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― 迷走ラプソディ ―

 

 涙目で咳き込んだら、隣の席の先輩が小さなため息をついた。
 「あんまり良くなってないみたいねぇ」
 「…そうですね」
 「土日に遊び歩いて悪化させたんじゃないでしょうね。困るわよ、月末月初は忙しいんだから」
 「……」
 金曜日に朦朧とした頭で残業までこなしたのだから、土日に遊び歩くような元気など残っている筈もない。あの状態を一番近くで見ていた癖に、よくこんなセリフを吐けるものだ。伝票をめくりつつ、由香理は先輩の横顔を密かに睨んだ。
 「銀行、行ける? 無理そうなら、私行ってもいいけど」
 由香理の視線になど気づかず、先輩が書類から目を外さず訊ねた。
 ―――まあ、大丈夫か訊くだけマシかもね。
 あまり良好とも言えない先輩後輩関係だから、この程度の皮肉や言いがかりは“日常茶飯事”な上に“お互い様”だ。まだ少しムカムカを残しつつも、先輩が病に倒れた時は同じセリフを吐いてやろう、と心に決めるだけに留めておいた。
 「大丈夫です。熱は下がってるから」
 「じゃあ、早めにお昼行っていいわよ」
 「あー…、そうですね」
 毎月1日というのは、どこの銀行も大抵混んでいる。番号札をもらって、近くで昼食を食べながら順番待ちをした方が効率的だ。時計をチラリと見た由香理は、伝票を傍らに置き、席を立った。


 ―――あーあ、長引くなぁ…。
 コンコン、と乾いた咳を繰り返しつつ、ため息をつく。
 風邪をうつされたのは、先週の水曜日。翌木曜日は意外にも大したことはなく、ホッとしていたら、金曜日になって熱が一気に上がった。折悪しく、その日は1月の月末処理日。休める筈もないし、当然残業だ。土日としっかり養生したつもりだが、まだまだ全快には程遠い。あまり風邪をひく方ではないので、久々に体験する本格的な風邪に、精神的にもヘトヘトだ。
 エレベーターを降り、エントランスへと向かいながら、手袋を探してコートのポケットの中を探っていた由香理だったが―――ふと、前から歩いてくる人物に気づき、思わず足を止めた。
 「……」
 多分、緊張が顔に出てしまったのだと思う。
 由香理に気づいた真田もまた、同じように、少し緊張した面持ちになった。
 気まずい空気が、2人の間に漂う。が、あの日以来、顔を合わせるのはこれが初めてという訳でもない。暗黙の了解でもあるかのように、2人はほぼ同時に会釈を交わし、何食わぬ顔ですれ違った。

 暗黙の了解―――そう、これは、始めからわかっていたこと。
 真田は、たった一晩の気の迷いを、いつまでも引きずるタイプの男ではない。気まずい思いをする程度には真っ当な人間になったと思うが、やっぱり、真田は真田だ。由香理が由香理であるのと同じように。
 別に、何かを期待していた訳じゃない。そもそも、期待するような感情を真田に抱いてすらいないのだから。でも―――あの一晩を「なかったこと」扱いされ、また自分も同様に扱っている現実に、さすがに少し、胸が痛む。馬鹿なことをしてしまった、という後悔と、そして……漠然と感じる、虚しさに。

 「あ、お疲れ様です」
 真田とすれ違って間もなく、背後から、聞き慣れた声がした。
 「ああ、お疲れ」
 「アイシー、どうでした?」
 「無事、専売契約結べたよ」
 「ほんとですか! 粘った甲斐ありましたね」
 アイシー、といえば、この前の稟議書に書かれていた取引先の名前だ。どうやら、あの稟議書が無駄にならずに済んだらしい。少しばかりホッとした気分で振り返った由香理は、直後、真田と話していた河原と目が合い、一瞬ドキリとしてしまった。
 「あれ、友永さん」
 河原が名前を呼んだのに、完全無視という訳にもいかないのだろう。真田も僅かに由香理を振り返った。
 つい30秒前も気まずかったが―――これは、その数倍、気まずい。
 「今から外出?」
 「え…、ええ。銀行に行くついでに、お昼食べちゃおうと思って」
 「ああ、月初だからね」
 「そう。混んじゃって大変だから」
 「おい、もう行くからな」
 真田が、少しイライラした口調でそう口を挟む。足止めしておきながら由香理にまで声をかけた河原に、少々不愉快な思いをしたのかもしれない。そのことに気づいたのか、河原も恐縮したように首を竦め、「あ、すみません」と真田に返した。
 見るともなしに、足早に去って行く真田の後姿を見ていると、真田はまた、エレベーターのところで別の人に捕まってしまっていた。今ちょうど降りてきたばかりの、秘書課の若村だ。
 若村が何と言ったかは聞こえないが、それに答える真田の笑い声だけは辛うじて聞こえる。
 ―――そういえば、真田さんの笑い声なんて、随分聞いてないかもしれない。
 コンパやら飲み会やらに頻繁に顔を出していた頃は、しょっちゅう耳にしていたと思う。あの人ってあんな風に笑う人だったんだ、と思い出したら、何故か胃の辺りがズシリと重くなり、由香理は思わず目を逸らしてしまった。
 「友永さん」
 「……えっ」
 河原の声に、我に返った。
 目を丸くする由香理に、河原はちょっと苦笑し、こう提案した。
 「僕も客先行く前に昼飯行こうと思ってたんだ。一緒にどう?」

***

 「月末月初だなんて、また嫌な時に酷い風邪ひいたもんだね」
 「そうなのよねぇ…」
 パスタをフォークに巻きつけつつ、ため息をつく。
 でも、なんだかんだ言いつつ、先輩がこの時期仕事を休んだのを、由香理は一度も見たことがない。繁忙期とわかっていて馬鹿な真似をしたのは自分なのだから、熱が下がったからには、休んだりしたら「甘えている」と言われても仕方ないだろう。
 「…まあ、体調管理は自分の責任だから、自業自得よ」
 「根性あるなぁ」
 「そんなんじゃないわよ。嫌味を言うのが大好きな先輩を持つと、弱味を見せない癖がつくだけ」
 「あはは、それは一理あるね」
 苦笑した河原は、更に、ついでのように付け足した。
 「真田さんも先週休んだ時、結構キツイこと言われてたもんなぁ」
 「……」
 フォークを持つ手が、一瞬、心臓と一緒に止まってしまった。
 この話題で真田の名前を出されるのは、さすがに心臓に悪い。特に……相手が、河原だと。
 稟議書の件は、今のところ、真田が懸念したような噂話には一切なっていない。いや、もしなっていたとしても、あのままサインを貰っただけで終わっていれば、胸を張っていられただろう。
 でも、あんなことになってしまったせいで、由香理は要らぬ罪悪感を抱えてしまっている。河原から申し込まれているのに―――しかも返答を保留しているのに―――愛してもいない男と、いや、むしろ憎んですらいる男と、衝動的に関係を持ってしまった、という罪悪感を。
 「ああ、真田さんて言えば、アイシー通商の件で、友永さんに感謝してたよ」
 相槌に窮して黙っていた由香理も、河原のその一言に、ギョッとして目を見開いた。
 「え…っ、か、感謝、って?」
 「稟議書のサイン漏れに気づいて、休んでた真田さんに連絡入れてくれたんだろ? おかげで期限内に稟議を通すことができて、無事アイシー通商との商談がまとまったんだから、友永さんもお手柄だよ」
 「……」
 「それにしても、まだ風邪酷いのに無理して出社してるな、とは思ったけど、まさか稟議通すためだったとはなぁ…。あの人も見た目よりずっと根性あるよ」
 ―――…違う…。
 違うということを、由香理だけが知っている。サイン済みの稟議書は、由香理が持ち帰り、翌朝一番で処理に回したのだから、真田が体調不良をおして出社してくる必要などなかったのだ。じゃあ、一体何のために、無理をして出社したのか。

 『稟議書のことで、うちの課に来たんだろ? その稟議書が、俺の席に戻された形跡もないのに明日の朝綺麗に揃ってたら、誰だって不思議に思うだろ。友永さんが、誰の担当の稟議か訊きに来たのは、何人も見てる訳だし―――もし事情に気づいて、それを面白くないと思った奴がいたりしたら、わざと脚色付きで河原の耳に入れないとも限らない』

 「……バカじゃないの」
 「え? 何?」
 知らず由香理が呟いた言葉が上手く聞き取れなかったのか、河原が怪訝そうに眉をひそめる。ハッとした由香理は、誤魔化し笑いとともに首を振った。
 「う、ううん。別に」
 「?」
 「真田さんが人を褒めるなんて、天災が起こる前触れかもね、って思ったのよ」
 ケホケホ、と咳き込みつつ由香理がそう言うと、河原はまだ少し訝しげな顔をしつつも、それ以上突っ込んで訊いてこなかった。ホッとした由香理は、パスタを巻きつけたまま放置されていたフォークを、ようやく口に運んだ。

 ―――何のつもりよ、全く…っ。
 噂にもなっていないのに、勝手に気を回して、勝手に辻褄を合わせて……余計なお世話よ、もうっ。そんなことしたって、私が「え? それって何のこと?」って顔しちゃったら、かえって逆効果じゃないのっ。
 必要ないフォローをするために無理して出社した挙句、詰めが甘くて逆効果なんて…バカ以外の何者でもないわよ、ほんとに。

 ボンゴレ・ビアンコの味があまりしないのは、体調のせいばかりではないだろう。後ろめたさと苛立ちに追い立てられるように、由香理はいつもより速いペースで、黙々とパスタを口に運び続けていた。
 そんな由香理の様子を、自分もパスタを食べ進めながら眺めていた河原だったが、何かを思案するように暫しテーブルの端を見つめた後、意を決したように口を開いた。
 「…あのさ、友永さん」
 「え?」
 「返事の事だけど―――ちょっと、一旦、リセットしない?」
 「……」
 顔を上げた由香理は、キョトンと丸くした目をパチパチと瞬いた。
 「…え…、リ、リセッット?」
 「うん」
 「…それって、どういう…」
 「あ、ああ、誤解される前に断っておくけど、別に友永さんを諦めたとか気持ちが冷めたとか、そういうんじゃないから」
 少し慌てたようにそう言った河原は、コホン、と咳払いをひとつし、フォークを置いた。
 「ただ―――“今”答えを欲しがる理由もないな、って、最近思い始めてたから」
 「……」
 「元々、フライングで告白しちゃったのは僕の方で…友永さんが返答に困るのも当然なんだよ。失敗したな、って何度も後悔したけど、撤回するのも変なんで、今までズルズル引き伸ばしちゃったんだ」
 そう言うと、河原は、はぁ、と息を吐き出し、微かな笑みを浮かべて由香理を見つめた。
 「だから、一旦リセット。そろそろかな、って思った時、また改めて告白するよ。それまでは、このまま―――僕は友永さんが“複数の意味で”好きで、友永さんは僕を“友人として”好き。そういう関係のままで、いいんじゃないかな」
 「…で…でも…」
 河原の言いたいことは、わかる。けれど―――思わず由香理は、眉をひそめた。
 「河原君の気持ち知ってるのに、応えも拒絶もしないまま一緒にいるなんて…そんなムシのいいこと…」
 「僕自身が構わないって言ってるんだから、ムシがいいも何もないよ」
 「…本当に、それでいいの?」
 「いいよ」
 即答した河原だったが、
 「ただ―――もし、他に好きな人がいるんだったら、正直に言って欲しいんだ」
 そう付け足した時、その顔に笑みはなかった。
 「ちなみに、今、いる?」
 「え?」
 「好きな人」
 一瞬、目を丸くした由香理は、次の瞬間苦笑してしまった。
 「いたら、こんなに迷う訳ないと思わない?」
 「…そっか」
 曖昧に笑ってそう言うと、河原は少し安堵したような顔で、大きく息をついた。
 「それなら、いいんだ。リセット決定。気は長い方だから、のんびりチャンスを待つよ」
 「チャンス、って…」
 そんなものを待ってまで手に入れる価値のある人間じゃないだろうに―――虚ろな苦笑を返した由香理は、再びフォークを手にする河原の顔を、複雑な思いで眺めた。
 「…ねえ、訊いていい?」
 「ん?」
 「どうして、私なの?」
 由香理の問いに、河原は涼しい顔で、軽く首を傾げた。
 「おかしいかな?」
 「だって、河原君なら、他にいくらでも選びようがあるじゃない」
 「選んだ結果、友永さんになっただけだよ。真田さんのおまけだけど、若村女史にも告白されたの、友永さんだって知ってるでしょ」
 「…余計、変よ。河原君はリアルタイムで見てないけど、私って、」
 「玉の輿願望の塊だった……って、訊いてもいないのに散々吹聴してくれる奴もちゃんといるし、それがデマじゃないのもわかってる」
 由香理のセリフの先を読んで、河原がそう言う。困惑顔で言葉を失う由香理に、河原はふっと笑った。
 「そういうのも含めて、友永さんがいいと思ったんだ」
 「……」
 「そういう過去を持っていて、自業自得で酷い目に遭って、陰口叩かれたり笑われたり蔑まれたり―――それなのに友永さんは、周りの目に耐え抜いて、前より毅然と生きてる。…凄いな、って素直に思えたよ。僕なら絶対逃げ出してると思う」
 「そ…そんな風に言われるほどじゃ…」
 由香理が辛うじて会社を辞めなかったのは、樋口や優也の支えがあったからだ。彼らの助けなしに、あんな針のむしろの上に座り続けるなんて、由香理だって無理だったに違いない。実情よりオーバーに捉えられている気がして、由香理は慌てて首を振った。
 「自分がつまづく前は、他の人の不幸や失敗に対して同じような陰口叩いてた人間を、そんなに持ち上げないで。河原君は知らないから…」
 「いいじゃないか、別に。過去がどうでも、その結果の“今の友永さん”を、好きだと感じたんだから」
 その、あまりにも潔いセリフに、由香理は気圧されたように言葉を失った。
 「別に今の友永さんが“過去を反省してパーフェクトな人間に進化した”とか思ってる訳じゃないよ。成長した部分、駄目になった部分、変わってない部分……色々あると思う。出っ張ったり引っ込んだり、複雑にデコボコしてる、その全部が“今の友永さん”だろう?」
 「…河原君…」
 そこまで言うと、さすがに照れたのか、河原はちょっと視線を泳がせ、照れ隠しのような苦笑を浮かべた。
 「えーと…それに、さ。友永さんは自分ばっかり酷い人間だったような言い方するけど、僕も大差ないと思うよ?」
 「え?」
 「外見が災いしてるのか、どうも僕は、必要以上に“いい人”扱いされやすくてね。でも、僕だって、人並みなずるさも身勝手さも持ってるから、損得勘定で動くこともあるし、理不尽なこともするよ」
 「…そんな河原君、見たことないわよ?」
 「それは、友永さんが気づいてないだけ。…本当は、自分で自分の情けなさに愛想が尽きる位に、卑怯だったり臆病だったりしてる。いつだって」
 「……」
 「なのに人は、僕のそういう部分を見つけると、“そんな人だなんて知らなかった”とか言って、勝手に幻滅してくれるんだよな。僕を何だと思ってるんだか―――自分と変わらない、当たり前の人間だってこと忘れてさ」
 実際に言われたことがあるのか、河原は渋い顔でため息をつき、そう言った。そして、由香理の目を見て、眼鏡の奥の目をスッと細めるようにして笑った。
 「でも―――友永さんなら、僕のそういう部分を見つけても、幻滅しないような気がした」
 「……」
 「同じ人間なんだから、そういう時だってあるよね、って、当たり前の僕をそのまま受け入れてくれるんじゃないか、って」
 「……」

 ―――…不思議…。
 私、今、初めて河原君のことを「男の人」って意識できた気がする。

 特に男らしいことを言った訳でもないし、そんな仕草や表情をした訳でもないのに―――何故だろう? まるで、今まで河原の上に被っていたフィルターが剥がれて落ちたかのように、由香理の中の河原像が、性別のない「友人」から「異性」に、少しだけ、シフトした。
 河原だって、当たり前の人間―――当然のことなのに、由香理もどこかでそれを忘れていたのだろうか。河原にもある人間としての“おうとつ”を意識して初めて、河原という男が立体的に見えた気がする。

 もしかしたら、河原が告白をリセットしたのは、由香理に対する優しさじゃなく、由香理に「イエス」と言わせるための時間稼ぎのためだったのかもしれないし。
 実は大した意味などなく、由香理の口から「ノー」を聞きたくないがために、ただ咄嗟に撤回しただけなのかもしれないし。
 それどころか、押して駄目なら引いてみろ、の格言どおり、由香理の動揺を誘うための作戦に過ぎないのかもしれないし。

 そんな、今まで考えもしなかった可能性を、ふと思い浮かべた由香理が感じたものは、軽蔑でも失望でもなく―――“安堵”だった。


***


 「うん、今日届いた。ありがとう」
 『ちょっと多いと思うけど、お友達にでも分けなさいね。変な風邪が流行してるみたいだけど、優ちゃんは大丈夫?』
 「大丈夫だよ」
 『最近お母さんが来ないからって、部屋を散らかし放題にしてないでしょうね。細菌は不衛生にしてる所が好きなんですからね』
 「大丈夫だってば」
 細菌が増殖するほど不衛生だなんて、どんな凄まじい散らかり方を想像してるんだ、と、優也は母の言葉に眉を顰めた。
 実際、優也の部屋は、男の一人暮らしとは思えないほど綺麗に片付いている。読みかけの本以外、その辺に物を出しっぱなしにするということもないし、シンクに洗っていない食器が放置されていることもない。同年代男性である蓮の部屋と比較すると、まさに雲泥の差だ。
 『来週、お父さんが出張で東京に行くついでに、優ちゃんの所に寄るかも、って言ってたから、ちょっとお掃除しておきなさいね』
 「…掃除はちゃんとしてるってば。あの、長くなると電話代がアレだから、もう切るよ」
 優也が「今日届いたみかんのお礼」という本題を口にする前、体はどうだ、お金はどうだ、と10分近くもあれこれ質問責めにした母は、「あらあら、ほんとね、じゃあ気をつけてね」と言って、早々に電話を切ってしまった。
 通話時間、計13分。うち、優也が電話をかけた目的に触れた部分は、僅か40秒だ。
 ―――ああ…、疲れた。
 両親のいない生活に慣れてしまうと、久々に聞く母のお節介が、懐かしい反面、鬱陶しい。親を鬱陶しいと思うなんて、悪い息子だよなぁ、と、優也はため息をついだ。
 さて、どうしよう―――優也が振り返ったその先には、開封したばかりのみかん1箱。みかんは嫌いじゃないが、腐ったりカビたりする前に1人で平らげるのは厳しい気がする。
 ―――とりあえず、穂積にお裾分けしようかな。
 そう考えた優也は、箱から10個ほどコンビニのレジ袋に詰め替え、204号室に向かった。
 ところが。


 ピンポーン。

 呼び鈴を鳴らすが、反応なし。
 今日は、火曜日。蓮のバイトがある日だが、時計は既に午後11時を回っている。普通に考えれば、もう帰宅していなければおかしい時刻だ。
 もう1回鳴らしたが、やはり反応なし。廊下に面したキッチンの窓からも、部屋の電気が点いていないのが見て取れる。おかしいな、と眉をひそめた優也は、レジ袋を提げたまま、暫し204号室の前をウロウロ歩き回った。
 すると、2分ほど経ったところで、階段を誰かが上ってくる足音が聞こえてきた。疲れたような、重い足音―――穂積ではないな、と優也が思った次の瞬間、2階の廊下に現れたのは、その蓮だった。
 「……秋吉?」
 いつになく疲れた様子の蓮は、目を細めるようにして優也の姿を確認し、少しだけ足を速めた。
 「どうした? こんな時間に」
 「え…、あ、うん。今日、実家からみかん送ってきたから、お裾分けに…」
 優也がみかんの入ったレジ袋を軽く持ち上げてみせると、蓮は僅かに口元を綻ばせた。
 「サンキュ。もらっとくよ」
 「…なんか最近、留守なことが多いよね、穂積って」
 あまり意識していなかったが、夜部屋を訪ねてみたら留守だった、ということが3回ほど続いていたのだ。そして今日も、この状態―――さすがに、どうしたのだろう、と心配になる。
 「それに、やけに疲れてるっぽいけど…」
 「ああ…ちょっとな」
 疲労のせいか、蓮は答えながら、ふあぁ、とあくびをした。
 「でも、一晩寝りゃ疲れは取れるから、心配ないよ」
 「…なら、いいけど…」
 ―――で、穂積は一体、何をやってて、こんな遅くなるの?
 本当に訊きたいのは、その部分なのだが―――いいけど、と言いつつもまだ何か言いたげな優也の様子に、蓮はだるそうに首の後ろを揉みつつ、軽く首を傾げた。そして、優也が訊ねるより先に蓮なりの回答を見つけたらしく、こう言った。
 「明日の飲み会なら、ちゃんと出るから、心配ないよ」
 「……」
 「じゃ、おやすみ」
 優也の手からレジ袋を受け取った蓮は、そう言うが早いか、鍵を開けて自分の部屋に入ってしまった。
 「……」
 ―――飲み会の話じゃなかったんだけど…。
 疲労のせいで、思考力も低下しているのだろうか。大丈夫かな、と、閉まったドアを暫し見つめた優也は、家主が帰宅してもなお一向に部屋の電気が点かないことに、余計に不安を覚えた。
 このシチュエーションに、さほど疲れていない優也の頭が弾き出した答えは、「蓮は現在、疲労のあまり、電気を点ける間もなく気絶するように眠ってしまっている」だった。
 「…僕なら、無理だなぁ…」
 優也は、真っ暗闇がどうしても駄目で、どこか1ヶ所でいいから電気が点いていないと眠れないのだ。
 でも、20歳を過ぎた男が「暗いのが怖くて眠れない」というのも情けないものがある。いいなぁ、真っ暗でも眠れて―――方向違いなことを心の中で呟いた優也は、ため息をひとつつき、204号室前を後にした。

***

 翌日の飲み会、というのは、ゼミの先輩にあたる院生が、今週末香港で行われる研究発表会に教授と共に行く、その壮行会である。
 相変わらず、優也も蓮も飲み会の類は苦手で、この日も本来あまり乗り気ではなかった。が、主旨が先輩の壮行会である以上、ゼミの一番下っ端である2人が欠席する訳にもいかず、問答無用で参加費を徴収されてしまった。その金が惜しかったのか、優也が壮行会の主役である園田先輩のおもちゃと化すことを懸念したのか、前日あれほど疲れた様子だった蓮も、ちゃんと出席した。
 この壮行会を企画したのは、永岡ゼミのメンバーではなく、何故か隣の剣持ゼミの4年生だった。何故隣のゼミの人がうちのゼミの先輩の壮行会をやるんだろう? と不思議に思った優也だったが、その答えは、当日、飲み会会場へと向かう道すがら、真琴の口から明かされた。
 「園田さんのカノジョが、今日の幹事さんナリよ」
 …なるほど。納得した優也だったが―――居酒屋に着き、揃ったメンバーの顔を見て、この飲み会は欠席すべきだったかも、と早くも後悔し始めた。


 「わぁ、今日来といて良かったぁ。だって、秋吉君て全然コンパとかに顔出さないんだもん。ねー?」
 「ねー?」
 互いに顔を見合わせながら、優也には意味のわからない「ねー?」を繰り返しているのは、剣持ゼミの女性陣である。
 去年の夏、永岡ゼミと剣持ゼミの合同コンパ、とでもいうような飲み会に初めて参加した時、優也は彼女たちの輪の中に取り込まれてしまい、約2時間の飲み会の間中、質問責めに遭い、散々からかわれた。女性慣れしていない優也のリアクションが彼女たちにはツボだったらしく、涙目の優也とは裏腹に、彼女たちの優也の評価は思いのほか高かったのだが―――優也だって、男だ。女の子たちの言動にアタフタしては面白がられる図、というのは恥ずかしいし悔しい部分もある。周囲は「秋吉、モテモテじゃん」などと冷やかしていたが、そう言われることすら、優也にとってはなんだか屈辱的だった。
 ―――また、からかって面白がる気なんだろうなぁ…。
 さぁ飲んで飲んで、とさっそく優也のグラスにビールを注ぐ女の子をチラリと見て、一気に気が重くなる。気づかれないよう小さくため息をついた優也だったが、
 「ごめん、このビール、もらっていい?」
 優也の斜め前に置かれていたビール瓶に伸びた手に気づき、視線をその手の主に向けた。そして、その顔を見て、思わず「あっ」と言いそうになった。
 ―――この人、確か、穂積の…。
 初コンパの帰りに、蓮に告白してフラれた、剣持ゼミの女の子だ。
 剣持ゼミの中では一番大人しく、優也を弄りにも参加しなかったので、残念ながら名前までは覚えていない。が、間違いなく例の彼女だ。何故なら―――ビールを手にした彼女が「どうぞ」と言ってお酌しようとした相手は、他ならぬ蓮だったのだから。
 優也と引き離すかのように、優也の向かいの席に座らされていた蓮は、彼女にビール瓶を向けられ、「どうも」と口の中で呟きながらグラスを差し出していた。その表情に、気まずさや彼女を意識している様子は見られない。まさか、告白してきた女の子の顔を忘れた訳ではないだろうが―――いや、もしかして、忘れてしまっているのだろうか?
 ―――考えてみたら、もう半年も前のことだもんなぁ…。穂積がモヘアさんのこと忘れてても不思議じゃないのかも。
 モヘアさん、というのは、優也が反射的につけた彼女の名前である。彼女が今日着ているのがピンクのモヘアのセーターだから、モヘアさん。ちなみに、優也の左隣に座る女の子は“茶髪さん”で、その向こうは“スーツさん”。命名センスのなさでは、黒猫に“ミルクパン”と名づけた咲夜といい勝負だ。
 蓮のグラスにビールを注ぎ終えたモヘアさんは、はにかんだような笑みを浮かべた。そして、隣に座る先輩から何やら言われている蓮の横顔を、ただじっと見つめていた。
 …やっぱり、欠席すべきだったのかもしれない。
 蓮を見つめるモヘアさんの目が、半年経っても「恋する乙女の目」であることに気づき、優也はまた少し後悔した。


 ありがたいことに、この日の飲み会は、会が始まって比較的早い時点で、主役である園田先輩とその彼女が参加者全体の餌食となったため、剣持ゼミの女性陣の興味もそちらに持って行かれた。
 「ユキちゃんの元カレと園田さんが殴り合いの喧嘩して、園田さんが勝ったからユキちゃんゲットした、って言われてるけど、ほんとですかー?」
 「お前みたいな頭のネジが緩んだ奴が、どうやってこんな才女を口説き落としたのか、そのテクニックを伝授しろ!」
 明るいラテン系な性格の園田先輩と、物静かでおしとやかなユキちゃん(優也から見たら先輩だが、苗字は不明である)、という取り合わせが、2人の関係を知らなかった面々にとっては好奇心を刺激されるらしく、秀才カップルは、その馴れ初めから交際開始に至る経緯を根掘り葉掘り訊かれた。
 自分がこんな風に飲み会の肴にされたら、と想像するとたまったものではないが、おかげで優也は落ち着いて料理を食べることができたので、万々歳だ。
 が、しかし―――ある程度園田カップルの実情が暴かれてしまうと、話は妙な方向に流れ始めた。

 「そういえば、マコってこの手の噂を全然聞かないよなぁ」
 突如飛び出した名前に、優也は、危うくだし巻き玉子を喉に詰まらせそうになった。
 真琴は、優也の右側の、2人置いた向こうに座っているので、優也から真琴の顔は見えなかった。が、聞こえてきた声は、酷くノンビリとしたものだった。
 「えー、そーお?」
 「そうだろ。付き合ってるって話どころか、片想いの噂も全然ないぞ」
 「不思議ナリねぇ〜。ワタシは別に隠し立てはしてないぞよ」
 「えっ、じゃあ藤森センパイ、好きな人とかいるんですか?」
 途端に、主に剣持ゼミの女性陣が色めき立つ。きゃあきゃあ、と賑やかになりだす左隣を気にしつつも、優也の手のひらには、早くも冷たい汗が滲み始めていた。
 「うわぁ、誰だろ? 藤森さんが好きになりそうな人なんて、見当つかない」
 「片想い? 両想い?」
 「年上ですかー? それとも年下? 同い年?」
 同好会の男性部員の名前やら、この場にもいるゼミの先輩たちの名前やらが、勝手勝手にあちこちから上がる。そんな光景を楽しんでいるのか、真琴は「さー、どーでしょー」などと、涼しい顔ではぐらかし続けた。
 「これで園田さんとかいうオチだったら、洒落にならないですよ」
 「おおおおおい、勘弁しろよ」
 「あーもー、ユーたちはホントにしょーがないですねぇ」
 ついに主役の園田の名前まで出てきたところで、真琴はため息をつき、勿体ぶったように宴席全体を見渡した。
 「ワタシの好きな人と言ったら、」
 場の空気が、一瞬、張り詰める。
 「敬愛する我が恩師、永岡教授に決まってるじゃーないですかー」
 優也の手から、割り箸がポロリと落ちた。が、それとは逆に、張り詰めていた空気は、あっという間にフニャリと力を失くした。
 「なんだよそれー!」
 「そういうオチじゃウケねーよ、マコ」
 「そんな風に誤魔化すってことは、やっぱり相手は、私たちも知ってる人なんですか!?」
 ―――違うって。マコ先輩は、ウケ狙いでもカモフラージュでもなく、ホントのこと言ってるんだって。
 真相を知る優也は、1人、心臓がバクバクしっぱなしだ。まさか、本当のことをこの場で口にするなんて―――ダラダラ流れる冷や汗をシャツの袖口で拭い、なんとか落とした箸を拾い上げた。
 蓮も、優也から話を聞いて、真琴の想い人が教授であることを知っている。そっと向かいの席を見ると、蓮は、呆れたような白けたような顔で、空になったグラスにビールを注いでいた。
 「ねー、誰なんですかぁ? 先輩ー」
 「こらマコっ、吐け! 吐きやがれ!」
 誰一人、真琴の言葉を信じていない面々。真琴は、勝ち誇ったようにVサインを突き出してみせた。
 「ワタシはもう答えたから責務は果たしたナリよ〜」
 「答えになってないだろっ、テメー」
 「ふっふっふ、ワタシを酒の肴にしようなんて、10年早いのだよ諸君」
 永岡教授の口癖・“諸君”が出たことで、永岡ゼミのメンバーがウケた。似てる似てる、いや似てねぇ、と声が飛ぶ中、優也は、急速にせり上がってきた苛立ちに、こめかみがズキズキ痛み始めていた。
 多分真琴は、真実を言ってもこういう反応が返ってくることを、最初からわかっていたのだろう。わかっていたからこそ、平然と永岡教授の名前を出したのだ。
 本気で焦り、他人事なのに1人でドギマギしている優也なんて、真琴から見たらさぞかし滑稽だろう。みんなが信じると思うなんて、ユーも想像力が足りませんネ、と笑うのかもしれない。けれど―――…。
 「あっ、わかった。穂積君でしょ」
 苛立ちに耐えつつテーブルの角をじっと見据えていた優也は、誰かが発したその一言に、ギョッとなって勢いよく顔を上げた。
 いきなり名前を出された蓮は、グラスに口をつけたまま、「は? 俺?」という顔で固まっていた。その横で、モヘアさんが、ウサギみたいなその顔を僅かに強張らせた。
 「あー、マコに年下ってイメージじゃないけど、穂積ならアリだな」
 「何か変に悟ってるとこあるもんなぁ、穂積は」
 「どうなんですかー、藤森先輩ー」
 “北海道ポテトのバター乗せ”を食べようと皿に手を伸ばしているところだった真琴は、誰の顔も見ず、いかにも適当な感じに答えた。
 「あー、そーかもねー」
 「…せめて否定して下さいよ」
 蓮の眉が、迷惑そうに顰められる。モヘアさんは、傍から見ていて気の毒になるほど、動揺しているのがアリアリな表情だ。
 「いやいや、穂積はねーよ。穂積には秋吉だよ」
 園田先輩が、だよなぁ? という視線を蓮と優也に向けつつ、とんでもないことを言い出す。咄嗟に反応できず固まる優也とは対照的に、蓮はますます眉を顰め、迫力ある三白眼で園田先輩を睨んだ。
 「…そういうのも、やめてもらえますか」
 「けど、結構根強くあるんだぜ? ボーイズ・ラブ好きな一部の女の間で、そういう噂が」
 「その人たちにも、絶対違うって言っておいて下さい」
 「ねぇ、じゃあ、穂積君て好きな女の人とかいるの?」
 モヘアさんの友人である筈のスーツさんが、そんなことを蓮に訊ねる。もしかして、モヘアさんがまだ蓮を好きなことに気づいていないのだろうか―――優也の手に、また汗が滲み始めた。
 一方、問われた蓮は、一瞬不意打ちを食らったかのように、うろたえた顔をした。が―――気まずそうに視線を斜め下に落とすと、まるで呟くような声で、短く答えた。
 「……まあ、一応」
 「えーっ!!」
 その場にいた、モヘアさんを除く全女性から、一斉に声が上がった。モヘアさんは、目を見開いて完全に硬直状態だ。あああ、と、優也は頭を抱えたくなった。
 「誰!? 誰!? うちの大学の人!?」
 「おいコラ、そういうネタは俺たち先輩にちゃんと報告しないと駄目だろー?」
 園田先輩が、蓮の首に腕を回し、プロレスよろしくグイグイ締め上げる。ガクガク揺らされながらも、ヤメロ、と蓮が座布団と座布団の間に覗く畳をバンバン叩いて訴えたので、園田先輩も悪ふざけをやめ、腕を緩めた。
 げほげほ、と暫しむせた蓮は、はぁ、と息を吐き出すと、自分に集中する視線を避けるように、ぐいっ、とビールをあおった。そして、グラスをテーブルに置くと同時に、答えた。
 「…ノーコメントで」
 途端、えー、とあちこちからブーイングが起きた。
 「はあぁ? そんなの通用するかっ」
 「ねーねー、片想い? 両想い?」
 「うちの大学の人かどうかだけ教えてっ」
 矢継ぎ早な質問に、忍耐力もついに尽きたのだろう。髪を掻き毟った蓮は、観念したように早口で答えた。
 「大学の人間じゃないし、完全に俺の片想いだから、先輩たちが面白がるようなネタは提供できません。以上!」
 大学の人間じゃない、イコール、ここにいる面々の知らない人、である。なーんだ、という空気が辺りに広がる。そして、そがれた関心は、また思わぬ方向に転がった。
 「ねぇ、じゃあ、秋吉君は?」
 「えっ」
 視線が、今度は優也に集まった。キョロキョロと周囲を見回した優也は、自分に話を振った茶髪さんに向かって「僕?」という顔をしてみせた。
 「前、カノジョはいない、って言ってたけどさぁ。片想いでもいいから、好きな人は? いる? いない?」
 「え…、え、え、え、えっと…」
 自分に話を振られるとは思っていなかった優也は、うろたえた目を蓮に向けた。が、蓮から露骨に「俺に助けを求めないでくれ」という視線を返されてしまい、泣きたい気分になった。
 気の利いた嘘をつくなんて無理だし、誤魔化すのも苦手だ。参ったなぁ、と、ずれた眼鏡を直しつつ、優也は軽く咳払いをした。
 「い……いた、んだけど、フラれました」
 何故か周囲から「おおおおっ」というどよめきが起きた。その中に、小さな「え…っ」という声が混ざっていたことに、優也だけでなく、周囲の誰も気づかなかった。
 「えーっ! てことは、告白したの!?」
 「…いえ、あの、告白っていうか…ま、まあ、ちょっと違うけど、似たようなもの……なのかな。あれ?」
 実際には、全然似てもにつかない展開だったのだが、動揺しまくっている優也は、自分でもよくわからなくなってしまい、あれ? と首を傾げた。もっとも、たとえ冷静な状態でも、片想いの相手に「食われてしまった」経験など、到底公にはできなかっただろうが。
 「へーっ、秋吉君て、見た目よりずっと行動力あるんだ。ねー?」
 「ねー。意外ー。見直しちゃった」
 スーツさんと茶髪さんが、そんなことを言い合って勝手に盛り上がる中、
 「おい、マコ、どうした?」
 4年生の先輩の声がして、みんなの目が真琴に向けられた。
 見れば、真琴は、ショックを受けたとも放心したともつかない表情で、目をパチクリさせていた。声をかけた先輩がペシペシとその頬を叩くと、我に返ったのか、真琴の目が数度、瞬きを繰り返した。
 「おいおい、何、秋吉の話聞いて放心してるんだよ」
 園田先輩も苦笑してそう訊ねる。すると真琴は、珍しく曖昧な笑い方をして、「なんでもないナリよ〜」と返した。
 それを妙な方向に解釈したのか、4年の先輩の1人が、とんでもないことを言い出した。
 「あ、もしかしてマコの片想いの相手が、秋吉とか」
 えっ。
 と優也が固まるのをよそに、周囲はその推理にドッと沸いた。
 「えーっ! それは意外!」
 「いや、でもかえってしっくり馴染む気もする」
 「仲いいですもんねぇ、藤森先輩と秋吉君」
 「いやいやいや、マコの秋吉の扱いは、どう見たって“手下”か“使い走り”だろ。好きな男にあれはないぞ」
 ―――ちょ…ちょっと、先輩たち…。
 本人不在のまま、勝手気ままなことを言い合う先輩たちの様子に、優也は開いた口が塞がらない状態に陥った。そんな優也を見て、あーあ、とでもいうように、蓮がガクリと肩を落とした。
 「ねぇ、藤森先輩っ。どうなんですかぁ?」
 優也の隣に座る茶髪さんが、身を乗り出してそう訊ねる。
 既に興味の中心がじゃがバターへと戻りつつあった真琴は、その問いに、まるで録画テープを巻き戻したかのような一言を返した。
 「あー、そーかもねー」
 「―――…」

 …何故だろう。
 さっき押さえ込んだ筈のイライラが、今の一言で、一気に脳天まで突き抜けた感じがした。

 結局誰なんだよ、とみんながはやし立てる中、優也は固い表情で、俯いたままだった。
 腹が、立った。
 何故だか、無性に、腹が立って―――イライラして、仕方なかった。

***

 「じゃあ50分になったら出て、二次会に流れまーす」
 幹事の一言で、化粧直しのために女性陣がバラバラと席を立ち、男性陣の何名かもトイレに行くため席を空けた。
 優也と真琴の間にいた2人は別の席に移動しており、茶髪さんやスーツさんも化粧直しに行ってしまっていた。気づけば、優也に一番近い席に残っているのは、真琴だけ、という状態だ。
 ―――別に、何も言う必要なんて、ない。
 そう思うけれど―――どうしても、一言、言わずにはいられない。唇を噛んだ優也は、真琴との間の席を詰め、残っているメンバーには聞こえないよう、小声で声をかけた。
 「…マコ先輩」
 「んー?」
 真琴は今、デザートとして出されたシャーベットと格闘中である。スプーンをくわえたまま顔を上げた真琴の、あどけないとさえ言える表情と仕草が、今は余計、優也の癇に障った。
 「なんで、あんなこと言ったんですか」
 少し責めるような口調で優也が訊ねると、真琴は、本気で何のことかわからない様子で、首を傾げた。
 「あんなこと?」
 「…教授のことです」
 「あーあ」
 あのことね、と納得した真琴だったが、返ってきた答えは実にシンプルだった。
 「多分誰も信じないんだろうなぁ、と思ったから」
 「……」
 「それに、秋吉君はほんとのこと知ってるから、みんなのリアクションにウケるんじゃないかな、とも思ったナリよ。面白くなかった?」
 「…っ、面白い訳、ないでしょう!?」
 小声でも、声のトーンで、その憤りのほどは伝わったらしい。のほほんとした真琴の顔が、驚いたように少し強張った。
 「第一、ウケ狙いとか面白そうだからとか、そんなくだらない動機で、どうしてあんな大事な事をペラペラ話すんですか…! “多分”誰も信じない、って―――もし1人でも信じたら、教授にだって迷惑かかるのに」
 「でも実際、誰も信じなかったナリよ? あの写真にしてもそうだけど、秋吉君がレアケースなのであって、フツーの人はこんなの真に受けたりしないのですよ?」
 真琴の返答に、また苛立ちが(かさ)を増す。普通の人なら笑い飛ばせるレベルの冗談すら理解できない堅物―――決してそんな風には言っていないのに、真琴の口を介すると、何故かそう聞こえてしまって。
 「んー、でも、秋吉君があんまりウケなかったんなら、私も謝るナリよ」
 きつく唇を引き結び、微かに震えてすらいる優也の様子に、真琴は困ったように両手を何度か組み直しながら、そう言った。
 「まさかユーが、そんな心配をするなんて、想像してなかったナリよ。ごめんね」
 「……」
 それでも優也が俯いたまま黙っていると、その沈黙に耐えかねたように、真琴は妙に明るい調子で付け加えた。
 「けど、やっぱりユーは、面白いですネ」
 「…え?」
 「空が落ちてくるんじゃないか、ってヒヤヒヤしてた杞の国の人みたいナリよ。しかも、私の頭の上に落ちてくるんじゃないか、って心配してるなんて、ホントに面白いナリよ〜」
 「……っ、」
 駄目押しのようなその言葉に、優也の中で、何かがプツッと切れた。

 真琴は、間違ったことは言っていない。
 真琴の目で見れば、自分とは正反対な優也の言動や思考パターンは本当に面白いのだろうし、面白いと思ったからそれを素直に口に出しているだけなのだろう。そのことは、優也も十分、わかっている。
 でも……駄目だ。
 融通のきかない自分、他人の目が気になってしまう自分、“普通”というものさしを頼ってしまう自分、真っ暗闇では眠ることのできない自分―――何で自分はこんなちっぽけな人間なんだろう? と優也自身が日々思っているからこそ、真琴の言葉をまっすぐに受け止められない。
 そして、多分―――相手が、真琴だからこそ。
 もっと柔軟で自由で“自分”というものを持った人間になりたい、と思っている優也が、そういう人間の例として、いつの間にか思い浮かべるようになっていた人、だからこそ……真琴の何気ない言葉は、ナイフよりずっと、鋭い。

 「…マコ先輩みたいに考えられたら、多分、楽なんだろうけど―――…」
 しぼり出した声は、微かに震えていた。ゴクリ、と唾を飲み込んだ優也は、俯いたまま、低く短く、告げた。
 「―――…僕は、真剣に好きになった人のことを、冗談で口には、できないです」
 真琴から、笑顔が消えた。
 「本当に好きじゃない相手との間を冷やかされたら、先輩みたいに笑ってはぐらかした方が、場もシラけないし自分も楽なのかもしれないけど―――僕は、頭が固いって言われても、必死に否定することしか、できないです」
 「……」
 「そんな風にしかできない人間、先輩にとっては“面白い”んだろうけど、」

 真琴は、悪くない。
 悪くないのに―――…。

 ぎゅっ、と拳を握り締めた優也は、顔を上げ、真琴を真っ直ぐ見据えた。
 「そうやって面白がれる先輩……僕は、嫌いです」


***


 「はい……はい、でも、もうすぐ終わるんで、俺もそっち行きます。…ええ、大丈夫です。はい。じゃあ、また後で」
 携帯電話を切った蓮は、ホッと息をつき、液晶画面に表示された時刻を確認した。
 午後8時53分―――しまった、50分には出る、と幹事が言っていたのに、思いのほか電話に時間を取られてしまった。パチン、と携帯を閉じ、席へと急いだ。
 この後、参加者の大半は二次会へと流れるらしいが、蓮は当然、一次会までで離脱の予定だ。真琴の「参加するのです!」の一言に優也が逆らえなかったので、蓮も仕方なく参加することにしたが、今の蓮はこんなものに参加している暇など本当はないのだ。早く離脱して、“向こう”と合流しないと―――席へ戻りながら、蓮は頭の中で、この後のスケジュールを忙しなくまとめ直した。

 「……あれ」
 みんなのいた席に戻ると、既にそこはもぬけの空だった。
 いや、正確には、もぬけの空ではなかった。祭りの後よろしく、空瓶や皿がグラスが雑然と残されている他に、1人だけその場に残っている人物がいたから。
 「マコ先輩」
 蓮が声をかけると、俯いていた真琴が、のろのろと顔を上げた。
 「…穂積君…」
 「他の人たちは?」
 「…先出て、精算済ませてるって」
 「そうですか…」
 予約時間の兼ね合いから、いつまでも大人数で陣取っている訳にはいかなかったのかもしれない。戻って来ていない蓮のために、真琴が1人残っていたのだろう、と考えた蓮は、置いておいた荷物を掴み、
 「すみません、わざわざ待っててもらって。行きましょう」
 と真琴を促した。
 店の入り口の方に向かって歩き出しながら、ジャケットを羽織った蓮だったが―――席を立った真琴が、さっぱり自分について来ていないことに気づき、慌てて足を止めた。
 振り返ると、真琴は俯いたまま、テーブルの横にぽつんと立っていた。どう見ても、落ち込んでいるような姿―――こんな真琴を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 「―――マコ先輩?」
 さすがに異状を感じ、蓮は真琴の傍に歩み寄り、俯かれた顔を覗き込んだ。
 「どうかしたんですか?」
 真琴が、少しだけ、顔を上げる。
 やっと蓮の目を見た真琴は、途端、その顔をくしゃくしゃに歪めた。
 「ほ…穂積君〜〜〜〜〜〜」
 「え、」
 その後に来るものを予感して、蓮がギョッとしたように身を引く。そしてその予感どおり、真琴の目から涙がポロポロこぼれ落ちた。
 「ちょ…っ、ど、どうしたんですか!」
 「あ…秋吉、君がっ」
 「秋吉?」
 優也にまつわる話とわかり、蓮の顔が真剣味を帯びる。ヒックヒックとしゃくりあげ始める真琴の肩に手を置き、蓮は改めて、真琴を問いただした。
 「秋吉が、どうしたんですか」
 「どうしよー。私、秋吉君を怒らせちゃったナリよ〜〜〜〜」
 「怒らせた、って…」
 優也が真琴に向かって怒っている図が想像できず、困惑する。だが、続く真琴の言葉は、そんな困惑も木っ端微塵になるほど、強烈だった。
 「嫌いって言われちゃったあぁ」
 「えっ!!!」
 ―――嫌い!? 秋吉が!?
 「穂積君〜〜〜〜っ」
 嫌い、の一言のインパクトに固まる蓮に、小学生レベルと化した真琴は、うわーん、と泣き声を上げ、抱きついた。固まっていた蓮も、しがみつかれた勢いで1歩後ろによろけ、ハッ、と我に返った。
 「ま、マコ先輩…っ」
 慌てて真琴を引き剥がそうとしたが、蓮の胴回りにしがみつく真琴は、思いのほか力が強く、ビクとも動かない。わんわん泣き声を上げる真琴のせいで、四方八方から、周囲の客の視線が蓮の背中や肩に突き刺さった。
 「な…泣いてもいいですけど、ここ、店ん中ですから…」
 「どうしよう、穂積君ー」
 困り果てている蓮の声など、さっぱり届いていないのだろう。真琴は泣きじゃくりながら、更なる驚きの言葉を口にした。
 「好きになる前に、嫌いって言われちゃったよー」
 「……」

 ―――…え???

 「す…好きになれるかも、って思ったその日に、嫌いって言われるなんて思ってなかったよー。どうしよー」
 「…………」
 頭が、さーっ、と冷たくなった。
 つまり……真琴は今、永岡教授が好きで、でも妻帯者なので告白する気もなくて―――そんな中で、何故今日、急に優也を意識しだしたのか、その経緯はよくわからないが、とにかく……今日、優也を好きになるかもしれないと、初めてそう思って。
 そう思った矢先に、当人から、嫌い、と言われた、と。

 ―――…な…なんで…、
 なんで“嫌い”なんて言ったんだよ、秋吉……っ!!! お前、むしろ逆だろ!? 何やってんだよ…っ!

 そんな、本心とは裏腹なことを言ったりしなければ、全て丸く収まっていたかもしれないのに―――何か真琴の言動にイライラしたのかもしれないが、嫌い、とはまた、絶望的に救いようのない一言を口にしてしまったものだ。フォローの入れようもない。
 ―――参ったなぁ…。
 さっぱり離れようとしない真琴を見下ろし、頭を抱えたい気分になる。励ましの言葉も慰めの言葉も、口下手な蓮には一切思いつかない。仕方なく、泣き止んでくれることをひたすら祈りながら、真琴の背中をポンポンと叩き続けた。
 ところが、蓮の災難は、それだけでは終わらなかった。

 「穂積君ー」
 コツコツ、というヒールの音と共に、なんだか聞き覚えのある声が、店の入り口の方向から近づいてきた。
 反射的にそちらに目を向けると、今日の飲み会の間、ずっと蓮の隣に座っていた剣持ゼミの女の子が、心配そうな顔でこちらに歩いてきているところだった。
 「どうしたの? みんな外で待って―――…」
 そう言いかけた彼女の足が、止まる。
 「……」
 立ち止まった彼女の顔は、ショックを受けたかのように、若干蒼褪めていた。口元に置かれた手も、微かに震えていた。
 一瞬、どうしたんだろう、と不思議に思った蓮だったが、彼女の目が、蓮ではなく蓮に抱きついている真琴に向けられているのに気づき、ようやく彼女のリアクションの意味するところを察した。
 ―――違う。誤解だ。
 声に出して、言いたかった。けれど、蓮がそれを口にするより先に、彼女の目に涙が浮かび、あっという間にこぼれ落ちてしまった。

 蓮が苦手な、泣いてる女、かける2。
 プラス、居酒屋の客の、不審げな視線、かける多数。

 …どうして俺が、こんな目に遭うんだろう?

 身動きすらできない状態で、蓮は、先に帰ってしまったであろう親友を、密かに恨んだのだった。


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