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今年も残すところ、あと今日1日のみとなった朝。
―――うーん…、珍しく緊張してるなぁ。
よいしょ、とミルクパンを抱き上げつつ、咲夜は心の中でそう呟いた。
アパート中がしん、と静まり返っているように感じるのは、早朝という時間帯のせいばかりではないだろう。大晦日に居残っているのなんて、帰る気のない咲夜と、新年早々家族がこっちに来ることになっている奏の2人きりだ。ああ、それともう1人―――家族のいないミルクパンと。
普段あまり構わないミルクパンを気まぐれに構いたくなるのは、大抵、落ち込んでいたり緊張していたりする時だ。うやむやのうちに、なんだか“ベルメゾンみそら”全体で飼っているような状態が続いているミルクパンだが、こんな時は、居てくれてよかった、と感じてしまう。全く、人間なんて身勝手なものだ。
「あと1日だねー…、ミルクパン」
ミルクパンの背中を撫でてそう言いながらも、頭の中では、やっぱり今夜のことを考えてしまう。勿論、ジャズ・フェスタの時はこれの比ではない緊張ぶりだったが、普段の“Jonny's
Club”でのライブと同じ、と思える筈もない。ステージ上では度胸のいい咲夜も、カーテンの内側では結構あがるタイプなのだ。
らしくもなく、はぁ、とため息などついていると。
「おやぁ? 如月さんですか」
突如、階段の方から声がして、咲夜はミルクパンを抱いたまま首を伸ばした。
「あれっ、木戸さん…」
ちょうど2階から下りてきたらしい木戸が、そこに立っていた。もこもこしたコートにボストンバッグ1つ、という姿は、明らかに近所に散歩に行く格好ではない。
「これからお帰りですか?」
「ハハハ、まあ、そうです」
頭を掻きつつ、木戸はそう答え、笑った。意外―――仕事納めと同時に飛ぶように秋田に戻ったものと考えていた咲夜は、少し目を丸くした。
「えぇー、ビックリ」
「はい?」
「木戸さん、家族大好きオーラ出まくりだから、とっくに帰ったかと思ってたんで」
木戸との付き合いは浅いものの、マリリン一家の件を通じて咲夜が感じたのは、木戸の家族に対する愛、というか、家族と一緒にいたい、という強い思いだった。毎週末のように帰省するのだって、東京−秋田間の移動時間を考えれば、決して楽なことではない筈だ。その労力を惜しまない位に、家族思いなのだろう。その木戸が、大晦日当日まで東京に居残っていたとは、大いに驚きだ。
「お仕事が忙しかったんですか」
思わずそう訊ねた咲夜だったが、木戸の顔が引きつるのを見て、即座に質問の答えを察した。
「や、やー、そうなんですよ! なかなか忙しくてねぇ。ははははははは」
「…大変ですね」
―――“何が”大変なのかは、別として。
「しかし、アレですなぁ、年末の集合住宅っちゅうもんは、静か過ぎてこう、落ち着かんもんですなぁ」
誤魔化すためだろうが、実際落ち着かないらしく、木戸はそう言ってキョロキョロと辺りを見回した。そこでふと疑問に感じたのか、引きつり笑いを怪訝そうな顔に変えた。
「そういえば、如月さんは、どうされたんですか、こんな朝早くに。まだ6時前でしょう」
「あー…、はは、別に用があった訳じゃないんですけどね」
苦笑した咲夜は、膝を折ってミルクパンを住処の中へと放してやりつつ、答えた。
「実は今夜、年越しカウントダウンを兼ねたライブがあるんです」
「ライブ……ああ、えーと、確かジャズを歌っておられたんですな」
「ええ。まあ、歌ってるのはいつものことなんですけどねー。ただ、私ら以外に演奏するバンドがかなりハイレベルだってことと、今日やるライブハウスがかなり大きな所ってことが、本番当日になって結構なプレッシャーになってきちゃって」
「お、大きな所、というと、ぶぶぶ武道館とかですか!」
幾分興奮したような木戸の一言に、咲夜はキョトンとして、しゃがんだまま顔を上げた。
「…武道館とはまた、大きく出ましたね」
「いや、それしか知らんのです」
「“Boogaloo House”っていうとこです」
「…知りませんなぁ」
「…まあ、音楽が趣味の人でないと、あんまり知らないと思いますよ」
苦笑しつつ咲夜がそう言うと、「そうですか、ハハハ」と困ったように笑い、続けてこう言った。
「それにしても、大晦日もお仕事とは…。帰省はされんのですか」
いきなり、形勢逆転。
僅かにたじろぎかけたが、そこは年季が入っている咲夜のことだ。木戸に怪しまれる前に、涼しい顔であっさり答えた。
「あー、まあ、年末年始はこんななんで、またそのうちに」
「そうですかぁ…。寂しいでしょうなぁ、親御さんも。娘のいない正月なんて、うちじゃあ考えられんですよ」
「あ、中1でしたっけ。マリリンさんのファンの」
「ええ」
目に見えて、木戸の顔がでれっとしたものに変わる。
「わたしはああいうのは苦手で、さっぱり読んだことがないんですが、妻の話じゃあ社会派なところもあって結構難しいそうですなぁ。わたしの娘にしちゃあ、たいしたもんですよ」
「あはは」
一時はいかにも女子高生向けっぽい軽い話も書いていたマリリンだが、初期や最近の作品は、むしろ20代の女性向けな、かなりシビアな内容を扱うことが多い。もしそうした作品が好きなのなら、読書家としては早熟な方かもしれない。
「実は海原さんに頼んで、最新刊に娘の名前入りでサインをいただきましてね。それを持って帰って驚かせるのが楽しみなんですよ」
「…ホントに、可愛くてしょーがない、って感じですね」
デレデレの木戸が微笑ましく、咲夜がそう言って苦笑すると、木戸は豪快に笑った。
「いやぁ、子供が可愛くない親なんて、いませんよ。子供のためなら、自分なんざぁ二の次ですよ、二の次」
「…ハハ」
それが、必ずしも絶対の真理ではないことは、新聞を読めば数秒で理解できるのだれど。
でもきっと、木戸にとっては、たとえ地球が滅びようとも絶対に変わることのない、永遠に続く真理なのだろう。
その夜、“Boogaloo House”で咲夜が歌った『Home Sweet Home』は、一緒に演奏した一成やヨッシーが「どうした?」と思わず訊ねてしまうほど、普段の数割増しで、切ない郷愁を帯びていた。
そして、会場で聴いていた奏もまた、咲夜が歌う『Home Sweet Home』に、遠く離れた「Home」を見ていた。
自分を暖かく包み込んでくれる「Home」と―――たった1日で自分たちを捨てた「Home」を。
***
正直、駅に降り立った時点では、まだ気が重かった。
娘に、息子に、会いたい。バカがつくほど子煩悩な木戸だ。本当なら毎日だって帰りたい。秋田から東京まで通勤が可能なら、是非そうしたい位なのだ。でも―――それでもなお、気が重い。
そうした気の重さも、角を曲がったその先に自宅の外壁が見えてきた瞬間、吹き飛んだ。
重い気分で家路についた筈が、いざ家が見えてくると、まるで足に羽が生えたかのように、足取りが軽くなる―――毎回、この繰り返しだ。
「僕が持つっ」
どどどっ、と駆け寄ってきた孝が、無邪気にそう言って、木戸の持っていたボストンバッグを抱えた。結構重たかったせいか、まだ身長150センチに満たない少年の体が、ちょっと斜めに傾いでしまうのを見て、木戸は困ったように笑った。
「おいおい。そんな特別待遇したって、お年玉は増えないぞ」
「違うって。お父さんはこの後、掃除と買い物でこき使われるから、少しは手伝ってやりなさい、ってお姉ちゃんが言った」
「わはははは」
多分娘は、こういう手伝いをしろ、と言ったのではなく、掃除や買い物を手伝ってやれ、と言ったのだろう。が、そのニュアンスは、弟の孝には伝わらなかったらしい。
「そうかそうか。じゃあ、2階のお父さんたちの部屋に持ってっといてくれ」
「わかった」
「お帰り」
鞄を抱えて、またどどどっ、と駆けていく孝と入れ替わるように、豊が玄関先にひょっこり顔を出した。
デカい。この1年で豊はとんでもなく大きくなった。中1の時ですら、既に「こいつは年の割にはがっしりしとるなぁ」などと思った(ちょうどその頃、階下に住む大学生のあまりの貧弱さに、つい豊と比較して「鍛えんといかんぞ」などと説教してしまった)ものだが、高校受験を年明けに控えた今は、たった2年で子供はこんなにデカくなるのか、と我が子ながら超常現象を目撃したかのような衝撃だ。
「…お前、今、身長いくつあるんだ」
「? 秋に測ったら、172.3だった」
「うおおおおぉっ、つ、ついに追い越されたのかー!」
家長の威厳がー! と嘆く木戸を、豊は胡散臭そうな目で一瞥し、またノソノソと家の奥へと引っ込んでしまった。
―――ううむ…難しい年頃だな。
豊も孝位の頃は、もうちょっと無邪気でよく話す方だったと思う。が、中学に上がってからは、日に日に無口さを増していき、今では食事中もあまり会話に加わらない。木戸の方から「部活はどうだ」とか訊けば、ぽつぽつした喋り方ながらも結構話してくれるのだが、自分からは話さなくなっている。まあ、自分も豊位の頃はそんな風だったので、仕方ないよな、と諦めている木戸である。
とりあえず家に上がり、洗面所でガラガラとうがいをしていると、
「ああ、お帰りなさい」
台所で何やら作っていた妻が、顔を覗かせ、いかにも気の急いているような声でそう言った。
「ただいま。悪かったなぁ、ギリギリになって」
「そうよ、全く…。私はコンロ前離れられないから、友子に頼んどきましたから。あなた、お願いしますからね。それと、掃除と」
「わかってる」
お願いされるのは、車の運転と荷物運びだ。おせち料理の大半は30日のうちから仕込み始めているが、お餅やお酒、2日以降の夕飯の分は31日に買出しすると毎年決まっている。「一夜飾り」は無礼にあたるので、大掃除もあらかた30日に済ませてしまうが、高い場所や危険な所は木戸がやることになっているので、雨どいなどの掃除はまだ残っているのだろう。
火を使っているからか、妻はろくすっぽ顔を見ることもなく、せかせかと台所に戻ってしまった。
そのことを、少し寂しく思う一方で、妻と向き合わずに済んだことに少し安堵している―――そんな自分に気づき、木戸は無意識に、深いため息をついていた。
「友子ー」
コンコン、とドアをノックすると、木戸が開けるより先に、部屋のドアが開いた。
「お父さん」
りんごを連想させる丸い顔が覗き、ホッとしたような笑みを見せる。その頬は、熱でもあるのか、いつもより赤かった。
「どうだー、具合は」
「うん、大丈夫」
そう答えつつも、友子は時折、咳をしている。大掃除の間は祖父母の家に行かせているので、大掃除で出た大量のホコリが原因ではないだろう。風邪気味だとは電話で聞いていたが―――健康優良児な木戸に、娘の辛さはわからない。娘を見下ろす木戸の目が、辛そうに細められた。
「お母さんが買い物行って来いって言ってるけど、行けるのか」
「うん。さっき、薬飲んだから、今ちょっと楽なんだ」
「そうか。じゃあ、もっと元気になれるように―――…」
ちょっともったいぶってそう言うと、木戸は、ボストンバッグとは別にして既に忍ばせていた本を、友子に差し出した。
海原真理の最新刊のハードカバーは、表紙の下半分が、上手い具合に空白になっているデザインだ。そこに「友子ちゃんへ」と書かれた上に、既に一度目にしている海原真理のサインが、直筆で入っている。それを目にした途端、友子の目が、大きく見開かれた。
「う…うわー! 凄いー! 友子ちゃんへ、って入ってる!!」
明美ちゃんに自慢しちゃおう、などと喜んでいる娘を見て、木戸はつくづく、帰ってきてよかったなぁ、という感慨を噛み締めた。
***
木戸一家が秋田で暮らすようになったのは、実は、友子の病気が原因だった。
元々木戸家は、東京の郊外に住んでいた。が、友子が小学校3年生の時、重度の小児喘息を発症した。医者からも転居を勧められたこともあり、なんとかギリギリ木戸が通勤できる範囲内で新しい住まいを探していたのだが―――ある日妻が、突然「秋田に帰りたい」と言い出したのだ。
今にも窒息死するのでは、と本気で心配してしまうほど、激しい発作を起こした友子を見て、元々心配性の気のある妻は、かなりの精神不安定になっていたらしい。妻の実家は秋田にあり、今も祖父母が兄夫婦と暮らしている。空気のいい環境、という以上に、両親の精神的バックアップを、妻は必要としていたのかもしれない。
今の会社を辞めて秋田の建設会社に転職して欲しい、というのが妻の希望だった。が…それは、木戸には承服しかねる話だった。
当時の木戸は、千葉で行われる大型工事で現場責任者を任されたばかりだった。工事が終わるのは、1年後―――今放り出して辞めることなど、責任感の強い木戸には無理だ。それに、事務方ではなく、現場での叩き上げである木戸は、会社に深い愛着を持っている。勿論、今のポジションへの未練だってある。
そして、より現実的な問題として、経済上の事情もある。子供たちには大学まで行かせてやりたいし、友子の治療費もかかる。地方と首都圏の賃金格差を考えると、どうしても地方で転職する気にはなれない。木戸自身、地方出身者であり、地元経済の厳しさを父から聞かされていたからこそ、上京したのだ。出来得る限り、今の会社で働きたい―――友子が長期治療が必要な病気になったからこそ、木戸のその思いは強かった。
結果―――木戸は残り、妻子は秋田へ。幸いにして、秋田の家は、2軒隣に住む妻の実家のものであり、家賃はタダ同然だ。そうでなければ、木戸が月に2度も3度も帰省できる筈もない。それでも、少しでも交通費を浮かせたくて、高速バスを利用することも多い。木戸が体力づくりに余念がないのは、片道8時間以上という長時間の夜行バスに耐え得る体を維持したいからだ。
「お父さんももう若くないんだから、今日みたいに、新幹線で帰ってくるようにしたらいいのに」
「なぁに、そんじょそこらの弱っちい中年と一緒にしてくれるなよ。お父さんは日頃から鍛えてるんだからなぁ」
ガレージへと向かいつつ、心配げな友子に、おどけて力こぶを作ってみせた木戸だったが、内心、そろそろ無理かもなぁ、と考えていたりもする。いや、本人が言うとおり、そんじょそこらの弱っちい中年に比べたら、木戸は随分とタフな方だ。が、早朝、秋田や東京に降り立った時に覚える疲労感は、確かに回を追う毎に増している。
―――ただ、それが本当に年のせいなのか。そこが問題だな。
今、こうして車に向かっている間も、木戸は僅かに動悸を覚えている。が、それは寒さのせいや体調不良のせいではない、と、木戸も自覚している。もしかしたら、夜行バスが体に堪えるのも、半分くらいは精神的なものかもしれない。
「じゃあ、私やお兄ちゃんが、反対に夜行バスで東京に行くとかー」
「ダメダメダメ、そりゃあいかん。お兄ちゃんはまだしも、友子は駄目だぞ。東京のお父さんの部屋は、さっぱり掃除してなくて汚いんだから」
それ以上に、あの趣味丸出しの部屋を娘に見られるのは、さすがに気まずい。入居当初に、家財道具を揃えるために妻が数日出入りしたが、その時を最後に部屋に家族を入れていないので、家族の誰一人、壁にベタベタ貼られた格闘技ポスターのことは知らないのだから。
「そんなこと言って、友子は、明美ちゃんが羨ましいだけだろうが」
「だぁって…なんか、カッコイイんだもん。たった1人で横浜のおじいちゃんとこまで旅行するなんて。私も1人で切符買ったり電車乗ったりしたい」
「もうちょっと元気になってからだなぁ」
などと言いながら、木戸は運転席のドアを開け、無造作にシートに腰掛けた。
途端。
―――…あ。
一瞬で発見してしまった“異変”に、木戸の顔が強張る。
だが、助手席に乗り込んできた娘が、いそいそとシートベルトを締めるのを見て、我に返った。さり気なく運転席のシートの位置を自分に合わせた木戸は、何も気づかなかったフリをして、車を発進させた。
最初に気づいたのは、今から半年近く前だ。
この車は、普段は妻が使っている。だから、木戸が帰宅した時、運転席のシートは大抵、妻の体格に合わせて、若干前へと移動させられている。木戸はそれを自分に合わせ、少し後ろに引いてから運転していた。
ところが、ある週末―――木戸が運転しようとすると、ハンドルがいつもより遠かった。
不審に思いつつも、自分に合うよう、いつもとは逆にシートを前へと出して運転した木戸だったが、その1ヵ月後、また同じようにシートが後ろにずれていることに気づき、さすがに疑問を抱いた。
自分ですら遠いと感じる位置。妻にはもっと遠いだろう。妻がこんな風に、肘に全く余裕のない状態でハンドルを握っているとは考え難い。その証拠に、異変のあった1回目と2回目の間に帰省した時は、いつもどおり、シートは妻の身長に合わせた位置にちゃんとなっていた。妻は今までどおり、木戸よりシートを前に出して運転している筈だ。
…だとしたら。
一体誰が、この車を運転したのだろう?
妻の友人? …いや、木戸でも遠く感じる、ということは、運転した人物は木戸より大柄な人物だ。171センチ程度の木戸だが、女性で木戸より大きい人物なら、木戸の記憶にも残っている筈―――けれど、妻の交友関係の中に、そうした大柄な女性はいなかったと思う。
妻の兄や父という可能性も考えたが、2人とも木戸と大差ない体格だ。彼らの運転する車に乗ったこともあるが、運転中の姿勢に違和感を覚えた記憶もない。少なくとも、木戸が遠いと感じるほどにハンドルとの距離を取って運転しているとは考え難い。
となると―――考えられる可能性は、ただ1つ。
誰か、木戸の知らない人物が、この車を2度、運転している。しかも―――恐らくは、“男性”が。
以来、木戸は、この車の運転席に座るのが怖くなった。
帰るたびに、車に乗る用事が何かしら出て来るのは、車が一番ポピュラーな交通手段であるこの辺りでは当然のこと。だから、帰省したからには、車に乗らざるを得ない。いつも運転席のドアを開ける時は、無意識のうちに緊張してしまう。またシートが後ろにずれているのではないか―――自分がいない間に、見知らぬ誰かがこの車を運転していたのではないか、と。
動悸を覚えながら車に乗り込み、不安が的中したことはなかったのだが―――今日、よりによって1年の締めくくりの日に、その不安が久々に現実となるとは。
「…ねえ、お父さん」
赤信号で車が止まっている間に、友子がぽつりと呟いた。
「私たち、東京の近くに引っ越せないかなぁ…?」
「え?」
「空気のいい所なら、別に秋田じゃなくても、関東でも田舎にいけばあるよね。お父さんがなんとか仕事に通える位のとこ。そこじゃ駄目なのかなぁ?」
「…うーん…」
それは、木戸だって同じ気持ちだ。けれど―――…。
「お母さんが、ここに居たい、ってまだ言ってるからなぁ」
「……」
「おばあちゃんが近所にいるから、離れたくないんじゃないか? それに、友子がかかってる病院とも、付き合いが長くなってきてるから、今から別の病院に変わるのが怖いんだろう」
友子の病気は、薬を飲んで発症をコントロールしながら長く付き合っていく、というタイプの病気であり、最新設備のある都会の大病院に行けば治る、といった類のものではない。最初の2年は、突然の発作で救急車で運ばれたりもしたが、ここ1年ほどは安定し、病院へは定期的に通うだけだ。担当医とも顔見知りとなり、娘の病状もちゃんと把握してもらえているので、妻は病院側に絶対の信頼を置いている。「どの病院でも同じだ」と言ってみたところで、「どこでも同じなら今のところがいい」と言い張るだろう。
「…私、高校から、関東の方の学校に行こうかなぁ」
落ち込んだ様子で、友子がそう口にする。驚いて、木戸は思わず友子の横顔を凝視した。
「なんだ? 学校で嫌なことでもあったのか?」
「そうじゃないけど…」
もじもじと、ジーパンの上で組んだ手を動かしながら、友子は俯いた。
「…お父さんが仕事に行ける位の所に、私も一緒に住んだら、ご飯作る位は私ができるから、お父さんの食事代が楽になるし、お兄ちゃんや孝は男だから、お母さんもバス旅行も許してくれると思うから、お父さんや私に会いに来ることもできると思うんだ」
「でも、それじゃあ、お母さんがいいって言わないだろう。友子の体のために、こっちに居るんだから」
「だったら、お母さんも一緒に引っ越せばいいのよ。別の病院に変わるのなんて、私は全然構わないんだもん。ヒトの免疫機能は12歳前後で確立するんだ、って、この前テレビで言ってたし、この1年大きな発作も起きてないし―――日本中どこの病院行っても、貰う薬は同じじゃない」
「うーん…」
全くもって、その通りなのだが―――何度となく引越しを提案しているのに、毎回難色を示され続けている木戸は、この件を持ち出すのがやや億劫になってきている。また同じ言い合いを繰り返すのか、と思うとうんざりしてくるが……友子は、どうやら関東に移り住むことを希望しているらしい。子供に頼まれると、さすがの木戸も弱かった。
「まあ…、お父さんからもう一度、お母さんに話してみるから」
木戸が困ったようにそう言うと、友子はパッと顔を上げ、
「ホント?」
と目を輝かせた。
「年末年始でゴタゴタしたくないから、帰る前の晩にでも…な」
「うん」
木戸の返答に、友子はどことなくホッとしたような笑顔を見せた。その、緊張が解けたような顔を見て、木戸の親としての直感が働いた。
―――もしかしたら、友子は、何か気づいてるのかもしれんな…。
いや、そんなことはない、ただ友子は家族みんなで一緒に暮らしたいだけだ、父の健康を気遣ってくれているだけだ――― 一瞬浮かんだ可能性を全力で否定した木戸は、嫌な余韻を消そうと、カーラジオのスイッチを入れた。
***
一抹の不安と疑念を抱いたまま、年は明けた。
「向こうには、いつ挨拶に行くんだ?」
雑煮を食べながら木戸が訊ねる。
向こう、とは、妻の実家のことだ。日頃から行き来しているので、今更挨拶もあったものではないのだが、子供たちがお年玉を目当てにしていることもあるし、こちらも兄夫婦の子供にお年玉をあげなくてはいけない。一応、三が日のうちのいずれかの日に、家族全員で挨拶に行くことにしている。
「そうねぇ…元日はお参りに行くって言ってたから、明日か明後日かしらね」
「おれ、3日の日に、こうちゃんと遊ぶ約束してるんだ。おじいちゃんとこ行くの、明日にしてよ」
末っ子の孝がそう言うと、友子が隣に座る孝の肩を軽く小突いた。
「遊ぶって、どうせゲームでしょ。何時間もやる訳じゃないんだから」
「そうだけどー」
「こらこらこら。今年は孝のゲームより、お兄ちゃんを優先してやれ。一番忙しいんだろうから。豊はどうだ? 何か予定は入れてるか?」
「いや、別に」
やっぱり豊は口数が少なく、孝や友子がわいわいやる中で、黙々と雑煮を平らげていた。孝が通っている柔道道場の先生が7月についに結婚することになったことや、友子の友達に13歳違いの妹ができたことなどはわかったが、豊の近況はあまり話題に上らない。ようやく聞き出せたのは、期末試験の結果が思わしくなかったこと位だ。
「もうちょっと、あなたから厳しく言ってくれないと」
元日の夜、子供たちがそれぞれの部屋に引っ込んでしまった後のひと時に、妻がそんな愚痴を木戸にこぼした。
羊羹をつまみながらお茶を楽しんでいた木戸は、妻が何を厳しく言って欲しいのかわからず、「え?」という顔で向かいに座る妻の顔をキョトンと見た。
「何が?」
「何が、じゃないわよ。豊のことよ。孝と一緒に新春特番なんか最後まで見てたけど、あの子、受験生なのよ? 期末テストの結果も悪かったみたいだし、ノンビリ正月気分を味わってる場合じゃないでしょうに」
「でも、受ける高校のレベルは楽勝ラインだって言ってたじゃあないか。正月くらい、ノンビリ遊ばせてやりゃあいいだろうが」
「そんな甘いことを…。楽勝だって言っても、一番最近の試験で成績が落ちちゃってるんじゃあ、怪しいもんじゃないの」
「だから、ずーっと遊んでていいとは言っとらんだろう。正月三が日はノンビリ羽根を伸ばして、それから勉強を頑張りゃあいい、ってことだ」
「その三が日しか、あなたはいないじゃないですか。いる間にビシッと言って欲しいと言ってるんですよ」
「何も正月早々、ノンビリした気分に水をささなくても…。受験生にも、3日間位、勉強を忘れて十分リラックスする時間があったっていいだろう。こんな時に“4日からはきっちり勉強するんだぞ”なんて無粋なことを言うのはやめておこうや」
正月の3日間は、全てを忘れて冬休み気分を満喫させたい、という主義の木戸は、少しウンザリ気味な口調で妻にそう反論した。
すると妻は、不満そうな顔で大きなため息をつき、ぷい、とそっぽを向いた。
「…もうっ、あなたって人は、子供の面倒なことは全部私に丸投げで、ずるいんだから」
「……」
―――丸投げ? ずるい?
そんなことないぞ、と、さすがにムッとして眉をつり上げた木戸だったが、正月早々夫婦喧嘩なんて、子供に勉強勉強と口うるさく言う以上の無粋だ、とすぐに思い直し、反論の言葉をぐっと我慢した。木戸の無言をどう解釈したのか、妻はそっぽを向いたまま立ち上がり、台所かどこかへと消えてしまった。
この1年ほど、夫婦のすれ違いは続いている。
始めの頃こそ、主のいない家を不安に思い、木戸の帰宅を喜んでくれていた妻だったが、年を追う毎に、木戸のいない生活に慣れていってしまったのだろう。最近では、木戸本人でさえ、自分の帰りを疎ましく思っているのだな、と察せられるほど、妻の態度はそっけなくなってきている。
多分、きっかけは、長男の豊が中3になり、受験という現実的な問題が出てきたことだろう。やれ模試の結果が悪かっただの担任と進路相談をしなくちゃいけないだのと、あまり楽しくない学校関連のイベントが発生し、それが発生したその日に木戸が家にはおらず、遠く離れた東京でのんびり暮らしている(と妻は思っている)のが面白くないらしい。どこの家だって父親は働いてて家にはおらんぞ、と言ってみても「そういう問題じゃないのよ」と妻は言う。相談したい時に傍にいない、注意し叱るのはいつも自分の役目で、父である木戸はいいとこ取りばかりしている―――その状態自体が腹立たしいそうだ。
で、結局は、妻のフラストレーションは、実家へと向かう。前からその傾向はあったが、豊が中3になってからは特に、平日の日中は実家に入り浸ることが多くなったようだ。それに、金銭面でも両親を頼ることが多くなった。今乗っている車だって、両親からの援助で買い換えた物だ。「年金暮らしの親に援助してもらうなんて、恥ずかしいことはやめろ」と木戸は怒鳴ったのだが、「兄さん夫婦と同居してるから、両親揃ってお金が余ってるのよ。向こうから援助してやるって言ってきたんだから、いいじゃないの」と涼しい顔だ。実際に金があるかないかの問題じゃないんだ、と木戸は憤るが、実の娘である妻には、どうしても娘としての甘えがあるのだろう。遠く離れて家庭を持っていた時にはあった遠慮や自立心も、親の近くに戻ったことで、十年単位で退化してしまったようだ。
「あなたは家のことを私に任せっきりで、東京で勝手にやってるんだから」と妻はちょくちょく愚痴をこぼすが、木戸から言わせれば「お前は子供たちと毎日一緒に暮らせる上に、実家に頼りきってのうのうと暮らしてるんだから」だ。どちらにも一理あるし、どちらにも勝手な理屈が混じっている。お互いの主張は平行線のままだ。
つくづく、失敗だったと思う。
遠くの亭主より、近くの実家―――実家への依存が高くなるにつれ、木戸の一家の主としての存在感はどんどん低くなる。妻の依存気質はわかっていた筈なのに(逆にそういう妻だからこそ、頼られることに大きな意義を感じる木戸とは上手くいっていたのだが)、妻の弱音に同情して、実家近くに戻してしまうなんて……本当に、失敗だった。
いや、そもそも、離れて暮らしたこと自体が間違いだった。どんなに妻に請われても、友子が言うように、木戸が仕事を続けられるギリギリの範囲で、空気のおいしい静かな土地を見つけ、そこでみんなで暮らすべきだった。
『家族は、一緒に住まにゃあ、いかんです。絶対、一緒に住むべきです。離れてると、碌なことはありゃーしません。実に、実に、悲しい現実が待っとるんです』
同じアパートに住む、やはり夫・父という立場である海原に、思わず涙ぐんでそう力説した木戸であるが、あれは自分の経験から出た、心の叫びだ。
どんなに離れていても、愛があれば、上手くやっていける。自分が我慢さえすれば、全員が笑って暮らせる筈だ。…そう考えていた自分が、甘かった。
物理的な距離は、心の距離までも変えてしまう―――離れている距離と時間が、夫婦愛どころか家族愛すら削っていくものなのだ、ということを、木戸は最近、しみじみ実感していた。
***
翌日は、天気も良く風も穏やかだった。
妻の実家に挨拶に行く必要もあったが、それにしてはこの好天はあまりにもったいない。
「おじいちゃんおばあちゃんとこは明日にして、今日は日帰りでスキーにでも行くか」
と木戸が提案すると、子供たちは大いに喜んだ。息子2人は揃って木戸に似てスポーツ好きで、秋田に引っ越した年からすぐスキーを始めたため、スキーの腕前はなかなかのものになっているのだ。友子も、これまでは妻と一緒に雪だるまを作ったりそり滑りをする程度だったが、昨年からは板を履いてちょっとずつスキーの練習を始めている。
「お母さんも今年は私と一緒に滑れるね」
友子に合わせてスキーを遠慮していた母に、友子は笑顔でそう言ったが、妻は申し訳なさそうな笑みを浮かべ、首を振った。
「お母さん、風邪気味で、寒い所にはちょっと行かれそうにないわ。お母さんは留守番してるから、あんたたちだけ、お父さんに連れて行ってもらいなさい」
「おい、大丈夫か?」
風邪をひいているなんて、ちっとも気づかなかった。滅多にない家族揃っての外出を渋るほど体調が悪いのか、と心配して木戸が訊ねると、妻は珍しいほどにっこり微笑み、
「大丈夫よ。1日のんびり休めば、明日にはピンピンしてるから」
と答えた。
スキーがブームだった時は、冬休みのスキー場といえばうんざりするほどの渋滞を覚悟せざるを得なかったのだが、最近はスキーも人気が下降気味だ。朝早く出たこともあり、スキー場へは思いのほかすんなり到着することができた。
「そうそう、怖がらずに重心を右足にかけてー」
木戸より上達している豊はもっぱら友子のコーチ役を務め、木戸はちょうど危ない斜面にチャレンジしたがる時期である孝のおもり役を務めた。それにしても、子供の上達は早い。ほんの2時間あまりのうちに、孝のフォームがみるみる良くなっていくのを見て、俺もあの位の時にもっとスキーをやっていればなぁ、と残念に思った。
友子も少しは滑れるようになり、昼食後、やっと4人揃ってファミリーゲレンデを滑り始めたのだが―――そこで、ちょっとした事故が起きた。
「きゃーっ! ど、どいてー!!」
若い女性の悲鳴が背後から聞こえたと思ったら、一番端を滑っていた孝に、その声の主が後ろからぶつかった。
幸いぶつかった場所が良かったのと比較的緩い斜面だったため、孝は変な転び方をせずにすみ、スキー板の横にしりもちをつく形でストップしたのだが、運悪くぶつかった女性の持つストックが孝の額に当たってしまった。皮膚の薄い部分だからか、軽く切った額からは、女性が顔面蒼白になるほどの血が出てきてしまった。
「だっ…だ、大丈夫っ!?」
「大丈夫か、孝」
ぶつかってしまった女性がオロオロする中、木戸は自分のストックを捨て、急いで孝のもとに駆け寄った。
加害女性の動揺とは裏腹に、当の孝はケロリとしている。柔道なんてものをやっていると、この程度の怪我は、日常茶飯事なのだ。
「ちょっと痛いけど、平気だよ」
「あー…、ちょっと切ったなぁ。絆創膏貼っとかないと」
「すみませんっ!」
加害女性は、親子のすぐ傍に膝をつき、何度も何度も頭を下げた。
「本当に、本当に、すみませんっ。あ、あの…治療費、おいくら位払えばいいでしょうか」
「え? いや、いらんですよ、治療費なんて。大した怪我じゃないですから」
「でもっ! こ…こんなに血が…っ! ウェアーも血だらけで……あっ、く、クリーニング代も払いますっ」
「ああ…ちょっと汚れちゃいましたなぁ」
「あたしっ、しゅ、就職やっと内定取れたんですっ。ど、どうか穏便に…」
「……」
…どうやら、子供にちょっとでも怪我を負わせてしまうと、親が高額な慰謝料請求をしたり警察を呼んだり実家に怒鳴りこみに行ったりする、というイメージが、彼女の中には定着しているらしい。
実際、今の親の中には、やれ紫外線だやれ不潔な砂場だやれ食品添加物だ、と過敏に反応したり、自分の子供を他人が叱ると逆ギレして食ってかかるのが増えてきている、という話はテレビや新聞で何度か目にしたことがある。木戸の職場の同僚からも、自分の息子が幼稚園で喧嘩をしたら、相手の子供の親が「裁判で訴える」と言ってきて仰天した、なんて話も聞いたことがある。
―――どうも最近の親は過敏症でいかんなぁ。自分たちはもっと自由に育ってきて、実際無事に大人に成長しとるのに、なんで自分の子供にだけ極端な潔癖症になるんだ? そこまで言うなら無菌室に閉じ込めて家庭教師でもつけりゃあよかろうに。でも、そんな育て方したら、歪んだ大人しか出来んぞ。
と、他人事のように嘆いていた木戸だったが……まさか自分が、それらの特殊な親と同様に思われるとは。
「いや、本当に構わんですよ。気が済まないとおっしゃるんでしたら、えーと……クリーニング代だけいただけますか」
確かに、孝のウェアーは、元の色が白っぽかったせいもあって、かなり悲惨な状態になっている。何もいらん、とはねつけるとかえって不安を煽るだけと考えた木戸は、クリーニング代だけはありがたく頂戴し、何度も頭を下げる彼女に「大丈夫ですよ」と言っておいた。
その後、救護室で絆創膏を貰い、傷口の手当てはすぐに終わったのだが、孝のウェアーが血染め状態なので、到底このまま滑り続けるのは無理そうだった。友子も「疲れた」と言い出したので、予定よりかなり早いが、木戸一家はゲレンデを後にすることとした。
「お父さーん。お母さんいないよ」
車をガレージに入れ、木戸が玄関先に回りこむと、先に行って鍵を開けていた孝が、眉根を寄せてそう言った。
「いない?」
「うん。呼んだけど、返事ないもん」
「トイレにでも行ってるんじゃないか?」
スキー板を抱えて来た豊が、不審げにそう言う。が、実際に家に入って確認してみたところ、確かに妻の姿はなかった。
「具合が悪くて、病院にでも行ったのかな」
「バカ、正月2日から病院が開いてる訳ないだろ」
「じゃあ、ばあちゃんちかな」
息子2人が、そんなことを言い合って、心配げな顔をする。一方の友子は、少し心配そうな顔はしているものの、冷え切った部屋の方が気になるのか、テキパキと暖房を入れたりお湯を沸かしたりし始めた。その様子が、なんだか母がどこに行っているのかを察しているかのように一瞬見えて、木戸は慌てて頭を振った。
「…とりあえず、おじいちゃんたちの所かどうか、電話してみるか」
探さない訳にもいかないので、木戸がそう言って電話に向かいかけたその時、玄関でガチャガチャと鍵を開ける音がした。
顔を見合わせた家族4人が、バタバタと玄関に向かうと、靴を脱ぎ終えたところだった妻が、驚いたように目を大きく見開いた。
「え…っ、も、もう帰って来てたの?」
「―――どこに行ってたんだ、一体」
キョロキョロと家族の顔を見渡す妻に、さすがにムッとして木戸が不機嫌にそう訊ねる。すると妻は、一瞬動揺したように瞳を揺らした後、答えた。
「ご近所の友達の家に、新年の挨拶に行ってたのよ。1人で家にいても、暇だったんだもの」
「いくら暇でも、風邪気味だって聞いてたのにいきなり家から消えたら、みんな心配するだろうが」
「…だって、風邪の具合も良くなったんだもの。でも…悪かったわ。みんなに心配かけて」
さすがに悪いとは思っているらしく、妻は落ち込んだ様子でそう言い、子供たち1人1人に「ごめんね」と声をかけた。まあ無事でよかった、とその場は収まったのだが―――正直なところ、木戸の気持ちは、どうにも晴れなかった。
―――近所の友達って、一体誰のことを言っとるんだ、こいつは。正月の2日なんて、どこの家だって一家団欒の真っ只中だろうが。
嫌な予感がする。が、具体的にどういう予感がするのかは、木戸にもよくわからない。
ただ、なんだかこの件が、後ろにずれた運転席のシートの件と繋がっているような気がして―――木戸の心は、その日ずっと、乱れたままだった。
***
夜中に、突然、目が覚めた。
「…ううーん…」
寝苦しそうに呻いた木戸は、枕元のライトを点け、時計を確認した。午前1時ちょっと前―――スキー疲れで子供たちは早めに寝てしまい、木戸自身も気絶するように11時過ぎに床に就いた。ということは、眠ってから1時間半といった頃合だ。
なんだってこんな中途半端な時間に目が覚めたのか、と不審に思い、頭をボリボリ掻きながら体を起こした木戸は、その答えをほどなく見つけた。
隣の布団に寝ている筈の妻の姿が、なかったのだ。
「―――…」
普段なら、気にも留めない出来事だ。
水を飲みに行ったのかもしれないし、トイレに行きたくなったのかもしれない。小腹が空いて何かつまんでいる可能性だってある。だから普段なら、妻の行く先を確かめることなど考えつきもせず、また電気を消して寝入っていただろう。
でも、今日は、事情がいつもとは少々異なる。日中、あんなことがあった後だ。一体妻は何のために起き出したのだろう―――気になり始めると、どうにも落ち着かない気分になった。
1分ほど悩んだ末、木戸は起き上がり、布団の上にかけておいた部屋用の上着を肩にひっかけて、寝室を出た。
何故か足音をひそめ、何かの予感に引き寄せられるかのように、居間へと向かう。そして、その予感は的中していた。僅かに開いた居間と廊下を隔てる引き戸の隙間から、微かな明かりが漏れていたのだ。
居間からは、妻らしき声が、微かに聞こえる。漏れてくる明かりが電話の置かれている台の真上にある白熱灯のものであることを考え合わせると、どうやら妻は電話で話をしているらしい。ゴクリと唾を飲み込んだ木戸は、また一瞬、迷った。
―――やめとけ。こっそり立ち聞きなんて、家族の間で…夫婦の間でするべきじゃなかろうが。
いや、でも、深夜1時だぞ? こんな時間に電話だなんて、どう考えたって非常識だ。相手の家族にだって失礼になるんだ。誰とどんな話をしてるのか確かめて、一言注意をするのは当然なんじゃないか?
常識と非常識の狭間で暫し葛藤した木戸だったが、やはり疑念の方が「家族を信じましょう」なんて綺麗事を上回った。ぐっ、と拳を握り締めた木戸は、息を詰め、引き戸の隙間に耳を押し当てた。
「ホントに、無茶言ってごめんねぇ」
最初に聞こえたのは、妻の、妙に鼻にかかったような声だった。
「急なお願いで、びっくりしたでしょ? …ホント? やだ、嬉しいわぁ。……え? ああ、それは大丈夫よ。先生は何も心配しなくていいの」
―――先生?
先生って、誰だ??
眉をひそめる木戸をよそに、妻の意味不明な会話は更に続く。
「主人だって、東京で好き勝手、独身みたいに暮らしてるんですもの。最近帰ってくる回数も減ったし、きっと向こうにいい人でも出来たんじゃないかしら。……やっぱり? そうよねぇ、男の人って」
―――そうよねぇ、じゃないだろっ!!!!!
相手の先生とやらは、妻のバカな妄想に、肯定的な相槌でも打ったのだろうか。むかっ、と眉をつり上げた木戸は、握り締めた拳がプルプル震えてくるのを抑えられなかった。
「子供のこともやりくりのことも、ちっとも相談に乗ってくれなくて……でも、先生と話して、気が楽になったわ。ねぇ…、先生も、遠慮なく相談してくれていいのよ? 奥さんとのこと」
奥さん。
その一言で、木戸の拳の震えは、ピタリと止まった。
奥さんとのこと―――それは、つまり、電話の相手である“先生”と、その“奥さん”との間の、何らかのトラブルについて、ということに他ならない。つまり―――…。
「…やぁねえ、遠慮しちゃって。私とリョウちゃんの仲じゃないの。…それで、次、いつ会えるの? …主人? 主人なら、4日には東京に戻っちゃうわよ。…ああ…そうねぇ、冬休みは、ねぇ…」
そこまでが、限界だった。
よろけるように1歩、後ろにさがった木戸は、下りてきた時の倍の時間をかけて、寝室へと戻った。早く、早く―――急く気持ちとは裏腹に、その足はなかなか前には進まなかった。
―――…やっぱり。
やっぱり、立ち聞きなんて、するもんじゃあない。
疑いは、疑いのままでいるうちが花だ。それが事実になった瞬間から、逃げ場も希望も全てが失われてしまう。絶望を感じたくないなら、疑いは疑いのまま、そっとしておくのがいいのだ。
何故か後ろへずれていた運転席、さほど体調不良とも思えないのに家族での外出を断った妻、しかも家族の留守中に黙ってどこかへ出かけていた妻―――それらの事実が、今の電話を立ち聞きしたことで、1本の線で結ばれてしまったのだ。疑いは、既に疑いではなく、完全な事実となって目の前に突きつけられている。そして、突きつけられた事実は、疑っていた時の何倍も、木戸の心を苛んだ。
なんとか部屋に戻り、布団の中に潜り込んだ木戸は、体を丸めるようにして、必死に祈った。早く……一刻も早く、眠りが訪れないか、と。
けれど、妻が何食わぬ顔で戻って来て、やがてスースーと寝息を立て始めてもなお、木戸が眠りに落ちることはなかった。
***
「えーっ、もう帰っちゃうの?」
翌朝。予定より早く東京に戻ることを告げると、額に絆創膏を貼った孝が露骨にがっかりした声を上げた。
「なんで? なんで?」
「…いや、それが…工事現場で、ちょっと色々あったみたいでなぁ。今朝、携帯にメールが入ってたんだよ」
勿論、嘘だ。だが、そのメールを見せてみろ、などという疑り深い者はここにはいなかった。静かに落胆する豊と、何やら複雑な表情をする友子に挟まれて、孝だけが相変わらず不満を露わにしていた。
「まだおばあちゃんとこに行ってないのに」
「ああ…そうだなぁ。すまんなぁ。お母さんと4人で行ってきてくれ。お父さんは次帰ってきた時にでもご挨拶に行くから」
「次って、いつ?」
「うーん…まあ、なるべく毎週帰るようにするよ」
「あなた」
奥から妻が小走りに出てきて、木戸にボストンバッグを手渡した。
「洗濯したものと、いくつか作り置きを入れておきましたから」
「ああ、悪いな」
毎回、東京に戻る際には、妻の手料理をタッパーに詰めて持ち帰るようにしているのだ。今回の場合、急だったこともあって、恐らくはおせち料理の残りが大半だろう。
「駅まで送りますから」
エプロンを外しつつ、妻はそう言ったが、木戸は慌てて手で制し、
「いや、いい、いい。正月に食い過ぎたから、歩いて行くよ」
と断った。怪訝そうにしながらも、妻は、
「じゃあみんなで玄関で見送りましょ」
と子供たちを促した。
玄関先にゾロゾロと立ち並び、手を振って父を送り出す家族を振り返りながら、やはり予定どおりもう1日居るべきだったんじゃないか、と、早くも後悔が頭をもたげかける。が……その後悔を振り切り、木戸は笑顔で家族に手を振り返した。
―――やっぱり、冷静さを欠いとるなぁ…。
駅への道を、幾分遅めのスピードで歩きながら、木戸は大きなため息をついた。
家から徒歩15分ほどある駅まで、妻が「車で送って行く」と申し出るのは、別に今日に限った話ではない。よほど体調が悪かったり用事があったりしない限りは、ほぼ毎回そう言ってくれる。いつものことなのだ。
なのに―――いつものこと、である筈の妻の言動が、素直にそのまま受け取れない。まるで昨夜の電話の後ろめたさから、夫の機嫌を取ろうとしているかのように思えてしまう。勿論、妻は木戸に聞かれていたことなど知らないのだから、そんな筈もないのだが―――今の木戸には、こんな穿った見方しかできなくなっていた。
…情けない。
こんなにも家族を愛し、もっと多くの時間を共に過ごしたいと、心から願っているのに―――自分の方から予定を切り上げ、家族から逃げ出してしまうなんて。自分には何ひとつやましいことはないのだから、堂々と家に居ればいい話を、自分から家を出てしまうなんて。
けれど―――他に何ができただろう?
あんな電話を聞いてしまった後で、どんな顔をして妻の両親や兄夫婦に会えばいいのだ? 家族のために、1人、東京で孤独に耐え、生活費も切り詰め、自分が倒れては家計が成り立たない、と健康に人一倍気を配り―――そうやって必死に頑張っている自分を、あんな形でコケにされた後で、一体どんな顔ができるというのだろう?
今は、あの電話の相手が誰かを突き止める気力も、妻を問いただす気力も、木戸にはない。
ただ、早く……一刻も早く、1人になりたい。1人になって、冷静さを取り戻したい。
次の帰省は、去年以上に、気の重いものになりそうだな―――その予感に、木戸は再び、大きなため息をついた。
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