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― Turning Point ―

 

 大音響ときらめくライトの中、次々に現れる人々を、理加子は、まるで別世界の光景のように眺めていた。
 ―――凄いなぁ…。
 思わず、感嘆のため息を漏らす。
 自分も同じモデルという職業に就いている筈なのに、とても同じ人種とは思えない。ピンキリという言葉はどの世界にもあるだろうが、まさに、モデルにもピンからキリまで色々いるということだ。まるで、ガラス玉とダイヤの違い―――同じモデルを名乗るのが恥ずかしいくらいだ。
 「ああ、レイカさん、今日もいい調子みたねー。目立ってるわ」
 隣に立つマネージャーが、うっとりした声でそう言う。
 レイカは、同じモデル事務所の大先輩で、弱小モデル事務所の中にあっては看板モデルと呼ぶべき人だ。なかなか入場が困難なこのショーを見ることができたのも、同じ事務所のよしみ、というやつで特別に入れてもらえたのだ。
 と言っても、レイカの舞台を見たかった訳ではない。動機はもっと個人的な―――マネージャーには言えない動機だ。
 「あ、ほら、一宮さんよ」
 マネージャーの声に、理加子の顔が僅かに緊張する。
 見れば、上等なスーツを着た奏が、ランウェイを颯爽と歩いてくるところだった。
 奏の目は、自分の行く手へと真っ直ぐ向けられていて、口元に浮かべた微笑には余裕と自信が感じられる。そして何より、そのウォーキング―――歩き方なんて、モデルであれば大差ない、と思っていたが、とんでもないことだと改めて実感する。ついさっき見たレイカのウォーキングも十分美しかったが、奏と比較してしまうと、いかにも「モデル風」であり、変にお高くとまっている感じがしてしまう。奏の歩く姿は実に自然で、そう……ちょうど、野生に生きるヒョウやトラの動きが自然で美しいのと、よく似ていた。
 綺麗だな、と、素直に思った。
 男性に使うのは変かもしれないが、動作の1つ1つが、表情の1つ1つが、ため息が出るほど、綺麗。でもそれは、顔が綺麗でスタイルがいいからじゃない。彼の自信と、モデルとしての信条と、積み重ねた経験からくる美なのだろう。

 …どうしよう。
 気持ちの整理がついたら―――ただ一宮さんを尊敬する後輩としての気持ちだけを持てるようになったら、優也に頼んで会わせてもらおうと思っていたのに。その時、絶対軽蔑されないように、今までの自分とは違う自分になってやるんだ、って心に決めたのに。
 こんな風に、久しぶりに姿を見てしまうと……あの頃には自覚できなかった気持ちを、嫌ってほど感じる。
 好き―――胸が苦しくなるくらい、この人が好きだ。

 「やっぱり、海外でキャリアを積んでる人は違うのねー」
 マネージャーがうっとりしたような声で呟く。
 ―――あの人にとっては、日本が“海外”なんだってば。意味わかって言ってるのかな、この人。
 横から余計な口を挟まれたようで、気分がそがれる。軽く眉をひそめた理加子だったが、以前のように、それを口に出して言うことはなかった。
 「つくづく、うちの事務所じゃないのが悔やまれるわぁ…。うちの事務所のモデルなら、なんとしても説得して、引退を諦めさせるのに」
 マネージャーを無視していた理加子も、引退、の2文字に、思わず彼女の横顔に目を向けた。
 「一宮さんが?」
 「ですって。この前、所属事務所の社長さんが他のモデルに付き添って現場に来た時、ちょっとお話したんだけどね。年内はこのステージが最後じゃないかしら…」
 「来年は? 年が明けても、もうモデルはやらないの?」
 「え……あまり詳しいことは聞いてないけど、どうかしら。ああ、でも噂レベルなら、“VITT”っていうブランドのショーに出るみたいよ」
 「“VITT”の……」
 実際にそこの服を見たことはないが、雑誌などで名前だけは知っている。確かイギリスのメーカーだった筈だ。やはり、最後の仕事として、自分の生まれた国のファッションブランドを選んだということなのだろうか。だとしたら、本当に、それを最後にモデルの仕事は二度とやらない、という覚悟なのかもしれない。
 奏がメイクの仕事をやっている以上、いつかは、とは思っていたけれど……まだ、あんなに輝いているのに―――理加子は唇に指を当て、僅かに眉根を寄せた。
 「…ねえ、梅ちゃん」
 「え?」
 「その“VITT”のショーって、リカでも出られる?」
 理加子が思案顔のまま訊ねると、マネージャーは驚いたように目を見張り、それからちょっと笑った。
 「どうしたの? リカの背丈じゃショーモデルは無理だ、って自分でも言ってたのに。写真を撮られるくらいならいいけど、人前に出る仕事はしたくない、って頑固に言い張ってたじゃないの」
 「…そうだけどっ。ちょっと訊いてみただけじゃないっ」
 「何、テレビとか舞台とかの仕事、する気になった? もしそうなら、リカにぴったりの企画が…」
 「もういいってばっ」
 ただ、言ってみただけなのに。
 本当に、さしたる意味はなかった。ただ、出られたらいいのにな、と思っただけで。出られないことなど、百も承知だ。モデルとしては背が足りない、舞台に上がったりテレビに出たりする芸能人ぽい仕事は絶対にイヤ―――知人が理加子に断りもなくコンテストに応募してしまったせいでこんな世界に入ってしまったが、本来の理加子は、とことん、こういう世界には合わないのだ。

 ステージの上でキラキラ輝く、本物のモデルたち。
 お人形のような衣装を押し着せられ、ぎこちなく笑っている自分。
 もしかしたら―――今、少し、見直さなければいけない時期なのかもしれない。


***


 「これで残すは“VITT”関連の仕事だけね」
 ワインを傾けながら、佐倉が機嫌良く笑ってそう言う。向かいに座った奏は、曖昧な笑みを僅かに浮かべるだけで、何も相槌は打たなかった。
 ショーが終わったのは2日前であって、今日ではない。なのに、この取ってつけたようなお誘い―――警戒するな、という方が無理な話だ。
 「…なんだか、警戒しまくってるわねぇ」
 佐倉もそれを感じ取ってか、グラスを置いて苦笑した。
 「ちゃんと心得てるわよ。本当に残りは“VITT”だけ―――追加のオファーはもう受けない。惜しむ声は多いけど、キミの意志を尊重しましょ」
 「…ホントかよ。佐倉さんのこういう誘いには、大抵裏があるんだからな」
 「あら、まあ。失礼な。裏のない時だって、たまにはあるわよ」
 「たまーーーーに、な」
 「極々たまに、よ」
 嫌味なほど強調する奏に、佐倉は軽くそう受け流し、ワイングラスを置いた。
 「それで、一宮君。これからって、どうするの?」
 「これから?」
 「モデルを辞めた後の話よ。メイクアップアーティストとして活動していくのは知ってるけど、具体的に、どの辺でやっていく予定?」
 「どの辺、て…そりゃあ、当面は“Studio K.K.”を基点に、個人的な仕事もだんだん増やしてく予定だけど?」
 なんでそんなこと訊くんだ? と奏が怪訝そうな顔をすると、佐倉は薄く微笑み、首を傾げてみせた。
 「今、黒川さん、日本に来てるんでしょ」
 「は? ああ…よく知ってるなぁ。あんまり繋がりないのに」
 奏の師匠であり目標であり、また“Studio K.K.”のオーナーでもある黒川賢治は、数日前から日本に来ている。が、それは表立った仕事のためではなく、“Studio K.K.”やセレクトショップなど、彼が経営するいくつかの店の事務的な仕事のためだ。同じファッション業界にいても、彼が来ていることを知らない人間が大半ではないだろうか。さすがに驚いて目を見張る奏に、佐倉は得意げに口の端をつり上げた。
 「顔の広さにかけては、そこそこ自信があるのよ」
 「…自信満々の顔で“そこそこ”って言われてもなぁ…」
 「“Studio K.K.”も、ヘアサロンと提携して、より安定した営業に結びつけるみたいだし―――あの人、経営者としてもなかなかよね。あれだけ多岐に渡る仕事をこなすには、相当タフでないと無理だし」
 「ふーん…佐倉さんが一目置いてるんなら、黒川さんも本物だな」
 ビジネスに関しては、佐倉の目はかなり確かだと、奏も認めている。もっとも、ビジネス以外については、何とも言えないところだ。特に、男の趣味に関しては。あんなヤローのどこがいいんだか―――面白くない気分の理由は、結局のところ、佐倉とは全然関係のない部分にあるのだけれど。
 「で、一宮君。黒川さんから、何か言われなかった?」
 「え?」
 「今後についてよ。何か特に言われてないの?」
 思わず、目を丸くする。佐倉がどういう前提で話をしているのかが、いまいち読みきれず、奏は目を丸くしたまま、眉をひそめた。
 「別に、何も?」
 「ホント?」
 「ほんとに」
 「…なぁんだ」
 あからさまに落胆した顔になった佐倉は、若干乗り出していた体を椅子の背もたれに預け、はぁ、とため息をついた。
 「何よ、もう。そう遠くない話かと思ってたのに、全く…。それともあたしの見当違いかしら」
 「な、なんだよ、見当違いって。何の話してんだよ」
 「少し前に、小耳に挟んだのよ。黒川さんの話」
 「…何て?」
 「“Studio K.K.”から、1人、イギリスに連れて行く、って」
 「イギリスに?」
 初耳だった。
 確かに黒川は、仕事の拠点をロンドンに据えており、イギリスの主要都市にブティックとメイクアップスタジオをいくつか持っている。そこの店員やアーティストは、いずれも黒川の弟子とも言える人ばかりで、その中には、わざわざ日本から雇い入れたスタッフもいた筈だ。佐倉の言うように、“Studio K.K.”から誰かを引き抜く……というのも自分の店だからおかしいが、イギリスに呼び寄せることは、十分考えられる。
 「どうやら黒川さんは、一宮君のセンスをモデル時代から買ってたようだし? “Studio K.K.”のスタッフだし? それに何と言っても、イギリスだし? 噂に聞く“誰か”がキミだと思うのは、極々自然じゃない?」
 「…いやぁ…」
 微妙な顔をした奏は、不明瞭な相槌を打ちつつ、一旦置いたグラスを再び手にした。
 「オレじゃないでしょ、いくらなんでも」
 「あら、どうして?」
 「つか、聞いたことないし。そんな噂。一体どこから仕入れてきたんだよ」
 「さる信頼できる筋から。ガセじゃない自信、あるわよ。キミかどうかは別として、あの店から誰か1人、新しいスタッフとして連れて行こうって話は」

 誰か、1人―――…。
 腕を見込まれて、ということであれば、間違いなく氷室だろう。直接黒川の弟子だった訳ではないが、黒川が関わっている美容学校を出ているし、黒川の愛弟子との縁も深い。黒川から直接“Studio K.K.”に誘われたというし、今回もまた、という可能性は極めて高い。
 ―――きっと、黒川さんから言われたら、引き受けるよな。氷室さんなら。
 氷室の将来を考えれば、これはチャンスだ。おめでとう、と言うべきなのだろうが……正直、奏の率直な気持ちは「それは困る」だ。
 “Studio K.K.”の常連には、氷室を指名している客が大勢いる。それは、メイク技術の問題だけじゃなく、氷室の物腰柔らかな接客態度に好感を覚える客が多い、という部分もある。指定した日に氷室がいないと、じゃあ今回はやめとくわ、という客も少なくない。星が辞めてからは特に、氷室は“Studio K.K.”の看板スタッフなのだ。
 その氷室が抜けてしまったら、店がどうなるのか―――オレたちがいるから大丈夫、と胸を張って言えるだろうか? 少なくとも奏には、そんな自信はない。店は黒川のもので、だから黒川の考えで配置移動があるのは当たり前なのかもしれないが、黒川の都合で大切な人間をこっちからあっちへ移動させられてしまうなんて、ハイそうですか、と受け入れがたいものがある。

 「今回、その話が出るものとばかり思ってたのに、まだないってことは、あたしの予想が外れたか、それともまた次の機会があるのか、ってことよね。どう? 他のスタッフに、そういう話が出てるような様子はない?」
 「…そんなの、わかる訳ないだろ。不用意にべらべら喋るような内容じゃないし」
 奏が不服げに口を尖らせると、佐倉は、それもそうねぇ、と相槌を打ち、突如異様なまでの真顔になった。
 「それで―――もし、よ。もし、その噂が本当で、その対象者がキミだった場合、どうする? 受ける? それとも断る?」
 「…うーん…」
 万が一、という可能性を考えようにも、まずあり得ない話、と思ってしまうから、すぐには答えが出てこない。眉間に皺を寄せた奏は、暫し考え、ぽつりと答えた。
 「海外ってのがなぁー…」
 「海外?」
 「都内の他の店に変わる、って話なら、別に問題ないし、最悪他の県でも国内なら考えなくもないけど―――イギリスのどっかの店って話だろ? そこんとこがなぁ…」
 「…海外、って」
 一瞬、ポカンとした顔になった佐倉は、直後、可笑しそうにゲラゲラ笑い出した。
 「あ、あはははははは…! 一瞬、そのまんまスルーしそうになっちゃったじゃないの。やだわー」
 「はぁ?」
 「何言ってるのよ、全く。キミにとっては、あっち(イギリス)がホーム、こっち(日本)がアウェイじゃないの」
 「―――…」
 指摘されて初めて、自分の言葉の意味に、ようやく気づいた。
 そう、自分にとって、イギリスが生まれ故郷―――父や母や弟のいる、我が家だ。そこを“海外”と呼んでしまったことに、奏は一瞬、ヒヤリとしたものを感じた。なんだか―――彼らを裏切ってしまったような、変なうしろめたさがあって。
 「ふぅん……事実はどうあれ、今のキミにとっては、ホームとアウェイが逆転してるって訳か」
 「…だって、しゃーないだろ。ガキの頃に結構な年数住んでた上に、もう2年以上、こっちにいるんだし」
 「おや、逆転したのは、それだけの理由?」
 ―――くっそ、わかってて面白がってやがる。
 面白そうな佐倉の顔を見て、奏は憮然とした顔になった。年月の長さなど、大した理由ではない―――そんなこと、佐倉に指摘されるまでもなく、奏自身が一番よくわかっているのだから。
 「成田や藤井さんが原因、とか言わないでしょうね?」
 「…それもゼロじゃない、って答えとく」
 「咲夜ちゃんを連れて行く、とは考えない訳?」
 からかう表情を見せつつも、佐倉の目が、僅かに真剣みを帯びる。なるほど―――その目を見て、今日のお誘いの意味が、なんとなく理解できた。
 「マジでそういう話が出てきたら、オレ1人でイギリスに戻る、なんて答えだけは、絶対出さないよ」
 「本当に?」
 「だって、仕事は選びようがあるけど、咲夜は世界に1人しかいないだろ」
 当然のように奏が答えると、佐倉は一瞬目を見張り、暫し奏の顔を凝視した。やがて、妙に感心したように大きく息をついた。
 「なんていうか―――迷いがないっていうか、シンプルっていうか、一宮君て感じよねぇ」
 「…単細胞とか単純とか言いたいなら、はっきりそう言えば?」
 「そうじゃないわよ。羨ましいな、って思ったの」
 「羨ましい?」
 「ちょっと最近、麻生さんとのことで、時々考えちゃってね」
 拓海の名前が出て、奏の顔が僅かに強張る。が、佐倉には気づかれない程度で済んだ。
 「今、1ヵ月半の予定で、アメリカ行ってるの。知ってた?」
 「…いや。全然。つか、オレが麻生さんのスケジュール知ってる訳ないだろ?」
 「まあ、ね。…で、ちょうど、黒川さんが誰か新店舗に引き抜くって噂を耳にしたばっかりだったから……つい、考えちゃったのよ。あたしと麻生さんなら、どうなるかな、って」
 「どう、って?」
 「麻生さんって、よくアメリカで仕事するじゃない? ジャズの本場といえば、やっぱりアメリカだし。たとえば、もし将来、麻生さんが“アメリカに本拠地を移す、アメリカで暮らす”って言ったら―――あたし、どうするかな、って」
 ―――麻生さんが、アメリカに…。
 思わず、唾を飲む。考えてもみなかったが、確かに、十分あり得る話だ。
 「…それで?」
 「ん……、本音を言うと、答え、出せなかった」
 そう言うと、佐倉は複雑な笑みを浮かべた。
 「キミみたいに、仕事は選べるけど麻生さんは世界に1人しかいない、って言えるだけの自由、あたしにはないもの」
 「…自由…」
 「マネージメントしている何人ものモデルがいるし、会社の経営もある。あたしの一存で、それを全部捨てることなんてできない。麻生さんは世界に1人しかいないし、あの人以外とこの先本気の恋愛をする気ももうないけど―――それとは別次元で、大きな責任を背負ってる立場だから」
 「……」
 「人間、生きれば生きるほど、しがらみも増えるものね」
 確かに…そうなのかもしれない。
 今はまだ、奏だって自由だ。咲夜が日本にいるから、日本以外で仕事をしようとは全く考えないが、たとえばもし咲夜がアメリカに行くと言えば、多分奏もアメリカに行くだろう。でも…これでもし、“Studio K.K.”を1人で背負って立つような立場であったなら、話は別かもしれない。自分の肩にかかっているものの重さに、判断をためらうような気がする。
 生きれば生きるほど、自由はなくなっていく―――そんな風に思いたくはないけれど、確かに、置かれた立場によっては、そういうこともあるのかもしれない。そして、佐倉は間違いなく、年々背負うものが重くなっている人間の1人だろう、と奏にもわかった。
 「もっとも麻生さんは、あたしより長く生きてる割に、しがらみ少なそうだけどね。だから時々、ちょっと不安になる。ここに繋がれた自分と、究極の自由人のあの人―――もし、あの人がここから飛び出して行ったら、あたしたち、どうなるんだろう、って」
 「…佐倉さんでも、不安になることって、あるんだ」
 「不安だらけよ?」
 ふふっ、と笑った佐倉のその笑顔は、やっぱり複雑そうな笑みだった。
 「多分ね。一宮君はあたしに近くて、咲夜ちゃんは麻生さんに近いんだと思う。考え方とか、生き方が」
 「え?」
 「あたしもキミも、正しくありたいと考え、正しくない自分を恥じるタイプだけど、あの2人は違う。自分の醜い傷跡を、まるで気にしてないみたいに逆に晒してみせて、それがどうした、これが自分の生き方だ、って顔を上げているタイプ―――だから、みんな、騙されるのよね。傷ついてない、痛みなんて覚えてない、って。飄々と笑ってるその裏で、本当はあたしたちの数倍、傷ついてたりするのに」
 「……」
 「キミがイギリスに帰るって聞いたら、きっと咲夜ちゃん、いつもの笑顔で“そっか、またね”って言いそうな気がして―――その笑顔を、キミが鵜呑みにしちゃいそうで。他人事なのに、口出しせずにはいられなかったのよ。つい、自分と重なっちゃって」

 絶対に、騙されない。
 と、断言できるだけの自信は、まだ奏にはなかった。
 リカの一件の時だって、咲夜の言葉の意味など何ひとつ考えが及んでいなかった自分に気づき、愕然とした。勿論、咲夜に騙す意図などなかっただろうが、あの時の自分は間違いなく咲夜の涼しい表情に騙されてしまっていた。
 どれほど一緒にいようと、どれほど深い仲になろうと、咲夜のことだけは、なかなか掴みきれない。多分…佐倉にとっての拓海も、そういう存在なのだろう。だからこそ不安で―――だからこそ、惹かれるのかもしれない。

 仕事も、恋も、ただ夢中で、ただ必死で、思うままに突き進んできただけだったけれど。
 もしかしたら―――今、少し、見直さなければいけない時期なのかもしれない。


***


 「不評?」
 「…らしいんだよねー」
 曲目リストをペラリとめくりつつ、咲夜は眉根を寄せた。
 「なんで。そこそこキャリアある連中が後釜に入ったっつー話だったんじゃないの」
 ずずっ、と底を尽きかけたコーラをストローですすり、奏が怪訝そうに訊ねると、咲夜はリモコンを手に取り、ため息をついた。
 「そうなんだけどさぁ…どうも、バリエーションがないっていうか、演目構成に難ありっぽいんだよね。得意演目に偏りがあるのかなぁ」
 「かなぁ、って…お前、聴いたことないのかよ」
 「ない。一成もヨッシーも、聴いたことない。不評の噂も、トール君のたれこみだし」
 「…あいつ、まだ続いてんのか」
 奏の目が、面白くなさそうに眇められる。しまった―――出してはならない名前を出してしまったらしい。肩を竦めた咲夜は、ずらっと並んだ洋楽の曲目の中から1曲選び、リモコンのボタンを押した。

 拓海の部屋をレッスン室代わりに使わなくなってから、咲夜が困っていたのが、遠慮なしに思い切り歌える場所がない、という点だった。
 家ではさすがに、フルスロットル、という訳にはいかない。専門のスタジオを借りるのも大変だ。外や川原で、と言っても、なかなか難しい。目一杯、納得がいくまで歌いたい―――新曲や滅多にやらない曲をやるたび、咲夜は少しばかり苛立っていた。
 そんな中、奏が思いついてくれたのが、カラオケボックス。遅い時間帯であれば、フリードリンク付きで数時間いくら、なんて店も結構ある。なるほど、と思わず手を打ってしまった。
 時刻が時刻なので、奏は「オレがついてくのが条件」と主張して譲らなかった。そのため、毎回奏がくっついてくる訳なのだが、実際には、奏はほとんど歌わないし、カラオケの曲が流れることも滅多にない。一方的に咲夜が歌いまくり、奏はそれを聴きながら雑誌を読んだり、下手をすると仮眠していたりする。今日みたいに、普通にカラオケを流し交互に歌い合うのは、極めて稀な例だ。
 ―――なんか、こういう風だと、デートみたいだよね。
 と考えて、その考えのバカさ加減に気づく。みたいも何も、デートじゃん、と。

 あまりノレない曲を選んでしまった咲夜は、1コーラス歌ったところでカラオケを止めてしまい、一旦中断していた話を再開させた。
 「そりゃ私らもさ、人からの噂じゃなく、自分の目と耳で確かめたいのはやまやまなんだよ。でも…私はあんまり顔覚えてないけど、向こうは結構、私らの顔覚えてるんだよね。“Jonny's Club”に何度か足運んだことある人たちみたいだから」
 「咲夜たちが聴きに来てる、ってバレたら、まずいか?」
 「まずい、っていうか…いかにも“ライバルが偵察に来てる”みたいで、いい感じはしないんじゃない?」
 「ライバル、か」
 ふむ、と奏も眉根を寄せた。
 「そりゃ、確かに、いい気はしないだろうなぁ…」
 問題になっているのは、咲夜たちと同じ“Jonny's Club”のステージに立っているジャズ・バンドのことである。
 ギャラの問題等が発端となって、月・水・金のステージを受け持っていた岡田らのバンドが辞めてしまい、その後釜として、ちょっとした大会での受賞経験も持つアマチュアバンドが入ったのだが―――これがどうも、トールの話では、あまり評判がよろしくない。前のバンドの方が良かっただの、咲夜たちの時に来て気に入ったのにがっかりしただの……どこまでが本当かは不明だが、とにかく、これが自分たちのことだったら確実にへこむな、と思えるほどの酷評なのだ。
 ただでさえ、“Jonny's Club”は、経営状況がかんばしくない。客のちょっとした増減が、すぐに経営に影響するような状態にある。そこにきて、新しいバンドが不評とあっては、いち雇われバンドに過ぎない咲夜たちだって、客足が鈍り、店の経営が傾くことを心配せずにはいられない。
 「そんなに危ないのか、あの店」
 「うーん…私も、詳しくは知らない。あそこで演奏してるって言っても、ヨッシーに拾われた一成に拾われた私の立場じゃ、ねぇ…」
 「ハハ、拾われた奴に拾われたのか。言葉にするとおもしれー」
 「…いや、マジで、面白がってる場合じゃないっぽいよ。ヨッシーの顔見てると」
 マイクを渡しつつ咲夜が眉をひそめると、奏も真顔になり、マイク片手に少し考え込んだ。
 「そうだなぁ―――藤堂やヨッシーに関しちゃ、ちょっと協力できないけど、咲夜1人なら、オレが何とかしてやれないこともないか」
 「何とか、って?」
 「偵察の話」
 キョトンとする咲夜に、奏は、手渡されたマイクを置き、少し身を乗り出した。
 「つまり、お前だって相手にわからないように、他人のフリして聴きに行ければいい訳だろ?」
 「え…、う、うん、まあ、そうかな」
 「おっけー。任せろ」
 「???」
 ニンマリ、という奏の笑顔を見て、咲夜は一瞬、嫌な予感を覚えた。

***

 「さ―――…」
 大きく目を見開いて声を発しかけたトールの口を、奏の手が、素早く押さえた。
 奏の大きな手で遮られた言葉は、くぐもって意味不明なものになった。が、何と言いたかったかは、不明瞭でもわかる。「咲夜さん!?」という驚愕の声は、口より目がはっきりと伝えてきていたから。
 「…“マンハッタン・ナイチンゲール”2つで」
 トールの口を押さえつつ、奏が“頼む”という顔でそうオーダーすると、トールは無言のまま、コクコクと頷いた。黙っててくれ―――言葉にはなっていない奏の言葉が、一応理解できたらしい。ようやく、奏の手がトールの口から離れた。
 「つか、よくわかったなぁ、お前」
 カウンター席に着きながら、ちょっと感心したように奏が言うと、大きく深呼吸したトールは、それでも営業スマイルを作ってみせた。
 「メイクの違いで女を見間違えるようじゃ、三流店のナンバーワンにすらなれないっしょ」
 「…ホスト歴の成せる業か。こえーな、ホストも」
 「それにしても―――…」
 さっそく“マンハッタン・ナイチンゲール”の用意を始めつつ、トールは、奏の隣に座った女にチラリと目をやり、情けなさそうに眉を下げた。
 「―――…イケてねぇ」
 「…イケてなくしてもらったんだってば」
 むぅ、と唇を尖らせた咲夜の顔は、本来の咲夜の顔より、極端に貧相に、地味になっていた。
 とにかく、ステージ上からパッと見て、絶対に咲夜とはバレないように―――それが奏が施したメイクのコンセプトの全て。卵形の顔は頬が若干こけて見えるようシャドーが入れてあり、唇の色も血色のあまり良くない色になっている。髪も、無理矢理後ろで1つに結び、エクステンションをつけて“後ろでただ縛っただけの髪風”にしてあるし、そもそも服装が、就職活動の時にしか使わなかったグレーの色気のないスーツだ。トールに指摘されるまでもなく、イケてないのは咲夜にもわかっている。
 「逆に、スーパーモデル風のド派手路線にされかけたんだから。目立っちゃって意味ないじゃん…」
 「地味にするより派手にする方が化けやすいんだって。それに、モデル風なら、オレが一緒でも不自然じゃないし」
 いけしゃあしゃあと言ってのける奏は、咲夜が地味メイクになってしまったせいで、それに合わせた格好になっている。極平凡なビジネススーツに、オシャレ度ゼロのフレームつき眼鏡。どうしても髪が目立ってしまうので、黒髪のウイッグまで使っているという念の入れようだ。
 別に、1人で構わなかったのに―――瑞樹に借りたというスーツが汚れないよう、そそくさと上着を脱ぎ出す奏を横目で見て、ちょっとばかり頭が痛くなってきた。酷評されているというバンドの演奏が是非聴いてみたい、と言ってくっついて来てしまったのだが、そう言う奏の目は、どう見てもスパイごっこを楽しんでいる子供の目だ。
 「やっぱし、敵情視察、ですか」
 ヒソヒソ声で訊ねるトールに、咲夜は人さし指を唇の前に立ててみせた。肩を竦めたトールは、それ以上何も訊かず、黙々とカクテル作りに専念した。

 “マンハッタン・ナイチンゲール”がカウンター席に置かれ、他愛もない話をしながら2口ほど飲んだところで、店内のBGMのボリュームが小さくなり始めた。
 ―――…来た。
 咲夜の背中に、軽い緊張が走る。いよいよ、問題のステージの始まりだ。口に運びかけたグラスを置いた咲夜は、あまり目立たないよう気をつけながら、そっとステージの方を振り返った。
 岡田たちの後釜バンドは、ピアノ、ベース、ドラム、サックスというカルテットである。構成メンバーは全員男性、年齢層はほぼ咲夜たちと同じで、20代半ばから30代半ばの間にほぼ全員納まっている感じだ。店で演奏することが決まった時、1度だけ挨拶を交わしたことがあるが、みな兼業ジャズメンとのことで、咲夜にとっては悪い印象ではなかった。
 が、しかし。
 「……あ、」
 「ん?」
 無意識のうちに発していた小さな声に気づき、奏が「何?」という目を向けてくる。その視線にも気づかず、咲夜は、僅かに眉をひそめた表情で、ステージ上に現れた彼らの姿をじっと凝視し続けた。

 同じ音楽の世界に生きる者の勘、とでも言えばいいのだろうか。
 それぞれの楽器を手にし、持ち場に着いた彼らの顔を見て…というか、彼らの間に流れる空気を感じて、直感的に思った。ああ―――このステージ、失敗する、と。
 別に意識したつもりはないが、咲夜たちは、ステージ上がる時、毎回“笑顔”になっている。3人で互いにアイコンタクトを取り、さあ、いっちょやってやるか、という空気でステージに臨んでいる。それは単にステージが好きだからで、そのことをいいとも悪いとも言うつもりはないが、あの演奏を始める前の連帯感が、ステージでの一体感を強めているのは間違いないと思う。
 けれど、今、ステージの上には、「やる気あるのか、コラ」と憤りたくなるほど、冴えない表情が4つ並んでいる。この前挨拶した時の方が、まだマシな顔だった。これで客を惹きつけるいい演奏ができるのだとしたら、奇跡だ。
 ―――上手い下手の問題じゃ、ないのかもしれない。
 1音も聴かないうちから、咲夜はなんとなく、このバンドの不評の理由が見えてきた気がした。お先真っ暗そうな空気に、咲夜は眉根を余計に寄せ、小さくため息をついた。

 MCも挨拶もなしに、いきなり始まったナンバーは、『'Round About Midnight』だった。
 アルトサックスが主役となっての演奏は、咲夜の耳にも、なかなか聴き応えのある方かもしれない。何の賞を取ったのか知らないが、アマチュアにしては上手い、と言ってもいいだろう。
 でも―――何だろう? 何かが、違う。
 迫力? 生の臨場感? 何と表現していいのかわからないが……何かが、酷く物足りない。確かに上手いのに、まるでCDを聴いているみたいで、ライブならではのものが、心に迫ってこないのだ。
 奏はどう感じているだろう? と気になり、チラリとその横顔を窺ってみると、奏はステージには目を向けず、カウンター側を向いてカクテルを飲んでいた。是非聴いてみたい、などと言っていた割に、ステージにはさっぱり興味が湧かない様子だ。
 最初から興味などなかったのか。
 それとも―――咲夜が感じている、この表現し難い物足りなさのせいなのか。
 「……」
 少し考えた咲夜は、カクテルグラスを手に取りつつ、さり気なく店内をグルリと見回してみた。
 デート中らしき若い男女、会社帰りの同僚らしき中年男性3人組―――咲夜の知っている顔も、知らない顔もある。老若男女、様々な人々が、様々な表情で席に着き、様々なものを口にしている。いつも咲夜がステージ側から見ている光景と、ほぼ同じ光景がそこにあった。
 けれど……やっぱり、何かが、違う。
 何がどう、違うのか―――考え続けた咲夜は、やがて、その正体に気づき、思わず頭を押さえてしまった。

***

 「どう思った?」
 店を出てすぐ、咲夜がそう訊ねると、奏はちょっと意外そうな顔をした。
 「オレ? オレの感想なんて、あてにならないだろ? 完璧素人だし、耳が肥えてる方とも思えないし」
 「だから、奏は普通のお客さんに近いじゃん。私は、同じステージに立ってる人間、ていうフィルターがかかっちゃってるから、どうしても点数辛くなっちゃうと思うんだよね。だから、私がどう感じたかより、普通のお客さんがどう感じるかを聞きたい」
 「普通の客、か…」
 うーん、と暫し天を仰いだ奏は、伊達眼鏡を外しながら咲夜を見下ろした。
 「なんつーか、BGMっぽかった」
 「…BGM…」
 まさに、咲夜が表現し難かったことを、一言で説明できる表現だ。思わず、口元が皮肉っぽい笑みで歪んでしまう。
 「贔屓目も多少あるかもしれないけど、咲夜たちの時は、こう、ステージに自然と目が行っちまうような感じがするんだよな。勿論、演奏の合間にカクテル飲んだりカナッペ食ったりしてるんだけど、気づいたらライブの間ずーっと何も食ってなかった、なんてことも結構あるし」
 「…今日は、奏、ほとんどステージ見てなかったよね」
 「そうなんだよなぁ…。あんまり楽しそうに演奏してない、っつーのもあるけど、選曲もかったるいのばっかり揃えてたし……ああ、歌がないのも、結構きついかな。スローバラード揃えるなら、せめて、歌でも入ってメリハリついてくれりゃいいのに、インストでさらーっと流れていくばっかりで、なんか、こっちの耳からこっちの耳に素通りしてく感じだった」
 ―――…やっぱり。
 予想どおりの奏の反応に、咲夜の表情が曇った。

 店内を見渡した時に感じた、あの違和感。
 BGM―――そう、BGMそのものだ。店内に流れる、背景に溶け込んでしまった音楽。客の大半は、彼らの演奏を「生BGM」と捉えていた。CDが、レコードが、生演奏に替わっただけ。それが、咲夜が感じた、自分たちの時との大きすぎる違いだ。
 勿論、BGMとして生演奏を使う場合だってある。ホテルのロビーなどでの定時演奏のようなものも、そのひとつだろう。そういう場合は、客の会話の邪魔にならないよう、控え目でオーソドックスな演奏を心がけるのが正しい。彼らの演奏も、そういうシチュエーションならピッタリだろう。
 けれど、“Jonny's Club”のライブは、ただの「生BGM」ではない。ただの背景で構わないのなら、照明を落とし、スポットライトを照らした中で演奏する意味などあるだろうか?
 上手い下手の問題ではない。“Jonny's Club”のライブとして、あの演奏はまずい。客が期待しているものと異なっているのだから。でも―――果たして、それを彼らにわかってもらえるだろうか? メンバー間のコミュニケーションすら上手くいっているとは思い難い空気を感じさせる彼らに。

 「それにしても、しぶといなー、あいつも」
 咲夜が眉間に皺を寄せて考え込んでいるところに、奏の、心底面白くない、といった口調の声が割り込んできた。
 歩く速度を緩めた咲夜が、隣を歩く奏の顔を見上げると、前を向いたままの奏の横顔は、口調同様、面白くなさそうな顔だった。
 「あいつ、って?」
 「トールだよ、トール」
 そう言うと、奏はムッと口を尖らせた顔で、咲夜の方を見下ろしてきた。
 「まだあの店で働き続けてるだけでも腹立たしいのに、控え室に出入りして、情報屋まがいのことまでやってるんだろ? 咲夜の変装も一発で見破りやがるし……油断ならねー。時々顔出して、釘刺してやらないと」
 「……」
 油断ならない、って。
 一瞬、絶句してしまう。ポカンと奏の顔を見上げた咲夜は、数秒後、恐る恐る訊ねてみた。
 「…あのさ。もしかして、今日くっついて来たのって……私がトール君の名前、出したから?」
 「当然だろ」
 即答。
 あまりの潔さに、咲夜はガクリと頭を下げてしまった。
 「…奏って結構…」
 「結構、なんだよ」
 「…ううん。上手く説明できないから、いい」
 「はぁ?」

 結構、嫉妬深いというか、心配性というか、独占欲が強いというか。
 自分より年上の、しかも寒気がするほど整った顔立ちのこの男を「可愛い」などと表現したら、おかしいのかもしれないが―――奏のこういう性格は、思わず笑ってしまいそうになるほど、可愛い。

 「トール君のことなら、もう心配しなくていいって。私を落とす落とさないって話だって、ただのゲームで、しかももう終わった話じゃん」
 顔を上げた咲夜が苦笑しながらそう言うと、奏はキッ、と眉を上げた。
 「いーや、危ない。晴紀に持ちかけられたゲームは終わったかもしれないけど、あの手の男は、基本的にそーゆー性癖持ってるんだから、いつ何時、攻略失敗したお前に再チャレンジする気になるか知れたもんじゃない」
 「ならないならない。トール君がやる気起こすのは、高級ブランドを山ほどプレゼントしてくれそうな、金持ちのお嬢さんだけだから」
 「それはホストだった時のことだろ。プライベートじゃ、攻略の難しい女ほど、やる気出すタイプだぞ。トールみたいなタイプは」
 「えー…けどさぁ…」
 「…っつーか、もしかして、迷惑だったのか?」
 急に、奏の顔が不安げになる。
 コロリと変わった表情に、えっ、と咲夜が驚く間もなく、奏のテンションは一気に下がった。
 「…ごめん。オレがくっついて行っても、何の役にも立たないってことは、わかってたんだけどさ―――トールのこと抜きにしても、なんか、1人では行かせられない気がして」
 「え…っ」
 「あの店が危ない、って話した時のお前の顔が、あんまり不安そうだったから」
 「……」
 「何もできなくても、隣で一緒に聴いてるだけでも、ちょっとは気分が違うか、って思ったんだけど……そうだよなぁ。オレとは関係ない話に首突っ込んできて、咲夜からしたら迷惑だったかも…」
 「ちょ、ちょっとちょっと」
 話が進むにつれ、どんどん暗くなっていく奏に、咲夜は慌てて奏の腕を引っ張った。
 「そんなことないよ? 誰も迷惑だったなんて言ってないじゃん」
 「けどお前、呆れ顔してたし」
 「そ、それは、変装してまで来るってどうよ? って思っただけで、別に迷惑だった訳じゃ…」
 「……」
 ―――やめなさいって、その疑いの眼差し。
 しょうがないなぁ、と苦笑した咲夜は、きちんと本音を口にした。
 「実を言うと、奏について来てもらって、よかった、って思ってる」
 「え?」
 「自分でも、あんまり意識してなかったんだ。“Jonny's Club”の存在が、自分にとって、どの程度の大きさなのか。危ないかもしれない、って実感して初めて、ああ、あの店は私の大事な居場所だったんだな、って感じて……正直、怖かった。不評だって噂の演奏を、この耳で確かめるのが。だから―――奏がいてくれて、よかった」
 咲夜のその言葉を聞いて、疑うような拗ねた顔をしていた奏は、今度は照れたような、嬉しそうな笑みを見せた。
 やっぱりこいつって、飼い主に尻尾を振りまくる犬みたいだ―――改めてそう思い、咲夜はとうとう吹き出してしまった。

***

 ガチャリ、とドアの開く音に、咲夜だけではなく一成も、パッと顔を上げ、ドアの方を見た。
 開いたドアから顔を覗かせたのは、案の定、少々疲れた顔をしたヨッシーだった。その表情で、今から始まる話の要旨は、ほぼわかったようなものだ。
 「…どうだった?」
 それでも一成が訊ねると、ヨッシーは両手を挙げ、はぁ、と大きなため息をついた。
 「どうもこうも―――はっきり言って、お手上げだ」
 「オーナーは何て?」
 「仕方ない、ってさ」
 吐き捨てるように言ったヨッシーは、ドサリとスチール椅子に腰を下ろした。
 「実際、演奏そのものは上手い訳だし、BGM的生演奏を好む客も中にはいるから、今からまた別のバンド探すことを考えれば、あいつらにやってもらう方がいい、とさ。そりゃそうだよなぁ…。岡田さんたちが辞めるって言ってから後釜の連中が見つかるまで、どれだけかかったか、お前らも覚えてるだろ?」
 「そりゃ…そう、だけど」
 確かに、後釜を探すのには、相当苦労した。このまま見つからなかったらどうなるんだろう、と、手出しできない立場を歯痒く思いつつ心配していたから、見つかった時には本当に安堵した。ステージはあるのに、上がろうとする人間がいない―――その事実を、咲夜だってよくわかっている。
 「でも、あれじゃそのうち、客足に影響出てくるよ、きっと。少なくとも、常連の人たちは、ただの生BGMで満足する訳ないじゃん。リピーターでもってるような店なのに、常連離れが起きたら、店自体立ち行かなくなるんじゃ…」
 咲夜がそう言うと、ヨッシーは、更に疲れたような様子で、大きく首を振った。
 「いやいやいや。もう、そういう問題じゃないのよ」
 「え?」
 「最近、オーナーも体が弱ってきて、オーナーの息子が半分経営任されてる状態だろ」
 それは、咲夜も一成も多少は聞いていた。確か、都内に2軒のレストランを経営している息子だった筈だ。2人は、困惑しつつも辛うじて頷いた。
 「あのオーナージュニア、下手すると、生演奏なしにする気かもしれない」
 「はぁっ!?」
 「何それっ!」
 2人して、思わず叫んでしまう。控え室に響き渡る2つの絶叫に、その反応も当然だよな、という顔でヨッシーは肩を竦めた。
 「バカのつくジャズ好きのオーナーとは違って、息子は特にジャズには思い入れもないし、ノーチャージなのに俺たちに金払ってまで生演奏させてるこの店は、はっきり言ってお荷物なんだよ。下手に生演奏があると、店の回転率も落ちるし、余計な経費もかかるし―――ステージ部分にも客席作れば、その分収益も上がる訳だしな。どうせステージに上がろうっていう輩が現れないんなら、もう辞めちまえ、って本気で思ってるらしい」
 「…そんな…」
 そんなの、あんまりだ。
 言葉を失う一成の隣で、咲夜は、膝の上の拳を握り締め、身を乗り出した。
 「やだよ、そんなの! ここはオーナーの店じゃん! ジュニアが何て言おうと、オーナーが続けるって言ってくれれば、」
 「そりゃあ、オーナーだって、続けたいだろうさ。けど、いい加減結構な年齢だし、先行きに不安を感じるのはしょーがないだろ。実際問題、このギャラで週に6ステージ、毎週毎週決まって拘束されるような仕事を、喜んで引き受けるような気概のある奴なんて、もう滅多にいないんだから」
 「だ、だから……最悪、私が毎晩歌うとか……」
 「1人でか? 俺は俺で仕事があるし、一成だって、楽器店側の仕事が入る日もあるだろ」
 「……」
 返す言葉も、ない。勢いを失った咲夜は、唇を噛んでうな垂れた。
 完全に黙り込んでしまった2人を、ヨッシーは暫し沈痛な面持ちで眺めた。が、小さく息をつくと、思いがけないことを口にした。
 「こう言っちゃなんだけど…俺は、いい機会だと思うぞ。お前らにとっては」
 「…えっ」
 「お前らも、いい加減、もっと上目指していい頃だろ? ユニットとして活動していく、って決めたはいいけど、日中はそれぞれの仕事、夜も週の半分はこの店の仕事で拘束されてたんじゃあ、身動き取れないじゃないか。もし、ここの仕事がなくなったら……そりゃあ俺だって嫌だし寂しいけど、次のステップへ進め、っていう、神さんからのお告げだと思った方がいいんじゃないか?」
 「……」
 「何にせよ、多分、そういう時期に―――転換期に来てるんだよ。俺たちも、この店も」

 転換期―――…。

 ヨッシーの言葉に、咲夜と一成は、思わず顔を見合わせた。


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