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― Silent Night(4) ―

 

 窓を開けると、外の手すりの表面が、うっすらと白く凍っていた。
 どうりで寒いと思ったら―――流れ込んできた冷気に、咲夜は頬を両手で覆い、肩をすぼめた。
 「うわ、寒っ」
 その背後から、顔を洗い終えたばかりの奏が、ひょいと顔を覗かせる。肩越しに振り返る咲夜に、奏はわざと怒ったような顔をして、その額を指で弾いた。
 「さっさと閉めないと、喉冷やすだろー? 今夜は大事なライブなのに」
 「ハハ、何一成みたいな小言言ってんの。ライブまでにはバッチリ暖めとくから、大丈夫だって」
 そう言って笑いながら、額に置かれた奏の手を掴みつつも、咲夜は注意深く奏の表情を窺った。いつもの奏らしいこの表情が、本物かどうか―――でも、見極めるまでもなかった。
 「…昨日は、ごめんな」
 咲夜の手を逆に握り返した奏が、一瞬前とは違う神妙な面持ちで、そう呟いたのだ。
 昨日―――クリスマスイブ。咲夜にとってはさほどではないが、奏にとっては散々な1日だった。客からはホスト扱いされ、その憤りを抱えたままアルコールをとったせいで悪酔いし、その上、帰宅した途端にあの騒動―――とはいえ、優也から話を聞いた後は、面倒な話など一切せず、そこそこ恋人らしい平和な夜を過ごせたのだけれど。
 ああ、やっぱり、まだ少し引きずってるかな―――苦笑した咲夜は、空いている手で窓を閉め、きちんとベッドの上に座り直した。
 「んなこと言われても、私が謝られるようなこと、別になかったことない?」
 「…けど、一応イブで、一応クリスマスディナーだった訳だし…。酔っ払うわ、仕事のことで愚痴るわ、揚げ句にリカまで出て、その上オレ、結構心狭いとこ見せちゃったし…」
 「―――後悔、してんの? 昨日、リカちゃんを追い返しちゃったこと」
 咲夜の問いに、奏は大きなため息をつきながら首を振ると、咲夜の隣にドサリと腰を下ろした。
 「後悔は、してない、けど…ちょっと自己嫌悪にはなったかも」
 「自己嫌悪?」
 「オレって、いくつになっても、バカだなぁ、と思って」
 「……?」
 「…中1の時、同じクラスの女の子が、U.K.ロックに興味があるからお勧めのバンドを教えてくれ、なんて言って近づいてきてさ。そういう趣味じゃあ、なかなか話の合う奴もいないだろうな、って思って、アルバム貸したり雑誌見せたりしたんだ。短期間で、結構仲良くなれて…日本来てから女の友達は少なかったから、オレは単純に嬉しがってたんだけどさ」
 そこでちょっと言葉を切ると、奏は当時を思い出してか、忌々しげに目を眇めた。
 「仲良くなって2週間も経った頃、突然その子から言われたんだ。隣のクラスにいる累が、前から好きだった。でも、物静かで近寄り難いタイプの累に、アタックできずにいた。頼むから橋渡しをしてくれないか―――って」
 「えっ」
 「橋渡ししたよ。友達だと思ったから。でも、累の好みからは程遠い子だったんで、当然玉砕。途端、その子とオレの付き合いも、ジ・エンド。ほんとはU.K.ロックに興味なんてなくて、オレと話を合わせただけなんだってよ。笑えるだろ」
 つまり―――奏が信じて疑わなかった友情なんて、最初からなかった訳だ。なんて失礼な話なんだ、と、咲夜は憤りに眉を吊り上げた。
 「何それ。じゃあそいつは、累君と親しくならんがために、奏を利用しただけだった訳?」
 「まあね。実際オレもそう感じたから、随分酷い言葉で詰って、泣かれたりしたし。クラスの女子からは“一宮君、ひどーい”って悪者扱いされてさ。ホント、懲りた。オレって人間は、騙されやすい性格な上に、裏切り行為にはスッゲー心狭いタイプなんだ、って、よくわかった」
 と、ここまでは憮然とした顔をしていた奏だったが、急にしゅんとした顔になり、情けなさそうに眉根を寄せた。
 「…よくわかったのに、また、これだし」
 「……」
 「話の合う友達がいないみたいだから、とか、信頼できる関係者が周りにいないみたいだから、とか…そんなの、オレの勝手な考えで、別に相手がそういうことアピールして、オレの同情買おうとした訳でもないんだよな。なのに、勝手に気遣って、勝手に心配して……勝手に信用して。挙句に、その勝手に抱いた信頼を“裏切られた”って言って、ぶちキレて相手を泣かしてさ。どっちも傷つく結果になるんなら、最初から警戒して、常に疑ってかかればいいのに―――本当に、バカだよな」
 「…やだなぁ。そんなこと、考えてたんだ」
 本気で落ち込んでいる様子の奏には申し訳ないが、ほんのちょっと、微笑ましくて笑ってしまう。叱られた犬みたいに肩を落としている奏の頭を、咲夜は少し乱暴な位に、くしゃくしゃと撫でた。
 「私は、バカだなんて思わないよ? ていうか―――羨ましい。奏みたいな性格が」
 咲夜の言葉に、奏は顔を上げ、少し目を丸くした。よもや、自分の騙されやすくキレやすい性格を咲夜から羨ましがられるとは、想像したこともなかったのだろう。
 「同じように“友情を裏切られた”って感じるようなことを経験しても、さ。奏は、それでも人の善意をどこかで信用してるし、だからこそ、痛い思いしても、また誰かを信じて、力になろうって思うことができるじゃん」
 「……」
 「でも、私は―――2連続パンチ食らって、もう信じるの、無理になったから」
 父の裏切りを知って。そして、かつては親友とまで思った同級生の、裏の顔を知って。
 「所詮、人間なんてそんなもんだ、期待するだけバカを見る、最初から信用しなければいいんだ―――そうやって予防線張ってないと、駄目になったから。だから……奏を見てると、救われる」
 「…救われる…?」
 「有閑マダムにホスト扱いされて、ビジネス忘れて本気で怒っちゃう姿にも、リカの私生活に同情しつつも意固地になっちゃう姿にも―――それでも、ほんのちょっと残ってる仲間意識と罪悪感に負けて、つい、優也君に伝言頼んじゃうようなところにも。…救われて、ホッとできる」

 多分、拓海が、佐倉の言動に救われたように。
 咲夜が拓海とどこか似ているように、奏もまた、どことなく佐倉と共通点があるように思う。どこが、どんな風に、とは言えないが―――それを具体的な言葉にしようとすると、「性善説」なんていう、つまらない記号化に終始するのが関の山だが―――本能に近い部分で、なんとなくわかる。ああ…拓海もきっと、佐倉さんと一緒にいると、こんな安らぎを感じるんだろうな、と。

 ―――なぁんて話をすると、奏はきっとムキになって「似てねーよっ」って否定するだろうな。
 それに、落ち込んでいるところに拓海の名を出すのは、どんな形であれ、奏にはマイナスだ。
 「警戒心丸出しで、感情を抑えてる奏なんて、奏じゃないよ。…いいじゃん。リカちゃんも辛い思いしてるだろうけど、奏だって何重にも辛い思いさせられたんだから、おあいこ、ってことでさ」
 咲夜がそう言っても、奏はまだ落ち込み気味な顔をしていた。後悔はしていない、と言いつつも、やはり有閑マダムの悪影響でリカにあらぬ疑いをかけてしまった部分だけは、どうしても後を引いてしまっているのだろう。
 そうやって強がりながら素直に反省して落ち込むとこが、私にはどうしようもなくツボなんだけどな―――なんて言ったらつけ上がりそうなので、咲夜は奏の額に自分の額をコツン、とぶつけて苦笑を返すだけにしておいた。


 「じゃ、ライブ、遅れないでよ」
 咲夜がそう言って右手の拳を突き出すと、鍵を閉めた奏も、ニッと笑って、鍵を握ったままの右手の拳を、咲夜の拳にぶつけてみせた。
 「了解。一昨日入ったばっかの新色持っていくから、心して待っとけ」
 「ハハ。じゃーね」
 手を振る咲夜に、奏も手を振り返し、軽い足取りで201号室の前を通り過ぎ、1階へと下りて行った。早番なので、いつもよりちょっと早めの出勤―――酷い二日酔いにならずに済んで幸いだったというものだ。
 とりあえず、一旦自分の部屋に戻って、熱いシャワーでも浴びて―――ふあぁ、とあくびをしながら今日の予定を考えていた咲夜は、ふと視線を感じ、振り返った。
 「―――…あ、」
 視線の主は、ちょうど204号室のドアを閉めたばかりの、蓮だった。
 出かけるつもりなのか、ダウンジャケットの前をきっちり留めた蓮は、咲夜と目が合って一瞬うろたえたような顔をしたが、すぐに居ずまいを正し、「おはようございます」とお辞儀をした。
 「おはよー。ゆうべは大変そうだったね」
 軽い調子で咲夜がそう挨拶すると、蓮はまた頭を下げ、
 「…色々、ご迷惑おかけしました」
 と丁寧に言った。その、丁寧だけれど淡々とした反応からは、昨日の顛末は読み取れない。ちゃんと話はできたんだろうか、という咲夜の懸念は、口に出さずとも蓮には伝わっているらしく、頭を上げた蓮は、少し表情を和らげ、口元に笑みを見せた。
 「和美なら、0時半頃兄が迎えに来て、一緒に帰って行きました」
 「あ、そうなんだ。じゃ、上手いこと話がついたんだ」
 「はい」
 どう話がついたのか、まではわからないが、頷く蓮の表情は穏やかだ。多分、彼の望む方向にまとまったのだろう。自然、咲夜の顔も笑顔になった。
 が、そこでふと、もう1人204号室にいた筈の人物のことを思い出し、咲夜の笑顔は、一瞬で消えた。
 「―――あ、と、それと……リカちゃんは?」
 リカの名前が出て、蓮の穏やかな表情も、ちょっと気まずそうなものに変わった。
 「…忘れ物も無事秋吉から受け取ったんで、和美が帰る少し前、タクシー呼んで帰りました」
 「あ…、そう」
 「…あの、本当に、すみませんでした」
 リカがここに出入りしていることを黙っていて―――昨日、同じ意味の謝罪を優也から何度も受けていた咲夜は、思わず苦笑を浮かべつつ首を振った。
 「優也君にも言ったけど、その話はいいってば。奏とトラブってる人間は、このアパートの住人と友達になっちゃいけない、なんて法律、どこにもないじゃん。その辺をごっちゃにするほど、奏もバカじゃないよ」
 「でも―――咲夜さんは、その…不愉快な目に遭ったんだし」
 「ハハ、心配ご無用。奏のクライアントだから遠慮してただけで、いざとなりゃ容赦ないからね、私は」
 「……」
 「蓮君の方こそ、偶然あの場面に立ち会っただけなのに、そのせいで要らぬ心配や迷惑をかけたみたいで、かえって申し訳なかったな、って思うよ」
 「いや、俺は、別に…」
 ますます気まずそうに目を逸らした蓮は、別にあの子の友達じゃないし、とも、別に迷惑なんて、とも取れる曖昧な言葉をゴニョゴニョと呟いた。リアクションに困っているらしい蓮の様子が少々気の毒になってきたので、咲夜もこの話題は早々に切り上げることにした。
 「まあ、そんな訳で、別にいいから。…あ、そうそう。今夜、もし時間空いてるなら、優也君でも誘ってうちの店おいでよ。クリスマスライブやるからさ」
 「クリスマスライブ?」
 興味を持ったのか、逸らされていた視線が再び戻る。ニッ、と笑った咲夜は、両手の指を使って「7」を示してみせた。
 「そー。クリスマスソングを中心に、計7曲やるよ。スタンダードもちょい入るけど、普段のライブよりかは、ジャズ入門者にはとっつきやすい内容じゃないかな」
 「へえ…」
 「8時からの、1回きりのライブだからね、今夜は。時間が合うようなら、是非どうぞ」
 「はい」
 蓮の顔に、微かな笑みが戻るのを見届け、咲夜は「じゃあね」と言って手を振った。が、
 「―――あの、咲夜さん」
 自室に戻ろうとした咲夜を、蓮が呼び止めた。ん? と振り返ると、蓮は少し迷うような目をし、それから意を決したように、数歩、歩み寄った。
 「本当に、手遅れ、なんですか?」
 「え?」
 「ゆうべ言ってた話」
 一瞬、何のことか、わからなかった。
 けれど、それは本当に一瞬のこと。すぐ、ピンときた。昨日自分が蓮に言った言葉について問われているのだと。自然、咲夜の表情が、僅かに硬くなる。
 蓮が何故こんなことを言い出したのか、その心理は、大体わかる。家族になる人なら、手遅れにならないよう、話し合った方がいい―――蓮はそれを咲夜の実体験からくる言葉だと直感し、その言葉の意味を素直に理解し、忠告に従った。そして、そうしてよかったと感じているから、訊かずにはいられないのだ。咲夜の方は、本当に手遅れなのか、と。
 ―――手遅れ…、か。
 …どうだろう。自分でも、わからない。
 そもそも、話し合いたい、なんて望み、自覚する前に捨ててきた気がする。母がこの世に存在したという事実さえ話題に出すことのできないあの家では、諦めることだけが、平和を保つ唯一の手段だ。
 「…さあ。どうかな」
 ふ、と小さく笑った咲夜は、そう言って、肩を竦めた。
 「ま、奏なら、“生きてる限り、チャンスはある”って言いそうだよね」
 「……」
 「心配してくれて、アリガト」
 完全な、はぐらかしだ。
 答えになっていない咲夜の答えに、蓮も微妙な顔をした。が―――それ以上訊かず、蓮は曖昧な笑みを黙って返した。


***


 何故、急にそんなことを思いついたのか、正直なところ、よくわからない。


 『謝罪の言葉は、いらない、って』
 『……』
 『ごめんなさい、とか、すみません、とか、反省してますとか…そういう言葉が言いたいだけなら、いらない、って。リカちゃんがもの凄くショックを受けたことも、本気で後悔して落ち込んでることも、心からすまないと思ってることも、僕の話から十分わかったから―――謝罪する、って言われても、一宮さんにとっては、リカちゃんが自分自身を納得させるための“儀式”にすぎない。…そう、言われた』

 謝罪の言葉は、いらない。
 その代わり、これからは、誰かに褒めてもらうためじゃなく、自分で自分を褒めるために、生きて欲しい。
 それが、具体的にどんな生き方なのかは、リカ自身にしか見つけられないけれど―――何万回、謝罪の言葉を重ねられるより、その方が、リカと知り合ったこと、後悔しないで済むと思うから。


 昨晩、和美の醜態を傍らで眺めながら、まるで自分の醜さを和美を通して見せつけられているような錯覚に、何度も陥った。
 蓮が放つ言葉が、痛くて、痛くて、見ていて辛かった。
 そして、奏が優也に託したという伝言を聞いた時―――つい今しがた聞いたばかりの内容とあまりに似通ったその内容に、頭を殴られたような気分になった。
 一晩、考えに、考えて……1つの決断を下して。それでもまだ、行く先に、光は見えないけれど。
 何故かふと、行ってみたくなった。もう二度と戻ることもないだろう、と考えていた場所―――理加子自身が嫌悪する、あの場所に。


 「え…っ、リカ!?」
 カウンターの内側でせっせとグラスを磨いていたトールは、目の前に座った客の顔を見て、ビックリしたように目を大きく見開いた。
 「うわ、久しぶりじゃん! えーと、何ヶ月ぶり?」
 「そこまでオーバーに驚くほど、長い時間じゃないわよ」
 ふふ、と笑ったリカは、カクテルではなくジュースを注文した。時刻はまだ昼間―――夜はアルコールがメインとなる“Jonny's Club”だが、ランチタイムである今は、周囲の客もみなソフトドリンクが中心だ。
 あれ以来、理加子は、かつての取り巻き連中とは、一切関係を絶っていた。トールや晴紀とも連絡を取らず、彼らの職場や立ち寄りそうな場所も完全に避けて生活してきた。
 多くの人々に取り囲まれ、お姫様のようにチヤホヤされ、中身などない空っぽな付き合いを、毎夜毎夜繰り返す―――あの日々は、理加子が二度と戻りたくないところだ。だから、かつての闇に必死に背を向け、やっと見つけた優也という明るい世界だけを見つめてきた。
 なのに―――何故、ここに来てしまったのだろう?
 今更トールに会って、何を聞き、何を話したいというのだろう? …こうしてカウンターに座った今も、やっぱりわからない。
 「はい、アップルジュース、お待たせ」
 「ありがと。…どう? 最近」
 「ん? 何が?」
 「クラブに集まってたみんなよ。今も変わらず、あの辺りでバカ騒ぎやってるの?」
 アップルジュースの入ったグラスを引き寄せながら理加子が訊ねると、トールは一瞬キョトンとした顔をした後、うーん、と唸りながら天井を仰いだ。
 「いやぁ? そういやあ、最近全然集まってないなぁ。おれ、ここのバイト忙しいし」
 「他の連中は?」
 「さっぱり噂聞かないよ。多分、もう集まってないんじゃない?」
 意外な答えだった。グラスを口に運びかけた手を止め、理加子は困惑した目でトールを見つめた。
 「なんで? 前は、毎晩のように集まってたじゃない?」
 「そりゃあ―――だって、リカが来なくなったし」
 「あたし?」
 「当然でしょ」
 何を今更、とでもいわんばかりに、トールはケロッと答えた。
 「あのグループはリカ目当てで集まった人間なんだから、リカが来なくなれば、集まってる意味なんてないでしょ。また店に顔出してみれば? そうすりゃ、すぐ話が広まって、またみんな集まると思うよ?」
 「別に、集まって欲しい訳じゃ…」
 「っつーか、リカ、喋り方変わったね。“あたし”とか言って、普通の人みたいじゃん」
 “普通の人みたい”。
 トールの指摘に、軽く固まる。
 「…じゃあ、何? 2ヶ月前までのあたしは、普通じゃない人みたいだった訳?」
 「あ、いや、悪い意味じゃないよ。あの“リカねぇ〜”って喋り方も、リカ好きな人間にとっては、結構ツボっていうか、カリスマ性の一部だったからさ」
 「…なんか、よくわかんない、それ」
 「うー、だから……そう!」
 ポン、と手を打ったトールは、ちょっと身を乗り出し、人懐こい笑みを見せた。
 「綺麗な花があると、人って集まってくるじゃん? その花の色がちょっと変わってたりすると、そこが魅力ー、なんていって、喜んで写真撮ったりするしさ。リカに群がってた連中も、あれと同じ」
 「……」
 「リカがそこにいて、綺麗だなぁ、いいなぁ、って見惚れたから、周りにたむろってただけ。リカがいなくなったら、ハイそれまで。花見客が、桜のシーズン終わったらいなくなるのとおんなじっしょ」
 どことなく得意げにそう言ったトールは、「花に喩えるなんて、おれって結構詩人じゃん」などと、妙な部分にご満悦な様子だ。
 でも―――トールの喩えに、理加子も妙に納得した。そうか、あれは花見客か―――年がら年中枯れない花を囲んで、浮かれ騒いでいた花見客。そう考えれば、素直に頷ける。
 二度と戻りたくない、と思っていたけれど……戻ろうにも、その場所はもうないのか。拍子抜けすると同時に、何故か、不思議な寂しさのようなものを、理加子は感じた。でもそれは、もう戻れない、という寂しさではない。こんな小娘の存在ひとつで、一瞬にして現れ一瞬にして消えてしまうモノへの、憐憫のような感情だ。
 「そっか…みんな、バラバラかー…」
 はーっ、とため息をついた理加子は、ようやくグラスに口をつけ、アップルジュースを一気に半分近くまで飲んだ。そして、ふと、ある人物のその後が気になり、再びグラスを置いた。
 「―――…あ。じゃあ、晴紀は?」
 理加子がそう訊ねた途端、トールの顔が、目に見えて狼狽した。
 「あ、あー…、は、晴紀、かぁ」
 「…何? 晴紀に、何かあったの?」
 「う、うーん……まあ、あったといえば、あったんだけど…」
 弱ったな、という顔をしたトールは、気まずそうに手元のカクテルグラスを弄んだ。が、理加子が「何なの?」という目でじっと見据え続けると、ついに折れた。
 「…実はさ。晴紀んとこの、イカレた妹。あの子が、自殺はかったんだ」
 「え…っ」
 晴紀の、イカレた妹―――亜紀。
 リカの熱狂的ファンで、心の病と怪しげなドラッグの影響で、普通の社会生活を送ることが不可能になり、高校卒業後はずっと自室に引きこもり状態だった。その亜紀が―――…。
 「じ…自殺!? いつよ!」
 「1ヶ月くらい前。晴紀がこっそり渡してた睡眠薬を、いつの間にか大量に溜め込んでてさ」
 「そ、それで、亜紀ちゃんは…」
 「一気に致死量近く飲んで、一時は本気でヤバかったらしいよ。でも、発見早かったんで、助かった。今はもう退院して、また元どおりの引きこもり生活だってさ」
 「……よかった……」
 思わず、大きく安堵の息をつく。
 本音を言えば、亜紀のことは、あまり好きではない。会った回数は僅かだが、理加子の写真を貼り付けたスクラップブックに囲まれていた亜紀の様子は、かなり異様で不気味だった。何度も何度もどもりながら「大ファンなんですっ」と理加子の手を握ってきた、その手の凄まじい強さは、今も強烈に覚えている。それでも―――無関係ではなかった人だ。…死ななくて、よかった。
 「で…、晴紀は?」
 「いやー、荒れたよ。責任感じてさ。元々あいつ、子供時代に自分が妹をボコスコ殴ったことを後悔して、その罪滅ぼしから“妹命”みたいな生活になった部分あったじゃん。熱出しただけでも大騒ぎしてたのに……今度は自殺、しかも自分が渡した睡眠薬で、ときてるもんなぁ。尋常じゃなくなるのも無理ないよ」
 「……」
 「懲りたのか、今はドラッグの裏取引からも撤退してる。おととい、ヤボ用で久々に会ったけど、すんげー痩せてた。妹にはちゃんとした睡眠薬が処方されてるらしいけど、なかなか寝付けないんで、晴紀が添い寝してやってるんだってさ。美談ぽいけど、想像すると、なんだかなぁ…」
 「…そうなんだ…」
 「―――リカに、会いたがってたよ」
 ポツリ、とトールが付け足した一言に、俯いていた理加子は、思わず顔を上げ、目を見張った。
 「え?」
 「晴紀。どん底まで落ち込んでた時、“リカ、どうしてるかな。久しぶりに会いたいよな”って言ってた」
 「……」
 「本気で参ってるみたいだったから、おれ、何度かリカに連絡しようかと思ったんだけどさ。最後の電話で、リカ、メチャメチャ怒ってたじゃん。それに、晴紀も“リカに迷惑はかけられないから、絶対連絡するな”って言うし―――だから、さっきリカから晴紀のこと訊かれて、かなりびびった」
 「…どうして…」
 何故、会いたいなんて―――何故、口止めなんて。呆然とした様子で理加子が訊ねると、トールは、さも当然のように答えた。
 「どうして、って、そりゃあ…リカが好きだからに決まってるでしょ」
 「あたしを?」
 「つーか、晴紀だって、リカに群がってた熱狂的ファンの1人なんだから、リカに会いたいとか、リカに迷惑かけられないとか思うのは、当たり前なんじゃない? おれはリカのファンて訳じゃないけど、晴紀がリカに会いたがる気持ちは、よくわかるよ?」
 「…でも…好き、ったって、所詮、外見だけの話でしょ?」
 ただ、綺麗なお人形を眺めて、喜んでるだけでしょ?
 リカちゃん人形で遊んでただけ―――姫川理加子も、その中身も知らないで、ただ外見だけを褒めちぎっていただけでしょう?
 けれど、トールは、一体何が問題なんだ、という顔で、怪訝そうに眉をひそめた。
 「外見が好きじゃ、いけない訳?」
 「……」
 「顔でも声でも性格でも、とにかく“リカが好き”ってことに、変わりはないんじゃない? アイドルの追っかけしてる連中だって、かわいー、とか、かっこいー、って理由で、何の見返りもないのにファンレター送ったりCDの売り上げに貢献したりしてるじゃん。好きなのは“顔だけ”かもしれないけど、連中、もの凄くそのアイドルのこと好きなんじゃない?」
 「……」
 「まあ、恋愛の“好き”だと、見た目だけに惚れてるってのはまずいのかもしれないけど、単純な“好き”って気持ちは、惚れ込む場所によって好きさ加減に差がつく訳じゃないと、おれは思うけどなぁ。晴紀が好きなのはリカの外見“だけ”かもしれないけど、リカのためなら犯罪まがいのことまでする位だから、好きさ加減じゃ、ファン中トップでしょ」


 『…あいつらさ。最後まで、リカのせいにしなかったよ。リカは何も知らない、自分たちが勝手にやったことだ、って』

 『リカを本当に好きな人なんて誰もいない、なんて、僻んだこと、もう言うなよ。やり方間違ってるけど、あいつらなりに、リカのこと好きなんだろうから』


 あの決別の日、奏が最後に残した言葉が、耳に蘇る。
 蘇って―――理加子の目に、みるみる涙が浮かんだ。

 ―――…あたし……なんて、バカだったんだろう。
 勝手に僻んで、勝手に思い込んで…真実を何ひとつ、見ようとしなかった。あたしの周りにいる人間、1人1人が、ちゃんと心も意思も持った1人の人間だ、ってことを、どこかで忘れてた。
 ただ、あたしの望むようなやり方じゃなかっただけ。ただ、あたしが望んだ部分以外に惹かれただけ―――“好き”という気持ちは、ちゃんとある。…そのことに、全然、気づけなかった。今、この瞬間まで。

 今度は優也を利用するのか、と奏に疑われ、理加子は憤慨し、反論した。優也のような純粋な子を利用ほど、自分はバカじゃない―――そう言って。
 でも…晴紀やトールのことは、まるでチェスの駒か何かのように、利用していた。見返りも求めず理加子の力になろうとしてくれた、という点では、彼らも優也も、何も変わらないのに。
 恥ずかしい―――恥ずかしくて、消えてしまいたい。


 「え…っ、ちょ、リ、リカ!?」
 突如、声を押し殺して泣き出した理加子に、トールは慌ててカウンターから飛び出し、必死にその背中を叩いてなだめ始めた。
 「た、頼むよ…店内で突然泣いたりするなって。それでなくてもおれ、女性客との間にトラブル起こすんじゃないか、って、支配人から目ぇつけられてるんだからさぁ」
 「…ご…めん…」
 「いや、謝んなくてもいいけどさぁ」
 違う、と首を振った理加子は、もう一度、
 「…ごめんね…」
 と、掠れた声で呟いた。が、その「ごめんね」の意味を知らないトールは、ただ首を傾げるだけだった。


***


 「今のところ、特にクレームらしいクレームも入ってないよ」
 「…良かった…」
 客を送り出した奏は、氷室からの報告に、ほーっと安堵の息をついた。
 ここは店内なので、小声とはいえ客の個人名は出せないが―――勿論、奏が気を揉んでいるのは、昨日の大河内夫人の一件についてである。
 大河内夫人の言動は、今思い出しても腹が立つし、腹を立てる自分が間違っているとも思わない。これが奏1人の問題であるなら、高級腕時計を叩き返したことについて、誰が何と言おうが謝罪など絶対しない。が……その影響が店に及ぶとなると、話は別。今、奏がひたすら恐れているのは、その点だけだ。
 「スイスの高級腕時計やったら、そうそう簡単に壊れたりせぇへんやろ。いっちゃんがぶっ壊したと思っとるだけで、無傷だったんとちゃう?」
 予約表に年明けの予約分を書き込みながらそう言うテンを、氷室と奏が、同時に睨んだ。
 「バカ、オレが心配してんのは、時計のことじゃねーよっ」
 「時計は無傷でも、プライドが傷ついてるんじゃ、アウトだよ」
 「プライド、なぁ…」
 わからんでもないけど、と小さく付け足し、テンはため息をついた。
 「店に殴り込みにくるほど、たいそうなプライド、あのオバハンにはないと思うなぁ」
 「…オバハン…」
 「ほんまもんの“プライドの高い女”やなくて、“プライドをくすぐられるのが好きな女”やからな。傷つけられたプライドを謝罪やら賠償やらで回復するようなしち面倒くさい真似、せぇへんと思うわ。いっちゃんお気に入りのG-SHOCKをこき下ろしてきっちり腹いせしたったし、今頃、高級時計1つで女王様扱いしてくれる“なんちゃって色男”がぎょーさんおるホストクラブで、憂さ晴らしでもしてるんちゃうの」
 「……」
 客に対してオバハンはないだろ、とか、ここは店内だぞ、とか、色々言うべきことがあるのは、確かなのだけれど。
 ―――担当でもないのに、よく見抜いてんなぁ、こいつ…。
 恐ろしいほどに大河内夫人のパーソナリティを把握している。女のことは女の方がよくわかる、ということか。背筋に寒気を感じ、奏だけではなく氷室も口を噤んでしまった。
 「…そ…それにしても、奏はやっぱり、プロ相手のメイクに専念する方向で、そろそろ真面目に考えた方がいいかもしれないな」
 コホン、と咳払いをしながら、氷室がサラリとそう言う。今後の予定を確認すべく、予約表を覗き込んでいた奏は、「は?」と目を丸くした。
 「やっぱり、って?」
 「前から、そんな気はしてたからね。いや、奏のメイクがどうこう、って問題じゃなく、その―――奏を指名する常連客の傾向を見てると、な」
 「常連客…」
 「いっちゃんの上得意って言うたら、金持ちでブランド好き、年齢は30代40代やね」
 奏が思い浮かべたままの人物像を、テンがあっさり口にする。そのとおり。昨日の大河内夫人は、年齢こそその範囲に入らないが、いつも派手なブランド物を身につけている点は、他の常連客と共通している。テンを指名する客に同年代のOLなどが多いのとは対照的だ。
 「ウチを指名してくれるお客さんは、友達感覚やからなぁ…。ウチも、そういう風に親しみ持って来られるのが好きやし。根っから素人が向いてんねん。けど…いっちゃんは、なぁ…」
 「……」
 「奏を贔屓にするお客様は、技術より顔やムードを買いに来るケースが多い気がする。勿論、下手なメイクをすれば見限られるに決まってるけど、精一杯腕をふるったところで、お客様の方は、そんなことより奏と一言でも多く喋ることや親しくなることの方を重視するからね。それでもいい、と割り切れるタイプなら構わないけど―――奏は、プロ意識が高すぎるほど高いだろ?」
 高い―――のだろうか。自分では、それほどではないと思うのだが。ただ、モデルとしても、メイクアップアーティストとしても、「仕事ぶり」を認めて欲しい、という欲求は、確かに人一倍高いかもしれない。この顔を武器にはしたくない―――それが容易いことと経験上わかっているから余計、顔以外で勝負したいという欲求が高くなっているのではないか、と奏自身は分析している。
 「何か素人相手の仕事にこだわりがあるなら別だけど―――奏が技術で正当な評価をされたい、と思うなら、美に対してストイックでシビアな人間を客にした方がいいと思う。少なくとも、この日本では、ね」
 「…美に対してシビア、か…」
 となると、当然、その筋のプロ―――モデルや芸能人、ショービズの世界に生きている人間。メイクアップアーティストのメインフィールドであり、一流どころがしのぎを削っている、一番厳しい世界だ。リカの時のことを考えれば、そんなにビジネスライクにはいかねーよ、と皮肉のひとつも言いたくなるが、それは飽くまでリカレベルの話。どの世界でも、一流どころは大変厳しい。そして勿論、メイクをやるからには、その一流どころから声がかかるようになることが、最上の夢だ。
 ―――そりゃあ、オレだってメイクの世界に足を突っ込んだからには、いずれはプロメイクに軸足移して、って望みは持ってるけど…。
 でもそれは、もっと先の話。個人的な仕事を月2本か3本、安定して持てるようになることが当面の目標で、この店から独立してフリーになることなど、まだ念頭にはない。
 「まだまだ、無理だよなぁ…」
 ため息混じりに奏が呟いた直後、新たな客が入ってきた。一瞬で営業モードに切り替わった3人は、「いらっしゃいませ」と笑顔で客を迎え入れた。


 クリスマスといえば、日本ではすっかり24日の方がメイン扱いになってしまっているが、本来のメインであるこの日も、日頃に比べると客の出入りが激しい。開店間もない頃の余裕もどこへやら、スタッフ全員、うっかりすると昼休みを取り損ねかねない状況になってしまった。
 「ごめん、10分ほど時間が押してて」
 ウェイティングシートで順番待ちをしている次の客に、そう言って奏が手を合わせてみせると、彼女は苦笑しつつ店内を軽く見渡した。
 「この有様じゃ、文句も言えないわね」
 「友達との待ち合わせの時間、まだ大丈夫かな」
 「大丈夫。ここの近くだし、詩織を変身させるにはそれなりの時間がかかると覚悟してたから、余裕持って予約入れたんだもの」
 そう言って笑う由香里の隣には、本当の意味での客―――この後、実際にメイクを施すことになっている客が、もの凄く、居心地が悪そうに座っていた。
 有体に言えば、地味。毒舌が過ぎる人間なら、貧相と形容しそうなタイプだ。ナチュラルメイクにも程があるぞ、と言いたくなるほど、申し訳程度にしか施されていないメイク―――血色の悪さや頬の肉の薄さをカバーするためにも、こういう顔こそメイクすべきなのに。
 予約が入った段階では、詳しい話を聞いていなかったので、てっきり由香里本人にメイクをするものと思っていたのだが、さっき来店した際、簡単に事情を聞いて、納得した。確かに、この詩織とかいう人物が自発的に着飾ろうと奮闘するとは思えないし、ありのままの自分で別にいいじゃない、と開き直れるタイプとも思えない。自信がない、自信がない、と言いながら、ひたすら引っ込んでいるタイプだ。
 「あのー、混んでるんなら、あたしは別に…」
 案の定、店の混雑振りを察して、詩織がそんな口を挟む。が、当然、由香里に却下された。
 「今更飲み会のドタキャンはきかないわよ。いつもの格好のまま出席する?」
 「そ、そんな訳にはいかないじゃない。由香里に恥かかせちゃうよ」
 「じゃあ、おとなしく待ちましょ」
 ―――別に、このまんま出ても、友永さんが恥かく、ってことはないと思うけど。
 でも多分、由香里もそんなことは、重々承知なのだろう。こんな親友がいるなんて由香里の恥になる、と思っているのは、詩織本人だけ―――だからこそ、詩織を引っ張り出すためにも、イメチェンというステップが必要なのだろう。
 「お客様が後悔するようなメイクは、絶対しませんよ」
 にっこりと笑って奏が言うと、詩織は渋々ながらも、「はぁ…」と返事をした。

 「なんか、随分キミに馴れ馴れしいじゃない? あの子」
 由香里たちに断りを入れ終え、メイクの準備中だった鏡の前に戻ると、2分前は満面の笑みだった客の顔が、少々面白くなさそうな表情に変わっていた。彼女もまた、奏を指名して予約を入れた常連客―――テンの分析にピタリと一致する、「金持ちでブランド好きな30代」である。
 「は?」
 あの子、って誰よ? と目を丸くする奏に、彼女は、鏡に映る1点を目で指し示した。
 「あそこで待ってる子。ただの客にしては、変に親しげだったから」
 「ああ…、ちょっと知り合いなんで」
 同じアパートの住人で、なんて話をすると余計突っ込んでくるのは目に見えている。やんわり真相をぼかして答えると、彼女は「ふーん」とつまらなそうに相槌を打ち、ほとんど見ていなかったファッション雑誌を傍らのワゴンの上に投げ出した。
 その話はそこまでで、その後、彼女はいつもの調子で、お気に入りのブランドの新作の話やら、この前オープンした有名なレストランの話などを、途切れることなくペラペラ喋りだしたのだが。

 『奏を贔屓にするお客様は、技術より顔やムードを買いに来るケースが多い気がする』

 『勿論、下手なメイクをすれば見限られるに決まってるけど、精一杯腕をふるったところで、お客様の方は、そんなことより奏と一言でも多く喋ることや親しくなることの方を重視するからね』

 “VITT”の仕事が終われば、モデル業からは完全に引退……奏のメイクアップアーティストとしての人生が、本格的に始まる。
 この店が好きで、この店のスタッフが好きだ。けれど―――…。

 ―――オレは、本当に、この店にいるべき人間なんだろうか…?


***


 「あれぇ、秋吉君だぁ」
 ホームに降り立った途端、背後から聞こえた間延びした声に、優也はギョッとして振り返った。
 誰なのかは、声だけで一瞬でわかったが、案の定―――振り返った先にいたのは、大きなボストンバッグを両腕に抱えた、真琴だった。
 「マ、マコ先輩!? ど、どうしてここに」
 「秋吉君と同じで、新幹線を降りたとこナリよ。わたしは8号車3のA」
 優也は7号車の15のCだ。7号車後ろ寄りのドアから降りたせいで、8号車前寄りのドアから降りた真琴と鉢合わせする羽目になったらしい。
 「…同じ新幹線だったんですか」
 「奇遇だね〜。岐阜のどこらへんだっけ」
 「ええと…岐阜市の、ちょっと手前です。名鉄の」
 「あ〜、そっち方面かぁ。残念」
 期待はずれだったのか、真琴が眉をハの字にして落胆した顔をする。どうやら、真琴の実家とは方向が違っていたらしい。
 「マコ先輩は、どの辺りなんですか?」
 「名古屋市と春日井市の境界線から、名古屋寄り数百メートル」
 「…えー…、上飯田の辺りですか」
 「惜しいっ。新守山近辺」
 となると、JR。優也とは、ここ名古屋駅でお別れだ。真琴は残念そうだが、真琴が繰り出す変化球に対応しきれない優也は、残念5割、安堵5割だ。
 「乗り換え改札口まで同行したまえ、後輩諸君」
 「諸君、て…僕しかいませんよ」
 「そうそう、いまどき“諸君”って言葉を普通に使う教授も、ちょっと珍しいよね〜」
 ―――いきなり変化球ですか。
 早くも話題から脱落しそうだ。ボストンバッグを抱えて歩き出した真琴を追い、優也も歩き出した。
 「確かに、あの年代で“諸君”っていうのは、珍しいかもしれませんね」
 自分たちが在籍しているゼミの教授を思い浮かべ、同意する。
 永岡ゼミのドン・永岡教授は、大学の教授陣の中では若い方に分類される人物で、確か40代半ばである。ただし、年齢を知らない学生たちは、彼を50代以上だと信じて疑わない。“諸君”だの“我々”だのといった硬い言葉を好んで使うせいもあるが、ロマンスグレーと表現される、白髪混じりの髪や髭の方が主な原因だろう。若い頃から難しいことばかり考えすぎたせいで若白髪になったんだ、とゼミの学生たちは噂している(なんでも30代半ばで既に相当白髪が目立っていたのだそうだ)が、真相は定かではない。
 「“キミたち、手伝ってくれないか”とは違って、“諸君に任務を与える”は、問答無用、って感じナリよ。おかげでわたしのクリスマスイブは、さむーい研究室で、院生たちと徹夜で過ごす羽目になったナリよ」
 「えっ」
 危うく聞き流してしまうところだった。驚いた優也は、慌てて歩を速め、少し先を歩いていた真琴に並びかけた。
 「ま、まさかマコ先輩、徹夜明けのその足で帰省ですか!?」
 「そうナリよ〜。一晩中、10分おきにデータとってたから、一睡もしてないナリ。おかげで東京・名古屋間の約2時間、夢も見ないほど熟睡したナリ」
 …こんな小さな体に、よくそんなバイタリティが備わっていたものだ。小柄な方な優也の目にも、子供かと思うほど小さく見える真琴を見下ろし、優也は感嘆したようなため息をもらした。
 「そうですかぁ…。イブに研究室で徹夜…」
 と言いかけて―――ふと、思い出した。
 ―――そういえば、マコ先輩って、今、好きな人がいる、って言ってなかったっけ?
 「……」
 思わず、真琴の横顔を凝視する。その視線に気づいてか、真琴は不審げに眉をひそめ、優也の方を見た。
 「どうかしたの?」
 「…え…っ、あ、いえ、その…」
 しまった―――と後悔しても、真琴に不信感を抱かせてしまったのでは、もう遅い。気まずさに目を泳がせた優也は、非常に言い難そうに、小声で真琴に訊ねた。
 「―――…きっとマコ先輩は、イブの日は好きな人と一緒なんだろうな、って、僕は思ってたものですから…」
 「好きな人?」
 「前、言ってたでしょう? 初恋の従兄弟の話をしてくれた時」
 「…あー、あれね」
 どうやら、思い出してくれたらしい。ふむふむ、と頷いた真琴だったが、
 「でも、両想いだなんて、一言も言った覚えはないナリよ?」
 と口を尖らせた。
 「そ、それは、確かにそうなんですけど―――あれからちょっと経ったし、両想いになってる可能性もあるかなぁ、と」
 「んー、可能性は、ゼロです」
 きっぱりと、それはもう潔いほど、断言されてしまった。
 「…そうなんですか?」
 「ハイ。ゼロです。あり得ません」
 「…その根拠は」
 「わたしに、告白する気がないからです」
 「……」
 「この恋は、片想いのままで、いいのです。いずれ熱も冷めて、いい思い出に変わるでしょう。今は学問最優先です」
 ―――達観してるなぁ…。
 真琴にかかると、世の中全てのことが、とても簡単なように思えてしまう。あまりに簡単そうに真琴が言うので、「それって本当に恋なんですか?」と、皮肉のひとつも言いたくなるほどに。
 「そういう秋吉君は? どんな素敵なイブを過ごしたのか、400字詰め原稿用紙1枚以内で述べよ」
 「述べよ、って…」
 …いや。達観しているのではなく、達観している“ように見える”だけだ。茶化すように話題を変えてきた真琴の様子に、優也は密かに、自分の認識を訂正した。
 あの蓮だって―――無口で、いつも迷いがなく、極めて淡々と日々の雑事を乗り切っている蓮だって、あれほど複雑で激しい感情を、その内側にたくさん抱いていたのだ。「陸上を辞める」という決断を下すまでには、きっと、言葉にはできないほどたくさんの葛藤があっただろう。ただ、その葛藤を表に出さないから―――たった1人で、誰に告げることなく葛藤し続けるから、周囲からは「あっさり答えを出した」ように見えるだけだ。
 真琴も多分、蓮と同じタイプ―――そしてまた、身に起きた危機を最後まで奏にすら悟らせなかった咲夜も、似たタイプのような気がする。どれほどお気楽に見えても…いや、お気楽に見えれば見えるほど、案外、内に秘めた葛藤は大きいのかもしれない。
 ―――マコ先輩の恋も、口で言うほど、あっさり解決のつく恋じゃないのかもしれない。
 そんなことを、頭の片隅でチラリと考えたら―――何故か、胸が小さく痛んだ。


 その後、昨日パーティーを開いたことなどをポツポツ答えていたら、在来線への乗換え口に着いてしまった。
 「ありゃ、もう着いちゃった。切符切符…」
 新幹線の切符を、どうやらボストンバッグの中に入れていたらしい。
 ―――2時間後には出すってわかってるのに、なんで、服のポケットとかバッグの外ポケットに入れておかないんだろう?
 バッグのファスナーを全開させて、膝や腕でなんとか抱え込みながら中を探っている真琴を眺めつつ、首を捻る。あんな不安定な格好で、あんな大きな荷物の中身を漁っていたら―――と、この後起こりそうな事態を想像して優也が心配していると。
 「あっ」
 「あー!」
 優也の短い叫びに、真琴の甲高い叫びが被った。ついにバランスを崩したボストンバッグが、ファスナー全開のまま、膝から落っこちてしまったのだ。しかも、ご丁寧に、まるで中身を撒き散らすのが目的みたいに、空中で反転しながら。
 「ああああ、やっちゃったーっ」
 慌ててしゃがみこんだ真琴が、散らばったバッグの中身をもたもたと拾い集める。が、優也は、その中身のラインナップに呆気に取られ、すぐには行動できなかった。
 「…マコ先輩…一体何冊、本持ち歩いてるんですか?」
 パッと見ただけで、文庫本3冊に、参考書2冊。しかも、ファスナーの間からは、半分顔を出している雑誌らしきものが2冊見える。それだけの本を放り出してもなお、転がっているボストンバッグは重たそうな姿をしている。まだまだ中に色々入っているのだろう。
 「えー? 10冊かなぁ? いちいち数えてないナリよ。読んでない本も溜まってたから、新幹線で読もうと思って、いつもより多めに持参したのだよ〜」
 「……」
 ボストンバッグを両手で抱えていたのも納得だ。あれだけ本が入っていれば、相当な重さだろう。どうして持ち運べる範囲内の冊数に抑えないのかなぁ? とまた首を傾げつつ、優也も散らばった中身の回収作業に当たった。
 ―――えーと、もうないかな。
 眼鏡ケースとポーチ、それに文庫本2冊を拾い終えた優也は、立ち上がろうとしながら、軽く辺りを見渡した。すると、死角だった足元に、手帳らしきものが落ちているのが見つかった。ちょうど真ん中辺りを開いた状態で、伏せた形で落ちている。
 「あ! あったあった、切符があったナリ〜」
 優也が手帳を拾い上げると同時に、真琴のそんな嬉しそうな声が聞こえた。その声のあまりの無邪気さに、無意識のうちに苦笑を浮かべた優也だったが―――次の瞬間、その目が、閉じようとした手帳に釘付けになった。

 「―――…」

 …………え?????

 「秋吉君ー」
 真っ白になりかけた優也の頭に、真琴の呑気な声が割って入る。
 ハッ、と我に返った優也は、反射的に手帳を閉じ、文庫本とポーチの間に挟みこんだ。
 「ごめんごめんー。まさかそっちまで物が飛んでくとは思わなかったナリよ」
 「い、いえ」
 またボストンバッグを抱えて歩み寄ってきた真琴に、優也は無理矢理笑顔を作り、拾ったものを差し出した。
 「これで全部だと思いますけど…」
 「ありがとー。やっぱり、荷物を1つにまとめるのはデンジャラスだねー」
 「…ですね」
 「じゃ、」
 優也から受け取った品々を、ごそごそとバッグの中に押し込み終えた真琴は、改めて優也を見上げ、ニコリと笑った。
 「秋吉君。よいお年を」
 「…あ、は、はい。先輩もよいお年を」
 模範的挨拶に満足したかのように、真琴はうんうんと頷くと、踵を返し、改札を抜けていった。そして、途中で振り返り、優也に向かってぶんぶん手を振ってみせた

 ―――凄い。
 あんなに小さいのに、あんなに本が入ってるバッグを、片手で持ってる。

 「…じゃなくて、」

 さっきのは。
 さっき、手帳に挟んであった写真は。
 あれは、一体―――どういう意味なんだろう?

 なんだか、見てはいけないものを、見てしまった気がする―――思いがけない形で垣間見てしまった真琴の秘密に、優也は、全身に冷や汗が滲んでくるのを感じた。


***


 「そうそう! あそこの角にいっつも来るホットドッグスタンドだろ? あれはマズイかったよなぁー」
 「えぇ? あたしは結構おいしいと思ったんだけど…」
 「ほんとに? だとしたら、あまりに悲惨な食生活のせいで、よっぽど味覚が麻痺してたんだよ」
 「ああー、そうかもしれないなぁ。一時はライフラインストップ寸前で、空腹が満たせれば何でもいい! って本気で思ってたし」

 と、ニューヨークのとあるホットドッグスタンドについて大いに盛り上がっているのは、1組の男女。
 女性の方は、“Studio K.K.”にて変身済みの詩織。そして男性の方は、詩織がニューヨークにいたのと同じ時期、1年ほど仕事でニューヨークに赴任していた、河原の友人・宇佐美である。
 自信がない、面白い話題なんて持ち合わせていない、と集合直前まで散々ごねていたのに―――すっかり宇佐美と意気投合している詩織の様子に、由香里は内心苦笑いを浮かべていた。

 いくらプロにメイクしてもらったところで、詩織がいきなり絶世の美女に化けるようなことはなかった。基本的に、いつもと同じ詩織。ただ―――頬紅の入れ方や眉の描き方ひとつで、こうも印象が変わるのか、と唸りたくなるほど、詩織の顔は、「貧相」から「シャープ」へと変貌を遂げていた。美人でも可愛くもないが、いい意味での飾り気のなさが光っていて、普段の詩織の何倍も魅力的だ。
 案外、いけるじゃない、と由香里は詩織を見直したのだが、本人はそれでもまだ自信を持てない様子だった。外見のことでは、異性だけじゃなく同性からも残酷な言葉をからかい半分で浴びせられることも多かった詩織なので、そう簡単に自信を持つことはできないのだろう。
 せっかく普段よりいい女になっているというのに、宴会中ずっとこの調子で由香里の陰に隠れていたら、わざわざ連れ出した意味がなくなってしまう、と由香里は心配していたのだが―――なんのことはない。偶然、共通の話題を持ち合わせている宇佐美が参加していたおかげで、由香里の懸念などどこかへ飛んでいってしまった。集まった計7名中、一番楽しそうにしているのは、いまや詩織となっているのだから。

 「しかし、宇佐美も今日はよく喋るなぁ」
 由香里の隣に座る河原が、感心したような声でそう呟く。
 さほど声のボリュームを絞ることなくこんなことを呟けるのは、今、河原と由香里が完全にあぶれてしまっている状態だからだ。宇佐美と詩織はこのとおりだし、詩織の向かいの席に座る智恵は、他の河原の友人2名と、株だか為替だかといった面倒くさそうな話題を熱く語り合っている。どちらの話題にも入っていけない河原と由香里は、自然、友人ら5名を観察しながら、2人で酒を酌み交わすしかなくなってしまったのだ。
 「宇佐美さんて、無口な人なの?」
 「うーん、無口、って訳じゃないけど、女性があまり得意じゃなくてね。大学時代のコンパなんかでも、僕や他の同性の友達を隣に座らせて、ぽつぽつ喋りながら酒酌み交わすばかりで、女の子たちとワイワイ騒ぐ方じゃなかったんだ」
 「ふぅん…。なんか、詩織みたいね」
 飲酒OKの年齢になってからの大半を離れて過ごしたので、実際に目にしたことはほとんどないのだが、詩織もまた、宴会では隅っこに座り、同性の友人1人か2人を相手に酒を飲んでいると聞いた。見た目は陰の詩織と陽の宇佐美で対照的ではあるが、案外、中身は似たものを持った同士なのかもしれない。
 「まさか宇佐美さんと親しくなるとは思ってなかったけど―――よかったわ。詩織を連れてきて。これで、今後ちょくちょくみんなで飲みに行ったりできそうじゃない?」
 由香里がそう言うと、河原は、ビールの入ったグラスを口に運びつつ、苦笑を浮かべた。
 「いやぁ、どうかなぁ? 事と次第によっては、僕らの方が“お邪魔虫”になっちゃうかもしれないよ?」
 「え?」
 「ここだけの話、」
 さすがに宇佐美に聞こえてはまずいと思ったのか、河原は突如、声のボリュームを下げた。
 「宇佐美が大学時代に付き合ってた彼女が、ちょっと似たタイプなんだ、詩織さんと。見た目もそうだけど、賑やかなことが苦手なとことか、意外とサバサバして男性的なとことかが」
 「……」
 ―――なんか、ちょっと、面白くないかも…。
 想定外な男に詩織を掻っ攫われるかもしれない予感に、由香里は知らず、眉根を寄せていた。


 結局、詩織が河原と話すことなどほとんどないまま、予約で席を押さえていた時間のタイムアップまで、あと5分ほどになってしまった。
 由香里の知らないところで、智恵が河原の友人らに、自分が贔屓にしているショットバーの話をしていたらしく、いつの間にかその店に流れて行くことが決定していた。既に結構酔っていた由香里は、ここで離脱するか、それとも一緒に行こうか、と迷いながら、化粧を直すために席を立った。
 ―――まだ9時前か…。電車は余裕あるし、あのショットバーはそんなに長居できる店じゃなかった筈だし…ひとまず、顔だけは出しておこうかな。
 口紅を描き直し、コンパクトをパチン、と閉めた時点で、由香里の気持ちは「一緒に行く」にほぼ固まった。せっかくだから、詩織に宇佐美の印象などを訊いてみよう、などと思いながら化粧室を出た由香里だったが。
 「…あ、」
 ドアを閉めてすぐ、トイレや公衆電話のあるエリアと店との境目辺りに河原が佇んでいるのを見つけた。
 バタン、というドアの閉まる音で、由香里が出てきたことに気づいたのだろう。店内の方を見ていた河原は、ハッとしたように振り返り、慌てて由香里の方へと歩み寄った。どうやら、由香里のことをここで待っていたらしい。
 「どうしたの? もしかして、みんなもう外に出ちゃったの?」
 「え? あ、いや…、まだみんな、席にいるよ。そろそろ移動するんで、今、オーダーしめて会計してもらってる」
 「あ、そう」
 じゃあ、ここで何をしてたの? という目で由香里が見ると、河原は落ち着かなく視線を彷徨わせ、それから、妙に緊張した様子で、軽く咳払いをした。
 「あー、その―――いつ渡そう、って、さっきからずっとタイミング計ってたんだけど、やっぱりみんなの目がある所だと、渡し難くて」
 「え?」
 「もうちょっとチャンスあるかな、と思ってたけど…このままだと、渡しそびれたまま解散になりそうなんで」
 そう言った河原は、ジャケットのポケットから何かを取り出し、それを由香里に差し出した。
 「……?」
 「一応、クリスマスプレゼント」
 「えっ!!」
 それは、10センチ×15センチ、といったサイズの、薄い箱だった。ちゃんとクリスマス仕様の包装までしてある。目を丸くした由香里は、焦ったように、箱と河原の顔を何度も交互に見比べてた。
 「ちょ…ちょっと、そんな話、聞いてないわよ!? 私、なんにも用意してないのに」
 「い、いや、お返しはいいんだ、お返しは。単に僕が友永さんを驚かせたかっただけで、友永さんからプレゼント貰う気は全然なかったから」
 「でも…」
 「ほんとに、いいって。たいしたもんじゃないし。あ、中身は、手袋なんだ。女性物なんて全然わからないんで、従姉妹に選んでもらったんだけど…無難なデザインだから、使い勝手は悪くないと思うよ」
 「…えぇー…、なんか、悪いわ。こんなの」
 「恐縮するような値段じゃないから」
 駄目押し、という感じで、箱を押し付けられる。あまり頑なに固辞しても河原が気を悪くするかもしれない、と考えた由香里は、
 「…じゃあ…ありがとう」
 戸惑いながらも、クリスマスカラーに彩られたその箱を受け取った。ホッとしたのか、河原の顔に、どこか優也を彷彿させる、柔らかな笑みが浮かんだ。
 「でも、随分マメね、河原君て。私なんて、友達にクリスマスプレゼント贈るなんて、子供の頃以来全然やったことないわよ?」
 由香里が感心したように言うと、河原は一瞬、動揺したように瞳を揺らし、まるで取ってつけたようにハハハ、と笑った。
 「い、いや、マメだなんて、そんな。僕だってこんなことするの、小学生以来だよ?」
 「え?」
 「というか、友永さん以外には用意してないし」
 「…え??」
 「―――あー、もう」
 突如、情けない声を上げた河原は、大きなため息をひとつつき、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 「やっぱり、柄じゃなくても、ちゃんと席をセッティングすりゃあよかったかなぁ。でも、気合入れすぎも引かれるし、難しいよなぁ、ほんとに」
 「???」
 何がなんだか、さっぱりわからない。困惑した様子で由香里が立ち尽くしていると、その視線に気づいた河原は、僅かに顔を赤らめ、手を下ろした。
 「あ…、ご、ごめん。1人で勝手に挙動不審になってて」
 「いいけど…どうしたの、一体?」
 「…本当は、年が明けてからにしようかな、と、7割位、思ってたんだけど…誰にでもこういう風だと思われるのも不本意だし、物事には勢いとかタイミングってのがあると思うから―――残り3割のプランに、賭けることにする。…うん、その方がいい気がする」
 由香里に、というよりは、自分自身を納得させるみたいにそう言うと、河原は急に真面目な顔になり、真っ直ぐに由香里と向き合った。
 「友永さん」
 「はい?」
 「今すぐ、とは言わないけど―――僕と付き合ってもらえないでしょうか。…結婚を前提にして」
 「……」

 その瞬間。
 うるさいほどのクリスマスソングのBGMも、宴会客の騒がしい声も、全てが途切れた。
 ああ、人って、予期しなかった事態に突然遭遇すると、こんな風に頭が真っ白になるものなんだ―――大きく目を見開いた由香里は、僅かに残った冷静な部分で、何故かそんなことを思った。


***


 ひと仕事終え、“STAFF ONLY”のドアから店内に戻った奏は、店内の様子に、思わず口笛を吹いた。
 ―――おお、満員御礼じゃん。
 咲夜のメイクをするために楽屋へ向かう前に覗いた時は、まだ少しは空席があったのに、いまや完全に満席だ。クリスマスライブの開始時刻に合わせて来店する客が多いのだろう。オーナーの病気やら、別曜日を担当するバンドの問題やらで、“Jonny's Club”の先行きは怪しい、などと聞いていたのだが、少なくとも、咲夜たちのトリオの人気は安定しているようだ。
 近くにいた店員に声をかけ、「咲夜が席取ってる筈なんだけど」と告げると、店員は心得た様子で奏をカウンター席に案内してくれた。なんだかんだで、奏もこの店ではすっかり顔パスになってしまったらしい。
 「お疲れ様です」
 奏が席に着くと同時に、トールがにこやかにおしぼりを差し出した。
 「珍しいっすね、奏さんが、この店のライブで咲夜さんのメイクをするなんて」
 「ん? あー、まーね。クリスマスライブだから、ちっとは派手にしないと、パーティーって気分にならないだろ? あ、とりあえず、いつものやつ」
 奏がトールに「いつものやつ」と言う場合、それは、あの“マンハッタン・ナイチンゲール”を意味している。正直、トールがまだここで働いていることには色々と複雑な思いがあるのだが、あのカクテルを作れるのは現時点ではこいつしかいない、と考えることで、自分を納得させている奏だった。
 「もしかして、衣装もいつもと違うとか」
 さっそくカクテルの準備に取り掛かりながら、トールが期待した目でそう言う。具体的にどんな衣装を期待しているかは、その目でバレバレだ。
 「言っとくけど、ケーキ屋の売り子がやってるみたいなミニスカートのサンタ衣装は、ないから」
 「…なんだ。期待したのに」
 「するなっ」
 ―――もっと丈の長いスカートにすりゃあ良かった。
 勿論サンタではないが、今日の咲夜の衣装は、一応ミニスカートなのだ。全く油断も隙もあったもんじゃない、と、奏はトールの顔を睨んでおいた。冗談ですって、と苦笑いしたトールは、他のオーダーが入ったこともあり、無駄口を慎み、仕事に専念しだした。
 話す相手もいなくなったので、カクテルを待つ間、奏はぼんやりと店内を眺めていたのだが。
 「…ん?」
 カウンターの反対側の端に座る人物の横顔に、奏の眉が、軽くひそめられた。
 頬杖をつき、ウーロン茶らしきものの入ったグラスをぼーっと眺めているその横顔は、間違いなく蓮だったのだ。
 ―――へー、蓮も来てたのか。
 もしかしたら、自分が仕事に出た後、咲夜にでもバッタリ会って、クリスマスライブのことを聞いたのかもしれない。どうやら奏がいることには気づいていないようなので、一言声をかけるか、と奏は腰を浮かしかけたのだが。
 「お待たせしましたー」
 ちょうどそのタイミングで、カクテルが出来てしまったようだ。浮かしかけた腰を再び下ろし、カウンターに置かれたカクテルに目をやった。
 ところが。
 「―――…」
 綺麗なブルーのグラデーションをした“マンハッタン・ナイチンゲール”のグラスの傍らに、四つ折にした紙が、1枚。
 何だこれ? と眉をひそめた奏は、がさがさとその紙を広げ、中身を確認した。そして、それが、奏も見慣れた類の書類であることを理解し―――パッと顔を上げ、トールの顔を凝視した。
 「…実は、リカが昼間、ここに来たんです」
 奏の視線の意味を察したトールが、気まずそうな口調でそう答える。
 「何しに来たのか、よくわかんないけど……話の流れでおれが今夜のライブの話したら、“じゃあ一宮さんもきっと来るね。もし来たら、これ渡しておいて”って。…あ、おれは中身、見てませんけど」
 リカがトールに託した紙は、年明けに行われる、例のゴスロリ雑誌の表紙撮影のスケジュール表だった。コピーしたものらしく、赤ペンか何かで手書きで書き込まれたらしいメモも、黒インクに置き換わっている。そして、その表の余白部分に、一言―――そこだけは、明らかにボールペンで後から書き足したとわかる文言があった。

 『撮影終了後、先輩である一宮さんに、どうしても意見をうかがいたいです。日曜日なので、もしよければ、見学に来てもらえませんか? マネージャーに頼んで、見学できるよう手配しておきます』

 わざわざ「先輩である」と頭につけている、ということは、リカが訊きたいのは、この日の撮影でリカがどの程度いい仕事をしていたかどうか、という意見なのだろう。また仕事で、何か行き詰まってしまっているのだろうか。
 ―――バカ。何真剣に考えてんだよ、オレは。バカ正直に信じるなって。
 リカには「仕事の相談」という名目で何度も騙されたというのに―――自分の単純さ加減に、ほとほと愛想が尽きる。不愉快そうに眉を顰めた奏は、乱雑に紙を折り畳み、グラスの横に放り出した。

 …でも。
 もしこれが、昨日優也に託した伝言を聞いたリカからの、答えだとしたら。
 自分に恥じない生き方をしろ、という言葉を受けて、リカが何がしかの道を模索し、そのためのアドバイスを、奏に求めているのだとしたら。

 ―――あいつ、リカから何か聞いてないかな。
 蓮の存在を思い出し、無意識のうちに、カウンターの反対端へと目を向ける。
 と、ちょうどその時、蓮が注文していた料理が運ばれてきたらしく、グラスばかり眺めていた蓮が、顔を上げ、奏の方に顔を向けた。
 根っからの真面目さ故か、蓮は、カウンターに料理を置くウェイターに、ひょこり、と軽く頭を下げていた。多分無意識なんだろうな、と奏が思わず口元に笑みを浮かべると、視線を感じたのか、蓮の目がウェイターを通り越し、奏に向けられた。
 やはり、奏がいることには、気づいていなかったらしい。蓮の目が、驚いたように、僅かに丸くなる。リカのことはとりえあず後回しにして、奏は片手を挙げ、「よお」といった感じで挨拶をした。
 ところが。

 「―――…」
 奏の挨拶を受け、蓮の目が、動揺したように揺れる。
 視線を斜め下に逸らしつつ、「どうも」という感じに頭を下げた蓮は、そのまま、奏の視線を避けるように、カウンターに向き直ってしまった。

 「……」
 「あ、時間だ」
 トールの声と同時に、店内に流れていたBGMがフェードアウトし、照明も落とされ始めた。
 薄暗くなっていく中、まだ暫く蓮の横顔を見つめていた奏だったが、軽く唾を飲み込み、“マンハッタン・ナイチンゲール”のグラスを手に取った。
 ―――…ふぅん…。
 目を、逸らしてきたか。
 甘口の筈のカクテルが、いつもより苦く感じる。僅かに顔を顰めた奏は、早々にグラスを置き、ステージに体ごと向き直った。
 ステージ上では、既に3人がスタンバイ済みで、常連客らしい前方のグループから、口笛と拍手が早くも送られていた。そんな中、ピアノとウッドベースが刻む小気味良いリズムに乗って、真っ暗なステージが次第に明るくなりだした。
 ライトの中、だんだんに浮かび上がってきた咲夜の姿は、一見、クリスマスとは無縁な格好だ。が、前髪に飛ばしたパープルのラメと、マイクスタンドに巻かれたクリスマスカラーのリボンは、この日しか見られない特別仕様。そして、いつもなら前奏に被せて入れる筈の挨拶が入らないのも、この日限定のスペシャルバージョンだ。
 ―――っつーか、藤堂は咲夜と同じでラメ入れてる程度だけど、ヨッシーは1人だけ、やたらクリスマス仕様だな。
 赤・緑・白のストライプ、という、クリスマスにうってつけなあのベストは、間違っても奏のコーディネートではない。一体どこで調達してきたのだろう? なかなか洒落ているので、後でこっそり訊いてみよう、と奏は密かに思った。
 明るく照らされたステージ上で、店中からの拍手を受けた咲夜は、店内を見渡しながら、どことなく嬉しそうな笑みを浮かべた。大入り満員状態に、大いに気を良くしたのだろう。マイクスタンドを引き寄せ、歌いだしたのは、奏もよく知るジャクソン5のヒット曲だった。

 「I saw Mommy kissing Santa Claus.... Underneath the mistletoe last night....」

 アップテンポ気味のボサノバにアレンジされた『ママがサンタにキスをした』は、毎シーズンこの曲を耳にしてきた奏にとって、随分と新鮮に感じられた。
 なんともほのぼのとした歌詞の内容に、思わず口元がほころぶ。再びグラスを手にした奏は、一口カクテルを飲み、また視線を蓮の方に向けた。

 蓮も、ステージに体ごと向き直り、歌に聴き入っていた。
 間に5人ほど挟んではいるものの、蓮の表情は、奏にもはっきり見て取れる。その表情は、ステージを楽しんでいる、というより、もっと敬虔で、もっと真摯な表情に―――何か尊い、憧れのものを見つめているような表情に、奏には思えた。
 そして―――そんな表情に対する、強烈なまでの既視感(デジャヴ)に、奏の口元から、笑みが消えた。


 キリスト教徒でもない自分が、こんなことを言うのは、おかしいのかもしれないけれど。
 今日が偶然、イエス・キリストの生まれた日である、この偶然を考えれば、少し位―――日頃考えない「神」の存在について、考えたっていいのかもしれない。


 …神様。
 これは、あなたがオレに与えた、試練ですか?
 これを越えた先に、何かがあるから―――かつて成田が置かれた立場に、今、オレを立たせようとしているんですか…?


 ―――なぁんて、な。
 ふ、と小さく笑う。
 そういえばオレも、あの頃、成田の目を真っ直ぐ見ることができなかったな―――胸の奥に蘇った苦い思い出に、奏は目を逸らし、深いため息をついた。


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