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― Silent Night(1) ―

 

 「え? メイク講座?」
 奏が少し目を丸くすると、鏡の中の貴婦人がニッコリと微笑んだ。
 「そうなのよ。趣味のお友達を集めて、ちょっとしたパーティーをするんだけど、その余興に是非、奏ちゃんにお願いしたいの」
 「余興…」
 いや、それよりまず、その「奏ちゃん」という呼び方はやめて欲しいのだが―――この大河内夫人は、“Studio K.K”にとっても、そして勿論奏自身にとっても、上得意中の上得意だ。寒気のする呼び方位、我慢するしかない。
 「でもオレ、人にメイク教えたことなんて、まだ一度もないですよ?」
 「あらぁ、大丈夫よぉ」
 まだメイク途中の顔を目一杯の笑顔にしながら、大河内夫人はオーバーな位に手を振ってみせた。
 「そんなに堅苦しく考えなくても。集まる奥様方は、皆さん私と同年代の方々ばっかりで、一緒にニースまで旅行にもいったお仲間だから、すっぴんもバレちゃってるし。奏ちゃんは私にいつもどおりのメイクをしてくれて、それ見て“まー凄い!”って思ってもらえば、それでいいの」
 「うーん…」
 「パーティーシーズンのピークで大変とは思うけど、昼間の1時間だけだから! それで、上手くすればお友達の中から新しい得意先が現れたら、悪い話じゃないでしょ?」
 さすが、一代で財を成した企業の社長夫人。なかなか口が上手い。自分1人のことならどうとでも断るが、店に新しい客が呼び込める可能性を匂わされると、さすがの奏も弱い。
 ―――けどなぁ…。
 今は、まさにパーティーシーズン真っ只中。しかも、大河内夫人が企画するホームパーティーは24日―――クリスマスイブときている。クリスマス前後数日というのは、一番忙しい時期なのだ。星が抜けて以来、奏が抱える指名客も格段に増えた。実質2、3時間のこととはいえ、この時期に店を抜けるのは、ちょっと即断しかねる。
 「こちらのスケジュールを確認して、改めてご連絡させてもらっていいですか?」
 とりあえず店の意向を聞こうと、そう大河内夫人に告げると、彼女はちょっとだけ不服そうな顔はしたものの、
 「ま、奏ちゃん1人のお店じゃないから、色々話し合わないといけないんでしょうね」
 と納得し、「きっと連絡ちょうだいよ」と念を押して帰って行った。


 「大河内様て、あの人やろ? 両手にごっつい指輪4つもつけてる人」
 「そう」
 ブリックパックのフルーツジュースをずずず、と吸い上げつつ片手をヒラヒラ振ってみせるテンに、奏もややウンザリ顔で頷く。
 「正味1時間、拘束2時間前後で、なんぼなん?」
 「3万」
 「うわ、ええ話やん。即OKせなアカンて、いっちゃん」
 「そうは言うけどなぁ、24日だろ? 去年だって飛び込みが多発して大変だったしさ」
 「確かになぁ…」
 奏とテンのやり取りを黙って聞いていた氷室も、やや渋い顔で頷いたのだが。
 「でも、店長は“行け”って言ってるんだろう?」
 「…そうなんだよな」
 奏の相談を受けた店長の返答は、「是非やってこい」だったのだ。
 幸いにして、24日はメインスタッフが全員店に出られる状態だし、既に請け負っている奏の予約とも被らない時間帯だから、何ら問題はない、というのが、店長の見解だった。これから予約を希望する客が出てきたらどうするんだ、と奏は心配したが、「先客優先は当然、大河内様を優先しろ」と言われてしまった。
 「まあ、店長的には、そうだろう。大河内様のお仲間連中なら、金と暇の余ってる有閑マダム揃いだ。店のいい顧客になること間違いなしだよ。エステ利用に繋がれば、利用頻度もぐっと高まるしな。大河内様も、メイクは奏をご指名だけど、エステ利用も週に1度は来てるだろ?」
 「うん、まぁ…」
 「なんや、いっちゃん、乗り気やないん? そやったら、ウチに譲ってや、その仕事」
 奏の浮かない顔を見て、テンがすかさずそう言うと、氷室が呆れたような顔で首を振った。
 「テンに務まる訳、ないだろう?」
 「なんでですかー!」
 「大河内様は、“奏だから”依頼したんだよ。初来店からずっと指名し続けてるスタッフだからこそ、親しい仲間に自信を持って紹介できるんだ。まだ一度もメイクを頼んだことのないテンがいきなり来たら、玄関で追い返されるのがオチだ」
 「けどあのオバサン、いっちゃんの腕より、顔に惚れ込んでるのとちゃいますか?」
 そうなのだ。
 奏が一番気にかかっているのは、その点―――鏡越しに見る大河内夫人の目が、時折、いわゆる「色目」になる点だ。100パーセント、顔だけが理由で奏を指名している訳ではないだろう(と思いたい)が、メイク技術だけを買われている訳ではなさそうだ、ということは、スタッフ全員が察しているし、奏自身も以前から察していた。
 「素人さんからの個人依頼って、うちの店でも初だしなぁ…。プロの現場に行くのとは勝手が違うような気がして、なんか気が進まないよなー」
 「…ま、何事も経験だよ」
 そう言って、氷室にぽん、と肩を叩かれたが、奏の気分はいまいち晴れなかった。


 本来、店の仕事以外の依頼は、非常にありがたいことだ。“Studio K.K.”はプロ集団であり、店を離れてもやっていけるだけの実力を持ってこそ、本当の意味での“Studio K.K.”のスタッフ、と言えるのだから。
 けれど……奏は、大河内夫人からの依頼を、どうしても心から喜べずにいた。何故か、あることを―――思い出したくないことを、思い出してしまって。

 共通点など、何もない。だから、理由は、定かではない。
 大河内夫人からの依頼を受けた時、奏が思い出したのは―――何故か、姫川リカのことだった。


***


 「Oh when the saints, go marching in, oh when the saints go marching in...」

 やっぱりこの曲は、トリオよりビッグバンド・ジャズの方が合うかもなぁ―――明日に迫ったクリスマス・ライブの最後を飾る『When the Saints go marching in(聖者の行進)』を口ずさみつつ、咲夜は頭の片隅で、そんなことをちょっとだけ思った。
 毎年、クリスマスの前後に必ず1度は、クリスマス・ソングを中心に7曲ほど一気に演奏するクリスマス・ライブを店で行うことになっているのだが、今年はなんといっても、25日当日が、咲夜たちがステージを務める木曜日ときている。まさにライブにはうってつけだ。
 ―――これで、もっとすっきりした気分でステージに立てりゃあ、なお良かったんだけどねぇ…。
 実質的オーナーが経営にシビアな息子になってしまい、先行き不安な“Jonny's Club”である。今年のクリスマスは、店の誰にとっても、少し複雑な気分で迎えるものになりそうだ。

 「こんにちはー。“カフェ・ストック”でーす」
 半開きのドアを軽くノックして事務所内を覗くと、奥の席で頭を抱えていた人影が、顔を上げることなく手を振った。
 「ありがと、咲夜ちゃん。入ってきて」
 「…お邪魔しまーす…」
 ―――こりゃ、修羅場かな。
 手を振る佐倉の両脇には、うず高く書類が積まれている。先月から正式に雇った事務員の女の子が、咲夜に向かってペコリとお辞儀をしたが、佐倉にはその余裕がなさそうだ。多分、コーヒーの注文は佐倉の意向だろうが、これは佐倉に話しかけるのは遠慮しておいた方が無難そうだ。
 「ご注文のコーヒー、お持ちしました」
 「あ、ありがとうございます」
 持参したポットを掲げてみせると、事務員の女の子が、そそくさと立ち上がって受け取った。
 「ええと、代金は…」
 「ミキちゃん、ごめんー。煙草買ってきてくれるー?」
 代金を払おうとしていた事務員は、佐倉の声にピタリと手を止め、怪訝そうな顔をボスの方に向けた。
 「え…っ、あ、あの、でも」
 「代金はあたしが払っとくから。大至急お願い」
 「はあ…」
 これは(てい)の良い「人払い」だな、と察したのか、彼女はさしたる質問もせず、咲夜に軽く会釈をしながら、そそくさと事務所を出て行った。
 ―――多分、私と佐倉さんの関係について、何も知らないんだろうなぁ、あの子。
 訳もわからず追い出されて気の毒に、と、眉をひそめた咲夜は、少々呆れ顔でポットを近くのテーブルに置いた。
 「話があるんなら、電話くれりゃあいいのに…」
 「あたしは誰かさんと違って、電話の声で咲夜ちゃんの本音を探れるほど、耳が肥えてないのよ」
 サラリとそう言った佐倉は、ようやく顔を上げ、ニッコリと口の端をつり上げた。
 「とりあえず、健康面は大丈夫そうで、安心したわ」
 「…佐倉さんは、あんまり大丈夫っぽくないように見えるんですけど」
 その目はどんだけ寝不足なんですか、と言いたくなるような、充血しきった佐倉の目を見て、大抵の事には動じない咲夜でも、さすがに頬の筋肉が引きつった。美容に人一倍気を配ってきた佐倉にとっては、これは明らかな異常事態だ。
 「どーしたの、その顔!」
 「ああ、これ? 新人が入ってきた時は、毎回こんな感じよ。プロモーションだ何だと寝る暇も惜しくて…。ああ、ごめん。コーヒー1杯もらえる?」
 「…はいはい」
 言われるがまま咲夜が注いだコーヒーを、佐倉はブラックのまま、一気に半分ほど飲んだ。その様は、さながら会社帰りに立ち飲みでぐいっと熱燗をあおるサラリーマンのようだ。
 「はー、生き返るわー」
 「…良かったね、佐倉さん。相手が拓海で」
 「え?」
 「あいつ、女に“わかりやすい女らしさ”なんて求めてないから、そーゆー佐倉さんの姿見ても、幻滅したりしない方だと思う」
 「ああ…そういうこと。そもそも、こーゆー姿を晒そうにも、その暇がないんだから、意味ないんじゃない?」
 佐倉はカラッとした笑顔でそう言うが、咲夜にとっては笑えない話だ。思わず心配げな顔になり、
 「もしかして、拓海と全然会えてないの?」
 と訊ねると、佐倉はマグカップを置き、何言ってるの、とでも言いたげな顔をした。
 「会えるも何も、ずっとアメリカじゃない?」
 「あ、そうだっけ」
 「向こうで新規オファーがあって、帰ってくるのは年明けよ。まあ、国内にいたところで、あたしがこの状況だから、ほとんど会えなかったと思うけどね」
 「…寂しくない? せっかく恋人同士になれたのに」
 自分が毎日奏と顔を合わせられる立場にいるから余計、心配になってしまう。だが佐倉は、どことなく誇らしげな表情で、あっさり答えた。
 「この程度のことを寂しがるようじゃ、恋人役は務まらないんじゃない? あたしだけじゃなく、麻生さんも」
 「…なるほどね」
 拓海だけじゃなく佐倉も、人生の中心が仕事であり続けるタイプの人間だ。性格的には対極にあるように見えるが、そういう部分では「似たもの同士」と言える。似たもの同士だからこそ、相手の辛さもわかるし、違うタイプにとっては耐え難い状況も、お互い様、と割り切ることができるのかもしれない。
 「あたしたちの心配より、そっちはどうなの?」
 「は?」
 「今日はクリスマスイブだし、何かプランは立ててる?」
 「ハ…ハハハハ、いやー、イブって言っても、ねぇ。平日でお互い仕事だし」
 ―――ほんとは、仕事帰りに、珍しくレストランなんか予約しちゃってたりするんだけどさ。
 でも、いくら割り切っているとはいえ、仕事仕事で1年が終わる佐倉に、そんな話をする気にはなれない。たとえそれが、佐倉を安心させることになるとわかっていても。
 「ていうか、今は、明日のクリスマスライブに集中してるから。あ、奏も聴きに来るんだ。佐倉さんも、時間取れるようなら顔出してよ」
 「そうね。時間が取れたら―――…」
 言いかけた佐倉は、そこで言葉を切り、じっ、と咲夜の顔を見つめた。
 「…ねえ、咲夜ちゃん」
 「はい?」
 「あたしが口出しすべき問題じゃないのは、よくわかってるけど―――こんな具合に、麻生さんも留守が多い訳だし…またあの部屋、レッスン室として使わせてもらったらどうなの?」
 「……」
 それが言いたくて、わざわざ呼び出した訳か―――佐倉の真意がやっとわかって、咲夜は僅かにため息をついた。
 「…だから、それは、やめとくって言ったじゃん…」
 「どうして? 麻生さんがいる時ならわかるけど、留守中は、ただの空家よ?」
 「なんか、けじめがついてない感じが、自分で嫌だから」
 思わず眉を軽く顰め、咲夜は額にかかった髪を鬱陶しそうにはらった。
 「拓海がどうだとか、佐倉さんがこうだとか、そういう問題じゃなく、単に“彼女のいる男の部屋に上がりこむのが嫌い”なだけ。留守中でもおんなじだよ。だって、いくら親戚ったって、留守宅に自由に出入りするなんて、やっぱり特殊な扱いじゃない?」
 「それは…そうかもしれないけど…」
 「こう見えて私って、恋愛に関しちゃ、頭固いんだ」
 ニッ、と笑ってみせる口元とは裏腹に、咲夜の胸の奥は、遠い記憶に小さな疼きを覚えた。
 「モラルなんて、人それぞれだってことは、十分わかってるけどさ。…私は、駄目なんだ。疑われることすらあってはいけない、って、どうしても思っちゃう。だって、誰よりも信じたい人を疑わなきゃいけないことほど、悲しいことってないじゃん」
 「……」
 咲夜のしんみりとした口調に、佐倉が、少し怪訝そうな顔をする。そんな佐倉に、咲夜は、薄い微笑を返した。


 『だったら、また、戻ってくるか? あいつを好きになる前のお前に戻って、またここで、俺のこと想って歌い続ける毎日でも送るか?』

 拓海が、一体どんなつもりであの言葉を口にし、あんな風にキスをしたのか……それは、今も、わからないけれど。
 たとえ冗談であっても、きっとあの出来事は、佐倉を傷つける。父の裏切りを知った時の咲夜以上に。
 だから、拓海のことは、頼らない。頑なだと言われようと、意識しすぎと言われようと、あんなことがあった以上、拓海との関わりは断たねばならない。少なくとも、暫くの間は。


 「よくわからないけど……ホントに、大丈夫なのね? あの部屋使わなくても」
 念を押す佐倉に、咲夜ははっきりと頷いてみせた。
 「大丈夫。知恵を絞れば結構あるんだよ、大声出しても文句言われない場所って。だから、私のことには構わず、自分たちの心配だけしててよ」
 「―――ハイハイ」
 軽くため息をついた佐倉は、諦めたように笑うと、デリバリーコーヒーの代金を払うべく、財布を手に取った。
 「あんまりうるさく世話を焼くと、嫌がられちゃいますからね。弟からも散々“姉貴はおせっかいが過ぎる”って文句言われてるし―――せいぜい自分のことだけ考える努力をしましょ」
 「…仲、いいの? 弟さんと」
 「まあ、世間並みにはね」
 「ふぅん…」

 弟―――…。
 亘や芽衣は、どんなクリスマスを過ごすんだろう。

 プレゼントを送るだけで、顔さえ見せない自分。家族の平穏を願えば願うほど、家から足が遠のく―――なんて皮肉な立場だろう。
 思いがけず思い出してしまった家族の存在に、咲夜は、佐倉に気づかれない程度に、小さくため息をついた。


***


 「はい……、はい、わかりました。じゃあ、失礼します」
 最後にそう言って携帯電話を切った蓮の肩が、直後、力を失ったようにガクリと落ちた。
 「ど…どうしたの、穂積」
 「…今日のバイト、なくなった」
 その一言に、せっせと皿を並べていた理加子が、パッと表情を明るくした。
 「えー! 良かったじゃない! これでバイト時間気にせずパーティーできるもの」
 「……」
 首だけで振り返った蓮が、ギロリと冷ややかな目を向けたが、理加子は「何よ」とでも言いたげに唇を尖らせるばかりだ。
 ―――なんでこう、そりが合わないのかなぁ、この2人…。
 蓮の口調や表情から、何か蓮が呆れるような事情で今日のバイトがなくなったのだろう、ということは、察しがつきそうなものなのに―――しかも蓮には、今日のパーティーには、優也が頼み込んで参加してもらっているようなものなのに。
 「え、ええと…なんで突然?」
 顔を引きつらせながらも優也が訊ねると、蓮は理加子を睨むのをやめ、大きなため息をついた。
 「…バイト仲間が、彼女にフラれたらしい」
 「え???」
 「イブ前日に“他に好きな人が出来たから”って言って、フラれたんだってさ。今日の朝から、1泊で伊豆旅行の予定だったのに」
 「……」
 「家にいると泣けてきてしょうがないから、頼むからバイト代わってくれ、って言われた」
 「…す…」
 「凄まじいフラれっぷりねー…」
 呆気に取られすぎて優也が口にできなかった一言を、理加子が感心したような口調で呟く。バイト仲間からの電話を思い出してか、蓮の眉間に、苛立ったような皺が寄った。
 「…ったく…だから、インフルエンザをおしてまでバイトに来る価値なんかない、って言ったのに…」
 「え?」
 「インフルエンザ?」
 唐突な単語に、優也と理加子がキョトンと目を丸くしたが、蓮は説明するのも億劫な様子で、
 「…なんでもない。早く食おう」
 と言って、面倒くさそうに手を振った。

 ―――それにしても…。
 小さなローテーブルに、ところ狭しと並べられた皿、皿、皿。サラダに手羽先にサンドイッチ……中央に置かれた誕生日ケーキも、小ぶりではあるが、きっちり1ホールある。
 「リカちゃんて、料理なんて全然作らないと思ってた…」
 そう。これら全部、理加子の手作りなのだ。ケーキの微妙な手作りテイストが、それを物語っている。
 「日頃から外食ばっかりだって言ってなかったっけ」
 「うん、そうよ。いつも外食ばっかり」
 手羽先を小皿に取り分けつつ、理加子は、ちょっと自慢げに笑ってみせた。
 「小さい頃は、おばあちゃんが家政婦さんみたいなの雇ってたの。おじいさんにこき使われてきたから、老後は遺産で豪勢に暮らすんだ、ってのがモットーだったみたい。おばあちゃんが死んでからも、暫くは来てたけど、あたし、あの人大嫌いだったから、さっさとクビにしちゃったの」
 「え…っ、じゃあ、食事は?」
 「最初はママが……お母さんが前日に無理矢理作ろうとしてたけど、そのうち無理だってわかって、“これで何か食べなさい”ってお金渡されるようになった。だからまあ、大抵は、お弁当ね」
 「……」
 「たまーに飽きたり、家庭科の授業があってちょっと興味が出たりすると、その時だけ本買って見よう見まねで作ってたけど―――割と向いてるみたい。気まぐれにやるもんだから、慣れなくて時間はかかるけど、仕上がりは綺麗でしょ」
 実際、どれもこれも、綺麗に仕上がっている。時間をかけて、一生懸命作ったんだろうな、とよくわかる。
 「でも、自分だけのために作っても、面白くも何ともないのよね。だから、あんまり上達しないの」
 「うーん…確かに、1人だと手抜きしがちだよね…」
 「…親のために、作りゃいいのに」
 サラダを頬張りながら、蓮がボソリと呟いた。すると理加子は、どことなく皮肉めいた笑みを口元に浮かべ、答えた。
 「やったことあるわよ。ずーっと昔に、1度だけ。学校から帰ってきて、2時間半かけてせっせと3人分作って―――おいしいって言ってもらえるかな、これがおいしかったら、明日から家でご飯食べてくれるかな、って、どきどきワクワクしながら、ずっと待ってた。でも、待ちくたびれて眠っちゃって……日付変わる前にやっと帰ってきたママが、あたしが作ったご飯見て言った言葉、今でも忘れない。“まあ綺麗。よく頑張ったのね。とってもおいしそう。でもママ、今おなか一杯なの。ごめんね”」
 「……」
 「パパは結局、帰ってこなかった。…あたし、パパがその日出張だってことすら、知らなかったのよね。だからもう、作るのやめたの」
 「…そ…っか…」
 何故、理加子の両親は、結婚し子供を作る、という道を選んだのだろう?
 そんなに仕事が大事ならば、仕事だけをやっていればよかっただろうに―――何故理加子をもうけたのだろう? 祖母に任せっきりで、祖母亡き後も「もう大きいから」と理加子を放任して……そんな親子関係に、何か意義などあったのだろうか?
 憤り以上に、ただ純粋に、不思議でならない。けれど、それを口に出して言うことは、優也にはできなかった。多分、理加子も、その答えを知らない―――いや、誰よりも理加子自身が、その答えを一番知りたいのだろうと思うから。
 「―――っと、ご、ごめん! なんか、湿っぽくなっちゃって。ほら、食べよ、食べよ」
 取ってつけたような明るさを取り戻した理加子は、そう言って、手羽先を取り分けた皿を優也に突きつけた。それでも優也は、理加子の心情を思うとぎこちない笑みしか返せなかったのだが、
 「あー! 何、勝手に食べてるのよっ!」
 理加子の憤慨した声に驚いて蓮の方を見ると、蓮は既に手羽先を1本完食済みで、更にもう1本、自分の皿に取り分けている最中だった。
 「酷い! あたし、まだ手羽先食べてないのにっ!」
 「食うために置いてあるんだから、別にいいだろ」
 何が問題なんだ、という顔で手羽先にかぶりつく蓮を見ていたら、なんだか、ホッと心が和んだ気がした。
 ―――よかった。穂積がいてくれて。
 犬猿の仲の2人を同席させることに、少し不安があったのだが、逆に助けられてしまった気分だ。笑顔を取り戻した優也も、理加子お手製の料理にようやく手をつけた。


 「優也って、明日実家に帰っちゃうんだっけ」
 他愛もない話をしながら料理の半分程度を食べ終えたところで、理加子が唐突に訊ねた。
 「うん。明日の夕方の新幹線で」
 「ふぅん。結構早く戻っちゃうんだ」
 「あー、いや、いつもはもっと年末ギリギリなんだけど、今年は家庭教師先の都合に合わせたから。元日まで向こうにいて、2日には戻った足で家庭教師先に行く予定なんだ」
 「うわ、新年早々受験勉強なの?」
 「今日の夜も、今年最後の授業だよ」
 「そっか。あーあ、じゃあ、年末は遊べないんだ。明後日の仕事終わったら、年内は暇なのになぁ」
 面白くなさそうに頬を膨らませた理加子だったが、ふいに「あ、」と声を上げると、持ってきた大きなバッグの中から、何かを引っ張り出した。
 「そうそう。優也にこれ、貸そうと思ってたんだった」
 「え?」
 ずい、と差し出されたそれを見て、優也ではなく、蓮の方がむせてしまった。
 おかっぱ頭の、理加子そっくりな顔をした“お人形”が、ヒラヒラのワンピースを着て、アイアンチェアに座っている表紙。『DOLL』というタイトルの、理加子がモデルになるきっかけとなった写真集だ。
 「ああ、これ!」
 ゲホゲホ、と苦しそうに咳き込む蓮を気にしつつも、優也は写真集を受け取り、最初の数ページをめくってみた。どのページにいる理加子も、見事なまでに写真集のタイトルどおり、人形そのものと化している。
 「ほら、本屋さんで見つけた時、見てみたいけどさすがに買うのはちょっと、って言ってたでしょ? あたしもそれ1冊しか持ってないし、優也の部屋にそれがずーっとあるのもちょっと変な気分だから、暫く貸してあげる。適当な時に返してくれれば、それでいいから」
 「ほんと? ありがとう。マリリンさんの家族がリカちゃんのファンだって聞いて、余計見てみたいと思ってたところだったんだ」
 実際、本屋で見つけたゴスロリ雑誌を、一瞬手に取りそうになったのだ。すぐ近くにいたOLの視線が痛くて、すぐさま手を引っ込めてしまったのだが。
 「さすがに実家には持って行けないから、年明けて少ししてからになるけど、いいかな」
 「うん。…あれ、蓮? どうしたの?」
 不審げな顔をする理加子に、優也も蓮の様子を窺うと、蓮は写真集の表紙を恐々という表情で見下ろしながら、しきりに二の腕をさすっていた。よく見ると、首筋の辺りには鳥肌が立っている。
 「穂積? もしかして、寒いの?」
 「…いや…、俺、そういうの、苦手で」
 「そういうの??」
 「人間そっくりな物体」
 「……」
 「ガキの頃、遊園地の蝋人形館で、兄貴に置いてけぼり食って以来、人形とかマネキンとか、どうも苦手なんだ」
 ―――穂積。これは、人間そっくりな物体じゃなくて、物体そっくりな人間だよ。
 とフォローすべきかどうか、一瞬、悩む。でも、幼い自分が幾体もの蝋人形に囲まれる様を想像してみたら、蓮が鳥肌を立てるのも無理はないような気がした。
 「お前が言ってた“お人形”って、こういうのだったのか…」
 よくやってるな、というゲンナリ顔で蓮が流し見ると、理加子はちょっとムッとした顔で胸を反らした。
 「しょーがないじゃない。お人形になりきることが、カメラマンの要望だったんだもん」
 「こんなの最初にやらされて、よくモデルになる気になったな」
 「それは―――…」
 言いかけて―――理加子が、僅かに、口ごもる。
 気まずそうに視線を彷徨わせた理加子は、写真集に目を落とし、ポツリと答えた。
 「―――パパが、可愛い、って言ったから」
 「え?」
 「…その写真集に使う写真、カメラマンさんからも貰って、家のテーブルに置いといたら―――次の日の朝、パパが“可愛く撮れてる”って言ったから」
 「……」
 「今思うと、お世辞だったのかも。でも……あの時のあたしは、初めてパパに褒めてもらえた、って思って……凄く、嬉しかったから」
 「…それで、モデルのスカウト、受けたんだ?」
 優也の言葉に、理加子は小さく頷いた。
 ―――どこまでも、お父さんとお母さんが中心になって動いてるんだなぁ…。
 そんな、両親に認めてもらい一心で右往左往している姿は、優也自身の姿にも重なって見えて、優也はちょっとばかりしみじみとしてしまった。が、蓮の反応は、優也とはまるで違っていた。
 「お前って、何やるにしても、ご褒美欲しさなんだな」
 「…えっ」
 つまらなそうに言う蓮に、理加子だけではなく、優也も少し目を丸くした。
 「親に褒められたいから、一宮さんに褒められたいから―――向いてない、って自分でわかってるのに、それでもモデル続けてるのも、誰かからご褒美を貰いたいから、だろ」
 「…いけない?」
 僅かな動揺を見せつつも、理加子が挑戦的にそう言うと、蓮は表情を変えず、あっさり言った。
 「別に。…ただ、そういう奴が、前にもいたの、思い出しただけだ」
 「前にも?」
 「…いたんだよ。ご褒美が貰えなくなった途端、それまで必死に頑張ってたこと、あっさり投げ出した奴が」
 「……」
 苦々しげにそう言い捨てた蓮は、ふい、と視線を逸らし、何故か床に置いてあった携帯電話に目をやった。
 ―――あ、まただ。
 優也が思うのとほぼ同時に、蓮はその携帯を手にし、立ち上がった。
 「…悪い。またちょっと、電話してくる」
 「あ…、うん」
 唐突な行動に、優也も理加子も、特に質問を投げかけることはしなかった。微妙な顔をする2人を部屋に残し、蓮はスニーカーをひっかけて、103号室のドアの外へと出て行った。
 「…何なのかしら。もう3回目よね」
 「うん…」
 そう。今日、理加子がこの部屋に来てから、既に3回目だ。蓮がああして、携帯片手に外に出るのは。出て行って、ものの2分足らずで、また部屋に戻ってくる。一体どこに、何の用事で電話をしているのやら―――戻ってきた蓮の表情から、それを窺い知ることはできないが。
 ―――っていうか、ここ2、3日、ずっとそうなんだよな…。
 ちょうど、理加子が真理と顔を合わせた、あの日以来―――蓮は、常に携帯電話を気にしている素振りを見せていた。日頃、携帯電話の存在すら忘れているんじゃないか、という位に電話に関心を示していない蓮なだけに、その様子は傍目にも尋常ではないものだった。
 「優也、何か聞いてる?」
 「…いや…」
 何も、聞いていない。
 蓮は、何も話してはくれない。優也が訝っていることは、多分蓮だって気づいているのだろうに。
 それほど深刻なことなのか、それとも―――悩みを打ち明けるほどには優也を信用していないから、話せないのか。
 「…まあ、どうせすぐ戻るんでしょ。どんどん食べちゃおうよ」
 優也の表情に何かを感じ取ったのか、理加子はそれ以上突っ込んだ話はせず、そう言ってサラダの残りを自分の皿に取り分け始めた。
 その様子に、ちょっと救われたような気になった優也は、大きく頷き、写真集を背後の床に置いた。


***


 悪い予感ほど、的中するものだ。
 と、いうことを、奏はこの日、改めて実感した。


 「こちら、“Studio K.K.”の、一宮 奏さん。モデルさんもやってるのよ」
 「―――お招きいただきまして…」
 会釈する奏に、無数の視線が突き刺さる。
 依頼を受けた時から、嫌な予感がしていた。そして、この視線の集中砲火を浴びた時、悪い予感はピークに達した。
 顔を上げた奏の目の前には、大河内夫人と同年輩の、50代前半から半ばと思しきご婦人が、合計7名、顔を揃えていた。が、彼女らが奏に向けている視線は、十代の女子高生がアイドルグループに向ける視線と、寒気がするほどよく似ていた。
 「あら、まあ…! 美代子さんのお話どおり、ホントに凄い美形ねぇ…!」
 「お名前は日本人みたいだけど、どちらの方なの?」
 「イギリス人とのハーフなんですって。国籍はイギリスなのよね? 奏ちゃん」
 質問された奏ではなく、何故か大河内夫人が答えて、奏の腕を軽く引っ張った。事実なので反射的に頷いたが、内心では、なんであんたが答えるんだよ、という苛立ちがふつふつと湧いてきていた。
 「じゃ、いつもどおりにお願いね」
 「…わかりました」
 豪勢なティールームの一角に、明らかに今日のためにわざわざ移動させてきたとわかるドレッサーが1台。その前に座った大河内夫人は、奏が化粧水とコットンを手に取ると同時に、いきなり口を開いた。
 「お店ではね、奏ちゃんにメイクしてもらう前に、マッサージをお願いしてるの。今日は時間がもったいないから、メイクだけね」
 「へえぇー…、あのお店って、マッサージもやってるの」
 ―――やってるのは、オレじゃないっすよ。ちゃんと資格持ってるエステティシャンですから。
 なんだか曖昧にぼかした大河内夫人の言い草が気になって、そう断りを入れようとしたが、大河内夫人はその隙を与えてはくれなかった。
 「それに、この化粧水は、あの店で一番お高い化粧水で、市販されてないのよ。あの店のメイクアップアーティスト専用だから。これがねぇ、しっとりしてて、とってもいいのよぉ。ワンランク下のは、黒川賢治のお店で手に入るんだけど、やっぱりこの化粧水ほどじゃあないのよねぇ」
 ―――いや、しっとりするのは、その後の保湿液のせいなんだけど…。
 訂正したかったが、その隙もなかった。いいわねぇ、という奥様方の声に気を良くしたのか、大河内夫人は、ますます絶好調で続けた。
 「あー、そうそう、この保湿液もいい感じなのよ。あ、奏ちゃん、今日の口紅は5番でお願いね」
 「…はあ」
 「奏ちゃんは6番の口紅の方が私に似合ってるって褒めてくれるんだけど、今日は内輪の集まりですものね。あんまり派手すぎちゃいけないでしょ」
 ―――褒めたこと、あったっけ?
 確かに、6番の口紅は大河内夫人のお気に入りでよく使用するのだが、それを褒めた記憶は奏にはない。が、ご婦人方は大河内夫人の言葉を信じたらしく、口々に羨ましがり始めた。
 「あらやだ、美代子さんの好みまで熟知してるの?」
 「にくいわね〜。ご主人だって、美代子さんの好きな口紅の色なんて知らないでしょ」
 「そりゃあ、贔屓にしてるもの。ね、奏ちゃん」
 「……」
 ―――オレはメイクアップアーティストだからあんたの口紅の好みを知ってるんであって……。
 いや、そんなことは、大河内夫人も客も、百も承知の筈だ。商売人が客のニーズを掴んでいるのは、当然のこと―――それだけのことなのに、大河内夫人の口を介すると、何故こうも妙なニュアンスを含んだものに聞こえてしまうのだろう。
 ―――いやいやいや、余計なこと考えてる場合じゃないだろ。集中集中。
 人の顔を扱う商売というのは、注意力散漫だと、とんでもない失敗をやらかすものなのだ。大河内夫人の言葉は極力無視する形で、奏は自分の作業に没頭することにした。

 その後も大河内夫人は、奏が新たなアイテムを手にするたびに、それがいかに厳選されたもので、いかに自分好みのもので、そのことをどれだけ奏が知っているかを―――早い話、自分がどれほど奏の「お得意様」なのかを、延々自慢し続けた。
 そんな話聞いてて楽しいのかよ、と思ったが、奥様方の視線はずっと大河内夫人と奏に釘付けで、しきりに「いいわねぇ」だの「羨ましいわ」だのと相槌を打ち続けていた。おかしな連中だな、と気味悪がっていた奏だったが、その意味を正しく理解したのは、紅筆を握った時だった。

 ―――う…っわ、寒……っ!
 ぞぞぞっ、と背筋に走った寒気に、奏の手が、一瞬止まった。
 口紅を紅筆に取り、リップライナーで縁取った唇に、丁寧に塗る。毎日毎日、何人もの客を相手に繰り返している、極当たり前の作業だ。
 ただ、この作業に、奏が別の緊張感を感じたことが、過去に1度だけ―――というより、1人だけ、いる。咲夜だ。咲夜の唇に紅を差す時、初めて咲夜を“女”として意識して、手がやけに震えた。その時のことを思い出すと、顔が熱くなって、落ち着かない気分になるほどに。
 だから、今、大河内夫人と奏に向けられる奥様方の視線の意味が、奏にもよくわかった。
 さっきまでの、多少の余裕を残していた視線とは、明らかに異なる緊張感―――もっとはっきり言うなら、羨望と嫉妬の目。
 「ふふふ…、口紅塗ってもらう時って、何十回やっても、やっぱり緊張しちゃうわねぇ」
 何十回はオーバーでしょ。
 と奏が密かに突っ込みを入れた、大河内夫人のとどめの一言で、奏は、今日自分が呼ばれた意味を、完全に理解した。
 理解して―――はらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えた。


 結局、「メイク講座」などと銘打ちながら、奏が口にしたのは大河内夫人への相槌のみのまま、メイクはあっという間に終わった。
 変身した大河内夫人に、集まったご婦人方は「あら、素敵ねぇ」だの「若返ったみたい」だのと、ありきたりの賛辞を送り、大河内夫人はますます鼻高々といった様子だ。よく考えたら、夫人の親しい友人たちなのだから、この完成版の大河内夫人を過去に何度も見ている筈なのだ。茶番もいいところだ。
 これで妙な集まりから解放される、とホッとした奏だったが、そうは問屋がおろさなかった。
 「あら、ダメよぉ。3時までって約束したじゃない。お茶が用意してあるのよ。ささ、奏ちゃんもいらっしゃい」
 と大河内夫人に手を引かれ、おばさま方総勢8名に囲まれての気詰まりなお茶会に参加させられてしまった。
 紅茶の達人を自負する父に育てられた奏からすれば、こんな紅茶よく飲めるな、と言いたくなるような、渋み全開のまずい紅茶と、スコーンとは名ばかりで、どう考えてもこれはクッキーだろ、という謎の物体を口にしながら、奏は1時間もの間、ずっとそのお茶会に参加させられた。その間も、大河内夫人は奏を自分の隣に座らせ、時折腕を引いたり、背中を叩いたりしてみせた。
 ―――勘弁しろよ、ほんとに…。
 あんたの魂胆は、よくわかった。わかったから、もう自由にしてくれ。
 と叫びたいのを我慢したのは、ひとえに、自分の言動が店の評判に直結するのを恐れたからだ。これが完全フリーの立場なら、今すぐテーブルをひっくり返して屋敷を後にしているところだ。


 「奏ちゃん!」
 屋敷を出たところで呼び止められ、思わず眉間に皺が寄る。
 それでも、辛うじて営業スマイルらしきものを顔に貼りつかせて振り返ると、満足げな顔をした大河内夫人が、奏を追って出てきていた。
 「今日は無理を言って来てもらって、悪かったわねぇ」
 「…いえ。お得意様のたってのご希望ですから」
 ああ、長年、女性上位の世界でもまれて生きてきて、本当によかった―――女王様だらけのモデル業界で、女性相手の処世術を身に着けたことが、こんな場面で役に立つとは。
 だが、奏の処世術であるニッコリした笑顔に、大河内夫人はますます笑顔を輝かせた。
 「さすがは奏ちゃんだわ。お友達もみんな夢中になってたもの。お店のいい宣伝にもなったでしょ」
 「ええ」
 「これ、今日来てくれたお礼と、クリスマスプレゼントを兼ねて。お店には内緒よ」
 そう言って、大河内夫人が差し出したのは、小さなギフトボックスだった。
 「?」
 「開けてみて?」
 「…はあ」
 訝しげに眉をひそめつつも、奏は言われるがままに、包みを開けてみた。すると、中から角ばった革張りの箱が顔を覗かせた。その特徴的な形から、中身はすぐに見当が付いた。
 「私がお気に入りの、スイスのメーカーの腕時計なの。是非使って」
 「…いや、オレは…」
 「いいのよ、遠慮しなくて。最近、困ってるんでしょう?」
 大河内夫人の謎の言葉に、奏の表情が、ぽかん、としたものに変わった。
 「…は?」
 「前は奏ちゃん、ブランドものの素敵な時計してたじゃない。なのに、最近はそのみすぼらしい安物の時計に変わっちゃって…」
 「……」
 「やっぱり奏ちゃんみたいに毛並みのいい子には、上質なものを着けてもらわなくちゃ。お店のイメージにも繋がることだから、ね、遠慮せずに―――…」

 この瞬間。
 ギリギリのラインまで、辛うじて保ち続けていた奏の理性が、ブチン、という音を立てて、切れた。

***

 「奏ーっ」
 ぼんやりとした中、突如耳に届いた声に、奏は我に返り、顔を上げた。
 15メートルほど向こうから走ってきた咲夜が、奏が顔を上げたのに気づき、ひときわ大きく手をぶんぶんと振る。空ろな笑みを浮かべた奏は、ヒラヒラと手を振り返した。
 咲夜が走るほど、待ち合わせ時間ギリギリなのかな、とふと思い、腕時計で時間を確認すると、確かにレストランに予約を入れた時間まで、あと5分となっていた。ということは、随分長い間、ここでぼーっとしていたことになる。
 ―――キテんなぁ、オレ…。
 ガクリ、と奏がうな垂れるのと同時に、咲夜が待ち合わせ場所であるポストにポン、とタッチし、大きく息をついた。
 「あー、ギリギリになっちゃったよ。配達の車が渋滞に巻き込まれちゃってさぁ」
 「…そっか」
 気の抜けたような奏の返事を不審に思ってか、咲夜は、ポスト脇の植え込みに腰を下ろしている奏の隣に、自分も腰を下ろした。
 「ごめん。結構待った?」
 「―――…」
 いや、それほどでも。
 と答えようとして―――そこで奏は、力尽きた。
 「……あー…、もうー…」
 やけっぱちなため息混じりな声で呻いた奏は、隣に座る咲夜の肩に、がっくりと頭を預けた。
 「ちょ、ちょっと! どうしたの、奏! 大丈夫!?」
 「……」
 「…もしかして、仕事で何かあった?」
 奏を宥めるように、咲夜の手が、ぽんぽん、と奏の頭を叩く。僅かに頭を動かし、その手を見上げた奏の目に、咲夜の左手首が映った。
 一見、奏の腕時計とペアに見える、よく似たカラーリングの、G-SHOCK―――大河内夫人曰く、「みすぼらしい安物の時計」だ。
 「…有閑マダムに、出張ホスト扱いされた」
 「は?」
 「…っつーか、高級ペット扱いか」

 勿論、日頃の彼女の雰囲気から、自分のメイクの腕のみが気に入られている訳ではないこと位、十分わかっていた。
 彼女がお気に入りなのは、この顔―――日頃テレビでしかお目にかかれないレベル、と言われる、この顔だ。そんなことは、重々承知の上で、お得意様だから、と、今日の仕事を受けたのだ。
 でも―――何のことはない、結局大河内夫人は、メイク技術なんてどうでも良かったのだ。単に、自分がお気に入りの毛並みの若い男が、自分の顔に触ったり口紅を塗ったりするところを、友達に見せつけて羨ましがらせたかっただけなのだ。
 客の奥様方も、奏の施したメイクなど、これっぽっちも見ていなかった。自分たちのメイクの参考にする気もなければ、手際のよさに感心することもない。あの目は、大まかに分類するなら、アダルトビデオを見ている男どもと大差ない目だった。
 そしてとどめが、高級腕時計のプレゼントときた。ここまで来ると、完全にホスト扱いだ。こんな仕打ちをされて、ヘラヘラ笑っていられる訳がない。イギリス時代、男のカメラマンに口説かれた時も相当ショックを受けたが、今回のはそれを上回るダメージかもしれない。

 「―――はぁん…、なるほどね」
 出張ホスト、高級ペット、という語句で、なんとなく今日の仕事の中身が想像できたのだろう。咲夜は苦笑混じりにそう言って、奏の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 「で? 奏はその有閑マダムに、どう落とし前つけたの」
 「…スイスの高級腕時計を、無言でぶっ壊して、そのまま帰ってきた」
 「高級腕時計?」
 「…うちの上得意失くすかも…」
 「別にいいじゃん。そんな妙な客、いなくなっても」
 慰めるようにそう言いつつも、咲夜だって、現実を知っている。
 「―――って言えないとこが、しがらみを持つ者の辛いとこだね」
 「…くっそ、あの女…っ」

 『大丈夫よ、奏ちゃん。弁償しろなんて言わないから。その代わり、そのチンケな腕時計つけて私の担当なんかしたら、絶対許さないから。ショックで、あの店のスタッフに50万もする時計を壊された、ってお友達に愚痴っちゃうかも。そうなったら、奏ちゃんだって困るでしょ?』

 奏の豹変で、この腕時計の裏に女の存在を嗅ぎつけたのだろう。口調は優しげだったが、大河内夫人のその要求は執拗だった。返事もせず帰ってきたが、次に大河内夫人が来た時、この時計をはめていたら、本気で悪評を周囲に吹聴しかねない。自分1人のことなら無視するが、店の評判に影響が出るとなると、そういう訳にもいかないだろう。

 仕事だから。客だから。店のためにもなるから。ギブアンドテイクだから。契約だから。
 そう―――この話を持ちかけられた時、リカを思い出したのは、同じ匂いを本能的に嗅ぎ取っていたからだ。仕事や客という言葉を楯にして奏を振り回す、その裏に、別の意図が―――ビジネス外の思惑が隠されている匂いが。
 真剣にやろう、一生懸命やろう、そう思えば思うだけ、その誠意が裏切られた時の怒りは、大きい。リカの時の比ではないが、大河内夫人から被った痛手も、リカの件で懲りていた奏にとっては十分すぎる。

 「…咲夜ぁ…」
 「ん?」
 「キスしてくれないと、今すぐ死ぬ」
 「はぁ?」
 なんじゃそりゃ、という声を上げた咲夜を、奏はぎゅうっ、と抱きしめた。抱きしめているけれど―――それは、奏が咲夜に抱きついているようなものだ。
 奏が自分の容姿に持つわだかまりも知る咲夜は、小さく息をつくと、奏の耳元に軽く口づけた。
 「―――大丈夫。奏の実力を、その額面どおりに認めてくれてる客だって、いっぱいいる筈だから」
 「……」
 「少なくとも私は、奏がしてくれるメイクで、いつもパワー貰ってる。奏が彼氏だからとか、そういうこととは関係なく……奏のメイクのファンの1人だよ」
 それを聞いて、少しだけ―――ほんの少しだけ、ボロボロにされた技術者としての誇りが、癒されたような気がした。


***


 「…うん、わかった。必ず連絡入れるから。…ああ。じゃあ」
 今日何度目ともわからない電話を終え、蓮ははーっ、と息を吐き出した。

 クリスマスイブ―――本来なら、兄と和美が入籍し、正式に夫婦となる日の筈だった。その日も、残すところ、あと3時間あまり……なのに、いまだ、和美は行方不明のままだ。
 あの日から携帯の電源は入れっぱなしにしているが、あの日あった3度の無言電話は、二度とかかってくることはなかった。もし、あの無言電話が和美だったとしたら―――あれが最後だった、という事実が、嫌な想像を掻き立てる。あの和美がそんなバカな真似をする訳がない、と思ってもなお、不安を感じずにはいられなかった。
 ―――あれで案外、とことん落ち込むと、自暴自棄になったりするとこがあるからな、あいつも…。
 陸上を辞めたのだって、勝てない現実からの逃避や1番というご褒美がないと途端にしぼんでしまう闘争心のせいもあるだろうが、何より「自棄になった」部分が大きい、と蓮は感じている。その自暴自棄の状態に、ちょうど兄との恋愛が絡んでしまった―――辞めるための格好の理由が与えられてしまった。「要君との時間が持てないから」という、和美らしからぬ理由であっさりトラックを離れたのは、和美の本心ではなく、単なる言い訳だったのだろう。
 今回のも、一種の、現実逃避だ。そして、今回は蓮自身が、和美の逃避の言い訳として使われてしまっているのだから、迷惑もいいところだ。
 ―――まったく…なんて大掛かりなマリッジ・ブルーだよ。
 本音を言えば、怒りと心配が半々といった気分だ。いや……心配だからこそ、怒りも余計大きい。なんで迷惑をかけている張本人の心配を、迷惑をかけられている俺がしなくちゃいけないんだ、と。

 「…何やってんだ、本当に…」
 ベッドに寝転がり、天井を睨んで蓮がそう呟いた時、玄関のドアがドンドンドン、と忙しなくノックされた。
 「!」
 反射的に、がばっ、と起き上がる。
 時計を見ると、午後8時45分―――優也なら、まだ家庭教師のバイト中だ。優也以外となると、こんな時間に訪ねて来る知り合いなんて、思い浮かばない。
 ―――まさか…。
 1つの可能性に、鼓動が速くなる。ゴクリと唾を飲み込んだ蓮は、急ぎ、玄関に向かい、魚眼レンズに目を当てた。
 そして、歪んだ視界の中に映った意外な人物に、危うく声を上げそうになった。
 「バ―――……っ…!」

 バカヤロウ。
 その言葉を飲み込みながら、勢い良く開けたドアの向こうにあったのは、本来、こんな時間に、こんな場所に立っていては、絶対にいけない人物―――姫川理加子の、血相を変えた顔だった。


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