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― My little boy and girl(前) ―

 

 「では、最後に―――皆さんにとって“Jonny's Club”とは、何ですか?」

 随分と抽象的な質問をする記者だな、と3人揃って困惑顔になったが。

 「学生時代、客として通った頃の思い出の方が強いですね。演奏者として以上に、愛好家の1人として、ずっと残っていて欲しかったステージです」
 とは、ヨッシーの返答。
 「ただただ、感謝の気持ちです。この店があったからこそ、仲間とも出会えたし、ジャズを続けることもできた。恩師のような存在です」
 とは、一成の返答。そして咲夜は、考えた挙句、
 「…家族、かな」
 と答えた。
 「本当の家族以上に、この店を家族のように感じてました。だから―――今の気持ちは、家族の余命を宣告された時の気持ちと、よく似てると思います」


 咄嗟に出てきた言葉。でも、ふいに「あの時」の気持ちを思い出した咲夜は、ほんとに似てるな、と苦笑した。
 「あの時」咲夜は、まだ11歳―――それでも、医師の「覚悟して下さい」との言葉に、覚悟しなくては、と自分に言い聞かせていたのだから。


***


 「え…っ、終わる、って…どういう意味よ?」
 「そのまんまの意味」
 呆然とする佐倉に、咲夜はあっさりそう告げ、缶コーヒーをあおった。
 「あの店でのライブが終わる、ってこと?」
 言葉の出てこない佐倉に代わって、蕾夏が確認するように訊ねる。コーヒーを飲み込みつつ、うん、と頷いた咲夜は、更に付け足した。
 「オーナーが交代して、経営方針が変わるから。3月いっぱいで終了」
 「そんな…一体、いつ決まったのよ、そんなこと」
 「ちょうど1週間前かな」
 咲夜の答えを聞き、佐倉の眉がつり上がる。予想どおりな反応に、咲夜はオーバーな位に大きなため息をついた。
 「…まぁた、そーゆー、あたしは聞いてないわよ、って顔する」
 「そりゃあ、するわよ! 咲夜ちゃんじゃなくても、せめて一宮君が何か言ってくれたっていいじゃないの」
 「まだ1週間じゃん…。第一、佐倉さんに話してどうなるもんでもないし」
 「ってことは、もう決定事項なの?」
 あまりよろしくない空気を感じてか、蕾夏が2人の間に割って入るかのように訊ねた。咲夜としても、この話題は蕾夏との方が話しやすい。申し訳ないが、ちょうど2人の間に立っている形の佐倉をスルーする形で、蕾夏の方へと首を伸ばした。
 「もうお店に貼り紙してお客に周知徹底させちゃってるし。昨日は新聞の取材も受けちゃったから、今更“やっぱ残します”はないでしょう」
 「え、新聞の取材があったの? どこの?」
 「どこだっけ、えーと……メジャーどころだったのは間違いないんだけど。今度の日曜、関東圏の地方欄にだけ載るみたい」
 「ふぅん…地方欄かぁ」
 何故か少し考え込むような表情をした蕾夏は、一瞬前とは微妙に異なる目で、咲夜を真っ直ぐ見据えた。
 「もしよかったら、私も取材させてもらえないかな」
 「は? 取材、って、“Jonny's Club”を?」
 「そう。ちょうど今、失われ行く昭和モダンカルチャー、ってコンセプトの記事を準備してるから、その一環で」
 蕾夏の目つきが変わったのは、仕事がらみになったせいらしい。自然、聞く側の咲夜も、表情が真面目なものに変わる。
 「近いうち廃業が決まってる映画館を2軒、取材してるんだけど、同じ“映画館”が続くと単調になっちゃって、いまいち納得いかなかったの。日頃行かないから思いつかなかったけど、生バンドの入るお店ってのも、高度経済成長期を代表するモダンカルチャーじゃない?」
 「ああ…、そうかも」
 そっか。この人って、ライターなんだった。
 蕾夏の言葉に頷きつつ、そんなことを改めて思う。
 ―――いや、そりゃ、知ってたし書いた記事も読んだことあるけど……なんかどうも、ライターだってこと忘れちゃうんだよね。だって―――…。
 「あっ、ごめん。この話、また後でね」
 突如、蕾夏がそう言って話を切り上げ、動き出した。
 見れば、アートディレクターと打ち合わせをしていた瑞樹が、話を終えて動き出したところだった。蕾夏が立っていた位置は背を向けている形になっていたのに、よく気づいたものだ。付き合いが長いと、見えなくても気配とかそういうものでわかるのだろうか。
 「そろそろみたいね」
 佐倉も、現場の空気が動いたことを察し、壁に預けていた背中を起こす。やれやれ、やっと仕事モードになってくれそうだ―――内心胸を撫で下ろしつつ、咲夜はカラになった缶コーヒーを、近くにあったテーブルの上に置いた。

 1月27日。
 今日が、モデル・一宮 奏にとって、最後の“撮影日”である。
 実際にはまだショーがあり、そのステージがモデルとしての本当の最後の仕事となるのだが、カメラマンが奏にとって思い入れの強い瑞樹であることもあり、昨日の夜などは本人も相当緊張していた。これまでの仕事では絶対あり得なかった話だ。
 直前まで迷った末、咲夜は、仕事を休んで見に来ることにした。
 単に、咲夜自身が、奏の最後の撮影を見ておきたい、と思ったからだったが―――それを聞いた時の奏の嬉しそうな顔を見て、渋い顔の上司に頭を下げた甲斐があった、とつくづく思った。
 ―――考えてみたら、あの人も、仕事休んで来てるんだよね。
 三脚のセッティングを確認する瑞樹の傍らで、何やら資料を真剣に見詰めている蕾夏の姿に、チラリと目をやる。
 蕾夏と会った回数はさほど多くないが、会う時は大抵、彼女の立場は「瑞樹のアシスタント」だ。だからつい、ライターという本業を持っていることを忘れてしまうのだが、専属契約を結んだ会社があるのだから、こうして平日に撮影に立ち会うなら、本業を休むしかない訳だ。
 「私も行った方が良さそうな仕事の時だけだから」と蕾夏は言っていた。スタジオスタッフもいるし、力仕事で役立つタイプでもないので、あえて蕾夏が本業を休んでまで立ち会う理由が、咲夜にはよくわからなかった。が……最近、少し、わかった気がする。そうする蕾夏の気持ちも、そして、蕾夏を必要とする瑞樹の気持ちも。

 多分、奏に関わる仕事だから、だ。
 瑞樹が個人的に問題を色々抱えているらしいことは、奏が時折彼に関する話題で言葉を濁すことで、漠然と察してはいる。それに加えて、奏と瑞樹の間には、消し去れない過去がある。今は互いを優秀なモデル・カメラマンとして認め合っている2人だが、それでも、その過去を完全に忘れることは難しいのかもしれない。
 だから、蕾夏が常に、傍にいる。
 奏との仕事に限らず、瑞樹の「精神面」が蕾夏を必要としている時を選んで、傍にいる。
 プロとして仕事に専念するだけの平常心を保たせるために。ポーカーフェイスな瑞樹の、誰にも見えない場所に秘められた動揺や不安を支えるために―――何もできなくてもいいから、傍でついていたい。それが、ああして蕾夏が瑞樹の隣にいる理由だ。

 奏にとっての自分も、そんな存在足り得ているのだろうか―――ちょうど控え室で着替えを終えている頃だろう奏のことに咲夜が思いを馳せていると、
 「…さっきの話だけど」
 いつの間にか、蕾夏が抜けた分の間を詰めて隣に来ていた佐倉が、小声で囁いた。
 「麻生さんには、話したの?」
 「……」
 ―――やっぱり、そこか。
 佐倉がやけにこの話に固執する理由は、聞かなくてもわかっていた。小さくため息をついた咲夜は、撮影セットの方を眺めたまま、ぶっきらぼうに答えた。
 「話してない」
 「どうして。真っ先に相談すべき相手でしょうに」
 「真っ先に相談すべき相手は、一成やヨッシーだよ。拓海に相談してどうすんの」
 「咲夜ちゃん」
 業を煮やしたように、佐倉は咲夜の肩に手をかけ、自分の方を向かせた。
 「まさかとは思うけど―――あたしに気を遣って、麻生さんに相談してないんじゃないでしょうね?」
 「……ふ……」
 佐倉の真剣な目を見つめ返し、思わず苦笑が漏れる。本当にこの人は変わっていない―――咲夜は、肩に置かれた佐倉の手をポンポン、となだめるように叩いた。
 「相変わらずだね、佐倉さん」
 「え?」
 「その、自意識過剰と、姉御気質。いい加減、なんでもかんでも把握してないと気が済まない性分とすぐ責任感じる悪い癖、直さない?」
 さすがに、佐倉の眉が不愉快そうに歪む。が、佐倉も、拓海とよりを戻させられた時の一件で、咲夜一流の毒舌には免疫ができている。ただの毒舌と真に受けるほどバカではなかった。
 「…じゃあ、どうして」
 「相談したくないから」
 きっぱり、言い放つ。さり気なく佐倉の手を外した咲夜は、ふっと笑い、また撮影セットの方に目を向けた。
 「拓海がどう言うか、大体想像つくしね。で、その答えは、今の私が求めてるのとは全然違うものだから―――拓海に相談しても何も解決しないってわかってるから、相談しないだけ」
 「麻生さんと同じステージに立つのが、夢じゃなかったの?」
 「昔はね」
 「……」
 「でも、今は、それよりもっと大切なものが、私にはあるから」

 一成という、得難いパートナーがいるから。
 今はまだ、一成もヨッシーも、残りのライブを無事に務めることに専念している。なのに、咲夜だけ真っ先に拓海に相談して、勝手に身の振り方を決めるなんて―――勿論、一成やヨッシーのことだから、そうしたところで咲夜を責めることはないだろう。けれど、咲夜自身が、どうしてもそれは嫌だった。
 そして、それ以上に……奏が、いるから。
 瑞樹と奏の間に、蕾夏という抜けない棘があるように―――奏と咲夜の間には、拓海という抜けない棘がある。口には出さないけれど…今も心のどこかで、鈍い痛みを伴い、疼き続けている棘が。
 一言位相談しろ、と、拓海は思うだろう。佐倉が言うとおり、何か力になろうとしてくれるだろう。
 だからこそ、拓海には―――拓海にだけは、相談しない。

 「何も、ジャズが永久に取り上げられた訳でもあるまいし。恵まれすぎてた環境から、普通のアマチュアのレベルに戻るだけじゃん。そんな顔しないでよ」
 「…そう」
 どことなく諦めたような佐倉の声を右側に聞きつつ、咲夜はある気配を感じ、ハッとして視線を周囲に彷徨わせた。
 見れば、控え室へと続くドアから、1人の人物がちょうど姿を現したところだった。今朝も見た筈のその顔を見つけ、咲夜は思わず息を呑んだ。
 ―――うっわー…。Excellent(極上)
 なんでここで英単語になるのか、自分でもよくわからないが―――まさに、極上品。咲夜は、彼が隣に住む親友で、かつ自分の恋人であることも忘れて、暫し見惚れてしまった。
 優雅さを売りとする“VITT”のフォーマルスーツ。奏のスーツ姿は、モデルとしてなら既に何度も見たことがあるが、それらを見た時とは、まるで印象が違っている。
 極々スタンダードなスタイルのスーツなのに、何故だろう……その色といいデザインといい材質といい、全てが奏にピッタリとマッチして見えた。そう―――「着ている」ではなく「そのように出来ている」といった感じ。皮膚か何かのように、長年奏の体に馴染んでしまったかのようだ。
 何故、今回だけ―――そう疑問に思った咲夜の頭に、一瞬、ある考えが浮かんだが。
 「おやまあ。可愛いこと」
 奏が咲夜の姿を見つけ、照れたような笑顔で手を挙げるのを見て、佐倉が少し呆れたような声を上げる。…まあ、確かに。苦笑を浮かべた咲夜は、奏に手を振り返した。
 まだ時間に余裕があるのか、奏はこちらに駆け寄り、わざとらしく「いかにもモデル立ちなポーズ」をとってみせた。
 「どうよ? 感想は」
 「うーん、モデルっぽい」
 「まんまかよっ」
 「ていうか、他のスーツの数倍、奏にピッタリしてる感じ」
 「昔から、ここの服は着やすいんだよな」
 そう言って、奏は上機嫌で笑った。昔から―――そうだ。考えてみれば、奏が“VITT”のモデルを務めるのは、これが初めてではないのだ。
 「あたし、昼から他の現場行かないといけないから」
 佐倉がビジネスライクに告げると、奏は心得た様子で頷いた。
 「わかってる。初仕事で心細い思いしてるだろうから、早めにここ抜けていいよ」
 「とりあえず、フォーマルの撮影がある程度順調に進んでるの確認してからにするわ」
 どうやら、新人モデルの初仕事と、この“VITT”の仕事が重なってしまったらしい。1人で全て切り盛りしているのだから、佐倉も大変だ。
 「咲夜は?」
 奏の目が再びこちらを向く。最後まで見学するのか、という意味だろう。当然、咲夜はニッと笑って答えた。
 「一番見たかったカジュアルラインが、最後なんでしょ」
 「途中、暇すぎて飽きるんじゃない?」
 朝イチでスタジオ入りした上に、完全に1日がかりの撮影であることは、最初から承知の上だ。ふっふっふ、と笑った咲夜は、バッグの中から、とびきり分厚い文庫本を取り出し、奏の目の前に突きつけた。
 「うわ、なんだこりゃ!」
 「海外推理小説の翻訳モノ。厚さの割に中身は軽いんで、暇つぶしにはちょうどいいと思って」
 「…軽いっつっても…えぇ、この分厚さだぜ、おい…」
 恐ろしいものでも見るかのような目で文庫本を見下ろし、奏は露骨にゲンナリな顔をした。ああ、こいつ、あんまり小説とか好きじゃないからなぁ―――その割に、妙な心理学の専門書などを読み込んでいる辺り、奏の育った環境が見事に影響しているのだろうけれど。
 ロマンチストで本好きなところを受け継いだのが累で、陽気でやたら人間に対して興味と愛着を持つところを受け継いだのが、奏。血は繋がっていなくても、双子は揃って、育ての親の特質をちゃんと受け継いでいるのだ。本当に。
 でも―――それだけじゃ、ない。そのことに、奏自身が気づいているかどうかは、疑問だが。
 「じゃ…、そろそろ始まるから」
 「うん」
 頷く咲夜に、奏はその頭をクシャクシャと撫で、僅かの隙に頬に軽くキスを落とした。え、と咲夜が固まるより早く、奏は軽い足取りでセットの方へと歩き去ってしまった。
 「……」
 「…軽いハイ状態ね。気合い入れすぎたんでしょ」
 佐倉の分析が冷静なのが、尚更痛い。咲夜は、奏の唇が触れた頬を軽く抑え、深いため息をついた。


***


 「浮かれすぎるなよ」
 香盤表のチェックをしつつ、瑞樹が冷ややかにそう言い放つ。それを耳にして、奏は不満そうに口を尖らせた。
 「浮かれてないって。むしろ、内側じゃ普段の数倍落ち着いてんだから」
 「…そう見えねーから言ってるんだ」
 「ほんとだって。今日は、無茶苦茶調子いいんだ」
 事実、奏は、見た目よりはるかに落ち着いていた。
 元々、本番になってしまえば開き直って落ち着いてしまう傾向があったが、今日はそれ以上だ。“VITT”の仕事ということで、昨日はいつも以上にナーバスになっていた筈なのに―――今は、昨日まで感じていた不安や憂鬱な気分を、一切感じない。普段の仕事と同じ平常心と、武者震いに近いものを感じるほどの、いつも以上の高揚感だけだ。
 「長丁場はあんまり好きじゃないけど、今日はなんか、気分良く乗り切れそうな感じ」
 「そりゃ結構」
 無感動に相槌を打った瑞樹は、更に余計な一言を付け加えた。
 「蕾夏が来た途端フリースロー見事に外した頃から比べると、大した成長だ」
 「……」
 半分忘れかけていた情けない思い出に、奏は思わず頬を紅潮させた。
 「バ…ッ、あ、あの時と一緒にするなよっ!」
 「どっか違ってるか?」
 「ちげーよ、全然! 咲夜の前でいいカッコしようとか、そんなこと今更思う訳ないだろ。サイテーな姿、散々見られちまってるのに」
 奏の反論に、瑞樹は妙に納得がいった様子で「なるほど」と呟いた。
 「じゃあ、その浮かれた顔は、珍しくカッコいい自分を見せられるからか」
 「だから、浮かれてねーって。それに、本音は、成田が言うのと逆だし」
 「逆?」
 「…日頃、バカなとこばっか見せてる咲夜に、こういうオレ見られるのがちょっと気恥ずかしい」
 「……」
 顔を上げた瑞樹は、呆れたような目で、奏をじっと見つめた。が、軽くため息をつくと、面倒になったように香盤表を近くの作業台の上に放り出した。
 「安心しろ。俺から見たら、撮影中のお前も普段のお前も、バカさ加減では大差ないから」
 ―――…むか。
 「瑞樹、これでいいかな」
 奏が不満げに眉を上げた刹那、蕾夏が瑞樹の袖を軽く引いた。撮影機材の準備が整ったらしい。
 「ああ、OK。メディア何枚用意してる?」
 「とりあえずここに出してるのは5枚。全カットいけそうになかったら、昼休みに出すけど」
 「わかった。あと10分位だから」
 最終確認でもあるのか、瑞樹はそう言い残して、またアートディレクターの所へ行ってしまった。その際、蕾夏がセッティングしていたカメラ横のスペースが目に入り、奏は初めて、今日の撮影がデジタルであることに気づいた。
 「へぇ…デジタルなんだ。珍しい」
 「そう? 最近はデジタルばっかりでしょ」
 「いや、そうなんだけどさ。成田は銀塩てイメージがあるから」
 愛用しているライカといい、仕事で何度も目にしたニコンといい、奏が見たことのある瑞樹のカメラは、全てフィルム撮影の銀塩カメラだ。確かに、撮影現場の多くがデジタルカメラに移行してしまったが、瑞樹だけは銀塩にこだわり続けるのではないか、と、奏は特に根拠もなく思っていた。それは多分、どことなく瑞樹と似ている彼―――奏の伯父であり実の父である男が、「僕はフィルム撮影しかしない」と公言しているせいなのかもしれないが。
 「時田さんランクになれば我がままも言えるんだけど、普通はクライアントの要求優先が当然だもの。同年代ですら、もうまともにポジを見られる編集者がいない、って、瑞樹もよく嘆いてるよ」
 苦笑しつつ蕾夏が教えてくれた裏事情に、奏もつられて苦笑する。なるほど、これから現場に出てくる若手連中は、携帯電話とネットとデジカメで育った世代だ。機材の問題以上に、そういう人材の問題もあって、瑞樹もデジタル化の波に乗るしかないらしい。
 「あんな皮肉言ったりしてるけどね―――瑞樹も、ほんとはすっごい、緊張してるんだよ」
 なんとなく瑞樹の背中を目で追っていたら、蕾夏が唐突に、そんなことを言った。
 え? と目を丸くして蕾夏を見下ろす奏に、蕾夏はクスッと面白そうに笑った。
 「奏君にとって、最後の撮影だもの。最高のもの撮らないと、って、プレッシャー感じて当然じゃない?」
 「……」
 「フィルムで撮りたかった、って、昨日までグチグチ言ってたけどね。…大丈夫。奏君が絶好調なのと同じで、瑞樹も最高に調子いいから」
 呆けてしまって何も返しそうにないのを察しているのか、蕾夏はそう言ってポン、と奏の腕を叩き、親指を上げて見せる。“Good luck”―――その唇の動きに奏が目をとられているうちに、踵を返し、咲夜や佐倉がいる所へと行ってしまった。

 ―――全く…。
 相変わらず、愛情表現が歪んでやがる。

 だからいまだに、瑞樹のいいようにからかわれ、真に受けて熱くなってしまう。なんだか悔しくなって、奏は思わず、瑞樹の背中を睨んでしまった。そして、思った。ああ…オレって、やっぱりあのタイプに弱いのかもしれない、と。
 何故なら、咲夜もまた、いまだ奏が本音を見抜けず、右へ左へあっさり翻弄されてしまう相手だから。
 ―――ちっきしょー、見てろよ。
 本当は、咲夜の前でいいカッコなどする気は、微塵もなかったのだが―――奏は、つい数分前とはまた違った意味で、より気合いを入れたのだった。


***


 「…なんか、妙に挑戦的じゃない? あいつ」
 「そう?」
 咲夜が感じたものを、佐倉は感じなかったようだ。気のせいかな―――僅かに寒気を感じつつ、咲夜はセット中央からこちらに視線を送ってきた奏に向かって、がんばれよー、と手を振ってやった。
 おう任せろ、とでも言うようにピースサインを返してくる奏は、やはりどこか挑戦的だ。さっき、瑞樹や蕾夏と話している中で、何か心境の変化でもあったのだろうか。まあ…なんであれ、気合いが入っているようで結構なことだ。
 フォーマル、ビジネス、カジュアルという3つの異なるラインのポスターを今日1日で撮るというので、一体どんなセットで撮るのだろう、と疑問に思っていたのだが、蓋を開けてみれば、目の前に組まれているセットは、実にシンプルな白バックのみだった。さっき蕾夏がデジタルカメラ撮影だと言っていたが、もしかして後から背景を合成したりするのだろうか。スタジオの片隅にパソコンがしっかり置かれているのも、前に見た撮影現場とは違っていて、なんだか落ち着かない。
 よろしくお願いします、とスタッフ全員が軽く挨拶を交わす。いよいよだ―――撮影スタートの瞬間を前に、咲夜も表情を引き締めた。

 ―――なんか、怖い。
 音楽はかかっているが、それ以外、音がない。
 数メートルの距離を挟んで対峙する2人の間に、目には見えない糸がピン、と張っているのがわかる。息が詰まるような、緊張感―――それは、ライブの時、一成が最初の1音を叩く直前の空気とよく似ていた。

 距離があるからか、シャッター音は聞こえない。が、その瞬間、確かにどこかで、シャッターを切る音が微かにした。
 と同時に、空気が、動いた。
 ファースト・ショットは、極自然な、立ち姿。ニュートラルな表情をした奏が、そこにいた。
 そのまま、カメラから視線を外し、流れるような動きでポーズを変える。
 後方に視線を流す。スーツの裾を翻す。踵を返し、振り返る。表情はニュートラルから、柔らかな笑みへと変化し、そうかと思えば挑発するようにカメラを見据える。立ち位置はほとんど変えないままに、奏は次々へと表情を変えていった。それも、見事なまでに、シャッターとシンクロしながら―――どの表情も撮り漏らさせないよう、絶妙なタイミングで。

 まるで、1つの完成された、ショーだ。
 プロだな、と、改めて思う。勿論、前に撮影現場を見た時にも、そう思ったけれど…今日は、あの時以上に実感する。贔屓目でも誇張でもなく、これは奏の天職―――天賦の才能だ、と。
 そして、さっき、ふいに頭を掠めた考えが、また頭をよぎる。
 やはり―――これは、DNAの成せる業なのではないか、と。

 確か、前に奏から聞いた話では、“VITT”の服のデザインは、現在も全て社長であるサラ・ヴィットが行っているという話だった。
 まるで、生まれ持った皮膚であるかのように、別次元レベルで奏にマッチしきってしまっている、“VITT”の服―――勿論、咲夜はファッションに関してはド素人だ。一般的な同世代の女性以下だろう。けれど、単なるファッションセンスとは別の部分で、咲夜は痛いほどに感じていた。この服は、奏のために作られたに等しい服―――奏に着られるために生まれた服なのだ、と。
 生れ落ちた直後から、一度として触れ合いのないまま別れてしまった、親と子。けれど……DNAレベルで、確かにサラから奏に受け継がれたものがあって、それが2人の間で一致しているから、こんなに奏に馴染んだ服が生まれるのではないだろうか。
 ―――なぁんてこと、奏に言ったら、凄く嫌がるだろうな。
 当然だ。だから咲夜も、口にするつもりはない。ただ、いかに本人が疎んじ呪ったところで、やはり血の繋がりは切れることはないのか…と、苦々しく思っただけだ。咲夜自身、その血の繋がりを疎んじ呪っている相手がいるから、余計に。

 ―――今は、そんなことより―――…。
 撮影風景を見つめたまま、思わず、自らの両腕を抱き寄せる。
 いつの間にか、総毛立っている。その昔、拓海のピアノに合わせて歌う多恵子の声に、同じように全身に鳥肌が立ったことがある。無意識のうちに、体が反応してしまうほどの、感動―――いや、辞書的な「感動」とは、少し違うかもしれない。字面どおりの「感動」……感情が、動く。激しく揺さぶられる。どうしようもなく。
 多分、極平均的な美的感覚を持った女の子であれば、誰もが一度は憧れるタイプであろう、奏の容姿。けれど、咲夜はこれまで、奏の内面や表情には激しく惹かれはしても、外見そのものには、あまり関心がなかった。
 でも―――今、カメラの前で優雅に舞う奏を見て、初めて、心から思った。
 なんて…なんて、綺麗な生き物なんだろう、と。
 綺麗―――男とか、女とか、そういうジャンルさえ超えて、ただただ綺麗で、魅惑的。逆に、奏が自分のことをそんな風に見る機会なんて、まずないだろう。そう思うと、少し悔しいけれど……咲夜は、鼓動が速くなるのを、どうしても抑えられなかった。
 ―――もしかしたら、奏を好きになる女の子って、こんな感じで恋に落ちるのかもしれないなぁ…。
 それを知ったら、奏は「やっぱ見た目だけかよ」と、あのウンザリした顔で言い捨てるかもしれない。でも、恋をしてしまう女の子たちを、今の咲夜は非難する気にはなれない。こんなの見せられてグラつかないなんて、並な神経じゃ無理だよ―――速い胸を片手で押さえ、咲夜は大きく息を吐いた。

 一通りの撮影を終え、瑞樹がカメラから手を離し、スタジオマンに合図を送る。と同時に、スタジオ内の空気がふっ、と緩んだ。
 どうやら、フォーマルラインの最初の撮影が終わったらしい。咲夜も、安堵の息と共に、体中の力を抜いた。
 「調子良さそうね。安心したわ」
 見慣れているせいか、隣の佐倉が、極めてビジネスライクな声音でそう呟く。その言葉に咲夜が相槌を打とうとした刹那、奏がこちらに向かって、勝ち誇ったような笑みを送ってきた。
 「……」
 どうだ、参ったか―――そんな言葉をそのまま笑みにしたような笑顔に、咲夜は不覚にも「負けた」と思ってしまった。

***

 その後も、撮影は順調に進んだ。
 まるで舞台の早変わりのように、あっという間に別のスーツに着替えた奏が再びカメラの前に立ち、フォーマルラインの撮影がもう1種類行われた。それが無事終わったところでちょうど昼食の時間帯となり、撮影は一旦休憩となった。
 フォーマルラインの撮影を一応見終えた佐倉は、そこで現場を離れ、新人モデルの現場へと向かってしまった。
 「昼飯食おうぜ」
 「…そのカッコのまま?」
 2着目のスーツ姿で奏に言われて、大丈夫かいな、と思わず眉をひそめる。1着目とは違い、明るい色のスーツだ。汚したら大変じゃないか、と思ったが、奏はまるで頓着しない顔で笑った。
 「問題ないない。いつも衣装着たまんま、差し入れ食ったりしてるんだから。ちゃんと汚れないもん選ぶし」
 「そっか…。あ、成田さんと蕾夏さんは?」
 2人は食事に行かないのだろうか、と瑞樹と蕾夏の姿を探すと、2人は、スタジオの片隅に置かれたパソコンの前に陣取り、何やら作業を開始していた。その傍らには、恐らくは昼食が入っているのであろうコンビニの袋がしっかり置かれていた。
 「げ…、昼休みも、仕事?」
 「…みたいだな」
 どうやら、撮り終えたデジタル画像をCDに焼くとか、その類の作業をしているらしい。どう見ても昼食を食べに出る雰囲気ではなさそうなので、仕方なく2人だけで食事に行くことにした。


 「でも、なんか惜しいね」
 咲夜が言うと、ピラフを口に運びかけていた奏が「あ?」と言って眉をひそめた。
 「何が」
 「モデル。あと少しで辞めちゃうのかと思うと、なんかもったいなくて」
 「…っつってもなぁ…。本来、28の誕生日で辞める筈だったのが、ここまで延びてる位なんだし」
 「まあね」
 でも―――佐倉じゃないが、つくづく、惜しい。確かに容姿を売りにするモデル業というのは、容姿が衰える前に辞めるのが賢い選択なのかもしれない。が……撮影現場を目の当たりにすると、奏はまだ引退する必要などないのではないか、とつい思ってしまう。
 「奏だって、まだ続けられるな、っていう自覚、あるんじゃないの」
 「まあな。でも、まだいける、もうちょい続けるか、なんて言い出したら、キリがないしなぁ」
 難しい顔でピラフを頬張った奏は、もぐもぐと口を動かしながら、暫し黙って何かを考え込んだ。そして、水を一口飲んだ後で、大きくため息をついた。
 「正直、顔がこれ以上売れるのも、困りものだしな。実際、ゲーノーカイっぽいオファーも、何度か佐倉さんとこに舞い込んでたらしいし」
 「えっ」
 「モデルを芸能人になるための足がかりだと思ってる奴の方が多い位のご時世だからな。佐倉さんは“本物”しかプロデュースする気ないし、オレもモデルしかやりたくないから、そういうオファーは全部断るけど」
 …それは、確かに、わかる。モデルと芸能人の境界線は、特に最近では、かなり曖昧だ。芸能人をモデル起用するケースも多いし、モデルとしてスタートした人間が、いつの間にか歌ってたりドラマに出ていたりする。奏ほどの容姿と演技力を持っていれば、目をつけない方が馬鹿かもしれない。
 「ハンパにモデル続けてると、メイクの仕事に割くエネルギーが不十分になるし。いい加減、仕事を1本に絞って、そっちでちゃんと食ってけるようにならないと」
 「そうだねぇ…」
 ―――あ、また。
 奏の表情の微妙な変化に気づき、咲夜は相槌を打ちながら、そっと奏の顔を見つめた。
 最近、仕事の話になると、奏は時々こういう表情を見せる。何かに思いを馳せているような―――心ここにあらずな、顔。確か、12月に入った頃からだろうか。そう…特に、大河内夫人の事件があったクリスマスイブ以降、その頻度が更に増した気がする。
 時折漏らす愚痴からも、奏が何を悩んでいるか、咲夜にも大体わかる。
 奏は、迷い始めているのだ。今、自分が歩み始めている道が、本当に正しいのかどうか。このまま黒川の下で、“Studio K.K.”のスタッフとして働くことが、果たして本当に自分のためになっているのかどうか。
 咲夜には、何も言うことができない。奏の迷いも苛立ちも、似た状況にいるから痛いほどわかるのに…何の力にもなってやれない。そのことが、時々、歯がゆくなる。
 ―――佐倉さんなら、何か力になれるのかもしれないんだけどな…。
 ふと、そんなことを考えてしまい、ちょっとばかり自己嫌悪に陥った。軽く頭を振った咲夜は、置いてしまっていたスプーンを再び手に取り、無言でピラフを口に運んだ。


 午後からは、ビジネスラインの撮影だった。
 ビジネススーツは1着だけの撮影らしかったが、椅子やら小物やらが途中から登場したので、フォーマルより長い撮影になった。同じスーツで、色々バリエーションを効かせているらしい。
 もっと暇を持て余すかと思っていたのに、意外にも、せっかく持ってきた文庫本の出番は、今のところ皆無だ。目まぐるしく変化する奏のポーズや表情に見惚れていたら、あっという間にビジネスラインの撮影が終わってしまった。

 「疲れたんじゃない?」
 カジュアルラインのための衣装替えの間、蕾夏に問われ、咲夜は首を振った。
 「全然。蕾夏さんこそ、見た目よりタフだね」
 抜けるように白い肌をした彼女は、お世辞にも「元気でパワフル」といったタイプには見えない。感心したような咲夜の声に、蕾夏は照れたように笑った。
 「あはは、普段はそうでもないけど、現場では結構タフになれちゃう、かな」
 「ふーん…。もしかして、愛の力ってやつ?」
 からかうように言ってみると、蕾夏は、少しの動揺も見せることなく、悪意のない顔で即座に返した。
 「どうでしょう。咲夜ちゃんが疲れてないのと同じ理由じゃない?」
 「……」
 …お見事。降参した咲夜は、諸手を挙げ苦笑した。
 ―――やっぱ、ちょっと妬いてたのかなぁ…。
 柄にもなく、佐倉なら、などと考えてしまったのは……多分、今日のこの現場を見ていて、佐倉に嫉妬してしまった部分があったから、なのかもしれない。
 日頃とは違う、眩しいほどに輝いている奏を見てしまったら、その世界では完全に「ただの見学者」にしかなれない自分が、ちょっと…寂しかった。蕾夏が瑞樹の手助けをしているのを目の当たりにしたのも、少し影響しているのかもしれない。あんな風に、現場での興奮を共有できる関係って、いいよなぁ―――そんな風に思ったら、その立場に成り得る佐倉が、羨ましくなってしまったのかもしれない。
 ―――佐倉さんは、拓海と一緒にいて、そんな風に考えること、ないのかな。
 一瞬、そんなことが、頭をよぎる。が、咲夜はそれを、慌てて消し去った。なんだか―――とてつもなく危険なことを考えたような気がして。
 「? どうかした?」
 蕾夏が少し不審げな顔をする。
 感の鋭い彼女だから、咲夜の僅かな表情の変化に気づいてしまったのかもしれない。自分でも説明のつかない焦りを一瞬で飲み込み、咲夜は笑顔を作って「何でも」と答えた。
 「あ、奏君、戻って来たね」
 そこにちょうど、奏がカジュアルの衣装に着替えて、スタジオに戻ってきた。蕾夏は「じゃ」と言って咲夜のもとを離れ、また瑞樹の斜め後ろへと戻った。
 “VITT”のカジュアルラインは、実にシンプル、かつ、一目で上質とわかるシロモノだった。
 シンプルなコットン生地の、白いシャツ。独特の深みを持つ濃紺のジーンズ。それに合わせたレッドラインの入った紺のスニーカーも、もしかして“VITT JEAN”の商品なのだろうか。大きく開いた胸元から覗くいぶし銀のシルバーペンダントも、もしかしたらそうなのかもしれない。
 ―――うん。やっぱり、これだ。
 勿論、フォーマルスーツも優雅でよく似合っていたし、ビジネススーツもビシッと決まっていた。思わず咲夜が見惚れてしまうほどに。けれど、やっぱり奏には、こういう洗いざらしのようなラフな服装の方が似合う。奏の性格にも一番ピッタリくるし、なんというか…一番男っぽく見えて、一番色気を感じる。
 ―――い、色気、かぁ…。
 自分で考えついておきながら、改めてそんな単語を意識してしまい、なんだか落ち着かない気分になる。普段の服装に近くなった分、あんなのと私は付き合ってるのか、と思うと、妙に顔が熱くなってきてしまった。
 撮影前の確認をしているのか、奏はまだ瑞樹と何やら話をしているようだ。撮影が始まるまで、ちょっと本でも読んでおこうかな―――落ち着かない気分をリセットするためにも、咲夜はそう考え、床に置いていたバッグに手を伸ばしかけた。
 が―――あと少しでバッグに指先が触れようとした、その刹那、突如、スタジオ内がざわめいた。
 「?」
 伸ばしかけた手を引っ込め、顔を上げる。すると、スタジオ中の人間の目が、同じ方向に向けられているのがわかった。同じ方向―――ちょうど、廊下からスタジオに通じる、ドアの方に。その視線を追うように、咲夜も腰を伸ばし、ドアの方に目を向けた。

 そこに立っていたのは、女性、だった。
 ただし、ただの女性ではない。輝くようなブロンドヘアを持つ、かなりの美女―――明らかに、外国人だ。

 年の頃は、40代…だろうか? その美貌からは、正しい年齢を推測し難いものがある。見事なブロンドヘアを結い上げ、ワインレッドの洒落たスーツを、まるでモデルか何かのように着こなしている。そのすぐ横に、同じ年代であろう日本人の女性(もしかしたら通訳なのかもしれない)が付き添っているが、その容姿の圧倒的な差は、まるで引き立て役か何かのように見えてしまって、少々気の毒だ。
 誰―――そう思った直後、ある可能性が咲夜の頭によぎる。ハッとした咲夜は、反射的に奏の方に目を向けた。

 奏も、彼女の方を見ていた。
 瑞樹と並んで、彼女の方を、凝視していた。

 その、強張った、凍りついたような表情を見て、咲夜は確信した。
 突如現れたこの美女こそが―――サラ・ヴィット、その人であることを。


***


 ―――息、が…。
 息が、苦しい。

 視線を逸らすこともできず、奏は、喘ぐように、シャツの胸元を握り締めた。
 覚悟はしていた。多分、この仕事のどこかで、いつかは再会することになるのだろう、と。けれど、まさか―――まさか、それが、今日だとは。

 スタジオ中の人々の大半が、その美貌と、明らかに異国人である風貌のせいで、目を向けてしまったのだろう。だが、撮影に立ち会っていた“VITT”の社員3名は違っていた。自分たちの会社の社長が顔を出したことに気づくと、即座に彼女のもとに向かい、慌てた様子で頭を下げ出した。多分、彼らにとっても突然の来訪だったのだろう。
 「…奏」
 隣にいる瑞樹が、小さく名を呼ぶ。が、奏は、まだサラを凝視したまま、その声に気づけずにいた。
 「奏!」
 ぐい、と腕を引かれ、我に返った。
 魔法が解けたように、呼吸が戻る。肩で息をした奏は、強張ったままの顔を、ようやく瑞樹の方に向けた。
 瑞樹の目は、動揺していなかった。いや―――多分、サラの姿を認めた瞬間は、彼なりに動揺したに違いない。だが、瑞樹はもう気持ちを切り替えている。奏を見据える目は、鋭く、厳しかった。
 「…動揺、するな」
 「……」
 「お前に何の負い目がある? 動揺すべきは、あの女の方だろ。落ち着け」
 「……」
 動揺なんか、してない。
 そう返したかったのに、声が出なかった。何故―――自分でも、わからない。ただ、胸の辺りに何かがつかえて、言葉が上手く出てこない。
 そんな奏の様子に軽く舌打ちした瑞樹は、更に奏の腕を強く握った。そのあまりの力に、奏が痛みを覚え、顔を歪めるほどに。
 「いいか。お前はプロで、あそこにいるのは“クライアント”だ」
 「……」
 「だから、千里さんの息子であるお前が、動揺なんかするな」
 “千里さんの息子”―――その言葉に、奏の目が、大きく揺れた。
 誰が産んだかなんて関係ない、お前は千里さんの子供だ―――出会った頃から、瑞樹は奏に対して、常にそう言っていた。そしてそれは、奏自身にとっても、唯一の真実だった。この世で“母”と呼べる人は、一宮千里、ただ1人だ。
 あそこにいるのは、ただの“クライアント”。
 過去に自分とどういう関係があったかなんて、どうでもいい。今ここに立つ自分は、あそこにいる女からプロであることを求められた、ただの1人のモデルだ。
 すぅ、と息を吸い込む。微かに震えていた奏の指先が、止まった。
 「―――動揺なんか、してねぇよ」
 低く奏が答えると、瑞樹はニッ、と笑い、やっと腕を放した。
 「見せつけてやれよ―――あの女には絶対真似できない、生身の一宮 奏を」
 “Frosty Beauty”の呪縛など、気にするな。
 言外の意味を感じ取り、ようやく気持ちがフラットに戻る。もう一度大きく息を吸い込んだ奏は、今度はしっかりと口の端を上げ、瑞樹に強気な笑みを返した。

 「じゃあ、“VITT JEAN”分、始めます」
 カメラの方へと戻りながら、瑞樹が周囲のスタッフにそう合図した。少し乱れてしまったシャツの胸元を直した奏も、顎を上げ、ホリゾントの中央に立った。
 瑞樹や蕾夏を通り越したその向こうに、咲夜の姿が見える。逆光気味で表情があまり見えないが、何やら右手を高々と挙げていた。何だ? と目を細めた奏は、それがピースサインであることに気づいた。
 いや…ピースサインじゃない。
 あれは、Vサイン―――勝利(Victory)の、V、だ。

 ―――誰が、負けるかよ。
 あんたが見てる位で、動揺なんかして、たまるかよ…!

 咲夜から大きく左にずれた場所に、ひときわ目立つ人影が、1つ。通訳らしき女性から何かを囁かれ、軽く頷くその女を、奏は一度、きつく睨み据えた。
 その瞬間、瑞樹がシャッターを切った。
 パシャッ! という小気味良い音と共に、奏の中で、何かが弾けた気がした。


***


 パチパチパチ、という拍手の音で、咲夜は一時の夢から目覚めた。
 「……」
 辺りを見回すと、スタッフ一同、互いの健闘を称えて拍手を送りあっていた。ああ、終わったのか―――あまりに集中しすぎていて、撮影が無事終了したことにも気づかなかったらしい。咲夜は大きく息を吐き出し、いつの間にか額に滲んでいた汗を手の甲で拭った。
 ―――やば…、まだ、ドキドキしてる。
 鼓動の速さのせいで、なんだか上手く呼吸ができない。胸に手を当てた咲夜は、壁に背中を預け、瑞樹と握手を交わす奏の姿をぼんやりと眺めた。

 夢―――まさに、夢だった。
 最初こそ、見ている咲夜も、離れた所でじっと撮影の様子を見守っているサラ・ヴィットの存在が気になって仕方なかった。が……それは、本当にはじめの一瞬だけ。撮影が始まったら、あっという間にその世界に没頭してしまい、サラの存在など周囲の景色に埋没してしまった。
 奏の、圧倒的な存在感の、勝利。
 咲夜だけじゃない。“VITT”の担当者もスタッフも、みんな、まばゆいライトの中で屈託のない表情を見せる奏に、釘付けになっていた。
 大口を開けて笑ったかと思えば、心地よいブランケットにでも包まれているみたいな、穏やかな表情をする。椅子の上であぐらをかいたかと思えば、立ち上がり、そこから思い切り飛び降りてみせたりする。クルクルと目まぐるしく変わるその表情は、咲夜が日頃よく知る奏、そのものだ。豊かで、贅沢で、そして激しい感情―――その皮膚の下に流れる血の熱さをそのまま伝えるような、生身の一宮 奏の素顔だ。

 こういう、奏だから。
 感情をそのまま露わにし、ストレートにぶつけてくる奏だから……咲夜の感情も、揺さぶられる。

 ―――揺さぶられすぎて、ちょっと、疲れたかも…。
 この短い時間に、バラード10曲分と同程度には、感情の起伏を経験してしまったかもしれない。そう思った途端、疲労感がどっと背中にのしかかった。
 「咲夜!!」
 そんな咲夜の内心など知らない奏は、瑞樹と握手し、蕾夏に声をかけ終えると、あらん限りの大声で咲夜の名を呼んだ。
 あまりの大声にギョッとした咲夜は、思わず周囲に素早く視線をめぐらせた。それまでさして咲夜に気も留めていなかったらしいスタッフまで、誰だあれ、という目でこちらを見ている。ああ、やっぱり注目を集めてるじゃん―――咲夜は、少しばかり泣きたい気分になった。
 なのに奏は、ご主人のもとに駆け寄る飼い犬の如く、真っ直ぐに咲夜のところへ駆けてきた。その上、咲夜の腕を取って引き寄せると、咲夜の額に自分の額をゴツン、とぶつけた。
 「どうだった?」
 額と額をくっつけたまま、奏が、晴れ晴れとした口調で訊ねる。
 ―――どうだったかは、あんたのその顔が、一番よく表してるじゃん。
 くすっ、と笑った咲夜は、サムアップした拳で、奏の胸元をコン、と軽く叩いた。
 「カッコ良かったよ、奏」
 咲夜が口に出してそう言うと、照れたのか、奏は「当たり前だろ」と早口で呟き、咲夜の頬を指で弾いた。
 「すぐ着替えてくるから、夕飯食いに行こう」
 「ん、待ってる」
 その返事と同時に、額が離れる。離れてみて初めて、額がじん、と痺れるように痛むことに気づいた。結構な勢いでぶつけてきたんだな、とわかって、咲夜は思わず苦笑してしまった。

 苦笑しながら、無意識のうちに、視線を奏の背後に向ける。
 そして、気づいた。

 ―――…いない。

 「ロビーんとこに、座れる場所があっただろ。あそこで待ってろよ」
 「え? あー、うん」
 控え室へと向かう奏に、笑みを返す。が、奏が背中を向けると同時に、咲夜は再び、視線をスタジオ全体にめぐらせた。
 やはり、いない―――スタジオ中のどこにも、サラ・ヴィットの姿はなかった。

 一体いつ、サラは出て行ったのだろう?
 彼女は、何を思ってここに来て、何を思ってここを出て行ったのだろう?

 かつての自分とは対照的な、人間性の塊のようなモデル・一宮 奏を見て―――サラは、何を感じたのだろう…?

 ―――話して、みたかったな。あの人と。
 何故だろうか。サラがいないことに気づいた咲夜が、真っ先に思ったのは、そんなことだった。


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