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― 愛 need you ―

 

 「おはよーございます如月さん! 今日もお勤めご苦労様です!」
 「……」

 ―――出た。
 出たよ。久々に。

 二度と湧いて出ることもなかろうと思っていたのに、またこの顔を見る日が来ることになろうとは―――今日も1日頑張るぞ、と思っていた咲夜は、そのやる気が音を立てて引いていくのを感じた。
 が、今の咲夜は、数ヶ月前とは違い、多少なりともこの男に対する免疫がついている。
 「It don’t mean a thing if it ain’t got that swing...」
 男の存在など完全無視で、車へと向かいながら鼻歌まで歌えてしまうのだ。それでも奴は、めげることなく咲夜の後を追ってきた。
 「外回りですか。コーヒーの配達? あの、よろしかったらですね、わたくしめを助手席に乗せていただいて、」
 「Do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a!」
 思わず力の入った最後の1音とともに、運転席のドアを力任せに開けた咲夜は、冷ややかな目を男に向けた。
 「社外の人間を乗せる訳にはいきませんので」
 「じゃ、5分! たった5分で構いませんから、お時間を」
 「アポイントの時間があるので失礼します」
 この男にとっても今は仕事中だろうが、咲夜だって仕事の真っ最中なのを忘れないで欲しい。咲夜は、まだ何か言おうと口を開く男の鼻先でドアを閉め、シートベルトをやや乱暴に引っ張った。
 それでもなおめげない男は、運転席の窓にベッタリ手のひらをくっつけて、まだ叫んでいた。
 「けどですねー! これから先、どうするんですか! 貼り紙見ましたよ、3月いっぱいで終わりでしょ!? あなたに今必要なのは、安定した後ろ盾と優秀なマネージャーだと思いますけどねー!」

 …こういう無茶なスカウトをする会社が、安定した後ろ盾、ときましたか。

 なまじ、業界でそこそこの地位を築いているから、余計たちが悪い。眉を顰めた咲夜は、男が貼り付いている窓ガラスをドカッと拳で叩き、問答無用でエンジンをスタートさせた。


***


 「はぁ? また出没しやがったのかよ、出雲の奴」
 「そー」
 相当参っているらしく、咲夜は不貞腐れたようにそう言うと、枕を抱えて座っていた姿勢のまま、パタン、とベッドに倒れた。
 「貼り紙見て馳せ参じたんだってさ。まだ店に出入りしてたなんて、誤算もいいとこ」
 「…ま、そんだけ、咲夜の歌声に惚れ込んでるんだろうけど」
 そこの部分は、出雲に同情しなくもない。これで咲夜がいわゆる芸能界を目指している人間であったなら、誰もが幸せになれる両思いだったのだろう。だが、あいにく咲夜は、ジャズシンガーである。そこを理解できないところが、出雲の不幸なところだ。
 「あんまり頭きたから、出雲のボスに電話してやったから、ちょっとだけ気が済んだ」
 「なんて」
 「おたくの出雲さんに業務妨害されて迷惑してる、次見かけたら弁護士に相談するんで、今すぐやめさせて欲しい、って」
 「……」
 あっさり言ってくれるが、もし咲夜に対するスカウトが独断によるものだとしたら、出雲は相当のダメージを食らうだろう。下手をすればクビになるかも―――まあ、そうなったところで、自業自得でしかないが。
 そこでちょうど、コンロにかけていた笛吹きケトルがピーッという音を立てたので、奏は紅茶を淹れるために立ち上がった。一方咲夜はというと、まだベッドの上でゴロゴロしては、窓際に置いているサボテンに向かって、
 「ねー、マチルダ、どうせなら警察にストーカー相談してやればよかったかなー」
 などと恐ろしいことを言っていた。勿論、本気でそんなことを思っている訳ではないのはわかっているので、奏も何も言わずに苦笑するだけだった。
 ―――ふざけたフリしてるけど、やっぱ、結構キテんだろうなぁ…。
 去年、拒食症気味になった後、最初に口にできたものが奏が淹れた紅茶とホームメイドクッキーだったせいだろうか。咲夜が「奏が淹れた紅茶、飲みたい」と言い出すのは、決まって精神的に少し参っている時らしいことに、最近気づいた。
 いくら元気そうに振舞っていても、久々に聞いた「紅茶飲みたい」に、今の咲夜の落ち込みぶりが見てとれる。無理もない。奏だって、いくら気分的に引っかかるものがあるとはいえ、今“Studio K.K.”がいきなり閉店したりしたら、途方に暮れてしまうだろう。
 「そういえばさ」
 奏が淹れたての紅茶の注がれたティーカップをテーブルに並べると、咲夜はそう言って、ムクリと体を起こした。
 「黒川さんて、もう帰ったの?」
 「へっ?」
 「今週、イギリスに戻るって話だったじゃん。まだ日本にいるの?」
 「いや、ちょうど今日、帰ったとこだけど……なんで?」
 店のオーナーである黒川の来日は、別に今回が初めてではない。日本での仕事もあるのだし、結構頻繁に日本とイギリスを行き来している。それは咲夜も知っている筈だが、こんなことを訊かれたのは、今回が初めてだ。
 「なんか黒川さんに用事でもあった?」
 「そうじゃないけど…」
 ティーカップの中でスプーンをカチャカチャいわせながら、咲夜が妙に口ごもる。
 「ただ―――あの話、どうなったんだろ、って思ったから」
 「あの話?」
 「佐倉さんから聞いたって言ってたじゃん。“Studio K.K.”から誰か1人、引き抜かれるかも、って話」
 「ああ、それか」
 奏自身ですら、半分忘れかけていた話だった。佐倉からその話を聞いたのは去年の秋だが、その後、黒川も店の仲間も何も言わなかったので、今回ばかりは佐倉がガセネタを掴まされたのだろう、と思っていたのだ。
 「それが、何」
 「いや、だから、その話ってどうなったんだろう、と思って」
 「さあ? オレはなんも聞いてないけど……なんで今更?」
 「別に今更って訳じゃ…」
 「?」
 「……も、いい。別に、何も話が出てないんなら、それで」
 奏はまだ事情がよく飲み込めないというのに、咲夜はさっさと話を切り上げ、少しバツが悪そうに紅茶を飲み続けた。なんだよ一体―――なおもクビを傾げた奏だったが、ふと、あることに思い至り、顔を上げた。
 「……」
 「…何」
 奏の考えていることがわかっているのか、咲夜の表情が落ち着きを失くす。思わず吹き出した奏は、咲夜の方へと大きく身を乗り出した。
 「なあ」
 「何」
 「お前さ、もし黒川さんが引き抜こうとしてんのがオレだとしたら、どうする?」
 「どーもしない」
 知らず、顔がニヤけてしまう奏に、咲夜はツンとそっぽを向き、淡々とティーカップを口に運んだ。
 「そもそもあんたはイギリス人なんだから、いずれはイギリス帰るんでしょうが」
 「さー、それはどうかなー。つうか、引き止めたりとかしない訳?」
 挑発気味に奏が訊ねると、咲夜はおや、という風に軽く眉を上げ、ふっと笑った。
 「ふぅん、引き止めて欲しい訳?」
 「もちろん」
 即答。
 あまりの潔さに、咲夜の方が言葉に詰まる。一瞬目を見開いた咲夜は、直後、根負けしたように力の抜けた苦笑を浮かべた。
 「…全く…そんな期待に満ちた目されたら、引き止めない訳にもいかないじゃん…」
 観念した咲夜の頭が、トン、と肩にもたれかかる。その頭をくしゃくしゃ撫でた奏は、弱っている恋人を前にして単純に喜んでいる自分は、本当に救いようのないバカだな、と改めて思った。


 『だから、奏が、必要なのよ。あんたが思うよりずっと、あの子はあんたを必要としてる―――その点だけは、自信持ちなさい』


 正直、母がどういう根拠を持ってあんなことを言ったのか、奏には今でも正確には理解できてはいない。
 ただ、母が「カウンセラー泣かせの賢い患者」と表現した咲夜の性格は、奏にもなんとなくわかる。咲夜は、一番大事な本音は、最後の最後まで晒さない。きっと今回だって、“Jonny's Club”の件で精神的に参っていなければ、黒川が誰かを引き抜くかもしれない、という話を持ち出すことなどなかっただろう。
 だからこそ、こんな時、嬉しくてたまらなくなる。
 つい漏らす本音も、自分にだけ見せてくれる落ち込んだ姿も…泣きたくなるほどに、愛しくなる。咲夜に、必要とされている―――それが、はっきりと感じ取れるから。

 人間には「必要とされたい欲」ともいえる欲求があるのではないか、と、最近、奏は時々思う。
 1人きりでは、自分の存在意義など、なかなか実感できない。けれど、たった1人、「ありがとう」と言ってくれる人がいるだけで、自分の存在意義は確かなものとなる。自分を必要としている人がいる、自分は存在するに足る人間だ―――その確かな手応えというのは、どんな物質的満足よりずっと大きな満足を人間に与える。この手応えを感じ取れないならば、世界のボランティア人口は数十分の一に激減するだろう。
 まだ、確かな自信など、ほとんどない。自分が咲夜を必要とする半分も、咲夜は自分を必要としていないのかもしれない、なんて思って、苛立つこともある。
 それでも、こんな風に、咲夜が自分を求めて人知れず伸ばしていた手に気づく時…実感する。ああ……母さんが言ったとおり、オレが思うよりずっと、咲夜はオレを必要としてるんだな、と。

 誰かに、必要とされたい。
 相手が、自分が想いを寄せている人物であるなら、余計……その人から求められる人間でありたい。

 愛されたい、という言葉は、もしかしたら―――「必要とされたい」という言葉と、とても近いものなのかもしれない。


***


 「ごめん、疲れてるだろうに、わざわざ呼び出して」
 少し恐縮して優也がそう言うと、理加子はコートを羽織りながら、ううん、と笑顔で首を振った。
 「電話じゃ面倒だからって言ったのはあたしだし、教習っていったって、大した時間じゃないもん。それに、あたしの担当教官、幸運にも中年のオバサンで、変な気を遣う必要ないしね」
 「あ、じゃあ、変装して行くって言ってたのは…」
 自動車教習所に通う、ということになった時、たまに耳にする男性教官によるセクハラ行為などを懸念し、伊達眼鏡にニット帽という完全防備で変装して通う、と話していたのだ。普通の女の子がやったら自意識過剰と笑われかねないかもしれないが、理加子ほどの美少女ともなれば、賢明な自衛行為だろう。
 「ううん、変装は、やっぱりしてってる。たまたま今までは同じ人だったけど、教官て毎回確実に同じ人な訳じゃないし」
 「…女の子も大変だなぁ…」
 ファミレスを出ると、暖房の効きすぎだった店内との温度差に、一気に震え上がる。反射的に「くしゅん」と優也がくしゃみをすると、理加子が心配げに眉をひそめた。
 「風邪?」
 「うー…、朝からちょっと、風邪気味ではあったけど…」
 「このマフラー、使う? 駅の方がずっと近いから、あたし平気よ?」
 「ううん、いいよ。アパートだって走ればすぐだし」
 第一、そのピンク色のマフラーは、少々勇気が要る。苦笑して優也が断ると、理加子は、そう、と言って華やかな色のマフラーを自分の首に巻きつけた。
 「じゃ、海原先生によろしくね」
 「うん。ちゃんとリカちゃんのスケジュール、伝えとく」
 今日会ったのは、マリリンに頼まれて、理加子の教習所などのスケジュールを確認するためだったのだ。優也自身は経緯をよく知らないが、なんでも海原家に招待する約束をしているとかで、理加子の予定とマリリンやその家族の予定が合う日を見つけて、その日に決めたいのだとか―――ファンといっても社交辞令程度かと思ったら、お互い、結構本気でファンだったようだ。全く…知り合いが互いにファン同士だったなんて、世の中、広いようで狭いものだな、とつくづく思う。
 手を振った理加子は、踵を返し、ピンクのマフラーを揺らしながら足早に駅へと向かった。その足取りが妙に軽く見えるのは、多分、今の理加子の気持ちが、作家・海原真理のファン1色に染まっているからなのだろう。その様子を見送っていた優也は、くすっと笑ってしまった。

 ―――それにしても…やっぱり、まだまだ忘れられないみたいだなぁ…。
 モデル業最後の仕事については、既に電話である程度聞いていた。が、今日改めて「一宮さんからこう言われた、こんなことも話せた、こんな風に接することができた」と、その日の様子を感慨深げに話す理加子を見て、どうリアクションすればいいのやら、正直困ってしまった。その表情に、その声の調子に、断ち切り難い恋心が透けて見えてしまっていたから。
 勿論、咲夜のことは、気さくで話しやすくて大好きだ。
 でも、理加子の恋心を思うと、いっそ好ましくない女性であってくれたらよかったのに、と思う。それなら、目一杯理加子に同情できるし、咲夜の存在を恨めしく思うこともできたのに、と。

 「優也君」
 「!」
 理加子が歩き去った方を見たままぼんやりしていた優也は、ポン、と肩を叩かれ、思わず飛び上がりそうになった。
 顔を見る前に、声の主の正体には気づいていた。慌てて眼鏡を直した優也は、いつの間にか目の前に立っていた由香理に、あたふたと頭を下げた。
 「こ…こんばんは」
 「こんばんは」
 微笑んでそう応えた由香理は、直後、ちょっとからかうような笑いを優也に向けた。
 「ごめんね、見ちゃったわ」
 「えっ」
 「ピンクのマフラーの子。あの子でしょ? 例の友達」
 「うわ…、見てたんですか」
 理加子とは無関係な知り合いに見られたのは、これが初めてだ。別に見られて困る間柄でもないが、優也は思わず「弱ったなぁ」という顔をしてしまった。
 「聞いてはいたけど、本当にお人形みたいね」
 アパートに向かって歩き出しつつ、由香理がクスクス笑いながらそう言う。
 「はあ…。一緒に居ると、いつも周りの視線感じて、ちょっと落ち着かないです…」
 「ふふ、でしょうねぇ…。でも、あんなにいつまでもボーッと見惚れてる位なら、いっそ友達じゃなく彼女にしちゃった方がいいんじゃない?」
 「え?」
 「別れた後も、ずっと見てたじゃない。あの子の後姿」
 「え…っ、ちょ、ちょっと、違いますよ!」
 とんでもない誤解だ。優也は大慌てでブンブン首を振った。
 「そういうので、ずっと見てた訳じゃないですから! ちょっと、色々考え事してただけで」
 「そうなの?」
 「…彼女、失恋した相手のこと、なかなか忘れられないみたいで……だから、早く新しく好きな人ができればいいのになぁ、って思って見てただけです」
 「なぁんだ…。そう思ってても、自分が新しい人になろう、とは思わないのね」
 「まさか」
 ちょっとガッカリした顔をする由香理に、優也は苦笑を浮かべた。
 「大体、恋愛感情持ってる相手だったら、彼女をめぐる恋愛話なんて、冷静に聞ける筈がないし…」
 「そうねぇ。異性として意識してるなら、たとえ片想いしてるって話でも、多分ムカムカして平静じゃいられない…」
 その時。
 お互いが言った言葉に、優也も、そして由香理も、同時に表情を強張らせた。

 勿論、優也の頭にパッと思い浮かんだのは、理加子のことではなかった。
 極最近、自分らしくもなく、理不尽にイライラをぶつけてしまった、あの人の、片想いの話のことだった。

 そして勿論、由香理が思い浮かべたのは―――どことなく優也を彷彿させる、彼のことだった。


***


 ―――あら? これ…。
 定時まであと1時間という頃になって、由香理は、1枚の書類に目を留めた。営業1課から回ってきた、営業活動に関する稟議書だ。
 初めて見る顧客名…誰の営業担当なのか、見当がつかない。なのに、稟議書の提出者氏名欄には、稟議書を提出した人物の名前が記されるべき筈が、空欄のままになっている。単純な記入漏れだ。今日は部長がずっと留守にしていたので、返却がこんな時間になってしまったのだろう。
 ざっと内容に目を通してみると、明日中には稟議が通っていなければ、企画自体が飛んでしまいかねない話だった。
 ―――ダメじゃないの。誰よ一体。
 こんな半端な時間帯に、面倒な仕事を見つけてしまうなんて……全くついていない。はあっ、とため息をついた由香理は、ついでに飲み物でも買ってこよう、と考え、席を立った。


 それにしても、よりによって、営業1課―――仕事だから仕方ないが、1課には、真田がいて、河原がいる。二重の意味で気の重い場所だ。本当についていない。
 特に…河原。答えを保留にしてから、そろそろ1ヶ月近くなってしまう。でもそれは、由香理1人のせいではない。
 告白の日以来、2人で飲みに行ったことだってある。会社でも1日おき程度には顔を合わせるし、顔を合わせれば、缶コーヒーを片手に暫し立ち話をすることだってある。だから、河原がその気になれば、返事を迫ることだって、いくらでもできるのだ。
 なのに河原は、あの時の話に、一切触れようとしない。
 昨日も、そうだった。昼休みが一緒になり、珍しく一緒に外にランチを食べに行ったのだが、河原は最近の仕事の様子を話すばかりで、2人の交際については何も言わなかった。
 それは多分、河原の優しさなのだと思うけれど……優しすぎて、さすがに、罪悪感が湧いてくる。その罪の意識に耐えられず、最後には必ず由香理の方が一言触れずにはいられないのだ。

 『あの、例の話だけど……ごめん、まだ、決心がつかなくて』
 『そっか。別にいいよ。元々、もう少し先に言うつもりだったんだし、待たせてるなんて思わず、ゆっくり考えてよ』

 …多分、今の由香理が無理矢理出せるのは、彼が望まない方の答えしかない、ということを、彼も察しているのだ。
 由香理だって、河原の望む答えを、迷わず出したい。智恵の言うこともわからなくもないし、恋愛映画のようなベタなラブロマンスに憧れを抱くような歳でもない。きっと河原となら、穏やかで幸せな家庭が築けるだろう。わかっている。わかっている、けれど―――どうしても、決心がつかない。少なくとも、まだ。

 ―――だって、若村女史が河原君と付き合いたがってる、って聞いて、それは素敵な話だ、って思っちゃったのよ?
 優也君の言うとおり、少しでも異性として意識している相手なら、少し位動揺して当然じゃない。あの時はまだ河原君の気持ち知らなかったけど……知ってたら、少しは動揺したかしら―――ううん、若村さんなら勝ち目ないわ、って、逆にあっさり身を引きそうな気がする。
 そんな私が、「はい、付き合いましょう」って言ってみたところで、本当に河原君と恋愛関係になれるものかしら。
 フリなら、できる。今までだって、玉の輿願望で、さほど好きでもない人と平気で付き合ってた私だもの。好意を持ってる河原君相手なら、いくらでもできる。でも―――…。


 チーン、という音で我に返り、由香理は慌ててエレベーターを降りた。
 そっと1課を覗いてみると、ありがたいことに、河原の姿も真田の姿も、そこにはなかった。ホッと胸を撫で下ろした由香理は、唯一、席に残っていた1課の営業マンに声をかけた。
 「あの、すみません」
 何やら書類を書いていた彼は、少しうるさそうな顔で由香理を見上げた。
 「アイシー通商を担当しているのって、1課のどなたかわかりません?」
 「アイシー通商?」
 「受注のためのサンプル発注が、稟議で出されてるんです。でも、担当者名が空欄で…」
 「アイシー通商…アイシー……ああ、そこなら多分、真田だろう」
 「真田さんは、今、外ですか?」
 「いや、休みだよ」
 想定外の答えに、由香理の目が丸くなった。
 「お休み?」
 「朝、電話で病欠連絡があったらしいよ。僕が電話取った訳じゃないけど」
 「…じゃあ、真田さん以外で、ここの担当は…」
 「あー、いないいない。そこ、真田が1人で開拓に躍起になってるとこだから。今週は部長も出張続きだから、知らないんじゃない?」
 「……」
 じゃあ、どうするのよ、この稟議書。
 という由香理の疑問は、けたたましい電話のベルに遮られ、彼には届かなかった。もう役目は果たしたと思っているのか、彼は由香理のもの言いたげな目を無視し、目の前の受話器を取った。
 「はい、タキガワ・トレーディングでございます。……ああ! お世話になっております。はい、里中です。先日は…」
 運悪く、彼の顧客からの電話だったらしい。ため息をついた由香理は、仕方なく、そのまま1課を後にした。


 「友永さん」
 もう飲み物を買うのもやめて総務に戻ろうとした由香理だったが、1課を出たところで、誰かに呼び止められた。
 見れば、そこにいたのは、隣の2課の営業補佐をしている女子社員だった。といっても、前からいる先輩社員ではなく、去年入った新人で、由香理は名前もうろ覚えなのだが。
 「なに?」
 「あのー、1つ、お願いがあるんですけど」
 妙に媚びた口調でそう言うと、彼女は1歩、由香理の方に歩み寄り、ヒソヒソ声で続けた。
 「真田さんの住所、教えてもらえませんか」
 「住所?」
 「総務なら、わかりますよね?」
 勿論、社員の総合管理をしているに等しい総務は、全社員の現住所や電話番号、給料の振込先である口座番号も管理している。調べれば、真田の住所だってわかるだろう。
 「そりゃあ、わかるけど…どうして?」
 「お見舞いに行きたいんです」
 由香理の問いに、彼女は、エヘヘ、とはにかんだように笑った。
 「あたし今朝、真田さんからの電話取っちゃって。風邪ですっごく苦しそうだったから、心配なんです。真田さんて一人暮らしでしょう? だから、お見舞いに行こうかなーって」
 「……」
 ―――ああ…、そういう魂胆ね。
 なんとなく、背景が透けて見える。病気で寝込んでいる彼、そこに看病に現れた優しい彼女―――気持ちはわからなくもないが、でも、そういう手口は、ある程度親しい間柄でなければかえって逆効果であることは、ちゃんと理解できているのだろうか?
 「…そう。じゃあ、とりあえず真田さんに電話してくれる?」
 「えっ」
 ため息混じりな由香理の一言に、彼女の顔が、ギクリと強張る。
 「電話…」
 「そう。電話で、あなたに住所を教えていいか、真田さんに確認取るから」
 「……」
 「いくら社内の人間が相手でも、本人の同意なしに、勝手に個人情報を漏らすことはできないわ。あなたも、その位理解できるでしょう?」
 「……」
 やっぱり―――うな垂れる彼女を見て、確信する。きっと彼女は、真田の携帯番号すら知らないのだろう。それはそうだ。真田は、1対1で飲みに行く間柄にならない限り、自分の側の電話番号を女に教えたりはしない。真の遊び人は、相手の情報はちゃっかり握っておいて、自分側の情報は絶対握らせないものなのだ。
 「まさか日頃から、友達や家族の住所や電話番号を、本人の許可なく第三者に教えたりしてないでしょうね」
 「……」
 「もしやったことがあるなら…二度としないようにね。もし友達がそれ知ったら、あなた、信用失くすわよ」
 身に覚えがあるらしく、彼女はしゅんとしたまま、小声で「ハイ」と答えた。まあ…学生気分の抜け切らない子のようだが、素直に反省できるところは、まだ好感が持てる方かもしれない。ちょうどエレベーターが来たので、由香理は「じゃあね」と彼女に声をかけ、エレベーターに乗り込んだ。

 ―――お見舞い…か。
 ドアが閉まると同時に、由香理はため息をつき、眉根を寄せた。
 考えてみれば、ああ見えて結構タフなタイプなのか、真田が風邪をひいたとか病気で寝込んだとかいう話は、入社以来、ほとんど聞いたためしがない。擬似恋人状態だった時も、この人はいつ寝てるんだろう? と不思議に思うほど、いつもパワフルで、疲れを見せない男だった。
 けれど、一度どん底に落ちてからは、時々、酷く疲れた顔をしていたように思う。オーバーワーク気味だという噂も聞いたし、実際、顔の肉付きも落ちていた。以前なら乗り切れた体調不良も、今は寝込むところまで行ってしまってもおかしくないだろう。
 「…それが、何よ」
 だからといって、自分が心配してやる筋合いではない。ふん、と視線をあらぬ方に逸らした由香理だったが―――それでも、手にした稟議書に、どうしても意識が向いてしまう。
 あの真田が、こんな単純なミスを犯すなんて―――この書類を書いた時点で、既に体調がかなり悪かったのだろうか。
 明日の朝イチで再提出すれば、間に合うかもしれない。けれど、明日、本当に出社できるのだろうか?
 真田だけが関わっている案件だと言っていた。では、このまま稟議が通らなかったら…どうなるのだろう? ここから注文を取るのは、ほぼ絶望的になるのではないか。真田がどの程度力を注いでいたかは知らないが、結構な打撃になるのではないだろうか…。

 …それが、何だっていうのよ。
 あんな、女をただの出世の道具としか思ってないような男、どうなろうと、私には関係ないじゃないの。

 「……」
 関係ない―――由香理は、説明のつかない苛立ちに、ぎゅっ、ときつく唇を噛んだ。

***

 「…3の、2の…」
 書き写してきた住所と、電柱やブロック塀に記された住所を照らし合わせては、キョロキョロと辺りを見回す―――その繰り返し。その作業は、最寄り駅を降りてから、そろそろ10分近くになろうとしていた。
 「……3の2の、15」
 あった。
 ピタリと合致する住所を見つけ、顔を上げる。そして、目の前に現れた建物を見て、由香理は思わず目を丸くした。
 それは、妙に親近感を覚える建物だった。
 せいぜい10世帯程度の、2階建てのアパート。築10年前後だろうか。古臭さやみすぼらしさはないが、決して高級とはいえない外観と造りだ。そのエントランス部分には、確かに、手にしているメモに書かれたアパートの名前が掲げられていた。
 ―――これが…真田さんの家?
 真田の口から、どんな家に住んでいるか、という話が出たことは、これまで一度もなかった。自宅に人を呼ばないので、実家住まいなのではないか、と思っている者も多かったほどだ。だが、一人暮らしだろうと想像している人間の大半が、彼に似つかわしい高級マンションをイメージしていただろう。そう……由香理も、そう思っていた1人だった。
 確か、真田の趣味は車の筈だが、“ベルメゾンみそら”がそうであるように、このアパートにも駐車場らしきものが一切ない。ただ、マイカーを持っているのは事実なので(由香理自身がドライブに連れて行ってもらったからだ)、恐らくはどこかに駐車場を借りているのだろう。
 まだ半信半疑の思いで、由香理はエントランスに向かい、並んでいる郵便受けを確認した。すると、一発で見つけてしまった。

 『102 真田』

 よりによって、同じ部屋番号。
 女子高生なら「きゃー、憧れの彼と同じ部屋番号ー」などと喜びそうな話だが、こういう展開を全く予想していなかった由香理にとっては、妙にむず痒さを感じる偶然の一致だ。なんだか自分の部屋に帰るのと錯覚しそうな気分になりつつ、由香理は廊下を曲がり、102号室へと向かった。
 もし恋人が介抱に来ている場面に遭遇してしまったら、とか、別に急ぎの稟議じゃないと言われたら、とか、色々ネガティブな想像が今も頭をよぎる。第一声、何と言えばいいのか、それすらまだ決めかねている。
 が、ここまで来てしまったのだ。もう開き直るしかない―――102号室のドアの前でピタリと足を止めた由香理は、すぅ、と大きく息を吸い込んだ。
 意を決し、呼び鈴を押す。呼び鈴の音まで“ベルメゾンみそら”のものと似ていて、なんとも複雑な気分になった。
 そのまま息を殺すようにして待っていると、ドアの内側で、ごそごそと人の動く気配がした。その気配に由香理が緊張した直後、カチャリ、と、鍵の開く音がした。
 「……っ、」
 思わず息を呑み、身構える由香理の目の前に、イージーパンツにTシャツという、想像したこともない姿の真田が、呆気にとられたような顔で現れた。
 「と…もなが、さん?」
 表情同様に、彼らしからぬ呆けたその声は、やはり風邪のせいか、いつもより掠れている。1日髭を剃らずにいた顔は、病みやつれた顔をいっそう精彩のないものに見せている。気まずさに視線を泳がせた由香理は、とりあえず、ペコリと頭を下げておいた。
 「…なんで…」
 「―――仕事上で知り得た個人情報を無断で利用するのは、あんまり褒められたことじゃないって、わかってるけど」
 不貞腐れたような声でそう言いつつ、バッグの中から2つに折り畳んでいた稟議書を引っ張り出した由香理は、それを真田に突きつけた。
 「でも、どうしてもこれが、気になったから」
 「……?」
 「名前」
 途端、真田の顔が「あっ」という表情になった。
 「明日も出て来れないようだと、まずいんじゃないか、って思って」
 「…助かったよ」
 やはり、由香理の予想どおり、まずかったらしい。バツが悪そうに小声で感謝の言葉を述べると、真田は稟議書を素直に受け取った。
 「今すぐ、サインしてくるから、待っててくれ」
 「え? ちょっと、」
 そのまま部屋の中に引っ込もうとする真田を、由香理は慌てて引き止めた。
 「寒いから、せめて玄関で待たせてくれない?」
 閉まったドアの外でじっと待たされることを想像したら、寒さより、惨めさのような心細さのようなものを感じて、咄嗟にそう訴える。
 すると、真田は何故か、少しうろたえた顔をした。が、かなり冷え込んでいる中来てもらったことには一応の良心の呵責があるらしい。無言で、由香理のために道をあけてくれた。中で待ってていい、ということらしい。
 ホッとして、玄関の内側に入った由香理だったが―――次の瞬間、何故真田が狼狽したのか、その理由をはっきりと理解し、思わず言葉を失った。

 「…………」
 ―――う…っ、わー…。

 まさに「ザ・男の一人暮らし」といった様相の荒れ具合。
 片付けられていない食器、捨てられていないペットボトル、脱ぎっぱなしな服―――玄関から見える範囲だけでも、真田が掃除嫌いであることは一目瞭然だ。体調不良で片付けられなかった、という言い訳は、この乱雑さの年季の入りようでは通らない。実家の兄の部屋も相当なものだが、真田の部屋もいい勝負だろう。
 別に、真田を綺麗好きと思っていた訳ではない。が、こういう部屋だと想像したことはなかった。建物の外観だけではなく、内部までが予想外だ。
 「…風邪が余計悪化しそうな部屋ね」
 思わず呟く由香理の背後で、真田が、風邪末期症状といった感じの咳を、2回繰り返した。

***

 「…何もないから、これ位しか作れなかったけど」
 シンプルな、玉子がゆ、プラス、梅干。
 真田に梅干というのも、なんとなくミスマッチだが、冷蔵庫の中にこれがあるのを見つけて、心底安堵した。これがなかったら、玉子がゆオンリーで終わるところだったのだから。
 「食べられたら、食べて。…私も夕飯まだだから、ちょっともらうわ」
 「……」
 由香理同様、真田も、この状況に順応しきれないのだろう。ああ、とも、うん、ともつかない声を僅かに呟くと、黙って箸を手に取った。
 ベッド脇にあった、本や雑誌がどけられたローテーブルをダイニングテーブル代わりにして、2人してベッドに背を向ける形で、並んで玉子がゆを食べる。なんで私、こんなとこで、こんな奴と、こんなもの食べてるんだろう―――もの凄く納得のいかないものがあるが、成り行きだ。仕方ない。
 チラリと隣を見ると、真田も食欲はそこそこあるらしく、順調なペースで玉子がゆを食べている。キッチンをある程度片付けている間に熱を測ってもらったら、まだ37度台半ばではあったが、どうやら風邪のピークは過ぎたらしい。
 「…いつから、ここに住んでるの?」
 沈黙が耐え切れず、由香理の方からそう訊ねる。すると真田は、由香理の方を見ずに答えた。
 「大学卒業する直前から」
 「…そう。意外に長いのね」
 「まあね」
 「―――私、真田さんて、お金持ちのお坊ちゃんだと思ってたわ」
 「金持ちのボンボンだよ」
 サラリと、自嘲も自慢も含まず、答える。
 「実家は多分、女どもが期待してるとおりの、高級住宅地のそこそこシャレてる一戸建てだからね」
 「じゃあ、何故実家に住まないの」
 「追い出されたんだよ」
 真田はそう言って、ふっ、と、どことなく鼻で笑うような笑い方をした。
 「親父は、俺が自分と同じ会社に入るのを期待してたんだ。ずっとそう言い聞かせてきたしね。でも、俺がそれに逆らったもんだから、恩知らず出て行け、の一言でジ・エンド」
 「そんな、横暴な」
 「売り言葉に買い言葉さ。まさか本当に出て行くとは思ってなかったかもな。俺も、まさか本当に出て行く羽目になるとは思ってなかったんだから、お互い様だけど」
 つまり、お互いハッタリのつもりが、引っ込みがつかなくなった、という訳だ。似たもの親子というか、なんというか―――なかなか呆れる話だ。
 「今からでも、実家に戻ればいいのに…。ハードワーク続きで家事はきついだろうし、こんな風に病気になることもあるんだし…」
 「小うるさい親や生意気な妹がのさばってる家に? …ご冗談を。頼まれても勘弁して欲しいね。平日の大半が外食の独身にとって、家なんて、風呂入って寝るだけの箱みたいなもんなんだから、これで十分だよ」
 …まあ、そうなのかもしれない。ただの箱みたいなものだから、収入の増えた今も、もっといい所に住もう、とか考えないのだろう。衣食住にもっとこだわりを持っているのかと思っていたから、このこだわりのなさには、正直拍子抜けだ。
 「でも、これじゃあ人を呼べない訳よね。会社で見せてる真田さんの顔から、この部屋は連想できないもの」
 「…別に、そういう理由で、人を呼ばない訳じゃない」
 由香理の言葉に、真田はムッとしたように眉を顰めた。
 「第一、俺は、嘘を言ってイメージ作りした覚えなんて、微塵もないからな。周りが勝手に想像して、勝手にイメージ作り上げただけなのに、イメージ違うだの壊れるだの言われるのは心外だよ」
 「…そこまで言ってないじゃない。言われたことでもあるの?」
 「……」
 無言の肯定だ。不覚にもちょっと笑ってしまう由香理に、真田の眉間にますます皺が寄った。
 でも、確かに、彼は私生活についてほとんど何も言わない。裕福な家庭の生まれで、良家の子息が多い大学卒で、高級外車を乗り回している、大手商社のエリートサラリーマン―――その肩書きと恵まれたルックス故に、それにマッチする生活ぶりが、周囲の統一見解として一人歩きしてしまっているのだろう。真田から言わせたら、まさに「心外」の一言に尽きるかもしれない。
 「ま、女をふるいにかけるのに、この部屋見せてみる、ってのは結構有効かもな。これで幻滅するような女は、所詮その程度の器だから選ばなくて正解、とかな」
 イメージ壊れた、と言われた相手が女性だったのか、真田は皮肉っぽい口調でそう言った。確かにそうかもしれないが、「ふるいにかける」という言い方に、女性の1人である由香理は少々カチンときた。
 「相変わらず上から目線な人ね。自分が選ぶ立場だと信じて疑わないって、自惚れすぎなんじゃないの? この部屋の惨状見て、真田さんが“自己管理能力のない男”として切り捨てられる可能性だってあるのに」
 「ハ…、ちょっと前まで、男に媚売りまくって“選んで下さい”目線だった君から、そんなこと言われたくないね」
 「…っ、あ、あなたね―――!」
 と由香理が反論しかけたところで、真田が急にむせ始めた。箸を落とし、苦しそうに咳き込む真田に、由香理も思わず箸を置き、その背中を反射的にさすってしまった。
 「だ…大丈夫? 無理して食べなくても、辛ければ横に…」
 由香理が言いかけた言葉を、真田は無言で首を振って遮り、背中をさする由香理の手をぐい、と押し退けた。実際、一時的なもので済んだらしく、胸に響くような咳は、コンコン、という乾いた咳に変わっていた。
 由香理の手を押し退けたまま、真田は、落ちてしまった箸を拾い、トレーの隅に置いた。茶碗の中には、まだほんの少しおかゆが残っていたが、その続きを食べそうな気配はない。真田が、あらかじめ置いておいた風邪薬を手にするのを見て、由香理は、真田からは手の届き難い場所にあった水の入ったグラスを取り、真田の目の前に置いた。
 薬と一緒に水を全部飲み干すと、真田は大きく息を吐き出し、暫し斜め下を向いたまま、じっとしていた。
 「…落ち着いた?」
 心配げに由香理が訊ねると、僅かに頷き、のろのろと顔を上げる。そして、鬱陶しそうに髪を掻き上げながら、真田は、由香理の目も見ずに思いがけないことを口にした。
 「―――河原には、言ってあるのか」
 「…え?」
 「今日、ここに来ること」
 「……」
 ―――どうして、河原君に?
 何故ここで河原の名前が出るのか、よくわからない。怪訝そうに眉をひそめた由香理は、当然首を振った。が、俯いている真田にはそれが見えないことに気づき、言葉でも答えた。
 「言ってないわよ。言う必要もないでしょ」
 「…じゃあ、他人の口から河原の耳に入る前に、ちゃんと言っておいた方がいいぞ」
 「どうして?」
 「わかってないな」
 ため息をひとつつくと、まだコンコンと小さく咳き込みながら、真田はようやく由香理の方を向いた。
 「本人から“こういうことがあった”って聞かされるなら何とも思わないことでも、他人から聞かされて初めて知ったりすると、要らぬ心配や憶測をしたりするもんなんだよ。なんで他の奴らが知ってるのに自分には言ってくれなかったんだろう―――何か言えないような、自分に対してやましいことでもあったのか、ってね」
 「そんな―――第一、誰がそんな話を河原君にするっていうのよ。私1人で、誰にも言わずに来てるのに」
 「稟議書のことで、うちの課に来たんだろ? その稟議書が、俺の席に戻された形跡もないのに明日の朝綺麗に揃ってたら、誰だって不思議に思うだろ。友永さんが、誰の担当の稟議か訊きに来たのは、何人も見てる訳だし―――もし事情に気づいて、それを面白くないと思った奴がいたりしたら、わざと脚色付きで河原の耳に入れないとも限らない」
 一瞬、あの営業補佐の顔が、頭をよぎる。が、由香理は急いでそれを打ち消し、真田に苦笑で応えた。
 「考えすぎじゃないの? オーバーな」
 「オーバーな位に考えろってことだよ。河原に誤解されたくないだろ?」
 「下心つきの噂話なんかに一喜一憂するほど、河原君もバカじゃないわよ」
 由香理がそう言うと、真田は、言葉に詰まったように、硬い表情で黙り込んだ。
 その意外な反応に、由香理もつられて、口をつぐむ。僅かの間、狭い部屋が、シンと静まり返った。
 「―――…そうだな」
 ふいに、真田が沈黙を破り、そう呟く。え? と眉をひそめる由香理をよそに、まるで這い上がるかのような緩慢な動きで立ち上がった真田は、疲れた様子で背後のベッドにドサリと腰を下ろした。
 「河原なら、心配することもないか。女の趣味は最低だけど、それ以外の賢さは俺も認めるしな」
 幾分咳き込みながらのセリフに、再びカチンと来る。思わず腰を浮かせた由香理は、膝歩きで真田の方に詰め寄った。
 「ちょっと。それ、私のこと言ってるの?」
 「他に思い当たる人間、いたか?」
 「……っ、」
 「理解に苦しむよな、ほんと。若村女史みたいな才色兼備のいい女より、ついこの前まで男を自己顕示欲満たすアイテムとしか見てなかったようなつまらない女の方を選ぶなんて」
 「…言ってくれるわね…」
 床についた拳が、辛うじて堪えた怒りで、震える。キッ、と真田を睨み据えた由香理は、その拳で床を押すようにして、立ち上がった。
 「ええ、そうよ。出会うのが1年早かったら、河原君も私なんか選ばなかっただろうって、我ながらつくづく思うわよ。悪かったわね、つまらない女で! でも、そんなこと、つまらなさ加減ではいい勝負の真田さんに、エラソーに言われたくないわよっ!」
 「つ……」
 「なによ、私よりもっと最近まで、女を出世の道具か都合のいいオモチャとしか思ってなかった癖に! その上、まだ同じ会社に勤めてる女を、同僚の前でコッソリ笑い者にするようなサイテーな奴だった癖に…っ! ほんの少しマシな人間になった位で、同じ穴のムジナだった人間を嘲笑う資格なんて、あなたにはないわよっ!」
 「…病人を前に、威勢がいいなぁ、友永さん」
 キレそうになるのを堪えているような声でそう言いながら、真田はまた胸に響くような咳をした。はぁ、と息をつき、腕を立てて体を支え直すと、由香理に向かって皮肉めいた笑みを見せた。
 「ああ、そうだよ。俺は昔から、女なんて単純で見栄っ張りで、コントロール方法さえ身につけりゃどう扱うのも朝飯前だ、って思ってたような奴だよ。実際、そんな女ばっかり群がってくるしな」
 「“そういう奴”だから、“そんな女”しか群がってこないのよ」
 「“そんな女”だから、“そういう男”しか引っ掛けられないのと同じでな」
 ―――…む…っかつく……!!!
 「“そんな女”を、あの河原が選ぼうっていうんだから、正気の沙汰じゃないよな、ほんとに…」
 クックッ、という含み笑いが、そのまま、また咳に変わる。が、由香理が反論のために口を開くより先に、真田がその続きを口にした。
 「…俺なんかに媚売りまくってた女に、学歴も、就職先も、将来性も抜群なだけじゃなく、その上真面目で誠実で優しい男が、“選んで下さい”と逆に言い寄ってくるなんて―――天文学的確率でしか起こらない、狂気の沙汰だ」
 「……っ…」
 「ま…、同情だか何だか知らないけど、こんなとこに寄り道してないで、本性バレる前にさっさと確約取った方がいいんじゃない? 失敗した、って気づいても逃げられないように」

 ―――…何、が、言いたいのよ。

 唇が、震える。
 体がわななくほどのこのショックと憤りは、真田から「河原には見合わない女」とバカにされたせいではない。自分のバカさ加減をよそに言いたい放題言われたせいでもない。
 じゃあ、何なのか。
 何が、そんなに、悔しくて悲しいのか。
 わからない―――由香理自身のことなのに、わからない。ただ、悔しくて、悲しい。真田の言葉が。

 「…最低…っ」
 涙で、視界が霞む。短く呟いた由香理は、震える右手の拳を、やはり震える左手でぎゅっと包むように握った。
 「全然変わってない……相変わらず、人の親切に素直に感謝することもできない、最低な奴よ、あなたなんてっ」
 「…そりゃあ、どうも」
 少し苦しそうに皮肉を返した真田は、だるそうな笑みを、口元に浮かべた。
 「友永さんも、相変わらず、化けの皮1枚はがすと可愛げがなくてムカつくことばっかり言う、うるさい女だよな」
 「大っ嫌い……!!」
 「…じゃあ、帰れよ」
 涙声の由香理の感情的な言葉に、真田は、ハッ、と投げやりに笑った。
 「俺も、やかましい女は、大嫌いだ」

 ……どうして。

 「…大嫌いなら…今すぐ、追い出せばいいじゃない…っ」

 どうして、自分は、このまま出て行ってしまえないのか。
 どうして、真田は、うるさい女など無視して背中を向けてしまわないのか。

 こんな奴なんか、と、嫌になるほど思っているのに―――何故、「お前など必要ない」と突き放されるのが、こんなにも悔しくて、悲しいのだろう……?

 滲んできた涙が限界を超え、ひとしずく、零れ落ちる。
 それが、これまで堅く閉ざしてきた何かを開く、鍵になってしまったのだろうか。真田の目の前に膝をついた由香理は、彼の肩に片手を置き、その唇に自分の唇を重ねた。
 「……」
 ほんの、数秒のこと。
 なんで、こんなことしてるんだろう―――頭の片隅に微かに残る冷静な自分が、そんな疑問を呟く。おかしい。こんなのは間違っている―――なのに、何故かこうせずにはいられなかった。
 いまだ微かに震えている唇を離すと、急速に失われていくぬくもりを感じて、思わず身震いした。そんな由香理に、まだ触れてしまいそうなほど近くにある真田の唇が、どことなく自嘲気味に、ふ、と笑った。
 「…そんなに風邪うつされたいのか。悪趣味だな」
 「……大嫌い……」

 背中を真田の片腕に抱かれ、ただ重ねていただけの唇を、暴力的に貪られた。
 お互い、足りなかったものを必死に満たすように、相手など無視してただひたすら求める。多分、今、この瞬間限りの渇望―――そこに、優しさなんて、微塵もない。もしかしてこれは、愛じゃなくて憎しみなんじゃないか、と思うほどに。
 第一、愛かどうかなんて、わからない。
 由香理の自尊心を、ボロボロに傷つけた男。由香理に優しさの欠片も分けてはくれない男。…愛せる筈もない。なのに―――こうせずには、いられない。ただ、それだけで。


 愛なんて、わからない。

 このひと時だけでも、この唇だけでも、この体だけでも構わない。
 それだけで、構わないから、今、この人に、求められたい―――ただ、そう思っただけだった。


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