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 ―――うわ…、緊張するなぁ。
 どことなく、リフォーム前の自分の家を彷彿させる門構えの家。その前で、理加子は落ち着かない気分で、コートの襟元を意味もなく整えた。
 掲げられた表札には「牧」の一文字。けれど、今日理加子が訪ねて来た相手は「牧さん」ではない。「海原さん」だ。
 マリリン―――海原真理から事前に電話をもらった際、訪ねる家が「牧さん宅」と聞いて驚いたが、「リンカさんの実家だから」と聞いて理解した。つまり、真理の妻子は現在、妻の実家で生活しているのだ。なるほど、それなら表札が「海原」でないのも納得だ。
 海原家のことは、理加子もあまり聞いていない。だから、何故妻の実家に妻子がいて真理が1人だけ“ベルメゾンみそら”に住んでいるのか、その事情もいまいち想像ができない。ただ、妻子の話が出た時の真理の微妙な表情や言葉から、何か説明し難い事情があるんだな、ということだけは感じられた。
 そのせいだろうか。人の家を訪ねること自体稀だが、それにしても……やけに、緊張する。
 ―――海原先生って、いくつなんだろう? 若く見えるけどきっと30代後半よね。奥さんもその位だとして…その親、ってことは、60代か70代? うわぁ、全然慣れない。
 祖母が亡くなって以来、縁のない世代だ。それだけでも緊張するのに、裏事情のありそうな家庭ときては、ますます緊張する。はーっ、と大きく息を吐き出した理加子は、よし、と心の中で呟き、呼び鈴を押した。
 ほどなく、玄関が開き、真理本人が顔を出した。今日は最初に見たのと同じ、本来の「海原真理」の格好だ。妻の実家から女装姿で出てきたらどうしよう、と心配していたが、とりあえず一安心だ。
 「いらっしゃい」
 「こ…こんにちは」
 にこやかに挨拶する真理に、理加子もギクシャクと頭を下げる。理加子の緊張を見て取ってか、真理はちょっと苦笑し、ドアを更に大きく開けた。
 「どうぞどうぞ。寒いでしょう。早く中に入って」
 「はい」
 お邪魔しまーす、と理加子が進み出ると、ふとあることに気づき、真理が不思議そうな顔をした。
 「優也は?」
 「あ…」
 もし都合がつけば一緒に来ると言っていたのだ。家庭教師のアルバイトの関係でセンターに行かなくてはいけないかもしれないから、カウントには入れなくていい、とは言っていたが、最初だけでも顔を出すのではないか、と真理も思っていたらしい。実を言えば、理加子もそう思っていた。
 「ゆうべ電話したんだけど、なんか、体調悪いみたいで…。大したことないけど、外出する気になれないし、場を盛り下げちゃうかもしれないから、って…」
 「あらら…、風邪かな」
 ―――違うっぽかったけど。
 一体どこかどう体調不良なのか、受話器から聞こえる優也の声からはさっぱり判断がつかなかったが、少なくとも風邪をひいてるような様子はなかった。体調不良というより、むしろ、精神的に落ち込んでるような声だった。気がする。
 でも、失敗した話や落ち込んだ出来事も、比較的隠さず話してくれた優也が、本当のことを言わないほどなのだ。きっと、本当の理由は、まだ訊かない方がいいのだろう。勿論、真理にも体調不良で通しておくことにした。

 その家は、「普通の2階建て住宅」という表現以外、いい表現の見つからない家だった。
 こじんまりとした玄関。玄関を上がると正面に廊下があり、それぞれの部屋へと続くドアが左右や奥に並ぶ。2階へ上がる階段は玄関から少しずらした形で左に配置されている。階段前にあるドアは、多分物置だろう。
 理加子の家も、祖母が他界してリフォームすることになった時、階段の位置をもっと奥、もっと中央にした方が使い勝手がいい、と業者がアドバイスしたが、母が絶対にそれを許さなかった。玄関から階段が続いているのは家相学上よくない、と主張した亡き祖父が、こだわって決めた場所だから、動かしたくないのだと。家相学とやらは、理加子にはわからないシロモノだが、この家を建てた人もきっと、その家相学に沿って階段を壁にくっつけて配置したのだろう。
 どうぞ、と置かれたスリッパに足を入れ、キョロキョロしながら真理の後について行くと、突如、一番奥のドアが開き、誰かが飛び出してきた。
 「!」
 驚いて思わず足を止めた理加子だったが、次の瞬間、その表情がパッと明るくなった。
 ―――か…っ、可愛いー!!!!
 自らも“お人形さんモデル”などと言われていた理加子が言うセリフでもないが―――可愛い。お人形さんみたい。ただ素直に、そう思った。
 年齢はおそらく、小学校高学年…いや、もう少し下だろうか。子供っぽい丸い輪郭の顔に、パッチリした目と小さな唇。ツインテールにした栗色の髪は、癖っ毛なのか、緩やかにうねり、毛先がクルンと弾んでいる。そして、服装―――来客があるから、あえて着ているのだろう。フリルをふんだんに使用した、いわゆるゴシック・ロリータ路線の子供服だ。
 ―――やっぱりこーゆーのって子供にこそふさわしいファッションよねぇ…。あの雑誌でも、素人コスプレイヤーの紹介をよくやってたけど、あたしから見ると“痛い”としか言いようがなかったもの。ああいうのが好きな男の人には、十分許容範囲内なんだろうけど。
 かく言う理加子は、仕事を離れた今、極普通の同世代がしている服装をしている。この外見にコンプレックスがあるせいか、元々あの手の格好はあまり好きではないのだ。それでも、目の前の女の子の愛らしい格好には、顔が自然とほころんでしまった。
 駆け出してきた女の子は、紅潮した顔で、理加子と真理の顔を交互に見比べた。期待に満ちたその目に、真理はくすっと笑い、女の子の肩に手を置いて理加子の方を見た。
 「娘の、杏奈。目の前にあのリカちゃんがいることが信じられなくて、ちょっとパニックになってるみたいだけどね。…ほら、杏奈ちゃん、ご挨拶して」
 「あ…っ、あ、杏奈ですっ」
 真理に促され、杏奈は慌てたように理加子の方を向き、バッ、と勢いよく頭を下げた。その様子にちょっと吹き出しつつ、理加子も頭を下げた。
 「姫川理加子です。はじめまして」
 「はじめまして…」
 まだ少しポカンとした表情でそう答えた杏奈だったが、次第に実感が湧いてきたのか、目を輝かせて真理を振り返った。
 「す……凄い! 絶対パパの冗談だと思ってたのに…!」
 「あはは、信用ないなぁ」
 「だって…っ、だって、本物のリカちゃんがうちに来るなんて、あり得ないと思ったんだもんっ」
 “本物のリカちゃん”。
 ―――…えっと…そんなに驚いてもらうほどの人間じゃあないんだけど、あたし。
 そんなに盛大に喜ばれてしまうと、かえって面映い。キラキラした目をまたこちらに向けられて、理加子は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
 「あのっ、あのっ、“月刊ドールガール”、毎月欠かさず見てますっ」
 「…あ…、そ、そう。ありがと」
 理加子が戸惑いつつそう返事をすると同時に、杏奈が出てきたのと同じドアから、1人の女性が顔を覗かせた。
 杏奈と似た大きな目をした彼女は、けれど、全体から受ける印象は杏奈とは正反対だった。ショートヘアのせいもあるが、比較的背が高いこともあって、なんとなくボーイッシュなイメージ―――活発そうで、勝気そうで、さっぱりとした人物のような印象だ。
 「遠い所、ようこそ」
 理加子と目が合うと、彼女はそう言ってニッコリ笑い、軽く頭を下げた。
 「妻の梨花です」
 「あ…、姫川理加子です」
 つられるように頭を下げたところで、自分が腕に抱いている物を思い出した。最初に渡すつもりだったのに、緊張していてすっかり忘れていたのだ。
 「あの、これ……お土産です。よかったら飾って下さい」
 そう言って、慌てて理加子が花束を梨花の方に差し出すと、海原家の3人は一様に驚いたような顔をした。
 「そんな、私たちが無理言って来ていただいたんだもの。気を遣わなくても良かったのに…」
 「いえっ、小さい頃からの、ただの習慣なんです。気にしないで下さい」
 人様の家にお邪魔する時は必ず手土産を持って行きなさい―――それが、亡くなった祖母の方針だったのだ。もっとも、祖母がそう言ったのは、それが礼儀というものだから、ではなく、手土産の1つも持たせないなんてケチな家だと思われないように、という、ちょっと見栄っ張りな理由からだったのだが。
 「ほんとはケーキとかにしようと思ったんだけど、好みがよくわかんないから…お花なら、女の子なら大抵好きだろうと思って」
 駄目押しのように理加子が更に花束を前に差し出すと、それじゃあ、という感じで梨花が遠慮がちに受け取ってくれた。真理や杏奈からも「ありがとう」とお礼を言われ、理加子は照れ笑いのような笑みを浮かべた。
 「杏奈。ママ、ちょっとお茶の準備しなきゃいけないから、これ、一番大きな花瓶に活けてくれる?」
 「えーっ、杏奈がやったら、リカちゃんからもらったお花がカッコ悪くなっちゃう」
 過去に花を活けて失敗したことでもあるのか、梨花の頼みに、花束を受け取った杏奈は露骨に自信なさげだ。
 「いいよ、杏奈ちゃん。パパがやるから」
 苦笑した真理がそうフォローを入れたが―――咄嗟に、理加子が口を挟んだ。
 「あの、よかったら、あたしが」
 「え?」
 「あたしが、杏奈ちゃんと一緒に……お花、活けてもいい、ですか?」
 ―――うわ…、あたし、何言ってるんだろ。
 口に出してしまってから、その突拍子のなさに気づき、焦る。自分が持ってきた花を、しかも初対面の人間の家でいきなり「活けさせて下さい」だなんて―――華道の達人か何かであるならまだしも、ド素人だというのに。
 さすがに真理もキョトンとしている。慌てた理加子は、早口で必死に付け加えた。
 「あ、あたし、子供の頃、おばあちゃんに無理やり華道やらされて、中学位まで続けてたんで…上手くはないけど、ちょっとだけ慣れてると思うんで。…杏奈ちゃん1人じゃ上手くできるか不安なら、あたしと一緒にどうかなー、と思って」
 「…それは…リカちゃんがそれでいいなら、いいんだけど、お客様に花を活けさせるってのも、ねぇ…」
 ねぇ? と困惑顔で両親が顔を見合わせる中、杏奈だけはまた目を輝かせ、真理のセーターの袖をぐいぐい引っ張った。
 「ん?」
 「リカちゃんと一緒なら、やる」
 「えぇ?」
 「花瓶持ってくるねっ」
 言うが早いか、杏奈はくるんとスカートを翻し、花束を抱えたままどこかへ走って行ってしまった。唖然とした両親だったが、梨花は苦笑と共にその場を離れ、真理は困ったような笑いを理加子に向けた。
 「ごめん。ファンの我がままに、ちょっと付き合ってやって」
 「そんなことないですよぉ。あたしだって海原先生のファンだし」
 「アハハ、そうでした」
 本当は、理加子自身が一番、自分の言動にびっくりしているのだが―――と、ここで理加子は、あることが気になり、ちょっと声のボリュームを落として真理に訊ねた。
 「あのー、他の人たちは」
 「え?」
 「おじいちゃんとか、おばあちゃんとか」
 海原家3名の紹介は終わったが、家主である「牧さん」には、まだ1人も会っていない。それに、彼ら3人以外の人の気配というものもあまり感じられない。怪訝そうに眉をひそめる理加子に、真理は「ああ、そのことか」という顔をした。
 「お義父さんとお義母さんは、ちょうどお義姉さんの家に行ってるし、義弟は土曜日も仕事。全員留守だよ」
 「あ…、そうなんだ」
 一瞬、タイミング良く留守でよかった、と単純に思ってしまった理加子だったが、もしかしたら自分が来ることを知ってわざと家を空けたのかもしれない、という可能性に気づき、なんとも微妙な気分になった。いや、勿論、自分も同じ立場であったなら、来客に余計な気を遣わせないために家を空けるだろうとは思うのだけれど。
 ―――でもきっと、来客なんて面倒だ、って気持ちの方が大きいわよね。あたしだって多分そう思うもん。
 この微妙な気分が、そのまま、なんだか牧家と海原家の間にある微妙さを表しているような気がして、理加子は内心、ヒヤリとしたものを感じたのだった。


***


 戸締りと火元の確認を終え、咲夜が腕時計を確認すると、午後1時半だった。
 ―――中途半端だなー。どうしよっかな。
 一成やヨッシーとの事前練習のためのスタジオは、3時にならないと使えない。1時間ほど時間が余ることになるが、仕度も終わってしまったので、時間までぐだぐだ家にいる気にもなれない。スタジオ近辺に本屋はないし、コンビニで立ち読みできる本の中に咲夜が読みたい本はほとんどない。
 さて、どこで時間を潰そうか―――そんなことを考えつつ、ドアを開けた。
 すると。
 ―――…ん?
 鍵をかける時、視界の隅っこで人影らしきものが動いたような気がした。誰だろ、と疑問を抱く間もなく、反射的にそちらに目を向けた咲夜は、思わぬ人物の思わぬ姿に、大きく目を見開いてしまった。
 「え…」
 202号室と203号室の、ちょうど境目辺り。
 両膝と両手を地面につき、ガクリとうなだれているのは―――明らかに、203号室の住人・木戸だった。
 「き、木戸さん!?」
 半ば裏返った咲夜の声に、木戸がノロノロと顔を上げる。色黒なのでわかり難いが、その顔に日頃の精気はなく、若干蒼褪めてすらいるように見える。目の下の隈といい、今にも死にそうな表情といい、どう見ても「病人」だ。
 「どどどどどーしたんですかっ!」
 慌てて駆け寄り、助け起こそうとした咲夜は、その時になって初めて、死角になっていた場所にボストンバッグがぽつんと置かれていることに気づいた。秋田に帰省するつもりで家を出て、いきなり具合が悪くなった、ということだろうか。
 「い…いや、大丈夫です」
 全然大丈夫そうではない声でそう言うと、木戸は咲夜の肩に掴まりつつ、ゆっくりと体を起こした。
 「ちょっと、ちょっとだけ、気分が悪くなっただけなんですよ。少し休めば治…」
 と言いかけた直後、木戸は顔を歪め、胃の辺りを押さえた。
 「あ、あいたたたたたたた」
 「え…っ、い、胃痛ですか」
 「いやいやいや、この位、どーってことは…う…うぐぅええぇっ」
 ―――ひーっ、ちょ、ちょっと待ってよっ。
 今にも吐きそうな状態の木戸を見て、さすがに焦る。とりあえずどこかで休ませないと、と視線をあちこち彷徨わせた咲夜は、足元に転がっているキーケースに今更気づいた。どうやら、体調を崩した木戸が施錠後に落としてしまったらしい。
 「と…、とりあえず、部屋戻りましょっか。ね?」
 「い、いや、だ、だ、だ、大丈夫、っす」
 弱々しい声のせいで、「で」が抜けた若者みたいな喋り方になっている。これのどこが大丈夫なんだ、と咲夜は余計眉をひそめた。
 「や、どう見ても大丈夫じゃないですから」
 「大……う、うええぇぇえっ」
 ―――吐きそうになりながら大丈夫とか言うなっ!!!
 駄目だ。これは実力行使しかない。鍵を拾った咲夜は、てぇいっ、と掛け声をかけながら木戸を引っ張り起こし、203号室の鍵を開けた。
 そして、力任せに玄関ドアを開いた直後、目の前に広がる光景に、思わず声に出して「うわ」と言ってしまった。

 玄関を入った瞬間から、壁一面を埋め尽くす、格闘家ポスターの数々。
 息苦しい。別に部屋の空気がどうかなっている訳ではないが、壁が剥き出しになっている部分がほとんどないから、視覚的に凄まじく息苦しい。その上、ダンベルだのエキスパンダーだのがゴロゴロ転がっているのまで見えるから、気温も3度ほど一気に上昇した感じだ。
 奏から聞いて「ふーん」とは思っていたが、ただ聞くのと実際に目にするとでは大違いだ。予備知識も吹っ飛ぶ圧巻ぶりに、なんじゃこりゃ、と思わず固まりそうになる。こんな空間に毎日住んでてよく窒息死しないな、と本気で恐ろしくなってきた。

 ―――ってか、こんだけフィットネスおたくの木戸さんが、こんだけ弱ってるって、相当ヤバイんじゃないの?
 酷い風邪をひいた木戸を見たことがあるが、あの時だってここまでではなかった。深刻な病気だったらまずいな、と頭の片隅で思いつつ、咲夜はフラフラな状態の木戸を玄関に引っ張り込んだ。
 「ほら、木戸さん! 部屋着いたから!」
 「す…すまんです、かたじけな……うえぇっ」
 吐き気が止まらないのか、もつれそうになりながら靴を脱いだ木戸は、ジタバタというアクションで部屋を突っ切り、トイレに駆け込んだ。
 背中でもさすった方がいいかな、と思いながら部屋を軽く見渡した咲夜だったが―――そこで、木戸の体調不良の原因が、なんとなくわかった。

 煙草は一切吸わんですし、酒も適量を心がけておるんです、と公言していた木戸。
 なのに、キッチンの片隅に、握りつぶされたビール缶が大量に入った半透明のレジ袋が、どん、と置かれていたのだ。

 「……」
 とりあえず、どこで時間潰すか、悩む必要もなくなったな―――数秒おきにトイレから聞こえる悶絶の声に、咲夜は困ったようにため息をついた。


***


 「じゃあ、あの眼鏡のお兄さんのお友達なの?」
 花を活けつつ、真理との繋がりについて理加子から聞いた杏奈は、そう言って少し目を丸くした。
 「あー、そっか、杏奈ちゃんて優也に会ったことあるんだっけ」
 「うん。あの時いた人の中で、一番杏奈に話しかけてくれた人だから、よく覚えてる。ふぅん…、あのお兄さんてもっと地味な感じだと思ってたのに、モデルさんとお友達だったりするんだ」
 モデル、という単語に、理加子の胸が軽く跳ねた。
 実を言えば、杏奈の嬉しそうなキラキラした瞳を見た時からずっと、杏奈が自分の仕事について触れてくるたび、なんとも言えない気まずさを感じていた。杏奈にとって理加子は、大好きな雑誌の表紙を飾る、憧れのファッションモデル―――けれど理加子は、既にモデルを辞めている。そのことを、考えてみたら真理にもまだ話していないのだ。
 雑誌を買い続ければいずれバレることだが、杏奈の落胆する顔を想像すると、直接伝えるなんて到底無理な気がする。後で真理にだけでも話しておこう、と、密かに心に決めた。
 「杏奈ちゃんは、海原先生の所によく行ったりするの?」
 理加子が訊ねると、杏奈は、カスミソウの茎に絡まった輪ゴムを丁寧に解きつつ、首を横に振った。
 「行かない。パパのお仕事の邪魔になるから、行ったのは1回だけ」
 「じゃあ、あんまりパパとは会わないの?」
 「ううん。お休みの日は遊びに連れてってくれるし、時々お夕飯食べに来てくれるから」
 そう言うと、杏奈は、何故か考え込むような表情を一瞬し、輪ゴムを解く手を止めた。理加子が不思議に思っていると、パッと顔を上げ、不自然なほどの笑顔で続けた。
 「授業参観はね、平日でママが来られなかったから、パパが来てくれたの。杏奈の友達でもう1人、パパが来た子がいたんだけど、“うちのパパよりずっと若くてカッコイイ”って言われたし、他の子からも“優しそう”って―――それにね、お仕事何してるの? って訊かれて、小説家、って答えたら、みんな、凄い凄い、って」
 「うん。小説家がパパなんて、滅多にいないもんね」
 凄いよね、という口調で理加子が相槌を打つと、杏奈の顔が本当の意味で笑顔になった。
 「そうだよね。やっぱり、パパって凄いんだよね」
 「うん…」
 その、なんだか必死な様子に―――他人の心理に疎い理加子でも、さすがに違和感を覚えた。
 「…もしかして、誰かから、パパの悪口でも言われたの?」
 思わず訊ねると、杏奈の顔から、笑顔が消えた。
 図星だったのか―――背中に冷たいものを感じつつ、理加子は早くも今の発言を後悔した。
 「も…もし誰かが悪口言っても、杏奈ちゃんが気にすることないわよ? きっと、杏奈ちゃんが羨ましくて、意地悪でそんなこと言ったんだから」
 「……」
 「あの、リカもね、小さい頃からそういう子たちに、陰で悪口いっぱい言われたの」
 杏奈が自分で自分の名前を呼ぶせいか、理加子まで「ファン向けキャラ」の時か頭に血が上った時しか使わない「リカ」という呼び名を、無意識に口にする。
 「ちょっと可愛いから、とか、みんなが持ってないもの持ってるから、って理由で苛めたりする子って、どこにでも1人や2人いるから。杏奈ちゃん可愛いし、パパも他の人に真似できないお仕事してるし、ママも綺麗でお仕事までしてるから、嫉妬する子がいて当然だと思うわよ?」
 「…大丈夫」
 理加子の必死の励ましに、杏奈は微かに笑顔を見せ、そう答えた。
 「パパの仕事のことは、凄く仲良くなった2人の子にしか話してないから」
 「あ…、そ、そうなの」
 では一体、誰に悪口を言われたのだろう? いや、図星と感じたのは理加子の勘違いで、真理の悪口など言われてなかったのだろうか?
 けれど、その割に、杏奈の表情は冴えないままだ。困った理加子は、うーん、と少し考えた末、手にしていた薔薇を置いて、杏奈の顔を覗き込んだ。
 「でも、寂しいね。パパと一緒に暮らせなくて」
 理加子の言葉に、杏奈はコクン、と頷いた。けれど。
 「…でも、パパは、今みたいな方がいいんだと思う」
 「え?」
 「ママも、本当は、そうだと思うの」
 「…そう、って?」
 言っている意味が、よくわからない。理加子が眉をひそめると、杏奈は俯き加減だった顔を上げ、真っ直ぐに理加子の目を見つめ、答えた。
 「本当はね。パパも、ママも、杏奈が一緒にいると困るの」
 「え……っ」
 「2人とも大好きだし、2人ともとっても優しいの。それは本当なの。でも…お仕事のためには、杏奈は、邪魔なんだと思う」
 「……」
 ドキリと、した。
 理加子の目が、落ち着きを失う。心拍数が、異様な勢いで上がる。が、杏奈の方は、そんな理加子の変化に気づかない様子で、ちょっと落ち込んだように目を伏せた。
 「ママは、アメリカでお仕事あったのに、杏奈がイジメなんかに遭ったせいで日本に帰らなくちゃいけなくなったんだもん。パパだって、家では小説が書けない、って言って外で書くようになったし―――この家で、おじいちゃんたちと一緒に暮らしてるのも、杏奈がいるせいだし。そのせいでママは、おじいちゃんからパパの悪口を何回も聞かされるし…」
 「……」
 「…杏奈がいなければ、パパもママも、嫌な思いしないで済んだし、お仕事ももっとできたと思う」
 冷や汗が、滲んでくる。
 まるで―――まるで、10年も前の、自分自身を見ているみたいで。

 パパもママも、どうせ、リカのことが邪魔なんだ―――中学に入るまでの、理加子自身の口癖。ただし、理加子の場合、杏奈のように「両親が子供のために何かを我慢したり犠牲にしているのを知ったから」ではなく、単に「まるで関心を示さず祖母に任せっきりだから」なのだが。
 仕事中心の両親。理加子が何をしても「いいよ、いいよ」と笑って許してくれる両親。高価なおもちゃを買い与えられて、周りからは「優しい親を持って羨ましい」と言われた。おばあちゃんがいるから寂しくないよね、とも言われた。でも……理加子は、いつだって寂しかった。
 両親にとって、自分は無用な存在だ、と感じていたから。
 本当は、いない方がいい人間―――理加子がいるから、父も母も、理加子の世話をしてくれている祖母に頭が上がらない。機嫌を損ねて理加子を放り出されてしまったら、今度は自分たちのどちらかが仕事を犠牲にして理加子の世話をしなくてはいけない。だから、祖母が機嫌を損ねないよう、なんでも祖母の意見を受け入れていた。

 理加子がいなければ、そんなこともせずに、済んだのに。
 祖母の干渉も受けず、夫婦2人きりで、のびのび楽しく生活できたのに。

 勿論、そんなことを言われたことはない。けれど、理加子が「そう思われているに違いない」と感じたのは、紛れもない事実だ。
 そう思い至る経緯は正反対だが、仕事に奔走する親の姿を見て「自分が足手まといになっている」と感じる杏奈の気持ちは、理加子にも理解できる。ただ、自分と杏奈の間には、決定的な大きな違いがある。
 「そ…そんなこと、ない! 絶対ないわよ、杏奈ちゃんっ」
 前のめりになりながら理加子が言うと、杏奈はびくっ、と顔を上げ、驚いたように目を見張った。
 杏奈の事情は、よく知らない。ほとんど予備知識がないので、今、杏奈が訴えたことの具体的な意味は、あまりよくわかっていない。けれど―――…。
 「だって、海原先生も、梨花さんも、こんなに杏奈ちゃんのことを思いやってるし、本当に大事にしてるじゃない」
 「…え…」
 「少しでも“邪魔だ”なんて思ってたら、こんなに杏奈ちゃんのこと、優先したりしないもの。日本に帰ってきたのも、ここに住んでいるのも、大して面識のないあたしをこうして招待したのも、全部“杏奈ちゃんのため”でしょ? 他に方法はいくらでもあるのに、杏奈ちゃんが一番いいように考えて、それを優先してる―――それは、杏奈ちゃんが大事で、杏奈ちゃんのためなら多少不便だったり大変だったりするのは構わない、って思ってるからなんじゃない?」
 「……」
 ぱちぱち、と、杏奈の大きな目が瞬かれる。考えてもみなかったことを言われ、驚いているようだ。その素直な反応に、理加子はくすっと笑い、憧憬を込めて呟いた。
 「羨ましい―――杏奈ちゃんが」
 「……」
 「パパやママに、こんなに愛されてて……羨ましい。あたしも、せめて杏奈ちゃんの半分位でいいから、パパやママに関心持ってもらいたかった」
 聡明な子供なのだろう。その一言で、杏奈は何かを察したような目になり、恥じ入るように視線を落とした。
 ―――なんか、「あたしよりマシ」とか言って慰めてるみたいで、卑怯だったかも。
 人の不幸と自分の不幸を比べて安心する、なんてやり方は、自分では時々やってしまうが、あまり気持ちのいい方法ではないような気がする。純粋無垢な子供に、大人の小賢しいやり方を見せてしまった気がして、理加子はちょっと後ろめたい気分になった。
 「ほ…ほら、続き! 続き、やろっ」
 そう言って理加子が、一旦は置いた薔薇を手に取り、パチン、と茎をはさみで切ると、杏奈もちょっと笑って頷き、カスミソウを手に取った。

***

 「あら、凄いじゃない…!」
 出来上がったフラワーアレンジメントを見て、梨花は開口一番、そう言って手を叩いた。
 「大きな花束だったから、うちにある花瓶でちゃんと飾れるかな、って心配したけど―――綺麗綺麗。バランスいいわねー。やっぱり、華道かじってる人は素人とは違うわ」
 「…あのー、そんなに絶賛されるほどのものじゃあ…」
 制作のほぼ9割を担当したことになる理加子は、梨花の手放しの絶賛ぶりに、顔を赤らめた。
 まあまあ上手く出来たとは自分でも思うが、まぐれで少しオシャレに出来ました、という程度なのだ。褒められるほどのことでは決してない。
 「華道かじった、って言ってもすごーく昔の話だし、おばあちゃんのお仕着せで、嫌々やってただけだし…。多分、梨花さんが活けても、あんまりこれと変わらないと思うんだけど」
 「そんなことないわよ? ねぇ、マリ君」
 夫を名前で、しかも本当の読み方ではなく音読みの「マリ君」と呼ぶ妻は、さっそく紅茶に砂糖を入れている真理にそう言って同意を求めた。ん? と顔を上げた真理も、テーブル中央に置かれた豪華なアレンジメントに、満足そうに目を細めた。
 「うん、プロが作ったアレンジメントみたいだよね」
 「もー…、海原先生までっ」
 「いやホント、よく出来てるよ? 高さとか広がり方とか、結構難しいんだよね、こういうのって。良かったねー、杏奈ちゃん。リカちゃんのおかげで、綺麗なアレンジメントができて」
 「うんっ」
 杏奈に満面の笑みで頷かれてしまうと、理加子も何も言えない。柄にもなく少々恐縮しつつ、
 「…いただきます」
 と手を合わせ、目の前に置かれたティーカップを手前に引き寄せた。すると、それを見ていた梨花が、思いもよらぬことを口にした。
 「あら、可愛い」
 「え?」
 可愛いって、何が?
 と理加子が不思議そうな目を向けると、梨花はクスクス笑いながら、今理加子がやったのを真似るかのように、目の前で両手を合わせてみせた。
 「これ。おばあちゃんの躾けかしら」
 「……」
 すっかり忘れていたが、そういえば、食べる前に手を合わせるのは、祖母に言われてやるようになった覚えがある。おずおずと理加子が頷くと、梨花は、やっぱり、と納得したように笑った。
 「主人から、うちみたいな夫婦共働き家庭だって聞いてたけど、おばあちゃんがしっかり教育されてたようだから、きっとご両親も安心だったでしょうね」
 「……」
 思わず、ついさっき、杏奈が理加子に見せたのとそっくりな、キョトンとした顔をしてしまった。
 しっかり教育されていた―――そうだった、だろうか? あまり意識したことはないが、ただ、いちいち口うるさくて押し付けがましい人だな、とはずっと思っていた。脱いだ靴を揃えることを理加子がすっかり覚えてもなお、「リカ、脱いだ靴はちゃんと揃えなさいね」と言う人だったから。
 その態度は大人である両親に対しても同じで、多分…両親も、理加子が思っていたように「鬱陶しいな」と思っていたと思う。その両親が―――「安心」していた? 祖母を信頼していた? …そんな風に、考えたこともなかった。
 大嫌いだった祖母を褒められて、どう反応すればいいか、わからない。結果、理加子は、どうとでも取れそうな曖昧な笑みを返すだけにしておいた。
 「こら、杏奈。嬉しいのはわかるけど、いい加減、砂糖入れないと紅茶が冷めるよ」
 いつまでも目の前に置かれた花瓶を眺めてばかりで、クッキーにも紅茶にも手をつけない杏奈を見て、真理が苦笑しながらそう注意する。が、杏奈は「うふふふ」と笑うばかりで、まだアレンジメントに見惚れていた。
 「だぁって、お花、好きなんだもん」
 「杏奈は小さい頃からお花が大好きよね」
 梨花が言うと、杏奈はコクッと頷いた。
 「お花って、こうやって飾ってるだけで、なんだか“幸せー”って感じがしない? 今のクラスにも、お花屋さんの子がいてね、時々売れ残ったお花を学校に持ってきて、飾ってくれるの。お花が1輪あるだけで、みんな笑顔になるのが嬉しい、って」
 「へぇ…、優しい子がいるのね、杏奈ちゃんのクラス」
 そんな奇特な子、あたしのクラスにはいなかったなぁ―――理加子が感心したように言うと、杏奈は、自分が褒められたかのように照れたように笑った。
 「杏奈も、お花、習おうかなぁ…。こういうの、自分でも作れたら凄いよね」
 「普通の華道はこういうのじゃないわよ。お正月におばあちゃんが活けてたみたいなやつを、正座してやるのよ。それでもいい?」
 「えー…あれかぁ…。うーん…でも、リカちゃんはお花をやってたからこういうのも作れるようになったんでしょ? だったら、やってみようかなぁ」

 ―――なんか、変な感じ…。

 梨花と杏奈のやりとりを聞きながら、理加子はなんだか、むず痒いような妙な気分になった。
 娘夫婦の収入と祖父が残した遺産で、悠々自適に、勝手言い放題に暮らしていた祖母。華道や小唄をたしなみ、先生先生ともてはやしてくれる人や趣味の仲間を家に呼んでは、いつもその中心で自慢げに笑い、まるでペットのように理加子をみんなに自慢していた祖母。亡くなった時、ホッとはしても、涙ひとつ出てこなかった祖母。
 そんな祖母が、半ば強制的に理加子に残していったものが、今、こうして梨花や杏奈に評価され、場を和ませているなんて。
 不思議―――なんだか、とても、不思議な気分だった。


***


 「神経性胃炎?」
 思わず咲夜が訊き返すと、コップの水を一気飲みした木戸は、大きく息を吐き出しながら、1回、頷いた。
 「…まあ、そんなとこです」
 「なんでまた…。医者には?」
 「いや、行くほどのことじゃあないです。日頃は、市販の胃薬である程度は良くなるんで。ただ……秋田に帰ろう思うと、どうしても…」
 「えっ、それって…」
 それって、家に帰りたくない、って意味なんじゃあ―――眉をひそめ、咲夜が無言のうちに問う。が、木戸はそれに答えず、またコップに水を満たした。もう一方の手には、咲夜も知っている市販の胃薬の顆粒。袋を破り、水を含んだ口の中に、苦そうな薬をあーん、と放り込んだ木戸は、なんとも言えない渋い顔でそれを飲み下し、ようやく一息ついた顔になった。
 「はー…。情けないですなぁ。こんなに体を鍛えてきたのに、飲み過ぎとストレスで、胃がボロボロになるなんて」
 「…なんか、あったんですか」
 年末、偶然会った時も、なんだか様子がおかしいとは思った。大晦日ギリギリだったので「仕事が忙しかったのか」と訊ねたら、酷く引きつった顔で誤魔化し笑いをしていたから。もしかして、あの頃から帰省が重荷になっていたのだろうか―――そうだとしたら、あの木戸のぎこちなさも頷ける。
 「前は、家族に会える、って大喜びで毎週帰ってたのに…」
 「家族に会えるのは、今も嬉しいんですよ。本当に」
 咲夜の言葉を受けて、木戸はそう言って苦笑を浮かべた。が、すぐに沈痛な面持ちになり、若干うなだれてしまった。
 「ただ―――ちょっと、気になることが、ありましてね」
 「気になること?」
 「…車の座席の位置が、ズレとるんですよ」
 「?」
 「わたしのおらん間、わたしより小柄な妻しか運転しない筈なのに―――運転席が、後ろに、ズレとるんです」
 「……」
 それがどういう意味か、理解できないほど、咲夜は鈍い人間ではない。怪訝そうだった咲夜の表情が、次第に険しくなった。
 「…前から、変だと思っとりました。でも、勘違いかもしれないし、偶然親戚が運転しただけかも、と思って、必死に気にしないフリをしとったんです。でも―――年末に帰省した時、家族全員で出かける予定だったのに、妻が突然、体調がすぐれない、と言い出して……仕方ないんで子供らとわたしだけで出かけたんですが、帰ってきたら、妻がおらんのですよ」
 「えっ」
 「その直後、妻も戻ってきて、もっともらしい説明をされましてね。一旦はわたしも信じそうになったんですが―――その日の夜、偶然、立ち聞きしてしまって」
 立ち聞き。
 その単語だけで、その先にある「偶然聞いてしまったこと」の想像がついてしまう。咲夜の眉が、それを予感して、軽く上がる。
 「…わたしと子供らが留守の間、妻が、誰かに会うために外出していたことが、わかってしまって」
 「誰か、って…」
 「わからんです。ただ、妻の口ぶりから、相手が既婚男性なのは、わかりましたが…」
 「な…っ、なんですか、それ!」
 憤慨したような声を咲夜が上げると、木戸も釣られたように顔を上げ、拳を握り締めて身を乗り出した。
 「でしょう!? ですよねぇ!? バカにしとると、如月さんも思うでしょう!?」
 「あったりまえじゃないですか! ご主人が単身赴任で苦労してるのに、不倫だなんて…!」
 “不倫”の2文字に、木戸の力がガクッと抜けた。
 ヘナヘナヘナ、と崩れ落ち、床に膝をつく木戸を見て、咲夜は慌てて自分もしゃがみ、落ち込みモード全開になりかけている木戸を支えた。
 「す…すみません、他所様の家のことなのに、不躾なことを」
 「…いや、いいんです。こちらこそ、すまんです」
 咲夜に支えられつつ、ヨロヨロと顔を上げた木戸は、そのまま、キッチンの中央に膝を揃えて正座する形になった。自然、咲夜も、木戸と向かい合わせに正座することになった。
 迂闊なことを口にする訳にもいかず、両手を膝に置き、木戸の言葉を待つ。同じく拳を膝に置いて俯いていた木戸は、その姿勢を崩さず、ゆっくりと口を開いた。
 「…正直…前から、疑っておったんです。1年ほど前から、妻の様子がどことなくぎこちなくなったし、何か感づいておるのか、娘がいつも何か言いたげで―――不倫、っちゅう可能性が、いつも頭にありました。でも、それと同じ位、まさかうちの奴に限って、って気持ちが強くて…」
 「……」
 「でも、さすがにあの電話を聞いてしまったら、平静を保てませんでね。逃げるように東京に戻ってきてしまったんです」
 「じゃあ、その後は…」
 「…いえ、3度、帰省しましたがね、」
 木戸の口元が、無理矢理笑顔を作ろうとするかのように、歪む。落ち着かなく震え出す拳と一緒に、木戸の頬や口も、微かにわなないていた。半ば、笑い声に紛れるように、木戸はやっと次の一言を口にした。
 「こ……怖いんですよ」
 「怖…い?」
 「ハ…ハハ、いい歳したおっさんが、言うセリフじゃあないかもしれんですがね。“怪しい”が“ほぼ間違いない”になったら、なんちゅうか―――あと1つ、なんか見つけてしまったら、もう後は“事実”になるしかない、と思うと、帰るのが……見つけてしまうのが、怖いんですよ」
 「じゃ、じゃあ…訊いてないんですか。奥さんに、本当のこと」
 咲夜が訊ねると、顔を上げた木戸は、泣き笑いのような笑みを見せた。
 「訊いて、ないです。わたしが立ち聞きしたことも知らんでしょう」
 「なんで…!」
 憤慨したような咲夜の声に、逆に木戸が、ちょっと驚いたような顔になる。それにも気づかず、咲夜は膝を動かし、木戸に1歩詰め寄った。
 「そりゃ、不倫だって決まった訳じゃないけど、木戸さんに嘘ついてたのと、奥さんいる男の人にこっそり電話してたのは、事実なんでしょう…!? 怖いって思うのはわかるけど、だからって、なんで黙って奥さんの好きにさせてるんですか!? 言ってやればいいじゃないですか、気づいてるって! 目を覚ませって!」
 「…如月さん…」
 「木戸さんが何も知らないと思って、留守中に勝手なことして……木戸さんだけじゃなく、子供まで裏切って…っ」
 声が、喉に詰まった。
 苦しくて、ひくっ、としゃくり上げる。それで初めて、自分の目に涙が滲んでいるのに気づいた。
 ―――ヤバイ。自分のことでもないのに、何感情的になってるんだろ。
 驚いたような木戸の目が、どうしようもなく気まずい。唇を噛んだ咲夜は、また膝歩きで1歩後ろに下がり、手の甲で目をこすった。
 「す…すみません。感情的になって」
 「いや…構わんですが…」
 咲夜の勢いに飲まれたように、すっかり普段の表情に戻っていた木戸は、ふいに眉をひそめ、心配げな顔になった。
 「もしかして、付き合ってる男に二股でもかけられたんですか」
 「えぇ!? ま、まさか!」
 「あ…、それなら、いいんですが…」
 「…すみません。なんでもないんです。ただちょっと、そーゆーの、どうしても許せなくて…」
 感情的になってしまった理由は、自分でもよくわかっている。けれど、それを木戸に話す気にはなれない。もう一度ぐい、と目をこすり、咲夜はやっと、冷静さを取り戻した。
 そんな咲夜を見ていた木戸は、咲夜がキレたことで逆に気持ちが落ち着いたのか、比較的穏やかな表情で、微かに笑みを見せた。
 「確かに―――白か黒か、はっきりさせんことには、何の解決にもならんのでしょう。わかってはおるんです。多分、わたしが如月さん位若くて、子供たちがいない頃だったなら…ためらうことなく、妻を問いただしてたと思います」
 「……」
 「でも、この歳になって、子供たちとの関係も良好で、妻とも表面上はそこそこ上手くいってると…波風立ててでも真相を問いただすだけの勇気は、なかなか持てんのですよ。わたしが知らないフリをすることで、今の家庭が維持できるんなら、もう暫くは知らないフリをしよう―――なまじ離れて暮らしてる分、そんな楽な方に逃げたくなるんです」
 「…でも…このまま知らないフリを続けて、もし、奥さんがもっと不倫相手の方にのめり込んだりしたら…」
 「その時は、さすがに言いますよ。家内には、わたしだけじゃあない、子供だっておるんです。目を覚まさせて、きっちり別れさせますよ」
 「離婚は、しないんですか」
 率直すぎる言葉に、木戸が、一瞬うろたえる。が、生真面目な顔で、一度、大きく頷いた。
 「許せるんですか…? 自分を裏切った人なのに…それでもまだ、愛せるもんなんですか?」
 「…どうでしょうねぇ…」
 苦笑と共に大きく息を吐き出した木戸は、そう呟いたきり、暫し黙り込んだ。そして、自分なりに答えが出たのか、再び咲夜の目をきちんと正面から見据えた。
 「正直、わからんです。子供がおらんかったら、別れてたかもしれんです。これでも、女性関係にはずっと真面目に生きてきた自負がわたしにはあるんで、他の男に走った妻を、今までと同じ気持ちで見ることは、多分できんでしょうから」
 「……」
 「でも―――妻は、子供たちの、母親ですから」
 そこだけは、揺るぎない信念があるかのように、木戸はきっぱりと、大きな声で言った。
 「どんな女でも、わたしらは、あの子らの両親ですから。…男と女でも、妻と夫でもなく、父親と母親として協力しあっていくことは、きっとできると思うんですよ」

 父と、母として―――…。
 できるんだろうか、そんなことが。父だって母だって、それぞれ、嫉妬もすれば怒りも覚える、極当たり前の男と女なのに。

 頷くことも反論することもできず、咲夜が複雑な表情で黙り込んでいると、木戸はニコリと笑い、思いがけないことを言った。
 「ありがとうございます、如月さん」
 「え…?」
 なんで私に? と咲夜が目を丸くすると、木戸は照れ笑いのような笑顔で、頭を掻いた。
 「いや、まだ、気持ちの整理はさっぱりつかんのですが……如月さんのような若いお嬢さんが、こんな中年のおっさんの味方についてくれただけで、単純に嬉しいです。家族に会う勇気が、ちょっとは湧いてきました」
 「……」
 「ありがとうございます」
 そう言うと、木戸は深く、床に額がつくほど深く、咲夜に頭を下げた。


***


 結局、夕飯までご馳走になってしまい、理加子が海原家(いや、牧家、と呼ぶべきなのだろうか)を後にしたのは、すっかり日も落ちてしまってからだった。

 「杏奈のせいで随分足止めさせてしまって、悪かったわね」
 女の子1人では危ないから、と駅まで送ってくれながら、梨花が申し訳なさそうな顔をした。
 本当は理加子は、夕方になった時点で帰ろうとしたのだが、杏奈が「え〜っ」とブーイングを起こしたため、居残る羽目になったのだ。その時の杏奈の残念そうな寂しそうな膨れっ面を思い出して、理加子はクスクス笑った。
 「あたしは、全然。海原先生の執筆裏話も聞けたし、大満足です」
 「そう。それなら良かった」
 そう言ってニッコリ笑う梨花は、夕飯後にきっちり、理加子からサイン色紙をゲットしている。勿論、杏奈の分も。
 「でも、残念だわ。親子揃って雑誌でリカちゃんの写真見るの楽しみにしてたのに、引退しちゃったなんて…」
 「…すみません。あの、杏奈ちゃんには…」
 杏奈が聞いてない隙にこっそり真理と梨花にだけ話したのだ。色紙を貰って大喜びしていた杏奈を見てしまった直後なだけに、理加子が心配げに眉をひそめると、梨花は心得たという顔で頷いた。
 「大丈夫。ショック受けないように、上手く言っておくから」
 「…良かった」
 ―――ほんと、いい人だなぁ。海原先生も、梨花さんも。
 半日ほどを一緒に過ごしてみて、それが、理加子の率直な感想だ。
 女装モードの時の真理の喋り方が、梨花の喋り方を真似ているせいもあるのかもしれないが、夫婦のオーラがなんだかとっても似ていて、見ていて安心感があった。2人が杏奈を心から愛しているのも、ちょっとした仕草や言葉からよく伝わってきたし―――羨ましい、と、素直に思える一家だった。
 それだけに、どうしても気になることがある。
 「―――あの、梨花さん」
 杏奈がいる前では出せなかったが、今なら訊けるかもしれない。思い切って、理加子は、ずっと抱いていた疑問を口にした。
 「海原先生も、あの家に住むって訳には…いかないの、かな」
 「え?」
 思わぬことをいきなり訊かれ、梨花が驚いた顔をする。随分不躾な質問をする子だ、と思われたのでは、と、理加子は慌てて付け足した。
 「ご、ごめんなさい、立ち入ったこと訊いて。ただ―――今日見てたら、杏奈ちゃん、パパともママともとっても仲良しそうだし…梨花さんと海原先生も、とってもいい感じだったから、別居してる理由が、よくわかんなくて」
 「……そうよねぇ」
 はぁ、とため息をついた梨花は、ちょっと焦った様子の理加子に、くすっ、と苦笑を返した。
 「経緯を知らない人が見たら、さっぱりわからないわよね、うちの家族って」
 「…経緯…?」
 「結婚した頃は、主人と私の2人で、アパート暮らししてたの」
 当時を懐かしんでいるのか、梨花は、どことなくノスタルジックな表情で、説明を始めた。
 「会社の同僚として知り合って、結婚後も1年ほどは同じ会社に勤め続けてたけど…私、美容の仕事にずっと興味があって、独身時代からその手の専門学校の夜間コースに通ってたのね。で、学校卒業すると同時に、会社を辞めて、今も勤めてる大手のビューティーサロンに再就職したの。ステップアップのためには、働きながらまだ勉強する必要があって―――主人には随分、協力してもらったと思う。金銭的にも、家のことも、精神的にもね」
 「へぇ…」
 小説家を目指す夫と、それを支える妻、なんてわかりやすい構図を想像していた理加子には、むしろその逆だったという話は、かなり新鮮だ。
 「杏奈が生まれて一旦休職したんだけど、運良く保育園に空きがあって、なんとか職場復帰したの。夫婦で交代で杏奈を預けて、迎えに行って、って感じで。すっごい“お母さんっ子”でね。自分が迎えに行くと大して喜ばないのに、私と一緒に迎えに行ったら大喜びで走って来る、父親差別だ、って言って、よくマリ君が拗ねてた」
 「アハハハ…」
 「そうしてるうちに、マリ君の小説が、賞を取って―――しかも、女流作家として売り出されちゃって。最初は良かったのよ。連載も1本だったし、打ち合わせや原稿入れに出版社に出向く回数も少なくて済んでたから。でも、すぐに無理が出てきちゃって……随分悩んだ末に、仕事を辞めて、小説家1本で生きていく決意をしたの。杏奈が4つの時かな」
 「え…っ、じゃ、じゃあ、それまでって海原先生、会社勤めしながら小説書いてたんですか?」
 「そう。大変だったわよー」
 それは…相当大変だっただろう。杏奈が今11歳という話だから、逆算すると、デビューから1年半―――連載まるまる1本以上、仕事と執筆を両立していたことになるのだから。
 「会社勤めじゃなくなった分、杏奈を育てやすくはなったんだけど…やっぱり、慣れない連載を2本も3本もいきなり抱えちゃったし、私がバカなアドバイスしたせいで、冗談でやった女装を続けなきゃいけないしで、あの人、すっかりストレス溜め込んで体壊しちゃって。それに、やっぱりクリエイティブな仕事って精神面で難しい部分があるみたいで…私や杏奈が普通にいるスペースで、なかなか集中して執筆ができなくて、困ってたの。それで、杏奈が小学生になったのを機に、思い切って執筆専用の部屋を借りた訳。それが、今住んでるアパート」
 「ああ…、それであそこに…」
 なるほど、あの部屋は、真理の家というより「仕事部屋」、「執筆部屋」だった訳だ。画家にとってのアトリエみたいなものだと考えれば、そういう手法もアリなのかもしれない、と頷ける。
 「ちょうど会社に出勤するみたいに、朝家を出てアパートに行って、夜は家に帰ってきて…って生活で、なかなか上手くいってたんだけど―――今度は私の方が、仕事でアメリカに行くことになったの。3年間、向こうで頑張ってくれば、上手くいけば独立してお店が持てるかもしれない、ってチャンスでね。でも、随分迷った。主人は、杏奈のことは自分がなんとかする、って言ってくれたけど、負担はかけたくなかったし」
 そこで言葉を切ると、梨花は、小さくため息をついた。
 「それで、日本に残って私の実家で暮らすか、私と一緒にアメリカに行くか、杏奈に訊いたの。小さい杏奈に選ばせるのは酷だ、とも思ったけど…主人に杏奈のことを全部押し付けたら、絶対主人がもたないと思ったから」
 「アメリカに、行ったんですよね。杏奈ちゃんも」
 「そう。それまで住んでたアパートは引き払って、主人は仕事部屋に住むことにして。でも―――駄目ね。慣れない土地で、仕事に必死になりながらも、ちゃんと杏奈のことは見ていたつもりだったけど…杏奈が学校でいじめに遭ってることに、気づけなかった。独立より杏奈のことの方が重要だから、急いで帰国して、とりあえず実家に身を寄せたの。主人の執筆部屋じゃ、家族3人は暮らせないし、私たちが一緒じゃ仕事に支障が出るしね」
 なるほど、それで、今のような生活になっている訳か―――奇妙なように見えた海原家の暮らしにも、やっと納得がいった。
 けれど、納得がいけばいったで、やはり疑問を抱かずにはいられない。
 「でも―――それなら、海原先生も梨花さんの実家で暮らせば良くないですか? 実家で家族3人一緒に暮らして、あのアパートは“仕事部屋”に戻せば…」
 疑問をそのまま理加子がぶつけると、梨花は渋い顔になり、大きなため息をついた。
 「そうしたいのは山々なんだけど―――父が、ね」
 「え?」
 「私の父が、主人が小説家になったことが、気に食わないらしいの。そういう父と同居したら、肩身の狭い思いさせちゃうでしょ」
 「え…っ、な、なんで? 凄い仕事なのに」
 「そういう問題じゃないのよ」
 苦笑しつつ首を振った梨花は、若干視線を落とし気味にしながら、説明を続けた。
 「話せば長くなるけど…父は私に、ちゃんとした企業に勤めている人と結婚して欲しい、って真剣に思ってたの。比較的名のある会社の社員だったマリ君との結婚が決まった時には、とても喜んでた。だからこそ逆に、マリ君が小説家っていう“自由業”になっちゃったことに、凄くがっかりしたのよ」
 「がっかり、って…」
 「しかも、世間を欺いて“女流作家”をやってる訳だし―――直木賞でも取ったんならまだしも、いち出版社の賞を取った位で会社を辞めるなんて、なんたることだ。家庭を持ったら男は夢なんか追うもんじゃない。将来、杏奈が就職する時、親の仕事を訊かれた時なんて答えるんだ。“小説家です”なんて答えたら、企業のお偉いさんたちから笑われるじゃないか。…っていうのが、父の持論。勿論、マリ君の前では言わないけどね」
 「……」
 何、それ―――顔も見たこともない梨花の父に対して、怒りが湧いてくる。
 ―――そりゃあ、会社員、て答えの方が無難で安心なんだろうけどっ。でも、海原先生よ? すっごい売れっ子で、会社員よりずーっと稼いでるのよ? 何が不満なのよっ。
 「杏奈も、父のそういう言葉を聞いちゃったみたいで―――それに、アメリカにいた時のことが原因で、帰国したばかりの頃は、私に対してもなかなか心を開いてくれなくて……“ママなんて嫌い、杏奈、パパと一緒に暮らす”って、何度も言われたの」
 「…嫌い…」
 「堪えるわよ。娘から“嫌い”って言われると。…どこか部屋を借りて実家を出ることも考えたけど、“嫌い”って言って背中を向けてる杏奈と、母のサポートなしに暮らしていく自信がなかったし…かといって、マリ君に任せてしまうのも嫌だった。今、手を離したら、杏奈の気持ちは二度と私に戻ってこない気がして―――母親の勝手な意地かもしれないけど」
 はあっ、と大きく息を吐き出すと、梨花は胸のつかえが取れたかのように、すっきりした顔で理加子の方を見た。
 「まあ、そんな感じ。…でも、大丈夫よ。あと1年足らずの辛抱だから」
 「えっ」
 「今、家を建ててるの。マリ君が執筆に専念できるように、独立した仕事部屋もちゃんと設けられる、そこそこ広い家をね。12月完成予定―――だから、この二重生活も、今年いっぱいの辛抱よ」
 「そうなんですか…!」
 他人事なのに、理加子の顔が、知らずパッと明るくなる。
 外見や境遇にシンパシーを感じているせいか、どうやら、自分で意識する以上に杏奈に入れ込んでしまっていたらしい。まるで自分のことのように喜んでしまっている自分に気づき、理加子は思わず頬を赤らめた。
 そんな理加子に、梨花は、微笑ましいものでも見るように、ふふふ、と笑った。
 「マリ君も“海原真理”から“辻村 喬”の仕事に移行してるし―――あ、その話は、聞いてるのよね」
 「あ、はい」
 「彼も、大分仕事がしやすくなると思う。後、不安があるとしたら…私がどこまで杏奈の信用を回復してるか、ってところだけね」
 「……」
 そうだ―――今の話を聞いていて、唯一、心に引っかかった部分があった。
 「…あ、あの、梨花さん」
 「はい?」
 「杏奈ちゃんが、海原先生と一緒に暮らす、って言ったことだけど…」
 もしかしたら、梨花は、杏奈の本当の気持ちを知らないのかもしれない―――そう感じて、理加子は思い切って、梨花に進言することにした。
 「杏奈ちゃん、梨花さんと暮らしたくなくて、そう言ったんじゃないと思う」
 「…えっ」
 「お花活けてる時、言ってたから。自分は、両親の仕事の邪魔になってるんじゃないか、って」
 梨花の足が、止まった。
 思わず立ち止まった梨花は、驚いたように目を丸くし、理加子の顔を凝視した。
 「…杏奈、が?」
 「うん。仕事をちゃんと終わらせないうちに日本に帰る羽目になっちゃったこと、凄く気にしてるみたいだった。多分…これ以上梨花さんの足を引っ張りたくなくて、海原先生の所に行く、って言ったんだと思うの」
 「……」
 おそらく、まだ子供である杏奈が、そんなことを考えているとは夢にも思っていなかったのだろう。梨花は、信じられない、という顔で、暫し目を丸くしたまま黙り込んでいた。が、やがて、その表情を安堵したようにほころばせ、
 「ありがとう―――それを聞けて、ほんとに良かったわ」
 と、心底感謝している口調で理加子に感謝の言葉を述べた。
 どうやら、杏奈の気持ちは、ちゃんと梨花に伝わったらしい。理加子もホッとして、無意識のうちに安堵の笑みを返した。
 「そのお返しじゃないけど…私も一言、リカちゃんのご家族について、言っていい?」
 「え?」
 「ご両親のこと」
 理加子の笑みが、一瞬で強張る。けれど梨花は、諭すでもなく、静かに続けた。
 「一応、主人から、大体のことは聞いてる。さぞかし寂しかっただろうな、って、私も思うわ。でも……多分ご両親は、ご両親なりに、リカちゃんをとても大事に思ってると思うの」
 「……」
 「きっと、おばあちゃんの存在が、大きすぎたのね。おばあちゃんがいてくれたおかげで、凄く助かった部分もあるだろうけど、ご両親も凄く寂しい思いした部分、あったと思う」
 寂しい―――…? パパと、ママが、寂しい?
 信じられない言葉だ。理加子は目を丸くして、声も出せずに、梨花の顔を見つめた。
 「でも、長年、そういう生活続けちゃったから―――いざ、おばあちゃんが亡くなって、リカちゃんと直接向き合う必要に迫られた時、どうしていいかわからず、戸惑っちゃったんだと思うわ」
 「…戸惑った…?」
 「親も、未熟な人間だもの。戸惑うこともあるわよ」
 「……」
 「信じられないかもしれないし、だからって許せないかもしれないけど…」
 そう言うと、梨花は微笑を浮かべ、理加子の肩をポン、と叩いた。
 「頭の片隅にだけででも、覚えておいて。私や主人も、杏奈が“大嫌い”って言って背中を向けた時、どうすればいいかわからなくて戸惑った、未熟な大人だってこと」


 ―――わかんない。
 全然、わからない。そんなこと。

 海原先生や梨花さんなら、そういうことも、あるかもしれない。だって、杏奈ちゃんを、あんなに愛してるから。
 でも…パパやママが、寂しかった? 戸惑った? そんなの、ある訳ない。
 あり得ない―――…。


 この時理加子は、梨花の言ったことを、信じることができなかった。
 両親のことを知らない人の、想像だけからくる慰めにすぎない、としか思うことができなかった。

 理加子が、激しい衝撃と共に、梨花のこの言葉を再び思い出すこととなるのは―――この、2日後のことだった。


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