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― テリトリー ―

 

 お母さんてどんな人? と咲夜に訊かれた時、奏はこう答えた。

 『うーん…よく言えば“童心を忘れない人”で、悪く言えば“中年なのに中学生みたいな人”』

 勿論、照れも入っている。が、全くの嘘ではない。母は、いい歳していつまでも女子中学生みたいなキャピキャピしたところを持っている人なのだ。本当に。この年齢になった息子の色恋沙汰を「それで? それで?」とワクワクした顔で訊く母を見て、まさかこんな感じでティーンエイジャーたちの心の相談に乗ってるんだろうか、と不安になってくる。いや―――仕事となると、全く違う顔を見せることは、勿論、奏も知っているけれど。


 「でも、なぁんかやっぱり、緊張するよなー…」
 軽くため息をついてそう言う咲夜に、奏は思わず吹き出した。
 「ぜーんぜん緊張するような相手じゃないって。父さんも母さんも、気さくさに関しちゃ全英トップ10に入るんじゃないか、って位に気さくだから」
 「…そういう、個々のキャラのことじゃなくてさ」
 わかってないな、という顔で、咲夜は軽く隣を歩く奏を睨んだ。
 「奏にとっちゃどーだか知らないけど、私にとっちゃ初めてのことじゃん、こういうの」
 「こういうの?」
 「“彼氏の家族に会う”ってのが。奏だって、うちのバカ親父に会う、ってなことになりゃ、それなりに緊張すんじゃないの?」
 「……」
 それは―――まあ、確かに。というか、咲夜の父の場合、過去の経緯を咲夜から聞いてしまっているから、ただの「彼女の親」ということとはまた別次元で、会うのに結構な覚悟が要る。いざ彼と相対したら、正直すぎるこの顔は、許し難い敵と対峙しているかのような顔をしてしまいそうな気がして。
 「…でもお前、累には会ってるじゃん。あ、それを言うなら、オレだって亘に会ってるし」
 「“兄弟のみ”と“親含む”じゃ全然違うし、第一、それは付き合う前でしょうが。…不思議だよなぁ…。同じ人間なのに、“友達の家族”と“恋人の家族”では、なんでこう心構えが変わってくるんだろ? 変な感じ」


 という訳で、一宮家御一行様の、来日である。
 年明け4日の便を、しかも時田含め5名分だなんて、よく押さえられたな、とつくづく感心する。まあ、ハワイなどとは違い、この時期はヨーロッパも寒いから、年末年始をヨーロッパで過ごした人の帰国ラッシュ、なんてものも、考えるよりは少ないのかもしれないが。
 「親はいいとして、累に会う心構えも違うもん? 2度目なのに」
 「んー…、累君に、ていうか…」
 軽く眉根を寄せた咲夜は、ポツリと呟くように答えた。
 「累君の奥さんに、かな」
 「……」
 累の奥さん。
 それって、誰? …と、一瞬本気で首を傾げそうになって、慌てて首の角度を戻す。勿論、弟の累が結婚したことを忘れた訳でも、その相手を忘れた訳でもないのだが―――“奥さん”という慣れない響きが、いまひとつピンと来なかったのだ。
 累の妻・カレンのことは、簡単にではあるが、咲夜にも話したことがある。気さく、といえば聞こえがいいが、仕事を離れると年上にも敬語が抜け落ちたり、日本人同士なのに初対面でいきなりハグしたり、と、常識はずれと言われかねない奴である。あまりのぶっ飛びぶりに咲夜が困惑するのでは、と奏が心配することはあっても、咲夜がカレンと会うのに緊張することなど、何ひとつないように、奏には思える。
 「なんでカレンに緊張するんだよ? わかんねーなー」
 「…なんで、って言われると、困るんだけどさ。なんていうか…親や兄弟とは、ちょっと違うと思うんだよね。見る目が厳しそう」
 咲夜自身にも上手く説明がつかないらしく、首を捻った咲夜は、珍しく曖昧な答えを返した。そんなもんかねぇ、と、奏も咲夜に合わせるように首を捻った。

 長年、女性の多い業界で生きてきながら、奏はまだ、理解してはいなかった。
 自然界において、縄張り争いをするのは大抵オスの方だが―――女性にも、縄張り意識という本能が備わっているのだ、ということを。


***


 待ち合わせ場所として伝えておいた国際線到着ロビーには、何故か累1人の姿しかなかった。
 「あけましておめでとう」
 「…オイ、呑気に挨拶してる場合かよ」
 奏が突っ込みを入れると、累は「まあまあ」というように、困ったように笑った。
 「実は、母さんの荷物と郁の荷物が、まだ行方不明なんだ」
 「えっ」
 「で、父さんも加わって、3人で今荷物を探してる状態。誰かが間違って持って行ったんじゃなければ、もうすぐ見つかると思うけど。あ、カレンは化粧直しに行ってるから、すぐ戻るよ」
 「新年早々、幸先悪いなぁ…」
 ぶつぶつ言う奏の横で、咲夜はまだ、なんとなくキョロキョロ辺りを見回していた。そんな咲夜に気づいたのか、累が1歩歩み寄り、軽く咲夜の肩を叩いてくれた。
 「久しぶり」
 「あ…、どーも、久しぶり」
 咲夜が累と会うのは、累が仕事で日本に来た時以来だから、約10ヶ月ぶりである。あの時、咲夜が奏と見間違うほど奏と似た髪型だった累だが、今は一番長い毛先が肩に届きそうなほど、髪が伸びていた。
 こうして向き合ってみると、何故あの時奏と間違えられたのか、と思うほど、奏と累とではまるで見た目が違う。いや、勿論顔の造作は瓜二つではあるが、醸し出すムードというか、表情の作り方というか、あらゆる面で2人は対照的だ。会うのが2度目だから、その辺の違いを見分けられるようになったのかもしれないが―――もしかしたら、あの時とは、咲夜の立場も、また累の立場も変わったから、というのもあるかもしれない。
 「遅くなったけど、ご結婚、おめでとう」
 にんまり、と咲夜が笑って言うと、累は照れたような顔で、ハハハ、と笑った。
 「い、いやぁ、なんかまだ、実感湧かないんだけどね」
 「何言ってんの。結婚したの、半年も前じゃん」
 「そうなんだけど―――ホラ、僕や奏にとっては、カレンって妹みたいなものだったから。全く外にいた人が突然家族になった、っていう感覚とは、ちょっと違ってて」
 「奏―――…!!」
 累のセリフを遮るかのように、キン、と耳に響く高い声が、辺りに響き渡った。
 あまりの大声にギョッとして振り返ると、1人の女性が、ぶんぶん手を振りながらこちらに駆け寄ってくる姿が目に入った。
 ―――わお、バービー人形だ。
 リカが“リカちゃん人形”なら、駆け寄ってくる彼女は、まさに“バービー人形”―――見事な八頭身でスラリと脚が長く、その脚を強調するかのように、マイクロミニのスカートでラメ入りタイツを履いた脚を惜しげもなく晒している。肩までのウェービーヘアも、微妙にピンクがかったような栗色で、到底一般人には見えない。外国人もちらほら見かける空港の中でも、彼女の容姿は明らかに目立っていた。
 「おー、久しぶり」
 満面の笑みの彼女に、奏の方も笑顔になる。ああ、これが噂のカレンさんか、と、合点した咲夜だったが。
 「きゃーん、久しぶりぃ」
 さも当然のように、奏の首に両腕を回したカレンに、さすがの咲夜も「えっ」と目を丸くした。しかも―――事態は、単なるハグでは終わらなかった。
 これまた、さも当たり前といった風情で、カレンは背伸びをし、奏の唇にキスをしたのだ。それも、ただの欧米風挨拶とは到底言えないような、かなり本格的なキスを。

 「……」
 ―――…ええと。
 一体、これを、どう解釈しろと。

 奏自身も多少面食らったらしく、慌てたようにカレンの肩を押し戻した。
 「…っ、お、おいっ! 結婚したんなら、少しは自覚持てっつーの!」
 「えぇ〜、何よ、今更あたしと奏の仲で」
 ―――って、どんな仲ですか。
 不服そうに唇を尖らせるカレンを、半ば呆然と眺めていた咲夜は、複雑な心境で隣に立つ累に目を向けた。が、カレンの夫である筈の累は、しょうがないなぁ、という感じの苦笑を浮かべているだけで、さほど不愉快そうな顔はしていなかった。
 「……」
 「ん?」
 咲夜の視線を感じてか、累が咲夜を見下ろす。そして、自分を見る咲夜の目が、哀れなものを見るかのような、それでいて不可思議な生物でも見るような目であることに気づき、累の顔が僅かに引きつった。
 「あ……っ、ああ、ええと、ご、ごめん、カレンのやつ、ちょっと非常識なとこがあって」
 「…私に謝るより、累君が怒る方が先なんじゃないの、この場合」
 いくら相手が兄とはいえ(いや、むしろ、他人より家族の方が厄介な位だ)、目の前で、自分の妻が他の男にキスをしたのだ。咲夜の機嫌なんぞ心配している場合ではない気がする。累自身が大いに気分を害し、カレンなり奏なりを一喝してしかるべきなのだから。
 なのに、累は困ったような顔をして、「仕事の調子はどうだ」などと話を始めている奏とカレンの方を流し見た。
 「うん、そうは思うんだけど―――もう何年も経ったとはいえ、付き合ってたも同然な2人だから、何度もこういう場面目にしてきたしね」
 「―――は?」
 知らず、間の抜けた声を上げる。
 その、「何それ」といった感じの声音に、累の顔も「えっ」という表情に変わる。勿論、その表情の意味するところは、「知らなかったの?」である。
 「…ええと…、き、聞いてない? 奏から」
 「…一向に」
 「……あー…、ごめん」
 「つーか、よく結婚する気になったね」
 累の言う“付き合ってたも同然”がどの程度の関係なのかは、恋人になる前、過去の女性関係の話を忌憚なく聞かされてきた咲夜には、簡単に想像がつく。同じ“付き合ってたも同然”でも、あの叶財閥のお嬢様との交際とは、180度正反対な“お付き合い”だろう。
 「兄弟に裸まで知られてる相手と結婚なんて、私なら絶対無理」
 苦い表情で咲夜がそう呟くと、累の顔が、はっきりと引きつった。…どうやら、100パーセント平気な訳でもないらしい。
 「そ…そう言われると、自分でもちょっと引く、けど―――それも含めて、カレンだし、ね」
 「……」
 「カレンほどの子が、ずっと誰とも付き合わずにこられる訳がないし、それなら、人並みな嫉妬心を持ってる以上、誰かしらに嫉妬はすることになってたんだろうし。…まあ、その相手が奏だったのが、確かにちょっと辛いけど」
 そう言うと、累はホッと息をつき、苦笑を浮かべた。
 「でも―――カレンが奏とそういう付き合いしてたのは、僕のせいでもあるって、もう知ってるから。カレンは、出会ってから何年も、ずっと僕を好きでいてくれたのに、それに気づかなかったのは僕の責任だと思う。これも鈍感だった僕への天罰だと思って、耐えるしかないよね」
 「…今、初めて累君が神様に見えたよ」
 感心したような咲夜の言葉に、累は「またそんなオーバーな」と笑った。が、咲夜からすれば、ちっともオーバーな表現ではなかった。こいつは本物の神様かもしれない―――自分なら到底不可能な累の寛大さと割り切りのよさに、咲夜はつくづく感心したように、大きく息を吐いた。
 ―――にしても、あの態度って、どうよ?
 累から、少し離れた所でまだ何か話している2人に視線を移した咲夜は、思わず眉根をきつく寄せた。
 仕事の話をしているようだが、カレンは奏の片腕に抱きついたような格好でいる。その様子は、深い仲にあった同士の自然な態度、というより、誰かに向けて猛烈にアピールしているようにしか、咲夜には見えない。その“誰か”が、累なのか、それとも咲夜なのかは、こうして見ている限りはわからないけれど―――まあ、さしずめ、累の嫉妬心を煽りたいのか、もしくは新参者の咲夜に縄張りを主張しているかの、どちらかだろう。
 「累君」
 カレンにも聞こえるよう、わざと張りのある声で、累を呼ぶ。ん? と累が咲夜を見下ろすのと同時に、案の定、カレンの視線がこちらに突き刺さってきた。
 ポン、と累の肩に手を置いた咲夜は、にっこりと笑顔を作り、背伸びをした。あ、ほんの少しだけ、奏より背が低いかな―――などと頭の片隅で思いつつ、キョトンとしている累の頬に、軽く唇をつけた。

 「想像以上に、綺麗な奥さんじゃん。おめでと」

 ニッ、と口の端をつり上げてそう言い放った咲夜に、その場の空気が一瞬で凍りついた。

***

 結局、一宮夫妻と時田が現れたのは、それから約5分後だった。

 「ん? 何かあったのかい、この空気」
 辺りに漂う異様なムードに気づいた時田が、眉をひそめてその場の面々を見渡す。
 「…別に」
 完全に不機嫌な様子でそう言った奏は、抱いていた咲夜の肩を余計に引き寄せた。
 そんな2人から3メートルほどの距離を空けた所では、累の腕に両腕を絡ませたカレンがプイ、とそっぽを向いており、累が困り果てた顔をしている。ただ1人、咲夜だけが、慣れた様子で笑顔を作ってみせた。
 「あー、なんでもないんです。ちょっと喧嘩売られたから、気まぐれに買ってみただけですから」
 「買うなっつーの! 大人げない」
 斜め上から奏が怒りの突っ込みを入れたが、つい1分前、奏から八つ当たりを受けたばかりの累に、
 「…奏も結構大人気ないと思うけど」
 と冷たく突っ込まれ、一瞬で言葉に詰まってしまった。

 ―――まあね。私も大概、大人気ないとは思うけど。
 ああいう真似をすればカレンがキレるのはわかっていたのだから、大人ならば、売られた喧嘩も笑顔でスルーすべきだったのだろう。実際、累もそうしていたのだし。
 けれど、咲夜が累にキスをしたのは、カレンを懲らしめるため、というより―――実は、奏にお灸を据えるため、な訳で。
 あいも変わらず、変に鈍感というか、なんというか……いくら過去にそういう関係にあったからといって、片想いを貫いてついに累と結ばれたカレンが、ただの“習慣”で抱きついたりキスしたりすると、本気で信じているのだろうか? 咲夜にはビシビシ伝わるカレンの警戒心のオーラが、奏には全く感じ取れていない。そして―――ああいう場面を目の当たりにして、咲夜がどう感じるか、ということにも、考えが及んでいない。
 逆のことを咲夜にされれば、「お前っ、祝福のキスだからって、素直に受けるなよっ!」と、嫉妬心丸出しで累に八つ当たりする癖に―――まあそれは、「彼氏いる癖に、なに、人の旦那に勝手にキスしてんのよ、このブスッ!」と罵詈雑言を吐いたカレンも、似たりよったりだけれど。
 ともかく、2、3分のちょっとした小競り合いの中でわかったことは、カレンがあんな真似をしたのは、累にやきもちを焼いて欲しいからではなく、咲夜を意識してのこと―――この双子の兄弟の間における自分のポジションを、咲夜に見せつけるためだったらしい、ということだった。とはいえ、目的はなんとなくわかっても、何故そんなことをカレンが自分に対してするのか、咲夜にもいまひとつ理解できなかった。

 「なんかよくわからないけど、正月早々、揉め事はいただけないねぇ」
 ぽんぽん、と、双子の頭を連続で軽く叩いた時田は、苦笑を浮かべつつ、咲夜に右手を差し出した。
 「久しぶり。モデル撮影の件、快諾してくれて助かったよ」
 「いえいえ、とんでもない。世界的権威のあるカメラマンに撮ってもらうチャンスなんて、一般素人には二度とないですから」
 時田と握手を交わし、笑顔を見せた咲夜だったが、時田の背後に歩み寄ってきた人の気配に気づき、思わず視線をその人物の方に向けた。
 「……」
 近寄ってきたのは、一組の夫婦だった。
 男性の方は、明らかに東洋人と西洋人のハーフとわかる顔立ちで、ハンティング帽風の帽子から覗く髪には、幾分白いものが混じっている。帽子や品の良いツイードのジャケットのせいもあってか、全体的に、咲夜のイメージする「英国紳士」っぽいムードだ。
 そして、女性の方は、これまた明らかに東洋人オンリーの血だとわかる顔立ち―――優しい丸顔で、体型もふくよかな方だろう。聞いていた年齢よりずっと若々しく見える。あまり時田と似ているとは思えないが、時田も若く見える方だから、どこか共通項があるのかもしれない。
 ―――…この人が…。
 奏の生い立ちを知った時、一度、会って話してみたい、と強く感じた人物―――いくら血を分けているとはいえ、自分がおなかを痛めた訳ではない子を、これほど愛情豊かに育て上げた人物だ。
 「ごめんなさいねぇ。荷物トラブルでバタバタしちゃって」
 明るく笑う彼女に気づき、奏は慌てたように咲夜の肩から手を離した。「中年なのに中学生みたい」と母を表現した奏だ。こういう場面を見られて、キャーキャーとひやかされるのを嫌がったのかもしれないな、と、咲夜はくすっと笑った。
 「え…っと、あー、あれが、うちの両親」
 そりゃ見ればわかるよ、と言いたくなるような奏の紹介を受け、咲夜は奏の両親と向き合い、微笑を作った。
 「如月咲夜です」
 咲夜が軽く頭を下げると、父親の方が1歩前に出、帽子を取って片手を差し出した。
 「いや、どうも。新年早々、わざわざすみませんね」
 「いえ」
 紅茶とカンツォーネが趣味だ、と奏から聞かされているが、なるほど、歌を歌わせたらなかなか迫力がありそうだな、と思わせる、いい艶のあるテノールだ。彼の手を握り返しながら、咲夜は頭の中で、彼が歌う『帰れソレントへ』を無意識にイメージしていた。
 「僕は淳也で、彼女が妻の千里です」
 奏とは逆に、淳也は促すように妻の肩を引き寄せてみせた。咲夜の真正面に立った千里は、ニコリと微笑むと、何故か両手を差し出した。
 「はじめまして。一宮千里です」
 「…はじめまして」
 少々戸惑いながらも、そっと右手を差し出してみると、千里は咲夜の片手を、両手でしっかり包むようにして握手を交わした。
 千里の手は、見た目同様、ふっくらとふくよかだ。亡くなった母は、病気のせいもあって、華奢で壊れそうな手足をしていたっけ―――そんなことを頭の片隅で思った時、咲夜はふと、あることに気づいた。

 ―――そういえば…。
 そういえば、私、蛍子さんの手がどんな手か、知らないかも。

 今、“母”と呼んでいる人のことを思い出してしまい、咲夜は何故か、落ち着かない気分になった。
 「お待たせしちゃって、ごめんなさいね。あまりにも特徴のないスーツケースで来ちゃったもんだから、姉弟(きょうだい)揃って荷物が行方不明になっちゃったのよ」
 「郁夫君は旅慣れてる筈なのになぁ」
 「…普段なら、飛行機は手荷物1つですよ。かさばる荷物は別便でホテルに送っちゃいますからね」
 義兄に突っ込まれ、時田がちょっと言い訳がましく反論した。どうやら、時田ほどの人物であっても、姉夫婦の前ではいつまでも「しょうがない弟」扱いらしい。
 「ええと…それで、奏君。ここからはどう移動するんだったかな」
 ごほん、と咳払いをした時田が、奏に話を振る。この後、ホテルに荷物を一旦置き、予約した中華レストランで食事をする予定なのだ。
 「荷物もあるし人数も人数だから、タクシーに分乗しようか、ってことにしてる。万が一、はぐれたりしたら、カレンあたりはヤバそうだし」
 「ああ…そりゃそうだなぁ。全然帰ってきてないんだろう?」
 「ぜーんぜん。帰ってくる理由もないもの」
 時田に確認され、カレンは累の腕に抱きついたまま、そう言って肩を竦めた。確か、カレンの両親は既に他界し親戚筋とも音信不通状態、と奏から聞いた覚えがある。両親の墓について永代供養でも寺に頼んでいるのだとすれば、心情的なものを抜きにすると、確かにカレンが日本に帰国する理由は何もないのかもしれない。
 「じゃ、全員揃ったことだし、さっそく移動するか」
 なんとなく時田が音頭を取る形になり、累やカレンも、床に置いていた荷物を持ち、動き出した。咲夜も、7人の中では一番後ろになる形で歩き出した。が―――その時、誰かが咲夜の頭を、ポン、と叩いた。
 「?」
 眉をひそめ、振り向いた咲夜は、そこに思いがけない人物を見つけ、大きく目を見開いた。
 「た……拓海!?」
 「よ。ただいま」
 ニッ、と笑った拓海は、かなり乱暴に、ガシガシと咲夜の頭を撫でた。なんで拓海がここに? と一瞬混乱した咲夜だったが、ふと、佐倉のことを思い出し、拓海の手を押しやりながら拓海を見上げた。
 「もしかして、アメリカ帰り?」
 「そのとおり。新年は、ハービー・ハンコックのメドレーと共に迎えたぞ。オールナイトで疲れた疲れた」
 「…相変わらず、しんどい仕事が好きだよね」
 単独ライブより、ジャズ仲間と長時間わいわいとライブをやるのが好きな拓海だから、渡米した時は大抵、この手のオールナイトライブを1回はやるらしい。国内でやった時に1度だけ聴きに行ったことがあるが、咲夜や一成から見たら雲の上の存在の、ピンでも十分やっていけるジャズ・メンが、まるで学生ライブのノリでがんがん演奏するのを見て、半ば呆れ、半ば感動を覚えたものだ。
 「お前もこの年末年始は“Boogaloo House”だったろうが。上手くいったのか?」
 「勿論」
 「そりゃ結構。…で、なんで空港になんかいるんだ? 珍しい」
 「あ…、」
 少し遅れて歩き出したので、他の人々には気づかなかったらしい。奏の家族のことを説明しようとした、その時、ぐわん、と咲夜の体が大きく傾いだ。
 「っとおおおおおおっ!」
 「どーも、お久しぶりです」
 咲夜がひっくり返りそうな勢いで、咲夜の肩をぐい、と抱き寄せた奏が、辺りに響き渡りそうな大声で拓海に挨拶し、サングラスを外した。
 咲夜の位置からでは全然見えないが、肩に食い込む指の強さだけでも、醸し出している対決モードのオーラは十分伝わってくる。ギョッとした咲夜は、慌ててフォローに入ろうとしたが、そんな猶予はまるでなかった。
 「おー、なんだ、いたのか、一宮君」
 「そりゃあ、いるでしょ。オレの家族の出迎えなんだから」
 「家族?」
 遅ればせながら、少し先で立ち止まり、何事かとこちらを見ている団体に気づいた拓海は、首を伸ばし、その面々の顔を順に見た。誰だろう、という顔をしつつも、バラバラに会釈する彼らに、拓海も営業スマイルで深々と頭を下げる。そして奏の顔を流し見て、楽しげに言った。
 「へー、万国博覧会みたいな家族で、面白いな」
 ―――拓海…。
 なんでそういう微妙なラインを狙った発言をするかな―――頭を抱えたい気分でため息をついた咲夜だったが、そう言えば自分もその手の発言が多いかもしれない、と、チラリと思った。
 「もしかして、俺も挨拶した方がいい?」
 拓海に問われ、咲夜は慌ててぶんぶん首を振った。
 「い、いい。てか、やめて。拓海まで出てきたら、大ごとになる上に、ややこしくなるじゃん」
 「…ま、そうだな」
 「オレの家族より、年末ほったらかした佐倉さんにフォロー入れる方が先だろ」
 奏が言うと、拓海は軽く眉を上げ、挑発的に笑った。
 「一宮君のご高説を賜るまでもなく、これから年末の穴埋めするところだよ」
 「そりゃ余計なお世話で申し訳なかったデスネ」
 「ハハ、いいねぇ、その挑戦的な棒読み」
 そう言うと、拓海は肩に荷物を掛け直し、咲夜の方に目を向けた。
 「じゃ、あんまり足止めさせてもまずそうだし、もう行くから。またな」
 「うん」
 頷き、そのまま拓海を見送ろうとした咲夜だったが、
 「あ……、拓海!」
 「ん?」
 歩き出そうとして、呼び止められた拓海は、首を傾げるようにして振り返った。
 「あの、蛍子さ―――お母さん、に、一度連絡してやってよ。…クリスマス前、連絡したら、ちょっと心配してた。まるっきり音信不通なもんだから」
 後半になるにつれ、なんだか口調が言い訳がましくなるのが、自分でもわかる。案の定、拓海は少し意外そうに目を丸くした。
 「珍しいなぁ、お前がそんなこと言うの」
 「…まあ、いいじゃん」
 さっき、千里と握手をして、何故か彼女のことを思い出したから―――継母が弟を心配していたのは本当のことだが、つい数分前の出来事がなければ、きっとこんなことを拓海に言うこともなかっただろう。でも、その事実を拓海に明かすのは、なんだか気がひけた。
 だが、ありがたいことに、拓海はそれ以上、この件に突っ込んではこなかった。
 「わかった。電話入れとくよ」
 そう言い残し、拓海は軽く手を振り、歩き去った。足を止めている形になる一宮家一同を追い越す時、もう一度会釈しながら。

 お待たせしました、と頭を下げつつ奏と咲夜が合流すると、一家は再びタクシー乗り場へと動き出した。
 「どなた? さっきの方」
 ちょうど隣を歩く形になった千里が、小声で咲夜に訊ねた。やっぱり紹介するべきだったんだろうか、と少し後悔する。
 「叔父です。ちょうどアメリカに行ってて、偶然さっき帰ってきたみたいで」
 すると千里は、納得したような顔になり、2、3度頷いた。
 「ああ、叔父様だったの! じゃあ、咲夜さんと似てるのも道理ね」
 「え?」
 「遠目だったけど、顔かたちがどう、っていうより、なんだかムードがとても似てたから」
 「……」
 顔の筋肉が強張るのが、自分でもわかる。
 そんな風に納得されてしまうほど、自分たちは似ているのだろうか―――複雑な心境に、咲夜は苦笑を浮かべた。
 「いえ、叔父といっても、父の再婚相手の弟なんで…血は、繋がってないんです」
 「あら」
 予想外な話だったのだろう。千里が、ちょっと申し訳なさそうな顔をした。
 「ごめんなさいね、勘違いして。…でも、咲夜さんのお母さんも、再婚された方も、どちらもお父様が選ばれた女性だから、もしかしたらどこか似た部分があるのかもしれないわねぇ」
 「…どうかなあ…」
 外見は、あまり似ていない気がするが―――拓海とは、初対面の時から、なんだか他人とは違う親近感があった。蛍子にはそれを感じられなかったが、もしかしたら千里が言うように、麻生家のDNAの中に、他界した母との共通項が何かしら含まれていて、それにシンパシーを感じたのかもしれない。
 そんなことを考えていた咲夜は、ふと視線を感じ、目をその方向に向けた。
 見ると、累と腕を組んでいるカレンが、なんとも不思議な目をして、こちらを見ていた。咲夜と目が合うと、動揺したような表情になり、慌てて前を向いてしまったが。
 そして、もう1人―――視線こそこちらには向いていないが、斜め前を歩く奏の意識がこちらに向いていることを、咲夜は痛いほど感じた。そして何故、それほど咲夜と千里の会話に意識が向いているのか……その理由も。

 最近、時々、思う。
 もし、奏を好きになると、最初からわかっていれば―――多分、拓海のことを、奏には話さなかっただろうな、と。
 一番信用している人だからこそ、話せることもある。けれど……一番好きな人だからこそ、知られたくないこともある。きっとこの瞬間も、拓海の存在は奏を不安がらせているのだろう、と考え、咲夜は小さくため息をついた。

***

 「カレンのこと、今日だけは、大目に見てやってね」
 千里がポツリと呟いた言葉に、咲夜は少し目を丸くし、彼女の横顔を見つめた。
 1台のタクシーに7人も乗れないので、3人・2人・2人という、少々贅沢な分け方になり、咲夜は千里と一緒になった。別に自ら希望した訳ではなく、新婚である累とカレンを2人きり1台にしてやり、残った5人を男女で分けただけなのだが、千里と話がしてみたい、と思っていた咲夜にはありがたい展開だ。
 …にしても、いきなりカレンのことを出されるとは、予想外。怪訝そうな顔をする咲夜に、千里は目を向け、くすっと笑った。
 「前からちょくちょくうちに来てたし、この半年は一緒に暮らしてるから、カレンの性格は、いいところも悪いところも、大体把握しているつもりよ。だから、さっきの空気で、私たちが来る前に何があったか、なんとなくわかるの」
 「…はあ…」
 「カレンは、あなたを脅威に感じたのよ」
 ―――脅威?
 ぱちっ、と目を見開く咲夜に、千里は苦い笑みを浮かべた。
 「全てを日本に捨ててきたカレンにとって、奏と累は、ずっと唯一の“居場所”だったから―――その“居場所”を侵されるんじゃないか、って、あなたを警戒してるの」
 「…いや、でも…カレンは、累君と結婚したんだし」
 「ふふ、そうよね。第一、奏はカレンの恋愛対象じゃないし、今は離れて暮らしているんだから何の影響もない筈なのに、一度“居場所”と認識した場所に“恋”っていう強大なパワーを持った存在が現れると、警戒せずにはいられないのよ。そう…ちょうど、野生の動物が持ち合わせている“縄張り意識”みたいなものね」
 縄張り意識。
 その単語に、咲夜はストン、と納得がいくのを感じた。ああ―――自分がカレンに会う前に覚えた嫌な予感は、これだったんだ、と。
 ドラマなどにもよく出てくる、小姑の存在。兄や弟という、自分の恋愛対象ではない男性であるにも関わらず、その兄弟が選んだ女性に対して、何故か敵愾心を抱く姉や妹、というのは、世の中にままある図式だ。恋人ができたからといって、自分たちのきょうだい関係が変わる訳ではないのに、何故か「取られる」という焦りを覚え、嫉妬する―――奏はカレンの実の兄ではないが、カレンが“居場所”と認識していた存在だ。きっと、感じる嫉妬は、姉妹のそれに近いのだろう。
 「もしかしたら、自然界で縄張りを主張する場面の多い男性よりも、むしろ、安定を好むとされる女性にこそ、長年変わることのなかった家族の中に小石が投げ込まれるのを嫌う、そんな本能があるのかもしれないわねぇ…」
 ふぅ、とため息をついた千里は、シートに深く座り直し、前の座席越しに、フロントガラスの向こうに目をやった。
 「私自身にも、そういう部分があったのかもしれない」
 「…えっ」
 「郁夫が、サラを連れてきた時」
 前触れもなく飛び出した名前に、ドキン、と心臓が跳ねた。
 サラ―――奏と累の実の母、サラ・ヴィット。千里が何の説明もなくこの名前を口にした、ということは、既に奏から「咲夜には話してある」と伝えられているのだろう。
 「もしあれが、郁夫じゃなく、ただの友人や知人であったなら……私ももう少し、冷静に対処できたのかもしれない。…そんなことを、奏に彼女が出来たと知って動揺しているカレンを見て、最近、そう思うようになったの」
 「……」
 「可哀想なことしたわ。今になって考えると」

 ―――可哀想…?
 奏や累君を捨てた人が? ううん、それだけじゃなく、時田さんを―――弟を捨てた人が?

 僅かに逡巡した後、咲夜は思い切って切り出した。
 「あの、1つ、訊いてもいいですか」
 前を見つめていた千里は、少し驚いたように目を丸くしつつも、咲夜に目を向け、微笑んだ。
 「いいわよ? なあに?」
 「…奏の生い立ちを聞いた時、不思議だったんです。千里さんは何故、実の子ではない2人を、あんなに愛情豊かに育てられたのかな、って」
 累については、よくわからない。まだ深くその人となりを知らないから。でも、奏は―――奏という人間を見ていれば、彼がどれほど親の愛情を受けて育ったかが、よくわかる。彼には、100パーセントの信頼を置くことのできる“居場所”がある。家族を信じ、親の愛を信じ、自分は守られているのだと信じてきたからこそ、あんなに真っ直ぐに育っているのだろう。そんな風に家族を信じられたのは、間違いなく、千里や淳也が本物の愛を持って子供を育てていたからだ。
 「血を分けた実の親子でも、親の愛を疑うことだって少なくないのに―――何故、奏や累君を愛することができたのかな、って」
 「……そうねぇ……」
 くすぐったそうな笑顔を見せた千里は、息をつきつつ、ちょっと考えるような目をした。そして、ぽつりと―――本当に呟くように、答えた。
 「―――実の子ではないから、かもしれないわね」
 「…えっ…」
 「産んでないからこそ、愛情を持って育てられた。……なぁんて言ったら、世界中の母親から非難轟々かしらね」
 ふふふっ、と悪戯っぽく笑うと、千里は、戸惑った顔をする咲夜の目を見つめた。
 「子供は親のもの、親の付属物、親に従って、親が躾けて、親が導いてやって当たり前―――極論を言えば、そういう過ちに陥ってしまうのは、“自分が産んだ子だから”という過剰な自負のせいかもしれない。文字どおり“身を分けた”んですものね。子供を、自分とは無関係な個体として見ることが難しくなる―――そんな風に、思ったことはない?」
 「……」
 怪訝そうだった咲夜の目が、次第に変わる。
 咲夜の抱える過去の痛みと、嫌になるほどリンクする言葉。子は親の付属物―――咲夜の気持ちも考えず、母の死後間もなく再婚を決め、有無を言わさず新しい家庭へと咲夜を引っ張り込んだ父は、多分そう信じている親の1人だろう。子供は親の都合に従って当たり前……父の前では、咲夜は意思を持った1人の人間ではなかった。少なくとも、あの時は。
 「でもね。それが“産んでない立場だからこそ言える傲慢”でもあると、私自身、わかってるの」
 千里の言葉に大きく共感していた咲夜は、次の瞬間、いきなりそう言われて、キョトンと目を丸くした。
 「傲慢?」
 「そ、傲慢。言い換えるなら、“自分を慰めるための言い訳”―――どう頑張っても、遺伝子上の母親にはなれない自分を、そうやって励ましてるの。結局、理屈を超えた血の繋がりには勝てないのかもしれない―――そんな不安を誤魔化すためにね」
 「…私には、理屈を超えた血の繋がり、なんて言葉の方がよっぽど、“産んだ立場だから言える傲慢”だと思えますけど」
 「そうねぇ…。それも多分、傲慢ね」
 咲夜の言葉に大きく頷いた千里は、そこで言葉を切り、目を伏せた。そして、暫しの沈黙の後、静かに口を開いた。
 「―――私は、まだ世間知らずの子供だった頃に起こした過ちで、二度と子供が授からない体でね」
 「…え、」
 「その全てを知った上で、淳也は私を選んでくれた。…心から幸せだと思ったわ。けれど…その幸せには、“愛する人の子供を産むことができない”っていう葛藤が伴っていたの」
 「……」
 それは―――さぞかし、辛い思いだっただろう。咲夜にはまだ実感できない類の葛藤だが、その辛さは、物理的にどうすることもできない、とわかっているからこそ、一度陥ってしまうと抜け出すのが難しそうな気がする。
 「…人間って、弱いわね。いくら淳也が“2人だけの人生でいい”と言ってくれても、負い目や後悔が、その言葉を否定してしまうの。世界中の健康な女性を妬んだし、人の幸せが棘みたいに胸に刺さった―――精神医学の道を選んだことを、後悔してたわ。悩める人を救う仕事に就こうとしている自分が、罪のない他人を妬んだり憎んだりしているんですもの。私にその資格はない、私はカウンセラーになれる器じゃない。…そんな風に、毎日思ってた」
 そう言ってため息をつくと、千里は目を上げ、薄く微笑んだ。
 「ちょうどそんな時、郁夫がサラを連れてきたの」
 「……」
 「両親や兄に酷い言葉を浴びせられた時も、最後まで私を庇ってくれた、大事な弟なのに―――私は、郁夫とサラの間に生まれる子供を、祝福する気持ちになれなかったの。赤の他人じゃなく、郁夫っていう、私のテリトリー内の問題だったから、余計にね。天涯孤独で、しかもあんな若くして突然妊娠してしまったサラの不安は、ちゃんとわかっていた筈なのに……サラと向き合う勇気が持てなかった。なんでも相談してね、と口では言い、郁夫にも気遣ったようなことを何度も言ったけれど、サラのことは、まだ若い未熟な郁夫に全てを預けて、逃げてしまった。…その結果が、これよ」

 『可哀想なことをしたわ』

 ついさっき、千里が口にした言葉が、脳裏に浮かぶ。あれは、そういう意味だったのか―――千里の苦い後悔の意味が、咲夜にもなんとなく理解できた。
 「でもね、初めて奏と累に会った時―――理屈なく“可愛い”と思えたの。一度は女として妬み、今また弟を裏切った女として憎みもした人の子供なのに、ね。母を失くして、頼りなくベッドに寝そべっている子供が、天使みたいに見えた。…育てたい、って、何の疑問も持たず、自然にそう思ったわ。そして、淳也もそう思ってくれた。…不思議ね。運命だったのかしら」
 くすっ、と笑い、千里は懐かしむように目を細めた。
 「“子を育てる者である自分”と、“生物学的な母にはなれない自分”の狭間で、今も葛藤することはあるわ。カウンセラーなんて仕事をやってるけど、ちっとも人格者でもなければ人間が出来てる訳でもない。サラに対する嫉妬もあるし、醜い親のエゴだってやっぱり持ってる。ただ……唯一、自信を持って言えるのは、私は一度たりとも“育ててあげている”と思ったことはない、ってこと。“育てさせてもらっている”―――本当にそう感じてたのよ。毎日毎日ね」
 「…“育てさせてもらっている”…、か」

 愛、というよりは、感謝の念なのか。
 確かに、千里の言うとおり、「実の親子じゃないから」と言えるのかもしれない。極当たり前の経緯をたどった親子では感じ得ないものを感じたからこそ、実の親子では成し得ない信頼関係を築けた部分もあるのだろうから。
 羨ましい―――実の親子であるのに、その間に信頼関係など何ひとつない自分を振り返ると、そう思わずにはいられない。

 「羨ましいです。奏が」
 感じたまま、咲夜がそう言うと、千里は少し意外そうな顔をした。が、何かに思い至ったのか、ふわりと柔らかく微笑んだ。
 「そこまで素直に羨ましがってもらえるほど、奏が立派な人間に育ってくれたかどうか、自信はないけどね」
 「十分、立派ですよ」
 「あら、そう?」
 ええ、と頷いた咲夜は、ニッ、と笑ってみせた。
 「バカで単純でどうしようもないとこもあるけど、そんなところにすら、救われてます。いつも」
 「…そう。よかった」
 「…でも、すみません。こんなところで、随分踏み込んだ話をさせちゃって」
 閉じられた空間とはいえ、運転手もいるのだから、一応「人前」だ。今更ながらに運転手の存在が気になり、咲夜が恐縮したようにそう言うと、千里は全く気にしない様子で笑った。
 「まあ、そんなこと気にしなくていいのよ。カウンセラーもタクシーの運転手さんも同じ―――この中で見聞きしたことは、ドアが閉まると同時に忘れるのが、本物のプロよ。そうでしょ?」
 ミラー越しに千里が運転手にそう問いかける。鏡に映った人のよさそうな初老の運転手は、そんな千里に、心得たような苦笑を返してみせた。


***


 「さっきの、咲夜ちゃんの叔父さん」
 後ろの席から聞こえた時田の言葉に、助手席の奏の眉が、ピクリと動いた。
 何だよ、という目で振り返ると、時田はどことなくこの状況を楽しんでいるような顔をしていた。といっても、それは単なる奏の被害妄想かもしれないが。
 「なんか訳アリっぽかったけど、あの人と奏君の間で、何かあったのかい?」
 「…なんだよ、訳アリっぽい、って。さっきのやり取りのどの辺が訳アリっぽいんだよ」
 「いや、別に話してた内容は、とりたてて奇妙でもなかったけどね、」
 そう言って、時田はニヤリと笑い、奏の目を見据えた。
 「彼の存在に気づいた途端、奏君が放ってるオーラが、一気に変わったからね」
 「オーラ?」
 「縄張りの境界線踏み越えてきたライバルを、全身の毛逆立てて威嚇してるライオンみたいだった」
 「……」
 ―――なんつー喩えだよ。
 でも実際、時田の目にはそんな風に映ったのだろう。ただでさえ正直すぎるこの顔だ。人を見る目の鋭い時田だけじゃなく、他の連中にもバレてしまったのかもしれない。そう考えると、少々憂鬱だ。
 「別に、訳アリでも何でもねーよっ」
 「そう? だったら、別にいいけどね」
 「でも僕は、一言挨拶しておきたかったなぁ」
 あっさり引いた時田の隣で、何故か父が、しみじみそう言ってため息をついた。
 「なんで父さんが?」
 「だって、あの様子だと、血の繋がらないとはいえ、随分親しくしている親戚なんだろう? この先、長い付き合いになる可能性もあるんだから、親御さんに会うのはオーバーにしても、咲夜ちゃんに近しい親戚なら、一言ご挨拶しておけばよかったかもなぁ…」
 「長い付き合い、って…」
 「お前ももう28だし、そう遠くない将来、“結婚”なんて話になっても、ちっとも不思議じゃないだろう?」
 当然、といった口調で父が放った一言に、奏はギョッとしたように目を見開き、思わず上半身全体で後ろを振り返ってしまった。
 「な……っ、じょ、冗談! まだそんな話の出る段階じゃないって!」
 「いや、だから“そう遠くない将来”って話だよ。父さんはともかく、母さんはそうそう日本に来られるチャンスもないんだし、この機会を逃したら次いつ挨拶できるか」
 「いいって! もしそういうことがあっても、あいつじゃなく、向こうの親にさえ挨拶すりゃあいいんだし!」
 ―――いや、実際には、完全決裂してる親父さんなんかより麻生さんの方が、咲夜の保護者っぽかったりするんだけど。
 理性の部分ではわかっていても、奏の感情が、どうしても拓海完全拒否の方向へと走らせてしまう。情けない―――過剰反応してしまう自分に、また自分で呆れてしまう。その苦い思いを誤魔化すかのようにくるっと前を向き、奏は口を尖らせた。
 「…第一、“そう遠くない将来”なんて言えるほど、そういう話が現実的にも思えないし。まだ1本、モデルの仕事が残ってるけど、それが片付けば完全にメイク1本で生きてく訳だろ? 腕だってまだまだのオレが、ちゃんとメイク1本で食っていけるだけの仕事がやれるのか―――そこの見通しが立たないと、“結婚”なんて責任のある言葉、口にできないよ」
 「奏君にしては、随分と慎重だなぁ。モデルで稼いだ分の蓄えがあれば、そんなに心配はないだろうに」
 「……」
 呑気にそんな口を挟む時田を、一瞬、振り返って睨みつけてやろうか、と考える。が…、やめておいた。
 まさか、本人を目の前にして、しかも父もいるこの場で、言う訳にもいかないだろう。「生活力もないのに軽々しく結婚なんて単語を口にする奴と一緒にするな」―――なんて。
 「まあ、慎重になることは、悪いことじゃないよ、郁夫君。特に奏は、感情に流されやすいのが心配なところだったからね」
 「…どーせ直情径行タイプですよ」
 苦笑しつつフォローを入れた父に、不服そうに返す。まあまあ、と宥めるように言った父は、続けてこうも言った。
 「でも、正直、僕も千里も嬉しいんだよ」
 「……」
 嬉しい?
 突如出てきた単語に、奏は思わず振り返り、眉をひそめた。すると父は、どことなく感慨めいたものを滲ませた笑みを浮かべた。
 「これまで、奏が付き合った女の子は何人もいたけど、家族に紹介してくれたことは1度もなかっただろう? きっと奏にとって、相手の子はその程度の存在なんだろうな、って、僕たちも思ってた。奏が僕らに紹介してくれた人こそが、奏が本当の意味で自分の内側に入ることを許した相手なんだろう、ってね」
 「……」
 「この先、彼女との仲がどんな方向に進むにしても―――奏にそんな相手が現れたことは、とても嬉しいことだよ」
 確かに―――それは、間違いなく、父の言うとおりだ。ふっと笑った奏は、再び前を向き、前を走る咲夜と母の乗ったタクシーに目を向けた。


 ―――わかっている。
 父が言う以上に、わかっている。直感的に確信している。多分咲夜との恋愛は、単なる一時的な付き合いで終わるものではない、ということは。
 だから、咲夜と本格的に付き合うようになって以来、時折、結婚という2文字が頭を掠めるのも事実で。
 でも、安易にその2文字が頭を掠める理由は―――父も、時田も、多分想像できていないだろう。奏だけが知る、誰にも知られたくない理由なのだから。

 もし、結婚すれば。
 咲夜を「恋人」ではなく「伴侶」という場所に置けば―――それができれば、今抱えているこの不安も、この焦燥も、感じなくて済むようになるのかもしれない、と考えている、自分がいる。
 何も焦る必要はないのに、自分の仕事の状況を考えれば、むしろ慎重に責任を持って臨むべき問題だというのに、時折感情に任せて突っ走ることを考えてしまう。そうなってしまう原因は、ただ1つ―――拓海だ。
 ―――バカだよな。麻生さんにはもう、佐倉さんがいるのに。色々挑発的なことを言ってくるのだって、単にオレをからかってるだけだって、ちゃんと頭ではわかってるのに。
 わかっていても、拓海の存在を感じるたび、咲夜を腕を掴み、必死に自分の領域に縛り付けたくなってしまう。あの日―――行くな、と引き止める奏の手を振り解き、拓海のために走っていった咲夜を思い出して、不安に駆られてしまうから。

 咲夜と拓海の関係など、知らない方が、幸せだったのかもしれない―――そんな風に思ってしまう自分が、奏は、たまらなく嫌だった。
 情けない―――再び感じた自己嫌悪に、奏は、膝の上に置いた拳を、きつく握り締めた。


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