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「それは、昨日がバイトで、惜しいことしたなぁ…」
優也から前日の顛末を聞かされた蓮は、そう言って可笑しそうに笑った。
平日の月曜日だが、2人揃って今日は授業がない。午前中の講義が、教授の都合で別の日に移動になったからだ。そんな訳で、こんな昼間から、優也の部屋で笑い話に興じている、という訳だ。
「でも、穂積もちょっと納得じゃない?」
「確かに、ジャンル違うけど、似た文章だからな」
「最近、異様に忙しかったのは、辻村 喬の連載準備をしてたせいなんだろうな、きっと…。あんなに忙しくしてて、家族とゆっくりする時間とか、ちゃんと作れてるのかなぁ…」
「さっきの話の様子じゃ、上手くいってるみたいじゃないか」
優也が説明した、真理が梨花と一緒に出版社に頭を下げに行った話を指して、蓮がそう言う。勿論、優也もその感想には賛成だ。
―――でも、“夫婦”じゃなく“家族”で考えると……どうなのかなぁ。
真理の娘・杏奈が問題を抱えているらしいことは、まだ蓮には話していない。どのみち、よく事情を知らない自分が勝手に話していいような内容じゃない気がして、優也は「そうだね」と曖昧に相槌を打ち、自分の懸念については口にしないことにした。
「あ、もう昼過ぎてたんだな」
自分のノートパソコンの時計を見て、蓮がそう言う。優也も時計を確認し、既に正午を過ぎていることに初めて気づいた。
「どうしようか、お昼」
「ああ…、何も買い置きしてなかったな」
「…僕も」
食材を買うなり、外食するなり、とにかく出かけるか、ということになった。財布と携帯電話と鍵だけをポケットに突っ込み、2人は、優也の部屋を後にした。
ところが。
そんな2人のありきたりな昼食タイムは、鍵を閉めて10秒後、唐突に中断された。
「……あ、」
アパートのエントランスに出た瞬間、2人は、そこに住人とは思えない人影を見つけ、思わず足を止めた。
どこか迷いのある様子で、郵便受けの前をウロウロしていた後姿は、背後で止まった足音に気づき、ハッとしたように振り返った。その顔を確認した途端―――優也の心臓が、ドキン、と跳ねた。
―――あ…っ、あの子だ…!!
雨の中でうな垂れていた、あの日本人形みたいな女の子―――その後も見かけて、次に会った時は声をかけてみた方がいいのかもしれない、と密かに思っていた、あの女の子だ。
彼女は、何かを握り締めた右手を胸元に引き付けたまま、動揺した表情でまず優也を、次に蓮を見た。そして、蓮の顔を見た途端、その表情が、あっ、という顔になった。
それは、蓮の方も同じだった。彼女の顔をはっきりと確認するや、怪訝そうに眇められていた蓮の目が、少し驚いたように見開かれた。
「あれ、確か…」
「……っ」
見つかってはいけない人に見られてしまったかのように、彼女はクルリと踵を返し、逃げ出そうとした。あ、まずい―――そう思った優也は、反射的に、1歩踏み出していた。
「ま、待って!」
すんでのところで、バニティバッグを持つ彼女の左腕を掴むことができた。驚いたように振り返った彼女は、条件反射のように足を止めた。
我ながら、日頃の自分からは想像もつかない、行動力だ。自分のとった行動に自分で驚きつつも、優也は、掴んだ腕を離さないまま、蓮の方を振り返った。
「ほ…、穂積、もしかして知り合い?」
優也の行動に少し唖然としていた蓮は、優也に問われ、困惑したような顔で髪を掻き混ぜた。
「いや、俺の知り合いじゃない。一度、一宮さんの部屋に来てたのを見ただけだ」
「…ってことは…一宮さんの知り合いなのか…」
「秋吉こそ、知り合いなんじゃないのか?」
「僕は、その…、前に何度か見かけたから、アパートの前で。それで、見かけた時―――な…、なんか、泣いてるみたいだった、から」
「―――ちょっと、待て」
何かに気づいたのか、ふいに、蓮の目が鋭くなった。
優也と彼女のもとへと歩み寄った蓮は、彼女が右手に握り締めている物に一度目をやり、鋭い目のまま、彼女を見据えた。そんな目で睨んだら、女の子に怯えられちゃうんじゃあ…、と優也は心配したが、案の定、蓮に見据えられた途端、優也が掴んでいる彼女の腕が緊張したように強張った。
「今、何しようとしてたんだ?」
「……」
「…郵便受けに、何、入れようとしてたんだ?」
確かに、2人が見た時、彼女は間違いなく、一番端の郵便受けの前に―――101と201の郵便受けの前に佇み、明らかに、今手にしている物をそこに入れようかどうしようかと迷っているような様子だった。図星だったらしく、彼女の目がグラグラと揺れた。
その反応に、蓮の目が、更に鋭くなる。
「まさか、前に、咲夜さんのネームプレートに悪戯したのも…」
「……っ!」
蓮の言葉を最後まで聞かず、彼女は、自分の腕を掴む優也の手を振り解いた。
「あっ」
彼女は、再び踵を返し、急いでその場から逃げ出した。引きとめようと、優也がモタモタしている間に、蓮の方が素早く反応し、エントランスを抜けて通りに出た彼女に追いついた。
「は…、放して…っ!」
蓮に腕を掴まれた彼女は、その腕を引き剥がそうとして暴れた。慌てて後を追った優也が、蓮に、あまり女の子に乱暴な真似はするな、と忠告しようとした時、暴れる彼女の手から、バニティバッグが落ちた。
ドン、地面に落ちると同時に、がま口のような金口になっているバニティバッグの口が、ぱかっ、と開いた。財布やら携帯やらが派手にぶちまけられるのを見て、揉み合いになっていた2人も、はっとしたように止まった。
「あああ、携帯が…っ」
突然のことに固まる彼女と蓮をよそに、優也は慌てて地面にしゃがみこみ、まずは携帯電話を拾い上げた。幸い、外見上はどこも傷がついていない。そのことに少しホッとしつつ、バッグを拾い上げ、その中に携帯を戻した。
財布、ハンカチ、口紅……と、ぶちまけられた中身を素早くバッグに放り込んでいった優也は、最後に地面に残ったものを拾い上げ、その正体に、少し眉をひそめた。
それは、何かのカードらしく、淡いピンク色のプラスチックカードの裏に、油性ペンで名前が手書きされていた。
『姫川理加子』
「…ひめかわ…りかこ…」
姫、という字が、いかにも彼女の外見によくマッチしている、と思い、優也がくすっと笑う。すると頭上から、ひっく、としゃくりあげるような声が聞こえた。
仰ぎ見ると、蓮に腕を掴まれたままの彼女が、目にいっぱいの涙をためて、まるで子供みたいに、その綺麗な顔を歪めていた。
さすがの蓮も、泣かれてしまうと、厳しい態度には出られないのだろう。まだ腕を放しはしないものの、その表情は、さっきまでの険しいものから、困り果てたような顔に変わっていた。
―――僕だって…女の子に泣かれるなんて、困るよ。
でも、蓮に何がしかの対応を期待するのは、蓮が優也に向ける「なんとかしろよ」という視線からして、まず無理だろう。弱ったなぁ、とずれた眼鏡を直した優也は、カードをバッグに放り込み、パチン、と口を閉めた。
「…はい、これ」
立ち上がり、泣いている彼女に、バッグを差し出す。
涙で霞んだ目で、数秒、バッグを見つめていた彼女は、緩慢な動きで優也からバッグを受け取った。「ありがとう」と小さく呟かれた声に、少しだけ、優也の中に勇気が湧いてきた。
「…気になってたんだ。なんか君、凄く悩んでて、苦しそうに見えたから。いつも」
「……」
「僕らで、力になれるかどうか、わからないけど…」
話だけでも、してみない?
優也が滲ませたニュアンスに、蓮が、なんで俺まで、という顔をする。
その隣で、彼女は俯き―――そして、小さく頷いた。
***
結局、2人は、彼女をファミレスに連れてきた。
お昼は? と訊くと首を振ったので、3人一緒の「本日のランチ」580円を注文する。初対面から15分で、いきなり食事である。急展開に、優也は内心、ずっと焦りっぱなしだった。
―――それにしても…浮いてるなぁ…。
向かいの席に座る少女をチラリと盗み見て、つくづく、そう思う。
ランチタイムのファミレスには、サラリーマンや主婦、学生と思しき人物などなど、まさに老若男女が揃っている。が―――その中で、彼女だけが異様に浮いている。石ころの中にダイヤモンドが混じってるみたいな浮き方だ。
「……おい」
「えっ」
隣に座る蓮が、優也の二の腕の辺りを、肘で小突く。
何? という目を優也がすると、焦れたような顔になった蓮は、無言のまま、顎で向かいの席を示した。…ようするに、この気まずい沈黙をなんとかしてくれ、ということらしい。
注文をしたばかりなので、ランチが運ばれてくるまで、まだ少しの時間がかかるだろう。それまでずっと、こうして全員俯いたまま、というのは、確かに気まずすぎて居心地が悪い。それに、彼女を連れてきてしまったのは、間違いなく優也だ。意を決した優也は、一度唾を飲み込み、彼女に向き直った。
「あ…、あの…っ」
優也の声に、彼女が顔を上げる。
アンティークドールのような大きな目に真正面から見つめられ、一瞬、声を失う。が、なんとか気力を奮い立たせ、優也はぎこちない笑みを無理矢理顔に貼り付かせた。
「ご…ごめんね。なんか、強引に連れて来ちゃって」
ちょっと上ずり気味な優也のセリフに、彼女は、神妙な表情のまま、ふるふると首を振った。
「え…ええと、僕は、あのアパートの1階に住んでる大学生で―――あ…秋吉、優也。こ、こっちは、2階に住んでる、僕の大学の友達」
「……」
優也に向けられていた彼女の視線が、隣の蓮に移る。彼女と目が合った蓮は、黙ったまま、申し訳程度に頭を軽く下げた。それだけじゃダメだろ―――優也はたしなめるような目で蓮を軽く睨み、彼が着ているシャツの袖をぐい、と引っ張って合図した。
「……穂積、蓮」
渋々、といった口調の蓮の自己紹介は、初対面の女性に対してそれはないだろ、と言いたくなるほど、ぶっきらぼうだった。ああもう、と、優也は頭を抱えたくなった。
でも、彼は彼女に対して、以前発生した郵便受けの悪戯事件についての疑いを持っているらしい。何故そう思ったのかは、よくわからないが―――優也とはまた違う下地が彼女に対してある様子なので、もっと愛想良くしろ、と蓮に苦言を呈する気にもなりきれなかった。
「えっと、それで……君は?」
とりあえず、お互いの正体がわからないことには、と思い、改めて訊ねる。
蓮を複雑な表情で見つめていた彼女は、優也の問いに、再び視線を優也に戻した。そして、脇に置いていたバニティバッグを手にすると、中から名刺入れらしきものを引っ張り出し、そこから1枚抜き取ってテーブルの上に置いた。
『ワダエージェンシー 所属モデル 姫川リカ』
「モデル…」
「…雑誌やポスター専門で、テレビや舞台には出てないけど」
言われて、納得。ただ綺麗なだけじゃなく、華やかな世界で仕事をしている人間のオーラ、とでもいうのだろうか。そういうものが、彼女を一般人の中から浮き立たせていたのだ、と。
「あれ? でも、さっきのカードに書いてあった名前…」
ふと不思議に思い、優也が呟くと、彼女の表情が少し曇った。
カードの文字までは見ていなかった蓮が、何のことだ、という視線を優也に向ける。その問いかけに優也が答えるより早く、彼女がさっきのカードを取り出し、名刺と並べるように置いた。
「…本名は、姫川理加子。モデルになった時、本名のままにしよう、って話もあったんだけど―――“リカコ”って名前の有名なモデルさんもいるし、それに、あたしには“リカ”の方が似合うから、って事務所の人に言われたの」
「似合う……かなぁ?」
どうだろう、という目を蓮に向ける。が、さぁ? という目を返されてしまった。
すると彼女は、ふっ、と皮肉めいた笑みを、僅かに口元に浮かべた。
「リカちゃん人形、って、あるでしょう?」
「……」
「…あたしのモデルとしての最初の仕事、人間に人形を演じさせた写真集だったの。お人形さんモデル―――そんな風に呼ばれて、だったらリカちゃん人形にあやかって“リカ”にしよう、って」
「リカちゃん……か」
多分―――その呼び名に対して、彼女はかなり屈折した思いを抱えているのだろう。暗い目元と歪んだ口元に、それがはっきりと現れている気がした。
「じゃあ、ええと―――理加子さん、でいいの、かな」
遠慮がちに優也が確認すると、彼女は少し驚いたような顔をした。が、すぐに、どことなく嬉しそうな笑顔になり、小さく首を振った。
「理加子、って呼び捨てがいい」
「でも…」
「さん、なんてつけてもらうほど、ちゃんとしてないから」
―――いや、でも……さすがに、いきなり呼び捨て、って…。
目上目下関係なく、女の子を呼び捨てにしたことなど一度もない優也は、困ったような目で蓮の方を見た。すると蓮は、いいんじゃない、とでも言いたげに、肩を竦めた。蓮は、特に抵抗を感じないらしい。
「…穂積、女の子を呼び捨てにしたことって、ある?」
「あるよ」
「…そっか」
ちょうどそこに、注文したランチが運ばれてきた。それで一旦、話は中断となった。
―――“リカちゃん”かぁ…。
ランチのハンバーグを口に運びながら、気づけば優也は、無意識のうちに理加子の様子をチラチラと確認していた。
向かいの席で、優也や蓮の半分のペースでハンバーグを食べ続ける理加子は、確かに、見た目が人形チックだ。真っ黒なおかっぱ頭、病的なまでに白い顔―――海外の人形メーカーが日本人をモチーフにした人形を作ったら、多分こんな顔になるんじゃないか、とさえ思える。
まさしく、リカちゃん人形。完璧なまでの美貌に、一瞬、見惚れてしまいそうになる。でも―――理加子が先ほど見せた暗い表情に、優也は、理加子の強烈なコンプレックスを感じ取っていた。
優也自身、自分の見た目は、あまり好きではない。絶世の美男子になりたいとは思わないが、もう少し垢抜けた、スマートな外見に生まれたかったな、とつくづく思う。そんな優也から見たら、理加子の美貌は、羨ましいとしか言いようがない。
―――なのに、本人にとっては、この外見がコンプレックスなんだよなぁ…。
これだけ綺麗なら、鏡を見てうっとりできるんじゃないか、とすら思うのに―――結局、自分の外見に酔いしれる本物のナルシストは、外見の美しさの問題じゃなく、心の問題なのかもしれない。
「…で? 今日は、何してたんだ」
長い沈黙の後、理加子のランチプレートがほぼ空になるのを見計らって、蓮がそう訊ねる。
付け合せのコーンを口に運んでいた理加子は、その言葉にピタリと手を止め、窺うような目で蓮をチラリと見た。
「こんな時間に、一宮さんが家にいる訳ないだろ。何しに来たんだ?」
「……」
迷うように、理加子の瞳が揺れる。が……言い逃れは無理と観念したのか、フォークを置いた理加子は、囁くような小さな声で答えた。
「…手紙…」
「え?」
「手紙を、郵便受けに入れようかどうしようか、迷ってたの」
「…誰に」
「―――咲夜さんと、一宮さんに」
「……」
「謝りたくて……とにかく謝りたくて、何度も何度もアパートまで行ったけど―――でも、二度と会わない、って言われてた、から。咲夜さんに会うことも許さない、って。だから…だから、いつもいつも、アパートの前までしか行けなくて」
「…それって、咲夜さんの郵便受けの名前、ビリビリに破ったことに対するお詫びか?」
冷ややかな蓮の声に、思わずギョッとして、蓮の方を見る。
悪戯があった、という話は聞いていたが、名前をビリビリに破られた、なんて詳細は、今初めて聞いた。さすがに、悪質すぎる。まさかそんなことを、この子がしたなんて―――信じられない、という気持ちで理加子に目を向けたが、理加子の表情は、今の蓮の言葉を否定するものではなかった。
「…それも、あるけど…」
歯切れ悪くそう答え、理加子は視線を落とした。
「でも……それだけじゃ、ない」
「…だろうな」
ため息とともに、蓮が呟く。確かに―――たった1度の悪戯ごときで、あの奏が、咲夜に会うことすら許さない、とまで言う筈がない。
「じゃあ、会ってお詫びができないなら、ってことで、今日、手紙を入れに来たの?」
優也が確認すると、理加子はためらいつつも頷いた。
「そうすればよかったのに…」
「…読まずに破り捨てられる気がしたの。その位、一宮さん、怒ってたと思うから」
「―――何やらかしたんだ、一体」
少し呆れたような声で蓮が訊ねると、理加子の視線がますます下がった。
そのまま、暫し、黙り込む。うな垂れた理加子の肩が、微かに震えているように見えた。
「…あ、あの…、無理に話すことないよ? 君が謝りたいのは一宮さんと咲夜さんで、僕らじゃないんだし…」
いたたまれなくなって優也が思わずそう言うと、理加子はハッと顔を上げ、何度も首を振った。
「う、ううん、聞いて欲しいの」
「……」
「…誰かに、聞いて欲しかったの」
そう言うと理加子は、ぽつりぽつりと、彼女が背負ってしまった重荷について語り出した。
そして、全てを聞き終えた時―――優也は、その内容の重たさに、聞いてしまったことを少し後悔した。
***
3人の間に、暫しの間、沈黙が流れた。
食べ終えたランチの食器は、とうの昔に片付けられ、テーブルの上には、アフタードリンクで注文したコーヒーと紅茶だけが、3つ置かれていた。だが、いずれのカップの中身も、半分も減らないうちに、すっかり冷たくなってしまった。
理加子は、すっかりうな垂れ、体を小さく縮めている。何か言ってあげるべきだとは、思うのだけれど……かけるべき言葉が見つからず、優也も途方に暮れていた。
奏が、残酷とも言えるほどに、完全に理加子を拒絶してしまったのも、無理はない。賭けのことはともかくとして―――ハルキとかいう名前の男が計画したことは、完全に犯罪行為だ。咲夜の機転があと少し足りなかったか、運が味方してくれなかったら…と考えると、さすがに背筋が冷たくなる。未遂に終わったんだからいいじゃないか、とは、到底言えないレベルの話だ。
でも……理加子にも、気の毒な面はある。ハルキの計画は、理加子も知らないところで立てられたものだし―――すっかり打ちひしがれている理加子を見ていると、奏の怒りを理解する一方、そこまで責任を感じなくてもいいよ、と言ってやりたい気もする。
「―――…くだらない」
結局、沈黙を破ったのは、蓮の吐き捨てるような一言だった。
不愉快そうに眉を顰めた蓮は、すっかり冷めてしまったコーヒーを口に運び、大きなため息をついた。そして、心底うんざりという顔をして、顔を上げない理加子を冷ややかに一瞥した。
「人の男を横取りしたくてあれこれ画策した挙句、それがバレて嫌われた―――つまり、そういうことだろ。バレなかったら、上手くいって一宮さんの彼女になれるとでも思ってたのかよ。馬鹿馬鹿しい」
「お…おい、穂積」
あまりにも突き放した言い方に、また蓮の袖を引っ張る。一方、理加子の方は、気丈に顔を上げると、まだ涙が止まりきらない赤い目で、キッ、と蓮を睨んだ。
「そんなこと、思ってなかった…! あたしは、愛とか恋とかそういうんじゃなく、ただ一宮さんと、」
「あんな時間に、男の一人暮らしを1人で訪ねておいて、下心ゼロって言うのかよ」
「なかったもんっ! 言ったでしょ? 払わせちゃった飲み代を返すためだ、って」
「その何日か後に仕事で顔合わせる予定だったんだろ? わざわざ夜に、しかも咲夜さんの留守を狙うみたいに行く正当な理由がどこにあるんだよ」
「狙……っ、ひ、酷いっ。狙ってなんかいなかったわよっ。咲夜さんが留守だったのは、偶然なんだから…! あたしはただ、酷い醜態見せちゃったのが恥ずかしくて、1日も早くお金を返さなきゃって、そればっかり…。お店に来るなって言われてたし、電話したら断られそうだったんだもの。仕方ないでしょ!?」
「ああ、またそれか」
苛立ったようにそう言うと、蓮は髪を掻き毟り、背もたれにドサリと勢いよく沈み込んだ。
「連絡が来ないから、届け物をしたんだから、断られないためにはこれしかないんだから―――あれだからこれだから。自分の行動を正当化する理由をあれこれ挙げ連ねて、だから下心はありません、って自分で自分に言い訳してばっかりだな」
「……っ…」
理加子の表情が、凍りつく。
反論しようと開きかけた唇が、微かに震える。大きく見開かれた目が、だんだん落ち着きを失ってきていた。
「俺と咲夜さんが帰って来たの見つけた時。邪魔な奴が帰って来た、って思っただろ。…そういう目してた」
「……」
「邪魔な人間を陥れたり、欲のために嘘ついたり媚売ったりする奴も、大嫌いだけど、その欲があることすら認めず自分を正当化する奴も、同じ位嫌いだ」
「…穂積、」
―――もう、やめてあげなよ。
もう一度強く、蓮の袖を引く。
この理加子の表情の意味に、気づかない蓮ではない筈だ。…理加子は、本気で、わかっていなかったのだ。奏と会う機会を作るたび、「会いたい」という理由を隠蔽するかのように、もっともらしい理由をあれこれ挙げ連ねていた自分の、本当の気持ちが。
今、初めて、気づいたのだろう。
恋じゃない、と言い、そう信じていた、この感情が―――恋である可能性に。
「あ……っ、あのっ! ぼ、僕は、君の言うことが全部“自分を正当化するための嘘”だったとは、思わないよ?」
急速にムードの悪くなる2人の間に割って入るように、優也は、いつもより早口気味に告げた。
「モデルの先輩として尊敬してたのは、間違いなく本当だろうし、自分を理解してくれる貴重な人だ、って感じて慕ってたのも、本当のことだと思うよ。“好き”には、いろんな種類があるし、いくつもの“好き”が並行して存在することだって、あると思う……っていうか、今ある“好き”を、1種類の“好き”で表せる人なんて、ほとんどいない、と、思う」
「……」
「…君はただ、今ある“好き”の中に、“男の人として好き”があるとは気づいてなかっただけなんだよ。ううん―――気づきたくなかったんだよ、きっと。一宮さんには、咲夜さんがいる…か、ら…」
「……」
―――…う…、うわ、な、何言ってるんだ、僕はっ。
勢いでまくし立ててしまったが―――こんなことを言えるほど、恋愛経験なんて積んでいないのに。いや、それどころか、女の子と付き合った経験すらないのに。偉そうにいっぱしの恋愛論を力説してしまった自分が恥ずかしくなって、優也の頭は、一気にカーッと熱くなった。
「ご…っ、ごめん。何も知らないのに、え、偉そうなこと…」
真っ赤になった優也がそう言うと、理加子は目を僅かに伏せ、首を緩く振った。
憮然とした顔の蓮は、疲れたようにため息をつき、またコーヒーカップを口に運んだ。優也も、焦りと緊張で喉がカラカラになっていることに今更気づき、氷が融けてしまった水を一気にあおった。
「…あたし、家が、大嫌いだったの」
目を伏せてしまった理加子が、ぽつりと切り出す。
窓の外に目を向けていた蓮は、眉をひそめて理加子の方を見、水のおかわりを頼んでいた優也は、話の流れが見えず、少しキョトンとした顔をした。
「うちの両親、家庭より仕事第一の人なの。2人とも一流企業の社員で、夜遅くまでお仕事―――仕事で海外に出張することも多くて、もの心つく前から、家には、あたしとおばあちゃんだけ。高1におばあちゃんが亡くなってからは、ほとんどあたし1人…。休みの日も、全員揃うことなんて稀だった。おばあちゃんと2人きりでお正月迎えた年だってあったくらい」
「……」
「おばあちゃんもね、趣味に生きてる人で、あたしが小さいうちは、いつも家に人呼んで、あたしは大勢のおばさんの横で、1人で絵本眺めてたの。あたしが小学校に上がってからは、出かけてることが多かったな…。おじいちゃんが残した株が高騰して裕福だったから、あたしが駄々捏ねれば、何でも買ってくれた―――でも、授業参観には一度も来なかった。若いお母さんに混じって、1人だけおばあさんじゃ嫌でしょ? って。…両親もね、いつも寂しい思いさせてごめんね、って、外国行くたびにお土産買ってくれた。みんな、みんな……一緒にいて、って願い以外なら、何でも叶えてくれた」
…どう相槌を打っていいやら、困る話だ。
家庭より仕事、という両親に、孫には甘い代わりに趣味人で外出も多かった祖母―――放っておかれる寂しさと、お金で買えるものなら惜しみなく与えられる贅沢さ。そんな理加子の子供時代が、容易に目に浮かぶ。子供が人生の中心、みたいな両親を持つ優也とは、まるで逆の立場だろう。
「…あたしね、子供の頃、どうやって友達作ればいいか、わからなかったの。だって、今までは、お金を払えば欲しいものが手に入ってたんだもの。友達は、お金じゃ買えない―――幼稚園では、ずっと1人だった」
そこまで言うと、理加子は大きく息をつき、どこか自嘲めいた笑みをふっと漏らした。
「だからあたし、モノで、友達を買ってたの」
「モノ…?」
「小2の時ね、前の席に座ってた嫌味な子が、みんなに珍しい人形を自慢してたから、“リカだって持ってるもん”って言ったの。嘘つき、って言われたから、みんなを家に連れてった―――面白かったぁ…、あの時の、みんなの顔。高くて買ってもらえないおもちゃや外国のお人形、綺麗な洋服がいーっぱい並んでるの見て、今朝まであたしを無視してた子たちが、そんなこと忘れたみたいに目をキラキラさせて…」
「……」
「次の日からは、みんな、あたしの家に遊びに来るようになったの。頼まれれば、お人形や洋服を貸してあげたりもした。みんな、あたしの周りに集まるようになった―――こっちが頼まなくても、ね」
「…殺伐とした話だな」
それまで黙って聞いていた蓮が、ボソリと呟く。…全く、蓮の言うとおりだ。
理加子も、それはわかっているのだろう。自嘲めいた笑みが、余計暗い影を帯びた。
「…大きくなってからも、同じよ。お人形や洋服が、周囲に一目置かれたいから、とか、お目当ての男の子と親しくなるチャンスが欲しいから、なんて理由に変わっただけ―――中学上がる頃には、男の子の間であたしのファンクラブが出来てて、あたしに一番近い位置にいる女の子は、親衛隊なんて呼ばれてそれだけで憧れられてたりしてたから。男の子も、そう……一番手近なアイドルであるあたしと親しくなれると、女の子はいっぱいいるし、親しくなれない連中に自慢もできる。…友達を買うための対価が、モノから自分の外見や肩書きに変わっただけよ」
「…そんな…」
「大嫌いだった。学校なんて」
怒りすら滲ませた声で言うと、理加子は急に寂しげな表情になり、うなだれた。
「でも―――誰もいない家に帰るのも、同じくらい、大嫌いだった」
「……」
「友達は“買えた”けど、お父さんやお母さんは、どうしたらあたしの方を向いてくれるんだろう? わからなくて…一生懸命勉強したり、逆に心配させてやろうと夜遊びしてみたり―――でもね。テストの点数が良ければ、笑顔で褒めてくれて、お金を渡されるの。好きなもの買っていいよ、って。点数が悪くても……次頑張ればいいよ、って言って、慰めてくれるの。夜遊びしても、理加子はもう大人だから、ある程度の自由は必要だ、お父さんとお母さんは理加子を信用してる、なんて言うの」
「……」
「…今でも、わかんない。どうすればいいのか」
ただ、こちらを向いていて欲しいだけ。
生きがいだと言い、生活のほとんどを傾けている仕事より、理加子の方が大事だ、と言葉じゃなく態度で示して欲しいだけ。
必死に親の関心を惹こうとする理加子は、優也に、子供時代の自分を思い起こさせた。質は違えども、親に愛されたい、と、ただそれだけのために必死になっている姿は、なんだか似て見える。
「だから……一宮さんは、特別だったの」
一瞬、ノスタルジーに浸りかけた優也は、奏の名前に、はっと現実に戻った。
理加子の大きな目から、ぽたん、と涙が落ちる。震えてしまう唇を押さえるように、手を口元に当てた。
「両親以外では、初めてだったの―――認められたい、こっちを見て欲しい、って、そう思えた相手は。…一宮さんに褒められると、嬉しかった……怒られても、あたしのためを思ってくれてるんだ、って感じて、嬉しかった。昔、テストで100点取った時、お父さんやお母さんから褒められて抱きしめられた時と同じくらい、嬉しくて、嬉しくて―――だ…だから、あたしの一宮さんに対する気持ちは、きっと、お父さんやお母さんの代わりを求める気持ちに近いんだ、って、あたし、そう思って…っ」
「わ…、わかるよ。大丈夫、わかるから」
上ずり始める理加子の声に焦り、優也は、半ばオロオロした声で、そう言って理加子をなだめた。
「人の心なんて、1種類の言葉で表せるもんじゃないんだし…っ。ぼ、僕も小さい頃、近所の優等生と親に比較されると、凄く嫌だったし、優等生の子のこと、あんまり好きになれなかったし」
けれど理加子は、優也の言葉に何度も首を横に振った。
「違う…っ。あ、あたし、さっき、気づいたの。もし、あたしが一宮さんに“モデルとして認めてもらいたい”と思っているだけなら、他の男性モデルを褒めた時こそ、一番嫉妬を感じなきゃいけない筈だ、って。…あたし…一宮さんが絶賛したモデルさんに、これっぽっちも嫉妬しなかった。嫌な気分になったのは、嫉妬を覚えたのは、いつも……いつも、女の人だけ、だった」
「……」
「…それって、“女として認めてもらいたい”ってこと、なんじゃない…?」
人形のような大きな瞳が、すがるように、優也と蓮の顔を順に見つめる。
…そのとおり、としか、言いようがない。優也は困ったように眉を寄せ、蓮は相変わらず憮然とした表情で窓の外に視線を逸らした。
「…あたしって、最低…っ」
ひっく、と大きくしゃくりあげた理加子は、涙が止まらなくなってしまった両目を、手の甲で覆った。
「じ…自分自身のことなのに、なんで、気づけなかったんだろう…? 取り返しのつかないことになってから、こ、こんな…っ…」
―――もし、もっと前に気づいてたら……どうする気だったのかな。この子。
慰める言葉も見つからず、泣きじゃくる理加子を途方に暮れて眺めながら、優也はふと、頭の片隅でそう考えた。
どのみち同じ結果になってたんじゃないか、という気もするけれど……案外、咲夜に遠慮して、遠くから眺めるだけったのかもしれないな、という気も、少しだけ、する。
でも、何故、そう思うのか―――その理由は、まだ、優也自身にもわからなかった。
***
「…ごちそうさまでした」
ファミレスの外で、そう言って頭を下げたのは、理加子ではなく、優也と蓮の方だった。
本当は、おごってもらう気など微塵もなかったのだが、理加子が頑なに「あたしが全部払う」と言い張ったため、こういう結果になった。女の子におごらせるなんて、と優也は大いに恥ずかしかったのだが、蓮が比較的あっさり「わかった」と言ってしまったので、1人だけ最後まで抵抗する訳にもいかなかったのだ。
「2人は、大学生で、一人暮らしなんでしょ? …あたしは自宅住まいだし、一応働いてもいるから、こんなの当然よ」
パチン、とバニティバッグの口を閉め、理加子はそう言って、微かに笑った。もう泣いてはいないが、その目は、さすがに赤くなっていた。
「…目、赤いけど…仕事は大丈夫?」
体が資本の仕事なだけに、ちょっと心配になる。眉をひそめる優也に、理加子は苦笑を返した。
「大丈夫。…びっしり仕事が入ってるほど、売れてる訳じゃないの。次の撮影は木曜日だから」
「そっか…」
「じゃあ―――あたし、帰るから」
どこかためらいを残したような口調でそう宣言すると、理加子は背筋を伸ばし、2人にしっかりと向き直った。
「やっぱり、ちゃんと謝らないと、気持ちに区切りがつかないから……もう少し、考えてみる。どうすればいいか」
「……」
「…話、聞いてくれて、ありがとう」
ぺこり、と頭を下げる。
そして、明らかに作り笑いとわかる笑顔を2人に向けると、理加子は踵を返し、その場を立ち去ろうとした。
―――…が。
「ちょ…っ、ちょっと、待って!」
ほとんど、無意識だった。反射的に、呼び止めた。
驚いたような顔で振り返った理加子に、喉まで出かかった言葉が、一瞬、詰まる。それでも、しっかりしろ、と自分を奮い立たせた優也は、思い切って理加子に告げた。
「あ、あの……っ! ま、また、遊びに来てくれて、構わないからっ」
「…え…っ」
「だ、だから、その―――もし、今日みたいに話がしたくなったり、誰もいなくて寂しくなったら……大したこと、できないけど、僕が…」
「……」
「僕が、君の、友達になるから」
理加子は、びっくりしたように目を見開いたまま、暫く言葉を失っていた。
が、やがて、優也が本気で友達になってくれようとしているのだ、と理解したのか、その表情がほころんだ。
「…あたしの友達になっても、多分、何の得にもならないよ…?」
少し泣きそうな声で理加子が口にしたセリフは、さっき聞いた話からくる、自分を卑下した皮肉なのだろう。優也は、最大限の努力をして、自分にできる限りの明るい笑顔を作った。
「僕、穂積しか友達いないから。…友達が1人増えるのは、僕にとって、お金に換算できないくらいのプラスだと思う」
「……ありがとう」
―――…あ。
理加子が見せた、嬉しそうな微笑に、優也は一瞬、ドキリとした。
よく出来たお人形のように見えて仕方なかった理加子だが……今、見せた笑顔だけは、とても人間ぽくて、血が通っている感じがしたのだ。
なんだか、急激に、あがってきた。ドキドキしだす心臓に、優也の声は、若干裏返り気味になってしまった。
「え…ええとっ、よ、夜は、さすがにまずいと思うけど、ひ…昼間で大学のない時なら、いつでもいいからっ」
「うん。わかった」
にっこり笑ってそう返事をすると、理加子は優也に、じゃあね、と手を振った。そして、優也の斜め後ろに立つ蓮にも目をやり、軽く頭を下げた。
再び踵を返した理加子は、さっきまでより幾分軽い足取りで、駅の方へと去って行った。その後姿を見送りながら、優也は、ようやくドキドキが治まっていくのを感じた。
「―――意外に行動派だよな、秋吉も」
アパートへとぶらぶら帰る道すがら、蓮が、どことなく呆れたような口調で呟いた。
「女の子の前だと緊張する、なんて言ってた割に…」
「…うん。自分でも、びっくりしてる」
今でも、ちょっと信じられない。この自分が、今日初めて話をした女の子に、自分の方から「友達になろう」なんて。
「秋吉の好みにあれこれ言う気はないけど……友永さんといい、あの子といい、案外秋吉って外見重視派かもな」
サラリと蓮が口にした言葉に、優也はギョッとして、慌てて隣を歩く友人の方を見た。
「ち…っ、違うってっ! そ、そりゃ、こんな綺麗な子、見たことない、とは思ったけど……そういうのとは、全然違うから!」
「そうなのか?」
心底意外、という顔で、蓮が少し目を丸くする。…どうやら、本気で、優也が理加子に一目惚れでもしたと思っていたらしい。
「秋吉があんまり熱心だから、てっきりそうかと思ってた」
「……違うってば……」
気恥ずかしさと気まずさに、優也は若干顔を赤らめながら、ぽつぽつと反論した。
「僕自身、子供の頃から友達がなかなか出来なくて、苦労したタイプだから。…親の話もさ、お父さんに怒られたくない一心で必死に勉強してた自分を思い出しちゃって、なんか―――色々と、親近感覚える話だったんだ。あの子の話って。それに、お酒に薬混ぜた事件のことについては、勿論責任ゼロとは言わないけど、あの子が全然知らないところで起きてた話な訳だし……ちょっと、可哀想な部分もあるだろ? だから、なんていうか…同情、しちゃって。放っておけないなぁ、って思ったんだ」
「…同情、か」
小さく相槌を打った蓮は、何事かを考え込んでいるかのように、真っ直ぐに前を見つめた。そして、暫しの沈黙の後、ボソリと呟いた。
「俺と秋吉では、立場が違うからな」
「……?」
立場?
意味がわからず、眉をひそめる。蓮は、前を見つめたまま、考えをまとめながら喋るみたいに、ゆっくりした慎重な口調で続けた。
「…俺は、郵便受けの名前がビリビリに破られて、郵便受けの中に放り込まれているのを、この目で実際に見てる。薬飲まされた咲夜さんがどんな状態になったかも見てるし、あいつが一宮さんの部屋訪ねてきてるところに、フラフラになった咲夜さんが帰って来た、その場面にも居合わせてる。だから―――どうしても、同情より、憤りが強いんだ」
「…そ…それは…」
「だって、想像してみろよ。危険な薬を飲まされて…今、まさに、歩くのがやっとの状態になってた咲夜さんが、帰ってきて一番に見たのが、自分を危険な目に遭わせている諸悪の根源が、あんな時間に、まるで自分の留守を狙ったみたいに、一宮さんを―――自分の恋人の部屋を訪ねてきている場面だったんだぞ? 親しそうに話してる2人見て、咲夜さんがどんな気持ちだったか……想像、できるか?」
「……」
「…それでもあの人は、黙ってたんだ」
少し掠れた声でそう言うと、蓮は軽く唇を噛み、僅かに俯いた。
「飄々として見える人だけど……あの状況であの場面見せられて、平然としていられるほど、強い人じゃないと思う。なのに、1人で抱え込んで、じっと耐え忍んでたんだと思うと―――あいつにどんな気の毒な背景があったとしても、俺は、あいつに同情しきれない」
「……」
2人の間に、沈黙が流れた。
蓮の横顔を、複雑な表情で見つめ続けていた優也は、やがて唾をこくん、と飲み込み、口を開いた。
「じゃあ、穂積は―――僕があの子と関わらない方が良かった…?」
どことなく不安を滲ませた優也の声に、蓮は、少し驚いたような顔で、優也の方を見た。そして、声のとおり、優也の目も不安げに揺れているのを見て、その表情を僅かに和らげた。
「…秋吉には、秋吉のスタンスがあるだろ。俺とは関係なく」
「……」
「俺は、あの子と友達になれない気がするけど―――秋吉だけでも友達になってやれば、それでいいんじゃないか?」
「……良かった」
ほっ、と息をついた優也は、安心したような笑みを浮かべ、再び前を向いた。
そう―――蓮の言うとおりだ。
蓮と自分とでは、スタンスが違う。咲夜がどんな状態だったかをこの目で確認したくても、今からそれをするのは不可能なのだし、蓮にしたって、見てしまった事実を無視することなどできる筈がない。同じ出来事であっても、それに関わった土台から既に違うのだから、2人の感じ方が違っていても当たり前なのだ。
蓮は、蓮のスタンスを貫けばいい。
そして優也も、自分のスタンスを―――理加子を助けてやりたい、という気持ちを実践すれば、それでいいのだ。
―――…でも…。
チラリと、蓮の横顔を、盗み見る。
前を向いて歩く蓮の横顔は、普段となんら変わりはないように見える。
「…あのさぁ…穂積」
「ん?」
蓮の目が、こちらに向けられる。
目が合った途端―――口にしようとした言葉が、喉の奥に詰まった。
「う…ううん、なんでもない」
「?」
不思議そうな目をする蓮に、優也はぎこちない誤魔化し笑いを返し、視線を前に戻した。
―――あのさぁ…穂積。
もしかして……咲夜さんのこと、好きなの?
ただ、なんとなく、そう思っただけのこと。
でも、ただなんとなく、という程度のことで、こんなことを軽々しく訊いてはいけない気がして―――優也は、喉の奥に詰まった言葉を、静かに飲み込んだ。
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