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― My little boy and girl(後) ―

 

 「こ―――断ったぁ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げた奏の口を、氷室の手が塞いだ。
 奏自身が思う以上に、大きな声だったらしい。氷室の背後の席に座っているOLらしき女性が、不審げな顔で振り返っている。ごめん、という目を奏がすると、氷室も納得したのか、ため息をつきながら手を外してくれた。
 確かにここ最近、氷室と2人でじっくり話す機会など、ほとんどなかった。他の者がいる場では話題にしにくく、なんとなく訊きそびれているうちに、奏の方がうっかり忘れてしまったような感じだった。が…それにしても。
 「一体、いつ?」
 「前々回、黒川さんが日本に来た時かな」
 「…だったら、もっと早く教えてくれりゃあいいのに…」
 「個人的に打診された話を、おおっぴらに話す訳にもいかないし…。それに、ロンドン店の話なんて、黒川さんが酒の席で出しただけで、その後誰も口にしなかったじゃないか」
 「まあ…それは、そうなんだけど…」
 多分、奏だって、今朝のスタッフミーティングで話題にのぼり、何ヶ月ぶりかで氷室とランチタイムが重なったからこそ、こうして訊く気になったようなものだ。そうでなければ、忘れたままだったかもしれない。
 「…で、なんで断ったんだよ?」
 来週オープンする、黒川賢治プロデュースのメイクサロンへの、引き抜きの話である。
 佐倉から「誰かを引き抜くって噂を聞いた」と聞かされてから、もう3ヶ月ほども経ってしまっているが、今朝、2月最初のスタッフミーティングということもあり、その話が初めて店長の口から出たのだ。ああ、やっとオープンするのか、と思った奏だったが…まさか、氷室が黒川の誘いを断っていたとは。
 「結局、現地の黒川さんの教え子で固めたって話だから、日本人はいないってことだろ? 氷室さんが行けば、向こうの連中にもいい刺激だっただろうに」
 「そんな大層なもんじゃないよ。まあ、即戦力が欲しかったのは事実みたいだけど、黒川さんの口調も、むしろ“経験のために行って来い”的な感じだったし」
 「経験、ねぇ…」
 そりゃ語学研修にはなるけど、と、奏は眉をひそめる。もし氷室がイギリスの店に行っていたなら、どう考えたって、勉強になるのは氷室より向こうの連中の筈だ。
 「氷室さん捕まえて“経験積ませる”もあったもんじゃないと思うけどなぁ…。なんで氷室さんに声かけたんだろう?」
 「…どっちかというと、消去法で僕が残ったっぽいけどね」
 食後のコーヒーを口に運びつつ、氷室は複雑な顔をした。
 「独身スタッフで見てみると、テンの良さは海外で生きるタイプじゃないし、山之内はまだ即戦力にならないし―――奏か僕かで迷って、僕、って感じなんじゃないかな」
 「…で、断った理由は?」
 「―――凄く基本的なことだけど、英語が苦手なんだ。昔から」
 「えー! 言葉の壁が原因かよっ」
 「奏には無縁な悩みだからピンとこないだろうけど、結構深刻なんだぞ」
 露骨に「そんな理由で」という顔をされて、少々むっとしたのだろう。氷室は、日頃の温厚な顔を僅かに厳しいものに変えた。
 「他の業種は知らないけど、接客業で“言葉がわからない”ってのは、致命的だろ? 客の要望も正しく理解できない状態で店に立つなんて、怖くてできる訳ないよ。単なる技術指導や接客マナーの指導のためなら行ったかもしれないけど」
 「…そっか。そりゃそうだよな…」
 「だから僕は、奏がいいんじゃないか、って一応黒川さんに勧めたんだけどね」
 「え、オレ?」
 意外な話に、目を丸くする。が、確かに、奏なら言葉の問題はないし、まだまだ技術面でも未熟な点が多いのだから、氷室が行くよりは勉強にもなるだろう。そう考えると、氷室が奏を自分の代わりとして推すのも理解できる気がする。しかし―――現実には、奏は黒川から何も聞かされていない。
 「…なんだよ。じゃあ、オレに声かけなかったのは、オレじゃ即戦力にならないって判断したからかよ」
 いくらなんでも現地の新人スタッフよりは使えるぞ、と、さすがに不愉快な顔になってしまう。が、氷室は苦笑し、違う違う、と首を振った。
 「そうじゃない。黒川さんが考える“経験”と、奏の考えてる“経験”は、全然別物なんだよ」
 「は?」
 「奏が言う“経験を積む”は、技術的なこととか接客マナーのことだろ? でも、黒川さんが言ってるのは“見聞を広める”ってやつに近いんだよ」
 「…見聞??」
 勿論、言葉の意味は、知っている。が、“それって何だ?”と考えた時、その答えは極めて曖昧だ。
 「何、見聞、て」
 「うーん…つまり、本場ヨーロッパの最新のファッションに生で触れて来い、ってことかな」
 「……」
 「黒川さんの言葉を借りると、日本のファッション業界っていうのは世界のレベルから見たらまだまだで、その中で安穏としてたんじゃ、本当のトップレベルは目指せない、一度は世界を見ておかないと、ってことだよ。まあ確かに、ファッションの最先端はなんだかんだ言ってもいまだにパリ・ミラノだし、名だたるコスメブランドの大半はニューヨーク発だからね」
 「…そんなの、オレだって同じだろ?」
 黒川の言うことに100パーセント賛成できる訳ではないが―――ある程度賛成した上でも、やはり納得がいかない。そのことと、奏を選ばなかったことに、どんな因果関係があるのだろう?
 だが、氷室から返って来た答えは、奏が考えもしなかったものだった。
 「いや、全然違うんじゃないか?」
 「えっ」
 「そもそも奏は、イギリス人な訳だし」
 “イギリス人”。
 …いや、それは確かに、そう、なのだけれど―――よもや自分を日本人だなどと錯覚していた訳でもないのだけれど、でも……思わずキョトンと目を丸くせずにはいられない。イギリス人だから? だから、何? と。
 「日本人なら、海外経験は貴重かもしれないけど、奏にとってヨーロッパは“海外”じゃないし。第一、モデルとしてパリにもミラノにもニューヨークにも行ってる奏は、それこそ世界トップレベルのファッション業界に育てられたようなものじゃないか」
 「……」
 「事実、黒川さんも、最先端で常にファッションセンスを磨いてきた奏には、技術以外で教えることは特にない、って断言してたよ。だから、僕が断っても、奏を引き抜くことは考えなかったんだよ」
 「…………」
 不思議そうだった奏の表情が、氷室の話を聞くにつれ、次第に厳しく、硬いものに変わっていく。それに気づいて、氷室も怪訝そうに眉をひそめた。
 「…え、何か、まずいこと言ったかな」
 「―――いや、」

 どう、説明すればいいのか。
 わからない―――奏自身、自分の反応に戸惑っている部分があるのだ。
 ただ、はっきり言えるのは、今の話を聞いて奏が感じたものは、喜び・安堵・優越感とは逆のもの……マイナスな感情“だけ”だった、ということだけ。

 「黒川さんがそんなこと言うなんて、ちょっと、意外でさ」
 結局、戸惑いを滲ませたような曖昧な苦笑とともに、そんな言葉しか返せなかった。説明できないから苦し紛れに出てきた言葉だったが…皮肉にも、これが一番、今の奏の気持ちを端的に表しているのかもしれない。
 「…っ、と! ヤバイ、もう戻らないと」
 ちょうど壁に掛かっていた時計の針に気づき、2人は席を立った。
 自分から振った話であったにもかかわらず―――奏は、自分が恩知らずなことを口にしてしまう前に話が切り上げられたことに、少しホッとしていた。


 ―――チキショー、腹立つなぁ。
 店までの道すがら、氷室が語ったことを思い出し、思わず眉根を寄せる。
 黒川の主張は確かに、ある程度は「真実」だろう。パリ・コレに比べて東京コレクションの注目度が低いのは事実だし、日本の化粧品メーカーで海外でも名前が通用するのは、有名メイクアップアーティストがプロデュースした、極々一部のメーカーだけだと思う。しかも、その「極一部」であるケンジ・クロカワの主張なのだ。そのとおり、とありがたく聞くのが、まがいなりにも教えを請うた立場である奏が取るべき態度の筈だ。
 でも……駄目だ。どうしても、首を縦には振れない。
 黒川の言う「最先端」の中に居たからこそ―――そして今、その「最先端」からは外れているとされているのであろう日本に居るからこそ、首を縦には振れない。

 欧米が最先端? そんなの、一体誰が決めた?
 日本のファッション業界は、世界からみたらまだまだ? 日本の中にいても本当のトップにはなれない? 一体、何の根拠があって、そんなことを言うのだろう?

 そもそも奏は、よく耳にする「海外に経験を積みに行く」という言葉が、あまり好きではない。
 勿論、違う文化に触れることは大きな刺激になるし、新しいこともたくさん経験するだろう。そういう意味での「経験を積む」には、奏も賛成だし、いいことだ、と素直に思える。
 けれど、「一流を名乗るには、海外経験の1つや2つしてないと」なんてセリフを小耳に挟むたび、疑問に思う。海外に「行った」ことが、そんなに偉いのだろうか―――なんだか、海外に行くことがステータス化してて、嫌だな、と。
 海外をなんでも「最先端」呼ばわりし、そこに「行く」ことを「経験」と呼んで満足している連中も、どうかと思う。
 それ以上に、国内でコツコツ努力した人間より「海外経験」とやらを積んだ人間の方が優れていると思ってしまう周囲にも、疑問を感じる。
 事実、奏はモデルとして数多くのトップクラスのメイクアップアーティストに出会ったが、その中でも氷室は、5本の指に入るほど優れたアーティストだと断言できる。技術的なことなら、あるレベル以上は大差ない。問題は、技術ではカバーできない部分―――氷室ほど的確に客の要望やコンプレックスを見抜くアーティストは、なかなかいない。欠点のフォローもとても自然で、無理に隠すのではなく「気にならなくなる」という難しい路線を見事にやってのける。
 氷室がロンドンに行けば、きっとロンドンのスタッフたちは、氷室のそうした部分に驚き、多くのことを学ぶだろう。海外経験などなくたって、氷室は立派に「トップレベルのアーティスト」だ。少なくとも、奏の価値基準においては。
 最先端? 何が最先端だ。単に有名人に重宝されている有名ブランドだっていうだけの話ではないか。そんなものに取り囲まれていた、というだけで、氷室より自分の方が経験値が高いかのように話す黒川は、一体何を見ているのだろう?

 なんだかなぁ―――無意識のうちに、奏は大きなため息をついていた。
 わかっている。同じ事でも、より広い世界を知った上のことか否かでその意味も深さも変わってくる、だとか、“ネームバリュー”だの“ハク”だのが幅を利かせる世の中であるのは否定し難い事実だ、だとか―――わかっている。黒川の言うことも、間違いではない、むしろ、現実的な「トップレベル」を目指す者にとっては、綺麗事を排除した正しいアドバイスなのだ、ということは。
 けれど…正直、落胆した。氷室同様、東洋人が持つ決め細やかさと自然な色使いで、欧米人とは全く違った形で高い評価を受けた黒川が、そんなことを言うなんて。
 あのまま氷室と話していたら、危うく、恩師である黒川のことを「見損なった」と口走ってしまいそうだった。そんな自分に、身勝手だよな、と思う反面―――焦る。なんだか、狂い始めていた歯車が、いよいよ修正不可能な域に入りつつある気がして。


 「あ! いっちゃん!」
 まだ氷室との会話を引きずったまま奏が店に戻ると、何故かテンが、店とバックヤードの境目辺りで2人の帰りを待っていた。
 「あー、よかったわ。いっちゃんが帰ってきぃひんかったら、どないしよかと思ってた」
 「は?」
 やけにオロオロした様子のテンは、奏の顔を見るや、そう言って安堵したように胸を撫で下ろした。
 「なんだ、どうかしたのか?」
 氷室が訊ねると、テンはオーバーな位に目を見開き、ひそひそ声で告げた。
 「今、店に、ガイジンさんが来てんねん」
 「外人?」
 「日本語話されへんみたいやし、店長も今、別の客の対応しとるし…アカンわ。いっちゃんだけが頼りや」
 反射的に、つい、氷室の顔を見てしまう。案の定、氷室の顔は、明らかに「僕には話を振らないでくれ」という表情だ。
 「…英語圏の客なら引き受けるけど、他んとこの人間だったら、オレも無理だぞ」
 「大丈夫や。一応英語喋ってるのは、ウチでもわかった」
 断片的な単語が聞き取れたらしい。まあ、英語なら問題ないか―――テンに「ちょっと、どけ」と目で合図した奏は、どれどれ、といった心境で店内に足を踏み入れた。
 店内はほどよい加減の混み方で、ウェイティングシートで待つ客の姿も2人だけだった。1人は店長待ちの客、そしてもう1人は―――…。
 「……っ、」
 それが誰なのかを認めた途端―――数日前経験した震えが、再び戻ってきた気がした。
 いや、この前の比ではない。あの時はまだ、僅かながらも覚悟があった。でも今日のこれは……全くの、予想外。何故あの女がここにいるのか、その経緯すら、奏にはさっぱり見当がつかないのだから。
 ―――な…にしに、来やがったんだ、あいつ。
 混乱したまま奏が立ち尽くしていると、奏の存在に気づいたのか、サラがこちらに目を向け、立ち上がった。
 こうなっては、逃げ出す訳にもいかない。覚悟を決めた奏は、ゴクリと唾を飲み込み、ウェイティングシートへと向かった。

 「…Thank you for waiting.(お待たせいたしました)
 飽くまで、他の客同様の対応をすべく、営業用スマイルを顔に貼りつかせる。サラも心得たもので、同じく、知り合いであることなど微塵も感じさせない笑顔で、奏に応えた。
 「Do you have a reservation?(ご予約は?)
 「No,(いいえ)
 ふっ、と笑ったサラは、余計な一言を付け加えた。
 「…And you know that.(知ってるくせに)
 「……」
 「Or, is there a customer like to me well?(それとも、私そっくりなお得意様でもいるの?)
 サラだって、単に初対面の客に対する接客マニュアルの通りに対応しているだけなのを「知ってるくせに」、だ。思わず眉を上げそうになったが、ここはグッと堪えた。
 「Make-up salon, or Facial esthetics?(メイクとフェイシャルエステ、どちらをご利用で?)
 「Make-up salon, please. I want you to make me up because I have an appointment with VIP.(メイクで。今夜、VIPとの約束があるから、メイクをお願いしたいの)
 「Certainly, ma'am. Then, I hear your oder, and tell it to the staff in charge.(かしこまりました。では、私がご要望をお聞きして、担当者に伝えますので)
 「No way!(冗談でしょ)
 サラの綺麗な眉が、ここに来て初めて、仕事現場でよく見かける形に歪んだ。指示がまともに通っておらず、スタッフに苛立った時などに、こういう顔をするのだ。
 「It's meaningless unless "you" take chage of my make-up.(あなたがやってくれなきゃ、意味ないわ)
 「…I'm sorry, ma'am, I'm fully booked through 18:00.(申し訳ありませんが、午後6時まで予約がいっぱいで…)
 「OK. I'll wait.(オーケー。待たせてもらうわ)
 「は!?」
 つい、日本語で反応してしまい、背中にテンや氷室の視線が突き刺さった。
 何言ってるんだこの女、と思いつつ、壁掛け時計を確認する。現在、午後2時半―――今入っている最後の予約客が、午後6時。あと3時間半もある。
 「It will take about for even three and a half hours.(3時間半ほどかかりますが)
 「No problem.(問題なしよ)
 余裕あり気に笑ったサラは、早くもストン、と椅子に腰を下ろしてしまった。
 「Fortunately, my hobby is to observe working man.(幸い、私の趣味は、働いてる人間を観察することだから)
 「……」
 つまり、この場所で、自分の番になるまで延々ずーっと待つ、と。

 ―――なんなんだよ、一体。

 ため息をついた奏は、とりあえずサラをその場に待たせ、氷室に相談してみた。
 「ええ? あそこで3時間半待つって?」
 「…だってさ。困るよなぁ…、あんな目立つのに居座られたら、他の客だって気にするし…」
 「―――なんか、曰くあり気だな。知り合いか?」
 当然のように、見破られた。…それはそうだ。いきなり外国人がやってきて、奏を指名した上に、予約客がいなくなるまで何時間でも待つ、と言っているのだから。これで奏の全く知らない人物だったなら、ちょっとしたミステリーか、もしくはホラーだ。
 「…郁の……叔父貴の、昔からの知り合いなんだ」
 仕方なく、当たり障りのない部分だけ明かすことにした。
 「オレもちょっと知り合いだし、今やってるモデルの仕事のクライアントにも当たるんだ。多分、郁からオレがここ勤めてるの聞いて、興味本位で見に来ただけだと思う」
 「…なるほど」
 クライアント、という言葉に真顔になった氷室は、興味津々で見ているテンには聞こえないよう、小声で囁いた。
 「まだショーの仕事が残ってるんだろう? この位のことでクライアント怒らせるのは、あまりよくない。奏の最後の舞台になるんだし…。受けてやれよ」
 「……」

 『いいか。お前はプロで、あそこにいるのは“クライアント”だ』

 瑞樹の言葉が、また頭を過ぎる。仕方ない―――観念した奏は、氷室の言葉に、僅かに頷いてみせた。


***


 『えー、次の曲が最後のナンバーですね。世田谷区にお住まいの“青春48切符”さんからのリクエストで、“A列車で行こう”。なになに? “麻生拓海のデビューアルバムに入っているバージョン希望”だそうですよ。では、麻生拓海“Black & White”から、“A列車で行こう”』

 ―――ああ、これって、野村さんがドラム叩いたやつだ。
 無意識のうちにカーラジオのボリュームに手が伸びる。今までよりほんの少しだけ大きな音で、狭い車内に拓海が弾く『Take the "A" train』のイントロが流れた。

 「You must take the "A" train... To go to Sugar Hill way up in Harlem...」

 口ずさんでみたけれど、この曲は歌がない方が好きだ。オスカー・ピーターソンの軽妙なキータッチが好きだと、拓海もよく聴いていたっけ―――懐かしいなぁ、と、思わず口元がほころんだ。
 ―――これ録音した頃は、野村さんが超有名ジャズ・プレイヤーになるなんて、拓海も思ってなかったんだろうなぁ。2人とも駆け出しだったんだろうし。
 咲夜が出会う前の、拓海―――今の咲夜と、大差ない年齢の。こうして拓海のもとを離れて、改めて当時の音を聴くと……少し、焦る。あと1年で、あと2年で、自分はこのレベルにまで行けるだろうか、と。

 『やっぱり、どこかプロダクションに所属した方がいいと思うな』

 この前、“VITT”の撮影で会った時、別れ際に佐倉が一言だけそう助言して行った。そしてそれは、咲夜も少し、考えていたことだ。
 拓海が落ち目になってしまった時も、友人だった堀が、「今のお前に必要なのは、お前にまともな仕事をさせる“マネージャーだ”」と断言し、自ら勤めていたレコード会社を辞めて、拓海のマネージャーになってくれた(それが今の拓海のマネージャーだ)。それをすぐ傍で見ていた咲夜は、空白だったスケジュール表が少しずつ埋まっていくのを目の当たりにして「マネージャーって凄い」と驚いた。もっとも傍目には、そういう堀の姿は、ダメ亭主の尻を叩いて働かせている女房かのように見えたが。
 どんな仕事も、サポート役の存在は、重要だ。勿論、あの出雲みたいなのは死んでもゴメンだが、こういう時、今後の仕事について中心となって考えてくれるサポート役がいてくれたら…と実感する。
 でも、どこかの事務所に入るなら、一成も一緒でなければ、活動に支障が出るのではないだろうか。それに、今それぞれが持っている仕事がある。そことの兼ね合いもあるだろうし―――…。
 『さて、そろそろ都内の道路は会社に戻る車で渋滞する頃ですね。ドライバーの皆さん、安全運転でお願いします』
 音楽番組が終わり、そんなセリフが流れたところで、咲夜もちょうど会社までの最後の信号を超えた。なんとかラッシュには巻き込まれず済んだらしいことに安堵しつつ、咲夜は左ウィンカーを出し、ゆっくりとハンドルを切った。

 「おっ、如月、お疲れさん」
 車を止め、助手席から引っ張り出したポットを手にドアを開けると、すぐ隣に止めてあった車から、会社の先輩がひょっこり顔を出した。咲夜より10歳も年上だが、彼もまた、友人とIT企業を立ち上げるべく頑張っている“二足のわらじ組”の1人だ。
 「お疲れ様でーす。なんか顔色悪いですね」
 「なんかどうも風邪気味でねぇ」
 「あー…、たちの悪いのが流行ってるらしいですよ」
 昨日の日曜、今にも倒れそうな顔でゲホゲホ咳をしながら彷徨っている102号室の住人を見かけている咲夜は、彼女の千鳥足を思い出して眉根を寄せた。どこへ行っていたのか、由香理にしては油断しきったモコモコの超厚着で、その上マスクまでして、フラフラ駅の方からアパートへと戻ってきていた。咲夜とすれ違っても気づかないほどだから、よほど限界ギリギリの状態だったのだろう。
 「持ちましょか、その荷物」
 先輩がだるそうに提げているメンテナンス用のバッグが気になり、そう申し出てみる。すると先輩は、すまなそうな顔をしつつも、どことなくホッとしたような表情になった。
 「え、ほんとに? いや、助かるよー。ハンドル操作誤るんじゃないか、ってハラハラするほどだったんで」
 そう言ってゴホゴホと胸に響く咳をするのを見て、この人にもあまり近づかない方がいいな、と、密かに思った。コーヒーデリバリーもやってはいるが、咲夜は一応、歌手なのだ。風邪をうつされ、喉をやられるのだけは、絶対避けねばならない。先輩のバッグを笑顔で素早く受け取った咲夜は、先輩より数歩先を歩き出した。
 「新しいブレンド、結構評判良さそうだな」
 「みたいですねー。私は前のやつの方が好みだったんだけど…」
 そう相槌を打った咲夜だったが、その時、ある人物の姿に気づき、思わず足を止めた。

 茶系統のクラシックなチェック柄のコートには、見覚えがある。数年前からの彼女のお気に入りで、おしゃれにお金をかけるタイプではない彼女は、今もひと冬の大半をこのコートで過ごすのだ。
 「け……」
 蛍子さん。
 と口にしそうになって、危ないところで口を閉じる。すると、それが聞こえたみたいに、他の方向を向いていた彼女の目が、咲夜の方に向けられた。
 「…お母さん…」
 驚いたような、呆れたような咲夜の声に、“母”は戸惑い気味の笑顔で「咲夜ちゃん」と答えた。


***


 ―――集中できねぇ。
 どうにもこうにも、視線が気になって。

 苛立ちに任せて、思わず振り返り、サラを睨む。が、サラは極めて涼しい顔でニッコリ笑い返すだけだった。
 どうせそのうち飽きて帰るだろう、と思っていたのに、サラは思いのほか辛抱強かった。宣言どおり、ウェイティングシートの一番端に座り、じっと奏が予約客をさばききるのを待っている。時折、置いてある雑誌に目を通したり、携帯電話にかかってきた電話に出るため店の外に出たりはしていたが、それ以外はおおむね、奏を始めとするスタッフらの働き振りを、実に興味深そうに眺めていた。
 そしてついに、3時間半。

 「…お待たせしました」
 「あら、もう私の番?」
 あっさりそう言ってのけ、サラは、他の客の視線が集中する中、自分の席へと向かった。
 サラが視線を集める理由は、外国人だから、というのもあるがそれ以上に、身のこなしが“素人”ではないからだろう。彼女の歴史を振り返ると、モデルとして活躍していた期間は極めて短く、“VITT”の社長としての人生の方がはるかに長い。それでも、若い頃から徹底的に叩き込まれたウォーキングは、完全に彼女自身の動作として体に染み込んでいるらしい。
 「さて…それで、どのような感じをご希望で?」
 さっさと仕事を終わらせようと、サラが席に着くなり、即オーダーを訊く。するとサラは、鏡越しに奏の顔を見据え、予想外な注文をしてきた。
 「そうね―――優しい感じでお願い」
 「優しい感じ?」
 「このところ仕事漬けで、顔がきつい印象になってる気がするのよ。今日会うVIPには、できればいい印象を持って欲しいから、少しは優しい感じに見せたいじゃない?」
 「……」
 今夜会う相手は、仕事の関係者ではないのだろうか―――日本とは仕事での関わりしかないサラなのに、妙な話だ。
 ―――ま、どのみち、オレが気にするようなことじゃないか。
 一瞬でも不思議に思った自分を馬鹿馬鹿しく感じ、次の瞬間には頭を完全に仕事モードに切り替えた。
 「ご希望の色があれば、伺いますが」
 「任せるわ。この服なら、よほど突飛な色でない限り、喧嘩はしないでしょ」
 確かに。シャンパンカラーと呼べばいいのか、オフホワイトとベージュの間を取ったような、洒落た色合いをベースにしたスーツだ。現場ではシャープな色使いの服を着ていることが多かったので、こういう色合いの服を着たサラを見るのは初めてかもしれない。
 優しい感じ…ナチュラルカラー。けれど、普段奏がメイクしている客とは、肌の色も目の色もまるで違う。白人的ナチュラルって案外難しいな、と考えつつ、奏はいよいよ、作業に取り掛かった。

 まずは、今施してあるメイクを、全て落とす。
 落としてみて改めて思ったが、これは並大抵の努力で維持できるレベルの肌ではないだろう。マリリンの努力も凄いと思ったが(もっともあの場合、出版社をだまし続けないと仕事がなくなる恐れがあると思っていたので、生活がかかっている、という必死さもあったのだろうが)、四捨五入すれば50になるというサラの努力はその比ではない筈だ。
 いくらファッションブランドの社長でも、別に美貌を維持する必要はないだろうに―――もしかしたら、衰えることへの恐怖があるのかもしれないし、常に美しくありたいという“女”の本能そのままに生きているのかもしれないし……これもまた、体に染み付いてしまったモデル時代の習慣なのかもしれない。
 ―――なんにせよ、ありきたりの人生の中に収まる女じゃないよな。
 時田と結婚して子供を産み育てる、なんて選択を一瞬でもしたこと自体、この女のパーソナリティから見たら狂気の沙汰だったような気がする。柄じゃないことに気づいて、スタート直前で踵を返したのだろう。時田はそのせいで随分苦しんだし、両親も辛い思いをしたに違いないが……それでも、この女の選択は正しかったと、つくづく思う。
 サラの肌の色に合わせて、2種類のリキッドファンデーションを混ぜ合わせてみたら、日頃絶対見ないようなピンクがかった明るい色が出来上がった。その色をベースにしたグラデーションを頭の中に思い浮かべたところで、ほぼプランが決まった。
 ―――よし。ローズの口紅メインで、決定。
 プランさえ固まれば、あとはひたすら作業に没頭するだけだ。全てを頭から追い出し、奏はただ、イメージした通りのメイクを手際よく施していった。

 奏が黙々と作業を続けている間、サラは、ずっと静かだった。
 ただ、作業がしやすいよう、時折目を閉じたり開けたりするだけ―――他人にメイクされることに慣れているのが、なんとなくわかる。おかげで、作業は普段より早く進んだ。

 「―――いかがでしょう?」
 紅筆を置き、ホッと息をついた奏が訊ねると、サラは目を開け、目の前の鏡に映る自分をじっと見つめた。
 血色を良く見せるだけ程度のチーク、きつめの目を和らげるため抑え気味にしたアイライン。元々がシャープな顔立ちなので限度があるが、来店時よりは数段、丸い印象に仕上がっている。サラもそれを認めたのか、鏡の中で満足げに目を細めた。
 「やるじゃない」
 「…どうも」
 あまり素直に褒められると、少々調子が狂う。が、サラはそれに続いて、謎の言葉を口にした。
 「自分がやった結果だから、気に入らない筈もないわよね」
 「は?」
 「この店、7時までよね」
 「…それが、何」
 「つまり、今夜会うVIPって言ったのは、あなた自身のこと、って訳」
 「は!!?」

 ―――なんだよそれ!!!!

 唖然とする奏をよそに、サラは自ら首に巻かれたケープを外し、鏡越しに奏を見上げて口の端をつり上げてみせた。
 「プロらしく最後まで冷静に仕事したご褒美に、ディナーくらいはおごってあげるわよ。ついでに―――仕事の話、しましょ」


***


 「お待たせ」
 帰り支度を済ませた咲夜が駆け寄ると、“母”はまた、少しぎこちなさの残る笑顔を咲夜に向けた。
 「ごめんね、仕事の時間中に押しかけたりして」
 「いや、いーけどさ。ちょうど定時だったし、特に残業もなかったから」
 「そう」
 「っつーか、そっちこそ大丈夫な訳? もうすぐ夕飯時じゃん。亘や芽衣は?」
 「亘は塾だし、芽衣はお友達の誕生パーティーに呼ばれて、今日はちょっと遅いのよ。この後、帰る時に迎えに行くから大丈夫よ」
 「ふぅん…。亘って、私立がそろそろだよね」
 「今週よ。ピリピリしてて、もう大変。思ったより神経質みたいね、あの子」
 「ハハハ」
 確かに亘は、如月家の中では一番繊細で神経質だ。芽衣はのんびり屋で大雑把な方だから、もしかしたら亘は父親似なのかもしれない。
 「どうする? 喫茶店にでも入る?」
 「いえ、ちょっと話したかっただけだから。それに、芽衣を迎えに行く時間があるから…歩きながら話しましょ」
 そう言って“母”は、ゆっくりした足取りで歩き出した。そのテンポに合わせるようにして、咲夜も歩き始めた。

 「で…、何、どうしたの急に」
 “母”が訪ねてくるなんて、初めてのことだ。何か家の方でトラブルでもあったのだろうか、と、咲夜の眉が自然と心配げにひそめられる。
 「亘とか芽衣に、なんかあった?」
 「…家の方は、大丈夫よ。みんな元気だし。私が来たのは―――これ、読んだから」
 すると“母”は、コートのポケットから、何か紙を折り畳んだようなものを取り出した。はい、と差し出されたそれを受け取った咲夜は、怪訝そうな顔でそれを広げてみた。そして、その中身を見て、ちょっと目を丸くした。

 『3月末フィナーレ ジャズ・ミュージシャンの故郷、惜しまれつつライブ終了』

 それは、この前取材に来た新聞社の、新聞記事の切り抜きだった。そういえば、日曜版に載せる、と言っていたっけ―――大手だとは思ったが、まさか実家が取っている新聞だとは知らなかった。
 「咲夜ちゃんがライブやってるお店よね?」
 記事の中には、咲夜の名前は出ていない。確か店の名前を出したのはライブ出演が決まった頃だったように思うが、そんな前に聞いた店名を覚えていたのだとしたら、たいしたものだ。
 「…そ。うちの店だよ。よくわかったね」
 切り抜きを返しながら咲夜がそう答えると、“母”は表情を曇らせ「やっぱり」と呟いた。
 「それで咲夜ちゃんは、これからどうするつもりなの?」
 「どうするって?」
 「歌よ。このお店の代わりに歌うとこ、見つかったの?」
 これには、ちょっと驚いた。ジャズには全く興味のない“母”が、こんな心配をしていたとは。
 「まだ。っていうか、この先、決まったお店でずーっと歌うかどうかなんて、まだ決めてないよ。そういう店って珍しいんだし」
 「じゃあ、どうするの?」
 「…うー、だからぁ」
 困った。心配してくれるのはありがたいが、普通のOLの転職とは意味が違うのだ。どうもそれと同じ次元で考えているらしい“母”に、咲夜は困った顔で髪をグシャッと掻き混ぜた。
 「一応、仲間と今後のことは話してるけどさ。みんな立場バラバラだし、それぞれの仕事もある訳だから、そうそう簡単に“はい、次はこれやりましょう”なんて決められない訳よ。どこかの事務所に所属するとか、インディーズレーベルからCD出してみるとか、どっかのライブハウスの前座やるとか、色々道はあるから、大丈夫だって」
 「じゃあ、歌は、これからも続けるのね?」
 念を押すかのように訊かれ、咲夜はやっと、本音の笑みを返した。
 「あったり前じゃん。続けるよ、一生」
 「…そう」
 安堵とも落胆ともつかない風に短く息をついた“母”は、複雑な表情で、一度視線を前に向けた。
 もしかして、これを機にジャズを辞めると期待していたのだろうか―――そんな不安を咲夜が抱きかけた時、“母”が再び、こちらに目を向けた。
 「ねえ、咲夜ちゃん」
 「ん?」
 「どうかしら。そろそろ、うちに戻って来ない?」
 「はっ?」

 戻る? 家に?

 考えたこともなかった話だ。キョトンと目を丸くした咲夜は、次の瞬間、苦笑してしまった。
 「やだなぁ、なんで今更そんな…」
 「咲夜ちゃんがジャズを続けること、私は反対しないわよ」
 咲夜の言葉を遮るように、“母”はそう言ってしっかり咲夜の目を見据えた。
 「勿論、明日の仕事を心配しなくて済む安定した会社に勤めて欲しいとか、引く手あまたな年齢のうちに結婚して落ち着いて欲しいとか、そういう気持ちも、ないとは言わない。歌手として成功することとどっちが大事か、って言われたら、平凡でいいから何の心配もいらない生活の方が大事だって言うと思う。けど、咲夜ちゃんが本当にジャズを好きなのも、わかるから……反対は、しないわ。だから、家に戻ったからってジャズを辞めさせられるなんて思わなくていいの」
 「…いやー、でも…」
 「お父さんは…多分、うるさいでしょうけどね。でも、顔には出さなくても、咲夜ちゃんが帰ってくれば、内心もの凄く嬉しいと思うわよ?」
 「……」
 ―――そうかな。芽衣がいれば、女の子は十分そうだけど。
 お世辞にも女の子らしいとは言い難かった咲夜に比べて、芽衣はいかにも、男親が溺愛しそうな、女の子っぽい女の子だ。咲夜1人しかいないのならまだしも、芽衣がいるのだから、家にいても口論にしかならない娘など、帰って来ない方が気が楽なのではないだろうか―――少なくとも咲夜は、口論しかできない父親など、傍にいない方がいいと思っているが。
 「…でも、ジャズに反対してる以上は、やっぱ無理だし、嫌だよ。私もお父さんもストレスになるし、そういう私ら見てるお母さんたちだって、いい気はしないでしょ?」
 何故急に“母”がそんなことを言い出したのかわからないまま、咲夜は、なだめるような口調で“母”にそう言った。
 「家の外にいるからこそ、親子共々平和に毎日を送れる、ってこともあるんだからさ。それに私、もう25だし。私が家にいないと困ることもある訳じゃないし、私も一人暮らしに不足はないから、いいじゃん、このままで」
 「……」
 「…ていうか、どうしたの、急に」
 「―――咲夜ちゃん、最近、拓海と連絡とってないでしょう?」
 不意打ちで出た名前に、不覚にも、顔色を変えてしまった。
 ヤバイ、と思った時には、既に遅かった。咲夜の表情の変化に気づいた“母”は、やっぱり、というかのように眉をひそめた。
 「お正月に、珍しく拓海が来たのよ。私が心配してるのを知っているから、いつもなら、訊かなくても向こうから咲夜ちゃんの近況をそれとなく教えてくれるのに、今回は何も言わないから、不審に思って訊いたの。そしたら、最近咲夜ちゃん、拓海の所に全然顔を出さないって―――それどころか、電話もしてこないって言うじゃないの」
 「…うん」
 「それから咲夜ちゃん、ここ最近、何か大きな病気でもしたんじゃない?」
 「え? そ…それも、拓海が言ったの?」
 「拓海は何も言ってないわよ。ただ、“昔からよく熱出して倒れたり摂食障害で大変だったから、今もストレスで体調崩してないか心配だ”って言ったら、一瞬、表情が曇ったの。すぐ“大丈夫だ”ってフォローしてたけどね」
 「…気のせいじゃない?」
 「これでも一応、姉なのよ? 後ろめたい時のあの子の顔、子供の頃からちっとも変わってないわ」
 さすがの拓海も、実の姉の前では嘘をつき通せないらしい。あっさり反論を跳ね返され、咲夜は渋い表情で地面を蹴った。
 「今までは、拓海がある程度見ててくれたから、私も安心している部分があったけど、それもないとなると―――…」
 はあ、とため息をついた母は、ついに足を止め、咲夜の方へと向き直った。
 「ね、咲夜ちゃん。家に帰ってらっしゃいよ」
 「……」
 「この先、新しく歌う場所を見つけるために、あれこれ奔走しなくちゃいけなくなるんだろうし―――お仕事は続けるにしても、家に帰れば、少なくとも家賃の心配や家事の負担からは解放されるでしょう? それだけでも、随分楽になると思うのよ」
 「…そんな、オーバーな。別に、負担なんて感じてないって。家賃安いとこだし、家事もテキトーなんだから」
 ―――それに、奏が、隣にいるんだし。
 そのことも話そうかと思ったが……逆効果の可能性を考え、やめた。恋人が隣に住んでいて、好き勝手互いの家を行き来しているなんて知ったら、“母”は“母”で余計心配しそうだし、万一父の耳に入ったらどうなるかは、拓海の時のキレっぷりを振り返れば明らかだ。
 「第一、この先、家の方が大変じゃん。亘や芽衣が高校行ったり大学行ったり―――もう成人して独立してる私の心配なんかしてる余裕あるなら、そのゆとり、あの子らのために取っといた方がよくない?」
 諭すように咲夜が言うと、“母”は眉根を寄せ、ため息をついた。
 「年なんて、関係ないでしょう?」
 「いや、関係あるでしょ」
 「ありません。どんな親だってね、我が子のことは死ぬまで心配なのよ」
 きっぱりと“母”が言い放った言葉に、咲夜は思わず苦笑した。
 「アッハ、我が子、って。自分が産んだ子でもあるまいし―――…」

 口にして。

 自然に、当たり前のように、無意識のうちにそう、口にして―――咲夜の苦笑が、凍りついた。

 「…………」
 “母”の表情も、僅かに目を見開いた状態で、凍りついた。
 氷の棒でも飲み込んでしまったかのように、2人は言葉を失い、立ち尽くした。その瞬間、雑踏の音さえ、凍りついて消えた気がした。

 ―――…ま…ずい…。
 冷たい汗が、背中を伝う。
 これまで一度も、口にしたことのない真実―――実の母ではない。実の子ではない。それは、厳然たる事実だが、如月家においては絶対口にしてはいけない言葉であることが不文律となっていた。誰が決めたのでもなく、自然に。
 “母”の瞳が、心の動きを表すかのように、小さく揺れた。それを見た咲夜は、咄嗟におどけた苦笑を作り、パン! と目の前で手を合わせてみせた。
 「あー、ごめん! 今の、ナシね。不適切発言。意味なんて全然ないから、記憶から削除しといて」
 「…咲夜ちゃん…」
 「とにかく! お母さんが心配してくれるのは嬉しいけど、家に戻るのは、やめとくわ。今のアパート気に入ってるし、住人たちとも上手くいってるから、当面離れたくないんだ」
 やや早口にそう告げると、咲夜はクルッと踵を返して、“母”の先に立って再び歩き出した。
 「ホラ、信号、赤に変わっちゃうよ。行こうよ」
 「…そうね」
 咲夜の態度に、説得は無理と感じたのだろう。“母”は諦めたようにそう言い、咲夜の後を追って歩き出した。

 ―――…ごめん。
 ごめん、蛍子さん。

 ただ、事実を口にしただけだ。けれど―――咲夜の胸は、罪悪感で小さく疼いていた。


***


 当然、断った。
 が、何故か、ここにいた。

 「いい食べっぷりだこと。よほど腹ペコだったの?」
 ―――ちげーよっ。
 ガチャガチャと音を立ててステーキを切りつつ、向かいの席を睨む。明らかに周囲の上品な客からは浮いているが、腹ペコでも腹いせでもなく、単に自棄になっているから行動が乱暴になっているだけだ。
 いや、本当は、違う。
 サラと会話するのが嫌だから、その隙を与えていないだけだ。
 仕事の話をしましょう、などと言っておきながら、サラはこのレストランに入って以降、これといった中身のある話を一切していない。初めて入るこの店の内装がかなり気に入ったらしく、あそこのランプの光はいいアクセントだ、だの、開店15周年にしてはシートが綺麗だから丁寧にメンテナンスしているのだろう、だの、どうでもいいことばかり言っている。奏はただ、それに相槌を打ちつつ、ひたすらフルコースディナーを平らげることに集中していた。
 だって、今、ここにこうしている、というだけでも、かなりの屈辱なのだ。
 店なら、ビジネスと割り切って対応することができた。一度割り切れば、この女の正体などさほど意識せずに済んだ。けれど―――このシチュエーションは、どうしても受け入れられない。何故こんな奴と一緒に食事をしなければいけないのか、何故強引にでも振り切って帰れなかったのか―――後悔も手伝って、早く食べ終えて帰りたい、とそればかり考えてしまっていた。

 わからない―――何を考えているのだろう、この女は。
 ロンドンで最後に顔を合わせた時、サラははっきり言った。「後悔はしていない」と。奏と累を見送る顔は、少しの後ろめたさも滲ませてはいなかった。ただ1つ―――ドアノブを掴む手が震えていたことには、奏も累も気づいていたが、見なかったフリをした。同情する必要などないし、本人も気づいて欲しくないだろうと思ったから。
 あれで、自分たちの心の整理は、ついた筈だった。
 この女は、DNA提供者。それ以上でもそれ以下でもない。奏も累も、この世で母は千里ただ1人だと信じているし、この女もそう認めている。自分は母親ではない、産んだのは自分だが、奏と累の母親は千里だ、と。
 なのに、何故―――どうして、こんなことをするのだろう? 今頃になって罪悪感が芽生えたのか、それとも、DNA提供者として自分も母親の権利を主張したくなったのだろうか。

 「―――さて。コーヒーも来たことだし、そろそろ始めましょうか」
 最後のデザートとコーヒーが運ばれてきたところで、サラはそう言って、奏を真正面から見据えた。
 「始めるって、何を」
 「ビジネスの話よ。そう言って誘い出したの、覚えてるでしょう?」
 「覚えてるよ。何、3月のショーの話? それとも、この前の撮影の話?」
 仕事、というからには、今回の“VITT”日本進出の仕事の話だろう。そう思って奏が言うと、サラは意外にも首を横に振った。
 「違うわ。もっと先の話よ」
 「先?」
 「まずは、要点だけ言うわ。奏―――あなた、暫くうちの専属メイクをやる気、ない?」
 「―――…」
 一瞬、言っている意味が、飲み込めなかった。
 は? と目を丸くした奏は、数秒、言われた言葉を頭の中で何度か繰り返した。「うちの専属メイク」……つまり、“VITT”の専属、という意味だ。そこまでは理解できた。が。
 「……は????」
 それでもなお、出てきたのは、これだけだった。
 この反応はある程度予想済みだったのか、サラは苦笑することも苛立つこともなく、淡々と付け加えた。
 「正確には、“VITT”のファッションショーでの専属メイク。秋冬コレクションは今真っ只中だから無理として―――4月にある“VITT”コレクションを皮切りに、6月のパリ・メンズコレクションとミラノ・メンズコレクション、少し間を置いて、9月のニューヨーク、そして最後がロンドン。その間にも細かいショーをいくつかやるけど、それも任せるつもりよ。どう?」
 「……」
 つまり、メイクアップアーティストとして、奏を雇いたい、ということだ。
 それは、わかった。わかったけれど―――…。
 「な…なんで、オレに? 第一、“VITT”は専属なんてつけてなかっただろ? ショーの度に、メイク担当が変わってたじゃないか」
 「そうよ。実際、14日から始まる秋冬のロンドン・コレクションは、デヴィット・リンに頼んでるわ」
 奏も何度か会ったことのある、中堅どころのメイクアップアーティストだ。それを聞いて、ますますわからなくなる。
 「…どういうことだよ…」
 思わず、表情が険しくなる。
 実力を認められて、などと思い上がったことを考えれるほど、おめでたい頭はしていない。サラが、駆け出しで無名の奏を選んだ理由は、どう考えたって1つしかない。
 サラも、それを隠す気など微塵もないらしい。口に運んでいたコーヒーカップをカチャン、と置き、ふっ、と笑った。
 「勿論、あなたが考えているとおり―――あなたが“一宮 奏”でなければ、こんなことはしないわ。身の程をよく知ってるのね。いいことだわ」
 「はっきり言えよ。何が目的なんだよ」
 するとサラは、思いがけない一言を、サラリと口にした。
 「力になりたいのよ。あなたの」
 「……」
 「うちの専属モデルになる前から、あなたのことは、同じ業界の中でずっと見てきた」
 ―――ずっと?
 ずっと、とは、いつからなのだろう? デビューした時から? それとも“Frosty Beauty”ともてはやされるようになってからだろうか。
 「ショーに出てくれるモデルからの評判も聞いたし、スタッフたちからも話を聞いたりもした。特に、モデル仲間の女の子たちに、あなたの的確なファッション・アドバイスが好評なのを知って、あなたの美的センスに興味を持ったの。メイクアップアーティストになった、って聞いた時には、さすがに驚いたけど―――ケンジ・クロカワに師事してるって聞いて、少し納得したわ。クロカワは、スタイリストとしても有名だものね」
 「……」
 「でも、仕事を通じて何度かクロカワと話をした経験から、あなたには向かないんじゃないかな、って思ってたわ」
 不意に、昼間考えていたこととシンクロする言葉が飛び出し、ドキン、と心臓が跳ねた。
 「な…なんだよ、向かないって」
 「クロカワのスタイルは、基本的に、普通のOLや学生が、日常生活に取り入れられるコーディネートやメイクでしょ? 勿論、本人は、プロ相手の仕事も随分やってるけど、ライフワークは完全に“素人相手”よね。実用的ファッション」
 「…それが、何だよ」
 「あなたは、骨の髄まで、ファッション業界の人間だと思う」
 「……」
 「日常の中で満たされるタイプじゃなく、プロ相手の真剣勝負の中でないと満たされないタイプ―――あの店でのあなた、本当にやりたいことをやれずに、苛立ってるように見えた。勿論、ナチュラルメイクも上手くこなしてたわよ。でも、本当はもっと違うメイクがやりたいんじゃない? 自分の美的センスを余すことなく投影できるようなメイク―――そう、たとえば、ファッションショーでの先鋭的なメイクみたいな」

 背筋が、寒くなった。
 見抜かれている―――大して顔を合わせたこともないのに。
 確かに奏は、黒川のメイクそのものに惹かれて、彼に師事した訳ではない。ただ、将来メイクやスタイリストをやりたいと思っていたら、ちょうど黒川が「やってみる?」と声をかけてきたので、それに乗っただけだ。実際には、黒川のスタイルは、奏が目指しているものとはかけ離れている。そのことに気づいてしまったから、ここ最近、イライラが募っていたのだ。
 たった数時間見ただけでわかるほど、苛立ちが態度に出てしまっていたのだろうか? だとしたら、客商売として、非常にまずい。でも、なんとなく―――本能的に、違うと感じた。サラは、もっと別の理由から、奏が今の仕事には馴染まないと判断したのだ。

 「あの店にいても、あなたが自分の進みたい道に進めるとは思えない。アイドルでも見るみたいな目で席に着く客を見れば、それは一目瞭然よ。あなたは“Studio K.K.”の看板アーティストにはなれるけど、そうなればなるほど、本来やりたい仕事をする自由はどんどんなくなるわ。違う?」
 「……」
 反論のしようがなかった。まさに奏自身が、そう考えているのだから。気まずさに、奏は不貞腐れたような顔で視線を逸らした。
 「だから、私がひと肌脱ごう、ってことよ」
 奏の反応に、自分の考えが正解だったことを悟り、サラは口の端をつり上げ、そう言った。
 「今あの店を辞めても、有閑マダムのお相手をしていた経歴しかないあなたをいきなり使ってくれるところは少ないでしょう。でも私は、私の一存で依頼するアーティストを決められる立場にある。“VITT”の専属メイクを務めた、っていう経歴は、日本ではかなりのステータスになる筈よ。とりあえず半年、不十分なら1年―――そうすれば、十分1人でやっていけるようになる。だから、あなたを選ぶの」
 「……」
 「正直なところ、あなたには、メイクよりスタイリストの方が向いてると思うけど…それもまあ、仕事する中で見極めればいいわ。さすがにニューヨーク・コレクションやロンドン・コレクションを任せる訳にはいかないけど、“VITT”のショーなら、スタイリストを任せてみてもいいと思ってる。どう? 悪くない話でしょ?」
 悪くない、どころか。
 喉から手が出るほど、おいしい話だ。これを蹴るのは大馬鹿野郎、と言われても仕方ないほどの。でも―――…。
 「…申し出はありがたいけど、断る」
 目を逸らしたまま、奏は、呟くかのようにそう答えた。当然、サラは意外そうに眉をひそめた。
 「何故? 暫く日本を離れるから?」
 「違う。…いや、それもあるけど、長い目で見ればそんなことは重要じゃないってわかってる。たとえこれが日本での仕事でも…断る」
 「…納得いかないわね。何が不満?」
 「―――あんたからの話だってことが、不満」
 言い捨てて、奏はキッ、とサラを睨んだ。
 「自分が産んだ子供だから、実力未知数だけど起用してやる、って? バカにすんなよ。オレだってプロなんだ、自分の仕事はコネなんかじゃなく実力で取ってやるっつーんだよっ」
 「センスも認めてる、って言ったわよ?」
 奏の反発にも動じず、サラは冷静にそう返した。
 「いくら息子でも、救いようのないセンスの持ち主だったら、任せようと思ったりしないわ」
 「それでも、コネで選ばれるなんて、虫唾が走るってんだよっ。それに何だよ、ステータスって。海外ブランドでの専属経験があると、どんな新人でもハクがついて認めてもらえる、ってか。オレは、そーゆーのが一番嫌いなんだよっ」
 「甘いわね」
 淡々とした口調でそう切り返し、サラは少し目つきを険しくした。
 「あなた、仮にもプロなんでしょ? プロとして、もっと上を目指してるんでしょ? だったら、そうなれるよう努力したり我慢したりするのは当たり前じゃないの。理想やカッコつけで生きていけるほど、自分が天才の持ち主だとでも思ってる訳?」
 「……っ、」
 「どうやら可愛い恋人もいるようだし―――もし彼女と結婚する気なら、この仕事だけで食べていけるだけの地位を築く必要があるんじゃないの? それとも、歩合制で入ってくる技術料に満足して、あの店でマダムたちの相手をし続ける気?」
 「うるせーよっ!」
 声が、少し大きくなりすぎた。あちこちから、視線がこちらに集中するのを感じる。テーブルの上の拳をギュッと握り締めた奏は、大きく息を吐き出し、サラを睨み据えた。
 「…オレがどんな仕事していようが、どんな道を進もうが、それがあんたに何の関係があるんだよ。余計な口出しするなよ」
 「関係あるわよ。息子だもの」
 「テメーが捨てたんだろ!? 今更息子呼ばわりすんなよっ!」

 刹那―――サラの顔が、僅かに、歪んだ。
 だが、頭に血がのぼった奏は、それに気づかなかった。ただ、憤りに震える体を抑えるのに必死だった。

 サラを(なじ)る気など、なかったのに。
 淳也と千里に育てられて幸せだった。こんな女に育てられるより何倍も幸せだった。だから、恨まない。「捨ててくれた」ことを感謝しこそすれ、恨んだりはしない―――本気で、そう思っていたのに。
 今、出てくるのは、感謝とはほど遠い、恨みだけ―――恋人だった時田を裏切り、生まれたばかりの自分たちよりモデルとしての名声を選んだこの女への、憎悪ばかりだ。

 「力になりたい? 生まれたばっかりのオレと累を捨てておいて、こんなデカくなったオレを助けたい? なんだよそれ」
 「……」
 「罪滅ぼしでもしたくなったのかよ? それとも、地位も財産も手に入れたから、そろそろ母親ごっこでもしたくなった? ふざけんなよっ」
 「―――力になりたいだけよ」
 感情を押し殺したような、抑揚のない声。
 その声同様、感情を抑えた無機質な表情で、サラは奏を見据えたまま、静かに続けた。
 「確かに私は、母親失格よ。母親としての義務を放棄した代わりに、母親の権利も手放した。だから、今更あなたたちに“お母さん”なんて呼ばれたいとは思わないわ。そんな資格もないってわかってる。でもね―――あなたたちを産んだって事実は、消そうと思っても消えない。私は“母親”じゃないけど、奏も、累も、私の“子供”なのよ。子供が、道に迷いかけている時、力になりたい、と思ってしまうのは、極自然な、本能からくる気持ちだわ。違う?」
 そんなサラの言葉にも、奏は皮肉な笑みを返した。
 「そんな本能の持ち主が生後1日の子供を捨てるなんて、オレには信じられないね」
 「……」
 「若気の至りとか、衝動的にやったことだとか、そういう言い訳が通るほど、簡単な話じゃないだろ。子供がいちゃ困るんなら、いくら郁が反対しても、説得してでも堕ろすことだってできたんだから。あんたは、オレたちを産んでおきながら、“家族”より“チャンス”を選んだんだ。そういう女が、まともな母親の本能を持ってるなんて、オレは信じない」
 「……」
 「なんで気が変わったんだか知らないけど、あんたの自己満足に付き合う気なんかないね」
 そう言いきって、奏はガタン、と音を立てて席を立った。
 これ以上ここにいると、ただひたすらサラを罵るだけになってしまいそうだ。当然だし、その権利があると思ってもいるが、人を罵る行為は気分のいいものではない。さっさと話を切り上げて帰ろう―――そう思って、テーブルを後にしようとしたが。

 「―――…あなたには、わからないわよ」
 僅かに掠れた声で、サラが呟いた一言に、踵を返しかけた奏の足が、止まった。
 眉をひそめ、振り返る。すると、まだ座ったままのサラは、能面のような顔をして、奏がいた向かいの席に視線を据えていた。
 「愛されることしか知らずに育ったあなたには……あの頃の私の気持ちなんて、わかる筈がない」
 「……なんだよ、それ」
 奏が言うと、サラはふっ、と虚ろに笑った。
 「…愛なんて、家族なんて、知らなかった。憎しみしかなかった。露骨に厄介者扱いする親族のことも、散々私をなぶりものにした従兄弟たちのことも、ずっとずっと憎んでた。許さない…絶対見返してやる。モデルになるんだ、モデルになって、有名になって、成功して、あいつらを見返してやる―――それだけが、私が生きてる理由だった。郁夫に会うまでずっと」
 「……」
 「そんな私が…まだ20歳そこそこの小娘だった私が、貧しくて1人で食べていくのもやっとだった私が、いきなり妊娠して、プロポーズされて―――嬉しい、なんて思えるほどの余裕、私にあったと思う? こんなつもりじゃなかったのに、郁夫と一緒になりたいとは思ったけど、それはもっと未来の話だったのに……子供を育てる自信もなければ、郁夫の愛を信じきる勇気もなかった。それでも…一度は、信じてみよう、郁夫の愛情も、自分の中の愛情も信じよう、って思ったわよ。でも……郁夫の、何ひとつ迷いのない幸せそうな顔を見て……怖くなった。このまま結婚したら、私はもう、“私”の人生は歩めなくなるんじゃないか―――もうモデルの世界には戻れないんじゃないか、郁夫もそれを望んでるんじゃないか、って」
 「……」
 「郁夫の才能を信じてたけど、あの頃の郁夫は、今の世界的写真家・時田郁夫じゃなく、ただの写真好きの学生だったんだもの。“2人で頑張ればなんとかなるよ”なんて郁夫が言うたび、不安ばかり募ったわ。苦労知らずのお金持ちの息子だった彼が、一体どれほどの覚悟でそんなセリフを口にしているか、私には信じられなかったから。…それでも、おなかの中で毎日大きくなる子供を実感すると、今更殺してしまう気にもなれなかった。だって…赤ちゃんだけが、私の唯一の“家族”だったから。だから―――もし、千里さんたちが育ての親になってくれたら、って考えが、頭に浮かんだ時―――…」
 サラの唇が、微かに震えた。
 泣くのか、とドキリとしたが、サラは泣くことなく、キッ、と顔を上げ、奏を見上げた。
 「捨てることが、私にしてあげられる最良のことだ、なんて思ってしまった私の気持ち、あなたにはわからないでしょうね」
 「……っ」
 「…自分の中の愛情を信じるには、私は愛を知らなさ過ぎたのかもね。生まれてきたあなたたちを抱いて初めて後悔したけど、私のために途方もないお金が動いちゃった後じゃ、引き返せなかったし。…愛情いっぱいに育ってるあなたたちを見て、自分の選択は正しかった、と思ったけど、たくさん涙も流したわよ。愚かな子供だった点では同罪なのに、叔父って立場で傍にいられる郁夫を、恨めしく思う位には、ね」
 そこまで一気に言い終えると、サラは大きく息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。シャンパンカラーのジャケットの襟を整えると、そこには、仕事現場で見るのと同じ、きりっとした表情のサラがいた。
 「恩に着せて何か見返りを求める気もないし、幸せに育ったあなたたちに対して罪悪感なんて持ち合わせてもいないわ。あなたの手助けをできる立場にいる、って気づいたから、手を差し伸べた―――それだけのことよ」
 「……」
 「明日にはロンドンに戻るけど、またショーの前には日本に来るわ。その間、ゆっくり考えなさい」
 ペチッ、と、サラの手が奏の頬を軽く叩く。
 自分の前をすり抜け、優雅な足取りで去っていくサラに、奏は、別れの言葉をかけることすらできなかった。ただ―――黙ってその場に立ち尽くすことしか、できなかった。


***


 ザーッと注いだ水が、グラスの口から溢れた。
 勢いに任せてグラス一杯の水を一気に飲み干した咲夜は、叩きつけるようにグラスを置くと、はーっ、と大きく息をついた。
 そのまま暫し、じっと動かずにいたが。
 ―――…あ、レオンに、水やらなきゃ。
 思い出し、振り返る。棚の上に置かれたアグラオネマの“レオン”が、少し元気なさげに俯いているのを見た咲夜は、だるそうな足取りで窓際へと向かった。
 冬の間、アグラオネマは、水やりを控えめにして、乾燥気味で育てなくてはいけない。シンクに“レオン”の鉢をドン、と置き、軽く水を与えてやった咲夜は、再び棚の上に戻してやった。

 『お母さん、さっきから呼んでる“リンちゃん”て、誰?』
 『このベルフラワーの名前よ。ベルの音から名前をつけたの。可愛いでしょ』

 「……」
 はるか昔の、他界した母との会話を思い出して―――咲夜は、耐え切れなくなったように眉根を寄せ、前髪を乱暴にクシャッと掻き上げた。

 “自分が産んだ子でもあるまいし”―――自分でも知らなかった。心の底では、そんな風に思っていたなんて。
 事実だから、わざわざ意識するほどの話でもなかった。ただ、口に出してはいけないことだと、子供ながらに思っていただけで―――口に出さないことが、家族の中の平和を守ることだと、本能的に察していたのだろう。実の母ではない―――当たり前のことだけれど、それを言ってしまったらおしまいなのだ、と。
 蛍子といがみあったことは、一度もない。けれど…本音でぶつかったことも、一度もない。少し気を緩めれば、出てくる呼び名は「蛍子さん」―――お母さん、と口では呼んでも、母だと思ったことは、もしかしたら一度もなかったのかもしれない。
 それは、他界した母への想いから、というより……蛍子という存在の裏にある、事実のせいで。
 思い出すのは、中学の入学式。父に肩を抱かれるようにして現れた、大きなおなかをした蛍子の姿だ。その時の2人の表情を克明に思い出してしまった咲夜は、こみ上げてきた吐き気に、再びシンクの蛇口を捻った。


 『お願い、咲夜ちゃん。何か辛いことがあるなら、私に言って? 亡くなったお母さんのことでも、学校のことでも、なんでも相談していいのよ。お父さんに言い難いことも、同性の私になら言いやすいこともあるでしょう? このままじゃ、本当に倒れちゃうわ。お願い…なんでも私に言って』

 優しい優しい蛍子さん。
 じゃあ聞いてくれる? 私、お父さんのことが、許せないの。
 お母さんのこと裏切ったお父さんが、いつ死ぬかわからないお母さんがいるのに他の女の人とセックスしてたお父さんが、許せないの。
 しかも、まだお母さんが死んで少ししか経ってないのに、その女と結婚したの。お母さんに「愛してる」って言ったその口で、その女のこと「お母さんと呼びなさい」なんて言うんだよ。
 妊娠してるんだって。お父さんの子なんだって。春には生まれるんだって。ねえ、私、どうしたらいいかな?
 どうしたらお父さんのこと、許せるようになるかな。
 今思ってること、全部全部ぶちまけて、2人に土下座させたら、気が済むかな。
 おなかの子が死んじゃえば、少しは気が楽になるかな。ねえ、蛍子さん、どう思う?

 ―――うるさい…。
 うるさいうるさいうるさいうるさい。
 母親なんかじゃないくせに。娘だなんて全然思ってないくせに。

 母親面して、勝手に私の心配なんか、しないで―――…!!


 「……っ…、」
 吐きそうになる寸前で、グラスに半分ほどの水を飲み干せた。吐き出しそうになったものを全て全て押し戻すように、咲夜は片手で口を覆い、吐き気が完全に引くのを待った。
 ―――…別に…蛍子さんを憎んでる訳でも、嫌ってる訳でもないんだけど。
 蛍子に対する感情は、一言で言い表せるほど単純なものではない。多分…そういう複雑な感情とまともに向き合ってしまうから、咲夜は蛍子と向き合うのが苦手なのだ。

 とその時、玄関で呼び鈴が鳴った。
 幸い、吐き気はなんとか治まっている。グラスを置いた咲夜は、深呼吸をひとつして、玄関へと向かった。
 魚眼レンズから外を覗くと、予想どおり、奏がそこに立っていた。少し前までの陰鬱な気分を追い払うべく、咲夜は頬を軽くはたき、ドアを開けた。
 「お帰り」
 「…ただいま」
 返ってきた声は、思いのほか、暗く沈んだトーンだった。今朝、窓越しに話した時には、いつもどおり明るい奏だったのに―――不思議に思って、咲夜は眉をひそめ、奏の顔を覗きこんだ。
 「元気ないじゃん。どうしたの」
 「…ん…ちょっと―――…」
 パタン、とドアを閉めつつ、奏は、呟くように答えた。
 「―――嫌なことが、あった」
 「……」
 「…なんか、1人でいたくない。今日、こっち泊めて」
 「いいけど…」
 ―――何だろ、嫌なことって。
 大河内事件の比ではない落ち込みように、さすがに心配になる。が、奏が自ら話してくれる雰囲気ではないので、今はあえて訊かないでおくことにした。
 「じゃ、えーと…ビールでも飲む? 飲んで、パーッと酔っ払ったら、嫌なこともちょっとは忘れられるじゃん」
 咲夜自身、飲んでパーッと酔っ払いたい気分だった。「ね?」と奏の腕を叩き、冷蔵庫に向かおうとしたが。
 「……っ!」
 行こうとした途端、思い切り腕を引っ張られて、思わずよろけた。
 結構な勢いで、玄関の壁に背中から思い切りぶつかる。一番端の部屋だから問題ないが、これで隣に家があったら、絶対音と衝撃が響いていただろう。
 「っ、た、あー……ん、んんんん??」
 思わず呻いた咲夜の唇が、文句を言う前に、塞がれた。
 何故だか、いつもより強引で乱暴なキス―――あまりに唐突だったので、一瞬、キスだと認識できなかった。驚きつつも、崩れ落ちないよう、奏の腕にしがみついた咲夜だったが、次の瞬間、ヒヤリと冷たいものが脇腹に触れるのを感じ、ギョッとして目を見開いた。
 ―――ちょ…、ちょっと、奏っ。
 声が出せないから、掴んでいた腕をドンドン、と叩いて抗議する。が、そんな抗議など無視して、奏の手はあっという間にセーターの下のTシャツまでジーンズから引っ張り出して、その中に進入してしまった。
 ―――痛い痛い。痛いって。手加減してよちょっと。
 咲夜の抗議を封じるためか、肩が更に壁に押し付けられて、背中と肩に痛みが走る。おかしい―――いくらなんでも尋常な状態ではない、と遅ればせながら気づき、咲夜は必死に体をよじった。
 「……っ、そ、奏っ!」
 やっとキスから逃れ、奏のジャケットの胸元を掴んで、ぐい、とその体を押しやる。たかだか1、2分の間に、肩が上下するほど、息があがっていた。
 「ちょ、っと、何、どうしたの、急に。いきなりがっつかれたら、いくら私でも驚く…」
 言いかけて―――あることに気づき、思わず言葉に詰まった。
 引き剥がしてもなお、俯いたままでいる奏の顔。逆光になって、よく見えないけれど―――…。
 「…奏?」
 「……」
 「泣いてんの?」
 奏が僅かに顔を上げる。
 奏は、やっぱり、泣いていた。悔しさのような、やるせなさのような、胸の痛みに耐え切れなくなったような表情で、声をたてずに涙を流していた。
 「…ご…めん…」
 「…どうしたの」
 咲夜の問いに、奏は唇を噛み、首を横に振った。
 「…オレ……やっぱ、おかしいかもしれない。今日」
 「……」
 「自分でもよく、わかんないけど、なんか……このままだと、メチャクチャにしそう」
 「……」

 ―――奏……。

 …なんでだろ。
 私、今、奏が感じてるもの、わかる気がする。
 何があったのか、わからないけれど―――多分それは、ついさっきまで、私が抱えきれず爆発しそうになっていたものと、とてもよく似たもの。
 それが、消えなくて、消えなくて……じっとしていられない。もう1秒も。

 微かに肩を震わせて涙を流す奏は、寂しさに体を丸めて震えている捨て犬みたいに見えた。ふっ、と口元をほころばせた咲夜は、手を伸ばし、奏の髪を指で梳いた。
 「―――奇遇だね」
 「……」
 「私もちょうど、メチャクチャにされたいとこだったから」
 奏の顔が、涙を流したまま、怪訝そうな表情に変わる。その疑問に答えるように、咲夜は、奏のジャケットを掴んでいた手をぐい、と引き寄せ、奏の唇に今にも触れそうな距離で、茶化すように囁いた。
 「でも、そーゆー趣味はないから、痛いのだけは勘弁して」
 「……ごめん」
 叱られてシュンとなったかのようなその声に、(たが)が、外れてしまったのかもしれない。
 口づけて、明るいブラウンをしたその頭を、掻き抱く。それに対抗するように、奏も咲夜の背中を強引に抱き寄せた。

 

 そう、多分……自分で自分に、怯えただけ。
 気づいていたけど、認めようとしなかった、もう1人の自分―――体の奥底にある憤りが、怒りが、衝動が、突然表に出て、容赦なくその牙を剥いたから。
 今の私たちは、心も体も、バラバラになってあちこちに散らばっているから、それをこうして掻き集めて、誰かにぎゅっと抱きしめていて欲しくて仕方ない。抱きしめて、抱きしめて―――もっと、もっと、もっと、もっと抱きしめて。お互いの境がなくなるほど、もっと。

 そうして、やっと、安心する。
 どれほど自分が、愚かで、醜くて、勝手で、ちっぽけな人間であっても―――こうして抱きしめてくれ人がいるんだ、と。

 

 何が悲しいのか、何が辛いのか、よくわからなかった。
 今の2人にわかるのは、ただ1つ―――今夜だけでも、何も考えずに抱き合いたい、という、叫びにも似た衝動だけだった。


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