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― Silent Night(3) ―

 

 神様は、意地悪だ。
 大好きな人との再会を、よりによってこんな日に、しかもこんな形で果たさせるなんて。


 ここで何をしているんだ、と詰問する奏の声は、怒りを必死に抑え込もうとしているみたいに、微かに震えているように聞こえた。
 何か、答えなくちゃ―――そう思いはするものの、頭は完全に空回りだ。荷物を抱えた理加子は、大きな目を余計大きく見開いたまま、ただ奏を見上げることしかできなかった。
 「なんで、ここにいるんだ?」
 「……」
 「なんで蓮の部屋にいるのか、って訊いてんだよ」
 「奏っ」
 たしなめるような小声で、咲夜が奏を制する。が、奏がその声に歯向かうより先に、その場の空気の外にいた人物が、突如割って入った。
 「ちょっと」
 奏と咲夜の、更に背後から突然現れたのは、やけにボーイッシュな外見の女性だった。当然、理加子にとっては初めて見る顔だ。
 「だ、誰よ、あんた。蓮の何なの?」
 「え?」
 妙にうろたえた表情で彼女が口にした「あんた」という言葉は、明らかに理加子に向けて放たれたものだった。微かな敵意めいたものを感じ取った理加子は、ムッ、と眉を顰め、見知らぬ女を睨み上げた。
 「そっちこそ、誰よ」
 「誰だっていいでしょ! こんな時間に男の子の一人暮らしの部屋に上がりこんで、あ…あんた、どーゆーつもりよっ!」
 「どーゆーつもりも何もないわよっ。何なのよ、そっちこそ。こんな時間に怒鳴り込みかけに来るって、何の権利があって、」
 「あたしは、蓮の幼馴染で、蓮の兄貴の婚約者なんだからねっ!」
 理加子の言葉を遮ってそう宣言すると、理加子の目の前に人差し指を突きつけた。
 「結婚すりゃあ、蓮はあたしの弟になるし、まだ蓮がこーんなちっちゃい頃から、あたしが面倒見てたし! ちゃんと生活できてるか心配したり、変な奴と付き合ってないか心配するのは、当然のことでしょ!」
 参ったか、とでも言いたげに胸を反らす彼女に、理加子はオーバーな位、バカにした顔を作った。
 「何それ。5歳6歳の子供相手じゃあるまいし、何言ってるの? しかも、自分の恋人ならまだしも、恋人の弟じゃない。まだそんなに目くじら立てる時間でもないのに、顔色変えて怒鳴り込むなんて、ちょっとおかしいんじゃない?」
 「な……っ、なんだと、テメェ…!」
 「和美!」
 突如口調が変わった彼女を制するかのように、理加子の背後でぐったりしていた蓮が、首だけをもたげ、低く呻いた。その声を聞いた途端、彼女はびくっ、と怯えたように体を強張らせた。そう―――つい今しがた、奏に睨み下ろされた理加子が、そうしたように。
 蓮は、多少落ち着きはしたものの、まだ額に脂汗を滲ませていた。2度ほど軽くむせた後、肩で息をしながら彼女を見据えた。
 「…お前は、ちょっと、黙ってろ」
 「だ―――だって、蓮っ」
 「この子は、俺の親友の、友達だよ」
 「え、」
 「1階に住んでる、秋吉って奴の。バイトで留守だから、うちで帰りを待ってただけだよ」
 「優也の?」
 蓮の説明に、奏が反応した。鋭い視線が再びこちらに向けられ、理加子は思わず身を竦ませた。
 「優也の友達、って……リカが?」
 「……」
 「一宮さん、その話は、」
 答えられずにいる理加子をフォローするかのように、蓮が口を挟む。が、奏はそれを無視し、これまで以上に険しい表情で一歩理加子に詰め寄った。
 「どういうことだよ」
 「……」
 「まさか、今度は優也を利用する気じゃないだろうな。え!?」
 ―――利用?
 一瞬、意味がわからなかった。
 けれど、その意味が飲み込めた途端―――理加子は頬を紅潮させ、荷物を抱きしめたまま身を乗り出した。
 「ひ……酷いっ! いくらリカがバカだからって、優也みたいな純粋な子、利用する訳ないでしょ!?」
 「ほんとだろうな」
 「なによ、疑うの!? 嘘だと思うんなら、優也にでも蓮にでも訊いてみれば!? 2人とも、一宮さんが怒ってるの知ってて、あえて黙っててくれたんだから!」
 「奏っ」
 見かねたのか、咲夜が奏の腕を引き、たしなめるような声を上げた。
 「やめなさいって。関係ない人もいる前で」
 「咲夜…」
 「つーか、酔っ払いすぎ」
 不貞腐れたような顔をする奏の頬を軽く叩き、咲夜はくすっと笑って、蓮の方を振り返った。
 「続きは、優也君から聞いとくわ。こいつ、今日はちょっと色々あって頭に血が上ってるから、リカちゃんとじゃまともな話にならないと思うからさ。優也君、いつ頃戻るかな」
 「…多分、もうそろそろだと思いますけど…」
 「じゃ、奏の部屋で待っとこうかな。優也君と話す前に、ちょっとは酔いをさましとかないと」
 軽い調子でそう言うと、咲夜は奏の肩をポンと叩き、行くよ、と促した。そんな2人を見て、何故か蓮が、妙に恐縮した様子で頭を垂れた。
 「…すみません」
 「? なんで、蓮君が謝るの」
 理加子にも、蓮が謝る理由がよくわからなかったが、咲夜本人にもわからなかったらしい。キョトンとする咲夜に、蓮は黙ったまま、複雑な心境を映した目を兄の婚約者へと一瞬向けた。どうやら、彼女が奏と理加子の話に割って入って騒いだことを、身内として申し訳なく思っているらしい。
 「…まあ、ゆっくり話し合いなよ。今は、嫌かもしれないけどさ」
 「……」
 「本当に話し合いたい、って思えるようになった時には、既に手遅れ、なんてこともあるからね。…家族になる人なら―――縁の切れない相手なら、我慢してでも、話し合いのチャンスは掴んでおいた方がいいよ」

 チャンス―――…。

 咲夜が苦笑混じりに口にした言葉に、理加子の胸が、ズキリと痛んだ。
 ―――ちゃんと、謝りたかったのに。次に会う時は、許してもらえなくてもいいから、気が済むまで謝って……そうすれば、少しは、あのことから立ち直れると思ってたのに…。
 突然舞い込んできたそのチャンスを、自分はものにできなかった。その事実が、あまりにも辛すぎて―――理加子は、部屋を出て行く奏の背中を見ることさえできず、まずます俯いた。


***


 熱いシャワーを浴び、ようやく寒気と吐き気が治まった。
 ―――兄貴に電話しないと…。
 和美を探し回っているであろう要のことを思い出し、すぐにでも連絡を入れなければ、と考える。が…今は到底その気になれない。この上兄が押しかけてきて、和美とああだこうだと揉め始めたら、ただでさえ目茶苦茶になっているこの状況が更に混乱すること必至だ。首を振った蓮は、タオルを籠の中に投げ入れ、部屋へと戻った。

 ガチャッ、というドアの開く音に、床に座っていた和美と理加子が、反射的にこちらを向いた。
 既に泣きすぎで目が真っ赤な和美の傍らで、理加子は、どんよりと曇った顔をしていた。本当は自分の方が泣きたい気分なのに、先に和美に泣かれてしまったせいでそれができず、体の中に不満とやりきれなさが溜まってしまっているような顔だ。
 「…今、優也が顔出した」
 「え、」
 和美が乱入してくるより前に、優也の部屋のドアに、「帰ったら部屋に来てくれ」と蓮の名前でメモを貼っておいたのだ。当然、理加子の名前など出せる筈もないし、その後に起きたことについて書き足す暇もなかった。きっと「なんでわざわざ穂積が?」と不審に思っただろうが、蓮がシャワーを浴びている間に、ちゃんと来てくれたらしい。
 「あたしが出てきて、驚いてた。…で、今、一宮さんとこに行ってる」
 「…そうか」
 想像しただけで、気が重い。が、蓮よりは優也の方が、この件について説明するには適任だろう。気の弱いところのある優也だが、いざとなると蓮以上に根性が据わっている部分も多い。あいつならちゃんと話をつけてくれるだろう、と、蓮は小さく息をついた。
 「それで、忘れ物は?」
 蓮が肝心の用件について訊ねると、理加子は僅かに唇を尖らせた。
 「そんな話を出せる空気じゃなかったんだもの」
 「…じゃ、どうするんだよ」
 「…優也が戻るまで、ここで待たせて」
 まだ居座る気なのか、と、一気に疲れが増す。しかし、じゃあ他にどういう方法があるんだ、と自問したところで、ここで待たせる以外の良案はない、と3秒で自分を納得させた。
 理加子のことは、とりあえず、今はいい。
 問題は、和美の方だ。
 和美は、両手で握り締めたハンカチを口元に押し当て、まだ時々鼻をすすっていた。奏と咲夜が出て行くや、いきなりワッと泣き出したので、まだ何ひとつ話を聞いていないが……気が重くても、聞く以外ないだろう。
 ―――けど、なぁ…。
 大きなため息をひとつつき、チラリと理加子に目を向ける。その視線の意味を察してか、理加子は肩を竦め、しらけた顔をした。
 「あたしがいると、話し合いができない、ってこと?」
 「…いや、そういう訳でも…」
 「大体、さっきのアレ見せられて、一番重要なとこは、もうわかっちゃったもの。今更よ」
 「……」
 それは、まあ、そうだろう。兄の婚約者だ、と前もって断りを入れていても、あの和美の異常な興奮振りを目の当たりにしたら、和美が蓮に執着しているのは一目瞭然だ。
 蓮がまだ返事を迷っていると、理加子は黙って、膝歩きで部屋の隅っこに移動した。多分、蓮の視界に入らないよう配慮してのことだろう。あの理加子にそんな風に気を遣われたのでは、話し合わない訳にもいかない。それに―――…。

 『家族になる人なら―――縁の切れない相手なら、我慢してでも、話し合いのチャンスは掴んでおいた方がいいよ』

 自嘲気味な、どこか皮肉めいた笑みを口元に浮かべてそう言った咲夜を、思い出す。
 咲夜の事情は知らないが、彼女にも「男女関係でどうしても許せない人間」がいるのではないか、と、以前感じた。さっきのセリフから察するに、それは案外、身内なのかもしれない。そして、もしかしたら―――話し合いたいと思えるようになった時には、既に手遅れだったのかも、しれない。
 ―――家族になる人…、か。
 忌々しいけれど、そのとおりだ。和美には腹の立つ部分も多いが、だからといって兄と別れてしまえ、とは思えない。兄とは上手くいって欲しい―――だから和美は、咲夜の言うとおり、家族になる人だ。

 「―――…兄貴、心配してた」
 和美に向き直り、とりあえず、そう切り出す。
 腫れぼったい目で斜め下を見ていた和美は、その言葉に目を上げ、また鼻をすすった。
 「…怒ってたでしょ」
 「いや、憔悴してた」
 「……」
 「…和美が来たら、追い返さないで、話を聞いてやってくれ、って言われた」
 途端に、和美の目が、大きく見開かれた。
 「要が?」
 「…うん」
 「どうして…」
 「俺が話を聞いてやれば、和美は必ず戻ってくる、って言ってた」
 「……」
 「―――なんで、家出なんてしたんだ?」
 蓮が訊ねると、和美は唇を噛み、うな垂れた。家出、という単語に、視界の端に映る理加子の背中が、僅かに反応するのが見えた。が、振り向くことまではしなかった。
 「…確かめたかったから」
 長い沈黙の後、ポツリと呟くように、和美が口を開いた。
 「自分の気持ちがどこにあるか、自分で納得したかったから。…要が傍にいると、つい流されちゃうから、一度離れたかったんだ。1人になったら、わかるかな、って。本当はあたしが…誰を好きなのか」
 「…で、わかったのか」
 蓮の問いに、和美は力なく首を振り、ますます身を縮めた。
 「なんだか―――“好き”ってどういう気持ちなのかすら、わかんなくなっちゃった」
 「……」
 「人を好きになる気持ちも…何かを好きになる気持ちも…何が嘘で、何が本当なのか、わかんなくなっちゃったよ」
 「…なんだよ、それ」
 思わず、眉をひそめる。はあっ、と大きくため息をついた和美は、また涙の滲んできた目元を、手の甲で乱暴に拭った。
 「子供の頃は、さ。走るのも好きだったし、あたしに負けるもんかってムキになって走る小さい蓮も好きだったし……団地のガキどものバカ騒ぎを、しょうがないな、って苦笑いしながら見守ってくれてる要のことも、大好きだった。あの団地の端から端まで、みんなで一列に並んで、競争して走ってさ。…誰が好きとか、何が好きとか、そんなんじゃなくて―――あの景色も、あの時間も、全部大好きだったんだ」
 「……うん」
 それは、蓮だって、同じだ。
 走っても走っても追いつけない和美の背中。その背中を必死に追いかける自分。そんな自分を頼りない走り方で追いかける、更に小さな近所の子供―――西棟の向こうに夕日が落ちるまでずっと、そんな風にしてみんなして遊んだ。今でも、思い出せば一瞬であの時に戻れるほどに、あの頃の景色の記憶は鮮やかだ。
 「あたしが陸上始めたのも、要に好かれたくてガキ大将をやめたのも、全部あの頃の風景に繋がってる―――走るのが好きだし、要が好きだ。そう思ってたんだ、本当に。でも―――中学入った途端、世界が、変わっちゃったんだ」
 「世界?」
 「…蓮がいない世界に、なっちゃったから」
 「……」
 「…中学で最初の記録会で、初めて、蓮がどこにもいないフィールドを走ってさ。1位取っても、どうだ1位だぞ、って自慢しに行く相手も、お前も頑張れって励ます相手も、ここにはいないんだ、ってことに、初めて気づいた。気づいたら…あたし、どうしていいかわかんなかったんだ」
 ぽたん、と、和美の目から涙が零れ落ちる。それを拭うこともせず、和美は膝の上の拳をきつく握り締めた。
 「あの頃―――他の小学校から来た陸上部の子がすっごい速くて、その子に追い抜かれたらやる気失くした、って、あたし、蓮にそう言ったんだけど…あれ、本当は、ちょっと違うんだ。その子はあたしのこと、ライバル視して必死に練習してたんだけど―――あたしは、その子と競う気に、どうしてもなれなかった。ううん、その子だけじゃない、誰とも競う気が起きなかったんだ。中学入ってからずっと」
 「…まさか」
 まさか。あの負けず嫌いで、気の強い和美が。
 少なくとも、小学校までの和美は、闘争心を剥き出しにして走っていた。競り合う相手が強ければ強いほど、負けてなるものか、と歯を食いしばってがむしゃらに走っていた。
 「追い抜かれて、一気にやる気が落ちたのは本当だけど……だから、蓮に一喝されて、もう一度頑張ってみよう、って思って陸上続けたけど……中3の時、蓮が中学に上がってきて、わかった。ああ、なんだ―――あたしが競ってた相手は、いつも蓮1人だったんだ、って」
 「俺?」
 目を丸くする蓮を、和美はチラッと一瞬だけ見、すぐ視線を膝の上に落とした。
 「…蓮に、追い抜かれたくないから―――蓮にずっと、追いかけてきて欲しかったから。だから走り続けてたんだ、あたし。走っていれば、蓮が追いかけてきてくれる、あたしを認めてくれる……そう思って」
 「……」
 「でも、中学生になった蓮は、もうあたしのことなんて追いかけてくれなかったんだよね。あたしなんか通り越して、もっと上を目指してて―――…それに気づいたら、なんかもう、走る気力が湧かなくなっちゃった。それに、付き合うようになってからの要、陸上の話すると機嫌悪くなること多くて―――だから、辞めた。陸上続けても、何もいいことないってわかったから」
 一気にそう言うと、和美は大きく息を吐き出し、涙の止まらない目を指先で押さえた。
 「いくら走り続けても……もう、蓮があたしを慕ってくれることなんてない、って、わかったから」
 「……」
 「…でもさ。あたしが陸上辞めた途端、それまでよりもっとあたしに冷たくなった蓮を見て…ちょっと、後悔した。要の反対押し切って陸上続けてた方が、まだマシだったのかな…って」
 ―――…な…んだよ、それ。
 黙って聞いていた蓮の目が、次第に険しさを増す。
 「…陸上始めたのも、辞めたのも、全部俺のせいだ、って言いたいのか…?」
 自制しようとしても、声が僅かに震えてしまう。それが憤りのせいだとわかったのか、和美はビクリと肩を震わせ、顔を上げた。
 「俺は、和美は本当に走るのが好きで、だから陸上始めたんだと思ってた。中学上がって1番が取れなくなって、勝てない悔しさに負けて陸上を辞めたんだと思ってた。なのに…俺に尊敬されたいがために走って、俺が和美を追い越したから辞めたのか?」
 「…れ…」
 「なんだよ、それ。ふざけるなよ」
 「……」
 「じゃあ、俺が市大会にも都大会にも出られない落ちこぼれだったら、ずっと陸上続けたのかよ。兄貴が陸上続けていいぞ、って言ったら続けたのかよ。和美自身のことだろ? なんで俺や兄貴を理由にするんだよ? お前の人生を、俺のせいにするなよ!」
 「…っ、じゃあ、どうすればよかった訳!?」
 バン! とテーブルを叩き、和美が身を乗り出す。その大きな音に、蓮も身を強張らせ、それまで頑なに背中を向けていた理加子も驚いて振り返った。
 「そうだよ。蓮の言うとおりだよ。蓮は、いつだって正しい―――蓮はいつだって正論を言う。正論言って、あたしを追い詰めるんだ」
 「追い…詰める?」
 「…言われなくたって…自分が間違ってるってことは、あたし自身が一番よくわかってる…痛いくらい、わかってるんだ」
 掠れた声でそう言うと、和美の目から、一気に涙が溢れ、次々頬を伝った。
 「いくら小さい頃から憧れてた人だからって、要の機嫌を取ることばっかり考えすぎた……蓮のことも好きだ、って気づいた時、別れるのを覚悟してでも要に正直に言うべきだった……蓮があたしを女とは思ってくれない、ってわかってるんなら、黙って諦めて、要だけを見つめているべきだった……あのキャンプの時も、他の女の子に嫉妬なんかしないで、“兄の恋人”って立場を守るべきだった……れ…蓮に、あんなこと、するべきじゃなかった」
 「…やめろよ」
 さすがに、無関係な人間のいる前で出す話ではない。すかさずストップをかけたが、和美はボロボロ泣きながら、何度も頭を振って、それを拒否した。
 「あたしがっ、あ、あんなバカなことしたせいで、蓮は……本当に走るのが好きだった蓮が、走れなくなっちゃったんだ。要を怒らせたのも、蓮から陸上奪ったのも、全部あたしなんだ。な、なのに…嫌ってほど後悔してるのに、蓮に対する気持ちを清算できないまま、要と結婚しようとしてる。蓮が家を出てっちゃって、同じ家に暮らせるって期待が外れたことに、がっかりしてる。そんな資格もないのに。……わかってるんだ。あたしが間違ってる。でも―――でも、蓮」
 しゃくりあげた和美は、縋るような目で、蓮を見つめた。
 「間違ってる、ってわかってても、どうにもできない気持ちって、あるんだよ。特に…恋には」
 「……」
 「正しくしたくても、どうにもできないから、苦しんでるのに―――蓮は、正しい道しか示してくれない。嫌ってほどわかってること、あたしに突きつけて、逃げ場を与えてくれない。あたしが苦しんでる原因の半分は蓮にあるのに、俺は関係ない、ってばっさり切り捨てて、いつも置き去りにするじゃない! あたしは、どうすりゃよかったのよっ!?」
 「どう、って…」
 そんなこと、言われても。
 正論―――確かに、そうなのかもしれない。そして、恋愛には時として筋の通らないことや世間的に許されないこともあるのも、確かだろう。自分にはそんな経験はないが、世に溢れる醜い愛憎劇を見ていれば、それが特殊例でないこと位、蓮にも想像できる。
 だからといって、正論を吐くこと以外、自分に何ができただろう? 目に見えて陸上への情熱を失っていく和美に、それでもいいから頑張れ、と心にもない励ましをすればよかったのだろうか? 兄が勘繰ることを承知の上で、つきまとう和美にいちいち笑顔で応じてやればよかったのだろうか?
 「…和美は、どうしたいんだよ」
 他に言いようがなくて、逆にそう訊ねる。すると、子供みたいに泣きじゃくる和美から、意外な言葉が返ってきた。
 「れ…蓮は、どうして欲しい?」
 「は?」
 「蓮は、あたしに、どうして欲しい? あたしがどうすれば、気が済む?」
 「…なんで、俺が? 和美の人生なのに、なんで俺の要望が出てくるんだ?」
 「だって、恨んでるんでしょ!?」
 食って掛かるような勢いで和美が叫んだ言葉に、蓮は目を丸くした。
 「恨…む?」
 「蓮には、陸上しかなかったのに…あたしのせいで、二度と走れなくなったんだもの。恨んでるんでしょ? 恨んで当然だ……高校総体に出る夢も、実業団入る夢も、全部駄目になったんだもの。酷いと思う。蓮が可哀想だって思う。あたしのことも、要のことも、憎んでるんでしょ?」
 「…そんなこと、俺、1度でも言ったか?」
 「言わなくたってわかるよ…! あの事故以来、あたしと全然口きいてくれなくなったじゃない! それに、服装も髪型も変わっちゃって、ロックバンドやってるような不良連中と親しくしてみたり、まだ高校生なのにバイクの免許取ろうとしたり―――要がもっと真面目になれって注意するたび、関係ない、放っとけ、って反発して……あたしたちが心配するの承知で、ううん、あたしたちを困らせたくて、あんな真似ばっかりしたんでしょ!?」
 「……」
 驚きに見開かれていた目が、次第に、その色を変える。
 信じられない―――ヒステリックに吐き出されるセリフの数々に、蓮の体は、微かに震え始めていた。
 「大学だって、高校で故障した選手が復活して活躍した実績のある大学を要が見つけてきても、今更やる気ない、なんて言って蹴っちゃうし……それどころか、要と同じ大学をわざわざ選ぶなんて、あそこ落ちたあたしに対する当てつけ以外の何物でもないじゃない…! 同居のことだって、前から出て行くつもりだった、なんて見え透いた嘘ついて―――はっきり言えばいいじゃない! 義理の弟になる奴を強姦しようとする女となんて一緒に住めない、って!」
 「え…っ」
 部屋の隅から、小さな声が上がる。その声の主も、その声の意味も瞬時にわかったが、蓮は理加子の方に目を向けることすらできなかった。
 体が、震えて。
 怒り、なんて言葉では、足りない。屈辱―――耐えがたい、屈辱。この6年間、日々の小さな出来事の中で、少しずつ、少しずつ積もっていった憤りが、許容量をオーバーして、今にも爆発してしまいそうで―――体が、震えて。
 「れ…蓮に女として好かれようなんて、もう思ってないよ…。でも、このままじゃ、苦しい―――軽蔑されて、バカにされて、憎まれて恨まれて…そんな状態のまま、要と結婚なんてできない。償いたい……ずっとずっと、償いたかった。蓮をあんな目にあわせた罪滅ぼしをする責任があたしにはある、って思って、蓮のために何でもしようって―――でも、蓮は、恨み言ひとつ言わないで、償うチャンスすらくれなかったじゃない」
 「……」
 「なんでも言ってよ、蓮。蓮の望むこと、なんでもする。それで償うことになるんなら、あたしの足、切り落としたっていいよ。蓮は、あたしにどうして欲しい?」

 その、瞬間。
 6年間、辛うじて保っていたものが、蓮の頭の中でパチン、と弾け飛んだ。


***


 「―――本当に、すみませんでした」
 最後の締めくくりにそう謝罪すると、優也は床に額がつくほど、深々と頭を下げた。
 正直、怒鳴られることも覚悟していたけれど、優也の説明を聞いている間、奏も咲夜もいたって静かだった。質問も異論も挟まず、優也が理加子を初めて見かけた日から今日までの話を、ただただ静かに聞いていた。
 顔を上げ、チラリと2人の顔を覗うと、咲夜は少し心配そうな様子で、奏の横顔を流し見ていた。危険な目に遭ったのは咲夜の方だろうが、やはりこの件の主役は奏だ。二度と敷地内に入れるな、であろうが、まあ大目に見てやる、であろうが、裁定を下すのは奏の役目だろう。
 当の奏は、2人分の視線を受けて、はあぁっ、と大きなため息をつき、その明るい色の髪を苛立ったようにぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 「…わかった。もういいよ」
 あっさり告げられた言葉に、優也は体を起こし、キョトンと目を丸くした。
 「え? い、いい、って…」
 「確かにいい気はしないけど―――オレとのいざこざは、単に、出会うきっかけになっただけなんだろ? だったら、優也とリカがどういう付き合いしようが、どこでどんな風に会おうが、別にオレがとやかく言う問題じゃないし、謝ってもらう筋合いでもないさ」
 「…は…あ」
 こんなに、あっさりと。
 だったら、もっと早く、実はこういうことがあって…と話しておけばよかった。そうすれば、後ろめたさを感じることもなかったのに。
 あまりにも簡単な決着に、一瞬拍子抜けしそうになった優也だったが、そこではたと気づき、少し表情を引き締めた。
 「あ、あの、それで、リカちゃんには…」
 「は?」
 「…まだ、穂積の部屋にいるんで、その―――会ってあげてもらえませんか。一宮さんだけじゃなく、咲夜さんにも」
 奏の目が、再び、僅かな鋭さを帯びる。しまった、性急すぎたかな―――ちょっと焦りつつも、優也は慎重に言葉を選び、続けた。
 「彼女、2人に正式にお詫びしたい、って、ずっと言ってるんです。手紙での謝罪も考えたけど、読まずに捨てられるかもしれない、って懸念しているみたいで―――僕が会ってくれるように頼もうか? って何度か持ちかけたけど、毎回“まだ無理だと思う”って言って、尻込みして……結局、今の時期になっちゃって。でも、このまま、罪悪感を募らせていくだけじゃ、リカちゃんも次の一歩を踏み出せないと思うんです。仕事でもそうだし、私生活でも…。だから、リカちゃんにはまだ言ってないけど、年明けにでも―――僕の方から2人に事の次第を報告して、1度でいいから謝罪のチャンスを与えてやってくれないか、頼むつもりでいたんです」
 「…ホントに、好きなんだ。リカちゃんのこと」
 必死に説明する優也の様子に、咲夜がくすっと笑い、そう呟く。その横で苦々しい顔をしている奏が気にならない訳ではないが、優也は思わず顔を赤らめ、曖昧な笑みを浮かべた。
 「なんかちょっと、他人とは思えなくて」
 「優也君が?」
 「僕もリカちゃんも、親に愛されるいい子でいたい、って思いが人一倍強い子供時代だった点では、同じだったから。放任されていたのと、過干渉されていたのとでは、だいぶ違いはあるけど……こんなに頑張ってるのに、お父さんはどうして怒るんだろう、って悲しさと、こんなに呼んでるのに、お父さんはどうしてこっちを向いてくれないんだろう、って寂しさは、とても似てると思うんです」
 「…なるほどね」
 「そういう似てる部分があるせいか、なんか、同情しちゃう部分が多くて…。今回のことも、リカちゃんがやったこと自体、許されることじゃないとは思うけど―――仲間の人たちが計画したことは、リカちゃんにとっても寝耳に水な話で、一宮さんから聞かされた時は、ショックの方が強くて謝罪の気持ちまで持てる状態じゃなかったと思うんです。…真相を本人たちから聞いて、死にたくなった、って言ってました。今では、その人たちとの関係も断ったし、自分の責任も痛いほど感じているのに、謝ることすら許されないままじゃ……気の毒です」
 「……そっか」
 小さくため息をついた咲夜は、奏に目を向け、軽く首を傾けた。
 「―――どう? 会ってみる?」
 「……」
 斜め下を見つめたまま黙り込んでいた奏は、咲夜の言葉に暫し考え、それからため息とともに首を振った。
 「…悪い。少なくとも今日は、無理」
 「…みたいだね」
 「優也」
 落胆に肩を落としかけていた優也は、奏の声にハッと背筋を伸ばした。
 「は、はいっ」
 「リカに伝言、頼まれてくれるかな」
 「伝言?」
 目を丸くする優也に、奏は微かに口元に笑みを浮かべ、頷いた。

***

 「私だけでも、リカちゃんに会おうか?」
 見送りに出てきた咲夜が、奏には聞こえないよう、小声でそう訊ねてくれた。
 「奏は、やっぱ仕事のことがあるから、先輩としてあえて厳しい態度に出てる部分もあると思うんだ。でも、私はそういうの、別にないし。一言詫び入れることでリカちゃんが楽になるんなら、それ位別にいいよ?」
 一瞬、心がグラついた。が―――優也は首を振り、微笑を返した。
 「…いえ。咲夜さんが“きっちり謝罪しろ!”って怒ってるんなら、僕もそうさせてもらいますけど―――そうじゃないって、わかるから。一宮さんの伝言、リカちゃんに伝えるだけにしときます」
 「…そっか」
 ふっ、と笑った咲夜は、ポン、と優也の頭に手を置き、
 「頑張れ、親友」
 とエールを送ってくれた。

 ―――どう思うかなぁ、リカちゃんは…。
 蓮の部屋に向かいつつ、奏からの伝言を思い浮かべ、理加子の反応を想像してみた。がっかりする気もするし、納得する気もするし、途方に暮れる気もするし―――とにかく、少しでもポジティブに受け取って欲しい。上手く伝えられるといいけど、と眉をひそめた優也は、そこでふと、あることに気づいた。
 ―――そういえば、なんでリカちゃん、こんな時間に穂積の部屋にいたんだろう?
 さっき部屋を訪ねた時、いきなり理加子が出てきて驚いたが、その経緯を訊く余裕もないまま奏の部屋にダッシュしてしまったのだ。考えてみれば、何故蓮ではなく理加子が出てきたのか不思議だし、じゃあ蓮はどこにいたんだ、という疑問も湧いてくる。それに、焦っていたせいでよく思い出せないが、理加子以外にも部屋に誰かいたような―――…。
 自分がバイトに行っている間に、何があったのだろう? と首を傾げた優也は、伝言を伝えたらまずそれを訊いてみよう、と考えつつ、蓮の部屋の呼び鈴を鳴らそうとした。
 と、その時。
 「蓮!!」
 ドアの向こうから、理加子の大きな叫び声が聞こえた。
 驚いて、優也が呼び鈴を押そうとした手を引っ込めると同時に、玄関のドアがバーン! と勢いよく開いた。
 「わああっ!」
 ドアすれすれの場所に立っていた優也のハーフコートの裾を、ドアの端が掠める。思わず悲鳴をあげて飛びのく優也の目の前を、何かが猛然と通り過ぎて行った。
 何なんだ!? と、ずれかけた眼鏡を直した優也の目に映ったのは、ズンズン廊下を歩いていく蓮の背中と―――そんな蓮に腕を引かれ、半ば転びそうになりながら連れて行かれる、見覚えのない女性の姿だった。優也がいることにすら気づかなかったのか、2人は振り返りもせず廊下を進み、1階へと下りていってしまった。
 何がなんだか、さっぱりわからない。呆然と2人の後姿を見送っていた優也だったが。
 「…あ、優也っ」
 2人の後を追うように飛び出してきた理加子が、優也を見つけ、慌てて足を止めてくれた。その顔は、完全に焦っている表情だ。
 「ど、どうしたの、リカちゃん」
 「どうもこうもないわよっ。お、追いかけなくちゃ…」
 「え?」
 「蓮、完全にぶちキレちゃってるもの。今、2人きりになんかさせたら、あの人、どんな目に遭うかわかんないよっ」
 「???」
 一体、何があったの?
 という優也の疑問に答える間もなく、理加子は手にしていたコートを羽織ながら、足早に2人の後を追ってしまった。事情は全くわからないが、とにかくまずい状況であることだけは把握できた。混乱しつつも、優也も後を追うことにした。


 階段を駆け下り、表の道路に出てまもなく、理加子に追いついた。
 「な…何? 喧嘩?」
 足を止めることなく、理加子に訊ねる。理加子も前を向いたまま、息を切らせながら答えた。
 「話し合い、してたんだけど―――あの人、本格的に蓮を怒らせちゃったみたい」
 「なんでまた…。っていうか、あの人、誰?」
 1ブロック先の街灯の下に辛うじて確認できる2人の後姿を目で追いつつ訊ねる優也に、理加子が返した答えは、予想外のものだった。
 「蓮のお兄さんの婚約者で、蓮を一生走れなくした犯人で、蓮をゴーカンしようとした女」
 「……」
 ―――…え?????
 理解できる言葉に翻訳しようと、優也の頭が必死に試みている間に、蓮と彼女がピタリと足を止めた。
 「!」
 ハッ、と我に返った優也は、理加子とともに足を速め、2人のもとへと駆け寄った。
 すっかり息があがり肩で息をしている優也や理加子とは違い、街灯の下立ち止まっている2人の息は、平常どおりのままだった。そんな2人が揃って上着を着ていないことに気づいた優也は、しまった、上着を持ってきてやればよかった、なんて場違いなことを後悔してしまった。
 街灯に照らし出された蓮の顔は、理加子が言うとおり、初めて見ると言っていいほど、怒りの感情を露にしている。その肩が微かに震えているように見えるのは、寒さのせいではなく、憤りを堪えているせいなのかもしれない。
 一方の彼女の方は、泣いていたのか、頬はまだらに濡れ、その短い髪も随分乱れていた。ビックリしたみたいに目を見開き、困惑した顔で蓮を見上げている。何故自分が連れ出され、これから何が起きるのか、全くわかっていない顔だ。
 「…償いたい、そのためなら何でもする、って言ったよな、和美」
 低い声で、蓮が彼女―――どうやら和美という名らしい―――にそう確認する。まだ困惑顔のまま、和美はコクン、と頷いた。
 すると蓮は、ぐい、と和美の腕を引き、前方を指差した。その指し示す先には、駅へと向かう大通りの歩行者信号が、青く光って見えた。
 「あそこまで、俺と勝負しろ」
 告げられた言葉に、和美はますます目を丸くし、信じられない言葉でも聞いたように、蓮の顔を凝視した。
 「…そんな…」
 「目算だけど、子供の頃競争してた団地のコースと、ほぼ同じ位の距離だろ。ガキでも走れた距離だ、ブランク長い和美でも、十分走りきれる」
 「…で…っ、でも、蓮の足は…」
 足、という単語に、ドキンと心臓が跳ねる。

 『俺も、中学の時、大怪我で陸上諦めた経験があるからさ』

 そう―――確か以前、蓮からそんな話を聞いた。詳細は聞いていないが、その話し振りから、足か何かを傷めてしまったのだろう、ということは漠然とわかった。
 陸上を辞めた、ということは、走ってはいけない、ということなのではないだろうか。和美の狼狽ぶりも、優也の不安に拍車をかける。が、蓮は表情ひとつ変えず、
 「この程度でどうこうなるんなら、高校3年間の体育の授業、全部見学してた筈だろ。大丈夫だ。だから、和美も本気で走れよ」
 「…でも…」
 「手加減したら、一生許さないからな」
 和美の躊躇を無視し、蓮はそう吐き捨て、和美の腕を放した。既に体は準備段階なのか、トン、とスニーカーのつま先でアスファルトを蹴ると、足首を回し始めてしまった。
 「ほ…本当に大丈夫なのか? 穂積」
 思わず優也が確認すると、蓮は初めて優也と理加子の方に目を向け、ちょっと驚いた顔をした。どうやら、2人が追いかけてきたことに、今気づいたらしい。よほど気が立っていたのだろう。
 一瞬、気まずそうな顔を見せた蓮だったが、
 「…お前ら、あそこで、見ててくれるか」
 と、ゴール地点である信号機を指差した。
 ―――い…いいの、かな、ほんとに。
 詳細を知らないだけに、一抹の不安が残る。戸惑った表情で顔を見合わせた優也と理加子だったが、「やめる」という選択肢などなさそうな蓮の態度に、結局、コクリと頷くしかなかった。
 「―――…あの…、何が、どうなってるの? あの2人」
 信号機へと急ぎ足で向かいながら、小声で理加子に訊ねると、理加子はチラリとこちらに目を向け、困ったように眉を寄せた。
 「…2人の話を横で聞いてただけで、説明受けた訳じゃないし。それに、あそこまでの距離で説明できそうにない話だもの」
 「え…ええと、穂積のお兄さんの婚約者、なんだよね」
 「うん。で、そのお兄さんや蓮の、小さい頃からの幼馴染。蓮と同じで、陸上やってたみたい」
 「…穂積を一生走れなくした、って?」
 「そこは、何があったのか、わかんない」
 「…そう…」
 「―――あたし、なんとなく、わかったわ」
 ポツリと呟くように、理加子はそう言い、僅かに俯いた。
 「蓮があたしに苛立ってたのは、あの人が原因なんだわ。きっと」
 「?」
 「走ることが好きで走るんじゃなく、蓮目当てで走って―――蓮がひとり立ちして、自分よりずっと上目指しだした途端、走る気力がなくなって。それでもまだ、蓮に少しでも認めてもらえるんじゃないか、って可能性求めて、ズルズル陸上を続けて……でも、結局は、付き合っている恋人の機嫌を取るために、あっさり辞めて。…ご褒美欲しさに、蓮とお兄さんの間を、行ったり来たり行ったり来たり―――…無様よね。端から見てると」
 「……」
 …よく、わからないけれど。
 でも、漠然と―――言葉にならないレベルで、理解した。蓮と和美の関係を。そして……理加子と和美の、共通項を。

 短い話の中から、優也がなんとなく事情を感じ取り終えたところで、ゴール地点に到着した。
 足を止め振り返ると、蓮と和美は、先ほどの街灯の下、横に並び「位置に着いて」の姿勢をとっていた。どうやら和美もこの勝負を了承したらしい。
 頬に突き刺さるような空気の冷たさに、2人して身を震わせ、ポケットに入れていた手で口元を覆う。こんな寒い中、まともに走れるんだろうか―――そんな心配をしたその直後、遠くに並ぶ人影が、動いた。
 ヨーイ、ドン! の掛け声もない。スタートの銃声もない。勝負は、いきなり始まった。
 正面から見る形となる優也や理加子には、2人はスタートからずっと横並び状態に見えた。そのまま、電柱を1本過ぎ、2本過ぎ―――どちらが前に出ているか判然としないまま、顔の表情がはっきり確認できる距離まで来た。どちらも歯を食いしばっているような、必死な表情。まさに、真剣勝負だ。
 「…あ、」
 残り、1ブロック。
 それまで横並びに見えていた2人だったが、ここにきて、蓮の方が体ひとつリードしていることがわかった。そして、その差は、終盤にさしかかって、じわじわと広がっているらしい。
 残り10メートル―――明らかに失速した和美を残し、蓮は、2人が待つ信号機下へと、3メートル以上の差をつけ、先に駆け込んできた。
 「……っ、と!」
 勢いのついていた蓮は、危うく、そのまま赤信号の横断歩道に突っ込みそうになった。慌てて優也が蓮の体を抱きとめると、蓮の右足がガクン、と折れ、その反動で優也まで一緒に転びそうになった。
 蓮に遅れてゴールした和美も、全力疾走だったのだろう、ゴールした途端、のめるようにしてアスファルトの上に膝をついてしまった。
 大通りを通る車の音に混じって、2人のゼイゼイという息づかいが聞こえてくる。そのまま、どちらも動けずに、1分以上経っただろうか。ようやく息が整い始めたらしい蓮が、優也の胸を押して体を起こすと、まだ地面に座り込んだままの和美の方へと向き直った。
 蓮の視線を感じてか、和美も顔を上げる。その肩は、ゴールした直後ほどではないが、忙しなく上下していた。
 「―――俺、が、可哀想、だって…?」
 和美を見下ろした蓮は、息を切らしながら、ゆっくりとそう切り出した。
 「昔のように走れなくなったから、陸上選手として駄目になったから、可哀想だって…? 俺から陸上奪った自分には、俺の心配をする、俺の面倒を見る義務がある、って?」
 「……」
 「…笑わせるなよ。見ろよ。俺のどこが可哀想だよ!? その可哀想な俺にも勝てない癖に、何が“心配”だよ!? 何が“義務”だよ!? ふざけるな!」
 「…れ…ん…」
 「ああ、確かに、俺の右足が駄目になったのは、お前と兄貴のせいだよ。あの事故さえなけりゃ、あのまま陸上を続けてた。間違いなく。でもな、陸上を辞めたのは“俺”が決めたんだ。二度と歩けなくなる、って医者に言われて、そのリスクを背負ってでも走り続けることより、不自由のない日常生活を選んだのは、お前でも兄貴でもない、“俺”だ!」
 「……」
 「高校時代のことだって、お前や兄貴に反発した覚えもグレた覚えも、これっぽっちもない。大体、なんでハードロックやバイクが“不良”なんだよ? 2人揃って、見た目だけで記号化しやがって―――バンド活動やってた連中は、勉強と音楽を両立させるために、お前らの何倍も真剣に生きてたぞ。そういう連中だから親しくなりたいと思ったんだし、奴らに会えたから、バイクっていう、陸上に代わってやりたいことも見つかったんだ。俺が自分の力で見つけてきた大事なもんを、勝手な被害妄想で侮辱するなよっ」
 「……」
 「大学だって―――たまたま数学が得意で、担任からも勧められて、俺も入りたいと思った大学が、偶然兄貴の大学だっただけだ。兄貴と同じ大学に入るんだ、って豪語してたお前があっさり落ちてたことなんて、思い出しもしなかった。一人暮らしだって、どのみち、大学出たらするつもりだった。俺が同じ家にいると、どうせまた兄貴と和美が勝手に嫉妬したり勘繰ったりして揉めるだろうから、巻き込まれるのも面倒だから予定を早めただけだ。なのに、なんでお前も兄貴も、俺の行動をいちいち自分に結び付けて、勝手に傷ついたり落ち込んだりしてるんだよ? 迷惑なんだよ、そういうとこが!!」

 ―――ほ…穂積…。
 あの無口な、蓮が。
 唖然とする。いや、圧倒されてしまう。日頃はぽつぽつとしか喋らない蓮が、口を挟む余地も与えないほどの勢いで―――しかも、感情を露にして、まくしたてているのだから。
 でも、言っていることは、実に穂積 蓮らしい内容だ。真琴は蓮を称して「シンプル」と言ったが、まさにそのとおり。見た目がどうとか、世間的にこうだとか、そういう判断基準は無関係―――自分が心惹かれ、そうしたいと思ったから、そのとおり行動しただけだ。

 「…お前らのスタンダードを、俺に押し付けるなよ」
 矢継ぎ早な蓮の言葉に、優也や理加子同様にすっかり呑まれてしまっている和美は、その言葉を聞いて、初めて怪訝そうに眉をひそめた。
 「ス…タンダード…?」
 「陸上一筋で、それなのに走れなくなって、次にトラブルが起きれば歩くこともできなくなるかもしれない、気の毒で可哀想な俺―――陸上を奪った償いに、できる限りの助けをしてやらなきゃいけない、二度と間違いのないよう心配してやらなきゃいけない俺。お前らが“そうあって欲しい”と思ってる、陸上バカでチビで非力な俺を、今の俺に押し付けるな」
 更に大きく目を見開いた和美は、凍りついたような表情で、ぎこちなく首を振った。
 「…そ…そうあって欲しいなんて、あたしも要も、そんな、」
 和美の反論は、途中で途切れた。
 和美の前に膝をついた蓮が、いきなり和美の胸倉を掴んだからだ。
 「そんな風に思ってない、って? だったら、お前らの目は節穴か!?」
 「ほ、穂積っ」
 胸倉を掴んだまま、和美をガクガク揺さぶる蓮に、思わず制止しようと手を伸ばしてしまった。が、蓮が優也の方を見ることはなかったし、隣にいた理加子がハーフコートの裾を引っ張って優也を引き止めたので、優也は、気まずい思いですごすごと腕を引っ込めた。
 「よく見ろよ! お前らの助けを必要としてる“可哀想な俺”なんて、どこにもいないだろ!? 新しい趣味も見つけた、一人暮らしにもすっかり慣れた、学びたいものを学んでるし、大切な友達も持ってる―――全部、俺が、俺のために行動して、俺自身の手で掴んできたものだ。違うなんて言わせない、絶対に…!」
 「……」
 「俺がそうやって新しいものを掴もうとしてる間、お前は何やってたんだよ…!? 俺に償いたいだの、俺に見直して欲しいだの言う割に、何かひとつでも俺に誇れること、してきたか!? “怪我を負わせた責任”て言葉を免罪符にして、焼く必要もないおせっかいを俺に押し付けようとしてウロウロしては、何もできずに黙り込んでただけじゃないか…!」
 蓮を見上げる和美の瞳が、グラグラと揺れる。
 事情を知らない優也には、彼女の動揺の理由は、よくわからない。けれど―――今の蓮の言葉が、和美にとっては、直視したくない、認めたくない真実であることは、その目を見れば明らかだ。
 「俺の怪我のことも、俺を襲おうとしたことも、今更どうでもいいんだよ。そんなことのせいで、和美に冷たくなったんじゃない。和美が―――あの和美が、怯えたような顔して、兄貴や俺の顔色ばっかり窺って、自信なさげにぐずぐず生きてるのを見たくなかっただけだ。ガキの頃憧れてた和美に、どんどん幻滅するのが、嫌で嫌でしょうがなかっただけだ。なんでそれがわからないんだよ―――…!?」

 点滅信号から赤に変わった歩行者用信号の傍らに、しん、とした静寂が戻ってきた。
 ぶつけたい思いを全てぶつけ終えたのか、蓮は和美の胸倉を掴んだまま、黙ってその目を見据えていた。走り終えたばかりの時のように、その肩が大きく上下しているのは、日頃の何十倍もの分量を一気に喋ったからなのかもしれないが…もしかしたら、和美に対する憤りの表れなのかもしれない。
 一方の和美は、瞳をグラつかせたまま、微かに震えながら蓮を見上げていた。が―――やがて、大きく見開かれたその目から、涙が零れ落ちた。
 次々、涙が溢れては、頬を伝う。耐えかねたように、和美は蓮を仰ぎ見たまま、ノロノロと両目を両手で覆った。
 「―――…あ…あたし、だって…こんな風に、なりたくなかった…っ」
 「……」
 「自分の、好きなように、誰の目も気にしないで生きていけた…子供の頃のあたしのままで、いたかった…っ」
 蓮の目が、僅かに丸くなる。
 それと同時に、無意識なのか、和美の胸倉を掴んでいた蓮の手が離れた。その反動でペタン、と地面に座り込んだ和美は、それでも目を覆う両手を外そうとはしなかった。
 「…どうして…どうして、人って、変わっちゃうんだろ…? 蓮は、変わらないのに、どうしてあたしだけ変わっちゃったんだろ…? 愛だとか、恋だとか、世間体だとか、将来だとか……そんなもの気にして、迷ったり繕ったり我慢したり疑ったり妥協したり……そんなことばっかり。なんで―――なんで大人になんてならなきゃいけないんだろう…?」
 「……」
 「いつだって、戻りたかったのに…。蓮や近所の子たちと、団地の中を無邪気に走り回ってた頃に、戻りたかったのに…。スターに憧れるみたいに、ただ無邪気に要に憧れていられた頃に、戻りたかったのに…っ…」

 子供の頃―――…。
 物心ついた頃から、親に逆らうことのない良い子だった優也にとって、子供時代のノスタルジーは、あの淡い味を舌に残した、わたあめだ。
 甘いものを禁止していた母の目を盗み、近所の友達から分けてもらって食べた、ふわふわのわたあめ。その味を、優也は長いこと、ずっと忘れたままだった。でも―――それは、本当の意味でのわたあめの味ではないのかもしれない。
 親のお仕着せ、学校のきまり、世の中の法則、世間の常識―――そこからはみ出さず生きることが正解じゃなかった頃の、自分だけが正解だった頃の、小さな小さな自信と勇気の味。大人になり、自分以外のものと折り合いをつける術を身に着けていく中で、少しずつ忘れてしまう味。和美が懐かしがっている味―――蓮がまだ忘れず持ち続けている味だ。

 ―――…そうか。
 この人が恋しがっていたのは、穂積自身、っていうより、子供時代の自分たちなのか。

 こんなに取り乱し、混乱し、人目もはばからず泣きじゃくってしまうほどに恋しい時代がある和美を、優也は、ちょっと羨ましく思った。
 優也には―――そして多分、優也の隣で、優也とよく似た眩しそうな目で2人を見守っている理加子にも、そこまでの懐かしい景色が、ほとんどないから。。

 泣きじゃくる和美を、蓮は、ちょっと驚いたような顔で、暫し黙って見下ろしていた。やがて、大きく息を吐き出すと、膝をついたまま少し後ろに下がり、冷たいアスファルトの上にきちんと正座し直した。
 「…ごめん」
 「……」
 唐突な蓮の言葉に、和美は手をどけ、不思議そうな目を蓮に向けた。なんで、蓮があたしに謝るの―――信じられないことを聞いたようなその目が、無言でそう問いかけていた。
 「中学から先の和美のことは、確かに俺、好きになれないし、あの和美がこうなったのか、って思うと歯がゆいし悔しい。そう感じる俺が間違ってるとは、今も思ってない。けど……一方的すぎた、って、少し反省してる。100パーセント、俺が正しい訳じゃないのも、なんとなくわかるから」
 「…え、」
 「兄貴は、ずっと和美を好きでい続けたから」
 それは、和美にとっては、意表をついた理由だったのだろうか。不思議そうだった和美の表情が、驚きの表情に変わった。
 「あんなことがあっても、こんな風に突然出て行かれても…兄貴はずっと、和美を好きなままでい続けたから。俺の目にどう映っていても、兄貴にとっては、和美はずっと、絶対手放したくない、一番愛しい存在だったんだと思う」
 「……」
 「愛とか恋とか知らない俺には見えないものが、兄貴にはちゃんと見えるから―――俺が、子供の頃の和美を恋しがってる間も、兄貴は“今”の和美に惹かれて、好きでい続けられたんだと思う」
 そう言うと、蓮は、膝の上に置いた拳をぎゅっ、と握り締め、まっすぐに和美を見据えた。
 「だから、俺―――この先、兄貴と和美が結婚して、和美が兄貴の支えになってくれたら……そういう和美のことは、受け入れられるかもしれない」
 「…蓮…」
 「ずっと兄貴の心を掴んで放さなかった和美を尊敬して、和美がいてくれたことに感謝できるかもしれない。“女”としてでも、“憧れの人”としてでもなく―――俺の“家族”として」

 と、その時。
 優也の頬に、ヒヤリと冷たいものが、一瞬触れた。
 驚いて辺りを見回すと、理加子も同じように、頬を押さえてキョロキョロしていた。そんな2人の間に、何か白いものが、フワリと舞い落ちてきた。
 「…あ…」
 雪、だ。
 街灯や信号機の光の中、フワリ、フワリ、と舞い降りてくる。やけに今夜は冷え込んでいるな、と思っていたら、とうとう降ってきたらしい。
 「…ホワイトクリスマスね」
 天を仰いだ理加子が、どこか夢見るような口調で、そう呟く。そのセリフに頷きながら、優也が思わず口走ったのは、
 「やっぱり、上着取ってくればよかったなぁ…」
 という、理加子とはまるで対極の現実的な言葉だった。
 でも、ロマンチックにしろ、現実的にしろ、どちらも今のこの場面には不似合いなセリフだ。顔を見合わせた優也と理加子は、お互い苦笑し、蓮と和美の方に目を向けた。
 和美の方は、降り始めた雪に見惚れたように、頭上を仰いでいた。そんな和美に、蓮は僅かに表情を和らげ、弾みをつけて立ち上がった。
 「いい加減部屋戻って、兄貴に迎えに来るように連絡しないとな」
 蓮の言葉に、和美は我に返ったように、蓮に目を向けた。
 そして、ずっと混乱と涙で強張ったままだったその顔を、ホッとしたように微かにほころばせると―――はっきりと1回、頷いてみせた。


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