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― EXIT(前) ―

 

 「それでねっ、あたしが活けたお花を、杏奈ちゃんが―――ちょっと、優也」
 「……」
 「優也っ」
 パン! と目の前で手を叩かれ、優也はハッと我に返った。
 ケーキと紅茶の並んだテーブルを挟んで、理加子の怪訝そうな目が、こちらをジッと見ている。隣からは、蓮の呆れたような視線が突き刺さってくる。
 「ホント、大丈夫ぅ? もう3回目よ、今日」
 「…あ…あ、あはは、ご、ごめん」
 「どうしたの? 午前中の試験、そんなに酷い出来だったの?」
 「えっ、い、いや、そういう訳じゃあ…」
 かといって、満足な出来だったという訳でもなかったのだが―――でも、さっきから何度もボーッとしてしまう理由は、期末試験のせいではない。ついでに、多分…蓮が呆れた顔をしているのも、優也がずっとボーッとしているから、ではないだろう。
 「あ…、そ、そうだ。穂積は? 試験、どうだった?」
 誤魔化すように優也が話を振ると、ティーカップに手をかけていた蓮は、その手を一瞬止め、答えた。
 「…まあ、ギリギリかな。相性悪い教授だし」
 「そ、そっか…。結構捻った内容だったから、僕も余裕なかったよ。いよいよ初追試かなぁ…」
 優也の言葉に、蓮の眉が、ピクリと上がる。
 「さすが秋吉、余裕の発言だな」
 「え?」
 「俺なんて、2年の期末、3つも追試だった」
 「……」
 ―――す…すみません。知りませんでした。
 「えーっ、追試? 優也って蓮のこと、自分より頭いいとか言ってなかった? なんだぁ、そうでもないんだー」
 顔の引きつっている優也をよそに、理加子は見事なまでに失礼な発言を蓮にぶつけた。が、蓮は少しも動じることなく、
 「何点取ろうが追試で命拾いしようが、進級できりゃそれでいいんだ」
 と言って、ティーカップに口をつけた。
 「そりゃそうだけどー…。あ、でもホラ、ここに3つも追試で復活した男が実在する訳だから! 多少バカでも、進級しちゃえばみんな仲間、ってことの生き証人じゃない。ね? だから優也も、ちょっと自信持てない結果だったからって、あんまり落ち込まなくていいんじゃない?」
 「い、いや、だから別に、試験の結果のせいじゃ……。ええっと、そ、それで、何だっけ。お花の話だっけ」
 ただでさえ仲の良くない蓮との間に、がんがん溝を掘りまくる理加子を、到底見ていられない。隣の席から漂う不穏な空気を察して、優也は慌てて話題を変えた。
 まだ試験の話に固執したらどうしよう、と思ったが、幸いにして理加子はすぐに、元の話に戻ってくれた。
 「そう。あたしが活けたお花を、杏奈ちゃんが携帯で写真に撮ってね、待ち受け画面にしてくれたの。あ、そうそう、あたしの携帯にも送ってくれたんだった。えーと……ホラ」
 そう言うと、理加子は携帯に保存されている画像の中から1枚を選び、優也と蓮の方に向けた。花のアレンジメントなどには疎いが、優也の目にも、それはなかなか洒落ていて綺麗なアレンジメントと写った。
 「へぇ…、いいね」
 「うふふ、でしょー。杏奈ちゃんも言ってたけど、お花が飾ってあるだけで、見慣れた部屋が全然違うムードになるから、不思議…。おばあちゃん死んで華道辞めちゃったけど、ちょっともったいなかったかなぁ」
 ―――よっぽど楽しかったんだろうなぁ、リカちゃんにとっては。
 先週の土曜日の海原家訪問について、目を輝かせながら嬉しそうに話す理加子を見て、つくづくそう思う。
 優也は既に電話である程度話は聞いていたので、今日は主に、たまたま同席する羽目になった蓮に向かって喋っているのだが―――といっても、蓮の方はあまり興味がないらしく、お茶を飲みながら定期的に相槌を打っているだけなのだが―――こんなに生き生きした様子の理加子は、もしかしたら初めて見るかもしれない。海原家の「何」に、理加子がこれほど刺激を受けたのか、聞いていてもよくわからない部分が多いのだが、この表情を見る限り、それが「何」であれ、理加子にとってはとても貴重で、得難いものだったのだとわかる。
 自分もその席に、少しでも同席したかったな―――そう思った途端、何故同席できなかったか、ということに考えが及んでしまい、優也の目が再びどんよりと暗く陰った。

 『けど、やっぱりユーは、面白いですネ。空が落ちてくるんじゃないか、ってヒヤヒヤしてた杞の国の人みたいナリよ。しかも、私の頭の上に落ちてくるんじゃないか、って心配してるなんて、ホントに面白いナリよ〜』
 『…先輩にとっては“面白い”んだろうけど…そうやって面白がれる先輩……僕は、嫌いです』

 “嫌いです”。…我ながら、救いようのない言葉。
 他にふさわしい言葉も見つからず、あの時の自分の憤りを一番端的に表す言葉として、極々自然に出てきてしまった言葉だ。その言葉の持つ破壊力は、一応理解していた筈なのに、あの瞬間はそれをすっかり忘れてしまっていた。いや、あの瞬間だけではない。店を飛び出し、1人で部屋に帰ってからも、暫くは、悔しさとも苦しさとも形容し難い感情ばかりが先走っていた。あの後真琴がどうなったか、なんて想像もしないで、一刻も忘れたい一心で早々にベッドに潜り込んでしまったのだ。
 自分の言葉を思い出して顔面蒼白になったのは、翌朝になってから。慌てて蓮の部屋に行き、先に帰ったことを詫びがてら、真琴が何か言っていなかったかを訊ねたが、蓮の応対は実に冷ややかなものだった。

 『俺には、何があったか、さっぱりわからないし、今、秋吉に説明を求める気もない。とりあえず、一言だけ言っておく。俺は、もの凄く、迷惑した。正気に戻ったら、謝ってくれ』

 こんなことを言われて、蓮の知らない経緯を、その場で説明できようか。頭を冷やせ、と言われてすごすご帰ってきた優也が唯一確信できたのは、教授への恋心すら平然と笑い飛ばしていた筈の真琴が、「嫌いです」という自分の言葉を同じように笑い飛ばしてはくれなかったらしい、ということだけだった。
 ―――先輩なら、「宴席でのおふざけなのに、何深刻になってるのですか〜」とか言いそうな気がしてたんだけどなぁ…。あのマコ先輩が笑い飛ばせない位、僕のセリフが酷かった、ってこと…なん、だろうな、やっぱり。
 結局、優也も怖くてあの時の話が口にできないし、蓮も全然その話題を振ろうとしない。若干普段より不機嫌ではあるし、優也がさっきのようにボーッとしていると、その理由を察して冷たい視線を送ってきたりもするが、総じて、蓮はこれまでと変わらない付き合いをしてくれている。そのことだけが、唯一の救いだ。
 そして、一番話をしなくてはいけない筈の真琴とは、まだ顔を合わせていないし、電話もしていない。
 話など、できる訳がない。自分でも、よくわからないのだから。何故あんなに憤り、あんなに無常な言葉を真琴にぶつけたのか―――その本当の理由が。

 「ほら、またぁ」
 「たっ」
 ぺちん、と額を指で弾かれ、また我に返った。やれやれ、といった風に蓮がため息をついた直後、その蓮のジャケットから、携帯の着信音が微かに聞こえた。
 「何? 誰?」
 向かいにいる理加子には、優也の携帯か蓮の携帯か、聞き分けられなかったらしい。穂積の、という意味を込めて優也が蓮の方に視線を流すと、蓮は既に、ジャケットを手元に引き寄せているところだった。
 誰からだろう、と訝しげな顔で液晶画面を確認した蓮だったが、そこに表示された文字を見た途端、顔色を変え、即座に受話ボタンを押した。
 「はい、穂積です。…あ、はい、どうも…。それで、どうなりましたか?」
 何の話やらさっぱりわからない。が、電話の主の返答を聞いた蓮の表情は、30秒前の呆れ顔から一転、パッと明るい笑顔に一瞬で変わった。
 「ほんとですか!? …はい…はい、あの、じゃあ、俺も行きます。はい、大丈夫です。店の前で合流ですね。じゃあ、今から行きます」
 妙に勢いのある声でそう言うと、蓮は電話を切り、いきなり帰り支度を始めた。
 「ごめん、俺、ちょっと用事ができたから」
 「えっ。何、どうかしたの」
 優也が訊ねると、蓮はジャケットを羽織ながら「ちょっとね」とだけ答え、テーブルの上に千円札1枚を置いた。
 「俺の分、払っといて。あ、レポートの話は、帰ってからな」
 「あ…ああ、うん」
 じゃ、と言い残すと、蓮は足早に店を出て行ってしまった。電話終了から、僅か1分―――見事なまでに、鮮やかな撤収だ。
 「…何の用だったのかしら」
 「さぁ…?」
 「あんな蓮、初めて見る。いっつもつまんなそうな顔してるじゃない? よっぽど楽しいことがあったのね」
 どことなく面白くなさそうな声でそう言い、理加子はくいっ、と冷め始めた紅茶を飲み干した。別に、蓮がいつもつまらなそうな顔をしているとは思わないが―――でも、理加子と一緒の時は、そういう場面が多い気もする。毎回、あまり蓮の意思とは関係なく同席させられてばかりいるから、つまらなそうなのも当然なのかもしれない。
 ―――ほんとに、何の用事だったのかな、穂積のやつ。
 やはり、蓮は最近、ちょっと行動が謎だ。自分の知らない行動で、最近では一番楽しそうな顔をしていた蓮のことを思い、優也はなんとも複雑な気分になった。


***


 「できたー…」
 はさみを置き、ほっと息をつく。1歩後ろにさがった理加子は、テーブルの上に置かれた花瓶を改めて見つめた。
 ピンクを主体としたカーネーションと、かすみ草。涙が出るほどスタンダードな組み合わせだが、小ぶりなこの花瓶にはよく似合っている気がする。なかなか上手くできたじゃない、と、理加子は満足げな笑みを浮かべた。
 祖母がいた頃は、客間である和室に、常に陶製の花器に見事な花が活けられていた。食卓に洋風な花が飾られることもあった。でも、祖母の死後、こんな風に花が飾られたことは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。杏奈の言葉を真似る訳ではないが、確かに…花1つで、見慣れた食卓がパッと明るくなった気がするから不思議だ。
 ―――これからは、たまーに、こうやって飾るのもいいかもなぁ…。
 そんなことを考えながら、切り落とした茎や葉を片付けていると、玄関で物音がした。
 「!」
 一瞬、ドキン、と心臓が跳ねた。が、すぐに、その物音が鍵を開ける音だと気づき、安堵の息を吐いた。
 「リカちゃん?」
 玄関から、母の、少し驚いたような声がする。ゴミをまとめてゴミ箱に突っ込んだ理加子は、小走り気味に玄関へと急いだ。
 「お帰りなさい」
 「ただいま…。珍しいわね、こんな時間にいるなんて」
 靴を脱いだ母は、そう言って、靴箱の上に置かれたアンティークものの置時計にチラリと目をやった。午後7時過ぎ―――確かに、以前の理加子がこの時間に家にいることは稀だったが、最近はそうでもない。むしろ、母がこの時間にいるのが稀なのだ。
 「あたしは別に珍しくないわよ。ママこそ、どうしたの。こんなに早く帰ってきて」
 「…ちょっと、疲れてたから。お夕飯は?」
 「1人だと思ったから、残り物で適当に作ろうと思ってたんだけど…」
 「そう…。これ、ちょっと多めに買ってきたから、リカも食べなさい」
 「うん…」
 本当に疲れているのか、母は、デパートの手提げ袋を理加子に手渡し、重い足取りで洗面所へ向かってしまった。袋の中を覗いてみると、中華らしき惣菜2品とおこわが入っていた。全3パック―――見るからに、1人前にしては多すぎる。
 ―――なぁんか、変なの。
 家族3人の生活ペースがバラバラな姫川家では、「自分の食事は自分で何とかする」が暗黙のルールとなっている。両親は大半が外食だし、早く帰れる場合も、自分の分だけ買ってくるか、休日に母が作りおきしておいた煮物などを利用する。理加子もこれまで外食ばかりだったし、自炊するとしても、食べるかどうかわからない両親の分など用意する筈もない。
 理加子がこの時間にいることに驚いていた母は、一体どういうつもりで、こんな中途半端な量の惣菜を買ってきたのだろう? 1人で全部食べるつもりだったのだろうか。昨日は日曜なのに1日中仕事とやらで外出していたが、そのことと何か関係あるのだろうか…。
 常にない母の行動を訝りつつも、理加子はキッチンへ行き、2人分の食器を揃え始めた。おこわを耐熱容器に移し替え、レンジに入れたところで、コートを脱いだ母がキッチンに入ってきた。
 母は、理加子の横をすり抜け、食器棚から愛用のグラスを取り出すと、それに水を注いだ。グラスの半分強あった水を一気に飲み干すその様子は、やはりいつもと少し違う気がする。
 どうしたの、と、素直に訊けばいいのだろう。でも…なんとなく、訊き難い。狭い空間に母と2人きりでいる窮屈さに、焦ったように話題を探してダイニングキッチンのあちこちへと目をやった理加子は、テーブルの上の花瓶に目を留めた。
 「…あ…っ、ね、ねえ。その花、綺麗でしょ」
 「え?」
 まだフラワーアレンジメントの存在に気づいていなかったらしい母は、理加子の言葉に、背後のダイニングテーブルに目を向けた。
 「ああ…ほんとね」
 「あたし活けたの。気分転換に」
 「そう。たまにはいいわね」
 「ほ…ほんとっ?」
 多分、母にしてみれば、本当に何気ない一言。それでも理加子は、まるで大きなご褒美を貰ったかのようにパッと顔を輝かせ、こちらを見ていない母の方へと少し身を乗り出した。
 「あ、あのね。あたし、そろそろ新しい仕事見つけようと思うの。車校だけ行ってあとはブラブラしてるってのもちょっと情けないし…」
 「…そう」
 「新卒じゃないし、時期も逃しちゃったから、正社員は無理だと思うけど、バイトならなんとか見つけられると思うし―――で、でもね、あたし、モデルしか仕事やったことないから、どういう仕事を選べばいいか、わか」
 「リカ」
 尖った声で言葉を遮られ、反射的に、続きの言葉を飲み込んだ。
 母は、まだダイニングテーブルの方に顔を向けたままだった。疲れたように大きなため息をつくと、母は、右手で額を押さえた。
 「お願い。ママ、ちょっと疲れてるから、難しい相談事はまた後にして」
 「……」
 「…ごめんね。今、何も考えたくないのよ」
 「……」
 ―――…そ…う、だよね。
 理加子が何をしようが、この人は興味がないのだ。そのことは、生まれてからこれまでの日々で嫌というほど自覚していたのに…あんな言葉ひとつで、何を浮かれているんだろう。
 唇を噛んだ理加子は、それ以上の会話を諦め、おこわを入れておいたレンジの「あたため」ボタンを押した。
 そんな理加子をよそに、母は額を押さえたまま、ダイニングチェアを引き、ドサリ、と腰を下ろしてしまった。その表情は理加子からは見えないが、どんな顔をしていようが、理加子の方も興味はなかった。
 パックに入った惣菜を2等分し、淡々と皿に盛り付けているうちに、おこわの温め直しの終わりを告げるアラームが鳴った。レンジの扉を開け、熱くなった皿を取り出すために理加子がミトンを手にはめると同時に、突如、それまで黙っていた母が、口を開いた。
 「…リカ」
 「……」
 人の話は中断させておいて、自分の方は喋るつもりなのか―――軽く眉をひそめ、振り返る。
 母は、額を押さえていた手を外し、また大きなため息をついた。そして、ゆっくりと顔を上げ、泣き笑いのような顔を理加子に向けた。
 何だろう、この表情は。見たこともない母の表情に、思わず理加子が怯んでいると、母は、信じられないような一言を理加子に告げた。

 「ママとパパね。…別れるかもしれない」
 「……」

 ―――…別……れ、る…?

 一瞬、何を言われているのか、理解できなかった。
 両親の夫婦仲など、理加子には全くわからない。が、2人が喧嘩しているところなど見たことがないし、顔を合わせればにこやかに言葉を交わすし、互いの仕事のスケジュールをちゃんと把握し合っているようなので、概ね良好なのだろう、と漠然と考えていた。
 その両親が、別れる―――何故? どうして急に。
 「急に言われても、驚いちゃうわよね」
 言葉を失う理加子を見上げ、母は泣き笑いに加え、僅かに苦笑を滲ませた。その顔を見て、絞められたみたいに声の出なかった喉に、ひくっ、と引きつったような声が戻ってきた。
 「…な…なんで…?」
 やっとの思いで理加子が訊ねると、母はふっと息をつき、視線を落とした。
 「…本当はね。もう随分昔から、何度もそういう話は出ていたの。特に、パパの方からね。おばあちゃんが元気だった頃から、何度も何度も…」
 「…う…そ…」
 「パパは、この生活が、本当は嫌だったのよ」
 幾分投げやりにそう言い、母は爪でテーブルを神経質にコツコツと叩いた。どうやら無意識にやっているらしい。
 「君は大きな意義のある仕事をしているのだから、辞めてしまうのはもったいない、お義母さんが力を貸してくれるのなら、こんなありがたい話はないじゃないか―――なんて最初は言ってたのにね。妻の実家での居候状態が、男にとってどれだけ肩身が狭いかは、ママにだってわかるわよ。でも、それを承知で後押ししてくれた筈なのに……何かというと“理加子を伊藤家に取られた、理加子は姫川の娘なのに”って…」
 「あ…あたし…?」
 「それを言うなら、私だって…っ」
 理加子の驚きの声など、耳に入っていないのだろう。ぎり、と奥歯を噛み締め、母は悔しそうに目を眇めた。
 「何…なのよ、自分ばっかり被害者面して…! 私だって、リカとの時間を犠牲にしてきたのよ…!? 私よりお母さんに懐いてるリカを見て、私の前に立つと笑顔が消えるリカを見て、寂しくて、悔しくて、仕方なかったわよっ。正論振りかざすお母さんに反論できない自分が、嫌で嫌で仕方なかった―――そんなの、私だって同じよっ」
 「…マ…」
 「なのに、なんで私だけ責めるのよ…!? 日頃、リカのことなんて一言も口にしない癖に、私を責める時ばっかりリカのことを持ち出して…っ」
 「ママ!」
 バン! とテーブルを叩くと、母の肩がビクッと跳ねた。
 青白い顔で、凍りついたように自分を見つめる娘を見て、いつの間にか感情的になっていた自分に気づいたのだろう。母は、動揺した顔で髪の乱れを直し、無理矢理薄い笑みを作ってみせた。
 「あ…ご、ごめんね。ちょっと、昨日の夜、パパと言い合いになったこと、思い出しちゃって…」
 「言い合い、って…」
 混乱した頭で、昨晩のことを思い出そうとする。が、父と母が言い争いをしているような音も、その気配さえも、理加子の記憶の上には一切なかった。
 「…あ…あたし、知らない。パパとママが、ずっと前からそんなに仲が悪かったなんて、知らない…っ。だって、いつも普通にしてたじゃない。あたしよりパパとの方が、楽しそうに話してたじゃないっ」
 「―――そうね。リカの前では、なるべく仲良くしていよう、って、ずっと決めてたから」
 「なんで? あたしをだましてたの?」
 「だま……っ、ち、違うわよ、リカ」
 理加子の震える声に、母は慌てたように首を振り、身を乗り出した。
 「それが、リカのためだと思ったからよ。ママ自身、おばあちゃんとおじいちゃんが喧嘩しているのを、子供の頃見て、とても辛い思いしたから―――リカに、そういう思い、させたくなかったのよ」
 「…でも…仲いい“フリ”してたんでしょ? 嘘ついてたんでしょ? なんでよ? 仲悪いなら、嘘なんかつかずに、さっさと別れればいいじゃない」
 「リカ…」
 「この家が嫌なら、パパもママも出て行けばよかったのよ! ここはおばあちゃんの家なんだから!」
 「そんなこと、できる訳ないでしょう…!?」
 理加子の声のトーンが上がるのに比例して、母の声もボルテージを上げる。ついに立ち上がった母は、理加子の両肩を掴み、真正面から理加子を見据えた。
 「リカは、パパとママの子なのよ? 親が、子供を置いて出て行ける訳、ないでしょう…?」
 「……」
 「リカに、片親の苦労はさせたくない…せめて成人するまでは、って、パパもママもそう思って、ずっと頑張ってたのよ。それに、おばあちゃんが亡くなったことで、少しは状況が良くなるんじゃないか、とも思ってたし。ママは、やり直そうと思ってたの。本当に、ついこの前まで。でも―――…」
 母の目に、涙が滲む。疲れ果てたようにため息をついた母は、理加子の肩を離し、人差し指で涙を拭った。
 「…ごめんね、リカ。ママ、なんだかもう、疲れちゃった…」
 「……」
 「リカがお嫁に行くまで、なんとか頑張りたかったけど…もう、駄目かもしれない」
 「……」

 『親が、子供を置いて出て行ける訳、ないでしょう?』

 今更―――どうして今更、そんなことを言うのだろう。
 ずっと放任していた癖に。理加子のことになど、何ら関心を示さなかった癖に。ただ同じ屋根の下に住んでいるだけで、置いていっているのと大差ない状態だったのに……どうして。
 理加子のため? 苦労させたくないから? 理加子との時間を犠牲にした? …笑わせる。本当に、笑い話だ。父の、母の、一体どこにそんな愛情があったというのだろう? 2人とも、大切なのはいつだって仕事、仕事、仕事―――幼い頃は祖母に丸投げし、大きくなってからは「理加子の意思」という都合のいい言葉を免罪符に、ずっと理加子を放置していたのに。

 ―――もし、それが本当なら。
 本当に、全てが「理加子のため」だったんなら―――寂しさを耐え続けるだけだったあたしの20年間は、一体、何だったの…!?

 母の手を振り払うようにして、理加子はキッチンを飛び出した。
 自室に飛び込み、ベッドの上に倒れこむ。体を丸めた理加子は、膝を額にくっつけるようにして、泣き声を噛み殺した。


***


 目の前で、なんだか見覚えのある車が止まった瞬間、嫌な予感はした。

 「よぉ。久しぶり」
 開いた運転席の窓から覗いた顔は、案の定、拓海だった。とうとう来たか―――咲夜は、ヘッドライトに目を細めつつ、密かにため息をついた。
 「これから帰りだろ? アパートまで送ってやるよ」
 「…結構です。駅前のスーパー寄ってから帰るから」
 「じゃ、スーパーまで」
 「遠慮しますー」
 「―――怒らせるなよ。いいから乗れ」
 笑顔が消えると同時に、軽い口調が、突如、重くなる。おちゃらけモードの拓海もタヌキで扱いが難しいが、マジモードの拓海も実は相当組し難い相手であることを、咲夜は知っている。
 ―――なんであんたは、いつもいつも、こういう強引な手口に出るかな。
 まさか、電話や店をすっ飛ばして、一番警戒していない会社前を選ぶとは―――悔しいが、降参。諸手を挙げた咲夜は、大人しく助手席側のドアを開けた。
 車内には、いつもの如く、お気に入りのスタンダードナンバーが流れていた。かなりの大音量だったが、会話の邪魔になると考えてか、拓海は車を発進させる前に、ボリュームを半分ほどに絞った。
 車が動き出して暫く、無言の時間が続く。車内に流れる『Caravan』に耳を傾けていた咲夜だったが、次第に、隣に座る男の無言の圧力に耐えられなくなってきた。
 「…何か、用でもあるの」
 仕方なく、自分の方から話を振る。すると拓海は、はあっ、とオーバーな位のため息をつき、咲夜の方を流し見た。
 「用があるのは、お前の方だろ」
 「さあ? 何のことやら、さーっぱりわかりませんねぇ」
 「みなみに話したからには、俺に話が伝わるのも覚悟の上なんだろう、と暫く連絡を待ってはみたものの、待てど暮らせど電話の1本もかかってきやしない」
 「……」
 「あーあ、全く、長年にわたって俺のピアノをタダで飽きるほど聴かせてやった上に、熱出してぶっ倒れた時には添い寝までしてやったというのになぁ。男ができた途端、音信不通ときたよ。可愛い可愛い姪がこんな風に育っちゃって、叔父さんは悲しいなぁ」
 「…冗談が過ぎると、運転席から車道に蹴落とすよ、おっさん」
 凄みをきかせた咲夜のセリフに、拓海も目つきを鋭くした。
 「だったら率先して真面目に答えろよ、ガキ」
 肩を竦めた咲夜は、降参の意を表すように、助手席のシートに深く沈み込んだ。それを確認した拓海も、視線をきちんと前に戻した。
 佐倉に話したことは、ほぼ全て、拓海にも伝わっているのだろう。拓海の質問は、実に簡潔だった。
 「で? 4月以降の、活動方針は?」
 「…まだ。どの選択肢も、ちょっとややこしい事情があって」
 「事情?」
 「一成と一緒にやっていこうと思うと、色々とね。ほら、一成は、完全フリーな訳じゃないじゃん。プロモーション会社に所属してる訳じゃないけど、“HANON”の社員だから」
 “HANON”―――法人として表記するなら、“羽音”。日本では1、2を争う老舗楽器店が母体で、音楽教室、音楽専門学校、楽譜やCDの制作・販売などなど、手広く事業を展開している。元々ピアノを作る会社であった影響もあってか、その音楽傾向はどちらかというとクラシックに偏っているが、ここ10年ほどはポップスにも力を入れていて、独自にコンテストなども開いて、新人アーティストの発掘に一役買っている。
 一成は、その“HANON”の社員で、身分としてはインストラクター兼店舗従業員。普段はショップで販売業務に携わっていて、“HANON”主催のイベントがあると、駆り出される。行き先は、新発売のキーボードのデモ演奏の場合もあるし、プロを招いたライブでの前座の場合もある。1度だけだが、とあるアーティストのCD作成にも、ピアノ担当として参加したこともある。といっても、ジャズではなく、ポップスだが。
 「やっぱりライブ中心でいきたいから、できるだけライブやりながら、会場でCD売ってこうと思うんだけど……なまじ“HANON”が音楽レーベルの側面を持ってるもんだから、“HANON”以外のレーベルからCD出していいのかどうか、判断つかないとこ、あるんだよね。かといって、一成はまだしも、完全インディーズな私が天下の“HANON”からCD出すってのは、かなり無理あるし」
 「お前が“HANON”に転職すりゃあいいんじゃないか?」
 「…それも考えた。でも、今、求人がないんだよね。どの部門にも」
 「…なるほど」
 少々ややこしいな、と、拓海が眉をひそめる。
 「一成はさ、“Jonny's Club”の仕事をやりたいがために、“HANON”専属アーティストに登録するのやめて、あえて自由度の高い社員扱いの道を選んだようなもんだから、これでやっと、正式なアーティストとして“HANON”とマネージメント契約できるんだよね。本人、どうするか迷ってるみたいだけど―――そうなる可能性は高いと思う。だから、4月以降の自分の身の振り方考えるなら、“HANON”のアーティストである一成を前提に考えないと」
 つまり、もし一成が正式にマネージメント契約を結んでしまった場合―――咲夜が一成と一緒にライブハウスで演奏したい、と思ったら、これまでなら一成がOKを出せば済む話だったが、今後はいちいち“HANON”を通さなくてはいけなくなる訳だ。こういう煩雑さが億劫なので、一成自身も迷っているのだが。
 「と、なると、だ。選択肢は、4つか」
 ちょうど、帰宅ラッシュの渋滞にさしかかった。車のスピードを緩めると、拓海は、話を整理するように、ゆっくり続けた。
 「1、インディーズのまま活動を続ける。2、咲夜も“HANON”と専属契約を結ぶ。3、音楽レーベル以外のプロモーション会社と契約する。そして、4―――藤堂君もろとも、他の音楽レーベルと契約する」
 「…2番が、多分、一番いいんだろうね」
 「だろうな。…ただし、咲夜に向いてるとは、思えないけどな」
 自社主催のコンテスト優勝者などを所属アーティストに抱えている会社だ。音楽教育の一翼を担っているという自負もあってか、他のレーベルやプロモーション会社に比べて、“HANON”はお堅くて良い子のイメージが定着している。
 「…確かに、窒息しそうだね」
 想像して、知らず眉間に皺を寄せる。顔を顰めてから、サラブレッドであることを逆にコンプレックスとしている一成のことを思い出し、心の中で密かに謝っておいた。
 「まあ、当面は1番でいっとくかなぁ…。ヨッシーも無所属だしさ。こういう時、楽器パートはスタジオミュージシャンとして結構需要があるけど、ボーカルは潰し効かなくて駄目だよねぇ」
 「…咲夜」
 赤信号に引っかかり、車がとまる。ため息混じりに咲夜の名を呼んだ拓海は、ハンドルに腕をかけ、咲夜の方に顔を向けた。
 「そこで一番簡単な選択肢を出してこないのは、わざとなのか、それとも気づいてないのか、どっちだ?」
 「……」
 何それ、という視線を、即座に返すべきだった。
 一瞬―――ほんの一瞬だけ、動揺を見せてしまった。しまった、と気づいた時には、拓海の目が「やっぱり」とでも言いたげに眇められていた。
 「藤堂君は別として―――お前1人なら、真っ先に考えつく身の振り方、あるよな」
 「……」
 「元々、堀はお前の声に惚れ込んでるんだ。抱えてるアーティストは俺1人だし、売れっ子タレントと違ってそれほどハードスケジュールじゃないしな。咲夜が頼めば、今すぐにでもマネージメントしてくれるぞ」
 堀―――確かに彼なら、咲夜に力を貸してくれるだろう。
 拓海のマネージャーをしている兼ね合いで、現在拓海が契約している音楽レーベルとのパイプもある。ライブハウスやスタジオとの交渉にも長けているし、多くのミュージシャンと懇意にしている。その能力は、拓海が復活した時に実証済みだ。彼に頼めば、かなり理想に近い仕事ができるかもしれない。
 「それは…私もちょっと、考えたけどさ」
 「考えたんなら、真っ先に俺に連絡してくるべきだろ。なんで電話してこなかったんだ?」
 「…うー…」
 「俺や堀に遠慮したのか、それとも―――…」
 そこで言葉を切ると、拓海は助手席の方へ身を乗り出し、咲夜の顔を覗き込んでニヤリと笑った。
 「―――それとも、俺に会うのが怖かったとか?」
 「……」
 「忘れた訳じゃあ、ないよな。最後に俺の所に来た時のこと」
 こちらに伸ばされた拓海の左手の指先が、軽く、唇に触れる。途端に、あの日の唇の感触が蘇ってきたような気がして、咲夜は唇を軽く噛み、反射的に体を引いた。その反応を見て、拓海の笑みが愉快そうなものに変わった。
 「やぁっぱり、気にしてたか」
 「…当然じゃん。で、でも、連絡しなかったのは、別にあの時のことが理由じゃないから」
 拓海の指が触れた部分を、無意識のうちに手の甲で拭いつつ、咲夜はきっぱりとそう言い切った。その言葉を信じたのか信じてないのか、拓海は肩を竦め、姿勢を元に戻した。それと同時に信号が青に変わり、車は再び動き出した。
 「なんて言うか―――拓海に相談したら、あっさり答えが出ちゃう気がしてさ」
 「結構なことじゃないか。何が不満なんだ」
 「…足掻きたいんだ。今は」
 咲夜の返答に、拓海が一瞬こちらに怪訝そうな目を向ける。それを感じながら、咲夜はフロントガラス越しに、前を走る車のテールライトをなんとなく見つめた。
 「どんな凄いステージに立てたとしても、それが“拓海のおかげ”じゃ、駄目なんだよ。“Jonny's Club”での3年間を活かさないと―――3年前でも“拓海の力で”実現できたことを、今実現しても意味ないじゃない。次のステージは、自分自身の手で掴みたい。そのために、今はただ、足掻きたいの」
 「…ふぅん…」
 納得したようなしてないような、微妙な表情の拓海の横顔を、チラリと流し見る。足掻き続ける人生を送った拓海だから、あえて足掻きたいと言う咲夜の心理は、いまいちピンとこないのかもしれない。
 「ま…、そういう訳だから。暫く、黙って見守っててよ。私の足掻きぶりを」
 若干明るい声で咲夜がそう言うと、拓海は「しょうがねぇなあ」という苦笑を浮かべ、前を向いたまま、咲夜の頭を軽く小突いた。

 ―――嘘じゃ、ないよ。
 でも……100パーセント、それだけが理由でも、ない。

 多分…拓海も、そのことは、わかっているのだろう―――小突かれた頭を軽くさすりながら、咲夜は僅かに視線を落とした。


 拓海の言うとおりだ。
 私は、拓海が、怖いんだ。
 昔は見えなかったものが、今は、見えてきたから。
 あのキスの意味も、おぼろげながら、わかってしまったから。

 拓海の弱さを、脆さを、誰よりもよく知っているからこそ―――私は、拓海が、怖いんだ。

***

 「あれっ、咲夜?」
 突如、背後から聞こえた声に、車を降りたばかりの咲夜は、ギクリとして振り向いた。
 声を聞いた瞬間、誰なのか察してはいたけれど―――振り返った先に立っていたのは、咲夜が察したとおり、奏だった。
 ―――う…わ、最悪…。
 線路を挟んでアパートとは反対方向となるこのスーパーで、よりによってこんなシチュエーションで、何故奏と鉢合わせになってしまうのだろう? コントなんじゃないか、と思うほど出来過ぎな展開に、咲夜は神様を恨みたくなった。
 「な…なんだ、奏も買い物?」
 「まーな。コンビニでもよかったんだけど、こっちの方が安いから」
 「一・宮・君」
 まるで奏のセリフを遮るかのように、からかうような声が割って入る。同時にギョッとした顔になった2人は、声がした方へと慌てて視線を向けた。
 見れば、運転席の窓を全開にした拓海が、満面の笑みで手を振っていた。
 「え…、麻生さん?」
 「こんばんは。奇遇だなぁ、ハハハ」
 拓海の飄々とした声に、奏の背中が僅かばかり殺気立つ。
 ―――た…っ、拓海のアホっ!! なんであんたはそーゆーことを…!!
 冷たい汗が滲んでくる。奏の背中越しに、ゼスチャーで「出てくるな引っ込めバカヤロウ」と拓海に訴えてみたが、拓海は平然とそれを無視し、窓の外に半ば頭を出すようにして、奏を見上げた。
 「一宮君がスーパーで買い物ってのも、外見とギャップがあって面白いよなぁ」
 「…そうっすかね」
 幾分不機嫌気味に答えた奏だったが、次の瞬間、拓海と目の高さを合わせるかのように屈み込み、不敵にニヤリと笑った。
 「オレは、麻生さんが佐倉さんの事務所の蛍光灯の交換やってる姿の方が、想像するだけで笑えるんですけど」
 余裕綽々だった拓海の顔が、ギョッとしたような表情に変わる。何故それを知っている、という顔をする拓海に、奏は勝ち誇ったように屈めていた体を伸ばし、拓海を見下ろした。
 「先週事務所に寄った時、今にも切れそうに点滅繰り返してるのが1本あったから、次行ったらオレが交換しようと思ってたんですよねー。なのに、今日行ったら新品に交換されてたんで、言ってくれりゃオレが交換したのに、って佐倉さんに言ったら、スゲー気まずそうな顔して“麻生さんが遊びに来た時交換していった”って」
 「……」
 「あぁ、オレも見たかったなー、天下の麻生拓海が、事務机に乗っかって蛍光灯取り替えてる姿」
 「ハハ、それは私も見たかったなぁ。でもって、“麻生さんて30代後半になっても生活感なくてカッコイイ”とか血迷ったことぬかしてるバカ女たちにも、是非見せたいよなぁ」
 「…援軍が来た途端に強気だな、咲夜も」
 苦虫を噛み潰したような表情だった拓海は、咲夜の様子にふっと苦笑すると、窓から出していた腕を車内に引っ込めた。
 「じゃあな、咲夜。ラストライブには招待しろよ」
 「了解。佐倉さんと一緒にね」
 車内でヒラヒラと手を振ると、拓海は窓を閉め、車を発進させた。車道に出て、次第に遠ざかるテールランプを見送った咲夜は、ふと、新品の蛍光灯を持つ佐倉を従えて、蛍光灯と悪戦苦闘している拓海を想像し、くすっと笑った。
 ―――よかった。上手くいってるみたいで。
 日頃の佐倉や拓海の様子を見ているだけでは、2人が今どんな状態なのかが見えてこなくて、少し心配だったのだ。互いに忙しい中でも、それなりに時間を作っていい関係を築いているらしいことを知り、直前まで車内で感じていた不安が、ほんの少し和らいだ気がする。
 「…で、なんで咲夜は、麻生さんに送られてる訳?」
 ぼんやりと車が走り去った方を眺めていた咲夜は、その一言で、ハッと後ろを振り返った。
 腕組みをして立っている奏の表情は、明らかに、拗ねている時の顔だ。…まあ、いきなりこんな場面に出くわしたのだから、奏がこういう顔になるのも当然ではある。作った笑みが若干引きつるのを自覚しつつ、咲夜は奏に向き直った。
 「いや、それが―――ほら、この前、奏の撮影を見学に行った時、佐倉さんに“Jonny's Club”のライブが終わるって話をしちゃったんだよね。それを佐倉さんから聞いた拓海が、待てど暮らせど私から何の連絡も相談もないのに業を煮やして、帰宅途中で待ち伏せして拉致った訳」
 「連絡もなしにか? 強引だなー」
 「だよねぇ。…ったくあの男は…」
 奏と一緒に眉根を寄せた咲夜だったが、ふと心配になり、奏の顔を覗き込んだ。
 「…もしかして、怒ってたりとかする?」
 「は? なんで?」
 「だから、その…いくら強引だったからって、拓海の車に乗っちゃったりとかしてさ」
 咲夜の言葉に、キョトンと目を丸くした奏は、やがて、オーバーな位に眉間に皺を寄せ、口を尖らせた。
 「確かに、話を聞くなら、喫茶店とかでも十分なのに、逃げ道を塞いだ閉鎖空間に持ち込むやり方が気に食わねーよなー。お前ももうちょい警戒しろよな」
 「…ごめん」
 「―――なんて口に出せない位、いつもなら動揺して、ムカムカしてるところなんだけど、」
 すると、奏は突如、難しい顔を止め、ニッ、と意味深に笑った。
 「今日は特別に、あんまり拗ねないでおいてやるよ」
 「えっ」
 「ちょっとばかし、いいことがあって、上機嫌なんでね」
 実際、そう言う奏の表情は、普段拓海と顔を合わせた時のものとは対極にあるような、かなり機嫌がよさそうな表情だ。
 「…何、いいこと、って」
 拍子抜けした気分の咲夜がそう訊ねると、奏はますます笑みを深くした。
 「うーん、まだ秘密だな」
 「?」
 「だぁいじょうぶだって。お前にも教えるからさ。ま、とりあえず、答えは明日のお楽しみ、ってことで」
 「???」
 何がなんだか、さっぱりわからない。困惑顔をする咲夜の頭を、奏は笑いながら、乱暴にくしゃくしゃと撫でた。


***


 ―――…だるい…。
 頭が、ガンガンする。まるで、頭の中で、狂ったハンマーがずっと振り回されてるみたいだ。

 「おいおい…マジで大丈夫かよ」
 周りの人間の目には、さぞかし異常な状態に映っているのだろう。この男が、ここまで心配そうな声を出すのを、理加子は過去に一度も聞いたことがない。
 「…大丈夫。寝不足で、頭痛がしてるだけだから」
 「頭痛してんのに、こんな場所に来たのかよ。変わってんなぁ、リカも」
 体の芯まで響く、大音量で重低音なクラブ・ミュージック。確かに、頭痛がしているのにこんな場所に来るのは正気の沙汰ではないだろう。でも、不思議なことに、耳に入ってくる音が痛む頭に響くことはなかった。むしろ、心地よい振動で、痛みが和らいだ気がする。
 この位、うるさい方がいい。
 一番怖いのは、静寂―――誰もいない、何の気配もしない、ただ自分1人の息づかいしか感じられない静寂だ。
 「うわ、ほんとだ! 姫がいる!」
 視界の外から飛んできた甲高い声が、痺れた頭に鋭く突き刺さった。思わず顔を顰め、目を開けると、なんとなく見覚えのある派手な女が2人、やけに嬉しそうな顔をして理加子の顔を覗き込んでいた。
 「晴紀から連絡来た時はジョーダンかと思ったけど、本物の姫じゃん。あーもー、懐かしいなーっ。すっごい久々だよね、このメンバーで集まるのってさ」
 「だよねー。あたしも時々ここ来てるけど、やっぱリカがいないと、華がない、ってゆーのかな。なんかパッとしなくてさー。ここんとこ足遠のいてたんだ」
 その遠のいてた足が、理加子が現れただけで戻ってくるとは、なんとも奇妙な現象だ。モデルを辞めたことは、こいつらもとっくに知っているだろうに―――彼らは一体、理加子に何を求めて、ここに集まってくるのだろう?
 ―――…もう、どうでもいいや。そんなこと。
 シートにぐったりともたれかけていた背中を起こした理加子は、髪を掻き上げつつ、テーブルの上に置いておいた携帯電話を開いた。液晶画面に表示された現在時刻は、午後5時半―――外は、既に日も落ち、真っ暗闇だろう。

 夜が、近づいている。
 帰りたくない―――理加子は、ぶるっ、と身震いすると、忌まわしいものを閉じ込めるかのように携帯を乱暴に閉じた。


 昨晩は、ほとんど眠っていない。
 ベッドの上に丸まって、泣いて、泣いて、泣いて―――何時頃だったか、一度母が、夕食を持ってきたと言ってドアをノックしたが、当然のようにそれを無視した。食欲など、湧いてくる筈もない。やがて、母が諦めて去って行き、母が眠りつく頃になって、ようやく父が帰ってくる音がして……そして、静寂が訪れた。
 静かだと、いろんなことを考えてしまう。
 両親が、離婚する。その意味を、繰り返し、繰り返し、考えてしまう。
 別にいいじゃない、と思う自分がいる。元々家族の体を成していなかったのだから、本当に家族でなくなっても、別に問題はない。あの家は祖母が母に残した家だから、当然母が残り、父が出て行くことになるのだろう。別にいい―――父などいなくても、理加子の生活に何の影響もないのだから。
 でも、一方で、そんなの嫌だ、と思う自分もいる。やめて、別れるなんて言わないで―――そんな風に悲しみ、怯え、泣きじゃくっている自分に、頭の片隅に残された冷静な部分が、少なからず驚いていた。
 別れてしまえばいい、ううん別れないで―――右へ、左へ、行ったり来たり。それを延々繰り返しているうちに…夜が明けた。
 カーテン越しに、外が次第に明るくなっていくのをぼんやり眺めているうちに、ようやく、僅かばかりの眠りが訪れた。浅く短い眠りを、何度も何度も繰り返し、やっと理加子がしっかり目を開けた時には、時計は昼近い時間を指し示していた。
 当然、両親は既に出勤していた。昨日、母が持ってきたと言っていた夕食は、惣菜は冷蔵庫にしまわれ、おこわだけおにぎりにしてラップをかけてテーブルの上に置かれていた。

 『昨日はごめんね。今夜、パパも交えてきちんと話し合いましょう。リカも夕飯時には帰ってきてね』

 おにぎりに添えられていたそのメモを見て、理加子の背中に、ゾクリと冷たいものが走った。父も交えて、きちんと話し合う―――その言葉に、離婚がより現実的なものに感じられて。
 と、その時、メモを押さえるために置かれていた花瓶が、理加子の目に留まった。
 愛らしいピンクのカーネーションと、清楚なかすみ草―――たまにはいいわね、と力なく笑った母を思い出して……涙が、出てきた。

 別に、大きな望みを持っていた訳じゃない。
 理加子が望んだのは、ちっぽけな幸福―――家族3人、食卓を囲んで、今日見たこと聞いたこと、他愛もない話をお互いにしあいながら、楽しく笑うこと。このカーネーションが似合う、優しい色をした風景……ただ、それだけだ。
 子供の頃から、それをずっと求めてきた。求めても、求めても、手に入らないから、求めることを止めた。けれど…心のどこかで、いまだに諦めきれずにいる。この花を活けている間、理加子は確かに夢を見ていた。綺麗だね、と、父や母がこの花を喜んでくれたら―――もしかしたら、望んでいたものの欠片だけでも、手に入るのではないか、と。
 それなのに―――…。

 『私だって、リカとの時間を犠牲にしてきたのよ…!? 私よりお母さんに懐いてるリカを見て、私の前に立つと笑顔が消えるリカを見て、寂しくて、悔しくて、仕方なかったわよっ。正論振りかざすお母さんに反論できない自分が、嫌で嫌で仕方なかった―――そんなの、私だって同じよっ。なのに、なんで私だけ責めるのよ…!?』

 ―――…ず…るい…。
 ずるいよ。そんなこと、今更言うなんて。
 ずっと、ずっと、あたしに孤独を強いてきたのは、パパとママなのに。いつだって、あたしより仕事を選んでたのに。なのに、今更被害者面するなんて…ずるい。酷いよ。あんまりだ。
 他の子たちみたいに、パパやママに甘えられなかった、あたしの方が悪かったの?
 いい子にしてなさい、っていつもおばあちゃんに躾けられて、パパやママは疲れているからわがまま言っちゃ駄目だ、って諭されて……それを守ってたあたしがいけなかったっていうの?
 寂しかった? 悔しかった? 何それ。そんなの、こっちのセリフよ。どうして、あたしをほったらかしにしたパパとママが、寂しかった、なんて言うの…!?
 夫婦が不仲になったのも「リカのせい」。それでも離婚せず我慢してたのも「リカのため」。…勝手よ。勝手すぎるよ、2人とも。
 こんなの―――こんなの、あんまりよ…!!


 「…バカバカしい」
 「あ? なんか言ったか? 今」
 理加子の独り言を耳にして、向かい側に座る男が怪訝そうな顔をする。が、理加子はそれを無視して、氷がほとんど融けてしまったジンジャエールに口をつけた。
 …話し合いになど、行かない。
 父と母の問題であり、理加子には関係ない。2人で勝手に話し合って、互いに責任をなすりつけ合って、勝手に別れるなり傷つけあうなりすればいい。もう……どうでもいい。家族のことなんて。
 「アレ? リカってば、ジンジャエールなんか飲んでるの?」
 「そろそろアルコールタイムだよな。おれ、なんか頼んでくる。姫、何がいい?」
 取り巻きの1人に訊かれ、理加子は頭を押さえたまま「いらない」という風に首を横に振った。アルコールは、いらない。今飲んだら、確実に悪酔いしそうだ。
 「リカは、頭痛いんだとさ。ほっといてやれよ」
 「だぁいじょうぶ、だってば」
 晴紀のセリフに、髪をくしゃっに掻き上げ、顔を上げる。
 駄目だ。この騒々しさにも、だんだん慣れてきてしまっている。もっと、もっと―――何も考える隙間がない位に、滅茶苦茶な混沌が欲しい。それが欲しくて、一度は離れたこの場所に、また舞い戻ったのだから。
 「あああ、だるいな、もーっ」
 苛立ったように立ち上がった理加子は、唖然とする取り巻きたちを尻目に、置いてあったコートを掴んだ。
 「え…っ、お、おい、リカ。もう帰るのかよ」
 「違う。そろそろ昼間のお遊びの時間も終わりでしょ」
 コートを羽織り、不思議そうにしている晴紀を見下ろす。その、晴紀らしからぬ素直な目を見て、理加子は自嘲気味にふっと笑った。
 ―――馬鹿じゃないの。あれだけリカに非難されて罵倒されたってのに、まだそんな女神様を崇めるような目で見るなんて。
 考えてみれば、この男も哀れな奴だ。両親の不仲、妹の心の病、それに対する罪悪感、荒んだ環境で捻じ曲がってしまった社会性と価値観―――晴紀だけじゃない。みな多くは語らないが、ここにいる連中の大半が、家族なり学校なり職場なりに問題を抱え、そこから逃げているような人間ばかりだ。
 多分……今日、ここに来てしまったのも、そのせい。
 類友とは、よく言ったものだ。今の理加子には、優也のような存在は、眩しすぎて…苦しすぎる。
 「…何も、考えたくない」
 ポツリ、と呟いた理加子は、ぎゅっ、と拳を握り締めると、女王然とした高慢な笑みを浮かべた。
 「こんな店、退屈すぎて、飽きちゃった。どっか連れてってよ。リカがなぁーんにも考えられなくなる位の場所に」

 

 キラキラ、キラキラ、凶悪な光が、弾けては消え、弾けては消え、弾けては消える。
 少し体を動かしただけで、すぐに、隣の人間とぶつかってしまうほどに、人、人、人で埋め尽くされたフロア。その頭上で、何度もスパークするライト。音楽に、リズムに合わせて上がる、歓声。まるで明日地球がなくなるみたいに、頭を空っぽにして踊る、自分とよく似た、たくさんの誰か。
 自己表現? 違う。むしろここでは、1人1人が消え、ただの集団になる感じ。大きな集団を構成している“モノ”の、ちっぽけな1人―――“己”が死んで“他”との境目がなくなる感じだ。

 だから、寂しくない。
 寂しくない。大丈夫。寂しくない。

 でも―――まだ、足りない。

 ―――あ…たま…、痛い…。
 よろけるように、ダンスフロアから外れる。直後、人気のダンスナンバーがちょうど始まり、背後の集団からワーッという歓声が上がった。
 「あれぇ? リカ、もう踊んないの」
 バーカウンターへカクテルを貰いに行っていた女が、柱に半ば抱きつくようにしている理加子を見つけ、不思議そうな顔で声をかけてきた。彼女の後ろにも、見覚えのある男女が数名いる。どうやら、理加子がトランス状態で漂っている間に、喉が渇いてみんなで飲み物を取りに行っていたらしい。
 「ほら、リカの分。ここのオリジナルカクテルだってさ。リカの好きそうな色だろ」
 晴紀が、そう言って、綺麗なピンク色をしたカクテルを理加子に渡した。頭痛を堪えながら一口飲んでみると、甘くて理加子好みの味だ。が…、今は、ちょっと飲めそうにない。
 「…おいしいけど、いらない。晴紀飲んで」
 「なんだよ。まだ頭痛いのかよ」
 胸元に押し付けられたカクテルを受け取りつつ、晴紀が困ったように眉をひそめる。それを聞いていた数名が、冷たい柱にこめかみを押し当てている理加子の顔を覗き込んだ。
 「なぁに? リカ、頭痛いの?」
 「…痛い。ガンガンする」
 「やだ、大丈夫? 風邪?」
 「…違う。もぉ、いいから、リカのことはほっといてよっ」
 「けどさー、久しぶりに集まったんだから、楽しまなきゃ損じゃん。…あ、そーだ」
 何を思いついたのか、メンバーの中の1人が晴紀の肩を叩いた。
 「なあ、晴紀。リカにアレ、あげたらいいんじゃねぇ?」
 「アレ?」
 「ほら、俺にもくれたじゃん、頭痛かった時。あれは一発だったよ。ラリってる時間短いけど、トリップ目的じゃないし、初心者のリカにはピッタリじゃん?」
 「ああー、あれか。今日持ってたかな」
 ほい、と理加子から受け取っていたグラスを他の奴に渡した晴紀は、ジーンズのポケットを探り始めた。
 「ええと……あ、あった」
 「―――…なに…?」
 ノロノロと顔を上げ、晴紀を見上げる。だるそうな理加子の目の前に突きつけられたのは、さっきのカクテルとよく似たピンク色の、錠剤だった。元々はシート状だったものを、1錠分だけ切り取った感じだ。
 「…ドラッグ?」
 「まあ、そんなとこ。市販薬飲む位なら、この方が断然いいぜ」
 「…晴紀、ヤバイ薬とは手を切ったんじゃなかったっけ」
 亜紀が自殺未遂を起こしたのを機に、ドラッグの仲介役は降りたと、トールから聞いたのに―――理加子の指摘に、晴紀は気まずそうな笑みを浮かべた。
 「あー…、うん、まあな。夏まで仲介やってた筋は、さすがにもう手ぇ引いたよ。これは、あの頃扱ってたドラッグに比べたら、子供だましレベル。常用はおすすめしないけど、1回飲むだけなら大丈夫だって」
 「…ふぅん…。飲んだら、頭痛いの、治るかな」
 「治る治る。ついでに、すんげー楽しくなって、不安とか悩みとかが消えるぜ」
 「……」

 ―――不安、とか…悩みとかが、消える…?
 じゃあ…悲しいのも、寂しいのも、消えるのかな。

 誰かが、やめろ、と頭の中で叫んだのを、聞いた気がした。けれど…もう、遅い。
 柱にすがるようにして体を起こした理加子は、良心の幻聴を振り払い、手を伸ばした。

 もう、いい。
 これが本当に消えてくれるのなら―――もう、なんでもよかった。


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