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― Seed(中) ―

 

 しまった―――少し遅めの昼食をとりに社員食堂を訪れた由香理は、今日は外食にすればよかった、とさっそく後悔した。
 お気に入りの窓際の席に、由香理より一足先に陣取っていた男は、トレーを持った由香理に気づくと、由香理とは逆に平然とした顔をした。
 「なんだ、随分遅いんだな、今日は」
 「……」
 動揺した自分が、なんだか負けたような気がして、悔しい。由香理は平静を装いつつ、わざと真田の真向かいの席に腰を下ろした。
 チラリと真田の昼食を見てみると、まだ半分以上が残っている。あれを平らげるまでは同席せざるを得ない訳だ。会話があろうとなかろうと気詰まりなことに変わりはない。そう思うと、一気に気が重くなる。それでも、箸を手に取りつつ、社交辞令的に口を開いた。
 「営業の人の精算が合わなくて、昼休みにまで食い込んじゃったのよ。いい迷惑だわ」
 「ああ…、細かく取引先回ってる奴だと、細かい交通費がわからなくなったりするからな」
 「そっちは何十万何百万単位で動いてるから、1円10円のことなんて大したことない、って思ってるかもしれないけど、こっちは1円の狂いが大問題ですからね」
 「…こっちだって、1円単位の世界で交渉してるぞ」
 ちょっと嫌味な由香理の言葉に、真田も僅かにむっとした表情で、そう切り返した。由香理自身、今のは完全に憎まれ口だという自覚があったので、何も言い返さないことで自分の言葉を暗に撤回した。
 「真田さんは、今日も社内なの?」
 「いや、午前中に外回りに行ってたんだ。さっき帰って来て、食事が済んだらデスクワークの山だ」
 「ふぅん…」
 ―――なんか、ちょっと、痩せたかも…。
 淡々と答える真田の俯いた顔を見、ふとそんなことを思う。
 元々肉付きの良いタイプではなかったが、それでも1年前はもうちょっと頬が張っていた気がする。今の真田は、まるでアスリートか何かのように、頬や顎が骨ばり、目も少し鋭さを増したように見える。多分、善意的に表現するなら「精悍になった」と言うのが適当だろう。
 思えば、由香理と関係のあった1年前は、連日のように飲み会や接待に顔を出し、高カロリーなものを食べ酒を口にしていた筈だ。が、噂によれば、最近の真田は、あまり飲み会にも顔を出さず、接待も必要最低限に留めているという。もしかしたら、1年前の真田が栄養過多で、今の真田が本来の顔なのかもしれない。
 「そういえば、河原だけど、大丈夫か?」
 ぼんやり真田の顔を見ていた由香理は、突然出て来た名前に、我に返った。
 「河原君? 河原君が、どうかした?」
 「若村女史に、かなり熱心に口説かれてるらしいから」
 「若村さんに?」
 若村というのは、由香理より3つ年上の秘書課のベテランである。
 秘書課の女性陣からは「お局様」と陰口を叩かれているが、実は、他の課の間での若村の評価は高い。まだ入社して間もない頃から専務秘書として海外出張にも同行し、通訳やスケジュール管理は勿論のこと、商談の事前セッティングまで完璧にこなし、若村が同席すれば商談はこちらのもの、と言われるまでになった、スーパーキャリアなのだ。容姿も正統派美人で、才色兼備とはああいう人のことを言うんだよな、と誰もが認めている。
 「嘘、そんな話、全然聞いてないわよ。ほんとに?」
 「…実際にこの目で見たんだから、間違いないだろ」
 「ええ? やだ、人前で堂々と口説いてたの?」
 「まさか。あの賢い人がそんな不用意な真似する訳ないだろ。…中途半端な時間に、一服しにドリンクコーナー行ったら、そういう場面に偶然出くわしたんだよ」
 「へえぇ…。でも、意外。社内からも社外からもお誘いが多いのに全然のらないと思ったら、若村さんて河原君系が好みだったの」
 感心したように由香理が言うと、真田は怪訝そうに眉をひそめた。
 「意外、って……それだけか?」
 「え? どうして?」
 「…いや、その…」
 真田らしくない歯切れの悪さに、由香理も彼の言わんとするところを察し、ため息をついた。
 「前にも言ったでしょう? 河原君とは、ただのいい友達だ、って」
 「…じゃあ、河原が若村女史と付き合うようになってもいいのか?」
 「いいわよ。ちょっと寂しくはあるけど……私自身、彼氏が自分以外の女と2人で飲みに行くなんて嫌だ、と思うタイプだから、河原君に彼女が出来たら、そういう付き合いは遠慮するつもりよ。相手が碌でもない女なら別だけど、若村さんなら応援できるしね」
 「……」
 由香理の答えを聞いた真田は、なんとも複雑そうな表情で暫し由香理の顔を凝視し、それから深いため息とともにボソリと呟いた。
 「…可哀想に」
 「は?」
 キョトンとする由香理に答えることなく、真田はむっつりした表情で、再び箸を口に運び始めた。
 ―――失礼ね。可哀想って、何よ。
 どういう意味だかよくわからないが、なんだか真田から憐れまれたような気がして、面白くない。自分も定食を食べ始めつつ、由香理は不愉快そうに切り返した。
 「そう言う真田さんの方は、どうなのよ」
 「俺?」
 「あちこちからお誘いがかかってるって話なのに、さっぱり華やかな噂を耳にしないんだけど」
 「…華やかな噂、ねぇ」
 目も上げず、真田はそう言って、眉根を寄せた。
 「遊びでなら、それなりに適当に付き合ってるけどね。君の社内情報センサーが鈍ってるだけなんじゃないか?」
 ―――ほんと、いちいち、癇に障る奴…。
 「その程度の話なら、耳に入ってるわよ。桜木さんに野村さん……ああ、岡部さんもだったかしら。真田さんとツーショットで飲みに行った、って、翌朝のロッカールームで嬉々として自慢しまくってたもの。一部、かなりの誇張も混じってそうな人もいたけど」
 「へぇ。誇張だって、よくわかるな」
 「そりゃあ、」
 一度ならずベッドを共にした男の話ですから。
 と危うく返してしまいそうになったが、触れるのも忌々しい過去の汚点を、由香理は喉の入口の辺りで押し留めた。
 「…一種の、女のカンよ。意味深に含みを持たせたこと言ってても、ああ、ただ飲み屋を2軒ハシゴしただけだな、って察しがつくの」
 「変なとこで鋭いな」
 「基本的に、女の方がカンは鋭いんじゃない?」
 「…俺に言わせりゃ、寒気のする鋭さと、バカなんじゃないかって言いたくなるほどの鈍感さが共存してるのが、女って生き物だけど」
 むか。
 先ほどからチクチクと刺激されていたものが、また少し悪化する。何故この男は、こうも嫌味な反応ばかりするのだろう―――客観的に見れば自分の方が先に嫌味な態度をとっているのだ、という事実に気づかない由香理は、引きつったわざとらしい笑顔を作った。
 「やだ、真田さんに鈍感とか言われたくないわー。ああ、自分に群がる女子社員を、本命を落とすまでの暇つぶし程度にしか考えないのは、鈍感ていうより無神経っていうのかしら」
 この言葉には、それまで比較的平静な表情を保っていた真田も、さすがにカチンと来たらしい。目を上げた真田は、由香理同様、あからさまな作り笑いをしてみせた。
 「面白いこと言うなぁ、友永さんも。生涯人に自慢できる生活を送るためなら、惚れてもいない男と平気で寝るような女も、あまり神経細やかとは言えないよ?」
 「ああら、そんな古い話を今更言う訳? 人間は日々進化してるのよ。真田さんの頭だけ、原始時代でストップしてるんじゃない?」
 「ハハハ、もしそうなら、友永さんの頭は氷河期でストップしてるんだろうな。先に古い話を持ち出したのは友永さんの方なんだから」
 さすがの由香理も、この指摘には言葉に詰まった。
 …駄目だ。真田との間にあったことは、愚かだった自分への教訓にだけして、もうこだわるのはよそうと思っているのに―――いざ真田と顔を合わせると、また以前の自分に戻ったかのような醜い面ばかり晒してしまう。唇を噛んだ由香理は、気を静めるために、一度大きく深呼吸をした。
 「―――じゃあ、真田さんがあまり遊ばなくなったのは、“進化”の結果って訳?」
 再び冷静な声で由香理が訊ねると、真田も由香理と同じように深呼吸をし、ボソリと答えた。
 「…さあね。早い話、得にならない人間に時間を取られるのが馬鹿馬鹿しくなったってことさ」
 「得にならない人間? 何それ」
 「そのまんまだよ。自分のプラスにならない人間」
 「…何よ。やっぱり真田さん、全然変わってないじゃない。肩書きのない平凡な女じゃ意味ない、ってこと?」

 『バカ。柚原女史は本命なんだよ。バックに柚原建設がついてるんだぜ。無事結婚にこぎつけて、浮気がバレておじゃんになったら、洒落になんないだろ』
 『冗談! なんであんな平凡な、肩書きも何もない女と。俺の目標はもっと高いんだぞ』

 偶然立ち聞きしてしまった、あの残酷すぎる言葉が、また脳裏に蘇る。
 だが、不愉快そうに眉を上げる由香理に、真田は少し呆れたような顔をした。
 「そっちこそ、全然変わってないじゃないか。自分にとってのプラス・マイナスは、出世とか裕福な暮らしとか、そんな部分だけに限ったことじゃないだろ?」
 「……え?」
 「確かに俺は、柚原建設の社長令嬢っていう肩書きで、柚原さんを選んだよ。あの頃の俺は、それが自分の人生にとって最大のプラスだと思ってたからね。でも、この半年間で、気づいたんだよ。コネや後ろ盾を必要とするような男は、結局、自分の力じゃデカくなれない男だ、ってね。玉の輿を自分で作れないから、女の背後にある玉の輿に乗っかろうとする―――そんな無様な生き方しようとしてたなんて、俺も馬鹿だったよな」
 パチン、と箸をトレーの上に置くと、真田は、自信に満ちた顔つきで由香理を真っ直ぐ見据えた。
 「今の俺には、一度どん底に突き落とされて、そこから這い上がってこれたっていう自信がある。実力のある男に、女の七光りは必要ない。今じゃ柚原なんて、せいぜい、見た目が綺麗で連れて歩くのにもってこいなブランドバッグ程度の価値しかないね」
 「……」
 「それに、俺が落ち目になった時、それまで俺に色目を使ってた女は、全員俺に背を向けて、陰で笑ってたんだ。で、また盛り返してきたら、嘲笑してたことなんか忘れたみたいに、またコロッと態度を変える。…ああいう連中は、自己顕示欲を適当に満たしてやったら、後は関わらないのが一番いい。付き合うだけ損だ」
 「…じゃあ、真田さんにとって“得になる女”って?」
 由香理の質問に、真田は暫し口を閉ざし、やがてゆっくりと答えた。
 「―――強い女、かな」
 「強い?」
 「どんなに貧乏になろうが、どんなに世間から非難されようが、俺と一緒に苦しんで、俺と一緒に冷たい視線に耐えてくれる―――俺の痛みに、一緒に涙を流してくれる女」
 「……」
 「…その位、本気で愛し合える相手が、俺の人生の最大のプラスになる女なんじゃないかな」

 本気で、愛し合える相手―――…。

 何故だろう? ありきたりな表現なのに、何故か、由香理の胸には、その言葉が、やたら響いた。ずっしりと重みを感じるほどに。
 自分のプラスとなる相手―――由香理にも、漠然とではあるが、その姿は思い描けていた。具体的なメリットとなる人ではなく、精神的な支えであったり、心の安らぎであったり……いや、もしかしたら、何ひとつメリットはなくても、その人といること自体が自分の支えになるような、そんな相手、とでも言えばいいのだろうか。
 それは、真田が口にした内容とよく似通ってはいた。けれど、由香理はまだ、それをきちんと言葉にできるほど掴めてはいなかった。
 ―――なんか、悔しい。
 真田の方が由香理に対して「悔しい」と言っていたのは、ついこの前のことだ。けれど今は、由香理の方が悔しい。なんだか、先を越されてしまったような気がして。
 おかしな話だけれど―――今の由香理にとっての真田は、「ライバル」という位置づけが、一番しっくりくるのかもしれない。だからこんなに悔しく感じるのだ、と、由香理はそう思った。

***

 「ええ? 真田さんが、そんなこと言ってたの?」
 その晩、食事をしながら由香理から話を聞いた河原は、びっくりしたように目を丸くした。
 「そう。なんか、ドリンクコーナーで河原君と若村さんがそういう話してる場面を偶然見ちゃったとかで」
 「…あー…。あの時かぁ」
 心当たりがあるらしく、河原はそう言って、困り果てたように頭を掻いた。
 「まさか立ち聞きされてるとは思わなかったな。しかも、よりによって真田さんに」
 「? なんで“よりによって”?」
 「うーん…」
 首を傾げる由香理に、河原は「話していいものかどうか」というムードを引きずったまま、箸を置いて説明しだした。
 「確かに、若村さんからそういう話はあったけど―――それには、前フリがあるんだよ」
 「前フリ?」
 「元々、若村さんが好きだったのは、真田さんなんだよね」
 「え、」
 何故か、ドキン、と心臓が跳ねた。
 「う、嘘っ。だって若村さん、これまで全然真田さんに興味示したことなんて…」
 「うーん、いや、それが、この半年くらいの話らしいんだよね。若村さんが真田さんに注目したのって。ほら、僕が入社する前、大事な仕入先を失くしてどん底状態経験したって話だろ? それに、結婚するつもりだった本命の人に、手酷い仕打ちを受けたとか」
 「ああ…、二股かけられてた、って話でしょう?」
 「いや、それだけじゃなくて―――誘ってきたのは彼女の方からだった上に、真田さんが本気になりかけたところで、大笑いしながら本物の彼氏からもらった婚約指輪を自慢したって話なんだ。若村さんは、その彼女と親しかったから、本人の口から聞いて知ってたみたいだけど、他の人は知らないと思うよ。彼女、もう辞めちゃったし、真田さんも言わないしね」
 「……」
 見た目と違ってしたたかな女だとは思っていたが……あの、典型的良家の令嬢といった風情だった柚原が、あの真田を相手に、そこまでしていたとは。さすがに驚きだ。
 「どうして真田さん、黙ってるのかしら…。あの人なら、振られた腹いせに盛大に柚原さんの悪行を吹聴して回りそうなものなのに」
 「まあ、あのプライドの高い真田さんだから、自分の恥と思って言わないのかもしれないけど……その人の悪口を一切言わないとこは、僕も偉いと思う。業績もきっちり取り返して、今でもトップ争いしてるしね。若村さんも、そういう真田さん見て、それまでとは見方を変えたみたいだよ」
 「……」
 「それで若村さん、時々真田さんを飲みに誘ったりしてたんだけど―――なんかどうも、親しくなれなかったらしいんだよね。壁があるっていうか、構えられてるっていうか。尊敬はされてるけど対等には見てもらえない、って悩んじゃったみたいで……それで、課の誰ともあまり関係の悪くない僕に、相談してきたんだよ。1対1じゃなくグループで付き合っていけるように、仲間を集められないか、って」
 「え…っ、それで、集められたの?」
 「…いや、無理でしょ。若村さんは女の子の間で完全に浮いてる存在だし、僕は真田さんと遺恨のある友永さんの友達だし―――第一真田さん、仲間でわいわい遊んでる暇なんて、全然ないよ。毎日フル回転で働いてる感じで、周りの連中も“いずれ倒れるんじゃないか”なんて噂してるほどなんだから」
 「……」
 真田の、異様に精悍になった顔を思い出す。負けず嫌いでプライドの高い真田のことだ。天狗の鼻を折られたとしても、そこから這い上がるだけでは満足できないのだろう。陰口を叩いたり嘲笑した奴らを後悔させてやる、と思って、前以上の業績を収めて見返すことだけを考えているに違いない。
 それに、真田が若村との間に壁を作っている、という話も、由香理にはなんとなく理解できた。
 若村といえば、誰もが認める優秀な人間だ。嫉妬から陰口を叩く連中を除けば、彼女を悪く言う人など誰もいない。ひねくれ者だった由香理ですら、若村のことは常に尊敬していた。むしろ、彼女が常に第一線にいる理由を「専務の愛人に違いない」などと薄汚く噂している奴らの方を、品性のない奴ら、と軽蔑していた。その位、若村は「優れた人」なのだ。
 今の真田は、由香理と同じように、自分の醜さを思い知り、頭をガツンとやられた状態にいる。その真田が、若村のような清廉で優秀な人間を、自分と同じラインで考えられないのは、当然かもしれない。若村からすれば「どうして」なのだろうが―――コンプレックスに打ちひしがれた人間は、眩しすぎる存在の前では、余計小さくなってしまうものだ。
 「で、そういう相談に乗ったりしてるうちに、若村さんから“付き合わない?”って話が出た訳で……多分、全然突破口見えない真田さんに疲れちゃって、ちょっと誰かに寄りかかりたくなっただけだと思うよ。実際、そう言って断ったら、あっさり“やっぱりそうよね”って引いちゃったし」
 「じゃあ…若村さん、今も真田さんのことが好きなのかしら…」
 「―――気になる?」
 じっ、と河原に見据えられ、由香理はキョトンと目を丸くした。
 「え?」
 「若村さんと真田さんのことが、そんなに気になるのかなぁ、と思って」
 「べ、別に、気になる訳じゃないわよ? どうして?」
 「…いや、それなら、別にいいんだけど」
 なんだか含みを残した言い方をして、河原はそれきり、その話題には触れなかった。由香理も口を閉じ、目の前にある皿を平らげることの方に集中することにした。

 本音を言えば―――自分でも少し、ショックを受けている。
 真田から、若村が河原と付き合うかもしれない、と聞かされた時、驚きはしたものの心は平静だった。むしろ、尊敬する若村と好青年と認める河原ならば、是非上手くいって欲しい、と応援する気にすらなった。
 なのに……若村が元々好きだったのは真田だ、と聞かされた瞬間―――心臓が、嫌な具合に跳ねた。河原と若村のことを知った時の何倍も、動揺し、焦った。
 ―――なんでよ。真田さんは、私を酷い目に遭わせた奴じゃない。あんな奴が、誰とどうなろうが、私に関係ある訳が…。

 「それで、25日なんだけどさ」
 由香理が不愉快な考え事にふけっていると、唐突に河原がそう言い出した。
 「25日?」
 「さっき話しただろ? イブの陰に隠れてすっかり存在が霞んじゃってるけど、本番は25日なんだよね、って」
 そう言えば、若村の話をする前に、そんな話をしていたっけ。ぼんやりと思い出した由香理は、やっと気持ちを切り替え、僅かに笑顔を作った。
 「ああ…、その話ね。何?」
 「あいにく仕事があるけど―――よかったら、パーティーでもしない?」
 「え?」
 「クリスマスって、子供の頃は家族でパーティー開いたりしたもんだけど、もうそういう歳でもないし…かといって、何もしないのも、本音を言えばちょっと寂しい、って感じがするだろ? しさ」
 「…うーん、そうねぇ…。確かに、最後にクリスマスらしいことしたのって、もう随分昔かもしれないなぁ…」
 「だからさ。既婚者もダッシュで帰っちゃうだろうから、仕事帰りにパーっと飲みに行かない? あ、2人じゃつまらなければ、僕も大学の友達呼ぶから、友永さんも詩織さんとか呼んだりさ。気兼ねのない仲間で、忘年会兼ねて」

 ―――あ。
 今の目、優也君に、凄く似てる。

 眼鏡の奥でキラキラ輝く河原の目を見て、由香理は知らず、目を細めた。癒される―――まさに、そんな感じだ。
 もし河原に、恋人ができたら……きっと、凄く寂しい思いをするだろう。大切な存在を彼女に取られたような気がして、ちょっと彼女を恨んでしまうかもしれない。その位、河原のことは大事だし、大好きだ。
 なのに―――…。

 ―――河原君の恋愛話より、真田さんの恋愛話に、動揺するなんて。
 大切な人より、憎むべき男の方に、心を乱されるなんて。

 おかしい―――そんなの、間違っている。矛盾した感情を抱いてしまった自分に、由香理はまた、少し自己嫌悪に陥った。


***


 「あー、奇遇だねー、秋吉君」
 研究室の扉を開けた途端、背後からそう声をかけられ、優也は危うく悲鳴を上げそうになった。
 扉をガタガタいわせながら振り返ると、声の主である真琴が、ちょこん、とそこに立っていた。髪型は、いつも見慣れたポニーテールだ。
 「お…おはようございます」
 落ち着け、自分。
 変に裏返った声になってしまいそうになり、優也は汗ばんだ手をぎゅっと握り締めた。そんな優也の様子を不思議に思ったのか、真琴は少し首を傾げつつ、マフラーを外した。
 「今日って3年も出てくる日だったっけ〜?」
 「え…っと、いえ、そういう訳じゃ…。ちょっと忘れ物しちゃって。冬休み前に仕上げたい課題の参考書だったから、慌てて取りに来たんです」
 「へー、そうなんだ」
 「…マコ先輩は? 今日って、何かありましたっけ」
 「ううん、ないよ。暇だから来たの」
 「…はぁ」
 暇だと大学に来るのか―――つくづく、不思議な人だ。
 間の抜けた返事を返す優也をよそに、真琴は優也を追い抜き、研究室の中に入って行った。ハッと我に返り、その後に続いて研究室に入った優也は、そこで初めて、真琴が「暇だから大学に来た」理由を理解した。
 ―――あ、そっか。まだ未完成だったんだ。
 研究室の中央にある長テーブルの上に、雑然とバラまかれた、ジグソーパズルのピース。まだ半分も出来上がっていない状態のまま放置されているそれが、真琴の目的だったのだ。
 「今日中に完成させちゃうぞー」
 さっそく真琴は、ジグソーを解いている最中のテーブルの一角に腰を下ろし、ピースをより分け始めた。その様子を目の端で見ながら、優也も、忘れて行った筈の参考書を探し始めた。

 ―――気にしちゃいけない、って思うんだけどなぁ…。
 数日前のことを思い出し、小さく息をつく。
 洒落たファッションビルの中で、思いがけず見かけてしまった、真琴のプライベートのひとこま。真琴が誰と何をしていようと、優也に何の関係があるのか、と言われれば、何もないです、と言うしかないのだが―――あの時感じたショックは、日にちの経った今も、優也の胸の片隅に、小さなしこりとなって残っていた。
 何故、こうもショックを受けたのか……いくら考えても、答えが出ない。
 いや、あっさり出せる答えはあるのだが、その答えは、優也自身から見ても荒唐無稽で、絶対あり得ない答えだ。じゃあ、他にどんな答えがあるのだろう? …やっぱり、どれだけ頭を抱えても、答えは出てこないままだ。
 ―――大体、他人の恋愛話に首を突っ込むなんて、僕らしくないし…。突然そんな話してどうしたの? なんて、マコ先輩、僕のこと不審に思うかも…。
 でも、気になって仕方ないこの状態を、冬休み中ずっと続けるのか、と思うと、かなり厳しい。うーん、と唸った優也は、意を決して、真琴の方を振り返った。

 「…あのー、マコ先輩」
 「んー? なにぃ〜?」
 「…もしかして、先週の金曜日の午後って、渋谷にいました?」
 当たり障りのない質問からぶつけてみると、真琴はパッ、と顔を上げ、キョトンと目を丸くした。
 「あれ〜? なんで知ってるの?」
 「…てことは、やっぱり、」
 「行ってたよ、渋谷。109とかあちこち」
 見間違い説、はずれ。
 まあ、あれだけ真琴そっくりならば、よく似た別人、というのは無理があるとは思っていたが―――ゴクリと唾を飲んだ優也は、今度は体ごと、真琴の方を向いた。
 「じ、実は僕も行ってて、偶然マコ先輩を見かけたんです」
 優也がそう言うと、真琴はますます目を見開き、それから面白い話でも聞いたように顔を輝かせた。
 「えー、ほんと? 全然知らなかったよ〜。声かけてくれればよかったのに〜」
 「…いや、だって、男の人と一緒だったでしょう?」
 優也としては、かなり思いきったつもりの一言。けれど、真琴の反応は、拍子抜けするほどあっさりしていた。
 「うん。一緒だったよ?」
 「……」
 「え、秋吉君て、知り合いが誰かと一緒にいると、声がかけられない人?」
 「…いや…その…」
 「ああー、そっか! 秋吉君が女連れだったのか!」
 ポン、と手を打って真琴が発した一言に、優也はギョッとして、慌てて身を乗り出した。
 「そっ、それは…っ! あ、あの、僕は友達と一緒だっただけで、別にマコ先輩に声をかけられないような後ろめたい相手と一緒にいた訳じゃ…っ」
 「? 何、後ろめたい相手って」
 素で返され、うっ、と言葉に詰まる。
 「な…何、って言われると、困るんですが…」
 「ううーん、よくわからんぞよ。ユーはどうして私に声がかけられなかったのかね」
 本気で「わからんぞよ」という顔をする真琴に、優也はついに折れた。
 「…単刀直入に言えば、デートの邪魔をしちゃ悪いかな、と思ったんです」
 ストレートに答える優也に、真琴は一瞬、パチパチと目を瞬いた。それから、急に難しい顔になり、眉根を寄せて「ふむー」と唸った。
 「なるほどー。そう来たかー」
 「…えっと、デートだったんです、よね?」
 恐る恐る確認すると、真琴はニッ、と笑い、何故か威張るみたいに腰に手を当てて胸を張った。
 「はっはっは、参ったか」
 「…あー…、やっぱり、彼氏ですか」
 「ううん、違うナリよ」
 がくっ。
 まるで階段を一気に数段踏み外したみたいに、優也は前につんのめった。
 ―――い…今、参ったか、って言ったじゃないかっ。
 まるでジェットコースターだ。振り回され続けて混乱を極める優也をよそに、真琴は、実に楽しげな笑みを浮かべ、目の前に人差し指を立ててみせた。
 「でも、いい線はいってるナリよ」
 「は?」
 「あの人は、私の初恋の人なのです」
 “初恋”。
 いきなり飛び出した単語は、優也の頭の中には全くなかった単語だった。不意打ちを食らった優也は、ポカンとした表情で、真琴の顔を凝視した。
 「あの人は信一さんといって、従兄弟のお兄ちゃんなのです」
 「いとこ…」
 「生まれた時から家族ぐるみで付き合いがあったけど、信一さんが高校生の時、お父さんの仕事の都合で東京に引っ越しちゃったのです。当時私は、まだ小学生―――第三者からは“冴えない”と言われても、ブレザー姿の高校生は、王子様に見えたのです」
 「……」
 「昔から優しくて面倒見のいいお兄ちゃんで、今も、大学進学で東京に出てきた私を、昔どおり可愛がってくれてるのさ。一人暮らし10日目で食料が尽きた時、お兄ちゃんが持ってきたじゃがいもで私は生き延びたナリよ」
 「…はあ…」
 「信一兄ちゃんは、私の耳が聞こえなくなった時、一言も“可哀想”と言わなかったのです。“そっか。まあ、片耳でも、必要な音はちゃんと聞こえるから、良かったな。残された耳は大事にしろよ”と言ってくれたのです。その瞬間に、私は初恋を経験した訳です」
 「…なるほど」
 なんだか、妙に、素直に頷いてしまった。
 同情してあれこれ気を遣ってくれる人は、恐らくいくらでも周囲にいただろう。でも、飽くまでもポジティブに捉え、前を向けと肩を叩いてくれる人は、きっと少なかったに違いない。単に「優しいお兄ちゃんだから」ではない真琴の初恋の理由を、優也はなんとなく納得できた。
 「とはいえ、所詮従兄弟だし、男同士でつるんでる方が楽しいような人だし、私なんて眼中にない訳だから、ただの片想いで終わってしまったのは必然ナリよ。それに今は、お兄ちゃんにも私にも好きな人がいるし」
 「えっ、」

 ―――ちょっと、待って。
 今、なんて。

 さらっと流された部分に目を見開く優也を無視し、真琴はニンマリ笑い、Vサインを優也に掲げた。
 「この前渋谷に行ったのも、お兄ちゃんが、片想いしてる相手にクリスマスに何を贈ればいいか困って、私に相談してきたからナリよ。ふふふー、救援物資を貰うばかりだった私も、ついに信一兄ちゃんから頼られる立場になったナリ〜」
 「……」

 信一兄ちゃんの正体は、十分理解できた。が…もっと気になる情報が、ぽつん、と点になって残っている。

 好きな人―――…。
 マコ先輩に、あの人以外に、好きな人がいる……?

 それって、誰なんだろう―――数日前に目撃したシーンの何倍も、優也はその答えが気になって仕方なかった。
 なのに真琴は、情報公開は全て終わった、とでも言わんばかりに、鼻歌を歌いながら再びジグソーパズルに没頭してしまった。鼻歌に合わせて揺れるポニーテールを、優也はただ呆然と眺めることしかできなかった。

***

 結局真琴とは、その後、当たり障りのない話しかできないまま、別れてしまった。

 ―――マコ先輩の、好きな人…。
 アパートに帰る道すがら、色々な可能性を頭に思い浮かべる。その中心は、やっぱり4年や大学院の先輩だ。
 ―――うーん…、でも、うちの研究室って、フリーの先輩がほとんどいないよなぁ。勿論、彼女のいる先輩に片想いしてる可能性もあるけど。そもそも、マコ先輩の好みって、どんな人なんだろう? あ…、でも、「信一さん」は外見より中身で好きになったんだろうし、そう考えると外見の好みってあんまり関係ないのかなぁ…。
 そんな風に、あれこれ考え続けていた優也は、ふとある可能性を思い浮かべ、ピタリと足を止めた。

 …もしかして、穂積だったりして。
 だって穂積、マコ先輩から話を聞いてないのに、すぐにどっちの耳が聞こえないのか当ててみせたし―――先輩も、穂積のこと「わかりやすい」って言ってて、なんかお互い色々わかってるような感じだし…。

 「…うーん…」
 思いついたら、なんだか、どんどんそれが正解な気がしてきてしまった。いけないいけない、と、優也はぶんぶん首を振り、ちょっと早足で歩き出した。
 勿論、恋愛は個人の自由だ。親友であれ、先輩であれ、優也があれこれ口を出す問題ではないし、優也の気持ちは無関係だ。でも―――もし万一、蓮と真琴が付き合う、なんてことになったら……もの凄く気まずいし、それ以上に、もの凄く寂しくて、悲しい。自分にとって大事な人を、一度に2人も失うような気分になるだろう。
 真琴の想い人が誰なのかは知らないが、せめて、蓮以外の人であって欲しい。それなら、少しは―――…。

 「―――…」

 …少しは?
 少しは、何、だろう。
 いや、そもそも、何故自分はこんなに真琴の恋愛話で頭を悩ませているのだろう? 尊敬する先輩に恋人がいると思った、それが勘違いだとわかった次の瞬間、実は好きな人がいるとわかった。ただそれだけの話なのに。
 勿論、その疑問に対する単純明快な答えは、この前から何度も頭をよぎっている。「真琴が好きだから」―――それが、一番わかりやすい、模範解答だ。
 けれど……正直なところ、真琴は、全く優也の好みのタイプではない。優也の好みは、ちょうど由香理のようなタイプ―――平凡ながらも華があり、どことなく勝気さを滲ませている、比較的派手さのあるタイプだ。真琴のようなフワフワした、つかみ所のない綿雲のようなタイプは、可愛いとは思うものの、過去に好きになったことは一度もない。
 それに、中身にしたって、好もしいと感じるより、困ったと感じることの方が多い。現に今日だって、真琴の不可解な言動に振り回され続け、すっかりヘトヘトだ。面白いけど、疲れる。それが優也の真琴に対する評価だ。
 尊敬はしている。同じ学問の道を歩む者としても、1人の人間としても、真琴は「凄い人」だ。好きか嫌いか、と訊かれれば、勿論答えは「好き」だ。でも―――それは、恋愛感情の「好き」ではない。
 だったら、何故?
 何故、こんなに、真琴のことばかり考え、悩んでしまうのだろう―――…。

 また無意識のうちの立ち止まってしまっていた優也は、背後からのクラクションで我に返り、慌ててまた歩き出した。
 が、頭の中は妙にモヤモヤしたままで、なかなか霧が晴れてくれそうにない。歩き出してはみたものの、優也は始終、ぼんやりしたままだった。

 「秋吉っ」
 ふいに、押し殺したような声で、背後から声をかけられた。
 一瞬で現実に引き戻された優也は、その時点でようやく、自分が既にアパートに帰り着いていたことに気づいた。ちょうど由香理の部屋の前辺りで立ち止まった優也は、慌てて振り返り、声の主を探した。
 「……あれ、穂積?」
 優也の背後では、101号室のドアが半分開いていて、そこから何故か、部屋の主である筈のマリリンではなく、蓮が顔を出していた。あまりに押し殺した声で、一瞬誰だかわからなかったが、状況から見て今の声の主は蓮だったらしい。
 「どうしたの、マリリンさんの部屋で」
 「…それが…」
 やけに憔悴しきった顔の蓮は、曖昧に言葉を濁すと、とにかくちょっと来てくれ、といった感じに優也を手招きした。
 「??」
 眉をひそめた優也は、蓮に腕を引っ張られるままに、更に数十センチ開いた101号室のドアの内側を覗き込んだ。
 そして、そこに広がる光景に、あんぐりと口を開けてしまった。
 「あっ、優也、お帰りー」
 部屋の中央で、そう言って振り返ったのは、この部屋にいる筈もない人物―――理加子だった。
 そして、あろうことかその向かい正面には、海原真理(まり)が……女装モードの海原真理(まさみち)が、和やかな笑顔を浮かべて正座していたのだ。
 「な―――…」
 ―――何、この、どこから突っ込めばいいのかわからない状況。
 唖然とする優也の傍らで、ただ1人、蓮だけが、大きな大きなため息をついて頭を押さえたのだった。


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