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― EXIT(中) ―

 

 1回目のライブが20分後に迫った控え室に、思いがけない人物が現れた。

 「え…っ、そ、それってつまり…」
 突然のことに唖然とする3人を前に、オーナーは、嬉しそうな笑顔で大きく頷いた。
 「そう! ライブ終了後も、今あるあのステージを残すことになったの」
 「ど、どうして急に? 客席数増やすって話じゃなかったんですか?」
 ヨッシーの言うとおり、オーナージュニアは、4月以降はステージを潰して全部客席にすると言っていたのだ。電卓を叩きまくった結果、その方がはるかに採算性がいい、という結論に達したのだそうだ。あのステージから巣立った大物プレイヤーもいるのだから、店の看板として残してもいいんじゃないか、と3人は思ったのだが、演奏しないなら残す意味がない、と言い切るジュニアの前には、反論する余地はなかった。
 それが一転、ステージを残すというのだから、喜びより不信感の方が先立つ。何か裏があるんじゃないか、と懐疑的な目になる3人に、オーナーはくすくす笑いつつ、抱きかかえていた茶封筒を差し出した。
 「これよ」
 「?」
 何の変哲もない、A4サイズの封筒だ。代表で受け取ったヨッシーは、怪訝そうに眉をひそめつつ、その中身を検めた。一成と咲夜も、椅子ごと身を乗り出し、ヨッシーの手元を覗き込んだ。
 封筒から出てきたのは、A4の紙の束だった。右上をクリップ留めされたそれには、表を作るように罫線が印刷されていて、その中にびっしりと名前や住所が手書きされていた。
 「これ…」
 「ここの常連客の皆さんが、こつこつ集めてくださった署名よ」
 「署名!?」
 思わず、3人の声がはもった。
 「月に1度でも構わないから、なんとか“Jonny's Club”でのライブを存続して欲しい、って。昨日、直接代表の人たちが来て、うちの息子と話し合ってくれたの。ステージのない日であれば、並べ方次第で今より収容人数をアップできる、って、図面まで引いて説明してくださってね。あのステージそのものに思い入れのあるファンも多い、潰してしまえばライブの有無とは関係なく常連離れは確実になる―――なんてことを、一番古株の常連さんから言われてしまっては、ね。合理主義の息子も、単価と座席数と回転率だけじゃ計算できない部分がこういう店にはある、って理解したみたい。月1回か2回、チャージ料ありの設定で存続する方向で考える、って皆さんの前で約束してくれたのよ」
 「…全然、知らなかった…」
 ステージ上から見る限り、誰かが署名を求めてテーブルを回っていた、なんて様子は微塵もなかったし、店の外でもそういった活動を見たことがない。一体誰が、いつ、どのような方法で署名を集めていたのだろう?
 「私の個人的な思い入れは別にしても…ホッとしたわ。下積み時代をここで過ごした人や、才能のあるアマチュアの人にチャンスを与えたいって思ってこの店を始めた主人の気持ちを考えると…ね」
 心底ホッとしたように、オーナーはそう言って微笑んだ。ライブ終了を宣言した時にあった、あの「寂しい」だけでは済まない鬱屈したような空気は、ステージそのものに対して思い入れのある多くの人々に対する申し訳なさだったのだとわかり、咲夜も同意するように微笑んだ。
 「私も、ホッとしました。出発点だったステージがなくなっちゃうのは、やっぱり辛かったんで」
 「ああ…、如月さんは、うちに来るまで、ストリートだったんだものね」
 既にプロとしていくつものステージを踏んでいたヨッシーや、学生時代にフロア演奏のバイトをやっていた一成とは違い、咲夜にとって“Jonny's Club”は、お金をもらって客の前に立った最初の舞台だ。もう二度とここで歌うチャンスがなかったとしても、今後も誰かがあのステージに立ち続けるんだ、と思えるのは、やっぱり嬉しいし、安心する。
 「ええと、それでね。署名してくださった方々の中に、お世話になってる方や仕事の関係者もいるかもしれないから、ステージが始まる前に、ざっと目を通しておいてもらえる? 個人情報だから、ステージ始まる前に私が受け取りに来るから」
 「あー、そうですね。お気遣いありがとうございます」
 確かに、その事実を知らずにいたら、会った時に少々失礼なことになるかもしれない。オーナーの意図を察して、ヨッシーがぺこりと頭を下げるのと一緒に、一成や咲夜も軽く頭を下げた。

 「しっかし、よかったよなぁ。毎日とか1日おきじゃ調整つかない連中も、月1のステージならこぞって出たがるだろうし」
 効率よくチェックできるよう、署名を3等分しながら、ヨッシーがホクホク顔で呟く。が、一成はもう少し見方がシビアだ。
 「確かにやりたがる奴は増えるけど、店側の選定は相当厳しくなるだろうな。アマチュアバンドでも寛容に受け入れてきたのは、ノーチャージが成せる業だったと思うし…。チャージ制にしたら、今よりかなり高レベルのライブを客側だって期待するだろ」
 「うーん…そう考えると、オーナーもまだまだ完全引退は無理そうだよね。オーナージュニアって、ジャズ全然知らないんでしょ?」
 「…だな。店作るほどのジャズ好きの両親から生まれたのに、なんで興味持たないのか不思議だよな」
 「ほい、3等分。時間ないから、サクサク見ろよ」
 1回目のステージまで、あと15分しかない。ヨッシーに紙の束を手渡されると同時に、2人は口を閉じ、自分の分のチェックにかかった。
 咲夜に渡されたのは、どうやら一番最初の束らしい。1行目の人物の名前の前に「代表」の2文字が書かれていた。
 ―――へーっ、代表って、池田さんなんだ。
 咲夜でも名前を知っている、“Jonny's Club”の常連中の常連だ。年代的にはオーナーと同じ位で、既に仕事の現役を退き、趣味のレコード集めに没頭していると聞いたことがある。先ほどオーナーが言っていた「一番の古株」とは、多分この池田氏のことだろう。
 本当にこの店を愛してくれてるんだなぁ―――そんな感慨を覚えた咲夜だったが、次の行に目を移した途端、えっ、と思わず声を上げてしまいそうになった。
 ―――れ…っ、蓮君…!?
 穂積 蓮。滅多にある名前ではないし、その上職業欄に「大学生」とあるのだから、間違いない。204号室の住人だ。
 何故ここに、蓮の名前が―――いや、確かに蓮は、この店に来たことは何度かあるだろう。歓迎会の時が最初だが、その後も2、3度、1人で来ているのを偶然見かけ、声をかけたことがある。が、こんな…2番目に名前を連ねてしまうほど頻繁に、来ていただろうか? 少なくとも咲夜は、そこまで蓮の姿を見た記憶はない。池田氏が署名活動をやり始めたばかりの時に、偶然その場に居合わせた、ということなのだろうか。
 いきなり思いがけない名前を見つけてしまって動揺したが、こんなところで時間を食っている余裕はない。もう誰の名前が出てきてもビックリなんてしないぞ、と軽く深呼吸をした咲夜は、再び続きの名前のチェックに入った。
 続く名前は、幸か不幸か、咲夜の知らない名前ばかりだった。男性、女性、会社員、自由業、学生、公務員―――実に様々な立場の人間が名前を連ねている。これだけ多彩な人々が、あのステージを残すために協力してくれたのかと思うと、なんだか不思議な気分だ。
 そうして、咲夜が、見知らぬ名前の羅列に慣れ始めた頃、ある意味、蓮以上に予想できなかった名前が目に飛び込んできた。
 「えーっ! そ、奏がいるっ!」
 「げっ、グッさんまで署名してるよ!」
 「入江……」
 偶然同時に思いがけない名前を見つけてしまったらしく、3人の声がはもった。
 「えぇ!? なにそれーっ! こんなとこに名前書いてたくせに、私にはひとっことも言わないでさーっ!」
 「うわわわ、やばいなー…、署名してるなんて知らないから、昨日思いっきりスタジオで愚痴こぼしちまったよ。恥ずかしいよなぁ」
 焦りのままに叫んだ咲夜とヨッシーだったが、そこでふと我に返り、揃って一成の方へと目を向けた。
 「「―――いりえ??」」
 2人にとって、初耳の名前だ。疑問の視線を向けられ、一成はバツの悪そうな顔でチラリと目を上げた。
 「…大学の、同期だよ。さほど仲良かった訳じゃないけど、奴のピアノの腕が相当なもんだったから、密かにライバルと思ってたんだけど…」
 「その人が、署名してたの?」
 「ああ。…でも、変だな。あいつ、ここのところずっとドイツに行ってた筈なのに。いつの間に帰国したんだろう?」
 「ドイツ……あー、あの兄ちゃんか」
 一成を学生時代から知るヨッシーは、一応記憶があるらしい。ポン、と手を叩き、事情の飲み込めない顔の咲夜の方を見た。
 「一成が出る演奏会を聴きに行った時、2回ほど会ってるんだよ。調律師の卵って聞いて、俺の周りじゃ珍しい仕事だったんで、記憶に残ってるんだ。ドイツに行ったのも、調律師の修行だか勉強だかのため…だったよな? 一成」
 「そう。確か、俺が咲夜と組んだ直後だったから、咲夜が知らないのも無理ないな」
 「へーえ…」
 ―――それも何だか不思議な話だなぁ…。
 一成が咲夜と組んでこの店でライブを始めるのとほぼ同時に、入江はドイツに旅立った―――なのに、ステージ存続を求める運動で署名している。親友ででもあったなら、帰国後1、2度立ち寄っただけであっても、一成の気持ちを推し量って署名するかもしれないが、特にそういう関係でもなさそうだ。一体入江は、いつ“Jonny's Club”に来て、どんな心境でここに名前を連ねたのだろう?
 「…あ、悪い、中断させて。早くチェックしないと」
 自分の呟きが作業を遮ってしまったことに気づき、一成がそう言って手にしていた名簿を1ページめくった。残る2人も、慌てて自分の分のチェックに戻った。


 その後、全力で作業に没頭したおかげで、ライブ開始ギリギリで、なんとか全員が全てのページに目を通すことができた。
 ―――それにしても、奏の奴…っ。
 慌しくステージに上がる準備を整えつつ、一成の割り込みで一瞬忘れかけていたことを思い出し、知らず眉を上げる。
 ヨッシーや一成も、それなりに知人・友人・恩人の名前を見つけて焦ったらしいが、咲夜にとっての奏の場合、他の2人とは少々事情が異なる。ほぼ毎日顔を合わせている人物―――ヨッシーたちに置き換えれば、家族の名前を見つけてしまったのに匹敵する驚きなのだから。
 名簿の比較的早い段階で名前を連ねているということは、結構前からこの活動のことを知っていた、ということだ。何故一言、教えてくれなかったのだろう? 自分が立っているステージのことだというのに、完全に客任せで何も知らなかったなんて、咲夜が後で知ったらどう思うか、奏なら想像できた筈なのに。
 帰ったら絶対、どういうことなのかきっちり問い詰めないと―――そう意気込んで、ステージに上がった咲夜だったが。

 『こんばんはー! “Jonny's Club”へようこそ…』

 定番の挨拶を終えると同時に、目に入った光景に、思わず声を失いそうになった。
 多分、背後で、ヨッシーや一成もギョッとしているだろう。何故なら、ステージから一番目立つ位置―――客席の中央のテーブルを陣取っていたのは、つい今しがた、署名一覧で見かけた名前の人物数名の団体さんだったのだから。
 「……」
 “そ”の音のまま固まる咲夜に、ケロッとした笑顔の奏が手を振る。その隣で、目立つ席でも可能な限り目立ちたくない、とでも言わんばかりに、蓮が体を縮めるようにしながら軽く頭を下げたのだった。

***

 「おー、おつかれさん」
 1回目のライブを終えて駆けつけた3人に、集団の中央に座っていた白髪混じりの頭をした男性が、笑顔でそう労いのことばをかけた。言わずと知れた“Jonny's Club”の常連最古参、池田氏である。
 「残り2ヶ月を切って、ますます演奏に熱が入ってるねぇ」
 「…ど…どうも…」
 数少ない、3人全員が名前まで把握しているほどの常連だ。3人は、まるで校長先生の前に整列した生徒みたいに、おずおずと頭を下げた。
 池田氏の他にその場に揃っているのは、以前咲夜の歌に色気が出てきたと褒めたあの女性常連客、名前は知らないが学祭ライブで一緒に歌った仲である一成の同期、毎度おなじみドラマーのグッさん、そして…何故か、奏と蓮。名前のわからない人物もいるが、恐らくは全員、署名活動の中心メンバーなのだろう。
 「その顔だと、あなた方も聞いたみたいね。ここのステージが延命決定になった話」
 女性常連客が、3人のなんともいえない表情を見て、クスクス笑う。どうやらこのメンバーには全て事情が筒抜けのようだ。降参したヨッシーが、代表してメンバー全員を見渡した。
 「いやもう、俺たちもびっくりで…。一体いつの間に? 署名運動やってるなんて話、お客さんからも従業員からも聞いたことがないのに」
 「最初に始めたのは、池田さんよね」
 促され、池田氏が少し照れた様子で頷いた。
 「ライブ終了の貼り紙を見た翌日に、終了反対の有志を募ろうと思って、テーブル回って署名を集めようとしたんだよ。そしたら、店の人に見咎められちゃってねぇ…。まあ、初老の親父が、何の許可も取らずにバインダー片手に店の客に声かけまくってたんだから、当然なんだけどね。主旨説明する間もなく“店内での勧誘やそれに類する行為は禁止されていますので”って言われて、1人の署名ももらえないまま退散したんだよ」
 「えっ、それじゃあ…」
 「うん、そのままだったら、諦めてしまったかもしれない。僕1人でオーナーに直談判を、とも考えたけど、新しいオーナーとは面識がないしねぇ…。オーナーが納得して決めたことなら仕方ないか、とも思ったし。でも―――店の人に言われてすごすご席に戻る僕を、偶然、この穂積君が見ていて、声をかけてくれたんだよ」
 「蓮君が?」
 咲夜が思わず蓮に目を向けると、蓮は気まずそうな曖昧な笑みを返した。
 「穂積君も、ちょうど何か活動ができないか考えてたんだそうだ。いやぁ、声かけてくれたのが穂積君で、本当に良かったよ。僕はただ闇雲に“今のライブ”を存続させることしか考えてなかったけど、これだけ高頻度のライブを存続するだけの新人がいないことや従業員の負担、ひいては演奏する側の負担も考えると、必ずしも現状維持が最善策ではない、ってことを穂積君から聞かされて、なるほどなぁ、と納得したからね」
 「い、いや、あの、」
 池田氏にやけに持ち上げられたのが気恥ずかしいのか、蓮は焦ったように手を振り、池田氏を遮った。
 「俺のは、ただの受け売りです。一宮さんやバーテンダーの人から、たまたま事前に話を聞いてたから、それを伝えただけですから…」
 「ん? ああ、それでも、あの場にそういう情報を持ってる穂積君がいてくれたのは、最大の幸運だったと、僕は思うよ。おかげで、より現実的な目標が立てられたしね」
 ―――…で、蓮君はいつ、奏やトール君から話を聞いた訳?
 全てが寝耳に水で、理解はできても納得する気持ちが追いつかない。はあそうですか、と、ただただ拝聴の姿勢で聞き続けるしかない。
 「で、色々相談した結果、店内でウロウロしてちゃ店の迷惑になるんで、店の外で署名を集めることにした訳だ」
 「外、って……えぇ!? い、今、真冬ですよ!?」
 「ハハハ…、そうなんだよね。だから、穂積君が心配しちゃってね。ほら、僕はもう歳だから。ずっと立ってる訳にもいかないんで、毎日、大体の時間を決めて、交代でやることにしたんだよ。僕は比較的早い時間帯、穂積君は遅い時間帯、って感じで」
 いや、それにしても、池田氏はどう見ても還暦を迎えている身だ。比較的早いとはいえ、真冬の夜に街頭で署名活動とは、無茶も甚だしい。一体何日間やり続けたのか知らないが、下手をすれば倒れて救急車に運ばれかねない話だ。
 「まあ、やり始めてすぐナオミさんが署名してくれたり、心配した穂積君が一宮さんに相談してくれたりしたんで、僕は早々にお役御免になってしまったんだけどね」
 池田氏はそう言って、例の女性常連客と奏の顔を交互に見た。それが苗字なのか名前なのかは微妙だが、どうやら彼女の名がナオミというらしい。
 「当たり前ですよ。池田さんたら、震えながら署名集めてるんですもの。バイト先から鬼の形相で駆けつけてくる坊やの顔も見ちゃったし、黙ってられる訳ないでしょうに」
 呆れたようにナオミさんに言われ、池田氏と蓮は揃って小さくなってしまった。まあまあ、と苦笑した奏は、蓮の背中をポンと叩き、説明を引き継いだ。
 「まあ、なんだかんだあって、ここの4人で1回相談した結果、池田さんには街頭活動はやめてもらって、別の仕事をお願いしたんだ。ナオミさんは、インテリアの仕事してるから、ステージ潰さずに収容人数アップする方法考えてもらって―――で、署名活動の方は、若手人員をもっと増やしてやりゃあいい、ってことになってさ。実は、ちょっとの間だけ、テン経由でミサちゃんに頼んでたりした時もあったんだよな」
 「え…っ、ミ、ミサ、って…」
 一成の顔が、さーっと蒼褪める。悪びれた様子もなく、奏は笑顔で頷いた。
 「そ、藤堂の大ファンだった、ミサちゃん。無職で暇だし、元従業員だけあってステージに対する思い入れもあるみたいで、二つ返事で協力してくれた。ああ、署名もしてるよ、確か。本名“みさこ”だから、気づかなかったかもしれないけど」
 「…そ…そうか…」
 あまりいい思い出ではないのか、一成はガクリと肩を落とし、嫌な奴の力を借りちゃったなぁ、という顔をした。
 「で、オレが署名集める当番だった日に、たまたま引っかかったのが、ヤマノ」
 奏に話を振られ、一成の同期―――恐らく彼が、ヤマノなのだろう―――がニンマリと笑った。
 「おー、驚いたよ。一成のやつ、僕らに何も言ってくれてなかったから、まさか“Jonny's Club”がそんなことになってるとは思ってなくてさ」
 「…悪い」
 「一成の性格はわかってたから、しょうがないとは思ったけどね。ま、それで、僕も署名集めるメンバーに加わらせてもらって―――その直後だったかな。たまたま、店とは関係ない所で、グッさんに会ったんだ」
 元々面識があったらしく、ヤマノはそう言って、な? という目をグッさんに向けた。おお、と頷いたグッさんは、ヤマノの言葉を引き継ぐ形で続けた。
 「いやいや、おれも吉澤からライブ終了の話は聞いてたけどさ。お客さんの方がそんな活動してるとは、こりゃ面白くなってきたな、ってんで俄然協力したくなっちまってねぇ。池田さんが“Jonny's Club”出身のプロとコンタクトを取りたがってるって聞いて、そっち方面のバックアップを買って出たって訳。結局、実際に会って署名してもらえたのは、えーと…3人か」
 「あ…あの面々の署名は、グッさんが書かせたっつーことかいっ!」
 さっき見た署名の中、一般人に紛れていた職業欄・ミュージシャンの3名を思い出し、ヨッシーがエキサイトする。ハハハ、と笑ったグッさんは、得意気にサムアップしてみせた。
 「まあ、なんだかんだで、楽しかったよなぁ」
 「そうね。仕事以外でこんな風に人集めてあれこれ知恵を出し合うなんて、学生時代以来かもしれないもの」
 「てな訳で―――さあ、吉澤も藤堂も如月も、次のライブに向けて1杯飲め!」
 がしっ、とヨッシーの首を腕で掴んだグッさんが、さっそく「おーい、ここにビール3つ!」とウェイターに声をかける。喉が絞まって声が出ないヨッシーに代わり、一成がグッさんのトレーナーの裾を引っ張って「本番前に飲ませないで下さい」ときっぱり言い放ってくれたので、ほろ酔いでステージに上がることだけは何とか避けられた。さすが、盛り上げ役の上手いグッさんだ。このワンシーンで、場は一気に笑いに包まれ、ややこしい話はお開きとなった。

 「…ねえ、」
 ビールをキャンセルしてウーロン茶を注文する一成の声を背に、咲夜は奏の席のすぐ後ろに移動し、腰を屈めるようにして奏に声をかけた。
 「奏も署名集めやってた、ってさっき言ってたけど……いつ? そんな様子、全然なかったじゃん」
 個人的な疑問をあまり周囲に聞かれるのもどうかと思い、小声で訊ねる。すると奏は、咲夜が疑問に思う気持ちもわかるのか、苦笑いを返した。
 「あー…、まあ、早い話、咲夜がステージ上がってる時間帯が、オレの担当だった訳よ」
 「は?」
 「お前が店入る時間に合わせてオレも来て、お前がステージ終えて帰る前に、オレも帰る。…っつーか、オレだけじゃなくみんな、従業員やバンドメンバーには絶対見られないように、関係者の出入りする時間を避けて活動してたんだ。オレは咲夜が怪しむだろうから活動切り上げて帰ってたけど、その後も集め続ける奴は、一時的に駐車場とかに行って時間潰したりとかして」
 「な…、なんでそこまで…。お客さんたちがそんな活動してるってわかれば、私らだって協力のしようが」
 「それじゃ、まずいからだよ」
 咲夜がそう言うのは予想済みだったのか、奏はそう言って咲夜を遮った。
 「お前らと店とは、雇用関係だろ? ステージ廃止は、まんま、仕事を失うことを意味する―――そういう立場の人間が活動に参加しちまったら、咲夜たちがどういうつもりでも、雇ってる側から言えば“雇用主への抵抗”と映るだろ?」
 「……」
 「戦略的なとこは、ナオミさんがほぼ指揮してたんだけど、ビジネスしか頭にないジュニアを説き伏せるには、咲夜たちや従業員の主張はあえて加えない方がいい、ってのが、ナオミさんの意見だったんだよ。確かに、ミュージシャンの想いを訴えても、利益しか頭にない奴には効果ない―――下手すりゃ、ライブ終了が早まる危険性もある。だから、飽くまで、金を落としてくれる“お客様”が、こーんなにステージ存続を望んでるんだぞ、残さないとみーんな離れてくんだぞ、って主張オンリーで攻めることにしたって訳」
 「…つまり、下手に活動のこと知ったら黙ってられないだろうから、私らや従業員に不審がられないようにしてた、って訳か」
 「まあ、そんなとこ。特に、オレは咲夜と近いからさ。それに、店の連中にも顔が変に覚えられちまってるから、咲夜が思うより活動控え目だったんだよな。そのあおりを食らって、蓮がフル活動してたんだけど―――ここだけの話、あの署名の半分は、蓮が集めた署名だもんなぁ…。案外やるな、あいつ」
 隣に座る蓮には聞こえないよう、ぶつぶつと口の中で呟いた奏は、少し面白くなさそうに眉根を寄せた。そんな奏の表情に、咲夜も思わず苦笑した。
 でも、確かに―――ナオミの言うとおりかもしれない。
 咲夜たちが、周囲が意外に思うほどあっさりライブ終了を受け入れたのも、咲夜たちが「雇われている立場」だから、という部分が大きかった。オーナージュニアが1人で騒いでいるならまだしも、オーナーも受け入れてしまった結論なのだ。雇われている自分たちが反対したところで、「嫌なら今すぐ辞めろ」と言われればそれまでだ。
 「そっかぁ…。でも、情けないなぁ。自分たちが立ってるステージなのに、お客さんに守られるなんて」
 はあぁ、とため息をついて咲夜が言うと、奏は一瞬目を丸くし、それから、咲夜の頭を拳で軽くコツンと叩いた。
 「ばーか。その考え自体、間違ってるっつーの」
 「?」
 「あのステージは、店だけのもんでもなければ、お前らステージの上に立つ人間だけのもんでもない。客のもんでもあるんだよ」
 「……っ、」
 「って、池田さんが言ってた―――と、オレは蓮から聞いた。…あー、なんか、自分で言ってて混乱するな。伝言ゲームかよ」
 ―――…そ…っか。そうだよね。何、おごったこと言ってるんだろ、私。
 “こちら側”にいるからつい、当事者面してしまいがちになるけれど…当たり前のことだ。
 勿論、奏が立ち上がったのは咲夜を思っての部分が大きいだろうし、グッさんやヤマノもヨッシーや一成が立っているステージだからこそ動いた部分があるだろう。けれど、あの署名欄に並んだ名前の1つ1つは、決して咲夜たちのためではなく「自分たちのため」に書かれたものだ。この店を愛しているから、これからもライブを聴き続けたいから、名前を記した。そういう想いの結晶だ。
 奏の茶化したような口調が、むしろありがたい。くすっ、と笑った咲夜は、小突かれた頭を軽くさすった。
 「じゃあ、私らが奏たちに“ありがとう”とか言うのって、おこがましい話だよね」
 「ん? ああ、そうだな」
 では、何と言うのが、一番ふさわしいのだろう? ちょっと考えた末、咲夜は、こんな言葉を選んだ。
 「Good job.(やったね)
 そう言いつつ、さっきグッさんがヨッシーに向かってやったように、親指を立ててみせる。
 すると奏も、ニッ、と笑い、咲夜の拳に自分の拳をぶつけてみせた。


***


 甲高い笑い声が、どこかから、聞こえた。
 エコーがかかって、頭の中でわんわん響いてる。うるさい―――うるさい、うるさい、お願い、少し静かにして。

 「…っく、は、ははははは、あっはははは」
 「し、しーっ! 大きな声出すなって。人が来るだろっ」
 「えぇー? 何がぁ?」

 …なんだ。
 笑ってたのって、あたしだったんだ。

 自分で自分の笑い声に苛立っていたなんて、大笑いだ。また笑おうとした理加子の唇を、何かが塞いだ。
 「んー、んんんー」
 ぬめっとした気持ち悪い物体のせいで、笑い声がくぐもる。当然、思い通りに笑えなかった理加子は、機嫌を損ねた。機嫌を損ねたから、その気持ち悪い物体に噛み付いてやった。
 「!! ってええぇっ!」
 「バカっ、お前まで大声出すなよっ」
 「だってリカのやつ、唇噛みやがったんだぜ!?」
 「あっははははは」
 舌先に、鉄サビのような味が僅かに残っている。これは、血の味。慣れない味が妙におかしくて、理加子は愉快そうに笑った。
 「おっかしーっ。あんたってば、唇噛まれた位でなみだ目になってんの。あははははは」
 おかしい。
 おかしくて、おかしくて、笑いが止まらない。
 つい1時間前まで、真っ暗な気持ちで地面に埋もれそうになっていたのが、嘘みたい。今は、体中軽くて、悲しいことも怖いことも辛いことも、何もなくなってしまったような気がする。ここがどこかって? こいつらが誰だって? そんなの、どうでもいい。些細なこと。そんなことより、この光―――降り注いでる、光。キラキラ、キラキラ、目に突き刺さりそうな位の、この光。
 光―――眩しい…。
 「なあ…やっぱ、やめとけって。ハルキが戻ってきたら、お前、ぜってー殺されるって」
 「だぁいじょうぶだって。ややこしい電話なんだろ? 暫く戻ってこねぇよ。それより、誰もVIP席来ないかちゃんと見張ってろよ」
 「けどよぉ…前にリカに手ぇ出しかけてハルキにボロボロにされた奴、いたじゃん。お前も覚えてるだろ?」
 「うっせーなあっ」
 「なにゴチャゴチャ言ってるのー」
 少し遠くで聴こえる音楽が頭の中で反響していて、彼らの会話がよく聞こえない。理加子は手をつき、ノロノロと体を起こそうとした。
 「もう飽きちゃったぁ。リカ、踊ってくる」
 「え…っ、お、おい、ちょっと待てよ!」
 起き上がりかけたところを、肩を掴まれ、また押し倒された。シートで思い切り後頭部を打ったが、VIP席の上等なシートが幸いして、痛みはない。
 「OKしといて、キスだけで逃亡とか、そんなの許されると思ってんのかよっ」
 「なによー、それー。許すとか許さないとか、あんた何様ぁ?」
 ―――ああ、“リカ”が大暴れしてるなぁ。
 頭の中、僅かに残ったまともな場所で、“理加子”が冷めた目でそう呟く。
 “理加子”は前から、“リカ”があまり好きではなかった。同じ体に住み着いているから、仕方なく仲良く折り合いをつけているフリをしているが、できれば“リカ”を追い出して、この体を独占したいと思っていた。
 だから、目の前のこの男が、下心丸出しで近づいてきた時、ふと、思ってしまったのだ。
 名前も思い出せない奴。ドラッグでまともな精神状態じゃないのを知っていてこういう真似をしてくるサイテーな奴。こいつに“リカ”をくれてやったら、“リカ”はさぞかし傷つくだろう。いい気味だ。もっとボロボロになって、消えてなくなればいい―――と。
 「リカが本気であんたの相手なんかする訳ないでしょー? どいてよ、踊るんだからぁ」
 「ふ…っざけんなっ!」
 バン! と、耳元で何かが爆ぜる音がした。
 鼓膜が、ビリビリ震える。頬がカッと熱くなった。頬を手加減なしに叩かれた、とわかるまで、数秒を要した。
 「ちょ…お、おい、ヤバイって」
 「うるせぇ。大体こいつ、前からタカビーで鼻につくとこあったんだよっ。ちょっと綺麗で取り巻きが大勢いるからって、調子こきやがって」
 胸元を乱暴に開かれて、何かが飛んで頬に当たった。これは、ボタン。お気に入りのブラウスだったのに―――腹を立てるべき場面だというのに、
 「…っ、ふ、ふふふ」
 何故か、笑いがこみ上げてきた。
 「マジかよ、こいつ。ゴーカンされそうになって、笑ってやんの。これだからドラッグ初心者はバカだよなぁ」
 抵抗する気がなさそうなことに気を良くしたのか、男が笑いながらそう言う。だが。
 「へたくそ」
 「は?」
 「へーたーくーそー。サイテー。キスも下手だしぃ、リカのお気に入りの服破くしぃ、やる前から想像つくわよ。あんたなんて、絶対クズ。絶対ヘタ」
 男の顔から、余裕の笑みが消えた。本気で青筋を立てている顔がおかしくて、余計笑いがこみ上げた。
 「あ、強姦した女から“ヘタね”とか言われちゃったら、ショック? 男のプライドずたずた? いいよー。リカ、優しいから、あんたには言わないでおいてあげるー。その代わり、あんたのこと捨てたカノジョと2人で、あの男サイテーって、あんたを肴にして盛り上がるからー。あっははははは、おもしろーい」
 もう1発叩かれて、さっきとは違う血の味が、口の中に広がった。
 激昂して、厚手のストッキングを無理矢理破ろうとする男と、ケラケラ笑いながら男の顔面を蹴飛ばす“リカ”を、“理加子”は、少し離れた所から、淡々と見ていた。

 ―――あれは、あたしじゃ、ない。
 “理加子”は、あんなことは言わない。“理加子”は、あんな真似はしない。だからあれは、“あたし”じゃない。
 “あたし”じゃないんだから、痛くない。
 痛くない―――…。

 「…っはは…あはは…」
 笑っているのに、
 「…は…」
 何故か―――涙が、滲んできた。

 ―――…痛…い。
 痛い。心、が、痛いよ、……さん。

 …一宮、さん。

 「…や…」
 本気で怒ってくれた時の顔、頭を撫でてくれた時の手、励ましてくれた時の目、そして…ただ1度、自分から触れた、唇。フラッシュバックのように、それらが一気に脳裏を駆け抜けた。
 途端―――理加子の顔から、トリップした状態の笑みが、完全に消えた。
 「や、めて」
 おぞましさに目を見開いた理加子は、両手両足をバタつかせるようにして、男を全身で拒否した。
 「やめて…! 触んないで…っ!」
 「なんだぁ? 今更“許してください”ってかよ、あぁ!?」
 「やぁだああっ! やだやだやだ、離して…」
 「うわあっ!!」
 その時、視界の外から、情けないような悲鳴が聞こえた。
 理加子の見えない所で、どんなことが起きたのかは、わからない。ただ、つい今しがたまで理加子に襲いかかろうとしていた男が、ビックリしたように飛び起き、理加子から離れたのだけはわかった。
 ガシャーン、という、グラスが床に落ちて割れる音。それに被るように、いくつかの甲高い悲鳴が聞こえた。慌てて逃げ出そうとする男だったが、理加子の上から降りると同時に、伸びてきた手にあっさり捕まってしまった。
 「何してんだ、テメェ…!」
 「わ…っ、悪いのは、俺じゃねぇよっ…!」
 晴紀に胸倉を掴まれ、男は、裏返った声でそう弁明した。
 「リカが…っ、リカが、俺を誘ったんだよっ。ほ、本当に、」
 「貴様、そういうつもりで、リカにあの薬やれって言ったのか? ふざけた真似してくれやがって…」
 「ち、違うって!」
 問答無用。ガコッ、という鈍い音がして、男の顎に晴紀の拳がめり込んだ。
 明らかに運動不足で太陽の光にも当たっていない様子の男。比べて晴紀は、実戦経験が圧倒的に不足しているものの、サンドバッグ相手に日々パンチ力だけは無駄に鍛えている男だ。どこが痛いのかもわからないような痛みに、男は顎を押さえ、ガラスを爪で引っかいたような悲鳴を上げた。
 床に崩れ落ちた男の背と腹に、怒りに任せた蹴りを更に2発食らわせると、晴紀はようやく理加子の方に駆け寄った。
 「リカ…!」
 VIPシートに転がったままの理加子の目に、血相を欠いた晴紀の顔が映った。

 ―――あたしは、なんて最低な人間なんだろう。
 最初に目に映った顔が、今、一番会いたい人ではなかったことに、こんな風に落胆するなんて。

 消えて、なくなってしまっていたら、よかったのに―――涙でぐしゃぐしゃになった顔で、理加子は、泣き笑いのような笑みを晴紀に返した。

***

 その後、騒ぎに気づいて駆けつけた取り巻きたちによって、VIP席での一件は、仲間内だけの騒ぎで何とか収まった。
 戻るまで待ってろ、と仲間に言い残し、晴紀は理加子を連れ、店を出た。いつもなら車を出すところだが、タイミングの悪いことに、今日は歩きで来てしまっている。タクシーを拾おう、と言って、晴紀は理加子を支え、表通りへと歩き出した。
 「寒いんだったら、俺のコートも貸すよ」
 しきりに両腕を抱いている理加子を見て、寒がっていると勘違いしたのか、晴紀がそんなことを言う。別に、寒い訳じゃない。首を振った理加子は、ますます体を縮め、左右の二の腕を抱き寄せた。
 まだ薬が残っているのか、足元がフラついてしまい、歩くのにやたらと時間がかかる。もたもたしている理加子を、それでも晴紀は、肩を抱いて支えていてくれた。
 「…ほんと、悪かったよ。亜紀の主治医からの電話でさ。また亜紀に何かあったのかと思って出ちまったんだ。まさか、俺が離れてる間にあんなことになるなんて思わなくて…」
 「…いいわよ、別に」
 抑揚なく答えた理加子は、そこで、ふっと自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。
 「なんか、変なの」
 「え?」
 「咲夜さんに、同じことしようとした晴紀が、あたしを助けるなんて」
 「…それは…」
 「…いいよ。あれは、晴紀のせいだけじゃないもん」
 晴紀にそうさせたのは、自分―――咲夜を危険に晒したから、こうして天罰が下ったのだ。いっそ晴紀が助けに来ず、ボロボロにされてしまった方が良かったのかもしれない。
 何食わぬ顔をして、おはよう、と一言挨拶をすれば、両親は理加子のことを、何ひとつ、疑わないのだから。
 それどころか、自分たちが娘に与えた孤独や悲しみすら、理加子が自分から訴えない限り、気づこうとはしないのだから。
 「晴紀も、あたしになんて、そんなに優しくする必要、ないのに」
 理加子が言うと、晴紀は、心外だ、とでも言うように眉をひそめた。
 「んな訳いくか。他の女がどうなろうが知らねぇけど、亜紀の女神様を危険な目になんて遭わせられねぇよ」
 「…アッハ…凄いね。晴紀のその、亜紀ちゃん至上主義。よっぽど亜紀ちゃんが可愛いんだね」
 理加子の言葉に、晴紀の表情が、一瞬強張る。が、今の理加子に、それに気づくだけのゆとりはなかった。
 「あたしも…きょうだい、欲しかったな」
 「……」
 「お兄さんでも、お姉さんでも、弟でも妹でもいい。1人でいいから、いてくれたら…」
 「…俺は、要らなかったよ」
 口の中で晴紀が呟いた言葉に、理加子がようやく気づき、眉をひそめる。怪訝そうに見上げると、その視線に気づき、晴紀は微かな苦笑を返した。
 「リカには、関係ねぇ話だよ。…あ、ラッキー、空車来た」
 ちょうど、空車プレートを掲げたタクシーが、こちら側の車線を流しで走っているようだった。晴紀は理加子の肩を抱いたまま、大きく手を振ってタクシーを止めた。
 「まだ薬抜けきってねーから、1人で乗せるの怖いし、俺もリカの家まで同乗してくよ。それなら眠ってても起こせるし、心配ないだろ?」
 「…家…」
 急速に湧き上がる拒否感に、理加子はぎゅっと両腕を抱き、激しく頭を振った。そして、晴紀のコートの袖を掴み、すがるように叫んだ。
 「家は、嫌っ」
 「え?」
 「あんな家、帰りたくない。お…お願い、家には連れて行かないで…」
 不思議そうな顔をする晴紀に、理加子は、コートの袖を掴む手に、更に力を込めた。


***


 呼び鈴に応えて玄関のドアを開いた優也は、目の前に現れた人物を見て、眼鏡の奥の目を大きく見開いた。
 「リ―――…」
 リカちゃん、という、簡単な名前が出てこない。
 理加子は、見知らぬ大柄な男に抱きかかえられるようにして立っていた。俯いているので、顔を確認するのは難しいが、漂う空気から何やら尋常ではないことが起きたのだと感じられ、優也の背中に寒気のようなものが走った。
 「…悪いな、こんな時間に、いきなり」
 見知らぬ男は、ボソリとそう言うと、腕の中の理加子に「おい、着いたぜ」と声をかけた。それに反応して、ノロノロと顔を上げた理加子の顔を見て、優也はようやく、驚愕の声を上げることができた。
 「リカちゃん…!?」
 理加子の顔は、両頬が赤く腫れ上がっていた。しかも、よく見ると唇の端に、僅かではあるが血の跡のようなものがこびりついている。多分、口の中を切ってしまったのだろう。
 慌てて理加子の様子を頭のてっぺんからつま先まで確かめる。そして、明らかに異常な部分を見つけてしまった。ビリビリに破けて、辛うじて脚に絡まっているだけの、ストッキングの残骸―――何があったのかは想像できないが、何かとても危険なことが起きたと直感的に感じた。
 「…優也…」
 男の手を離れた理加子は、僅かに顔を歪め、1歩、前に踏み出した。危なっかしいその動きに、思わず優也が両手を差し出すと、理加子はのめるようにして優也の腕の中に倒れこんだ。
 「ど…っ、どうしたんだよ!? い、一体何が…」
 「…ドラッグの、影響なんだ」
 気まずそうな男の言葉に、優也は目を剥き、信じられないという顔で彼を見上げた。その目に一瞬怯みつつも、彼はボソボソと、小声で手短に説明した。
 「頭痛がする、ってんで、たまたま持ち合わせてたのを、半分に砕いて―――ケミカルドラッグだから、違法って訳じゃないんだけど、まだ完全には切れてない。半分だけだし、二度と飲ませなきゃ大丈夫だよ」
 「…こ…この、顔は、」
 「…俺が傍を離れた隙に、リカのこと狙ってた男にやられそうになって…幸い、俺が気づいて助けたから体は何もされてないけど、叩かれたみたいで、口ん中切ってる」
 「……」
 「家まで送ろうとしたけど、リカが嫌がってな。じゃあどこに行くんだ、っつったら、ここの住所言ったんで、連れてきたんだ」
 「…そ…そう、ですか」
 混乱しすぎて、話が非日常的すぎて、言われていることの半分も飲み込めない。でも、とにかく、理加子が家に帰りたがっていないことと、優也を頼ってここに来たことだけは、なんとなく理解できた。
 「急で悪いけど、あんたにリカのこと、任せていいかな。俺、表にタクシー待たせたままだし、店戻ってほったらかしにした連中なんとかしないとまずいから」
 「え…っ、あ、は、はいっ」
 「じゃあ」
 俺はこれで、と、口の中で曖昧に別れの挨拶を呟いた彼は、申し訳なさそうな、ちょっと心配そうな目で、チラリと理加子を見下ろした。が、理加子が顔を上げるのを待たずに、早足でその場を立ち去ってしまった。
 ―――もしかして、あれが“ハルキ”って奴かな。
 理加子の取り巻きの名前は“ハルキ”と“トール”しか知らないが、今の男は、理加子が語った“ハルキ”と、なんとなくキャラクターが被っている気がする。あんな危ない奴とまだ付き合いがあったのか―――優也は、理加子を玄関内へと促しながら、思わず眉根を寄せた。


 引き受けたはいいが、どうすればいいかわからず、とりあえず理加子に座るように言い、冷たい水をグラスに注いだ。
 「これ。…他に飲みたいものあれば用意するけど、まずは水飲んだ方が落ち着くと思って」
 「…ありがと」
 両手でグラスを受け取った理加子は、思いがけない勢いでそれをグイッと飲み干した。薬物使用で喉が渇くとかなんとか、確か何かの本で読んだような記憶があったのだが、理加子もかなり喉が渇いていたのかもしれない。
 「あの…暑くない? コート脱いだら?」
 暖房している部屋でコートを着たままでいることが気になり、思わずそう勧める。が、理加子は、一気飲みの後に大きく息を吐き出しつつ、その勧めに首を横に振った。
 「服、酷いから」
 「えっ」
 「破れてて、みっともないから、このまんまでいい」
 「…そ、そう」
 変な汗が滲んでくる。バイオレンスとは無縁に生きている優也にとっては、飛躍しすぎでどう対処すればいいかわからない話だ。
 「心配しないで、いいよ。咲夜さんの時とは、違うから」
 優也の戸惑いを感じたのか、理加子は唐突にそう言い、少し笑みを見せた。
 「トリップしちゃってたから、どこまであたし自身の意思か、自分でもよくわかんないけど…誘われて、いいよ、って言ったの、間違いなくあたし自身だから」
 「…どうして…」
 「…なんか、どうでもよかったの。薬のせいもあるけど、それがなくても―――なんか、全部ぶち壊しちゃえ、って、自暴自棄になっちゃって」
 「何か、あったの?」
 出会った頃ならまだしも、最近の理加子から、そんな自暴自棄な空気は微塵も感じられなかった。昨日会った時だって、あんなにも前向きだったのだから。何か、とてつもなくショッキングなことがあったんだ、と優也は直感的に察した。そして、理加子をたった1日でここまで変えることができるのは―――…。
 「違ってたら、ごめん。もしかして…家のこと?」
 優也の問いかけに、理加子は暫し、空になったグラスを黙って見つめていた。やがて、呟くようにポツリと言った。
 「……離婚、するって」
 「え…っ」
 「ママが、言ったの。パパと離婚を考えてる、って。ずっと、上手くいってなかったんだって。おばあちゃんがいた頃から、ずっと」
 「……」
 「あたし…知らなくて」
 グラスを握る理加子の指先が、白くなる。唇を噛んだ理加子は、力なくうな垂れた。
 「あたしを無視してるけど、パパとママは仲がいいんだ、って…仲がいいから、あたしなんて邪魔にしか思ってないんだ、って思ってて。なのに、違ってたなんて―――あんなにほったらかしにした癖に、今になって“理加子のために離婚は我慢してた”なんて言われて…頭、きちゃって」
 「…うん…」
 「今夜、パパも交えて話し合いましょう、なんて勝手なこと言われて、なんか……もの凄く、腹が立って、悲しくなって」
 「……そう」
 それは―――確かに、きつい。特に、海原家訪問で、家庭というものに対する気持ちが今までよりポジティブになっていたこのタイミングだから、余計に。
 両親が、離婚する。それは、理加子にとって、家族そのものが消えることを意味する。もう大人なのだから理解を示せ、などと言われても、無理な話だ。いくつになろうが、子供にとって、親はいつまでも親なのだから。
 「…なんだったんだろう、うちの家族って」
 理加子の声が、震える。グラスを床に置いた理加子は、滲んできた涙を手の甲で拭った。
 「今更“理加子のため”だの“もっと理加子との時間が作りたかった”だの言われて…だったら、寂しさ我慢し続けたあたしの21年間て、一体なんだったんだろう? 仕事の邪魔にしかならなかった子供の頃とは違って、大人になった今なら、夢に見た家族団らんも取り戻せるかもしれない、少しはあたしの方から歩み寄らなきゃ、って、やっと…やっと思えるようになったのに、今になって、こんな…こんな…っ」
 「リカちゃん…」
 「…なんか、もう、疲れた。死んじゃいたい」
 涙声で呟かれた一言に、優也はギョッとして目を見開いた。
 「だ、ダメだって、そんなこと言っちゃ!」
 「だって…」
 と、その時、またしてもピンポーンと呼び鈴が鳴った。
 反射的に、時計に目をやる。既に午後10時半―――この時間帯に訪ねて来る人間がいるとしたら、蓮だけだろう。
 「ほ…、穂積かな。ちょっと待ってて」
 破滅的な言葉にドギマギしつつも、優也はなんとか笑顔を作り、理加子にそう断りを入れて玄関に向かった。
 ―――なんてタイミングで訪ねてくるんだよ、穂積…。で、でも、穂積が一緒にいてくれた方が、心強いかも。僕1人じゃ、こんなヘヴィーな空気、耐え切れないよ。
 やはり、冷静さを欠いていたのだろう。まだ訪問者が蓮と決まった訳でもないのに、優也はすっかりそのつもりになってしまっていた。そして、あろうことか、相手を確認することなく、いきなりドアを開けてしまったのだった。
 これで、相手が予想どおり蓮であれば、まだ良かった。
 ところが、ドアを開けた先に立っていたのは、全く予想だにしなかった人物―――ある意味、最悪な人物だった。
 「おお、久しぶりだなぁ、優也!」
 「……」
 一瞬、声が、出なかった。
 年季の入ったトレンチコートに身を包み、いかにも出張仕様のブリーフケースを提げた、その人物は、岐阜にいる筈の優也の父だったのだから。
 「お…っ、お、お父さん!?」
 「? 何を驚いているんだ? お母さんが言ってただろう、今週、出張で東京に来るついでに、優也の所にも寄るって」
 そういえば―――みかんのお礼の電話の時、そんなことを言っていたような気がする。にしても、何の連絡もなく、しかもこんな時間に来るなんて、予想できる筈がないではないか。
 「本当はもっと早く来て晩飯を一緒に、と思ってたんだがなぁ…。こっちでの会議が長引いてしまった上に食事まで付き合わされて、まだホテルにチェックインもしてない有様だ。明日も朝一番で客先に出向かなければならないから、この時間にしか来られなくなってしまったんだよ」
 「そんな…そこまで無理して、来なくても良かったのに」
 「何を言ってるんだ。最近、お母さんも全然こっちに来てないだろう? お前はまだ学生なんだから、時々親が様子を見に来てやらないと―――…」
 そこまで言いかけて、ふいに、父の視線が、ある一箇所に釘付けになった。
 「?」
 一体、何を見ているのだろう。不思議に思い、父の視線を追う。すると、父が睨み据えているのは、玄関に揃えて置かれた理加子の靴だとわかった。
 「ああ、実は…」
 友達が来てるんだ、と優也が言うより早く、父は優也の肩をぐい、と押しやり、玄関内へと押し入って来た。そして、部屋の中央でペタリと座っている理加子を見つけるや否や、キッ、と鋭い視線を優也に向けてきた。
 「…ど…どういうことだ、優也」
 「え?」
 「これはどういうことだと聞いてるんだ!」
 ビクリ、と、優也の肩が跳ねる。
 幼い頃から植えつけられ続けたものは、多少の年月で消え失せてくれるものではない。父の怒鳴り声を聞くのは小学校を卒業してからは初めてだというのに、優也の体は、あっけないほど簡単にその声に反応し、怯えたような態度を優也に取られてしまった。
 生理的反応で声を失う優也に焦れたのか、父はその鋭い視線を今度は理加子に向けた。
 ただでさえ極限状態にあった理加子は、初対面の、しかもずっと年上の男にいきなり憎悪の目で睨まれ、真っ青になって震えてた。その理加子の顔を見て、優也を縛り付けていた何かが解けた。
 「そこの君、悪いことは言わない、今すぐここを出て行きなさい」
 「お父さん…!」
 とんでもないことだ。優也は父の腕を掴み、父の目を自分に向けさせた。
 「そんな、勝手な…っ!」
 「何が勝手だ! 男の一人暮らしの部屋にこんな時間に上がりこんで…お前もお前だ! 警戒心が弱いから、こうやっておかしな女につけこまれるんだぞ!」
 「違うって! 彼女はそんなんじゃなくて、僕の友達…」
 「言い訳をするな!」
 「言い訳なんかじゃ…!」
 「―――優也」
 必死に父の誤解を解こうとする優也の耳に、やけにはっきりと、理加子の声が聞こえた。
 ハッとして振り返ると、理加子は既に立ち上がり、玄関へと向かっているところだった。優也と目が合うと、彼女は、酷く寂しそうな笑みを浮かべた。
 「…帰るね」
 「え…っ、で、でも、リカちゃん…」
 「ごめんね、迷惑かけて。…じゃ」
 「リカちゃん!」
 呼び止める優也の声を振り切るように、理加子は急いで靴を履き、どことなくおぼつかない足取りで優也の部屋を出て行った。
 ―――か…帰る、って…家に?
 まさか。そんな筈はない。あれほど追い詰められているのだ。今、このまま帰したら―――嫌な想像が頭の中を一気に駆け巡り、優也は思わず身震いした。
 「待って、リカちゃん…!」
 「優也!」
 慌てて後を追おうとする優也を、今度は父が腕を掴んで引き止めた。
 「よしなさい、優也!」
 「でも…!」
 反論しようとする優也だったが、父は必死の形相で優也の両肩を掴み、ガクガク揺さぶらんばかりの勢いで迫った。
 「一体、どうしたっていうんだ、優也…! あの美代子ちゃんならまだしも、まさかお前がこんなことになるなんて」
 「美―――…」
 何故、ここで、従姉妹の美代子の名前が出るのか―――本気で一瞬理解できなかったが、親が東京の美代子の部屋を訪ねたら男が出てきて大騒ぎになった、という話を以前聞いたのを思い出し、カッと頭に血が上った。
 「だから…! リカちゃんは、そんなんじゃないってば! 言い訳じゃなくて、本当に僕の友達なんだよっ!」
 「なあ、優也、しっかりしてくれ」
 優也の声など、まるで届いていないのだろうか。父は、すがるような声でそう言い、よりきつく優也の肩を掴んだ。
 「お前は心根が優しいから、ずうずうしい輩を突っぱねるようなことができないのかもしれない。でも、昔からずっと言ってきただろう? 付き合う人間はちゃんと選べ、と。お前はまだ学生だ。将来、立派な人間となるために、今は勉強に集中しなくてはいけない身なんだ。わかるだろう?」
 「……」
 「お前に限って間違いはないだろうと、あまりうるさく言わずに自由に一人暮らしをさせているんだ。父さんも母さんも、お前を信じてるんだよ。なのに、」
 「―――嘘だ」

 低い、声だった。
 優也自身、自分の声とは思えないほどに。低い、地を這うように低い、ズシリとした重みを持った、声だった。

 体が、震える。でもそれは、父に対する恐怖のせいではない。
 怒りのせいで―――生まれてから20年、ずっとずっと抱え続けた、怒りのせいで。あまりに慣れ親しみすぎて、それが怒りであることに、優也自身、この瞬間まで気づくことができなかった、怒りのせいで。
 常にない優也の声に、父が、ハッとしたように言葉に詰まる。奥歯を噛み締めた優也は、ゆらりと顔を上げ、怒りに全身を震わせながら父の顔を見据えた。
 「嘘だ」
 「…ゆ…」
 「嘘だ…嘘だ、嘘だ、嘘だ! お父さんが僕を信じてるなんて、嘘だっ!!」
 一体、優也の体のどこに、こんな声が眠っていたのだろう?
 あまりの剣幕に、父の顔は、超常現象でも目撃したかのように血の気を失い、その目は大きく見開かれていた。嘘じゃない、本当に信じてる、と言いたいのはわかるが、口をパクパクするばかりで、それは声になっていなかった。
 「お父さんは、僕のことなんて、一度も信じてくれなかった」
 「何…」
 「ちゃんと勉強してるのに、僕の顔を見れば“しっかり勉強しなさい”。ライバルに負けないように予習復習も欠かさないのに、“いい点をとったからって油断するな、すぐ追い越されるぞ”。仲良くなった子は必ず紹介するようにしてるのに、“おかしな人間と付き合うんじゃないぞ”。…いつもだよ。いつだって僕のことを信用してない。信用して欲しくて、周りのみんなから“ガリ勉”とか“真面目すぎ”とか言われても、お父さんやお母さんの言うとおりに“いい子”をやってきたのに―――どんなに、どんなに、どんなにどんなに僕が努力しても、お父さんは僕に、勉強しろ、いい子にしろ、って言う。まるで、命令し続けないと僕がサボるとでも思ってるみたいに。いつも、いつも、いつも」
 「ち…、ちが、」
 「違わないっ!」
 父の反論を封じると、優也は、両肩に乗った父の手を、体を捩るようにして拒絶した。外れた両手に、傷ついたような表情が父の顔に一瞬浮かぶ。けれど優也は、両手の拳を握り締め、父に挑みかかった。
 「だって、今も信じてくれなかったじゃないか…!!」
 「……っ、」
 「リカちゃんは、友達なのに―――東京に来てからずっと友達がいなかった僕の、たった2人しかいない友達の1人なのに。なのに、リカちゃんが女の子だってだけで、お父さんは僕の言葉を信じてくれなかった。信じないで、リカちゃんを追い出したんだ」
 「…ゆ…うや…」
 「どうするんだよ…っ」
 優也の目に、涙が浮かんだ。
 「元々リカちゃんは、両親とコミュニケーションとれないまま育って、そのことで心に傷を負ってたんだ。お父さんやお母さんが大好きな、“立派な会社に勤めてるご両親”だよ。その立派なご両親のことで、リカちゃんは悩んでたんだよ。しかも、その両親が離婚するかもしれない、って話を聞いて―――凄いショックを受けて、自暴自棄になりかけて、そのせいで酷い目に遭って……ボロボロになりながら、僕を頼って訪ねてきてくれたんだ。僕を信頼して、僕を相談相手に選んでくれたんだよ…っ!」
 「……」
 「それを、お父さんが追い出したんだよ!? 死にたい、とまで言ってたリカちゃんを…! どうするんだよ!? もし、リカちゃんに何かあったら…!!」
 愕然とした父の表情にも、胸は痛まなかった。
 そんなことより、最悪の事態を想像して、全身に鳥肌が立った。駄目だ。こんなことをしている場合ではない。優也は、ぐい、と拳で涙を拭い去り、踵を返した。
 「おい、優也!」
 「―――もし、リカちゃんが本当に死んじゃったりしたら、」
 呼び止める父を振り返らず、優也は、怒りに震える声で、きっぱりと言い放った。
 「僕は、一生、お父さんを許さないから」


 部屋を飛び出した優也は、アパート前の道路に出た所で、理加子の姿を探してキョロキョロと何度も左右を確認した。
 街灯があるとはいえ、ずっと部屋にいて暗さに慣れていない優也の目では、見通せる距離は限られている。いない―――落胆した優也は、とりあえず、駅の方向へと走り出した。
 ―――ごめん、リカちゃん。僕がお父さんにきっちり言い返せなかったせいで…。
 追い詰められた精神状態の中、こんな自分を頼ってくれた理加子を、あんな形で帰してしまった。そのことが、悔やんでも悔やみきれない。頼むから、まだ近くにいてくれ―――祈るような気持ちで、優也はトレーナー姿のまま、必死に走った。
 すると。

 「秋吉!」
 行く先の方で、蓮の声がした。
 優也の目では、まだ蓮の姿は見えない。でも多分、優也より目のいい蓮には、既に自分の方へと走ってきている優也の姿が見えたのだろう。
 「穂積…!?」
 歯を食いしばり、少しだけスピードを上げる。ほどなく、切れかかった街灯の傍に、蓮の姿を見つけることができた。
 「穂積っ! い、今、こっちに、リカちゃんが…」
 肩で息をしながら優也が訊ねかけると、
 「知ってる」
 蓮は苦々しい声でそう言い、優也を促すように、親指で自分の背後を指し示した。
 見るとそこには、困惑顔の奏と咲夜の姿と―――奏に抱きついて声もなく泣いている理加子の姿があった。


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