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― 誰にも言えない(後) ―

 

 『位置に着いてー。ヨーイ……』

 パーン、と、乾いた音がグラウンドに響く。
 声援が飛び交う中、体操服姿の5年生女子が、一斉に駆けて行く。背丈も体格もバラバラな女子生徒の中、先頭に立ったのは、一番外側のコースを走っている子だった。
 他の女子に比べて、高い背、格段に長い手足。体格だけ見れば、中学生で十分通るだろう。日焼けした肌といい、思い切ったショートヘアといい、女子用の体操服を着ているから女の子とわかるが、下手をすれば同学年の男子と見間違われそうだ。

 速い、速い―――彼女はぐんぐん他の生徒を引き離し、余裕の差をつけてゴールに駆け込んだ。
 「蓮ーっ! やったぞ! 見てたかーっ!?」
 3年生の集団に向かってそう言った彼女は、得意げに1位の旗を振ってみせた。そんな彼女に、同じクラスの女子生徒が群がり、きゃあきゃあと黄色い声をあげた。
 「和美ちゃん、“れん”って、誰?」
 「もしかして、あそこにいる小さい子? かわいー。弟?」
 「違うよ。蓮は、あたしの子分なんだ」


 足が速くて、体も大きくて、何をやらせても蓮より上手で。
 敵わない―――絶対に追い越すことのできない、大きな存在。

 幼い頃の蓮にとって、和美は、尊敬し目標とする存在で―――反抗できない、大親分だった。


***


 「なんだ、要君、いないじゃん」
 穂積家のダイニングテーブルの一角に座った和美は、蓮から受け取ったカップアイスの蓋を開けつつ、きょろきょろと辺りを見回した。
 「遊びに行ってるのかな」
 「多分、学校なんじゃないかな」
 「えー? 夏休みなのに? 受験生は大変なんだなぁ」
 和美の向かいに座った蓮の手には、少し甘さ控え目の、コーヒー味のアイスキャンディーがあった。和美が好んで食べるバニラアイスは、蓮の好みからすると、少々甘すぎるのだ。
 アイスを食べる2人の傍らには、さっき学校の裏手の木で捕まえてきた蝉が、暑苦しい鳴き声を立てている。一昨日から和美が「ボス」と名づけて狙っていた、一番大きな体をした蝉だ。帰ったら要に見せて自慢するんだ、と言い合っていたので、要が留守だったことは、2人にとって、ちょっと残念なことだった。
 「要君て、どこの高校受けるのかなぁ」
 モグモグとアイスをほおばりながら、和美が天井を仰ぐ。兄の進路になど興味のない蓮は、無言で首を傾げた。
 「頭いいから、きっと難しい高校だよね。あーあ、あたしじゃ無理かぁ…」
 「え…、兄ちゃんと同じとこ、行く気なのかよ」
 冗談だろ、という目を蓮がすると、和美はムッとしたように眉を吊り上げた。
 「なんだよ。あたしはバカだから、要君と同じ高校なんて無理だ、って言いたいのかよっ」
 「…無理、って、今、自分で言ったくせに…」
 「うるさいっ。生意気だぞ、蓮の分際でっ」
 更に幼い頃、近所のいじめっ子から蓮を救ったヒーローでもある和美は、いまだ同年代の中でも小柄な蓮を格下と見ている。子分が口にした正論に気分を害した和美は、椅子ごと体を横に向けてしまった。
 とはいえ、こんなことは、日常茶飯事だ。和美の態度にさして反応も見せず、蓮は素直に、疑問を口にした。
 「でも、なんで?」
 すると和美は、そっぽを向いたまま、ボソボソと答えた。
 「…だってさ。カッコイイじゃん、要君」
 「カッコイイ?」
 「背、高いし。頭いいし。中学で生徒会やってるっていうし。安達さんとこの悪ガキに、あたしと蓮がコテンパンにやられた時だって、親より先に乗り込んで行って、あのしょーもないガキをきっちり説教して、最後には頭下げさせたしさ。憧れるよなぁ、ああいう大人な人」
 「……」
 実は、蓮は、要のことをさほど「大人な人」とは思っていない。
 確かに要は、6つも年上だし、いつも堂々としていて落ち着いている。和美の言うとおり、要のおかげで助かったことも何度もあるし、頼りにすれば期待を上回る誠実さで応えてくれる。和美の両親を含めた、この団地の人々の兄に対する評価は「しっかりした、大人びた子」である。
 が……それは、“外”でのことだ。
 蓮は何でも食べるが、兄は好き嫌いが多い。魚全般が嫌いだし、ピーマンも苦手でよく残す。そのくせ、蓮に対しては「お前はチビなんだから、人の倍は牛乳を飲まないとダメだ」などと偉そうに言うのだ。
 自分が見たい番組がある時に蓮がテレビを見ていると、問答無用でチャンネルを譲るよう迫ってくる。あまりチャンネル争いにならないのは、兄弟揃ってあまりテレビを見ないせいであり、珍しくテレビを見たいタイミングが合ってしまうと、兄の横暴な振る舞いに母から雷が落ちることもしばしばだ。
 そんな訳で、家の中での評価は、外での評価とは正反対。兄は「子供っぽい」とされ、蓮の方が「手のかからない大人」と思われている。母が指摘すると、兄はムキになって否定するが。
 「それにさぁ、要君て、すっごくモテるんだよ。知ってる?」
 「うん、知ってる」
 といっても、具体的にどの位モテるかは、知らない。ただ、バレンタインデーにたくさんチョコを貰ってくるので、モテるんだな、と思っているだけだ。
 「そりゃ、モテるよなぁ…。あんなに完璧な人っていないもん。いいなぁ…」
 そう言うと、和美ははぁっ、とため息をついた。
 「でも、要君の好みって、きっとあたしとは全然違うんだろうな。きっと、苑美(そのみ)ちゃんみたいなタイプだ」
 苑美―――和美の姉で、要の同級生だ。大人しくて、色白で、おしとやかで……和美の姉でありながら、和美とはまるで正反対のタイプである。確かに近所の評判はいいが、歳が上過ぎて、蓮にとっては遠い存在だ。
 「そうかな。俺、苑美ちゃんより和美の方がカッコイイと思うけど」
 蓮はそう言ったが、和美の反応はネガティブだった。
 「蓮に好かれたって、嬉しくも何ともないよっ。要君に好かれたいんだ、あたしはっ」
 「兄ちゃんも、そう思ってるかもしれないじゃないか」
 「わかってないなぁ…。あたしは、要君に“カッコイイ”じゃなく“可愛い”って思われたいんだよっ」
 “可愛い”。
 和美には不似合いな形容詞に、危うく、アイスキャンディーを落としてしまいそうになった。
 「か…可愛い? ど、どうやってなるの」
 「だからー、苑美ちゃんみたく、ピアノ習ったり、ワンピース着たりさ」
 「和美が!? うげ…、気色悪い」
 「!! なんだと、テメー!」
 カップアイスを放り出す和美を見て、蓮は「しまった」と首を竦めた。


 蓮の分際で生意気な、とダイニングテーブルの横で和美に絞め技をかけられていたら、タイミング悪く、兄が帰って来た。
 「こら、和美。女の子が暴力なんて、みっともないぞ」
 要に“可愛い”と思われたがっていた筈の和美は、要からそう言われてしまい、気の毒なほど落ち込んだ様子で帰って行った。

 「なんだ、蝉を採りに行ってたのか」
 ベランダに出された蝉の入った籠を覗き込み、要は眉をひそめた。
 要本人は、幼い頃、蝉採りなど一切しないタイプだった。外で泥んこになって遊ぶなんて滅多にせず、家の中で鉄道模型などを使って遊ぶのを好む子供だった。社交的で明るいため、友達も多く、いつも友達を家に呼んでいたが、アウトドア派ではなかったのだ。
 「蝉なんて、うるさいだけだろ。今日の補習授業の間も、ミンミンうるさかったぞ。どっかに放してこいよ」
 「…わかってる。和美帰ったら、放すつもりだったんだ」
 「そうなのか?」
 「捕まえるのは面白いけど……この前、蝉は、何年も土の中にいたのに、外に出てからは1週間位しか生きられない、って聞いたから」
 たった1週間の命のうちの何割かを、この狭い籠の中で過ごさせるのは、気の毒だ。ましてや、こんな籠の中で一生を終えるなんて、可哀想すぎる。
 勿論、そんな風に明確に言葉にできるほど、考えがまとまっていた訳ではないが、蓮はただなんとなく、去年までは疑問に思わなかった蝉採りに、今年はあまり乗り気ではなかった。和美が「やろう」と強引に誘ったので、ついて行っただけだ。
 しかし、要は、その辺の事情を知らない。蓮が誘って蝉採りに行ったと思っているのだろう。学生服のカッターシャツのボタンを外しながら、少し眉根を寄せて、蓮の顔を見据えた。
 「そう思うなら、最初から蝉採りなんてやるなよ。行きたかったら、学校の友達と行け」
 「……」
 「和美は、女の子なんだぞ。いつまでも小さい頃みたいに“お兄ちゃん”扱いしてちゃダメだ。怪我でもさせたら、どうするんだ」
 ―――俺が行きたいって言った訳じゃないのに。
 さすがに、ムッとした。だからつい、普段滅多にきかない憎まれ口をきいてしまった。
 「学校の友達なら、怪我してもいいの?」
 「バカ、ダメに決まってるだろ。そういう意味じゃない。男なら傷の1つや2つ問題にならないけど、女に傷がついたら、一生ものの問題なんだぞ。そうならないよう、女を守ってやるのが、男の役目なんだ」
 「守る…?」
 「お前もそろそろ、和美に仕切られてるばっかりじゃなく、和美が怪我しないように注意してやる側に回らないといけないぞ」
 「……」

 守る? 和美を?
 和美の方が、強いのに?

 どうにも納得のいかない蓮だったが、要からしたら、至極当然なことらしい。
 「和美は女の子なんだからな」
 念を押すようにそう言われ、蓮は仕方なく、頷いた。

 別に、その言いつけを守った訳ではないが、和美と蝉採りに行ったのは、この時が最後となった。和美に誘われなくなったのだ。
 当時の蓮には、その理由がよくわからなかったが―――今にして思えば、要から「みっともない」と言われたことに、和美は蓮の想像以上に傷ついていたのかもしれない。

***

 蓮や和美が走ることにこだわるようになったのは、蓮が小学校に上がった頃から、彼らの住む団地で“かけっこ”が流行ったせいだ。
 団地のA棟の端から端までを、1列に並んで競争する。歳も上で体格もいい和美は、当時からいつもトップ。蓮も次第に足が速くなっていったが、それでもいつも2位か3位に甘んじていた。兄の要は、既に中学生になっていたため、そういう子供の競争には加わらなかった。よくやるなお前ら、という顔で、近所のガキどもが怪我をしないよう、植え込みのところで時々見張っていた。
 そんな遊びも、子供たちが成長する中で、次第に廃れていった。だが、他の子供たちが違う遊びへと流れていく中、蓮と和美だけは、走ることにこだわり続けていた。
 彼らの通う小学校では、部活動は4年生から認められていた。当然のように、和美は陸上部に入り、4年生になると同時に蓮も入部した。
 和美は、陸上部の中でも、やはりトップだった。6年生の時には、都の大会の小学生の部にも出たほどだ。
 一方蓮は、なかなか背が伸びず、陸上部の中でも中くらいの位置にいた。練習していると、女子陸上部から「蓮、遅いぞ!」と和美が怒鳴るので、和美が蓮の知り合いであることは、あっという間に部内に知られてしまった。
 「6年の岩田さんて、穂積の幼馴染なんだろ? すげーなー」
 「さすがに6年男子には敵わないけど、女子なら敵なしだよな。お前、岩田さんに特訓してもらえよ」
 「その前に背が伸びないとなー、穂積は」
 「蓮の兄ちゃんて、デカいんだろ? なんで伸びねーんだろ」
 和美という比較対象があるから余計に、周囲は言いたい放題だ。和美からも「チビ」と見下され、悔しさから、蓮は必死に背を伸ばそうと努力した。牛乳をたくさん飲み、鉄棒にぶら下がり、陸上の基礎トレーニングにも人一倍打ち込んだ。
 しかし、母曰く、「そのうち伸びる」とのことだった。
 「お兄ちゃんも、中学に入ってから、急激に伸びたのよ。蓮もそうなんじゃない? 男の子なんて、小学生の時の背丈は全然当てにならないわよ」
 事実、蓮の背は、中学に入ってから一気に伸びるのだが、その頃の蓮は、永遠に「チビ」とバカにされ続けるような錯覚に陥っていた。畜生、負けるもんか―――小4からの蓮の生活は、走ることが中心となっていった。


 蓮の背丈が伸びるより先に、和美は小学校を卒業した。
 和美がいなくなると、外野から蓮を叱咤激励する声がなくなり、自然、陸上部の連中も何も言わなくなった。それで肩の力が抜けたのか、蓮の陸上部での順位も、次第に上がっていった。
 一方の和美も、中学の陸上部に入った。が……蓮とは逆に、この頃から和美は、思うようにタイムが上がらなくなった。
 「隣の小学校から入って来た子で、1人、凄いのがいるんだ」
 セーラー服姿の和美は、面白くなさそうにそう言った。
 「体小さいんだけど、凄く走り方が軽くてさ。なんかあたし、中学行ってから、だんだん体が重くなってきた気ぃして―――前みたく走れないんだよね。最近、走っててもつまんない」
 「和美は、1番になれないのが嫌なだけだろ」
 常にトップだった和美。2番手3番手なんて経験のない和美。自分より前に他人の背中がある、という状況は、さぞかし面白くないだろう。でも、蓮からすれば、それは極々当たり前のこと―――蓮の前には、いつだって、和美の背中があったのだから。
 「2番でも、まだ俺よりタイム早いじゃないか。贅沢言うなよ」
 蓮が言うと、和美は、とんでもないことを言い出した。
 「んー…、でもさぁ。あたしって、走るのが好きなのか、それとも1番になれるから走ってただけなのか、どっちかわかんなくなってきた」
 「え?」
 「初めて、2番に落ちた時さ。一瞬、思っちゃったんだ。あ、こんなんだったら、走りたくないや、って。2番になる位なら、走んない方がいいかも、って。2番でもいいから走りたい、って思わなかったんだよなぁ…」
 「……」
 なんだか―――裏切られた気分だった。
 走っている時の和美は、楽しそうで、幸せそうで、眩しいほどに輝いて見えたのに―――走ることが好きじゃない、なんて。あの輝きに憧れ、あんな風になりたい、と目標にしてきた蓮の気持ちを、目の前でばっさり一刀両断にされた気分だ。
 「俺は、走るの、好きだよ」
 やや憮然とした表情で、蓮はきっぱりと、そう言い切った。
 「1番でないと楽しくないって和美は言うけど、2番手3番手でも、俺、走るのが楽しいよ」
 「蓮……」
 「好きじゃないんなら、辞めちゃえよ。そうすれば、和美の後ろ走ってる、本当に走るのが好きな奴の順位が、1つ、上がるだろ」
 蓮のその言葉に、和美はハッと目を見張り、それからうな垂れた。そして、格下と見てきた蓮に対して、初めて「ごめん」と、消え入りそうな小さな声で呟いた。
 結局、和美は陸上部を辞めず、中学の主力選手として活動を続けた。
 成績は思うようには伸びず、そのたびに苛立っているようだったが、同級生に手強いライバルがいることもいい刺激になるらしく、むしろ小学校の時より真面目に部活に取り組んでいた。


 やがて、蓮も中学に上がり、それと時を同じくして、要は大学生に、和美の姉・苑美は専門学校生になった。
 苑美は、調理師を目指して専門学校に入った。男社会だから大変だな、と夕飯時にその話を聞いた父が言っていたが、もしそうだとしたら、あのふんわりと女っぽい苑美がそんな道を選んだとは、かなり意外な話だ。
 一方、一流高校に通っていた要は、案の定、誰もが名を知る超難関大学に現役合格した。その難易度のほどは、高校受験さえピンとこない蓮には実感が湧かないが、それよりは少し歳の近い和美から見ると、相当なショックだったらしい。
 「ますます要君が遠くなっちゃったよ…」
 兄の大学名を聞き、和美はがっくりと落ち込んだ。
 「死ぬ気で頑張れば入れる大学なら、1年間だけだけど、要君と同じ大学に通えるかも、って思ってたのに……絶対無理だ。あーあ…」
 「…別に同じ大学入らなくても、すぐ目の前に住んでるんだから、いつでも会えるのに」
 「今だって、すぐ目の前に住んでるのに、要君に会うことなんて全然ないじゃんっ! それに、高校は男子校だから気にしてなかったけど、大学には女の子もいーっぱいいるんだから! 今までは要君、学業優先で真面目にきてたけど、これからはわかんないよ? 要君に彼女とか出来たら、あたし、どーしよう…。絶対立ち直れないよ」
 「……」
 あの和美の口から、彼女、なんて話題が出てくる日が来るなんて、思ってもみなかった。
 似合わない―――和美のセーラー服姿も違和感があったが、こういう“女の子”みたいな話をする和美は、もっと違和感だらけだ。
 幼い頃に男と勘違いしていたせいか、いかに兄が言い含めようとも、蓮にとっての和美は、やっぱり今も“男”に近かった。カッコイイ、あんな選手になりたい、という憧れの対象ではあるが、どう考えても恋愛対象にはなり得ない存在だ。
 そんな和美が、要に彼女が出来たらどうしよう、などと言ってうな垂れている。
 …なんとも、奇妙な感じがする。なんだか、和美が突然別人に変わってしまったようで―――正直、少し、嫌だった。

 だから、中学に入学し、陸上部に入って、約2年ぶりに和美がトラックを走るのを見た時は、酷く安心した。
 和美のランニングフォームは、小学校の時のそれより格段に洗練され、トラックを駆け抜ける姿はカモシカのようだった。走っている時の和美の表情は生き生きしていて、小学生の時、トップでゴールを切っていた時のそれと、何ら変わっていなかった。
 和美はまだ、蓮がかつて、あんな風になりたい、と憧れた和美のままだった。
 少なくとも―――この時までは。


 蓮が中1の秋、和美の母が穂積家を訪れ、兄に頼みごとをしたのが、きっかけだった。
 「要君、もしよければ、和美の勉強を見てやってくれない? あの子、このままだと志望校を1ランク下げるしかなさそうで―――高校受験までの間でいいの、あの子の家庭教師をやってくれると、嬉しいんだけど」
 いいですよ、と、要は二つ返事で了承した。
 和美は陸上部を引退し、週に3日、要に勉強を教わる生活に入った。
 走ることに専念していた蓮は、兄のことも、和美のことも、さほど気にしていなかった。クラスメイトの色恋沙汰も、噂話も、全く気にしていなかった。隣のクラスにちょっと気になる女の子もいたが、特に行動もせず、バレンタインデーにチョコをくれた女の子と付き合うこともせず、毎日毎日、勉強と部活動に明け暮れた。
 そうして、春―――無事、志望校に合格を果たした和美から、驚きの話を聞かされることとなった。

 「ど…どうしよう…! ご、合格祝いに、って、要君からキスされちゃったよ!!」
 「……」
 いきなり飛躍した話に、蓮の頭は、ついて行けなかった。
 呆然とする蓮をよそに、和美はすっかり舞い上がっていた。和美から話を聞くのは無理だな、と思った蓮は、その夜、バイトから帰って来た兄に真相を訊ねた。
 「…なんか、和美が、兄貴にキスされた、って浮かれてたけど…」
 「ああ、なんだ、もう聞いたのか」
 兄は平然と笑い、信じられないことを言った。
 「今日、付き合ってくれ、って和美に言ったんだ」
 「…あ…兄貴が!?」
 「合格するまでは、って我慢してたんだぞ。いい先生役続けるのも、結構キツイよなぁ…。あいつ、俺のこと好きなのバレバレな態度取るくせに、完全に俺のこと信用しきってたし」
 「―――…」

 和美が中学生になった頃から、密かに気になっていた。けれど、自分など和美から見たら対象外だろうと思っていた。家庭教師の話が来た時は、チャンスだと思った。久々に長時間和美と接して、どうやら和美も自分が好きらしいと気づいて、とても驚いた。
 そんな話を、照れたように延々説明する兄を、蓮は、ただ呆然と眺めることしかできなかった。まさか、要が、和美をそんな目で見ていたなんて―――想像したことなど、一度もなかった。まさに青天の霹靂だ。

 こうして、要と和美の交際はスタートした。
 蓮の目には、男同士が付き合っているみたいに見えて、なんだか変な感じだったが―――本人たちが楽しそうなので、気にしないことにした。
 今の蓮には、そんな他人のことより、走ることの方が―――風と一体化する、あの高揚感の方が、大事だったのだ。

***

 「辞めた?」
 「…うん」
 眉をひそめる蓮に、和美は、気まずそうに頷いた。
 和美の高校進学から、3ヶ月―――間もなく夏休み、という頃だった。相変わらず部活に忙しい蓮と和美だったが、どのみち同じ団地の住人だ。家族同士の付き合いも元々ある。カステラを貰ったから届けに来ただの、力仕事があるからちょっと手伝いに来いだの、和美はちょくちょく、穂積家を訪れたり蓮を呼び出したりした。その話も、そんな中で、突如飛び出した話だった。
 「けど、あの高校選んだのって、陸上が理由だったんじゃないのか?」
 強豪校とまではいかないが、そこそこ強い陸上部のある高校だ。それに、中学の陸上部で一番憧れていた先輩が進学した高校でもあった。当然、入学してすぐ、和美も陸上部に入部した。なのに―――たった3ヶ月で、退部したというのだ。
 「…うん、そう、なんだけどね」
 和美は、ますます歯切れが悪くなっていた。
 中学3年間で2センチしか伸びなかった和美に比べ、中2になった蓮は、既に和美の背丈に並び、明日にも追い抜きそうな勢いだ。かつて、はるかに見上げていた頭が、今は目線の高さにある。俯いている状態の和美は、実際の体格以上に、蓮の目には小さく映った。
 「でも、ホラ、うちの陸上部、凄くキツくて、土日も休まず練習あるんだよ」
 「そんなの、初めから知ってただろ?」
 練習がキツくてリタイア、ということか、と呆れかける蓮に、和美は余計に体を縮め、言い難そうに答えた。
 「…でも、さ。…平日は要君も、バイトあって忙しいし…」
 「……」
 「…この前の日曜、要君、大学の友達と合コン行ったみたいなんだ。苑美ちゃんから聞いた。数合わせに出てくれないか、って要君から頼まれた、って。か…要君は、自分もただ頼まれたから出ただけだ、って言う、けど…さ」
 ―――何だ、それ。
 要するに、要と会う時間が取りたいから―――要を放っておくと浮気をされそうで怖いから、辞める。そういうことだ。
 練習が苦しいから、という理由の方が、まだマシだ。陸上や練習が理由じゃなく、それとは全然関係ない、男を理由に辞めるなんて―――…。
 「…ふぅん。そうか」
 不愉快な気分を押し隠して、蓮はあえて、シンプルな相槌を打った。
 というより―――他に、相槌の打ちようもなかった。

 要との交際を理由に陸上を辞めたことには、和美自身、負い目のようなものを感じていたのだろう。特に、幼い頃から同じ陸上の世界に没頭し、互いに叱咤激励しながら成長してきた仲である、蓮に対しては。
 あれほどキッパリしていて、堂々としていて、いつも蓮の目を怯むことなく見返していた和美なのに、この頃から、あまり蓮の目を見なくなった。いつ見ても、どことなく自信がなさそうで、蓮の視線にビクついているようなムードを漂わせていた。
 そんな和美を見つけてしまうたび、蓮はどんどん、和美に落胆していった。結果―――蓮はだんだん、和美を避けるようになった。


 中2の夏休みは、やはり陸上の練習に明け暮れた。
 伸び盛りの蓮は、100メートル走の主力選手となっていて、夏も秋も記録会や競技会の予定があった。部活以外の予定などもあって、結局、なんだかんだと平日の大半、学校に行く羽目になった。
 だが、少々、オーバーペースになり過ぎていたらしい。夏休み中盤―――ついに体調を崩し、練習の途中で早退する事態になった。
 ―――しまったなぁ…。
 まだ日も高いうちに自宅に帰った蓮は、シャワーで汗を洗い流し、氷枕を作って、ベッドに倒れこんだ。
 全く、不覚だった。このところいい具合にタイムが上がっていたので、つい調子に乗りすぎてしまったようだ。夏風邪に加えて、軽度の熱射病―――氷枕に頭を預けた蓮は、練習疲れも手伝って、気絶するように眠ってしまった。

 そうして、どの位経っただろう。
 何か、聞こえた気がして、蓮は目を覚ました。
 「……?」
 外は、まだ明るい。時計を見ると、午後4時を過ぎた頃だった。寝汗でまとわりつくTシャツを肌から引き剥がしながら、蓮はベッドを抜け出し、半開きになっていたドアを開けた。
 聞こえてきていたのは、人の声だった。でも、話し声とか、そういう類の声ではない。それに、蓮が帰って来た時、家には誰もいなかった筈だ。
 何だろう? と首を傾げた蓮は、まだ熱に浮かされたまま、さして深く考えることもなく、声を確かめるため、居間の方へと向かった。
 そして、僅かに開いていた引き戸に手をかけた瞬間―――その声の正体に気づき、その場に凍りついた。

 引き戸の間から覗き見た、見慣れた自宅の居間。
 そこに、蓮が見つけたのは、兄と和美の姿だった。
 ただし、蓮の目には、“それ”が、ただの醜悪な肌色の物体にしか映らなかった。いや―――兄と和美だと認識することを、蓮の脳が拒否したのかもしれない。

 「―――…っ!」
 気づくと蓮は、自分の部屋に飛び込んでいた。
 ベッドに突っ伏し、頭から布団を被った。布団を被った中で、更に耳を塞ぐ。絶対、絶対、どんな声も聞こえないように。
 ―――…吐き気、が、する。
 蓮だって、これまで何も知らずにきた訳ではない。部活の帰り、友達の家に集まって、興味本位で借りてきたアダルトビデオを見たり、猥談の好きな連中の噂話に付き合ったこともある。あまり積極的な興味は持てなかったものの、見れば興奮したし、話を聞けば「凄い」と思う。蓮はそういう、極々普通の、健全な14歳だ。
 でも、初めて現実の行為を目の当たりにして、蓮は、興奮などこれっぽっちも感じなかった。
 和美が、相変わらず棒のような体をしていたから、興奮できなかったのではない。ビデオに比べてリアルすぎて引いてしまった訳でもない。あまりに嫌悪感が強すぎて、興奮することなどできなかったのだ。
 あれが、和美だなんて。
 トラックを風のように駆けていた、自分が憧れた存在と同一人物だなんて。つい半年前、たかがキス1つで真っ赤になって大騒ぎしていた和美が、真剣な眼差しでスタートラインに立っていた和美が―――まるで、いかがわしいビデオに出てくる女のように、喘ぎ、乱れ、あんな行為に溺れているなんて。
 気持ち悪い―――吐き気が止まらない。蓮は布団の中で丸くなったまま、次々にこみ上げてくる吐き気と、ひたすら戦い続けた。


 「わ…悪かったな、蓮」
 その夜、珍しく蓮の部屋にやってきた兄は、気まずそうな表情で蓮にそう言った。まだ体調が悪く寝ていた蓮は、一瞬、兄の謝罪の意味がわからなかった。
 「お前が起きて来るとは思わなかったんだ。変なとこ見せて、ごめんな」
 「…って…、え? 俺がいるって、知ってたのか?」
 「い、いや、和美は知らないんだ。俺は玄関にお前の靴あるのに気づいたけど…。お前が起きて来たことも知らないから、黙っててやってくれよな」
 和美のことなど、どうでもよかった。兄が気づいていた―――いや、蓮がいると知っていた上で、自宅の居間であんな真似をしていた、という事実にショックを受け、蓮は思わず跳ね起き、兄を睨んだ。
 「ど…どういう、つもりだよ。俺がいるのに、なんであんな……」
 「…ちょっと、むしゃくしゃして、な」
 こんなに歯切れの悪い、落ち着かない様子の要は、初めて見る。蓮の目を見ることなく、兄はぼそぼそと続けた。
 「和美のやつ、今日に限って、何でだかお前の話ばっかりしてて―――面白くなかったんだよ。陸上の話とか、俺にはよくわからないから」
 「……」
 「お前、和美が部活辞めてから、和美に冷たいんだって?」
 チラリと目を上げた兄は、なんとも複雑な目で、蓮を見つめた。
 「競技会も、和美が応援に行くって言ったのに、来るなって言ったそうじゃないか。…あんまり、つれない態度、取らないでやってくれよ。お前が和美をどう思ってるか知らないけど、和美はお前のこと、本当の弟みたいに思って、気に掛けてるんだから」

 なんだか、兄の言っていることは、矛盾している気がした。
 和美が蓮の話ばかりする、と言ってキレたくせに、蓮に対しては和美に冷たくするなと言う。じゃあ和美と仲良くしたら、要はどうするのだろう? 仲良くしすぎだ、とまたぶちキレるのか、それとも以前のように温かく見守るのか―――後者なら問題ないが、前者だとしたら最悪だ。

 それでも蓮は、要の頼みに、一応頷いた。
 多分、無理だと思うけれど―――陸上を辞めてしまった上に、あんなシーンまで見せられてしまったのでは、もう和美と昔のような付き合いは、できそうにないけれど―――そろそろ認めなくては、と思ったから。
 もう、自分の前を颯爽と走っていた、あの輝いている和美は、いないのだ、と。
 今の和美は、全くの別人なのだと―――周囲にいるクラスメイトの女の子たちと何ら変わらない、ただの1人の女の子なのだと認めなくては。蓮は、そう思ったのだ。

***

 そのまま、何事もなく時が過ぎていれば、後に蓮が家を出るようなことにはならなかっただろう。

 あんなことがあった後も、蓮と要の兄弟仲は変わらなかったし、和美に対しても、蓮は極力不自然な態度をとらないよう努めていた。さすがにぎこちなさは多少あるものの、その努力は、そこそこ実を結んでいるように思えた。
 別人になってしまった和美に対する違和感は、なかなか消えてなくなりはしなかったが―――ついでに、あの時見たシーンに感じた嫌悪感があまりに酷かったせいで、元々得意ではなかった恋愛やセックスといった話題にこれまで以上に拒絶反応を示すようになってしまい、友人たちから不審がられたりもしたが―――日々は、そこそこ、穏やかだった。
 和美のことを話す要は幸せそうだし、時折披露されるノロケ話からも、2人の仲が順調であることは、蓮にもわかった。もしかしたら、このまま結婚、なんてことも、本当にあるのかもしれない―――和美が義理の姉になるとは変な感じだが、全然知らない他人よりはまだマシかもな、と考えられる位には、今の和美を受け入れられつつあった。

 しかし―――事態は、蓮の予想だにしない方向へと、蓮の知らないところで転がり始めていた。


 「旅行?」
 突如、要から妙なものに誘われ、蓮はキョトンと目を丸くした。
 「ああ。こんどの週末、大学の仲間と一緒に行くんだけど……お前も来てくれないか?」
 「なんで俺が?」
 「いいだろ。夏休みなんだし。友達の知り合いが経営してるコテージだけど、なかなかいい部屋みたいだぞ」
 「でも、来月には大事な試合が…」
 蓮は現在、中3。去年同様、夏休みは部活に明け暮れる予定で、夏休み明けの9月にある競技会で、陸上部を引退することに決めていた。できれば、最後には一番いい成績を収め、いい気分で受験勉強に専念したい。そのためにも、夏休み中の練習は休みたくなかったのだ。
 蓮が渋っていると、要はようやく、蓮を誘う本当の理由を口にした。
 「和美を連れて行きたいんだよ。お前も行くなら、おばさんたちも安心するだろ?」
 「……ああ、」
 そういうことか。
 要と和美が付き合っていることは、和美の親も当然知っている。昔から結構厳しい親なので、いくら他の仲間がいるとはいえ、要と一緒に泊りがけの旅行なんて、絶対許してくれないだろう。だが、蓮もいるなら、話は別―――蓮のことは和美の親もよく知っているし、蓮の真面目な性格も知っている。蓮が一緒なら、要も不埒な真似はすまい、と考え、和美を同行させることを承諾するかもしれない。
 「友達もいるし、変な下心はないんだよ。ただ…あいつも、来年は受験であまり羽目外せないだろうから、今年のうちに連れて行ってやりたいんだ」
 面倒だな、と思ったが―――結局、要に丸め込まれる形で、蓮は要の頼みを引き受けてしまった。


 旅行に参加したのは、要、蓮、和美、要の友人2名、そのうち1人の彼女1名、もう1人の妹と弟、計8人だった。
 中学生が1人だけ混じっているなんて、と思ったが、幸いなことに、要の友人の弟と妹が、ともに高1の双子だった。蓮は、要とも和美とも離れ、彼ら兄弟の乗る車に同乗させてもらった。
 海の傍にあるコテージは、要が言ったとおり、確かになかなかいい部屋で、女性陣には大いにウケた。が、蓮はというと、コテージにはあまり興味を示さず、着いて早々、双子の弟の方と一緒に海に遊びに行ってしまった。
 穴場なのか、海水浴客も少なめで、蓮は久々の海を満喫することができた。が―――乗り気じゃなかった旅行を少しだけ楽しいと思い始めた矢先。
 「あたしも、一緒していい?」
 昼食の準備をしている筈の他のメンバーから抜け出し、何故か和美だけが、蓮と双子の弟のもとへとやってきた。
 「昼飯の準備はどうしたんだよ」
 「あたしは、いてもいなくても、あんまり関係ないんだ。他の女の子2人が、すっごく手際がいいから」
 どうやら、料理が上手な他の女性2人に引け目を感じ、逃げてきたらしい。女らしいこと全般が苦手な和美だから、その気持ちはわからなくもないが―――はっきり言って、少々迷惑だ。
 「兄貴は?」
 「なんか、友達と話してるから、誘いそびれちゃった。…いいじゃん。3人で遠泳の競争しようよ。あそこの旗のとこまで、誰が一番早く着くか」
 この和美の提案に双子の弟が乗ってしまったため、蓮もやむなく、唐突な競争に参加せざるを得なくなった。
 昔は泳ぎでも蓮を上回っていた和美だが、中3と高2になった今では、当然、立場は逆転していた。男2人がいい勝負をする中、1人差をつけられる結果となった和美は、酷く悔しがっていた。
 ―――負けるのなんて、最初からわかってただろうに…。
 負けず嫌いな和美が、なんだって競争なんか持ちかけてきたのか、蓮にはいまいち理解ができなかった。そんなことより、「そろそろ戻って来い」と3人を呼びに来た兄の目が、なんだか妙に面白くなさそうだったことに、一抹の不安を感じた。

 その日の和美は、変だった。
 午後から全員で海に入った時も、蓮が他のメンバーと泳いでいると、「あたしも」と言って寄って来た。食事の席でも、やたら蓮に話しかけてきた。要が大学の友達と男同士で盛り上っている時間が多かったから、相手をしてもらえなくて寂しかっただけかもしれないが―――蓮、蓮、と追いかけてくる和美の様子は、最近ではさほど和美と会う機会もなくなっていた蓮からすると、少々異様な感じだった。
 そして和美の異様な行動は、思わぬ軋轢を、メンバー内に生み出していた。

 「何、あの人。蓮君のお兄さんの彼女なんでしょ。なんで蓮君ばっかり追いかけてくるの?」
 夕食時に隣の席に座った双子の妹の方が、心底ムカついた、という口調で、小声で蓮に話しかけてきた。
 「…ガキの頃は、海とか山行くと、大抵俺とつるんで遊んでたから、その癖が抜けてないんじゃないかな」
 そんな風に蓮はフォローしてみたが、彼女を納得させるには至らなかった。
 「だからって、もう子供じゃないし、蓮君は自分の彼氏の弟なんだし…。私、今日何回あの人に邪魔されたかわかんないわよ。なんか、嫌な感じ」
 「邪魔?」
 「…だって。私だって、蓮君と仲良くなりたいのに…」
 「……」
 夕食後に、双子の弟の方から聞いた話では、実は彼女は、行きの車で同乗した時から、蓮に密かに興味を抱いていたのだそうだ。到着したら、蓮とできるだけたくさん話をして親しくなろう、と考えていたのに、行く先行く先、必ず和美がくっついてくるので、和美を邪魔に思っていたらしい。
 気を遣う相手は兄1人で十分なのに……こんな自分に興味を持ってくれて、ありがたい反面、今はとても迷惑だ。
 「ごめん、俺、疲れたから」
 面倒ごとは勘弁して欲しかった。花火をやろう、と盛り上る連中を置いて、蓮は1人、コテージの2階に上がった。そして、昼間の疲れと気疲れから、間もなく、ベッドの上でうとうとし始めてしまった。


 ―――…暑い…。
 最初に感じたのが、それだった。
 暑い……何かがまとわりついて、暑い。蓮は、まだ半分寝ぼけた状態のまま、ベッドの上で身を捩った。
 「……っ…、」
 頬に、何か触れた。
 これは、人間の、手。誰かが起こしに来たのだろうか。一体、誰だろう―――眉を顰める蓮の、今度は唇に、何か柔らかいものが触れた。
 「……」
 唇に押し付けられたものは、ためらいがちで、少し震えていた。それが、何であるのかに考えが及んだ時―――ぼんやりしていた蓮の頭が、一気に覚めた。
 「!!」
 ―――誰、だ…!?
 薄暗い部屋の中では、それが誰なのか、全くわからない。ただ、自分の身に起きていることだけは、はっきりとわかった。
 誰かが、蓮の体に抱きつき、寝ている蓮の唇を奪っている―――いや、それだけではない。体の上を這う手がそれ以上のことを求めているのは、経験のない蓮でも、嫌というほどよくわかった。
 半ばパニックに陥りながら、蓮は慌てて、抵抗を試みた。が、相手の力は思った以上に強かった。むしろ、蓮に抵抗されたことで覚悟が決まったかのように、その手や唇に迷いがなくなった。
 「…や……、めろ…っ」
 渾身の力で、相手の肩を押し返す。唇が離れた次の瞬間、相手が泣きそうな小さな声で、一言、囁いた。

 その、一言に。

 蓮の頭が、白く―――真っ白く、凍りついた。

 その直後、いきなり、世界が明るくなった。
 驚いて部屋の入口の方を見ると、そこに立っていたのは、要だった。
 要は、入口の脇にある照明のスイッチを押したまま、信じられない、という表情で蓮たちを凝視していた。当然だ。蓮だって信じられない。まだ顔は見ていないが、今さっき聞いた声で、相手が誰なのか、蓮にはもうわかっていたのだから。
 「…な…に、してるんだ…」
 呆然と声を発した要は、やがて、何かのスイッチが入ってしまったように、突如、その表情を変えた。今まで見たこともないような、怒りを露わにした顔になった要は、ずかずかとベッドに歩み寄り、いきなり蓮の胸倉を掴んで引き起こした。
 「どういうつもりだ、蓮!!」
 「え…っ」
 ―――なんで、俺が怒鳴られるんだ?
 思考が、着いていかない。訳がわからないうちに、蓮はベッドから引きずり下ろされ、兄に掴みかかられた。
 「和美に何しようとしてたんだ! え!?」
 「…っ、ま、待てよ、兄―――…」
 兄貴、と言おうとしたところに、要の拳が、蓮の左頬にクリーンヒットした。どこだかわからない場所から、甲高い和美の悲鳴が聞こえた。
 「要…っ!! や、やめてっ!」
 「大体、前からおかしいと思ってたんだよ……俺と和美が付き合いだしたからって、お前が和美を避けるなんておかしい、ってな。やっぱりそういうことか―――お前も和美が好きだったんだろ、蓮!」
 「! ちょ……っ、と、ま、待てよ! ちが……」
 「うるさいっ!!」
 再び殴りかかろうとする要の手を、蓮は必死に掴み、抵抗した。力と力の押し合いになり、2人は勢い余って、部屋から廊下へとよろけるようにして出た。
 ドン、と、廊下の壁で背中を打つ。その痛みに顔を顰めていると、更に一発、要に殴られた。
 「やめてよ、要…! 違う! 違うの! 蓮は何も……!」
 「お前は黙ってろ!」
 「ほんとに違うのっ! 蓮を放―――…」

 蓮と揉み合いになっている要の腕を、和美が、掴んだ。
 ぐい、と要の腕を引いた、その反動で、蓮の胸倉を掴んでいた要の手が、一瞬、離れた。
 途端―――要に引っ張られていることで保たれていた姿勢が、一気に、崩れる。床につけていた方の足が、不自然な角度に曲がり、激痛が走る。蓮の体は、大きく後ろへ倒れ、それを支えようとして、蓮はもう一方の足を、1歩、後ろに引いた。
 けれど。
 1歩下がった、その場所に―――床は、なかった。

 誰かが、悲鳴を上げたのを、聞いた気がした。
 和美だったのか、要だったのか、それとも下にいた他の誰かだったのか―――その悲鳴を聞きながら、無意識のうちに、手すりに掴まろうと手を伸ばす。が……間に合わなかった。
 蓮の体は、コテージの2階から1階へと続く真っ直ぐな階段を、もの凄い勢いで転がり落ちていった。手と言わず足と言わず、体中のあちこちを、壁や階段で打ちつけながら。

***

 頭を打って気を失った蓮が、再び目を覚ました時、そこは既に病院だった。
 体中が、痛い。まさに、満身創痍だ。軋む体に顔を顰めながら周囲を見渡すと、ボロボロに泣き崩れている和美と、顔面蒼白になっている兄の姿がそこにあった。
 「ご…めんね、蓮…」
 何度もしゃくりあげながら、和美は蓮に謝った。
 「あ…あたしのせいだ。れ、蓮の、足が…っ」
 「……足?」
 足は、がっちり固定されているらしく、動く気配も痛みもなかった。自分の身に、何が起きたのか……今の蓮には、想像することもできなかった。
 動かない首を無理矢理回し、蓮は要に目を向けた。どうなってるんだ? と問いかける目をすると、要は苦しそうに目を眇め、まるで答えを誤魔化すかのように、額にかかった蓮の髪を指ではらってやった。
 「…詳しいことは、父さんと母さんが来てから話す、って先生が言ってた。もう夜だから無理だけど、明日の午前中には、話が聞けると思う」
 「……」
 「…和美のせいじゃない。俺のせいだ。俺が、早とちりして誤解したから…」
 きゅっ、と唇を噛んだ要は、蓮から目を逸らした。
 「―――和美のやつ、俺と間違えたんだ」
 「…え…?」
 「ちょうど俺も、家に電話をするために、その場を離れてたから―――和美は、俺を探して部屋に戻って、お前を俺と間違ったんだってさ」
 「……」
 「…悪かった。本当に」

 搾り出すようにそう言って、要は深々と、頭を下げた。
 その隣で、和美も目元を手で覆い、何度も「ごめんね」と繰り返した。
 その光景を―――蓮は、妙に冷めた目で、ぼんやりと眺めていた。


 翌朝、医師から告げられた言葉は、蓮にとっては無慈悲なものだった。
 日常生活に支障はないが、陸上選手としては、ほぼ絶望的―――細かな症状をすっ飛ばして一言で説明するなら、つまりは、そういうことだった。
 母は泣き、父は蓮を抱きしめ、和美は床に座り込み、そして兄は……血の気の失せた顔で、呆然と立ち尽くした。
 けれど、蓮自身は、不思議と涙が出てこなかった。
 怪我の痛みより、選手生命を絶たれたことより―――あの時聞いた一言が、蓮から、当たり前すぎる涙を奪っていた。

 あの、時。
 一瞬聞いた、あの、微かな声。

 ―――“蓮”。
 “蓮、お願い、あたし―――…”

 蓮、とはっきりと名を呼んでおきながら、和美は要に、「要と間違えた」と説明した。
 あの和美が……子供の頃から兄一筋だった和美が、その弟で、かつて子分扱いしていた蓮に対してあんな真似をしておきながら、兄にその現場を見つかると、保身のために嘘をついた。
 間違えた、という言葉が本当なら、まだ良かった。けれど…蓮は、あの一言を聞いてしまった。聞いてしまった以上、聞かなかったことにはできなかった。そして、聞いてしまったその一言を、蓮はどうしても、兄には言うことができなかった。

 『やっぱりそういうことか―――お前も和美が好きだったんだろ、蓮!』

 …まさか、あんな風に、思われていたなんて。
 蓮は一度だって、和美を女として見たことなどなかったのに。同性に近い存在として、彼女を目標にしていた位なのに。その目標が日に日に輝きを失い、ただのつまらない女に成り下がっていくことに幻滅したから、和美から離れただけなのに。それでも、要が頼むから―――要にとって大事な人だから、こみ上げる嫌悪感を押さえ込んで、和美とこれまでどおりの付き合いをしていこうと努力していたのに。
 蓮は、かつては尊敬し、親愛の情を抱いていた2人に対して、完全に失望した。
 その失望が、あまりに大きすぎて―――見せつけられた恋愛劇が、あまりに醜悪すぎて、蓮は、泣くことすらできなかった。


 入院生活の間、要と和美は、責任を感じてか、それはそれは親身になって蓮の世話をした。
 蓮は、2人を責めなかった。責める気持ちすら湧いてこなかった、というのが本音のところだが……何より、目の前のことをクリアするのに懸命だった。せめて普通に歩けるように、せめて人並みには走れるように―――日常生活を普通に送れるようになることに必死で、兄や和美のことを考えている暇などなかった。
 退院し、学校に復帰し、―誰もいないグラウンドに立った時―――初めて、涙がこみ上げてきた。
 走りたい。
 もう1回だけでいい。あと100メートルだけでいい。怪我をする前の自分に戻って、走りたい。
 初めて、兄と和美を恨んだ。誰に言うこともなく、恨んだ。
 恨んで、恨んで……そして、なんとか「悔いはない」と思えるところまで心が回復したところで、蓮は、完全に2人を見限ることにした。
 蓮は、一度として恨み言を当人たちに告げることなく、自分の中の2人の存在を消し去った。


 以来、6年。表向き、穂積家は、安泰だ。
 けれど、蓮は知っている。
 あの時の和美の説明を、要は、心のどこかで疑っている。そしてその疑いは、嘘をついた和美本人ではなく、蓮に―――血の繋がった弟の方に向けられている。やはり蓮は和美に興味を持っているのではないか、あの時のことは蓮から仕掛けたことで、和美は蓮を庇っているのではないか―――そんな風に思っている。
 同居などと言い出したのも、お前を信用しているぞ、という彼なりのメッセージが込められていたのだろうと思う。けれど…目は口ほどにものを言う。まるで誇示するように、蓮の前で和美との関係をノロケる時、要の目は、いつも幸せそうではなかった。和美との仲を見せ付けることで、蓮を牽制しようとしている目―――どこまでも蓮を疑っている目だった。

 こうして、蓮は、安息の場所を失った。
 蓮が戻る場所は、あの家には、もう、ない。要の疑いが消えない限り。そして―――和美の蓮に対する想いが消えない限り。

 

***

 

 “Jonny's Club”のドアの前で、蓮は、暫し逡巡していた。

 火曜に行ったばかりで、また木曜に顔を出したのでは、さすがに不審がられるか、とも思った。改めて礼が言いたいのなら、何も店に行かずとも、自分の部屋の3軒となり、201号室を訪ねれば済む話なのでは、とも思った。
 たっぷり3分、ドアの前から1歩も動かず、迷い続けた。結果―――蓮は、“Jonny's Club”のドアを開ける選択をした。
 すると。

 「Happy Birthday to you. Happy Birthday to you―――…」

 「……」
 いきなり、客席の方が、ステージに向かって歌っていた。
 一体何事か、とギョッとした蓮だったが、本来の歌い手である筈の咲夜が、スポットライトの中、歌うことなく花束を抱えているのを見て、その事情を大体察した。
 ―――今日って、咲夜さんの誕生日だったのか…。
 全然、知らなかった。また偶然にも記念すべき日に来合わせてしまったものだ。蓮は、客にも咲夜にも気づかれないよう静かにドアを閉め、照明の暗い場所を選んで店内に入った。


 咲夜に話を聞いてもらったからと言って、別段、何が解決した訳でもなかった。
 一昨日、この店を出た時から、事態は何ひとつ変わっていない。和美と連絡を取った訳でもないし、兄と話をした訳でもない。蓮の2人に対する感情も、ほとんど変わってはいない。今でも、和美のことを理解するのは無理だし、兄の相反する2つの顔にもウンザリなままだ。
 それでも蓮は、どうしても咲夜に礼が言いたかった。が、それは、誰にも言えなかった事情を吐き出したことで、少し気が楽になったから、だけではない。

 『もし、同時に2人の人を好きになってしまったんだとしたら……苦しんでると思う。答えが出なくて』
 『私は、比較的早く、真実に辿り着くことができたけど……難しいんだよ。自分自身の本当の気持ちに気づくのって』

 人を憎むのにも、人を恨むのにも、エネルギーが要る。誰だって、好き好んで人を嫌う訳ではないのだ。蓮だって本当は、和美を嫌いたくなどない。義理の姉となる人なのだ。少しは理解し、好きになりたい―――それが本音なのだ。
 綺麗事や机上の論理ではなく、実体験からくる咲夜の言葉は、不思議なほど、素直に受け入れることができた。
 もしかしたら和美も、咲夜が体験したのとよく似た苦しみの中にいるのかもしれない―――これまで考えてもみなかった可能性が示された分、ほんの少しだけ……和美に対する怒りや憤り、わだかまりが、小さくなった気がした。
 小さくなった分だけ―――楽になれた気がした。
 多分、気安く他人に話せるような話ではなかっただろう。そんな話を、ただ同じアパートに住んでいるだけに過ぎない自分に話してくれた咲夜に、蓮はどうしても、一言お礼が言いたかったのだ。


 残念なことに、蓮が狙うような席は、もう全て埋め尽くされていた。ハッピーバースデーの歌が終わり、客がパチパチと拍手を贈る中、蓮は仕方なく、カウンター席の一番端に座った。
 ―――ん? でも考えてみたら、今日は咲夜さんに会ってお礼をするのが目的なんだから、別に目立つ席でもいいのか。混乱してるな、俺も…。
 「えー、以上! 我らが歌姫・如月咲夜の25回目の誕生日に際し、“Jonny's Club”からのサプライズでしたー!」
 蓮が席に着くのと同時に、マイクを握っていたウッドベースの男性が、司会者よろしくそう言った。それに応え、店内の拍手が一段と大きくなる。蓮も椅子にきちんと座りなおしながら、手を叩いた。
 咲夜はマイクなしで「ありがとー!」と叫び、四方八方に頭を下げた。そして顔を上げると、店内の中央の席あたりに目をやり、どことなくはにかんだような、妙に可愛らしい笑みを口元に浮かべた。
 「……?」
 なんだか、その笑い方が、特別なように思えて、蓮は無意識のうちに、咲夜の視線を追った。そして―――そこに、ある意味予想どおりの、けれど全く予期しなかった人物の姿を見つけてしまった。

 咲夜の笑顔に応えるように、ヒラヒラと手を振っている男。
 カウンター席から、その顔は見えないが、日本人のものにしては明るすぎる髪や、均整のとれたその後姿から、誰なのかは一目瞭然だった。
 ―――…一宮さん…。
 蓮の目が、落ち着きを失くす。うろたえた蓮は、クルリとステージに背を向け、口元に手を置いた。

 まさか、奏が来ているなんて―――いや、今日が咲夜の誕生日なら、むしろ来ていて当然なのかもしれない。きっとこの後、待ち合わせて一緒に帰るのだろう。
 自分が来ていることを、奏にはあまり知られたくない。変に勘繰られそうだし、それに…なんとなく、説明のつかない後ろめたさがある。何故そんなものを感じるのか、自分でもよくわからないが。
 どうする―――口元に手を置いたまま、蓮は暫し、迷った。すると、蓮の背中を押すように、バーテンダーが声をかけてきた。
 「ご注文は?」
 ハッ、と顔を上げた蓮は、この時初めて、曰くつきの人物・トールの顔を、真正面から見た。
 ―――よりによって、こいつか…。
 しかし、贅沢も言ってはいられない。ぎこちない笑みを作った蓮は、水の入ったグラスを差し出すトールに、小さく首を振った。
 「あ……いえ、オーダーは、いいです」
 「は?」
 「すぐ、出て行きますから。…あの、コースターを1枚、もらえますか?」


 “Jonny's Club”のコースターを1枚もらった蓮は、その裏に急いでメッセージを書き記し、トールに渡した。
 「ステージが終わったら、彼女に渡して下さい」
 それだけ頼み、半ば逃げるように、“Jonny's Club”を後にした。

 『誕生日おめでとう。
  いつも、あなたの歌に救われています。ありがとう』

 そのメッセージの下に、小さく、“204”という数字だけを添えて。


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