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まるで親鳥と雛だ。
奏にしがみついて泣く理加子を目にして、咲夜が真っ先に思ったのは、何故かそんなことだった。
確かに、恋愛感情も、あるにはあるだろう。けれど、理加子の奏に対する感情の大半は、異性に対するそれとは少し違うのかもしれない。ちょうど、卵の殻を破った雛が、最初に目に入った動くものを“親”と認識して懐いてしまうように、理加子もまた、初めて自分と真正面から向き合ってくれた奏を、一種の“親”のように認識しているのかもしれない―――と。
「秋吉!」
蓮の声に、我に返る。突然の事態に呆けていた奏と咲夜は、視線を蓮の方へと向けた。
見れば、随分慌てた様子の優也が、バタバタとこちらに駆けてきていた。シチュエーションから見て、恐らく、理加子を追って走って来たのだろう。
「穂積っ! い、今、こっちに、リカちゃんが…」
「知ってる」
蓮に促され、優也の目がこちらを向く。
奏にしがみついている理加子を見つけ、優也はほんの一瞬だけホッとしたような顔をした。が、奏と理加子の間にあった事を思い出したのだろう。次の瞬間には、その顔に別の意味の焦燥の色が浮かんだ。
「す…っ、すみません! か、彼女、ちょっと今情緒不安定でっ」
あたふたとした「すみません」は、咲夜に向けられたものだった。まあ確かに、自分の目の前で、恋人が女に―――しかも失恋済みとはいえ恋人に想いを寄せている女に抱きつかれているのだから、面白くなくて当然だ。でも幸いなことに、咲夜の胸の内に、そういった不快感はあまりない。苦笑した咲夜は、やけに恐縮した様子の優也に軽く首を振ってみせた。
「どう見ても、会えたのが嬉しくて泣いてる訳じゃなさそーじゃん。訳アリっぽい様子なのに、目くじら立てるつもりないよ」
「…少し位、目くじら立てろよ」
不服そうな奏のセリフに、思わず笑ってしまいそうになる。が、優也や理加子の様子から察するに、あまり笑っていられる状況でもなさそうだ。
「何か、あったの?」
咲夜の問いかけに、優也は困ったような顔になり、理加子の背中をチラリと見た。勝手に事情を説明していいものか、と躊躇っているらしい。
「…昨日、ご両親のことでトラブルがあったみたいで」
「トラブル?」
「具体的なことは、リカちゃんの家の問題だから、僕からはちょっと…」
その一言で、どうやら単なる親子喧嘩ではなさそうだな、と直感した。もしかしたら、金銭トラブルや夫婦間の問題などの、あまり外聞のよろしくない事情なのかもしれない。別に言わなくていいよ、という意味をこめて、咲夜は頷き、先を促した。
「…そのトラブルのことで、リカちゃん、少し自暴自棄になってて―――家に帰りたくなくて、取り巻きの人たちとさっきまで一緒にいたみたいなんですけど、そこでも色々あったみたいで」
「取り巻き―――あいつらか」
奏の表情が、一瞬で険しくなる。それに気づいた優也は慌ててフォローを入れた。
「あ、あの、でも、リカちゃんを僕の所まで送ってくれたのも、取り巻きの人の1人ですから」
そんな献身的な真似をするのは、理加子の話を聞く限り、ハルキ以外にはいない。それは多分、奏にも察することができたのだろう。フォローを入れた筈が、逆に眉間の皺を増やす結果になった上に、見れば、ずっと黙ったままの蓮も、やけに渋い顔をしていた。
2人がこういう反応になるのも、例の薬物混入事件に関わってしまったせいなのだろう。確かに、社会的モラル面では「しょーもない奴ら」なのは確かだが、理加子の力になろうとしているその気持ちは本物だろうに―――そう思うと、被害者の立場とはいえ、少々責任を感じないでもない。
「多分事情も知らないだろうに、頭ごなしに自宅に連れて行かなかったんだから、エライじゃん」
私怨含みで不機嫌になる奏を、咲夜がそう言って肘で小突くと、奏もしぶしぶ「まぁな」と相槌を打ち、蓮も気まずそうに視線を逸らした。
「で? 駅に向かってたってことは、リカちゃんは家に帰る気になった訳?」
「あ、いえ、それが…」
優也が言い難そうに答えようとした時、
「―――…もう、いい」
ずっと奏にしがみついたままだった理加子が、涙声でそう言いつつ、顔を上げた。そして、クルリと振り返ると、突然の言葉に怪訝そうにしている優也に向かって、掠れた声で告げた。
「もう、いいよ、優也。いいから、早く戻って」
「そ…そんな訳にはいかないよ。こんな危ない状態のリカちゃんを放り出して戻ったって、」
「リカなんかのために、優也にお父さんと喧嘩させたくないもん」
優也を遮って理加子が放った言葉に、優也の顔色が変わった。
「それは―――僕と、お父さんの問題だよ。リカちゃんには関係ない」
「でも、お父さんが怒ったのは、リカのせいだもん。…あんなに優也のこと大事に思ってるお父さんなのに、リカのせいで…」
「違うっ! そんなんじゃない、あれは…っ」
「秋吉のお父さんが、来てるのか?」
感情的になりかけた優也を制するかのように、やけに冷静な声で蓮が訊ねた。その声に勢いを削がれたかのように、優也は急にトーンダウンした様子で曖昧に頷いた。
「う…ん、出張がてら、様子を見に、って…ついさっき」
「もしかして、まだ部屋で待ってるのか?」
「…さあ、どうかな。別にいいじゃないか、お父さんのことは、どうでも」
あまり父のことに触れたくないのか、優也は珍しく苛立った様子でそう吐き出した。
優也の父のことは、咲夜もあまりよく知らないが、相当厳しく高圧的な人物だとは聞いているし、優也がいまだに部屋を暗くして眠れないのは、子供の頃に罰として真っ暗な押入れに何度も閉じ込められたせいだということも知っている。なるほど―――今のこの状況に至る経緯がなんとなく想像でき、咲夜だけではなく、奏や蓮も納得した顔になった。
―――あの優也君が、お父さんとやりあってでも追いかけてきたってことは、見た目以上にヤバイ状態なんだろうなぁ…。
パッと見、泣いてはいるがさほど危険な精神状態とも思えない理加子だが、もしかしたら優也は、見た目ではわからない事情を理加子から聞いているから、その危険度が正しく理解できているのかもしれない。ちょっと考えた末、咲夜は、努めて明るい調子でこう言った。
「おっけー。それじゃ、リカちゃんは私らに任せて、優也君はもう戻んなさい」
「え…っ」
唐突な言葉に、優也だけでなく、理加子も目を丸くした。
「そ、そんな、咲夜さんに迷惑をかける訳には…」
「ノンノン、こーゆーことは、そーゆー発想で臨んじゃあダメダメ」
そう言って人差し指を振ってみせた咲夜は、優也と理加子の顔を交互に眺め、ニッ、と笑った。
「まず第一に、私は家出経験豊富で、かつ、家出続行中の身であること。第二に、感動的なまでに互いを理解できてない親子関係にあること。第三に、リカちゃんの取り巻き連中とまんざら知らない仲でもないってこと。…どう考えても、私をおいてリカちゃんのフォローに回れる人間、いないと思わない?」
「……」
「躓いて転んだ回数だけ擦り傷もあるけど、こういう場合はそれも勲章だよね」
あっけらかんと放った咲夜の言葉に、奏がぼそっと「ものは言いようだな」と呆れ気味の突っ込みを入れた。けれど、以前とは違い、咲夜が理加子に関わることを頑なに拒むような様子はなさそうだ。ホッとした咲夜は、まだ呆けている優也をよそに、理加子の顔を覗き込んだ。
「って訳で―――リカちゃん、夕飯食べた?」
「えっ。…う、ううん、まだ…」
「じゃあ、とりあえず、なんか食べよう。私も何かあったかいもん飲みたいし―――奏、ファミレスがいいかな。それとも向こうのカフェ?」
「ファミレスの方が近いから、そっちでいいんじゃない?」
「あ、あの…」
この展開についていけない様子の優也は、理加子のことをよりによって咲夜に頼むということにまだ納得できないらしく、なんとか自分がこの場を収めようとオロオロしていた。そんな優也を見かねたかのように、蓮が優也の肩をポン、と叩いた。
「行こう、秋吉」
「でも」
「咲夜さんの言うとおり、実践的な相談に乗るなら、俺たちより大人の2人の方がいいよ。それに、そんな格好であんまり外にいたら、風邪ひくし」
蓮に指摘されて初めて、自分の薄着姿に気づいたのか、優也は返事をするかのように小さなくしゃみをひとつした。あまりのタイミングのよさに、蓮だけでなく、奏や咲夜まで思わず苦笑してしまった。
「心配するなよ、優也。家に帰らせるにしろ、一晩どっかに泊まらせるにしろ、ちゃんとリカの話を聞いた上で判断するから」
最も理加子にわだかまりのあった奏の口からそう言われたのが駄目押しになったのだろう。優也はやっと納得した顔になり、まだどことなく呆けた様子の理加子の方を見、済まなそうに眉をひそめた。
「…ごめんね、リカちゃん。せっかく来てくれたのに、何の力にもなってあげられなくて」
優也のその言葉で、やっと我に返った理加子は、慌てたように首を横に振った。
その動きに掻き消されてしまいそうなほど小さな「ありがとう」という言葉に、優也の顔に、やっと笑みが戻った。
***
意識しだしたら、2月の夜の寒さがやけに身に沁みる。トレーナー1枚のみに包まれた腕をさすりつつ、優也は思わず背後をチラリと振り返った。
「本当に良かったのかなぁ…」
「…秋吉…」
まだ言ってるのか、と呆れたように呟く蓮に、優也は僅かに口を尖らせた。
「だって、クリスマスイブから、まだ2ヶ月ちょっとだし…。あの時あんなに怒った一宮さんだから、内心凄く怒ってたりしないかな?」
「本人たちが“構わない”って言ってるんだから、それでいいじゃないか」
「…まあ、そうだけど」
「それに、あいつのフォローは他の人間でもできるけど、秋吉の親父さんのフォローは、秋吉にしかできないだろ」
「……」
父のことを思い出し、優也の表情が曇った。
優也が父に逆らったのは、これが初めての経験だ。母には幾らか反論したことはあったが、父は優也にとって、逆らうことの許されない絶対の存在だったから。
さぞや、父は驚いただろう。でも、驚いたのは、優也自身も同じことだ。まさか自分が、あの父に逆らって大声を上げる日が来ようとは―――こんな自分によくそんな真似ができたな、と、自分でも信じられない思いだ。これからどうすればいいのだろう? 初めて故に、父と顔を合わせることを考えただけで、胃がキリキリ痛む。
―――多分、かなり怒ってるだろうな。ショック受けたような顔してたし…。ちょっと言いすぎな部分は確かにあったかも。
でも、自分は絶対、間違っていない。そこだけは、確固たる思いが、優也にはあった。
理加子が友達であることは、さほど重要ではない。彼女が何者か、何故そこにいるのかを知ろうともせず、問答無用で追い返した。息子を信じず、下劣な想像に基づいて一方的に理加子を詰った。そのことが、優也にはどうしても許せない。
もし理加子が、犯罪に巻き込まれて優也の部屋に逃げ込んできた被害者だったら、一体どうする気なのだろう? 体調不良で倒れかけていた優也を送り届けてくれた親切な人だったとしたら? 追い出した後から真相を知って悔やんでも遅いというのに―――たった一言、訊ねるだけで済む話なのに。
美代子は、どうだったのだろう―――ふいに、昨年の夏、親戚の噂話のネタにされていた従姉妹のことを思い出した。父の兄弟は、揃って似たような価値観の持ち主たちだ。美代子の親も、美代子に碌な説明も許さないまま、ああやって激昂したのではないだろうか。…だとしたら、美代子も可哀想だ。
「そんな、処刑台に向かうみたいな顔、するなよ」
優也の横顔を見て、蓮が困ったようにそう言う。そこまで陰鬱な顔をしていた自覚のなかった優也は、思わず顔を赤らめ、焦ったように余計腕をさすった。
「そ…っ、そういえば穂積、どうして一宮さんたちと一緒にいたの?」
決まりの悪さを誤魔化すため、優也がそう訊ねると、蓮は一瞬、不意打ちを食らったような、うろたえた顔をした。が、すぐに平静な顔に戻り、言い辛そうに口を開いた。
「うん…“Jonny's Club”で、会ったんだ」
「咲夜さんのお店? 珍しいね」
「…いや、あんまり珍しい訳でも…」
複雑な表情でそう言いかけた蓮だったが、何かに気づいたのか、ハッとしたように立ち止まった。
優也も、蓮につられて、立ち止まる。そして、蓮の視線を追いかけるようにして前方に目をやって―――何を見て蓮が立ち止まったのか、それがすぐにわかった。
「……」
優也の緊張感が伝わったみたいに、エントランス前に佇んでいた人影が、こちらを向いた。
息子の姿をそこに見つけ、父の顔に安堵の表情が浮かぶ。が、すぐに、優也の隣に誰かがいることに気づき、少し戸惑ったような表情に変わった。
「…親父さん?」
蓮が小声で、ボソリと訊ねる。蓮の方へとチラリと目を向けた優也は、うん、と小さく頷き、意を決して1歩踏み出した。
―――べ…別に、怖がることも恥じることもないんだから。僕は、堂々としてていいんだから。
そう思いはするものの、常に父に従順でいた優也が、生まれて初めてあれだけの啖呵を切ったのだ。どれだけ自分に言い聞かせても、踏み出した足は、鉛よりも重たく感じられる。一体、何といって声をかければいいのか―――迷いながら3歩踏み出した時、予想外のことが起きた。
優也の肩を軽く叩き、蓮が、優也の倍の速さで前に出たのだ。
突然のことに少々うろたえつつも、父の目は、前に出たことでよりはっきり確認できるようになった蓮の姿を、上から下まで軽く一瞥した。その表情の微妙な変化で、父が蓮に対して、あまりいい印象を抱かなかったことがわかる。多分、いかにもシャレた感じの今時っぽい服装(といっても父は今時の流行など知らないので、イメージだけだろう)とピアスが原因だろう。父の考えが一瞬で透けて見えてしまった気がして、優也は不愉快さに思わず眉根を寄せた。
そんな親子の胸の内など知らない風で、父の前に立った蓮は、
「秋吉の、お父さんですか」
と訊ねた。そのはっきりした声と背筋を伸ばし両手を両脚の横につけた姿勢は、多分、父の蓮に対する第一印象とは大きく異なっていたのだろう。父の目が、少し意外そうに丸くなった。
「そうですが…あの、そちらは」
「はじめまして。秋吉の同期の、穂積といいます」
そう言うと、蓮は、手本になるほど深々と頭を下げた。えっ、と声に出しそうになった父は、説明を求めるように優也の方を見た。
…まあ、優也自身、最初に蓮と会った時は、「なんだか怖そうだな」と怖気づいてしまったのだから、父の困惑を責める資格はないかもしれない。気まずさで、答える優也の声は、蓮に比べてやけにボソボソしたものになってしまった。
「…お母さんから聞いてないかな。同じゼミに在籍してて、うちのアパートの2階に住んでるんだ」
「ああ…、あの」
一応、母からそのことは聞いていたらしい。居住まいを正した父は、改めて蓮に頭を下げた。
「優也の、父です。息子がいつもお世話になっております」
「世話になってるのは、俺の方です。このアパートを紹介してくれたのも、秋吉ですから」
穏やかにそう言うと、蓮は優也を振り返り、来いよ、と目で合図した。
―――もしかして、きっかけ作ってくれたのかな。
兄や幼馴染との間にトラブルを抱えていた蓮だから、大喧嘩をした直後で父と話す糸口を見つけられずにいた優也の心境を察してくれたのかもしれない。いや、そうではなく、単に自己紹介がしたかっただけだったとしても、蓮が間に入ってくれたことで、優也も、そして父も、強張っていたものが少しだけ緩んだのは確かだ。
優也が蓮の合図に応じて前に出ると、蓮は安堵したように僅かに微笑んだ。
「親父さん来てるんじゃ悪いから、“Jonny's Club”の話は、また明日、報告するよ」
「うん。なんか、ごめん。リカちゃんのこととか、あんまり詳しく説明しないまま、巻き込んじゃって」
済まなそうにする優也に、蓮は「いいよ」と苦笑し、手を振った。そして、父に向かって「じゃあ、失礼します」と会釈すると、足早に階段を駆け上がって行った。
「…礼儀正しい子だな」
蓮の背中を見送りながら、父が呟く。第一印象が良くなかった分、その意外な折り目正しさが何割増しかされたのだろう。
「子供の頃から、上下関係厳しい部活に入ってたからじゃないかな」
「ふぅん…そうか」
「…あの、ホテルのチェックインの時間とか、大丈夫なの?」
旅行などしたことがないのでその辺の常識がよくわからない。少し心配になって訊ねると、父は気まずそうにしつつも「大丈夫だ」と答えた。
「じゃあ―――お、お茶でも淹れるから、とりあえず戻ろう?」
「…そうだな」
優也の言葉に、父も頷く。なんともぎこちない空気を漂わせつつも、2人は優也の部屋へと戻った。
優也がお茶の仕度をする間、父は何故か、無言だった。
―――や…やりにくいなぁ…。
もっとも、あんな大喧嘩の後に普通にペラペラ喋る方が、よっぽど不自然というものだが―――黙り込む父の気配を背中に感じながら、優也は、一旦は治まりかけた緊張感がじわじわと頭をもたげてくるのを感じた。
ようやく父が口を開いたのは、お茶を淹れ終え、優也が湯呑みを父の前に置いた時だった。
「さっきのあの女の子は、どうした?」
コトン、という湯呑みを置く音に被さるように、父の遠慮がちな言葉が零れる。
「まさか、見失ったんじゃあ…」
冷静になって初めて、自分が追い出す形になってしまった理加子のことが心配になったらしい。一応は反省したらしい父の様子に、優也は顔を上げないまま首を振った。
「それは、大丈夫。幸い、帰ってくる途中だった穂積たちにぶつかって、僕も追いつけたから」
「そ、そうか。…で、今は?」
「穂積と一緒に帰って来た人たちが、話聞いてくれてる。元々リカちゃん、その人たちの知り合いだったし、僕らと違って社会人の大人だから、かえって良かったかもしれない」
「しかし…親御さんも、心配しているんじゃないか? まだ若い女の子が……もう11時になるぞ」
「…他人の家の事情は、わからないよ。お父さんが思うような親ばっかりじゃないだろうし…」
家庭の数だけ、それぞれの事情もある。子が親を慕い、親が子を心配する、普通の関係―――それを想定した“常識”など、そこから逸脱した家庭には無意味なものだ。極端な話、子供を虐待しているような親を持つ子に対して「家へ帰れ」と言える大人などいないだろう。勿論、理加子の両親はDVなど働いてはいない。が、少なくとも優也は、彼らがどの程度娘の不在を心配しているか、甚だ懐疑的だ。
「でも…大丈夫。あの人たちなら、ちゃんとリカちゃんの話を聞いて、リカちゃんを納得させた上で、適切なアドバイスをしてくれると思う」
「…そうか。それならいいんだが…」
父はそう言うと、暫し、また黙り込んだ。
優也も黙り込み、父の向かいの席に腰を下ろすと、自分の分の湯呑みを口に運んだ。お茶の用意の間に幾分体は温まっていたが、冬の夜の冷気で骨の芯まで冷え切っていた体には、淹れたてのお茶の温かさが沁みていくようで心地よかった。
そうして束の間、お互い無言のままお茶を飲んでいたのだが。
「―――別に、お前を信用してない訳じゃないんだよ」
唐突に、父がそう、切り出した。
何のことを言っているのかは、明白だ。思わず顔を上げた優也は、テーブルの端を見つめる父の顔を、真っ直ぐ凝視した。
「お前はよく勉強してたし、父さんや母さんの言いつけも守ってた。お前に、何か不足があった訳じゃない。お前が満足な努力をしてないからとか、言い続けなければ努力を怠ると思ってるから、口煩く言い続けた訳じゃないんだ。どう言えばいいのかな―――そう、一番近いのは、後悔のせい、かな」
「…後悔?」
「実は父さん自身、高校時代、好奇心から少々羽目を外してしまった時期があってね」
―――お父さんが?
そもそも、父の高校時代、というのが想像できない。が、それ以上に、父の羽目を外した姿というのは、もっと想像できない。目を丸くする優也に、ほんの少し目を上げた父は、気まずそうに苦笑した。
「羽目を外した、といっても些細なことだったが、学年1位を維持すること以外興味のなかった父さんにとっては、刺激的な経験だった。親からも注意はされたが、仲間といる方が楽しくて、つい勉強が疎かになって―――まずいことに、大学受験を目前にして、成績が落ちてしまった」
「え…っ」
「…本当は、優也と同じ大学を目指してたんだよ。父さんも。でも、後悔しても、もう遅い。確かに、中部圏ではトップクラスの大学に合格はでき親からも親戚からも立派だと褒められたが、望んだだけの達成感は得られなかった。一番のライバルだったクラスメイトは合格して自分は落ちた―――悔しくて泣いたのは、あの時が初めてだったなぁ…」
「……」
「大学院に進まなかったのは、確かに経済的な理由が大きいが、受験での失敗で何かが切れてしまった部分もあったと思う。働いて学費を稼いででも研究を続けたい、と思えるだけの情熱が持てなくなってたんだよ」
それは、優也にもわかるような、わからないような、なんとも微妙な感じのする話だった。
数学者になりたかった父。でも、本当に数学が好きなのであれば、どの大学で研究するか、という点はそれほど大きな問題ではないだろう。勿論、より設備が整った大学がいい、と思うのは当たり前の感情だが、それでも中部圏のトップクラスだ。他の人間から見たら羨ましい環境と言える。そんな環境に身を置きながら、そこが第一志望の大学ではないという、ただそれだけの理由で、数学者になりたいという夢を維持できなくなるなんて―――それは本当に、夢と呼べるのだろうか?
つまり、父にとっては、数学者になるという夢と希望の大学に通うという夢を天秤にかけた場合、後者の方がかなり重かった、ということなのだろう。そういう人間が案外多いことは優也もよく知っているし、自分にも多少なりともそういう部分があることも十分自覚している。
「お前には、同じ思いはさせたくないと思ったんだ」
「……」
「自分と同じ間違いを起こさせてはいけない。少年時代の好奇心も、親に対する反発心も、みな自分が経験したことだからこそ、同じ失敗を繰り返さないよう、注意し、導いてやらなくてはならない。家の経済的事情で諦めた道もあったからこそ、お前に同じ理由で諦めさせるようなことがあってはならない。優也にだけは、何の失敗も、何の不安もなく、自分の望む道を迷わず歩めるようにする―――それが親の、先に生きてきた大人の役目だと思ったんだよ」
「……」
「…行き過ぎなところはあったかもしれないし、慎重すぎてお前には煩く感じた部分もあったかもしれない。でも、お前を信用していないからでは、決してない。それだけは、信じて欲しいんだよ」
やはり、父にとって、「嘘だ」という優也の言葉は、それほどまでにショックだったのだろうか。自分の真意をわかって欲しい、と訴える父の目は、これまで見たこともないほど、真摯で必死なものだった。
父の視線を、こんなに真っ直ぐ受け止めるのは、もしかしたら初めてかもしれない。慣れない緊張感に、優也の喉がゴクリと鳴った。
「…お父さんの言うことも、少し、わかるよ」
慎重に言葉を選びつつ、優也はそう切り出した。
「確かに僕は、お父さんやお母さんが“付き合っていい”と言った人とだけ付き合って、“見ていい”と言ったテレビだけ見て、“行っていい”と言った所にだけ行って―――だから、ガキ大将に苛められて泣くこともなかったし、友達と喧嘩して怪我することもなかった。授業についていけなくて悩むこともなかった。ライバルに抜かれて悔しい思いもせずに済んだ。もっと勉強すればよかった、なんて後悔も経験したことがない。だから…お父さんの言うことも、間違いじゃないのかもしれない」
間違いじゃない、と思う部分があったから、反論できなかった。
父の前では、優也はいつだって父の言葉を聞くだけの存在だった。異論を唱えようにも、反論できるだけの意見が自分の中にないのだから、ただ黙って父の言うとおりにする以外なかった。
でも、今は。
様々な人に出会い、様々な体験をし、この世の正解は決して1つではないことを痛感した、今は―――…。
「…僕が転んで怪我をしないように、道を均して小石を拾って僕の手を引いてくれた、そのことは、ありがたいと思う。本当に。けど…」
一旦、言葉を切った優也は、きゅっ、と唇を噛み、改めて父の目を見据えた。
「けど、お父さん。躓いて転んだことのない僕には、今、転んで怪我をしている人の痛さが、わからない」
「……」
「目の前に続いてる道が、でこぼこで岩や石だらけの険しい道だった時、その道をどうやって通ればいいか、その方法がわからないし、みんなが簡単にまたげる小石が、僕にはまたげない。その石に躓いて、転んで……でも、そこからどうやって1人で立ち上がればいいのか、その方法が、わからないんだ」
父の瞳が、動揺したようにグラついた。
それは、ついさっき咲夜が口にした言葉を借りた、優也なりの比喩。けれど、父にも十分理解できたらしい。父が優也に求めているものと、優也が望むもの、そのはっきりとした違いが。
「僕は、“転ばない人間”じゃなく、“転んでも自力で立ち上がれる人間”になりたいんだ」
「優也…」
「だから、まだ転んでもいないうちから、転ばないように転ばないようにって必死に僕の腕を引っ張るお父さんの手が、少し…苦しくなってきたんだと思う」
そこまでやっと言い終えた優也の目に、何故か、涙が滲んだ。反射的に俯いた優也は、そのまま、父に頭を下げた。
「…さっき…手、振り解いたりして、ごめんなさい…」
父も一方的だったが、優也も一方的に、父を責めた。あの時の怒りは、間違っていない。けれど、父の気持ちを考えなかったのは、優也だって同じだ。
「―――バカ。謝ったりするな」
どことなく照れの混じった声でそう言うと、父は優也の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そんなことをされるのは、優也の知る限り、これが初めてだ。俯いたまま、優也は思わず目を丸くした。
顔は、上げられない。
上げてしまったら、父も、そして優也も、いつもの父と優也に戻ってしまう気がした。
「父さんだって、さっきのこと、謝るつもりはないぞ。今回は深い事情があったようだから、話も聞かず怒鳴ったことは反省する。でも、やっぱり、こんな時間に女の子を部屋に上げることには反対だ。お前にやましい部分がなくても、世間がそう認めてくれるとは限らないからな」
「…うん」
「それと―――いくらそれが必要な試練でも、転んで傷ついている息子を黙って見ていることしかできないのは、辛いもんだ。できれば、転びそうになっても踏みとどまってくれ。そうできる位には、優也がもう十分大人になったことは、父さんにもよくわかったから」
嬉しかった。
100点を取って褒められた時より、大学に受かって褒められた時より、今の言葉が一番、嬉しかった。
もう自分は、父や母が用意した道を、両親に手を引かれながら歩くことしかできなかった、かつての自分とは違う。いろんな道を、もう1人で歩けるのだと―――そこに多少の小石やでこぼこがあっても、転びそうになったら両腕を広げてなんとかバランスを保てるのだと、父から認められたから。
―――…マコ先輩。
マコ先輩に、謝らなくちゃ。
まだ、気持ちの整理はつかないし、喧嘩をするほど友達と深く関わったことのない優也は、仲直りの仕方なんてわからない。でも、わからないなりに、謝罪の気持ちを伝えてみようと、優也はやっと思うことができた。
生まれてから20年、決してもらえることのなかった言葉を父から勝ち取ったことを考えたら、あの真琴にがむしゃらに頭を下げること位、大したことではない―――そんな風に、思ったのだ。
***
―――なんだか、妙なことになっちゃったなぁ…。
キュッ、とシャワーの蛇口を閉めた理加子は、タイル張りの壁にコツンと額をつけた。
見慣れない壁。見慣れない床。今、理加子がいるのは、自宅の浴室ではない。あろうことか―――咲夜の家の、浴室だった。何故こういうことになったのか、経緯を順序立てて思い出せば不思議ではないのだが、咲夜の部屋に一晩ご厄介になるという、その事実だけで、理加子の頭は混乱する。なんで自分に、そんなことが許されるのだろう、と。
そもそも、ファミレスでの注文を終えた直後、咲夜が放った一言が、秀逸だった。
『んで? 何があったって? 離婚? DV? 浮気? 実は橋の下で拾われた子供でした、って展開? 意外な路線で、借金取りにでも家を乗っ取られたとか?』
思わず「1番目のやつです」と答えてしまいたくなったが、現実には、理加子はポカンと口を開けているだけで精一杯だった。唖然とした気分からほんの少し立ち直った後、咲夜に向かって文句を言った。
『ひ…、人の不幸を、そんなあっさり、簡単に言わないでくれる!?』
『不幸? あー…、不幸ねぇ…。まあ確かに幸せじゃあないだろうけどさ、』
“とりあえず、死んだ訳じゃなけりゃ、やる気次第で何とでもなるんじゃない?”
…反論する気が失せた理加子は、気乗りのしないまま、ぽつぽつと話し始めた。
気にもかけていなかった筈の理加子を、これまで離婚しなかった理由として挙げられ、腹が立ったこと。もうやり直しはきかないのだ、と落胆したこと。どうせバラバラなのだから壊れたっていいじゃないかとも思ったこと。そして…やっぱり、離婚なんてして欲しくない、と心を痛めたこと。かなり話が前後して支離滅裂な部分もあったが、喋っているうちに、だんだん腹が立ってきて、気づけば理加子は、今日1日心の内で何度も繰り返していた言葉を―――父や母への怒りと不満を、無関係な奏と咲夜の前でぶちまけた。かなり、感情的に。
全部吐き出したら、すっ、と、胸の中のどこかが冷えて、冷静さが戻ってきた。くたくたになるまで踊っても、バカ騒ぎをしても、怪しげな薬の力を借りても、そして優也に手を差し伸べられても、どうしても、どうしても普段の自分を取り戻せなかったのに。
それで、わかった。今、自分に必要だったのは、現実逃避することでも、優しく慰めてもらうことでもなく、このドロドロになって体の中で渦巻いていた感情を、残らず吐き出してしまうことだったのだ、と。
『今、オレたちに言ったみたいに、言えばいいのに。両親に』
口で言わなきゃ察することもできない鈍感な人間が、世の中の人間の大半だぞ、という奏の言葉に、そのとおりなのかもしれない、と理加子も思った。
それでも、結果的に出てきた答えは…やはり、帰りたくない、だった。
で、今、理加子は、咲夜の部屋にいる。
本当はどこか適当にホテルを見つけて1泊しようかと思っていたのだが、咲夜自ら「じゃあうち泊まれば」と申し出、理加子の両親に連絡まで入れてしまったのだ。
―――何考えてるんだろ、咲夜さんて…。咲夜さんをあんな目に遭わせた元凶なのに。
しかも、こんな風に服まで貸しちゃって、と、身につけた咲夜の服を見下ろし、眉根を寄せる。寝巻き代わりのウエストゴム入りイージーパンツに、長袖のTシャツ。普段の理加子なら絶対着ないタイプの服だ。
丁寧に髪を乾かし終え、部屋に戻ると、まだ部屋には奏がいて、咲夜と2人して、並んで缶ビールを飲んでいた。理加子が戻ってきたことに気づくと、その姿を一瞥し、それぞれの感想を述べた。
「ハハハ、意外に似合うじゃん」
「…なんか、中学生の合宿みたいじゃねぇ?」
奏の一言に、咲夜が奏の脇腹を肘で小突く。が、理加子自身、自覚があった。メイクを落としてこういうシンプルすぎる服を着ると、理加子の外見は悲しくなるほど幼い。いくら失恋済みとはいえ、一度は恋心を抱いた人からの的確すぎる指摘は、理加子の胸をチクリと刺した。
「じゃ、私もシャワー浴びてきちゃおうかな。奏、よろしくね」
「ん? ああ」
そう言うが早いか、咲夜は勢いをつけて立ち上がり、いつの間に用意したのか、着替えを小脇に抱えて浴室へと向かってしまった。
―――え…っ、ちょ、ちょっと待って。一宮さんと2人きりで置いてかないでよっ。
仮にも、自分の恋人だ。そして理加子は、奏に恋したが故に咲夜を邪魔に思い、トールと馬鹿げた賭けまでしたような女だ。そんな2人を、2人きりにするなんて―――理加子は、目の前を横切り脱衣所に続くドアをパタンと閉める咲夜を、唖然とした表情で見送った。
一体、何を考えているのだろう―――ますます、咲夜の頭の中が理解できない。
「言っとくけど、オレがこうして残ってんのは、リカを監視するためだからな」
呆けたまま理加子が立ち尽くしていると、手元の音楽雑誌を広げ始めていた奏が、目を上げもせずそう言った。
「監視?」
「そ、監視」
「なんで、あたしを?」
極自然に出た疑問。だが、奏は僅かに目を上げ、ギロリと理加子を睨んだ。
「…胸に手ぇ当てて、よーく考えてみろ。優也に、何かオソロシイこと言っただろ」
「……」
「聞かなくたってな、あの血相欠いた顔見りゃ、わかるんだよ。簡単に言うな、って咲夜につっかかってたけど、リカこそ“死ぬ”とか簡単に言うな」
―――だ…だから、か。
つまり、奏が部屋に戻ってしまい、この部屋に咲夜と理加子しかいなくなってしまったら、咲夜がシャワーを浴びている間、理加子が部屋に1人きりになってしまう―――だから、そうならないよう、奏が見張り役を務めている訳だ。勿論、今の理加子に本気で自殺をするような覚悟など全くないことも重々承知の上で、飽くまで“念のために”。咲夜が自分の家に泊めるなどと言い出したのも、同じ理由からなのかもしれない。
「咲夜が風呂から戻ったら、オレも自分の部屋に帰るよ。…ま、とりあえず座れば」
そう言ってテーブルを挟んだ向こうを指差す奏は、既に視線が雑誌に向けられている。気まずい思いをしつつ、理加子は指し示された場所にペタンと座り込んだ。
暫く、無言の時間が過ぎる。
奏は音楽雑誌を読むことに集中しているようで、時折、テーブルの上の缶ビールに手を伸ばしはするが、理加子の方を見ることすらしない。その態度がなんとなく、理加子を拒絶しているように見えてしまい、理加子を余計落ち込ませた。
「…もしかして一宮さん、怒ってる?」
10分も続いた沈黙の末、理加子が訊ねると、奏はやっと顔を上げ、「は?」と眉をひそめた。
「何が?」
「だから、その…あたしが、咲夜さんの部屋に泊まることに、なって」
微妙な表情で眉を余計顰めた奏は、少し考え、答えた。
「まあ、別に怒ってはいないけど、咲夜の人の好さにはちょっと呆れてるかもな」
「…その割に、反対しなかったじゃない」
「オレが反対しても、しょうがないしな」
そう言うと、奏は何故か、ニッと笑った。
「それに―――たとえばリカが、まだ咲夜に対して何かしようと企んでるんだとしても、まあ無理だろうし」
「え…」
「トールから聞いてるだろ、例の事件の時の咲夜のこと」
「……」
『ドラッグで半分意識飛んでるのに、きっちり証拠物押さえてた上に、翌日にはおれのこと警察に突き出すぞって脅しに来たんだぜ? リカも二度とちょっかい出さない方がいいよ、マジで。ありゃ恐ろしい女だわ』
…確かに、聞いている。かなり詳細を聞かされたが、その場面を見ていない理加子でも、とんでもない人だ、と冷や汗をかいたのを覚えている。
「あの時、咲夜がリカに直接何もしなかったのは、リカがオレのクライアントだったから、ただそれだけだよ。何のしがらみもない存在になった今は、一切容赦しないだろうな。悪巧みしてるんなら、覚悟しといた方がいいぞ」
「…そんなの、もう考えてないってば」
「リカはそう思ってても、油断はできねー。リカ様のためなら何でもします、って男とまだ付き合いがあるみたいだし」
晴紀の話が出て、一瞬、ドキリとした。
実は理加子は、両親の離婚については話したが、晴紀たち取り巻き連中との間にあった事については、2人の前では一切口にしていない。特に訊かれなかったから、というのもあるが、咲夜の身にあったことを考えると、ドラッグ絡みの話は出し難かったのだ。それに―――1つだけ、ずっと心に引っかかっていたことが、理加子にはあったから。
「あの…1つ、訊いていい?」
「ん?」
「あの時…一宮さんとの、最後の仕事の時。一宮さん、言ってたじゃない。自分も昔は馬鹿なことをした、でも、どれだけ最低な奴に成り下がっても、絶対にやらなかったことが、2つだけある……って」
理加子の言葉に、奏は驚いたように目を丸くし、手にしていた雑誌を置いた。
「よく覚えてたな、そんなの」
「…だって、そこで話が切れちゃってたから、気になって…」
絶対にやらなかったことが、2つだけある―――けれど、奏はそれが“何”なのかは、言わなかった。ただ、その話をした時の奏の思いつめたような暗い目を見て、理加子はなんとなく予感していた。多分…その“何か”は、奏にとっては決してやってはいけないことで、その絶対のタブーを理加子が犯したからこそ、あれほどまでに奏を怒らせてしまったのだろう、と。
「一宮さんが絶対にやらなかった2つのこと、って…何?」
理加子が訊ねると、奏はあっさり、それに答えた。
「人を騙すことと、ドラッグ」
「……」
「…オレも人間だから、これまで何ひとつ嘘をつかなかった、なんて絶対言わねーけど…嘘と騙すのとは、意味が違うと思う。人を慰めたり救ったりする嘘はあるけど、自分の欲や利益のためにつく嘘は、人を傷つけるからな。ドラッグも、人間を破壊することしかしない。法律を犯さない、ってのは基本だけど、たとえ合法でも、この2つだけはやったら終わりだと思ってた」
「……」
「それが、どうかしたか?」
皮肉も嫌味も一切なく、奏が不思議そうに訊ねる。唇を噛み、俯いた理加子は、何でもない、という風に首を横に振った。
―――じゃあ、その2つともをやっちゃったあたしは、最低ね。
これからは自分で自分を褒められるように生きる、と約束した筈の理加子が、怪しい薬と重々承知の上であの薬を受け取ったと知ったら、きっと奏は、二度と許してはくれないだろう。…やっぱり、今日あったことは、絶対言うことはできない―――黙り込んだ理加子は、密かにそう思った。
「お待たせー」
理加子が黙り込んでほどなく、ドアが開く音に続いて、咲夜の声がした。
ゆるゆると顔を上げた理加子は、風呂上りの咲夜を見上げた瞬間、ギョッとして思わず目を見開いた。
自分と同じような服装で現れると思っていた咲夜は、太ももの半分ほどが隠れる長さのTシャツ1枚の姿だった。そのシャツの裾から伸びたスラリとした脚がやけに目についてしまい、同性である筈の理加子は、ドギマギしたように目を逸らし、血の上った頬を無意識に押さえた。
―――こ…この人って、一見マニッシュなのに、たまに見せる表情とか歌ってる時の目とかが異様にセクシーだから、困るなぁ…。
でも、いいなぁ、スタイル良くて―――中学生の合宿と言われたばかりの理加子は、密かにコンプレックスを募らせてしまった。
「ご苦労様。後は引き受けたから、奏は戻っていいよ」
まだ乾かしていない頭をタオルでがしがし拭きながら咲夜が言うと、奏は拗ねたように口を尖らせた。
「お前…つれねーなーぁ。役目終わったからとっとと帰れってかよっ」
「そうは言うけど、もう1時だよ? 明日仕事じゃん」
「…ちぇ」
でも、咲夜の言うことに一理あったのだろう、奏は仕方なさそうに立ち上がり、玄関に向かった。
―――ほんと、咲夜さんの前だと子供みたい。
奏と見送りに出る咲夜の背中を見遣りつつ、奏が中途半端に潰したまま置いていったビールの空き缶を片付けようと腰を上げた理加子は、2人には気づかれないようこっそり苦笑した。
別れ際、玄関口で話す奏と咲夜の会話は、小声なのと半開きになった玄関ドアのせいで、途切れ途切れにしか聞こえてこない。空き缶をキッチンのゴミ箱へと運びつつ、見るともなしに2人の様子を目の端で確認していた理加子だったが。
「…じゃ、来れたら来いよ」
「…ん、わかった」
つい今しがた、咲夜にすげなくされて子供みたいに拗ねていた筈の奏が、いとおしむような笑みで咲夜を見つめる。そして、咲夜の手を引き寄せ素早くその唇を盗んだのに気づき、慌てて、少し振り返り気味だった頭をクルリと前に戻した。
まるで映画のワンシーンみたいな光景に、咲夜のせいで乱された鼓動が、余計乱れる。
―――あ…あの2人にとっては、あれが日常なん、だろうな。
だって、2人は、恋人同士なのだから―――そう改めて思った理加子は、嫉妬とは少し違う何かが、チクリと胸を刺すのを感じた。
「じゃ、リカちゃん、ベッド使っていいよ」
奏を見送って、数分後。咲夜が発したその一言に、理加子はさすがに恐縮し、ぶんぶんと頭を振った。
「そんな…っ。ゆ、床に寝るなら、あたしの方がっ」
「いいのいいの。どうせ私は、リカちゃんが寝入るまで起きてるつもりだし」
「でも、」
「いーから。さっさと布団に入んなさい」
ぽん、と背中を叩かれてしまえば、もう二の句は継げなかった。転がり込んだ方がベッドを占拠などしていいのだろうか―――どうも腑に落ちなかったが、理加子は仕方なく、咲夜のベッドの縁に腰を下ろした。
「でも、起きてる、って…一体何するつもりなの?」
ごそごそと掛け布団をめくりつつ理加子が訊ねると、咲夜は、部屋の中を忙しなく動き回りながら、「んー、ちょっとねー」と曖昧な返事をした。本でも読むのかな、と思いながら布団に片足を突っ込んだ次の瞬間、理加子は、咲夜が手にしているものに気づき、顔を強張らせた。
咲夜の腕に掛けられていたのは、理加子の服だった。
一体、いつの間に―――気づかれないよう、バッグと壁の間に押し込むようにして隠しておいたつもりだったのに。血の気が引いていくのを感じながら、理加子はただ呆然と、自分の服を片手にクローゼットの中を漁っている咲夜を見つめた。
理加子の視線を感じたのだろうか。咲夜は唐突に振り返り、中途半端な横座りのような格好のまま固まっている理加子を見て、クスリと笑った。
「…暖房効いてるファミレスでもコートを脱がないんじゃ、不審に思われて当然じゃない?」
「…い…一宮さん、は」
「私からは何も言ってないよ。風邪気味で寒いから、って言い訳、まんま信じてるかもね」
「……」
「無理に聞くつもりないけど―――大丈夫?」
咲夜の眉が、初めて、心底心配そうにひそめられる。詰めていた息を吐き出しつつ、理加子はコクリと頷いた。
「…何もされないうちに、晴紀、来てくれたから」
「そっか」
「それに、もし何かあっても、合意だから自業自得なの。…ドラッグも、わかってて飲んだんだから」
咲夜の目が、僅かに見開かれる。ドラッグのことまでは予想できていなかったのだろう。参ったな、という風にため息をつき、理加子のすぐそばに膝をついた。
「二度と、飲むんじゃないよ」
きっぱりとした、鋭い声。項垂れた理加子は、力無く頷くしかなかった。
「よく似たボタンがあった筈だから、ちょっと探してみる。だからリカちゃんは、嫌なこと考えないで、早く寝なさい」
「……」
ほら、と急かされた理加子は、泣き出したいのを我慢しながら、ノロノロとベッドに横たわった。
何故だろう? 今、この瞬間まで、今日あったことなど何とも思わなかったのに―――緊張の糸が切れたせいなのか、激しい後悔が足元からじわじわと這い上がってくる感じがした。もしもあの時、あのまま流れに身を任せてしまっていたら……それを想像するだけで、嫌悪感で首筋に鳥肌が立った。
「……っ…」
「眠れない?」
ベッドが軋んで音がするほど、何度も寝返りを打つ理加子に気づき、咲夜がそう声をかけた。
ぎゅっと瞑っていた目を開けてみると、咲夜は両手を腰に当て、軽く首を傾げるようにしてこちらを見ていた。理加子が目を開けたのに気づくと、まるでからかうみたいに、ふっ、と笑った。
「…そんな、すがるような目、しなさんなって。何、添い寝でもして欲しいとか?」
勿論、冗談なのだろう。けれど理加子は、咲夜のその言葉に頷いた。
さすがの咲夜も驚いたのか、ちょっと目を見開く。が、やがて「しょうがない奴」とでも言いたげに苦笑すると、手にしていたブラウスをぽん、とテーブルの上に放り出し、理加子がうつ伏せているベッドの端に腰掛けた。
「小学生の妹でも、ここまで甘えん坊じゃないもんだけどねぇ…」
咲夜の指が、寝かしつけるかのように髪を撫でる。そうか、妹がいるのか―――やけに世話を焼くことに慣れた様子なのは、そのせいなのかもしれない。
「…咲夜さんも、お母さんに、こんな風にしてもらったの」
思わず理加子がそう訊ねると、咲夜は何故か、少し困ったような顔をした。
「んなの、覚えてないよ。随分昔の話だし、それに…」
髪の上を滑る手が、止まる。ほんの少し言葉を切った咲夜は、やけに淡々とした声で、短く付け加えた。
「…逆に、こうして寝かしつけた記憶の方が、鮮明だしね」
「……」
幼い女の子に寝かしつけられる母親の図が頭に浮かび、その奇妙さに理加子は不思議そうな目をした。咲夜の顔は、咲夜の手に隠れて、よく見えない。が、理加子のもの問い顔はわかったのか、ほどなくこう答えた。
「病院のベッドの傍で、よくこうやって、歌ったり本読んだりしてたっけ。お母さんが眠りつくまで」
「……」
鼓動が、僅かに乱れた。
「…お母さん、今、どうしてるの?」
答えは返ってこないだろうと、何故か思った。けれど、咲夜は、あっけないほど穏やかに答えた。
「死んだ。小6の時に」
「……」
「で、今、家には、バカ親父と新しいお母さんと血の繋がらない弟と…半分だけ血の繋がった妹がいまして。目下私は、無期限家出中って訳」
「…………」
「…ま、リカちゃんとこもなかなかヘヴィーだけど…ヤケ起こすのは、ちょっと早いかな」
―――“とりあえず、死んだ訳じゃなけりゃ、やる気次第で何とでもなるんじゃない?”
さっき、あっけらかんと咲夜が口にした言葉が、全く違う意味を伴って響く。
いろんな感情がまぜこぜになった涙が、滲んできた。理加子は、涙のたまった目をきつく閉じ、枕に押し付けた。そして、自分自身に言い聞かせるように、大きく2度、頷いた。
咲夜は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、理加子の髪を撫でながら、理加子の知らない英語の歌を、ずっと歌ってくれた。
「I say love it is a flower... And you its only seed...」
目が覚めたら、どんな意味の歌なのか、訊いてみよう。
そう思いながら、理加子はゆっくりと、眠りについた。
***
理加子にとっての決戦日は、その週の土曜日になった。
―――こうやって、親子3人、きちんと向き合って話そうとしているのが、離婚問題についてだなんて…ね。
皮肉のひとつも言ってやりたくなる。が、理加子はそれをぐっと堪え、ひとまず、両親の言い分を黙って聞いた。もっとも、彼らの主張の大半は、この前母から聞いたことの繰り返しに過ぎなかったが。
「つまり―――理加子も大人になった今、夫婦でいる意味がなくなったと思うんだよ」
長々とした「やむをえない事情」という名の言い訳を語って聞かせた父は、その最後を締めくくるように、そう言った。
「理加子は、パパとママが離婚しても、ママと一緒にこの家に住めばいい。この家はおばあちゃんがママに残した家だし、理加子を育てたのは、実質、おばあちゃんのようなものだからね」
「……」
「あの、ママと2人きりになっても、リカの負担が増えるようなことにはならないから、心配はいらないわよ」
「……」
「幸いママもお金に余裕あるから、今頼んでるハウスキーパーさんはそのままお願いするつもりだし、庭の管理も、」
「…そんなの、どうでもいい」
母の言葉を遮り、冷たく言い放つ。その、これまで聞いたことのないような声に、父と母の顔色が少し変わった。
「どこに住むとか、負担が増えるとか減るとか、どうでもいい。…ううん、離婚だって、本当はどうでもいい」
―――そう、どうでもいい。
咲夜の部屋で一晩過ごしてからの、数日間、ずっと考え続けた結果、理加子はやっとわかったのだから。
ぐっ、と膝の上に置いた拳に、力をこめる。理加子はしっかりと顔を上げ、突然様子の変わった娘に困惑している両親を、真正面から見据えた。
「離婚したいなら、すればいい。たかが紙切れ1枚の問題じゃない。パパとママが公的に認められた夫婦でいたくないんなら、勝手に離婚していいよ。あたしには関係ない。パパとママが決めることだから」
「…リカ…」
「だって、離婚したって、パパとママはあたしの“親”なんでしょ?」
親、の一言に、力が入る。理加子は、半ば腰を浮かすようにして、身を乗り出した。
「夫婦を辞めるだけで、あたしの“親”を辞める訳じゃないんだよね? あたしが、パパやママの“家族”じゃなくなる訳じゃないんでしょう?」
「……」
「それは、勿論、そうよ」
この前、直接話をしているから、父よりは母の方がこういう理加子に対して免疫があったようだ。まだ呆けたままの父をよそに、母は幾分平静を取り戻し、理加子の訴えにそう答えた。
「離婚しても、私たちはリカの親よ。だから、これまでとは何も変わらない…」
「それじゃ、嫌」
母の言葉を遮り、きっぱりと拒絶する。
「何も変わらないなんて、嫌。許さない、そんなこと」
「…理…」
「このまま何も変わらないんなら、離婚なんて許さないんだからっ。今より酷くなるなんて、最低…! たとえあたしに権限がなくても、絶対、絶対認めないんだからね…!!」
泣いちゃ、ダメだ。
理加子は、こみ上げてくる涙をぐっと飲み込み、続けた。
「離婚するなら、条件つけさせて」
「条件?」
「朝食は、極力3人揃って食べること。それと、週に1回、必ず家族3人で夕食を食べること。…その2つを、半年間守れたら、離婚を認めてあげる」
父と母の目が、丸くなる。
彼らにとっては、予想外な条件。でも―――理加子にとっては、当たり前すぎるほど、当たり前の条件だ。
「言っておくけど、朝ごはんの時は、ニューズウィークも日経新聞もナシだからね。ちゃんとあたしの目を見て“おはよう”って言って、今日のお互いの予定を言い合ったり、テレビのニュース一緒に見て色々言い合ったりするんじゃなきゃダメなんだからっ」
「……」
「ゆ…夕飯も、外食はダメだよ。この家で、ママかパパかあたしが作った料理を食べるんだから…っ。た…食べながら、おいしいね、とか、まずいね、とか言い合ったり、とか……その週にあった面白かったこととか悲しかったこととか……とか…は…話したり聞いたり、するの」
気づけば、涙が、ポロポロと頬を伝って落ちていた。
他愛ない―――本当に、なんてちっぽけな、他愛ない夢。でも、理加子にとっては、幼い頃からずっと夢見ていた、でも叶えられずにいた夢。欲しくて、欲しくて…でも、どうやってそれを求めればいいのか、その方法すらわからずにいた夢だった。
「お…おばあちゃんがいたせいで、親になるチャンスがなかった、って、言ったよね。寂しかったって言ったよね。リカに親らしいことしてやりたくても、その方法がわからないまま来ちゃった、って言ったよねぇ!?」
「リ、リカ…」
「だったら、今から“親”になってよっ! 離婚しても“親”だ、って言うんなら、本当の“親”に今からなってよ…! リカのために離婚しなかったんだ、リカの親になれなかったせいで離婚するんだ、って、なんでもあたしを理由にする位、本当にあたしのことばっかり考えてるんなら、その位、簡単にできるでしょう…!?」
「……」
「…ゆ…るさない…」
もう、涙を無視することは、できなかった。
理加子は、まるで子供がそうするように、泣きじゃくりながら目を手の甲で拭った。
「親、に、なりたかった、なんて言ってるのに、1回もなろうとしないまま、離婚するなんて…絶対、許さないんだから…っ…」
「…理加子…」
「…あたしも…“娘”になる努力、するから。だから―――21年間の寂しさの、ほんの一部分だけでも、取り返したいの。試してもダメだったら、諦める。だから…お願い」
「……」
「お願い…っ」
―――神様。
お願い。半年でいいから、あたしにパパとママを下さい。
その結果、やっぱり離婚することになっても、家族バラバラに暮らすことになっても、構わない。
ほんの、一瞬だけでいい―――両親から愛された記憶を、あたしに下さい。
***
同じ頃、優也もまた、決戦の舞台にいた。
「秋吉君―――…!」
真琴の姿を探してウロウロしていた蓮と優也は、背後から聞こえた大声に、足を止めた。
振り返れば、コート姿の真琴が、バタバタとこちらに駆けてくるのが見えた。途端―――隣に立つ優也の緊張感が一気に高まるのを感じて、蓮は心配げに眉根を寄せた。
今日は、卒業を間近に控えた4年たちの卒論発表会が、大学の講義室で行われた。他のゼミではこんなのやらないよ、と飲み会で隣のゼミの女の子が言っていたが、永岡ゼミではこれが通例である。そしてその発表会のために、3年である2人も、土曜日だというのに大学まで馳せ参じた訳だ。
無事に発表会が終わり、総括などのために4年は集められ、関係のない院生や3年は追い出された。本来なら、この時点で2人とも帰ってしまうところなのだが―――今日は、発表会を聞く以外にもう1つ、ここに来た目的が優也にはあった。
―――おい、大丈夫か。
ガチガチになりかけている優也の腕の辺りを肘で小突き、軽く睨む。引きつった顔の優也は、それでもなんとか、口元に笑みを作ってみせた。
「き…っ、来てくれてたナリね、2人とも!」
やっと2人に追いついた真琴は、息を弾ませながら、2人の顔を嬉しそうに交互に見た。その満面の笑みにつられたように、優也の顔も引きつっていない笑顔に変わった。
「どう? どう? どーだった? 私の発表は!」
自分の鼻の頭辺りを指差し、真琴が性急に感想を求める。先輩、一体いくつですか、と本気で歳を訊きたくなるが、訊くまでもなく彼女は蓮より1つ上である。
「ちょっと意外なアプローチで、驚きました」
まだ緊張のほぐれきっていない優也は置いておいて、蓮が先に感想を述べた。
「てっきり現物の万華鏡を作ってくるのかと思ったら、まさかアニメーションソフトとは―――秋吉より俺と被ってるんで、心中穏やかじゃないです」
「ふっふっふ、そうであろう、そうであろう。ワタクシだってあの位はできるのデスよ」
3Dモデリングでは少々自信のある蓮からの指摘に、真琴は大いに気を良くしたらしく、胸を張ってうんうん頷いてみせた。
―――まあ、タイムオーバーがなければ、もっと良かったと思いますが。
真琴の喋り方があまりに遅すぎて、持ち時間が足りなくてまとめがグダグダになってしまった点は、あえて指摘しないでおこう。本人も多分、あまり思い出したくない失敗なのだろうから。
「それで―――秋吉君は?」
それまでひたすらハイテンションだった真琴の口調が、若干、勢いを失くす。まだ笑顔は崩していないが、優也の顔を見上げる真琴の目は、どことなく不安げだった。
当然だろう。あの居酒屋の件以来、真琴が優也と1対1で話すのは、これが初めてだ。いくら真琴がぶっ飛んだ人間だとはいえ、自分のことを「嫌い」と言った相手を目の前にして、これまでどおりの気持ちでいられる筈がない。
優也も当然、そのことはわかっている。気まずそうに俯いていた優也は、ほんの少しだけ目を上げ、ポツリと答えた。
「…やっぱり、マコ先輩は凄いな、って思いました」
「…お世辞だったら、いらないナリよ?」
疑うように真琴がジッと見ると、優也はやっと肩の力を抜き、困ったように苦笑した。
「お世辞じゃ、ないです。今日、発表聞けて、よかったです。来年度の参考に、とってもなりましたから」
「―――ん、よろしい。ユーのその言葉、信じるナリよ」
「それと、先輩」
ニッコリ笑った真琴を見て、このタイミングを逃してはならない、と思ったのだろうか。優也はいきなり居ずまいを正すと、真琴に向かって、これ以上ないほど深々と頭を下げた。
「この前は―――すみませんでした」
「……」
優也の頭のつむじの辺りを、目をパチクリさせて見つめた真琴は、数秒後、焦ったように蓮の方へと視線を向けた。
―――いや、なんでそこで、俺に助けを求めるんですか。
優也のこの行動は理解可能だが、真琴のこの反応は理解不能だ。俺を頼らないで下さい、と言わんばかりに、蓮は2人から少し距離を取るように、数歩後ろに下がった。
「あ…っ、あ、あの、秋吉君が謝ることは、ないナリよ?」
バタバタと両手を動かしながら、真琴はやけに早口にそう言った。
「秋吉君がどうして怒ったのか、あの時はよくわからなかったけど、今はちょっとわかるのですよ。茶化してはいけないラインが、私は世界標準値から少々外れてしまってるらしいのですよ。だから…」
「…すみません」
真琴とは思えないほどの早口を遮り、優也はそう言って、顔を上げた。その顔にあったのは、申し訳なさそうな、情けない表情だった。
「僕の方は、どうして自分があんなに怒ったのか、まだ分析できてないんです…」
「……」
「ただ、先輩“だけ”が悪い訳じゃないのは、なんとなく…わかります。それに、先輩のこと“嫌い”って言ったのも、不適切でした。僕が“嫌い”なのは、ああいう席でネタにされたり茶化されたりすることで、別に先輩自身を嫌いな訳じゃ…。だから―――酷いこと言って、すみませんでした」
そう言って再び頭を下げる優也に、真琴はまだ、どうすればいいかわからないみたいに、オタオタした様子でいた。が―――やがて、多少の冷静さを取り戻したのか、コホンと咳払いをひとつし、自分も頭を下げた。
「私も、ごめんなさい」
謝られる義理のない人間に頭を下げられ、優也は驚いたように顔を上げた。
それとほぼ同時に頭を上げた真琴は、キョトンとしている優也を見上げ、にまぁ、と脱力した笑顔を見せた。
「これで、おあいこナリよ〜」
「…そうですね」
―――本当に、変な人だ。
優也が吹き出すのと一緒に、少し離れて見守っていた蓮も、思わず苦笑を漏らした。まあ―――どちらも「よくわからない」なりに「自分も悪い」と思っているのだから、これで大団円、なのだろう。
「じゃあ、お詫びもできたことだし…帰ります」
「えっ。あ……、あー! ちょ、ちょっと、待って、待って」
スッキリとした表情で真琴に会釈しようとする優也に気づき、真琴は慌てて両腕をぶんぶん振った。
「ユーの方は終わっても、私の方はまだ用事があるナリよ」
「え?」
お辞儀ばかりしすぎて、若干ずれてしまった眼鏡を直しながら、優也が首を傾げる。蓮も、先の展開が読めないこの状況に興味を覚え、2歩ほど彼らに近づいた。
「ちょ、ちょっと待ってね。えーと…」
待て、という感じで左手を掲げつつ、ショルダーバッグの中を右手でがさがさと漁る。そして、目的の物を見つけたらしい真琴は、すぅ、と一度大きく息を吸うと、“それ”を優也に向かって差し出した。
「はい」
“それ”を見た瞬間の、優也と蓮の反応は、正反対だった。
「??」
何これ、と首を傾げた優也に対して、
「!!」
蓮は、思いがけない展開にうろたえ、思わず後ろによろけてしまった。
15センチ四方程度の、うすべったい箱。赤に白と金の細いストライプが入った包装紙に包まれたそれには、青のリボンがかけられていた。
「ええと…」
これは何でしょう、と問うように、優也が当惑した目を真琴に向ける。
気合いが入りすぎて、若干頬が紅潮している真琴は、さっきの優也と同じような、引きつった笑顔を作った。
「チョコレート。秋吉君にあげるナリよ」
「えっ。僕にですか」
コクリ、と真琴が頷くと、優也は満面の笑顔になり、
「あ…ありがとうございます!」
と言って、両手でその箱を受け取った。が―――それに続いて優也が発した言葉に、真琴と蓮が、揃って固まる事態となった。
「嬉しいなぁ。僕、甘いもの大好きなんです」
「え、」
「こんな気を遣わせてしまって、すみません。あの、お返しに、今度先輩が好きなもの、何か買ってきますね」
「……」
―――…あ…秋吉…。
駄目だ。最悪だ。あんまりな優也のリアクションに、蓮は眩暈を感じた。
今日は、2月の第2土曜日。
2月14日―――世間で言うところの、バレンタインデーだ。
―――だ…駄目だろ、秋吉…。いくら何でも、それはないぞ。
このリアクションは、どう見ても、仲直りの印として真琴が気を利かせて優也が好きなチョコを買ってきた、と誤解しているとしか思えない。もしかして優也は、今日が何日か、わかってないのだろうか。いや―――わかっていたとしても、そしてあのチョコがバレンタインチョコだと理解していても、それが「告白」の意味であるとは微塵も思わなかったのだろう。
そんな意味だなんて、優也が気づけなくても、当然かもしれない。
普通、告白というのは、誰もいないところでするもの―――いや、少なくとも、友達がすぐ傍で見ているところで、いきなり堂々と行うものではないだろうから。
「おおーい、秋吉ー! 教授が呼んでるぞー」
悪いことは重なるもので、蓮がフォローを入れるより前に、院生の先輩が優也を呼んでしまった。
「あ、はーい。…なんだろう? 後片付けの手伝いかな」
首を傾げた優也は、真琴からもらったチョコをいそいそとバッグの中にしまいこみ、真琴の方を見た。
呆然としている真琴に、優也は嬉しそうな、照れたような笑顔を浮かべ、ペコリと頭を下げた。そして最後に、蓮に向かって「ちょっと行ってくるね」と言い残し、小走りに駆けて行ってしまった。
「……」
半分、泣きそうな顔をして、真琴がこちらを見る。
―――だから、俺に助けを求めないで下さいって。
なんで俺が、こんなことで頭を痛めなきゃならないんだろう―――もう何度目ともわからない不条理に、蓮はうんざりしたようにため息をついた。
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