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― Seed(後) ―

 

 それは、優也が帰宅する、1時間ほど前のこと―――。

 

 「……“海原”……」
 101号室のドアの前で、理加子は腕組みをし、表札に書かれた文字をじーっと見つめていた。
 実を言えば、最初に見た時は、珍しい名前でもないし、特に気にも留めなかった。気になり始めたのは、ここ最近のこと。奏や咲夜との間にあったトラブルによる動揺から幾分立ち直り、新しい人間関係を楽しめる余裕が出てきてからだ。
 101号室・海原―――その苗字の横に小さく「真理」という字も見てとれる。優也と理加子が共に愛読している恋愛小説の作家と、同じ苗字、同じ名前……そして何より気になるのは、海原真理のことが話題にのぼった時の、優也の微妙な変化だ。
 妙に落ち着きがなくなり、目が泳ぐ。正直で素直すぎる優也のことだ、何か海原真理に関して理加子に隠していることがあるのではないか―――そんな考えがふと浮かんだ時、それまで気にならなかった101号室の表札が、やたら気になってきてしまった。
 ―――まさか、ねぇ…。そんな偶然、ある訳ないもの。…でも、優也って、凄く正直な顔してるから、全部顔に出ちゃうのよね。だとしたら……。
 理加子は、気になることはこの目で確かめないと気の済まないタイプである。奏との一件も、その性格が災いしていた、と言えなくもない。また余計なことをしたせいでトラブルになるかも―――そう思うと、こんなどうでもいい疑問、放置しておいた方が賢い選択だろうとは思う。が……それでも、やっぱり、気になる。
 で、気づいた時には、既に101号室の前だった。
 いつも、こうだ。大した計画もなく、先の見通しもなく、ただ感情の赴くままに行動して、毎回「ああ、失敗した」と後悔する。今の理加子も、少なからず後悔していた。海原真理の顔も知らないのに、一体何をどうする気なんだ、と。
 「あーあ…」
 ため息をついた理加子は、手持ち無沙汰な様子で、意味もなくキョロキョロと辺りを見回した。
 平日の昼前だ。人の姿は全く見えない。当然、奏の姿も。そのことにホッとしつつも、ひとりぼっちの状態に、少し心細くなってきた。試しに、優也の部屋の呼び鈴を鳴らしてみたが、留守らしく返事がなかった。
 ―――あ、そうだ、猫。
 ミルクパンのことを思い出し、いそいそと物置の中を覗いてみると、何故かミルクパンまでが不在だった。
 「…つまんないなぁ」
 だんだんと、101号室に対する興味より、寂しさの方が勝ってきた。
 もう帰っちゃおうかな、と半ば思い始めた、その時。
 「何してるんだ」
 突如、背後から低く声をかけられ、理加子は危うく跳び上がりそうになった。
 びっくりして振り向くと、そこには、相変わらず無表情な顔をした蓮が、腕組みをして立っていた。
 「…なぁんだ、蓮か…」
 「なんだ、とは、なんだよ」
 露骨にムッとする蓮をよそに、理加子は再び物置を覗き込みながら、
 「ねえ、ここの猫、知らない? 姿が見えないんだけど」
 と訊ねた。ため息をついた蓮は、面倒くさそうにではあるが、それでも律儀に答えた。
 「…さあ? ミルクパンに用だったのか?」
 「ううん。優也が留守だから、猫と遊ぼうかと―――あ、優也はどうしたの?」
 「…秋吉なら、大学」
 「え、今日って講義のある日だった?」
 「いや、忘れ物取りに。…何、秋吉に用?」
 「ううん、そうじゃなくて―――…」
 ―――そう言えば、何しに来たんだっけ。
 一瞬、自分でもわからなくなりかけたが、本来の目的を思い出した理加子は、少し声を潜めて、改めて訊ねた。
 「……ねえ。蓮って、101号室の人と、知り合い?」
 「は?」
 「ほら、この“海原”さんて人。下の名前が“真理”だけど―――どんな人か、知ってる?」
 「……」
 いつも、無愛想か不機嫌顔か困った顔しか見せない蓮が、理加子の言葉に、一瞬、表情を変えた。
 不意打ちを食らったような、らしからぬ焦った顔を見せた蓮だったが、すぐに平静を装うと、
 「ああ、まあ……一応、知ってはいるけど」
 と、曖昧な返事をした。が、理加子は、その一瞬の動揺を見逃さなかった。
 「じゃ、話したことは?」
 「…一応…」
 「何してる人か聞いたこともある?」
 「…いや…どうだったかな」
 「―――海原真理って、恋愛小説作家にもいるわよね」
 理加子が核心をつくと、蓮は即座に返した。
 「俺、その手の読まないし」
 「…なんか、妙に今のだけ返事が素早くない?」
 「……」
 「なぁんか、優也も“海原真理”の話になると、態度が変なのよねぇ…。目が落ち着かなくなっちゃって、話を早く切り上げたそうなムードになっちゃうの」
 「……」
 「ねぇ。もしかして、」
 いよいよ理加子が真相に迫ろうとした、その時―――101号室のドアが、ガチャリ、と音を立てて開いた。
 「!!」
 2人揃って、驚いて振り返る。すると、101号室のドアの隙間から、見覚えのある黒い猫がスルリと出て来た。その猫を見送るように、1人の人物が、腰を屈めた姿勢で上半身だけドアから姿を覗かせた。
 「はいはい、中森さんとこのミランダちゃんによろしくねー」
 猫に向かってヒラヒラと手を振ったその人物は、そこで初めて、自分の方を見ている2人に気づき、顔を上げた。
 ―――わー、なんか、芸術家っぽい人ー…。
 それが、その人物に関する第一印象。
 栗色の長めの髪を一つに束ね、いかにも「適当に選びました」という感じの綿素材のシャツに、ゆったりしたジーンズ。ちょっとずらして掛けた小振りな眼鏡がコミカルな感じだが、顔だちは優しそうで、どちらかというと真面目そうだ。男性にしては肌が綺麗なせいか、パッと見た感じ、一体いくつ位なのか見当もつかない。きっと、家の中で一日中絵を描いたりして過ごしてるから、日焼けによるシミ・ソバカスとも無縁なのね―――そんな絵が頭に浮かび、理加子は勝手に納得してしまった。
 足元をすり抜けていく猫に一瞬目をやりつつも、彼は理加子と蓮の顔を見比べた。
 「おや、穂積君じゃない。何してるの、そんなとこで」
 やはり、蓮とは顔見知りらしい。首を傾げる彼に、蓮は気まずそうに髪を掻きむしりつつ、ぼそっと答えた。
 「…いや、今、マリリンさんの―――…」
 「!」
 あ。
 という顔に蓮の顔が変わるより早く、理加子はパッと蓮の方を見、目を見開いた。
 「“マリリンさん”?」
 「……」
 「今、“マリリンさん”て言わなかった?」
 「…いや…、だから、今のは」
 「言った! ぜぇーったい、言った!! あたし、ちゃあんと聞いてたもん! “マリリン”て海原真理の愛称でしょ!」
 「知らねーよっ! 俺、その手のは読まないっつっただろっ!」
 「じゃあ、なんで今“マリリンさん”て言ったのよ!? 偶然!? 嘘っ! ぜーったい、嘘!」
 「嘘じゃねぇっ!!」
 「あー、ちょっと、そこの子!」
 言い合いをする2人に割って入るかのように声をかけると、101号室の住人は部屋から出てきた。
 ピタリと言い合いを止め、彼の動きに目をやると、彼はつかつかと理加子の前へと歩み寄り、理加子の顔をまじまじと見つめた。
 「…な…、何、ですか?」
 間近で見つめられ、さすがにドギマギしてくる。無意識に1歩後ろに足を引きつつ訊ねる理加子に、彼は眉間に皺を寄せた。
 「…もしかして、“月刊ドールガール”の表紙に出てる、モデルさん?」
 「えっ」
 「ゴシック・ロリータ専門のファッション雑誌で、あるでしょう? あれの表紙に毎月出てる子と、凄く似てるなと思って」
 「し……知ってるんですか!?」
 跳び上がるほど、ビックリだ。あれは、その系統のファッションを好む十代の女の子か、さもなくば二次元妄想の激しいオタク連中専門の本だと、理加子自身認識していたのに―――こんな大人の男性が、その表紙を飾る理加子の顔を覚えてしまうほど、頻繁にあの雑誌を見ていたなんて。
 目を大きく見開く理加子の様子に、自分の推理が合っていたことにホッとしたみたいに、彼は屈託なく笑った。
 「ああ、やっぱり。梨花さんが、あの雑誌、大好きでねぇ。特に、表紙が。僕自身はああいう趣味ないけど、杏奈ちゃんがキミにちょっと似てるものだから、僕も毎月楽しみにしてるよ」
 「…アンナちゃん?」
 「あ、ごめんごめん。娘のこと」
 「じゃあ、リンカさん、ていうのは…奥さん?」
 「そう」
 パチパチ、と目を瞬く理加子の横で、蓮が「あーあ…」という顔で明後日の方向を向いた。が、そのことに、2人とも全く気づいていなかった。
 「…あのぉ…」
 「?」
 「じゃあ、“海原真理”さん、ていうのは?」
 「僕だけど?」
 「……“マリリン”さんも?」
 「そ……」
 そうです。
 明らかにイエスとしか思えないタイミングと表情が、たった1音しか発せられなかった言葉の全貌を、如実に表していた。

 目の前の男性、イコール、通称“マリリン”。
 目の前の男性、イコール、妻子持ち。

 …女流作家・海原真理、イコール、妻子持ちの男性。

 「―――…!!!」
 理加子の驚愕の絶叫は、ご近所中に響き渡る前に、蓮の手と真理の手の二重のブロックによって、辛うじて押さえこまれた。


***


 「…だからって、“マリリン”に化けるのは、やりすぎですよ…」
 事の次第を聞いてため息をつく優也に、真理は湯のみを再び手にしつつ、しれっと答えた。
 「“小説家・海原真理”として接するには、この格好じゃないとノレません」
 「ノッてやるものなんですか、それって」
 「虚像を演じるには、テンションてもんがあるでしょうが。姿カタチから入っていくのよ、アタシの場合は」
 「…はぁ…」
 「それに、ご両人には楽しんでいただけたと思うわよ? まだ誰も見たことのない“マリリン変身工程”を、がぶり寄りで見れたんだから」
 「…それは、僕もちょっと見たかったです」
 力なくそう言うと、優也はなんとなく羨ましそうな目を蓮と理加子に向けた。蓮は、そんな目をされても困る、と言いたげに眉を寄せたが、その斜め前に座る理加子は、優也が残念がるのも無理もない、と心から思い、苦笑した。


 実は、この女装は、真理の方から率先してやったものではない。
 真理が何故“女流”作家という触れ込みで執筆活動しているのか―――その理由を聞いて、何度も会う人が何年も騙され続ける女装ってどれほどのものなのだろう、と俄然興味が湧いた理加子が、「是非お願いします!」と目を輝かせて頼んだ結果が、これだ。とは言っても、無理に頼み込んだ訳ではなく、「じゃあ特別に」と請け負った真理の方も、やたら楽しそうだったのだが。
 『でも、トップシークレットを披露するからには、見返りがないと』
 ということで、何故優也のような真面目路線一辺倒な学生が華やかな世界のモデルと親交があるのか、友達になった経緯は何なのか―――要するに、奏や咲夜に関する一連の出来事を、簡単にではあるが、全部話す羽目になってしまった。あまり口にしたくはないそれらの話をポツリポツリと話す間も、理加子の目は、常に真理の顔に釘付けになっていた。
 刻一刻と変わっていく、眉、目元、口元―――丁寧にメイクを重ねていくにつれ、どこから見ても男性にしか見えなかった顔が、次第に華やかに、そして女性らしい艶やかなものに変わっていく。そのメイク術にも舌を巻いたが、それ以上に驚いたのは、メイクが終わった後だ。
 着替えを終え、再び目の前に現れた真理は、別人だった。立ち居ふるまい、声の高さ……いや、そんな問題ではない。言葉には表現できない部分が、完璧に“女性”に化けていた。しかも、本来の姿の時とは逆のキャラクターを持つ女性に。
 信じられない―――メイクと服装だけで、ここまで変われるものだろうか? 思わず「そっちの趣味があるんですか?」と訊いてしまったが、答えはノーだった。
 『性的嗜好はノーマルだし、プライベートじゃあ女装なんてしませんって。飽くまで、“人を騙すのが面白い”だけのことよ』
 確かに真理にとっては、それだけのことなのかもしれない。けれど、理加子にとっては―――モデルという職業に就いている理加子にとっては、真理のプロ顔負けの化け方は、単に「騙されてビックリして楽しい」では終わらないレベルの衝撃だ。

 同じような衝撃を、前にも一度、経験したことがある。
 10分前、自分が立ったのと同じ背景、同じ小道具、同じ照明、同じカメラの前。メイクルームではただの「綺麗な顔をしたメイク担当」に過ぎなかった彼が、そこに立った途端、別人に変わった。どこも変わっていないのに―――さっき見たのと同じ顔、同じ服装なのに、そこに居たのは、激しいオーラを放つ、最高級のファッションモデルだった。
 一体何者なのか気になって、彼のこれまでの仕事をマネージャーに頼んで調べてもらって……その中の1枚が、今回と同じ衝撃を理加子に与えた。あのMP3プレーヤーのポスターの写真―――必要最低限のメイクで、ものの見事に聖母マリア像へと化けてしまっていた、あの写真だ。

 一種の自己暗示だと、奏は言った。いつもとは違う自分を鏡に映し、そこに「別人」を見つけて、その気になるのだと。
 あれからずっと、仕事のたびに、そうしようと努力はしている。が……いまだ、「ああ、この瞬間を“見つけた”って言うんだ」と納得できる瞬間には出会えていない。…多分、素人の真理は、理加子が探しているその瞬間を、既に体験済みなのだろう。「この格好じゃないとノレない」という言葉が、それを証明しているような気がする。
 羨ましいな、と、素直に思えるのは、真理の人柄のせいだろうか。
 それとも―――理加子に、悔しがるだけのプロとしてのプライドがないから、なのだろうか。


 「でも、優也がこんなに残念がるってことは、本当にトップシークレットなのね。案外あっさりOKしてくれたから、みんな見たことあるのかと思っちゃった」
 苦笑混じりに理加子が言うと、優也は、とんでもない、とでもいう風に首をぶんぶん振った。
 「まさか! あれほど頑なに拒んでたマリリンさんが、どうしてこんなにあっさりリカちゃんに見せたのか、不思議な位だよ」
 「まあまあ、いいじゃないの。変わり者小説家も美少女には甘い、とでも思っておいて頂戴」
 涼しい顔でそう言った真理は、余裕の態度でずずず、とお茶をすすった。が、勿論、ここにいる誰一人、その言葉を信じてはいない。じっ、と3人が見つめると、湯飲みを置いた真理は、困ったように笑った。
 「そんな風に睨まれても、ねぇ…。まあ、こっちも理加子ちゃんのファンだから、ってのが、一番近いかしらねぇ」
 「…奥さんだけじゃなく、マリリンさんもファンなんですか」
 「家族が好きなモノには、自分も肩入れしたくならない?」
 「……」
 「優也は岐阜の出身だけど、お父さんが阪神ファンだから、中日対阪神の試合だと、つい阪神応援したくなるんじゃない?」
 「…それは、ちょっと、ある…かな」
 「穂積君は?」
 話を向けられた蓮も、微妙な顔をしながらも、一応頷いた。
 ―――ふぅん、こんな無愛想な奴でも、家族には優しいんだ。
 家族だろうが何だろうが、人は人、自分は自分、と切って捨てそうな気がしていたので、少々意外だ。半ば感心したような目で理加子が蓮を見ていると、真理の目が、今度は理加子本人に向けられた。
 「理加子ちゃんは、どう?」
 「えっ」
 「ご両親と上手くいってないみたいだけど―――ご両親が好きなものには、理加子ちゃんもちょっと贔屓目になったりしない?」
 「……」
 両親が、好きなもの―――…。
 具体的に想像してみようとした理加子だったが、5秒後、諦めたようなため息とともに、力なく首を振った。
 「…あたし、両親が好きなもの、何も知らないんです」
 「何も?」
 「ご贔屓の野球チームも知らないし、好きな芸能人も、尊敬する人も……ううん、仕事以外で興味のあるものがあるかどうかすら、全然知らないんです」
 「…あらら…」
 「海原さんとこみたいな家族だったら、よかったのになぁ…」
 羨ましそうに理加子がそう言うと、真理の表情が、何故か一瞬、こわばった。
 「?」
 その一瞬の変化に気づいた理加子が不思議そうな顔をすると、真理はすぐ笑顔になり、「なんでもない」という風に首を振った。
 何か変なことでも言ってしまっただろうか―――不安になり、優也や蓮の方に目を向ける。が、優也は曖昧な笑みを返すだけだし、蓮は相変わらず、何を考えているのかわからない表情のままだった。もしかしたら、優也は今の真理の表情の意味をある程度知っていて、蓮の方はあまり知らないのかもしれない。
 ―――どっちにしろ、今、ここで訊くべきじゃない、ってことよね。
 その辺の空気の読み方は、最近、少しはできるようになったつもりだ。娘が自分と似ていると聞いているだけに、ちょっと気になりはしたが、理加子は何も訊かずに、話を変えることにした。
 「でも、海原真理が男だったなんて当然びっくりだけど、しかも既婚者で子供もいるなんて、意外。絶対、30代前半の独身女性だと思ってた」
 理加子がそう言うと、冷めかけたお茶をコクンと飲んでいた真理は、その話に興味がひかれたように、目を輝かせた。
 「おや、そう? ふーん…文章から筆者の人物像を想像するってのも、面白いわねぇ。優也は、どう?」
 「え、ぼ、僕ですか? 僕は……特に、何も。…穂積、どうだった?」
 困ると蓮に話を振るのは、優也の弱気さからくる悪い癖だ。案の定、振られても困る話題を振られてしまった蓮は、優也以上に困った顔で眉根を寄せた。
 「…だから、恋愛小説はほとんど読んだことがないんだって」
 「でも、マリリンさんの作品は、僕と出会う前から読んでたじゃないか」
 「あれは……ちょっと訳があって、2冊ほど、強引に読まされたんだよ」
 「強引に?」
 「何それ」
 小説を強引に読ませる、なんて、どういうシチュエーションだったのだろう? 優也と理加子が不思議そうな声を上げたが、蓮は気まずそうな顔で、あぐらをかいた膝をごそごそと動かしただけで、何も説明してはくれなかった。
 「アハハ、確かに穂積君は、もう少し恋愛小説でも読んだ方がいいかもしれないわねぇ。いかにも恋愛に疎そうだもの」
 そう言って愉快げに笑う真理を、蓮が控えめに睨んでみせたが、真理はそれをものともせず、羊羹の切れ端をあーん、と口に放り込んだ。
 「けど、理加子ちゃんの“30代前半の独身女性”っていう想像は、なかなかいい線じゃない?」
 「いい線?」
 「実際のところ、海原真理作品の主人公の半分は30前後の独身女性だしね。20代の女性が、自分たちの未来を重ねて共感する、ってコンセプトで書いてることが多いから、中高生だと渋すぎてウケないのよね。ああ、援助交際モノは逆に学生にウケてたけど」
 「…あー…、わかります」
 理加子も本来、もっと軽いテイストの恋愛小説が―――それこそ、一人称で自分たちの日常言葉で書かれているような、ティーンズ文庫モノの方が得意な方だ。
 海原真理の作品を手に取ったのは、たまたま本屋で見かけて、表紙が綺麗で惹かれたからに過ぎなかった。それが『暁坂トライアングル』―――それまで読んできたものとは違うその静かなトーンやしみじみした結末に、ちょっとは大人の小説も読みたいな、と思うようになったが、これが高校生の頃だったら、「なんか暗いし難しい」なんて言って放り出してしまっていたかもしれない。もっとも、何作か読んでみたら、実は『暁坂トライアングル』が一番低年齢向けだったのだが。
 「“暁坂トライアングル”を読んだ時は、あたしより少し上の……20代半ば位の人かな、って思ったんだけど、別の作品読んだら、これはもっと年上だな、って思って」
 「ふぅん? どの作品?」
 「“アルカロイド”です」
 思わず、題名を言う口調に、力が入る。何を隠そう、この作品を読んで、理加子は名実ともに「海原真理ファン」になったのだから。
 「優也に勧められて読んだんだけど、あれはもう、絶対、人生の山も谷も経験してる大人の女性でないと書けないなーって。特に、自分が大失恋してどん底にいる時読んだから、ずっと年上の人の話の筈なのに、そうそう、わかるわかる、って共感しちゃいました」
 「あー。確かに、あれは、理加子ちゃんの立場には“くる”でしょうねぇ…」
 筆者である真理はそう言って苦笑し、傍らで聞いていた優也は複雑な顔をした。1人、話についていけない、という顔をしていた蓮は、優也の背中をトントン、と叩き、耳元で小声で訊ねた。
 「…どんな話だっけ」
 「え? えーと、ほら、恋愛体質の女の人が主人公で、次々人を好きになっては、どんどん振られていく話」
 「―――ああ」
 あれか、と、蓮が不愉快そうに目を細める。…まあ、蓮のようなガチガチに固いタイプから見たら、最大級に不愉快な主人公には違いないだろう。
 「あらら…、穂積君は嫌いみたいねぇ、“アルカロイド”の主人公」
 「…いや、嫌い、っていうか…」
 さすがに筆者本人には「嫌い」と断言しづらいらしく、蓮は曖昧に言葉を誤魔化しつつ、頭を掻いた。
 「…理解できないだけ、です」
 「理解できない?」
 「…だって、あんなにバラバラなタイプを、次々に好きになるなんて―――それって、本当の恋愛じゃなく、単なる“好意”を“恋愛”と錯覚してるだけじゃないか、と。錯覚に夢中になってる人間っていうのは…ちょっと、俺には、無理です」
 「ふむ。錯覚、ねぇ」
 思わぬところを突かれたのか、真理は少し目を見張り、続いて腕組みをして、うーん、と唸った。
 「そもそも、“恋は、それ自体が錯覚”っていう説もあるしねぇ。でも、アプローチの方向が違ってるだけで、アタシは全部、本物の恋愛なんじゃないかと思うけど」
 「で…でもっ。でも、中には、本当に錯覚してるだけの場合もあるんじゃないですか?」
 突如、優也が、妙に強い口調で割って入った。その、珍しくムキになったような様子に、理加子のみならず、真理や蓮も少し驚いた顔で優也の顔を見つめた。
 「ほ、ほら、“アルカロイド”でも、主人公が凄く苦手にしてたイヤミな先輩を、些細なことがきっかけで好きになるエピソードがあったじゃないですか。…確かに、それまで“苦手だけど優秀な人”って感じで一目置いてはいたけど―――あれは、尊敬の念を“恋愛感情”と錯覚してる可能性、あるんじゃないですか?」
 「…お前、“こういうのってあるよね”って、前に言ってなかったか? そのエピソード」
 ボソリと蓮が指摘すると、優也はパッと蓮の方を見、やけに焦った様子で身を乗り出した。
 「あ……あの時は、そう思ったけどっ。でも、よくよく考えて見たら、これって単に“苦手だった人が案外いい人だった”っていう意外性と尊敬の念がミックスされて、好きになったような錯覚に陥ってるだけかもなぁ、と…」
 「…いや、そんなにムキにならなくても…」
 「ムキになってる訳じゃないけどさっ」
 「……」
 あまりの優也の勢いに、蓮もやや呑まれた様子で、口をつぐんだ。そんな様子を、同じく勢いに呑まれたように眺めていた真理は、コホン、と咳払いをひとつすると、再び手にしかけていた湯飲みをトン、と置いた。
 「うん、優也の言うことも、一理ある。あれはヒロインの錯覚かもしれない」
 「…やっぱり」
 「でも、それは、大きな問題じゃあないんじゃない?」
 「え?」
 真理の言葉に、3人はキョトンとした目になった。その反応に満足したように、真理はニッ、と口の端を上げた。
 「アタシはね。どんな感情も、最終的に恋愛感情へと繋がっていく可能性がある、って考えてるのよ」
 「…どんな感情も…?」
 「そう。気が合う奴だな、とか、凄い人だな、とか、そういうプラスの感情は勿論のこと、マイナスの感情も―――いけ好かない奴、とか、何故かその人といると素直になれない、とか。極端な話、憎しみだって、恋愛感情へと変化する可能性は、あると思う」
 「……」
 「人が一生の間に出会う、数え切れない位たくさんの人間のうち、大半が“どうでもいい人”“印象に残らない人”に過ぎない中で、どんな感情であれ、“他の人とは区別する感情”が生まれた時点で、それが恋愛感情へと育つ可能性は、生まれてるんじゃないかな」
 「…それは…いくらなんでも…」
 暴論でしょ、という顔で優也が眉を下げると、真理は「そぉ?」と涼しい顔で言い、首を傾げた。
 「そりゃあ、人には好みってものがあるし、その好みと合致している人間にはプラスの感情が生まれやすいし、恋愛感情にも発展しやすいわよ? でも、それは単に“しやすい”だけで、それが恋愛の全てじゃあないでしょ。全然そんなつもり、自分も相手にもなかった筈なのに、気づいたらもの凄く惹かれあってた、なんてパターン、いくらでもあるじゃない。アタシに言わせりゃ、ノーマル嗜好な優也と穂積君が、ある日突如恋に落ちても、全然不思議じゃあないわよ」
 「うわ、」
 それはイヤだ、と理加子が顔を歪める傍らで、とんでもない例に挙げられた当人2人は、更に嫌そうな顔をした。
 「誰だって、最初から“この人を好きになるんだ”なんて思って、人と出会う訳じゃない。先の見えないまま出会って、そして別れていく―――何度出会っても、何ひとつ残らない相手もいれば、たった1度会っただけで、強烈な“何か”を残していく相手もいる。そして、残された“何か”が何に育っていくかは、誰にもわからない。残していった人にも、その感情を育てていく人間にも、ね」
 「……」
 「そう―――人と出会う、ってことは、ちょうど、種を蒔くようなものでね。誰だって、できれば綺麗な花を相手の土壌に咲かせたいと思って種を蒔くけど、根付かないのがほとんど―――根付いたって、雨で簡単に流されちゃう種もあるし、綺麗な花を咲かせようと思って蒔かれた種なのに、水も肥料も与えなかったから、双葉も出さないうちに枯れちゃう場合もある。逆に、蒔いた本人の意図しないところで、種を蒔かれた相手が大事に大事にその種を育てて、思ってもみなかった見事な花を咲かせる場合もある。一生懸命与えた肥料が土壌に合わないもので、蒔いた本人の願いも空しく土地が痩せて種が育たない場合もあるし、2人でせっせと世話をして、あっという間に大輪の花を咲かせる場合もある…」
 そこで言葉を切ると、真理はニコリと笑った。
 「毎日毎日、蒔かれたことすら気づかないまま忘れ去られる種がいっぱいある中で、“好き”の種であれ“嫌い”の種であれ、その種が土壌に根付くだけでも、稀有なことなんじゃない?」

 “何か”を感じるだけでも、稀有なこと。
 日々、通り過ぎていく何人もの人々の中で、“何か”を感じられた人は、それだけで「別格」になる―――…。

 …そうかもしれない、と、理加子は思った。理加子の奏に対する想いも、確かにそうだったから。
 マネージャーに何を言われても、仲間にどんなに丁寧に扱われても、理加子は何も感じなかった。いけ好かない奴―――奏に対して最初に感じた憤りと苛立ちは、他の人間には感じなかった、強烈な“何か”だった。その種を、奏の度重なるアドバイスが水となり、理加子が抱える寂しさが肥料となって、「恋」へと育った。たとえ、理加子にも奏にも、そのつもりがなくても。

 「…じゃあ、2人揃って、同じ花を咲かせるつもりで、水や肥料を与えてあげられる関係って……まるで、奇跡ね」
 ポツリと理加子が呟いた言葉に、真理も、優也も、蓮も、それぞれに複雑な表情をした。
 誰の、何を思って、その表情をしたのかは、理加子にもわからないが―――みんな、何かしら心に引っかかる種を持ってるんだな、ということだけは、なんとなくわかった。

***

 結局理加子は、優也が自分の部屋に戻り、蓮が外出してしまってからも、結構長居をしてしまった。

 「すみません、すっかりお邪魔しちゃって…」
 さすがに恐縮して理加子が頭を下げると、真理は「なんのなんの」という風に笑ってみせた。
 「幸い、原稿1本あがって、次の展開に頭を痛めてるとこだったからね。いい気分転換になって、新しいアイディアも浮かびそう」
 「ほんとですか? よかった」
 「…そういう風に素直になれれば、一宮さんと和解できる日もきっと来るんじゃないかな」
 サラリと告げられた言葉に、理加子は一瞬、表情を硬くした。が、確かに真理の言うとおりかもしれない、と感じて、微かな笑みを浮かべた。
 同じように微笑を浮かべた真理は、突如、そうそう、と言いながら机の上のメモ帳を手に取り、何かをサラサラと書き付けた。
 「今日はちょっとこの後人と会うから無理だけど、今度、都合のいい日にでも、連絡もらえないかな」
 「えっ」
 そう言って、真理が理加子に差し出したメモには、携帯電話の番号らしき数字が並んでいた。
 どういう意味だろう、と眉をひそめる理加子に、真理は、なんとも言えない笑みを―――どこか寂しそうな、それでいて何かを慈しむような笑みを浮かべた。
 「ここじゃなく、海原家にご招待しようと思って」
 「……」
 「杏奈ちゃんや梨花さんに、会ってもらえないかな」
 「…娘さんや、奥さんに?」
 ―――どうして、あたしが?
 自分に似ているという娘が、両親の愛情いっぱいに育っている姿を、両親から放置されている自分に見ろというのか――― 一瞬、そんな考えも頭に浮かんだが……真理の表情は、とてもじゃないが、自分たちの幸せを理加子に見せつけるつもりでいるような類のものではなかった。むしろ、同じ寂しさを分かち合う、同病相哀れむような目をいていた。
 「…あたしと会うと、どうなるんですか?」
 「うん―――正直言えば、わからない。梨花さんは大喜びしてサインをねだるだろうけどね」
 「……」
 「今日、こうして理加子ちゃんと出会ったことが、理加子ちゃん自身と“海原家”にどんな種を蒔いて、どんな花を咲かせる結果になるか、誰にもわからないけど―――綺麗な花を咲かせる結果になるんじゃないか、って気がしたから、少し水を与えてやりたくなった。…それだけじゃ、招待する理由にはならないかな?」

 今日、出会ったことが、どんな結果へと繋がっていくか―――…。
 それも、自分自身にとって、だけではなく、真理にも……いや、真理の家族にとっても。

 見てみたい、と、直感的に思った。少なくとも、自分が変われるきっかけになるかもしれない、という予感を、微かに感じた。
 「―――必ず、連絡します」
 丁寧にメモを受け取った理加子は、そう言って、ニコリと笑った。


***


 「すみません、遅れました!」
 慌しく通用口から店の中に飛び込んだ蓮は、ちょうどその場にいた店長に、荒い息でもきっちり謝罪した。
 が、店長は3分程度の遅れは全然気にしていないらしく、随分のんびりした口調で「おー」と返した。
 「悪かったなぁ、急な予定変更で」
 「…い…いえ。あの、サトシさんは…」
 「インフルエンザらしーわ。客にうつしたらヤバイんで、お前の到着待たずに帰した」
 「…はぁ」
 「まあ、あいつもいい根性だよ。客の前でぶっ倒れる訳にはいかない、と思ったみたいで、厨房に1歩入ったところでダウンしたんだから」
 ―――ダウンするほどの状態で出てくるなよ…。
 数日前、「彼女にクリスマスプレゼントねだられてるけど、金なくてさー」とボヤいていたバイトの先輩を思い出す。金欠だ、金欠だ、とお経のように唱えていたので、無理をしてでも出てきたかったのだろう―――サトシ自身にも勿論だが、そこまでして稼がないと買えないような物をねだる“彼女”とやらにも、腹が立ってくる。
 「上がりは、予定通りで大丈夫か?」
 「はい」
 「じゃ、頼むぞ」
 ぽん、と店長に肩を叩かれ、蓮は急ぎ、着替えを始めた。


 それにしても、慌しい1日だ。
 朝イチで現れたのが優也で、本がない、蓮の部屋に置き忘れてないか、と慌てふためき、朝っぱらからバタバタしていた。その慌しさが過ぎたと思ったら、次に来たのが電話。しかもイタズラ電話だ。無言電話が、合計3回―――さすがに気持ち悪くなって、気分転換に出かけようとしたら、今度は理加子ときた。そしてとどめが、イタズラ電話も諦めたかな、と思って再び携帯電話の電源を入れた直後にかかってきた、バイト先からのSOSだ。
 ―――あー…、疲れる。
 蓮自身の日常は、極めて平坦で、実に穏やかなものなのに、何故か周囲が、いつもいつもバタバタしていて、忙しない。兄や和美の件という、どうも自分は「巻き込まれ体質」なのではないだろうか。
 ―――それにしても、午前の無言電話、いったい何だったんだろう…? 携帯の番号なんて、教えてる奴、そんなにいなかったと思うのに。
 発信者の電話番号が表示されなかったことからも、知り合いからの電話ではないことは明らかだ。誰かよからぬ人間に番号が流出したんだろうか、なんて考えつつ着替えを終えた蓮は、ロッカーのドアの裏についている鏡で簡単に服装をチェックし、ドアを閉めようとした。
 と、そのタイミングを見計らったかのように、ロッカーの中に置いていた携帯電話が、ピリピリピリ、と着信音を立て出した。

 「……」
 …また、無言電話かも。
 一瞬、その可能性が頭をよぎる。もしそうなら、このままドアを閉めて封印、が賢い選択だ。だが、そうじゃないことも考え、蓮は念のため、ハンガーに掛けられたジャケットのポケットから、携帯を引っ張り出してみた。
 液晶画面を確認すると、そこには、午前中3度見かけた「非通知」の文字ではなく、「カナメ」という字が表示されていた。「カナメ」―――兄・要の携帯電話だ。
 兄から電話なんて、珍しい。家で何かあったのか、と、蓮は慌てて受話ボタンを押した。
 「もしもし」
 『蓮か!?』
 聞こえてきたのは、兄の、明らかに動転したような声だった。外からなのか、バックに雑踏の音らしき雑音がザワザワと流れている。どうやら歩きながら電話しているらしい。
 「ああ。何、なんかあった?」
 『和美がいない!』
 唐突な一言に、蓮の頭が、一瞬、ストップした。
 「……は?」
 『和美がいないんだよっ! 家にも、会社にも、実家にも!』
 「……」
 和美の家は、現在、蓮の実家・穂積家である。この前の土曜日、入籍を目前にして、引っ越してきたのだ。入籍は、ロマンチストの兄らしく、クリスマスイブにするつもりだという。会社も、年内いっぱいで寿退社だ。
 今日は平日。なのに、会社に和美がいないこと自体、異常だ。その上、穂積家にもおらず、実家にもいないとなると、これは完全に異常事態だ。
 「な……なんで、」
 『知るかっ! 母さんの話じゃ、テーブルの上に、和美の携帯電話と、“1人で考えたいことがあるから、暫く留守にする。心配しないで”ってメモが残されてたらしいけど……俺だって、何がなんだか…』
 「……」
 『なぁ、蓮。お前、何か知ってるんじゃないか?』
 「いや」
 『ほんとだろうな!?』
 兄の語気が、微妙に荒くなる。その意味を感じ取った蓮は、ムッとしたように眉を顰め、携帯を握る手に力を込めた。
 「なんで兄貴が知らないことを俺が知ってるんだよ!? あんたの婚約者だろ!」
 『……っ、』
 滅多に声を荒げることのない蓮だ。電話の向こうで、兄が息を呑むのを、はっきりと感じた。
 ―――落ち着け。
 この6年で培われた憤りは、蓮の抑制を無視して出てくるレベルに達してしまったのか―――はぁっ、と息を吐き出した蓮は、冷静さを取り戻すべく、狭い従業員室の中をうろうろと歩き出した。
 「…ごめん。怒鳴ったりして」
 『…いや。俺の方も、悪かった』
 兄の方も、蓮の一言で、少し冷静になったらしい。声がいつもの兄らしい声になっていた。
 思えば、婚約者が失踪したのだから、気が動転して当然だ。自分がより冷静にならなくてはいけない。メーターを振り切りかけた憤りを堪えるために、蓮は一度唇を噛んだ。
 「―――和美んとこのおばさんは? 和美から何か聞いてないのかよ」
 『いや…何も。同じ内容のメモが、郵便受けに入ってたらしい』
 「…周到だな…」
 『会社も、病欠、ってことで、和美本人から今朝電話が入ったそうだ』
 「…行き先の心当たりは?」
 『…あれば、お前に電話してないよ』
 …ごもっとも。
 携帯も置いて行っているのでは、連絡の取りようもない。しかも、成人女性の自筆メモ―――それも死ぬとか永遠に出て行くとかいうニュアンスではないメモまである家出では、警察に届ける訳にもいかない。完全に、八方塞がりだ。
 ―――何やってるんだ、あいつは…っ。
 無事引越しも済んだと母から電話をもらい、やっと少しホッとしたところだったのに。苛立ったように頭を掻き毟る蓮の耳に、暫し無言だった兄の声が、突如、届いた。
 『―――なあ、蓮』
 「ん?」
 『もし、和美がお前のとこに来たら―――話だけは、ちゃんと聞いてやってくれ』
 「……」
 頭を掻き毟る蓮の手が、止まった。
 『もし電話がかかってきたら、早く帰れ、って怒鳴らないで、あいつの言い分をちゃんと聞いてやってくれよ』
 「……」
 『多分あいつ、お前ととことん話をすれば、ちゃんと帰ってきてくれると思うから』
 「…な…何、言ってんだよ」
 鼓動が、変に、乱れる。
 おかしい―――兄は、こんなことを言う人ではなかった筈だ。混乱しつつも、蓮は、兄の言葉の裏に別の意味があるのではないか、と、兄の本音を探そうとした。
 「なんで俺と和美が話し合う必要があるんだよ? ただの幼馴染なのに」
 『……』
 「兄貴がそうやって、和美と俺の間に何かあるように勘繰るから、和美も」
 『―――勘繰ってるんじゃない』
 蓮の言葉を、要の低い声が、遮った。
 『和美は、ずっとお前が好きだったんだよ。蓮』
 「…は?」
 『ずっと―――団地でかけっこして遊んでたあの頃から、和美はお前が好きだったんだ』
 「…何…、それは、好きは好きでも意味が」
 『そりゃあ、あの頃は、恋愛感情の“好き”じゃあなかったさ。あいつの初恋の相手は、確かに俺だと思う』
 そのとおりだ。和美は、蓮が恋愛感情について多少理解できる年齢になった時には、既に要が好きだった。誰が何を言っても男勝りな性格を直そうとしなかったのに、要が一言「みっともない」と言っただけで、蝉捕りをやめてしまうほどに。
 『でもな。俺はずっと―――今までずっと、“2番”だったんだよ』
 「2番?」
 『和美の中の優先順位は、1番は蓮、2番は俺―――それが恋愛感情でも、そうじゃなくても、和美は常に俺よりお前を気にしていたし、お前といる時の方が楽しそうだった』
 「……」
 『…俺が和美と付き合い始めた時は、和美自身、自分の中のお前に対する“好き”の正体が、まだ曖昧だったんだよ。俺の方は、ああ、和美のやつ、蓮を別の意味で意識しだしてるな、って薄々気づいてはいたけど……和美がまだ気づいてないのをいいことに、先に自分のものにしたんだ。同じ“恋愛”の土俵に上がっちまったら、2番の俺は、確実に1番の蓮に負ける―――そう思ったから』
 「…そんな訳、ないだろ」
 口の中が、渇く。唾を飲み込み、蓮は慎重に言葉を選んだ。
 「俺も和美も、男同士みたいな付き合いだったし、そんなつもりは全然…」
 『それでも、だよ』
 「……」
 『お前にそのつもりはなかったかもしれない。和美だって、自分の中のお前に対する感情が、そんな風に育つなんて考えてもみなかっただろう。それでも―――お前と和美は、子供の頃から同じものが好きで、長い時間を一緒に過ごして、お互いの才能も認めてきただろ。…そういう積み重ねが、和美の中の“好き”を、別の形に変えることだってあるんじゃないか?』
 「……」

 種を蒔き、そこに、水や肥料や光を与えるように。
 数時間前、真理の部屋で聞いた話が、頭に浮かぶ。
 和美という土壌に蒔かれた自分という種が、そんな花を咲かせたのは……和美1人の責任じゃない、同じ時間を過ごした、自分の責任でもある、ということだろうか?
 そして、もしかしたら―――横から割り込んで栄養を断ち、育ちかけた花を和美1人で育てさせる羽目になった兄・要の責任でもある、ということだろうか…?

 「…もしかして兄貴、そのことが言いたくて、俺に海原真理の“アルカロイド”、渡したのか?」
 ちょうど1年ほど前、兄から強引に渡された本のことが、今の兄の言葉と結びつく気がした。案の定、返ってきた声は、どことなく呆れたような声だった。
 『お前、今まで少しも和美の問題と結びつけなかったのか? あの話を。幼馴染とくっついて別れるエピソードもあったのに』
 「…ごめん」
 はーっ、とため息をついた兄は、そこで語気を強め、きっぱりと言い放った。
 『言っておくけどな。今は俺が“1番”だぞ』
 「……」
 『お前に対する和美の気持ちは、中途半端なまま関係が途絶えたことで、消化不良みたいに残ってる。それに輪をかけて、あの階段事故だろ。だから、まっすぐ育ててきた俺に対する気持ちより、心にひっかかって、気になって、和美を混乱させてるだけなんだと思う』
 「…うん。俺も、そう思う」
 まさか、兄と、こういう話が冷静にできる日が来るとは、思ってもみなかった。
 和美が姿を消したことで、お互い、変なプライドや遠慮が抜け落ちたのだろうか。不思議と、兄が言うことに、蓮も頷くことができた。
 『俺が、先行逃げ切りなんて卑怯なこと考えずに、和美がもうちょっと大人になるまで待つべきだった、ってことも、喧嘩になってもいいから、とことん和美と話し合うべきだった、ってことは、百も承知だけど―――もう、俺が何か言ってどうにかできる段階じゃない。悪いけど、お前が決着つけてやってくれ』
 「…俺、全然自信ないよ」
 『大丈夫だ』
 「どこから来るんだよ、その自信」
 『お前と和美のことを、誰よりもよく知ってるからだよ』
 「……」
 『お前も、和美も、随分変わっちまったけど―――“和美にいちゃん”に憧れてた蓮も、走ってる蓮を自分の子分だって自慢してた和美も、俺は覚えてるからな』

 覚えてるからこそ、いつもお前は、俺にとっては“脅威”だったんだけど。

 かろうじて聞こえる、という位の小さな声で、要はそう言った。
 その言葉に、子供たちのかけっこを、1人、まるで門番のようにじっと動かず眺めていた中学生の兄の姿を、蓮は久々に思い出した。

 …そうか。
 こと、和美に関しては、兄貴にとって俺は、あの頃から“脅威”だったのか。

 子供たちを見守っているように見えた兄の目が、もう少し子供なら自分も一緒に走れたのに、という恨めしそうな目であったことに、蓮はこの時、初めて気づいた。
 『とにかく、俺は、和美の友達のところを片っ端から当たってみるから、お前は携帯の電源ずっと入れておけよ』
 「わかった」
 『頼むぞ』
 そう言うと、兄からの電話は、プツリと切れた。
 最後まで、蓮の気持ちを疑ったり過剰な嫉妬心を見せたりしたことについて「悪かった」と謝らないところが、要らしいといえば、要らしい。苦笑しつつ、蓮も電話を切った。

 ―――それにしても―――…。
 携帯をマナーモードに変え、ひそかに制服のズボンのポケットに突っ込みながら、蓮は微かに眉をひそめた。
 電話を終えて一息ついた時、蓮の頭に浮かんだのは、午前中にあった3回の「イタズラ電話」のことだった。
 …もし。
 もし、あれが、イタズラ電話じゃなかったとしたら―――…?
 「…何してるんだ、あのバカ…」


 音の鳴らない携帯電話と、複雑な気持ちを抱えたまま、蓮は仕事に出た。
 けれど、カフェタイムから午後9時までの長時間のバイトの間、ポケットに忍ばせた携帯電話が震えることは、結局、1度もなかった。


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