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1年前の由香里なら、間違いなく、「12月24日に女がひとりぼっちでいるなんて、ありえない」と断言していたに違いない。
大人になってからのクリスマスイブは、常に、誰かしら男性が隣にいた。イブに恋人もいないなんて格好悪い、と考え、とにかくこの日までに誰かしら1対1で会える相手を作り、必ず予定を入れていた。イブの日に限って、必要もない仕事を無理矢理作って残業を買って出る先輩を見ては、お見合いパーティーでも何でもいいから予定を入れとけばいいのに、と苦笑したっけ―――ちゃんと相手を確保できた自分に、ちょっとばかり優越感を覚えながら。
でも、今年。
冷静に周囲を見渡してみて、思った。
「ひとりじゃない」ような顔で行き交う人間のうち、一体どれだけが、本当に「ひとりじゃない」のだろう?
去年までの自分は、果たして本当に「ひとりじゃなかった」のだろうか? 「誰かがいる」仮面を被った、去年の自分と同じような連中が、華やかな街を幸せそうなフリして歩いてたのではないだろうか―――…?
「はい、友永の名前でお願いします。……ええと、別に担当は誰でも……あ、できれば、一宮さんでお願いします。…はい、…はい。じゃ、よろしく」
電話を切り、ほーっと息を吐き出したところで、ポン、と肩を叩かれた。
「何? 明日の予約って」
着替えを終えた智恵だった。パチン、と携帯を閉じつつ、由香里は軽く肩を竦めた。
「メイクの予約よ」
「メイク? あらら…また随分力入ってるじゃないの」
そう言うと、智恵は意味深に笑い、肘で軽く由香里を小突いた。
「もしかして、明日集まる連中の中に、誰か本命見つけたとか?」
「…冗談よしてよ。第一、私の名前で予約は取ったけど、明日メイクしてもらうのは、私じゃなく、詩織よ」
「え?」
「誘いに乗ったはいいけど、なんか昨日、急に“気後れする”とか言い出しちゃって」
『由香里もその友達も、いい大学出て、いい会社勤めてる人ばっかりなんでしょ。由香里とは幼馴染だから平気だけど…なんか、話とか合わなくて、場が盛り下がっちゃうんじゃない? 美人だったり気が利く子ならいいんだろうけど、あたしって地味で面白くもないから、賑やかしにもならないし…』
明日のクリスマス当日、智恵や詩織も誘って河原の大学時代の仲間と一緒にちょっとした宴会を催すことになっているのだが―――最初は乗り気だった詩織が、昨日になって、突然、そんなことを言い出したのだ。
長らく付き合いがなかったので極最近知ったのだが、詩織はああ見えて、意外に飲めるくちだ。クリエイター同士で飲みに行くことも、たまにあると聞く。が、その話は、どれも1対1、もしくは3人までである。大人数での飲み会そのものがあまり得意ではないそうで、それに加えて今回は自分とは違う業界の人間だらけときているので、急に不安になったらしい。
「へぇ、意外とそういうこと気にするんだ」
「うーん…そういう訳じゃないけど、今回は、私と結構親しい人がいるから、普段遣わないような気の遣い方してるみたい。河原君とか、智恵とか」
由香里がそう言うと、智恵は眉根を寄せ、ううむ、と難しい顔をした。
「どっちも、そんなに気を遣ってもらうような相手じゃあないんだけどねぇ…」
「私もそう思うけど…。で、あんまり尻込みするもんだから、“じゃあ、少しでも印象良くなるように、プロにメイクしてもらわない?”って誘ったのよ。詩織も、智恵や河原君に会ってみたいって気持ちはあるから、“行ってみようかな”って」
「ふーん、なるほどねぇ…。でも、由香里にしては珍しく、人の世話焼いてるじゃない? どうしたの急に」
ちょっとからかうように、智恵が笑う。バツの悪そうな顔になった由香里は、自分のロッカーの扉を開けつつ、少しぶっきらぼうに答えた。
「べ…別に、世話焼いてる訳じゃないわよ。ただ―――前から一度、河原君と詩織を会わせたいと思ってたから」
「おや。なんで?」
「なんか、気が合うんじゃないかと思って。あの2人」
「…もしかして、あわよくば、河原と詩織ちゃんがくっついたらいいのに、とか思ってる?」
「まさか」
いや、本音を言えば、それもいいなぁ、なんてことを、ほんの少しだけ考えたこともあるのだけれど。
この前、若村女史から河原が口説かれていた、なんて話を聞いた時、誰もが認める「優れた人間」である若村ならば、と思った。結局、河原側にその気がなかったことで、その話は立ち消えになってしまったが―――人生唯一の男友達である河原に恋人ができたら、その時はきっと自分は寂しい思いをするんだろうな、ということを、あの時初めて考えた。
もし、河原と誰かが付き合ったり結婚したりするなら、できれば……若村のような心から祝福できる相手か、でなければ、自分の真の親友である、詩織や智恵のような人間であって欲しい。河原の幸せだけではなく、相手の幸せをも心から喜べるような、そんなカップルになって欲しい。それが、由香里の身勝手な夢だ。
でも、それは単に、「ちょっと考えてみただけ」という話。今回、詩織を誘ったのには、そんな意図は微塵もない。友達に友達を紹介したい―――ただそれだけの意味だ。
「万が一、思ってても、河原の前では絶対言わない方がいいよ」
自分もロッカーを開けながら、智恵が、さりげなくそう言う。コートを取り出した由香里は、その意味を図りかねて、少し目を丸くした。
「どうして?」
「んー、なんとなく」
「…なによ。気になるじゃない」
「いやーん、遅れちゃうー」
由香里の呟きに被るように、女子更衣室の奥から、甘ったるい声が飛んだ。
ギョッとして智恵と2人して声の方に目を向けると、資材課の事務の女の子が、携帯電話片手にイソイソと走り出てくるところだった。あまり付き合いはないが、確か由香里たちより3つ後輩の筈だ。
「いいわねー。イブにデート?」
智恵がそう声をかけると、彼女は、日頃より3割濃いメイクに彩られた顔に、声同様の甘ったるい笑みを浮かべた。
「そうなんですぅー。やっとの思いで予約取れた店なのに、課長ってばなかなか仕事上がらせてくれなくてぇ」
「そりゃ大変ね」
「じゃあ、先輩、お先に失礼しますぅー」
―――甘さからいくと、キャンディ、っていうより、水飴ね。
糸を引くようなベタベタさを醸し出す後輩の声に、ちょっと鳥肌が立つ。そんな由香里と、由香里以上に鳥肌を立てて二の腕辺りをさする智恵を尻目に、後輩はスキップしかねない様子で更衣室を出て行った。
「…お盆休み明けに、彼氏に二股かけられてた、って大泣きしてたのって、あの子よね」
「そ。あんな奴こっちから振ってやった、って豪語してたけど、クリスマスにはきっちり間に合わせてきたわね」
「クリスマス用に彼氏作った、って訳か」
チラリと由香里が流し見ると、智恵は肩を竦め、皮肉っぽく吐き出した。
「でしょうね。恋人は、“作る”もんじゃなく“できる”もんだと、個人的には思うけど」
「……」
去年までの自分を振り返ると、なかなか耳の痛いセリフだ。けれど。
「“作る”っていう位の能動的な部分がないと、そもそも“できない”と思うけど?」
「…こーいーつー。耳が痛いセリフに、耳が痛いセリフで返したわね」
仕事にはアグレッシブでも、恋愛は「面倒くさい」というタイプの智恵は、そう言って由香里を軽く睨みつつも、口元に苦笑を浮かべてみせた。
「それにしても、ムカつくわねー。あの言い方は、どう考えても“先輩たちは予定ないんですね、あっはっは”ってな感じだったわよ。優越感浸るためだけに男捕まえてるような女に、デカい顔されるのも癪だわ」
「…ごめん。去年まで同じようなことしてたから、私からはあんまり言えない」
ますますもって、耳が痛い。あの後輩も、いつかは自分のように、過去の自分を振り返って、修正液で残さず消し去ってしまいたい、と思う日がくるのだろうか―――なんてことを考えつつ、由香里はロッカーを閉めた。
「どうする、智恵、まっすぐ帰る?」
「そうねぇ……、あ、本屋寄る。25日発売のあの雑誌、今月は24日のうちに出てる筈だから」
「智恵って、必ず発売日に買うわよね。そんなに面白い雑誌なの?」
「んー、そういう訳でも。予定は早く片付けちゃいたいだけかもね」
「えぇー、雑誌の発売日が“予定”って―――…あ、」
智恵と揃って廊下に出ると同時に、偶然、思わぬ人物の姿を目にしてしまい、思わず足が止まった。
それは、コートを羽織りながら、足早にエレベーターへと急ぐ、真田の姿だった。
「……」
真田も、由香里と智恵の視線に気づいたのか、一瞬足を止め、2人の方に目を向けた。その表情が、僅かに翳ったように見えたけれど、結局、一言も発することなく、忙しなく2人の前を通り過ぎていった。よほど急ぐ用があったのだろう。
―――ふーん…、イブの日に、大急ぎでお帰り、か。
「相変わらずね、真田さんは」
その小さな呟きに、智恵が複雑な表情をしたが。
「…ねえ、由香里…」
「え?」
真田の後姿を見送っていた由香里が、智恵を振り返る。
その、何の疑問も持っていない素の顔を見て、
「……ううん、なんでもない」
結局―――智恵も、あえて由香里に何も言おうとはしなかった。
***
理加子の口が、「あ」の音の形になるより早く、蓮は急いで理加子の腕を引っ張り、バタン! とドアを閉めた。
「……っ、」
前のめりで玄関に転がり込んだ理加子は、その勢いに驚いたように、一瞬言葉を失った。が、動揺度でいくと、やっぱり蓮の方がはるかに上回っている。
「な……何、してんだ、こんな時間に……っ!」
極力声のボリュームを絞りながらも、信じられない、という顔で理加子を詰問する蓮に、理加子は肩で息をしながら、同じようにヒソヒソ声で訊ねた。
「あ―――あの、写真集…っ」
「は?」
「写真集っ! 優也に貸した、あたしの写真集、“DOLL”! あれ、どうしたっ!?」
「どうした、って―――秋吉の部屋だろ」
昼間のクリスマスパーティーの会場は、103号室、優也の部屋だ。その部屋で優也本人に貸したのだから、そのまま103号室にあると考えるのが当たり前だろう。何言ってるんだ、とでも言いたげに蓮が眉をひそめると、理加子は「やっぱり」という絶望的な顔になり、日本人形のような真っ直ぐな黒髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「あああああ、やだもおおおぉっ」
「…大丈夫か、おい」
心配口調ではなく、「頭大丈夫か」というニュアンスで、思わず呟いてしまう。今更、理加子のおかしな言動にいちいち驚いたりはしないものの―――さすがに、今目の前にいる理加子の様子は、蓮の理解の範疇外にいる姫川理加子の中でも、群を抜いて「変」だ。
けれど、蓮の不審げな顔をよそに、理加子は頭を押さえたまま、オロオロと落ち着かない様子で辺りを見回した。
「どーしよう…っ。ゆ、優也は? 今、いないの?」
「…バイト」
「連絡って、できないの?」
「…携帯なら、つけられるんじゃないか?」
「出ないのっ」
「は?」
「出ないのよ、さっきからっ! 何度も何度も何度も何度も電話してるのに、電波が届かない所にいるか、電源が入ってない、って」
「ああ……バイト中で電源切ってるか、でなけりゃ、電池切れだろう」
「何時?」
「何が」
「優也が帰ってくるのが、よ!」
「…10時過ぎ?」
「なんで疑問形なのよっ」
「知るかよ! 俺は秋吉のマネージャーじゃないんだぞ!」
「そうよ! マネージャーよ!」
苛立つ蓮の言葉に、理加子は意味不明な相槌を打った。は? と、また事態の飲み込めない顔を蓮がすると、理加子はイライラと爪を噛んだ。
「だいたい、梅ちゃんがいけないのよっ。面倒な書類のことをリカなんかに任せるから…っ。リカがそーゆーの苦手なの、梅ちゃんならよく知ってる筈なのに―――もうっ、男ができると、女ってみんなダメになるんだから」
「……」
「なぁにが、彼氏と都内の高級ホテルでお泊りデートよっ。ブサイクなくせして色気づいちゃって、生意気っ。大事な商品の契約がかかってる話だってのに、仕事そっちのけにしてさっ」
―――誰だよ、“梅ちゃん”って。
蓮の聞き覚えのない名前だが、話の流れからいって、理加子のマネージャーか何かなのだろう。で、本来なら自分がするべき理加子の契約関連の事務的手続きを、理加子本人に任せてしまった、と。そして、そんなことをした裏事情は、「彼氏と都内の高級ホテルでお泊りデート」があるから―――そこには、今日がクリスマスイブであることも関係しているのかもしれない。
…にしても、“梅ちゃん”も、随分と酷い言われ様だ。それに、興奮しているせいか、また自分で自分を「リカ」などと呼んでいる。わがままお姫様キャラになると、自動的にこういう口調になるらしい。つくづく、変な女だ。
「…書類が、どうしたんだ」
こっちから訊かないと、まともに説明もできそうにない、と判断した蓮は、ため息混じりにそう訊ねた。
その言葉に、やっと現実に引き戻されたらしい理加子は、パチパチと二度瞬きをし、それから困ったように眉を寄せた。
「優也に貸した写真集に、明日の朝8時までにFAXしなきゃいけない書類を、うっかり挟んだままにしちゃったみたいなの」
「えっ」
「うちの事務所との契約更改のために必要な住民票。今日のパーティーの帰りに、コンビニかどっかから送ろう、って考えてたんだけど……バッグの中をいくら探しても、見つからないの。もう区役所も閉まってるし、明日だって8時までに区役所開かないし、で、もう、パニックになっちゃって…」
「…それって、8時までにFAXしなかったら、どうなるんだ?」
「わかんない。去年までは梅ちゃんがやってたし、梅ちゃんから詳しいこと何も聞かされてないもん。明後日の仕事には影響ないと思う、けど…」
まさか、書類の提出が少し遅れただけで、即クビ、ということもないだろうが―――いや、写真集にちゃんと挟まっていればまだいいが、最悪、写真集にも挟まっていなかった場合は、理加子がどこかに落とした、という可能性が出てきてしまう。身分証明の代わりともなる書類なだけに、また取ればいいや、と割り切る訳にもいかないだろう。
「ねぇ。優也に連絡つかないかなぁ?」
「…つけて、どうするんだよ。連絡ついても、玄関の鍵は開かないし、秋吉が偶然住民票に気づいて持ち歩いてるとも考え難いだろ」
蓮の的確な指摘に、理加子は、むくれたようにちょっと唇を尖らせたが。
「―――わかった」
そう言うと、やおら靴を脱ぎ、蓮の部屋に上がりこんだ。
「優也が帰ってくるまで、ここで待つから」
「……」
帰ってくれ。迷惑だ。
と、危うく本音が口をついて出て来そうになる。この部屋から部屋1つ置いて奏がいるし、その向こうには咲夜だっているのだ。そんな場所に、理加子を置いておくなんて、冗談ではない。
だが、蓮がその本音を口にする前に、蓮の迷惑加減は理加子にはっきり伝わってしまっていたらしい。振り返った理加子は、不服そうにぷーっと頬を膨らませた。
「なーにーよーっ。外で待てっていうのっ」
「…いや…でも、駅前のファミレスで待つとか…」
「優也が通りかかるまで、ずーっと外睨んで居座る訳? 通りが見通せる窓際の席で? いつ一宮さんたちが通るかも知れないのに?」
「もう帰ってるかもしれないだろ。なのに、同じ階のこの部屋なんて」
「どっちの窓も真っ暗なの確認してから来てるもんっ。バカにしないでっ」
―――事態の説明もできないほど、パニクってた癖に…。
バカにするも何も、さっきの様子では、奏のことも咲夜のことも頭から抜け落ちていても不思議ではないのに―――まあ、それだけ、あの2人の目を理加子が恐れている、ということなのだろうが。
ため息をつき、腕時計にチラリと視線を落とす。通常なら、優也が戻るのは、午後10時前後……それまで、あと1時間と少しだ。
仕方ない―――観念した蓮は、自らも部屋に戻ることで、理加子の居座りを渋々了承したのだった。
***
気まずい空間、というのは、まさに、こういうのを呼ぶのかもしれない―――膝の上の手を落ち着かない様子で組み直しながら、理加子はずっと、床の1点を見つめ続けた。
優也を待つための、寒くない居場所が欲しかっただけ。だから、こうしてここに置いてもらえるだけで、満足しなくてはいけないのだろう。わかっている。わかっているけれど…。
―――さすがに、ちょっと、寂しくない?
ちょっとばかり面白くない気分で、目を上げる。その視線の先には、壁に寄りかかって雑誌を面倒くさそうに広げている蓮の姿があった。
大体、蓮は理加子を歓迎していない。いや……歓迎していないどころか、多分、嫌っている。そのことを思えば、理加子のリクエストに応えてホットミルクをふるまってくれただけでも、泣いて喜ばなくてはいけないほどの好待遇なのかもしれない。まるで義務みたいに、理加子の分だけきっちり淹れて自分の分は作ろうとしなかった点は、マイナスポイントだが。
そもそも理加子は、あまり人に話を振ったりするのが得意な方ではない。自分から何かアクションを起こさなくても、周りの人間がチヤホヤしたり話しかけてきたりする状態に、随分前からすっかり慣らされてしまっていたからだ。それでも、どんな人か知りたくて知りたくてしょうがなかった奏に対しては、相手の迷惑も顧みず、自分の方から色々アクションを起こしていたけれど―――蓮のような、球を投げてもほとんど返ってこないようなタイプは、心底苦手だ。
「…ねえ、」
耐え切れず、口を開く。
すると、雑誌のページをめくろうとしていた蓮の手が止まり、目だけが理加子の方を向いた。
―――や…やっぱり、ヤダ。この人、怖いよっ。
ただでさえ目つきが鋭くて怖いタイプの蓮が、上目遣いにこちらを見据えるのだから、本人にその気がなくても「話しかけるんじゃねえ」と睨まれたような気がしてきてしまう。
「あ…あの、あたしが読めるような雑誌とか、ない?」
「……」
蓮の眉が、僅かに歪む。が、それはうるさがっている風ではなく、困ったような表情だった。
2、3回、自分の部屋中をキョロキョロと見回した蓮は、数秒後、ますます眉をひそめ、
「…なさそうだな」
とボソリと呟いた。
「ファッション誌とかは? 男性用のでも平気よ、あたし」
「ない」
「え、そうなの? いつもオシャレな服着てるじゃない。てっきりファッション誌を参考にしてるのかと思った」
「……」
理加子の指摘に、蓮は今度は、自分の服を見下ろした。ビンテージ物と思しき使い込んだジーンズに、厚手のTシャツの重ね着―――カーキの混じったような微妙なダークグレイと、やはり古着を連想させる暗めの赤という重ね方は、地味だがかなりオシャレだ。ひたすらチェックのシャツしか着ない優也に、少しは見習いなさい、と言いたいほどに。
でも、蓮は特別、オシャレをしているつもりはないらしい。納得のいかない様子で首を傾げ、バツが悪そうに頭を掻いた。
「誰かにアドバイス受けてるとか?」
「いや…」
「じゃあ、何か参考にしてるの?」
それも、違うらしい。頻りに首を傾げた挙句、蓮が出した結論は、簡潔だった。
「…とにかく、ファッション誌は、うちにはない」
「……そう」
終了。
―――もおおおおおぉっ。
危うく、頭に血が上りそうになる。が、理加子がキレて「リカちゃん」キャラに変貌するより早く、蓮が、手にしていた雑誌を置き、ちゃんと顔を上げたので、すんでのところでそれは避けられた。
「やっぱり、仕事のせいかな」
顔を上げた蓮は、突如、そんなことを言い出した。キョトンと目を丸くした理加子は、一瞬、それが自分の話だとはわからなかった。
「え?」
「服とか、そういうのに、興味があるのは」
「えー…、別に、特別興味がある訳じゃ…。女の子なら、誰でも多少は興味はあるんじゃないの?」
「男物でも?」
「…ああ、それは、少しは影響あるのかも。知り合いのモデルさんが出てるかな、っていうのも、男性用ファッション誌見るのが結構好きな理由の1つだし」
「ふぅん…」
「第一、ファッション業界に生きてるから、なんて胸張って言えるほど、モデルの仕事に入れ込んでる訳じゃないから。あたし」
少し自嘲気味な口調で理加子が言うと、蓮は、怪訝そうな顔で眉をひそめた。
「そうなのか?」
「ん…、元々、華やかな世界に憧れたこともないし、モデルになったのも、自分の意思っていうより、周りから持ち上げられてなんとなく、って感じだし…。与えられた仕事をこなすだけで、モデルをしてるから流行に敏感とか、モデルだからファッションにうるさい、なんてことも、全然ないもん。たまたまモデルをしてるけど、つくづくモデルに向いてない、って毎日再確認してるようなもんよ」
「…でも、必死だったろ、さっき」
「え?」
「住民票のこと」
解せない、という顔で、蓮はきちんと理加子に向き直り、雑誌を完全に膝の脇にどけた。
「契約更新に必要な書類がない、って、必死に戻ってきたじゃないか。それは、クビになりたくないから、モデルを辞めたくないから、なんじゃないのか?」
「……」
クビになりたくないから―――…?
イコール、モデルを辞めたくないから?
指摘されて初めて、気づいた。そう……確かに自分は、約束を守らなくてはクビになってしまう、と思い、焦っていた。それは本当だ。
でも、それは「モデル」という職業にこだわっているからか、と問われたら……答えは、イエスだろうか?
思わぬ指摘に、理加子は暫し、少し目を丸くしたまま考えを巡らせた。そして、1分近く考えた末―――ため息とともに首を横に振った。
「…やっぱり、違う」
「?」
「本当は―――本音では、辞めたい、って思ってる。半分以上」
蓮の顔が、ますます怪訝そうなものになる。当然だ。辞めたい気持ちが半分以上もあるのに、契約更新に必要な書類のために、こうして慌てて戻ってきているなんて、自分でも矛盾だと思う。でも―――…。
「…ほんとは…ずっと、ずっと嫌だった。お人形さん扱いも、外見のことでチヤホヤされるのも。だから、そういうあたしをもて囃すモデルって仕事は、あたしには一番向いてないんじゃないか、って感じてた。モデルになってまだ日が浅い頃からずっと。でも……ラク、だったから。あたしが向いてないと思っても、周りは褒めるし、仕事はちゃんと来るし―――ただ何も考えずに黙ってカメラの前に立ってれば、お金がもらえて、一人前の顔していられる。だから、他にやりたいこともないから、続けててもいいかな、って」
「……」
「けど―――あの人に、出会っちゃったから」
あの人、と、あえて曖昧にぼかす。名前を出すと、それだけで、仕事以外の気持ちを仕事に対する気持ちと混ぜこぜにしてしまいそうで。
「あの人に会って、モデルの仕事が本当はどういうものか、教えられちゃったから―――本物のプロがどういうものか、見せつけられたから。あれから……モデルの仕事は、ちっともラクじゃなくなったの。何も考えずに済むことだけがメリットだった仕事なのに、毎日、毎日、葛藤してばっかり。…楽しい仕事なんてない、ってわかってても…いいのかな、このままモデルを続けてて、ほんとにいいのかな、って」
「辞めればいいのに」
さしたる感情も込めず、蓮がそう呟く。
「契約切れるなら、いい節目だろうに」
「…わかってる。でも…」
言葉を切った理加子は、一瞬、逡巡し、それから視線を落として小さく答えた。
「今辞めたら、こんな中途半端な仕事しかできないまま終わったら、余計―――余計、あの人に軽蔑される気がして」
「……」
「あの人、先輩として真剣に、精一杯仕事のことアドバイスしてくれたのに…あたしは、その恩を仇で返したんだもの。少しはマシになった、これからも頑張れ、って、そう最後に言ってくれたけど、あたし…あの人が言うような満足いく仕事、まだ1回もできてない。カメラの前に、楽しい気持ちで立てたこと、1回もないのよ」
「…カメラの前に立つのが好きじゃないんだから、無理だろ」
「そうだけどっ!」
あっさりと可能性を切って捨てる蓮に、理加子は顔を上げ、キッ、とその顔を睨んだ。が、蓮の言うとおり―――そもそも好きじゃないことを無理に好きになろうとしているのだ。蓮を睨んだ理加子は、すぐ力をなくし、また俯いてしまった。
「…そう、だけど…向いてない、才能ない、って言って今辞めちゃったら…一宮さんに、もっと嫌われる気がするんだもん…」
「……」
小声でそう漏らす理加子を、蓮は暫し、黙って見つめていた。が、やがて大きなため息をつくと、うんざりしたように壁にもたれてしまった。
「全く―――誰の人生だよ」
ため息混じりでボソリと呟いた蓮の言葉に、うな垂れていた理加子は、パッと顔を上げ、眉をひそめた。
「…どういう意味?」
「―――別に」
「何よ。気になるじゃないの。どういう意味?」
理加子が食い下がると、観念したのか、蓮は面倒くさそうながらも答えた。
「自分の人生決めるのに、人を理由にしてばっかりだな、って意味」
「人、を?」
「昼間も言っただろ。親に褒められたから、一宮さんに嫌われそうだから―――始めるのも辞めるのも、自分じゃなく誰か任せか。自分の人生なら、自分のためだけに歩けばいいのに」
「…何、それ。あたしだって、自分のためだけに歩いてるわよ」
「間違った道を選んだって嫌というほど自覚してるのに、一宮さんを理由にしてモデルの仕事にしがみつくのが、“自分のため”な生き方か」
「……っ、」
「お前が事務所に居座ってるせいで、その事務所に入れない人間だっているかもしれないんだ。ご褒美欲しさにしがみついてるだけなら、さっさと辞めりゃいい」
「酷い…っ!」
思わず身を乗り出し、蓮に詰め寄る。一理ある、と頭の片隅では思っても、あまりに冷淡な物言いに、抗議せずにはいられなかった。
「何よ、そんな言い方ないでしょっ! 蓮は、好きな人から嫌われる辛さを知らないから、そんな冷たいこと言えるのよっ! 好きな人に褒めてもらいたい、少しでも好きになってもらいたい、って思って、何がいけないの!?」
「いけない、なんて言ってない。俺はただ、そうやって親や男に振り回されて、自分を失くしてるような女が嫌いなだけだ」
「失くしてないもんっ!」
「失くしてるだろ。“自分”がちゃんとあるなら、何の意義も見出せない仕事くらい、すぐ辞められる筈だ」
「そんな簡単なもんじゃないんだから、仕事はっ。苦手だとか向いてないとか乗らないとか、そんなことでいちいち仕事辞めてたら、どんな仕事もできなくなっちゃうじゃないっ」
「…馬鹿馬鹿しい。それとこれとは、話が違う」
「同じだもんっ。大体、向き不向きなんて、大半がただの言い訳なんだから。蓮も、そんな風にあっさり辞めろ辞めろ言ってたら、すぐ“向いてない”って言い訳して仕事やめちゃう人間になって、履歴書の職歴欄に何十個も企業名書く羽目になるんだからねっ」
ヒステリー気味に喚く理加子に、蓮は心底うんざりした顔で、面倒くさそうにそっぽを向いてしまった。反論する気にもなれない、といったところなのだろう。だが、理加子のようなタイプにとって、この態度は逆効果だ。
「大体、人のこと偉そうにあれこれあれこれ言うけど、あんたはどーなのよ、あんたはっ。いい成績とって、いい大学入って―――絵に描いたようなエリートコース進んでる人間なら、道を外れてる人間にお説教できるって訳っ!?」
「…エリートコースなんて、進んでない」
「進んでるじゃないっ! そうよ、蓮みたいな人間には、あたしの気持ちなんかわかんないのよっ。パパだってママだって、蓮みたいな子供だったら、きっと自慢だろうし、関心も持ってくれる筈だもの。やりたくない仕事に必死にしがみついてでも、どうしてもこっち向いて欲しい、って願うあたしの気持ち、蓮みたいに挫折を知らない人間に、わかる訳ないっ」
暴走気味な理加子のセリフに、蓮は顔を上げ、理加子を鋭く見据えた。その視線のあまりの冷たさに、感情のままに捲くし立てていた理加子の胸が、一瞬でヒヤリと冷たくなった。
「―――人のことを知りもしないで、好き勝手言ってくれるよな」
「……」
「俺は、自分の人生は、自分で決める」
呑まれたように息を詰める理加子を見据え、蓮は、妙な緊迫感を伴って、まるで宣言するようにそう言った。
「誰かのためでも、誰かのせいでもなく、自分のために、自分の考えた道を選ぶ。始めるのも、辞めるのも、俺の意思ひとつで、それ以外のものなんていらない。これまでもそうしてしたし、これからだってそうするんだ。誰のせいにもしない代わりに、誰にも勝手な口出しはさせない。絶対に」
「……」
「…絶対に」
まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
―――なんで、そんな思いつめた顔、するの。
理加子から見たら羨ましいような家庭に生まれている癖に。優也のような押しつけがましい親のもとに生まれた訳でもない癖に。頭脳にも恵まれて、チャンスや環境にも恵まれて、自由に生きてる癖に。好きな人に拒絶される辛さも知らずに、自分のことだけ考えて生きている癖に。
「…蓮のせいにしたり、蓮に勝手な口出しをしたりする人が、どこにいるの」
どこにもいないじゃない、というニュアンスを滲ませて、理加子が訊ねるともなく訊ねる。
だが、蓮は表情を暗くし、ふい、と視線を逸らしてしまった。そして、ポツリと呟いた。
「…理加子みたいな人間には、わからないよ」
「……」
―――どういう意味?
理加子には理解不能な、謎の言葉。けれど、よほど不愉快な話題だったのか、一度逸らされた蓮の視線は、二度と理加子に向けられることはなかった。諦めた理加子は、ため息をひとつつき、すっかり冷めてしまったホットミルクを手元に引き寄せた。
―――なんでこの人とは、いつも、こういう風になっちゃうんだろう。
そんなにあたしって、この人にとって、気に食わないタイプなのかな。
奏や咲夜のことを別にしてもなお、蓮の視線から伝わってくる、「敵意」と呼んでもいいほどのマイナスの感情。
相手が誰であれ、できることなら好かれたい、嫌われたくない、というのは、極々当たり前で自然な感情の筈。その相手が、まるで違う環境にいながら、不思議なほど自分の気持ちを理解してくれる人―――優也の、大事な親友であれば、なおさらのことだ。
好きな人に拒絶されるのは、苦しい。でも……特別好きじゃない人でも、拒絶されるとこんなに辛いものだったなんて。
早く、優也が帰ってきてくれればいいのに―――さっきまで以上に気まずい空気になった部屋の中、理加子は時計を何度も見ながら、そんなことを思っていた。
***
「奏ー、大丈夫ー?」
「…うー…、大丈夫…」
辛うじてそう答えながらも、奏の足元は、さっきからずっと怪しい状態が続いている。
駅からアパートまでの、通常なら徒歩10分程度の距離に、既に10分以上かかっている。もうちょっと早く止めればよかった―――どう見ても自棄酒状態だった奏をギリギリまで止めずにいたことを、咲夜は少しばかり後悔した。
今日の仕事に関して、奏が具体的に愚痴ったのは、待ち合わせ場所でのあの時だけだ。それ以降は、むしろ日頃より楽しそうに、ハイテンションでワインを傾けていた。無理に明るく振舞っているのだろう、とは思っていたが……咲夜の予想を上回る無理の仕方だったのかもしれない。
「ほら、しっかり! そんなんで、2階まで階段で上がれんの?」
「だぁいじょうぶ、だって」
「大丈夫に見えないんだってば。足にきてんじゃん、足に」
傍目には多分、奏が咲夜の肩を抱いて歩いているように見えるのだろうが、事実は、奏が咲夜の肩につかまって歩いているのだ。頭はしっかりしているが、その分、足にきてしまっているらしい。
「…っかしーよなー。そこまで飲んだつもりないのに」
「疲れてたんじゃないの? 明日も店あるんでしょ。帰ったら早く寝た方がいいよ」
「えー」
あからさまなブーイングに奏を見上げると、大いに不満、という顔で口を尖らせている。
―――小学生じゃあるまいし。
呆れるべきところなのに、思わず吹き出してしまった。肩にかかっている奏の手をポンポンと叩いた咲夜は、
「すぐ寝ろ、とは言ってないじゃん」
と苦笑混じりに宥めた。まだ口を尖らせたままの奏は、それでも多少は機嫌を直したのか、本気の不満顔から、わざと作っている不満顔に表情を変えた。
「お前なぁ。変な流行に流されないのは偉いけど、割り切りすぎも寂しくない?」
「…クリスマスディナーを24日に一緒に食べておきながら、そーゆーこと言う?」
「食事だけじゃん」
「そんな贅沢言ってると、佐倉さんにぶん殴られるよ。あの人ら、年明けるまで、顔合わせることすらできないんだから」
「え、そうだっけ」
「今日、佐倉さんからコーヒーの注文があって、届けに行ったからさ。すっかり忘れてたけど、拓海って今、アメリカなんだった。年明けまであっちみたい」
「ふーん」
―――あ、まずったかな。
日頃、拓海に繋がる話題には慎重になっている咲夜だが、つい口が滑ってしまった。チラリと目を上げ、奏の表情を確認したが、さしたる変化は見えなかったので、内心ホッと胸をなで下ろした。
「同情するけど、佐倉さんの相手なら、麻生さん位忙しい奴の方が適任かもしれないな。あの人のペースに凡人が合わせようとすると、絶対どっかで爆発するぜ、ほんとに」
「あはは、確かに」
奏の言葉に同意の相槌を打ちつつ笑った咲夜は、直後、あることに気づき、思わず一瞬、足を止めかけた。
「―――…あれ、」
「ん?」
「誰だろ、あんなところで」
ちょうど視界に入ってきた、“ベルメゾンみそら”のエントランスに、女性らしき人影が1つ、蛍光灯の明かりでシルエットとなって浮かび上がっていた。
何かを迷うかのように、右へ行ったり、左へ行ったり―――その様子は遠目にも、“ベルメゾンみそら”に用があるとわかる。そして、見覚えのないシルエットから、その人が住人の誰かである確率は極めて低い。
「…随分ウロウロしてんなぁ…」
「誰かを訪ねて来たのかな」
女性の影は、奏と咲夜がアパートに到着するまでずっと、左右にウロウロと、落ち着かなく動き回っていた。が、2人が近づいてきたことに気づくと、ハッとしたように足を止め、じっと2人の方を凝視しだした。
こちらを向いた彼女は、比較的背が高く、全体的な印象がボーイッシュな人だった。ショートヘアのせいもあるが、それ以上に、腰が隠れる位のダウンジャケットのデザインも、足元のスニーカーも、なんとなくユニセックスなデザインに見えるせいだろう。顔立ちについては、咲夜には何とも言えない。が……「女性らしい」というタイプではなく、やはりこちらもユニセックスな印象だ。年齢は、大体咲夜と同じ位か、もう少し上だろうか。
不審人物と思われても仕方ない行動をしていた自覚があるのか、2人と目が合うと、彼女は落ち着かない様子で、意味もなくジャケットの襟を直したりした。
「ここの住人の誰かに、用ですか?」
奏が訊ねると、彼女は視線を彷徨わせ、それから覚悟したように、きちんと奏の目を見返した。
「あ―――あの…っ、ほ、穂積、蓮に」
「蓮?」
「204に、穂積 蓮という大学生が、住んでると思うんですが…」
「ああ…、蓮のお知り合いですか」
「…蓮のこと、知ってるんですか?」
彼女の目が、急に真剣味を帯びる。異様なムードに、奏も咲夜も怪訝な顔になったが、別に嘘をつく必要もないので、2人揃って「はあ」という返事を返した。
すると彼女は、逡巡しているのか、少し考えるような顔をして、暫し黙った。そして、まだ逡巡を残した顔のまま、再び2人の顔を見比べた。
「あの―――突然で申し訳ないんですけど、その……蓮の部屋まで、ついてきてもらえませんか?」
「は?」
なんだそりゃ、という顔を2人がすると、彼女は慌てたように付け加えた。
「あ、怪しい奴、って思われるのは、当然だと思います。でも…っ、ど、どうしても、1人で訪ねる勇気がなくて」
「勇気?」
「…あたしが訪ねて来た、ってわかったら―――蓮、ドアを開けてくれないかもしれないから」
「……」
―――もしかして。
以前、蓮が“Jonny's Club”に来て突然涙を流した時のことが、ぽん、と頭に浮かぶ。確証は何ひとつない。けれど、もしかして、この人は―――…。
「…あの、もしかして……蓮君のお兄さんの、婚約者?」
彼女の表情を窺うようにしながら咲夜が確認すると、彼女は目を見開き、咲夜の顔を凝視した。
「え……っ」
「あ、違ってたら、ごめんなさい。でも、もしかしたらそうかな、と…」
「……」
見開いた彼女の瞳が、グラグラと揺れる。それは、無言ではあるが、咲夜の質問にイエスと答えているに等しかった。
『お兄さんの婚約者が、好きな人。…その人の方は、彼女のこと、ちょっとでも好き?』
『…いいえ』
『全く? 少しも?』
『…女として見たことは一度もない―――って、本人は言ってました』
―――そっか。この人が…。
穂積兄弟の幼馴染で、もうすぐ蓮の姉となる筈の人。そして…答えを出したと自分でも思っていた筈の恋に、今もまだ迷っている人。詳しい事情は聞いていないけれど、この人の迷いと、その迷い故の兄の疑念に、蓮が酷く苦しみ、悲しんでいることだけは、あの時、なんとなく感じ取れた。
蓮の話を知らない奏が、説明を求めるかのように、咲夜のジャケットの背中をつんつん、と引っ張る。が、さすがに本人を目の前にして、蓮から聞いた話を奏にする訳にもいかない。困ったような視線を咲夜が奏に返していると、
「…岩田、和美です」
と、硬い声で彼女が名乗り、軽く頭を下げた。咲夜にどこまでのことを知られているのかが読めず、怯えているのだろう。
「あー…ええと、私も詳しい話は、よく知らないんだ。ただ、なんか揉めてるらしいって、蓮君からちょっと聞いただけだから」
奏に対する説明と、彼女を安心させるのを兼ねて咲夜がそう言うと、彼女は気まずそうに俯き、「…すみません…」と小声で微かに呟いた。
「あたし…蓮と、どうしても話がしたいんです。でもあいつ、電話でもなかなか話させてくれなくて」
外見同様の、中性的なハスキーボイスで、和美がボソボソと説明する。
―――そりゃあ、兄貴の婚約者が自分のことも好きだなんて事態、あの真面目で一本気な蓮君には、真正面から向き合うにはヘヴィーすぎるよ。
でも、避け続けるのに限界があるのも、事実だろう。たまたま話を聞いていた自分が、こうして和美と偶然出会うことになったのも、何かの縁かもしれない。
「…よく、わかんないけど、蓮君のとこに連れて行って、代わりに呼び鈴押せばいいのかな」
少々首を傾げつつも、咲夜がそう確認すると、それを前向きな返事と取ったのか、和美はパッと顔を上げ、1歩詰め寄った。
「お、お願いします。絶対、絶対、ご迷惑はおかけしませんからっ」
***
―――なんか、妙なことになったなぁ…。
足元の危ない奏を支えつつ2階に上がった咲夜は、背後に和美と奏を控えさせ、204号室の前に立っていた。
振り返ると、奏の方は、酔いが回ってあまり気分が良くないのか、浮かない表情でそっぽを向いてジャケットの襟元を緩めていた。その隣に立つ和美は、すみませんすみませんお願いします、という感じで手を合わせていた。
―――いいんだけどさ。この人がお兄さんと結婚するんなら、遅かれ早かれ、蓮君と話し合ってケリつける必要はあるんだろうし。
でも、こんな騙まし討ちのような会わせ方をして、本当にいいんだろうか―――大いに不安だが、引き受けてしまったからには仕方ない。はあ、と息をついた咲夜は、意を決して、204号室の呼び鈴を押した。
ピンポーン、と軽やかな音がして、その少し後、ドアの向こうで人の動く気配がした。
「……は、はい」
珍しく、少し慌てた様子の蓮の声。どうせ魚眼レンズから顔は確認できてるだろうな、と思いつつも、
「201の、如月ですー」
と、努めていつもどおりの声を装い、名乗った。
「ちょっと話があるんだけど、5分ほど、いいかなぁ?」
「え、」
心なしか、蓮の声が、硬い。何かまずいタイミングで来ちゃったかな、と考えた咲夜は、そういえば今日はクリスマスイブだっけ、と思い至った。
―――もしかして、誰か来てたのかな。
だとしたら、申し訳ないほど最悪のタイミングかもしれない。思わず背後の奏を振り返ると、奏も同じことを考えたのか、バツが悪そうな顔で髪を掻き混ぜていた。
「ちょ―――ちょっと、待って下さい」
若干早口気味な蓮の声の後、ドアの向こうは、暫しの間、静まり返った。が、なんとなくではあるが、人が動き回っているような空気だけは感じ取れた。そして1分後、ガチャリ、と鍵の開く音がして、204号室のドアが静かに開いた。
ドアの隙間から顔を覗かせた蓮は、何の話だろう、と、咲夜の様子を窺うような表情をしていた。こりゃ本格的にタイミングが悪かったかな―――咲夜の作り笑いが、自然と引きつる。
「ええと…、お取り込み中?」
「いえ、そういう訳じゃ…」
「そ、っか。ごめん、変な時間に」
「…話、って、何ですか? 俺、今日、風邪気味なんであんまり―――…」
「風邪!?」
蓮が発した単語に、咲夜ではなく、視界の外にいた人物が、即座に反応した。
ギョッとして咲夜が振り向くと同時に、奏の制止するような手を無視して、和美が飛んできた。玄関先を塞ぐ形になっている咲夜をグイ、と押しのけると、ビックリして目を見開いている蓮の腕を、和美の手がガシッ、と掴んだ。
「か―――和美!?」
突如現れた幼馴染に、蓮が、彼らしくない素っ頓狂な声を上げる。が、当の和美の目には、蓮の驚愕の表情などまるで入っていないらしい。
「ホントなの、風邪って! 熱は!?」
「ちょ…っ、や、やめろ、和美!」
和美を押し戻そうとする蓮をものともせず、和美は、蓮の額にかかった髪をどけて、強引に掌を押しつけた。
「やめろって! 熱なんかないから!」
バシッ、と和美の手を払いのける蓮に、和美はムキになったように顔を紅潮させ、目に涙さえ浮かべて食ってかかった。
「だって! あんた、陸上辞めてから、この時期毎年風邪ひいてたじゃないっ! なのに一人暮らしなんかして…っ!」
「風邪なんて誰でもひくだろ、いい加減放せよ!」
「やだっ!」
「放せ、って…!!」
「やだっ!! 放したら、ドア閉める気だ! 絶対放さないんだから…っ!!」
ドア1枚挟んでの和美と蓮の引っ張り合いを、ただ呆然と傍観していた咲夜は、ジャケットの腕をくい、と引かれ、我に返った。見ると、咲夜同様に呆然としていた奏が、困惑顔で身を乗り出し、咲夜の耳元に囁いていた。
「なあ…、蓮の兄貴の婚約者、だよな?」
「…うん」
「…なんか、様子が妙じゃねえ? これ」
「……」
そんなこと、言われても―――第三者の自分に、しかもはっきり話を聞いた訳でもない自分に、何が言えるというのだろう? 困ったような顔をした咲夜は、気まずい思いで首を捻ることしかできなかった。
「し…閉めない! 絶対閉めないから、とにかく放…」
「何よ、その顔っ! そんなにあたしに触られるのが嫌な訳っ!?」
「和美っ…!」
「大体蓮は、いつもそうやって、平気であたしのこと傷つけるんだっ。あたしだって、いつまでもガキ大将やってた子供のまんまじゃないんだからね! そういう態度取られれば、こんなあたしでも傷つく―――」
あ。
と、その場にいた誰もが、思った。
バッ、と音がしそうな勢いで和美の手をついに振り解いた直後、蓮の顔が、一瞬で真っ青に蒼褪めたのだ。
「―――…っ!!」
自由になった手で口を押さえた蓮は、そのまま、もの凄い勢いで部屋の中へと駆け込み、洗面所に繋がるドアをバタン! と開けた。そして、今にもつまづきそうな様子で、洗面所の中へと転がり込んだ。
「え……っ、れ、蓮??」
唖然とする和美の声に被さるように、洗面所から、ゲホゲホという蓮が盛大にむせている音が聞こえた。直後―――思わぬ声が、洗面所の奥から響いた。
「蓮!? どっ、どーしたの!?」
取り乱した、高い女性の声。
「……えっ」
聞き覚えのある、その声に、無意識のうちに声が漏れる。
拓海からも太鼓判を押されている、咲夜の耳。彼女の声を聞いた回数はさほど多くはないけれど、咲夜の耳をもってすれば、今の短いフレーズでも、記憶を呼び起こすには十分だった。
「だ…っ、大丈夫!? 気分悪いの!?」
「…や…めろ、お前も触るな…っ!」
「そんなこと言ったって! きゅ、救急車―――…」
更に続けられた声に、反射的に、奏を振り返る。
そして、さっきまでとは一変して、愕然としたような顔で目を見開き凍り付いている奏を見て、誤魔化そうにももう遅い、と悟った。
「そ……」
奏、やめて。
咲夜がそう言い終えるより早く、奏の表情が、激怒一歩手前の、頭に血が上った時のものに変わる。唇を噛んだ奏は、さっきの千鳥足など忘れたみたいに、猛然とした勢いで蓮の部屋に土足で上がりこんだ。
「奏!」
立場が逆転し、ポカンとした様子で立ち尽くしている和美にチラリと視線を送りつつ、奏の後を追って蓮の部屋に上がる。引き止めるように、辛うじて奏の腕を掴むことができた咲夜の目に、開け放たれた洗面所のドアの向こう側が映り、ああやっぱり、と、心の中で呟いた。
床に膝をつき、ぐったりと洗面台に縋っている蓮のすぐ傍に、コートとバッグ、それにブーツを抱えて立ち尽くす人影が、1つ。
「―――何してるんだよ、こんなとこで」
怒りを必死に抑えようとするような、奏の声に、怯えたように顔を上げたのは―――リカだったのだ。
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