一応聞いているが―――確かに、木戸の方から、目の前の男が101号室の住人だと気づいた、というのだから、大したものだと思う。
 優也に感心された木戸は、まんざらでもない笑い方をして、頭を掻いた。
 「いやー、正直、気づいた時には、さっきの皆さんどころじゃない驚き方して、ご近所迷惑になりかけたんですけどねぇ。あの日は冴えてたんだなぁ。ハハハ」
 「…一発で顔、覚えたみたいですね、木戸さんは。今日も、偶然駅で会うなり“海原さーん”だったし」
 どこに怒りを持っていけばいいのかわからないみたいに、真理が、低く抑えた声で呟く。その呟きに、さすがの木戸の顔も一瞬引きつったが。
 「ま、まあ、いいじゃないですか! これで、いちいち女装せんでも良くなった訳ですから」
 「…確かに、いずれ素顔は晒す気でいましたけどね。でも、今まで“マリリン”の格好であの喋り方で接してきた人たちに、この風貌でどう接すりゃいいか、まだ心の準備ができてなかったんですよ」
 「…そりゃあ、申し訳ないことをしました」
 「…別に、いいですけどね」
 もう自分は黙っていた方がいいと踏んだのだろう。力なく笑った木戸は、あぐらを正座に直すと、それ以上何も言わずに湯飲みを口に運んだ。
 「ところで―――3人揃って、何の用だったの?」
 ようやく落ち着いたと見て、真理の方から切り出す。
 「あ…っ、ああ、用があったのは、私」
 完全に傍観者に成り下がっていた咲夜も、それで我に返り、慌てて、膝の上で丸めていた文芸雑誌を真理に差し出した。
 「…これ、本屋で見つけたもんだから」
 「……」
 表紙に書かれた大きなタイトルと、筆者名。それを目にした途端、真理は目を大きく見開き、身を乗り出さんばかりの勢いで顔を上げた。
 「さ、咲夜ちゃん、こんな雑誌、前から買ってた!?」
 「いや…、だから、偶然見つけてさ。優也君から、この辻村 喬って作家の本が結構いいって聞いてたから、ふーん、どんな感じなんだろう、って、店頭で立ち読みを…」
 「……」
 「…これってさぁ、どう考えても、前読ませてもらったボツ原稿だよね? 主人公たちの名前違うし、文芸サークルが美大の同級生に変わってたりするけど……冒頭の主人公の独白、ほぼ完璧に同じだし」
 「……あー……」
 情けないような声を上げた真理は、大きな大きなため息をつき、額を手で押さえた。
 「やられたー…、咲夜ちゃんが読むなんて、計算外」
 「…ってか、これ、どーゆーこと? “辻村 喬の”連載なのに、なんで…」
 なんでマリリンさんの話が掲載されてる訳?
 と訊きそうになって、いや待て、今ここにいるこの男を「マリリンさん」と呼んでいいのだろうか、という疑問がポン、と浮かび、咲夜は語尾を曖昧にぼかしてしまった。
 そんな咲夜の躊躇も疑問も汲み取れたらしく、真理は額を押さえたまま、2、3回、軽く頷いた。いいよいいよ、言いたいことはわかったから、といった感じで。
 「…その話読んだの、編集除けば咲夜ちゃん1人だし、咲夜ちゃんは決まった作家の本以外買わないって聞いてたから、大丈夫だと思ったのになぁ…」
 「なあ。結局、どういうことなんだよ。盗作? ネタ提供? それとも…」
 焦れたように奏が結論を求めると、真理はもう一度ため息をつき、だるそうに顔を上げた。
 「―――盗作も、ネタ提供も、不正解。…ま、考えついてはいるんだろうけど―――辻村 喬は、僕のもう1つのペンネーム」
 「えっ、ホントに!?」
 「よっしゃあ!」
 愕然とした声を上げる優也の横で、奏が勝利の声を上げた。バカ、空気読め―――そのまた隣に座る咲夜は、ガッツポーズをする奏の脇腹に、肘鉄を食らわせておいた。
 「い、いや、でもっ! こ、この雑誌、清陵出版でしょう!? 違う所から別の名前で発表してるんじゃなく、思いっきり、マリリンさんのホームグラウンドじゃないですか!」
 まだ信じられない様子で、優也がそう食い下がる。その言い分もよくわかりますとも、という感じでまた頷いた真理は、おもむろに後ろを見、そこに乱雑に積み上げられていた本のうちの1冊を引っ張り出してきた。
 その本は、咲夜は初めて見るが、筆者名として辻村 喬の名が印刷されていた。その背表紙を他の4人に見せ、真理は背表紙の一番下の部分を指差した。
 「清陵出版。…辻村 喬の本は、既刊の4冊全部、清陵出版から出てる」
 「……」
 「つ、ま、り…辻村 喬は、清陵出版と僕が作り出した、もう1人の僕、って訳」
 「…じゃあ、あの、辻村 喬の処女作の帯って…」
 呆然と優也が呟いた言葉に、真理は、乾いた笑い声をたてた。
 「は、ははは、そ、そんなこともあったね。そう、あれは、自分で自分の帯を書いたことになるんだな、うん」
 ……唖然。
 まあ、ペンネームを複数持っている作家というのは、案外実在しているらしいが―――自分の本の帯に自分で推薦文を書く作家が…というより、そんな真似をさせる出版社が実在するとは、さすがに想像の範囲外。
 「…納得……いってない、よなぁ、やっぱり」
 呆れた顔をしている大人3人は別として、信じられない、という顔で雑誌を見つめている優也の様子に、真理は困ったようにこめかみの辺りを掻いた。そして、一度大きく息をつくと、覚悟したような声色で口を開いた。
 「…わかった。辻村 喬のファンだ、って言ってくれた優也のためにも、最初からちゃんと説明させていただきます」


***


 今を遡ること、3年前―――真理は、ある短編を書き上げ、清陵出版の編集者に提出した。

 清陵出版で賞を取り、デビューをしてから、はや5年。高校生から20代の、主に女性をターゲットとした恋愛小説を書き続けてきた真理だが、元々の真理の作風は、恋愛を題材にしつつも人生の機微を描く、という落ち着いた文芸作品や、サスペンスなどだった。清陵出版での受賞作品が、たまたま、学生でも読みやすいように、と意識して書いた恋愛小説だったせいで、「海原真理=女性向け恋愛小説」というイメージで編集部に捉えられえてしまったのだ。
 新分野へのチャレンジ、という意味合いもあり、刺激的で面白かった。恋愛は、ただ恋愛だというだけで、ドラマチックだ。デビューしてからの5年間、真理は精力的に執筆を続けた。
 けれど……ちょうどこの頃から、真理は、本来の自分らしい作品ももっと書きたい、と頻繁に感じるようになった。
 多分、現在では代表作と言われている、私小説的なあの作品を書き上げたのがきっかけだったと思う。自分の青春時代を投影して描いた、文芸サークルの三角関係―――その執筆を終えた時、学生時代に自分が書いていたような小説を、大人になった今、もっと深い視点で書くことができれば…という思いが生まれ、そしてなかなか消えなくなってしまった。
 真理が提出したのは、そんな気持ちから書き上げた短編だった。
 廃れた漁村を舞台とした、母と娘の物語。大学生の時書いたものをベースに、その後の人生経験をそれにプラスして書いた、真理としては納得のいく作品だった。
 しかし、編集の反応は、全く違っていた。

 「いや、いいんですけどね。海原先生のテンポのいい言葉運びもよく出てるし、最後、母親が真実を告げずに娘を送り出すシーンも、ホロリとくる情感があって。僕は好きですよ、この作品。ただ……これを“海原真理の小説”として、雑誌に掲載するのは…」
 「…駄目、ですか」
 軽いショックを受けつつ真理が確認すると、編集者は、大変言い難そうに、本音を告げた。
 「こういうのが好きな読者層は、この雑誌、買わないんですよ。海原真理の短編が出てるよ、と聞いて、読者が期待するのは、甘酸っぱい初恋の話や泥沼の愛憎劇、若者の群像なんかを描いたものなんですよねぇ…」
 「……」
 「恋愛要素ゼロですし、どう見てもアンハッピーエンドでしょう、この作品。ウケないだろうなぁ…」

 結局、その短編はボツを食らい、真理は、女子高生を主人公とした短編を書き上げた。援助交際で行ったホテルで、自分の父親が、自分と変わらない年頃の女の子と出てくるのを目撃する、という、とてつもなく痛い話を、半分、復讐のつもりで。
 ところが―――その痛い話は、ウケてしまった。
 「この短い作品で、実にリアルな描写がなされている、って評判ですよ。特に、父親を目撃した娘が、ショックも受けず、そのまま平然とホテルに入っていくところが、主人公と同世代にはウケてるらしいです。親父に対する復讐なんだそうですよ。凄いですね、今の子は」
 …読者から褒められて、泣きたくなったのは、これが初めてだったかもしれない。

 元来の作風のものを書けないフラストレーションは、仕事に影響し始めた。
 書きたい。書きたい。書きたいのに、書けない。だから、書かなきゃいけないものも、書けない。
 折りしも、妻と娘がアメリカへ行ってしまい、精神的な支えがなくなっているところだった。『書院』のキーを、何日間も壊れるほど叩きまくったが、ついに1行も進まない事態に追い込まれた。
 「…連載、休載させて下さい」
 とうとう、真理は編集者に、そう訴えた。
 驚いた編集者は、上司も交え、話し合いの場を設けてくれた。結果―――連載を1回休み、その間に、真理をスランプに陥らせているモノを吐き出してみては、ということになった。
 真理は、書いた。
 まさに、寝食を忘れる勢いで、毎日毎日、朝から晩まで『書院』と向き合い続けた。
 こうして書き上がったのが、『崩壊』―――人と人の信頼関係が崩壊していく様を描いた、海原真理の作品としては絶対あり得ない、ダークな作品だった。
 書き上がった『崩壊』は、真理が連載を持ってるのとはまた別の文芸雑誌の編集者の手に渡り、高評価を得た。が、そのあまりにダークな内容に、これを海原真理の作品として世に出すのはちょっと…、というのが、出版社の空気だった。
 「どうでしょう、もう1つ、ペンネームを持っては」
 そう切り出したのは、老舗文芸雑誌を手がける、編集長だった。
 「かのスティーブン・キングも、“リチャード・バックマン”名義で、いくつか作品を発表していたでしょう? 今では同一人物であることは常識になってますけど……ああいう感じで、もう1つの名前でこの作品を発表されては?」

 こうして、辻村 喬は誕生した。
 『崩壊』は、清陵出版文芸部の看板でもある名門文芸雑誌に、特集という扱いで掲載され、読者から絶大な反響を得た。半年後にはハードカバーで出版され、その帯は、真理が手がけることになった。本来、この手のジャンルの大御所辺りにお願いした方がいい仕事なのだが、そこには出版社側のしたたかな戦略が隠されていた。
 「確かにテイストは違いますけど、辻村作品も、やっぱり海原先生が書いてるだけあって、文体やテンポが似てるんですよね。ということは、このダークさとシビアさに拒否反応を示さない海原ファンは、辻村ファン予備軍なんですよ。中高生は無理としても、社会人は期待できます」
 つまり、大好きな海原真理が推薦しているなら読んでみようか、というファン心理を逆手に取った戦略な訳だ。なんだか世間を騙してるような気がして気が引けたが、結局真理は、自分の本を自分で推薦する、という妙な仕事を引き受けてしまった。
 出版された『崩壊』は、無名の新人としては異例の売り上げを記録した。
 辻村 喬が生まれたことで、海原真理の仕事振りも安定し、真理は、2つの自分を操りながら、再び精力的に執筆活動を続けた。


 …が、しかし。
 今年の春、ある転機が訪れた。
 清陵出版以外の出版社から、清陵出版に「辻村 喬に執筆を依頼したい、連絡先を教えて欲しい」との電話がかかってきたのだ。
 昨年来、少々、恋愛小説に食傷気味になってきていた真理だから、この話は是非受けたかった。が、清陵出版の担当者は、渋い顔をした。
 「海原真理と辻村 喬が同一人物であることは、社内秘ですよ。連絡先はまあ何とかするにしても、打ち合わせはどうするんですか。顔を合わせたら一発でバレますよ?」
 …ごもっとも。
 真理は、悩んだ。
 正直なことを言えば、今後、海原真理の仕事はだんだん減らしていって、辻村 喬の仕事を中心に執筆活動を続けていこう、と考えていた。勿論、清陵出版以外の仕事も引き受けるつもりで。打ち合わせについては、簡単だ。日頃女装しているのを、辻村 喬の時は辞めてしまえばいいだけの話。作品も外見も、本来の自分に戻るのだ。
 しかし、改めて考えてみると、色々まずい点が出てくる。まずは、原稿料や印税の支払い。振込先がこれまでと同じ「海原真理」名義では、別人と言い張るのは相当無理がある。それに、外見の問題も、他社で見せる辻村 喬の容姿と清陵出版における辻村 喬の容姿が異なっていては(いや、それどころか、性別からして異なっていることになってしまう)、辻村 喬が海原真理だと知っている清陵出版が、大パニックになる。
 …困った。
 どうしようもなく、困った。
 悩んで悩んで悩みぬいた末、真理は、最大の理解者に助けを求めた。そう、真理が女装なんぞをする羽目になった、根本的な原因となった人物―――真理の妻・梨花(りんか)だ。

 「他社の方は、なんとかいけると思うのよねぇ…」
 娘も寝静まった時間、居間で真理から相談を受けた梨花は、大きなため息とともに、そう言った。
 「マリ君、今って、原稿料や印税の受け取り、郵便局の振替口座にしてもらってるじゃない? ウミハラマリ名義で」
 妻は真理のことを、まさみち、ではなく、マリ君、と呼ぶ。会社の同僚だった時からの呼び方である。
 梨花の言うとおり、現在、真理の報酬は、全て郵便局の振替口座に入ってくる。漢字で書くと「海原真理」だが、ATMで出てくる口座名は「ウミハラマリ」だ。呼び方を間違えられたままデビューが決まった時、あえてそういう口座を作ったのだ。
 「他の銀行なんかは、全部、ウミハラマサミチ名義だから、そっちを原稿料の振込先にしてもらえば? 同姓同名だけど、別人です、って言い切って」
 「…いや…そりゃあ、無理があるんじゃない?」
 「とにかく、お金の問題は何か手があるとは思うの。問題はむしろ、辻村 喬が海原真理と同一人物であることがバレちゃまずい上に、海原真理が男ってことがバレるのもまずい、ってことの方よねぇ…」
 「…だよなぁ」
 バレたくなければ、女装を辞めればいい。が、女装を辞めると、清陵出版に海原真理の正体がバレてしまう。
 2つの名前に、2つの姿。この秘密を抱えて、一体、どうやって活動していけばいいのやら―――全部の秘密を隠し通すのは、到底無理な気がする。
 ううむ、と腕組みをして悩む真理の様子に、梨花は、申し訳なさそうな顔をした。
 「ごめんね、マリ君…。あたしが余計なこと思いついたせいで、結局、こんな厄介なことになっちゃって」
 「り、梨花さんが謝ることはないよ。面白がって計画に乗ったのは、僕なんだし。それに実際、同じ女性だから女性の気持ちがわかるんですね、なんて感想が結構多くて……やっぱり、女性作家で売ってきたことが、短期間で一気に売れっ子になった要因の1つにもなってると思うよ」
 「そうかしら…」
 「そうだよ」
 宥めるように真理がそう言うと、突如、梨花の目が、キランと光った。
 「……ってことは、マリ君がこれだけ売れっ子になってファンを沢山抱えちゃってる今、海原真理が実は男だった、って世間にバレることは、出版社にとっては、大きな痛手よね? 清陵出版に限らず」
 「? あ、ああ…、そうだろうね」
 「…ふふふふふ」
 ―――何? その嬉しそうな顔。
 梨花の笑みに、背筋がちょっと寒くなる。案の定、梨花は、恐ろしいことを真理に提案してきた。
 「これは、チャンスよ、マリ君」
 「は?」
 「切捨て当然の新人時代ならまだしも、絶対手放したくない売れっ子になった今なら、もう大丈夫。マリ君、カミングアウトしましょう」
 「はっ!!!??」
 冗談かと思った。
 しかし―――冗談ではなかった。


 咲夜に読ませた原稿がボツを食らった、翌週。真理は、清陵出版に出向いた。そこには何故か、梨花も付き添っていた。
 同席したのは、真理の担当編集者と、連載を受け持っている雑誌の編集長、そして、真理がデビューするきっかけとなった公募の責任者だった。公募の責任者は、真理のデビューから8年を経て、いまや取締役の一員となっていた。

 「申し訳ございません…!」
 頭を下げる真理の隣で、梨花は、ハンカチで目元を押さえ、夫以上に深く頭を下げた。
 「真理さんは、悪くないんです。あたしが、御社の勘違いを面白がって、バカなことを…。そ、それに、女流作家としての方が成功するんじゃないか、と思ったんです。長年芽が出ず苦労してきた真理さんをずっと支えてきたからこそ、どうしてもあのチャンスをものにしたかったんです…っ!」
 ―――凄いなぁ…。僕でも信じちゃいそうだよな、これ。
 勿論、梨花の言うことは、嘘ではない。が、長年芽が出ず…のくだりは、明らかに嘘だ。確かに真理は、長年小説を書き綴ってはいたが、作家になることはとうの昔に諦めていた。仕事の気分転換に、いつもとは違うテイストのものを書いてみたら、結構面白かったから、公募に出してみた―――それが事実であり、デビュー目指して苦節何年、なんて想像とはかけ離れた、極普通のサラリーマンだった。むしろ、ビューティーアドバイザーとして独立することを夢見ている梨花を支える側の立場だったのだ。
 しかし梨花は、あえて「苦節何年の夫を支えた妻」を演じ、いかに切羽詰っていたかを訴える作戦に出た。しかも、さりげなく「御社の勘違い」という言葉を入れることで、そもそも原因はあんたたちが作ったんでしょう、とアピールすることも忘れなかった。
 「…すぐに訂正するつもりが、女流作家として、あっという間に売れてしまったものですから―――すみません、長年、欺くことになってしまって」
 真理も深々と頭を下げつつ、そう謝った。
 かなり、危険な賭けだ。下手をすれば、出版社を怒らせ、海原真理も辻村 喬も干されてしまいかねない。さて、どう出るか―――息を呑んで反応を待っていた2人に、まず最初に反応を返したのは、取締役となった公募の責任者だった。
 「あの―――海原さん。頭を上げて下さい。あなたが頭を下げることは、何もありませんから」
 「……」
 真理と梨花が顔を上げると、取締役は、苦笑とも何ともつかない笑みを浮かべ、隣に座る編集長2名と、何やらアイコンタクトをした。2人が頷くのを確認し、彼は、世にも恐ろしい事実を告げた。
 「海原さんが男性であることは、我々も、とうの昔に承知してたんです」
 「―――…は??」
 「と言っても、編集長以上の立場の人間だけ、ですが。…ほら、ご覧のとおり、担当の今泉君は、茫然自失でしょう?」
 確かに、一番端の席に座っている、担当編集者の今泉は、真理が男だと聞いた瞬間から、まるで瞬間冷凍されたみたいに、呆然とした顔のまま動かなくなっていた。それに比べ、編集長らは、いたって平静を保っている。
 「あ…あの、一体、いつから」
 「最初の連載をお願いした時です。当時の編集長が、もしかしたら、と思って、私に報告してくれたんです。今ほど個人情報に厳しくない時代でしたから、真相は比較的簡単にわかりました。けれど―――受賞作品を“新人女流作家”というあおり付で既に掲載済みでしたし、海原さんの方からも何も言ってこなかったので、編集長と私だけの秘密にしておいたんです。その後も、責任者の立場の人間には伝えておきましたが、一般社員は一切知らないままです」
 「…でも、それなら、気づいてることだけでも知らせてくだされば…」
 世間に秘密にするのは、まあ、いい。でも、真理本人には言ってくれても良さそうなものだ。すると取締役は、気まずそうな笑みを浮かべ、首の後ろを押さえつつ言った。
 「実は、私の知人に、性同一性障害の男性がいましてね。大変苦しんでいるのを見ているので、もし海原さんもそういう方だとしたら、指摘することがご本人を傷つける可能性もある。ですから、まあいいじゃないか、ということで、あえて指摘はしないことにしたんですよ」
 「……」
 「あ! 勿論、今は理解していますよ。奥様もお子さんもいらっしゃる、極平均的な男性であることは。女装されていたのは、飽くまで仕事のためですよね。わかっています」
 「……多大なお気遣い、感謝します」
 なんだか―――全部、どうでもいい気分になってきた。隣に座る梨花が、必死にこみ上げる笑いを抑えている気配がわかるから、尚更。
 と、その時、それまで固まっていた担当編集者の今泉が、唐突に我に返った。
 「あ、あのっ、編集長! ほ…本当に、ほんっっとうに、海原さんは男性、なんですかっ?」
 「そうだよ。ご本人もそうおっしゃってるじゃないか」
 「信じられません」
 今泉は、新しい情報完全拒否、といった頑なさで、きっぱりと言った。
 「だってホラ、今こうして見ても、女性にしか見えないですよ。背は高いですけど、この位の女性、結構いますし…。何十回と顔を合わせてきたのに、海原さんが男性だなんて、一度も思ったことないです。僕には到底、信じられません」
 「いやぁ…、そう言われても、ねぇ…」
 「―――じゃあ、証明させていただきます」
 今泉と編集長のやり取りを聞いていた真理は、意を決し、そう告げた。
 え、という顔をする出版社の面々の前で、梨花に目で合図する。頷いた梨花は、持参したものをドン、とテーブルの上に置いた。
 それは、ふき取りタイプの、化粧落としだった。
 「幸い、素顔を女性と間違われたことは一度もありませんので―――今すぐ、証明可能です。では…梨花さん」
 「はい」
 きゅっ、と真理が髪を後ろで束ねると同時に、梨花は笑顔でコットンパフを取り出した。

 その、結果。
 信じていた顔が、みるみるうちに別の顔へと変わっていく様子を目にしてしまった今泉は、驚きのキャパシティがついにオーバーしたらしく―――5分後、卒倒して、椅子から転げ落ちたのだった。


***


 「…そこの2人。ウケすぎにつき、イエローカード」
 ゲラゲラと笑い転げる奏と咲夜を睨み、真理はムッとした口調で言い放った。
 しかし、笑うな、と言われても、これは無理だ。奏にとっては、題材がメイクなだけにモロにツボだし、咲夜もこういう大どんでん返しは大好物である。
 「既に2社カミングアウト済みだけど、まだ正体バラしてない出版社の人間がここに出入りしてるし、辻村 喬と海原真理が同一人物ってことも、海原真理が実は男だってことも、世間には秘密のままにしよう、って申し合わせが出来てるんだからね。ウケるのはいいけど、うっかりリークしないように、頼むよ、ほんとに」
 「う…、うん。大丈夫。で、でも……うくくくく、奏、そんなに笑っちゃ失礼だってば」
 「お、お前こそ笑いすぎだろ。くっくっく…」
 お互いを小突きながらそう言ってはみるものの、笑いはさっぱり収まらない。笑いすぎて出てきた涙を拭いながら、まだ2人して転がっている。ため息をついた真理は、もうこの2人は放っておくことにした。
 奏や咲夜より早く笑いから復活していた優也は、すっかり冷めてしまったお茶を一口飲むと、ふと気づいたように眉をひそめた。
 「でも、マリリンさん。これからって、どうするんですか?」
 「どうする、って?」
 「その―――さっきの話だと、海原真理の仕事を減らして、辻村 喬の仕事をだんだん増やしたい、って思ってるんでしょう? そうするんですか?」
 「ああ…、うん。今抱えてる連載と、書下ろしが終わったら―――暫く、海原真理は活動停止、かな」
 「えっ。そうなんですか?」
 真理の答えに、優也ではなく、木戸が驚いた声を上げた。
 何故木戸が、と、真理や優也のみならず、ようやく笑いが収まってきたらしい奏と咲夜も、不思議そうな目を木戸に向ける。自分に集中する視線に、木戸は、焦ったような照れたような笑顔になると、気まずそうに頭を掻いた。
 「い、いやぁ…実は、今年中学に上がったうちの娘が、海原さんの大ファンで…。わたしも昨日、初めて知ったんですがね」
 「そ…、そうだったんですか」
 「あ、そうだ。後で是非、サインを」
 「ああ、それは構いませんが」
 「親の欲目じゃないですが、中1で海原さんのファンっちゅーのは、かなり珍しいと思うんですよ。まだ少女漫画ばかり読む年頃ですし、小学生で文庫本を手に取る子も少ないですしね。だから、娘の部屋に海原さんの小説が並んでるの見て、ちょっとばかし得意な気分だったんですが―――そうですか…暫く、活動停止ですか…」
 残念そうな木戸の言葉に、なんとなく、その場の空気がしんみりする。
 それに気づいた木戸は、慌てて湯のみを置き、豪快に笑った。
 「ハハハハ、すみませんね、親バカでどうも」
 「…っつーか、木戸さんに娘がいる、ってのが、どうにも想像つかないな」
 木戸の言葉を受ける形で、奏が苦笑を浮かべ、そう言った。
 「しかも、文学少女だろ? イメージじゃねー…。何人子供いるか知らないけど、全部男だと思ってた、オレ」
 「…僕もそう思ってました。だって、木戸さんのあの部屋のイメージじゃあ…」
 「あー、そっか。奏も優也君も、木戸さんとこ一度お邪魔してるんだよね」
 「何、部屋のイメージ、って」
 木戸の部屋の実情を全く知らない真理がそう訊ねたことで、その場の話題は、格闘技のポスターで埋め尽くされた木戸の部屋の話にシフトした。
 …いや、シフトさせてくれたのだ。奏も、優也も、咲夜も。その気遣いに、真理は、密かに感謝した。

***

 「…ま、どうぞ」
 「あ、こりゃ、どうも」
 真理が差し出したグラスを、木戸が受け取る。缶ビールを開けた真理は、そのグラスに、ビールを丁寧に注いだ。
 奏も咲夜も、そして優也も、既に自室に戻っている。101号室に残ったのは、真理と木戸だけである。なんとも妙な取り合わせな気もするが、立場を考えれば、一番自然でもある。
 木戸の方からも、真理のグラスにビールを注ぐ。2人は、軽くグラスを持ち上げて合図を交わすと、グラスの半分ほどまでの量を、一気に流し込んだ。
 「あー、やっぱり、エビスですねぇ」
 はーっ、と息を吐き出しながら真理が言うと、木戸も「同感ですなぁ」と機嫌よく答えた。が、その表情は、すぐにどこか気まずそうなものに変わった。
 「…今日はその、色々と、すまんことをしました」
 ちょっと済まなそうな顔で、木戸がぽつりと言う。少し目を丸くした真理は、グラスを置き、困ったような笑みを見せた。
 「いえ、そんな―――あんまり恐縮されても、困りますよ」
 「でも、娘の話は、余計なことだったでしょう」
 「……」
 そんなことはない、と軽く答えることが、真理にはできなかった。
 正直―――辛かった。海原真理の新作を期待しているファンがいる、ということは重々承知していて、その上で決めた今後の活動方針ではあるが……生の声をこうして聞いてしまうと、決心がグラつく。少し冷却期間を置かなくては、自分でも納得のいく恋愛小説を書けそうにない、と、真理自身が一番よくわかっているのに。
 「海原さんの辛い気持ちも考えずに…申し訳なかったです」
 「…いえ。ありがたいです。中学生のお嬢さんに読んでいただけて」
 「今度帰ったら、辻村 喬を勧めておきますよ。ハハ…」
 なるほど、それも一案だ。苦笑を交わした2人は、またそれぞれのグラスに口をつけた。

 「それにしても、羨ましいですなぁ」
 空になったグラスに、自らビールを注ぎつつ、木戸がそう言う。
 「羨ましい?」
 「奥さんの話ですよ」
 トン、とビールの缶を置き、木戸は、本当に羨ましそうな目で、真理の顔を眺めた。
 「海原さんのために、自分も頭を下げに行くなんて―――仲睦まじそうで、羨ましいですよ、ほんと」
 「…いや、あれは、自分にも責任があると思ったからでしょう。仲が悪い訳じゃないですが、まあ、普通の夫婦並みですよ、うちは」
 「またまた、ご謙遜を」
 「僕はむしろ、木戸さんが羨ましいですよ」
 真理のグラスも、空になった。不思議そうな顔になる木戸に、真理は苦笑いしながら、缶ビールを手に取った。
 「娘さんのことです」
 「……」
 木戸も、以前、真理の娘・杏奈(あんな)に会っている住人の1人だ。移り住んだアメリカでの生活に馴染めず、心を閉ざしてしまった、という事情も聞き及んでいる。自然、木戸の顔が、神妙な面持ちに変わる。
 「うちは、夫婦揃って、娘にどう接していいかわからず、困ってますから。…羨ましいですよ。中1といったら、そろそろ難しい年頃でしょうに、娘さんと今もちゃんとコミュニケーションを取れているようで」
 「…そうですか…」
 相槌を打った木戸は、そのまま、黙ってビールを一口飲んだ。そして、小さく息をつくと、ポツリと呟いた。
 「―――うちは、家内と上手くいってませんでね」
 「…えっ」
 思わず、目を丸くする。
 考えてもみなかった。毎週末のように、せっせと秋田に―――家族のもとに戻っている木戸だ。てっきり、家庭円満だと思っていた。
 「坊主や娘とは、我ながら、単身赴任をしている割には、いい関係を保ってると思うんですよ。でも……家内とは、なかなか。やっぱり、離れてるせいですかねぇ…。子供可愛さに秋田に戻ってはみるものの、家内と2人きりになると、どうにもぎこちないもんです。わたしも、家内も」
 「…そう…ですか…」
 奇しくも、木戸と同じ相槌になってしまう。でも―――それで、わかった気がした。このところ、週末だというのに、何故かこちらに留まっている木戸を何度か見かけた、その理由が。
 微笑を作った真理は、自分の側の缶に残っていたビールを、木戸のグラスに注ぎ足した。
 「難しいもんですね、どこの家も」
 そんな真理の気遣いに、木戸は、ちょっと驚いた顔をしたのだが。
 「本当に、難しいもんですなぁ…家族といえども」
 そう言うと、なんともいえない笑みを浮かべ、同じように、自分の缶のビールを真理のグラスに注いだ。


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