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― prelude-前奏曲- ―

 

 ―――誰、だったかしら。あの人。
 思わず足を止めた由香理は、視線の先にいる男の正体を思い出そうと、きつく眉根を寄せた。

 出勤してくる社員でごった返している、1階エントランスロビー。その片隅で、その男は、真田と真剣な表情で何かを話していた。まるで観葉植物の陰に隠れるかのようにして話し込んでいるのが、逆に由香理の目を惹いた。もっとも、他の出勤してくる人々は、朝は他人に目を向ける余裕などゼロらしく、2人の方に目を向けることもなく、スタスタと由香理の脇を通り過ぎていくのだが。
 30代前半くらいの、恰幅のいい男性。特徴のある顔…という訳ではないが、なんだか見覚えがある。
 ここは自社ビルだ。だから、ここの社員と考えるのが普通だ。でも…なんとなく、違う気がする。一体、どこで会ったのだろう?

 ―――ま、私には関係ないってことだけは、確かだわ。
 そう考えたら、思い出そうとした自分が滑稽に思えた。月曜の朝は、ただでさえ気忙しい。由香理は、ショルダーバッグを肩に掛け直すと同時に、2人から目を逸らした。そして数分後には、今見た男の顔を再び忘れてしまったのだった。

***

 「え? 土曜日?」
 「そ。土曜日」
 腕組みした智恵は、当然とばかりに大きく頷いた。が、由香理には、智恵の質問の意味がよくわからない。
 「土曜日が、どうかしたの?」
 「何寝ぼけたこと言ってんの。土曜はバレンタインだったでしょうが」
 「そうだけど?」
 「河原にはチョコ渡した? ちょっとは進展あったんじゃない?」
 「……は?」
 思わず、思い切り間の抜けた声を出してしまう。でも、本当の意味で間の抜けたことを言っているのは、智恵の方なのかもしれない。バタン、とロッカーの扉を閉めた由香理は、自分たち以外の女子社員が更衣室を出て行くのを確認した上で、智恵の方へと向き直った。
 「土曜日は、詩織と展覧会とショッピングに行ってたわ。残念ながら、智恵の期待するようなイベントは、何もないわよ」
 智恵の目が、丸くなる。そして、すこしばかり険しくもなった。
 「な…何、それ。まさかあんた、まだ返事を先延ばしした訳? いい加減にしなさいよ、もう1ヵ月半以上じゃないの」
 「河原君の告白なら、一旦、リセットになったわよ」
 「リセ…ッ」
 「タイミングが早すぎて後悔した、って、河原君の方から申し出たの。そろそろいい時期だな、って思った時に、改めてもう一度申し込むから、その時に返事をくれ、って。だから今は、普通に“お友達”よ」
 唖然、という顔で、智恵は由香理の顔を暫し凝視した。が、やがて、僅かに怒りと焦りを滲ませた顔で、由香理の肩を掴んだ。
 「バ…ッカ! あんた、それを黙って受け入れた訳!? その場で交際にOKすれば済む話だったのに…!」
 「…何言ってるの。異性としてはまだはっきり好きとは言い切れないのに、OKできる訳がないじゃない」
 「ちょっと、本気で言ってるの? 恋愛と結婚は別物でしょうに」
 まるで聞き分けのない子供に言って聞かせるかのように、智恵は両手を由香理の肩に置いたまま、きっぱりした口調で続けた。
 「見合い結婚する男女は、互いに異性の魅力を感じて結婚しているのか? 否! 人生のパートナーとして、冷静かつ客観的に相手を見極め、良好な夫婦関係を継続できる人物を選んで結婚している―――由香理にとっては常識でしょ? 河原ほど由香理にピッタリなパートナー、そうそう現れないわよ。何を今更迷う必要があるのよ? 恋愛感情の有無なんていう、乙女チックなことにこだわるなんて、恋愛結婚でなきゃイヤ、とか騒ぐ小娘レベルじゃないの」
 「―――でも、河原君は、私を好きなのよ?」
 やけに冷静な由香理の声に、智恵の顔が、一瞬、強張る。
 それは、そうだろう―――智恵自身が絶対に認めない感情に、由香理は既に気づいている。その感情を念頭に置けば、今のセリフは、智恵には痛い筈だ。
 「確かに河原君は、結婚を前提に、って言ったわ。でも、私を結婚相手として選んだっていう訳じゃない。まずは、交際したい、その先に結婚がある―――河原君が私に告白したのは、私を女性として“好き”だから。恋愛感情があるからよ」
 「……」
 「…河原君がどうでもいい男なら、私も受けてたかもしれない。むしろ、相手に惚れられてるなら優位に結婚話をまとめられる、って密かに思ったかもしれない。でも私……河原君のことは、友達として大好きなのよ。河原君が、条件で私を選んだのなら、私も同じように応えられたと思う。けど、河原君が感情で私を選んだ以上―――感情なしに、頷くことなんて、絶対できないわよ」
 「…そ…それは、わからないでも、ないけど」
 由香理のきっぱりとした声に気圧されたように、智恵の方は、逆にいつもの歯切れの良さがなくなった、らしくない口調になっていた。
 「でも、付き合ってるうちに好きになる、ってことだって、あるんじゃないの? 河原だって、彼氏としての位置キープできるのは絶対嬉しい筈だし、恋人同士として周りから認められれば、ちょっかい出してくる人間だっていなくなるし」
 「…智恵」
 ―――なんで智恵が必死になるの。
 決して言うまい、と思っていたけれど…そろそろ、限界だ。腹立たしいから、というのもあるけれど、それ以上に…痛々しすぎて。ため息をついた由香理は、軽く智恵を睨んだ。
 「河原君を諦める口実に、私を利用するのは、やめて」
 「……っ、」
 智恵の表情が、凍りついた。
 由香理が気づく筈はない、と思っていたのだろうか? それとも、自分でもわかっていなかったのだろうか。…いや、後者は、あり得ない。智恵は、はっきりとした自覚を持って、由香理に河原を勧めていた。間違いなく。

 『誤解されやすい同士が上手いこと出会えたってのに、引っ張りかねてる河原や二の足踏んでる由香里見ると、イライラする訳よ。そうやってウダウダしてるうちに…』

 二の足を踏んでいるうちに―――どうなるのか。それを、智恵は口にしなかった。訊き返す由香理から目を逸らし、言葉を濁した。
 あの時にはわからなかったけれど、その後も何度も河原を勧める智恵の様子に、由香理は次第に疑問を抱くようになった。そして、なんとなく、気づいた。ああ、そうか―――智恵は、河原君が好きなのか、と。
 一見、強気で積極的な女性の方が似合っているように思われてしまう、河原。そう、見た目だけなら、まさに智恵みたいなタイプが似合いに見えるし、またそういう女性が母性本能をくすぐられて興味を持ってしまいやすいタイプなのだ。
 けれど、智恵が言うとおり、河原はああ見えて「俺について来い」タイプの男だ。だからこそ、一見高飛車に見えてその実尽くすタイプである由香理の本質を見抜き、由香理を選んだ。女性に告白もできないような気弱な男だったら、そもそも由香理に興味すら抱かなかっただろう。
 “そうやってウダウダしてるうちに、あたしみたいな女に、掻っ攫われるよ”―――それが、あの言葉の続きだ。

 「…自分みたいなタイプは河原君とは合わない、と思っている智恵が、河原君に告白したくない気持ち、よく、わかる。それに…智恵がプライド高いのも、恋愛に後ろ向きなのも、知ってる」
 「……」
 「振られるのは嫌だけど、フリーでいる河原君をただ諦めるなんて、智恵には絶対無理。でも―――河原君に彼女ができれば、それを口実に諦められる、って考えたんでしょ。しかもその彼女が親友の私なら、親友の幸せのため、っていう口実もできる。智恵が一番傷つかずに、一番上の立場でいられる。…そうよね」
 智恵は、反論しなかった。反論せず、ただ、血の気を失った顔で、由香理の顔を凝視し続けていた。
 ルージュをさしている筈の唇すら、色を失っているように見える智恵の様子に、当然、胸は痛む。酷いことを言っている自覚は、由香理にもあるのだから。けれど、反論がない―――白黒はっきりつける性格の智恵が、反論できずにいる。その事実の方が、もっと胸が痛む。
 「でも、智恵の自己満足のために恋愛するほど、河原君も私も寛大じゃないの」
 「……」
 「好きなら、諦めたいなら、アタックするなりヤケ酒飲むなり、智恵自身でどうにかして。智恵が河原君を掻っ攫って行っても私は恨まないし、智恵の気持ちを知ってるからって、河原君を好きになったら遠慮せずそう言うわ」
 「…言うわね」
 蒼褪めた智恵の顔の中、口元だけが、微妙に歪んだ笑みを作る。
 「断っておくけど、由香理と河原を付き合わせようとしてたのは、何もあたしのためだけじゃないからね」
 「…わかってる。ただ純粋に、河原君を応援したかったんでしょ?」
 由香理が言うと、智恵は、少し驚いたように目を丸くし、続いて観念したように本物の苦笑を浮かべた。
 「でも、河原が好きな相手が由香理じゃなけりゃ、話は別。…ホントにお似合いだと思ったのよ。それに、由香理…あんたのためにも、河原には頑張って欲しかった」
 「ああ…、さっき言ってた、パートナーとして最適って話?」
 「そうじゃなくて」
 軽く頭を振った智恵は、それまでとは違う眼差しで、由香理の目を見つめた。
 「河原でなくてもいい、誰か、本当に由香理の良さを知ってる信頼できる男と交際させないと、まずいと思ったから」
 「…まずい、って、何が」
 「真田さん」
 その名前に、由香理の肩が、ギクリと強張った。
 「…確かに、最近の真田さん、営業姿勢も随分変わって同僚からも見直されてきてるけど…正直、あたしはあの男、今も信用できない。特に、女に関しては、相変わらず大事な部分が欠落してるように見える」
 「……」
 「由香理は、見かけよりずっと情に篤い女だから、“同病相哀れむ”が高じちゃいそうに見えてね。そうなる前に、本物のパートナー足り得る男と落ち着いて欲しかったんだ。あいつと関わったら、傷つくのは由香理、あんたの方だと思ったから」
 今度は、由香理が黙り込む番だった。
 沈黙する以外、なかった。
 あの、真田の部屋での出来事がある以上―――由香理には、何も言うことができなかった。


***


 「…で、連絡は?」
 「うん…それが、まだなんだ」
 規則正しく続いていたカタカタという音が止まる。ディスプレイを見つめ続けていた目を上げ、優也はため息をひとつついた。
 「週末、どうしたのかなぁ…。話し合いが上手くいったんなら、一言、連絡があってもいい筈なんだけど…」
 優也が気にしているのは、理加子のことだ。
 電話では「バレンタイン決戦なんだから」などと意気込んでいたが、その決戦の日を過ぎ、日曜になり、更には月曜になった今もなお、理加子からは何ら結果報告がなされていない。いや、勿論、第三者である優也に理加子が報告する義理などないのだが、理加子の性格からして、いい結果が出たら大喜びで電話してきそうなものだ。
 「頑張った結果が失敗に終わったら、相当落ち込むよなぁ…大丈夫かな」
 「簡単に“死にたい”なんて言う奴に限って、しぶとく生き残るもんだぞ」
 一連の経過を既に優也から聞いている蓮は、キーボードを叩き続けつつ、目も上げずにそう言った。容赦なしな蓮の言葉に、優也はうっと言葉に詰まった。
 「…厳しいなぁ、穂積は」
 「秋吉は、あいつに甘いな」
 そう言うと、蓮はちょっと言葉を区切り、付け足した。
 「マコ先輩には、厳しいのに」
 「……」
 優也の顔が、思い切り引きつる。
 「そ、それは…僕も、反省してるって」
 ―――いや、別に、責めた訳じゃないんだけど。
 蓮は単に、優也にとって真琴がいかに“別格”であるかをからかっただけなのだが―――ノートパソコン越しに優也の様子をチラリと窺い、事の本質を取り違えているらしい優也の様子に、蓮は密かに苦笑した。


 「…秋吉。今日がバレンタインデーってこと、知ってる?」
 土曜日の帰り道、恐る恐る訊いてみたところ、優也は実に明るい声で、はっきりと答えた。
 「知ってるよ?」
 「……」
 「昨日の夜リカちゃんと電話で話した時にも“明日はバレンタインだからバレンタイン決戦だ”って言ってたし、それに、さっき先輩がチョコくれたし。先輩って、意外に気遣いする人なんだなぁ…。僕も先輩にチョコ用意すればよかった。そしたら、ゼミのメンバー全員で分けて食べられたのに」
 「…いや、そうじゃなくて…」
 お前は自分のその発言に疑問を感じないのか、と、多少イラつく。が、そのイライラをなんとか抑え込み、蓮はストレートに訊き直した。
 「お前、そんなこと言って、先輩がくれたのが義理チョコじゃない可能性は考えないのかよ」
 すると、優也はキョトンと目を丸くして、蓮の顔を不思議そうに見た。
 「義理チョコでしょ? だって、先輩の本命は、永岡教授なんだから」
 ……ごもっとも。その点は、蓮も深く頷かざるを得ない。

 『実は私も、教授のことを綺麗さっぱり忘れた、って訳でもないナリよ。ただ、秋吉君のことも好きだなぁ、と思ったから、仲直りついでに“好きだぞよ”と伝えたかっただけナリよ。でも、義理チョコだと思われて、ちょうど良かったのかもしれないなぁ〜。秋吉君の性格だと、“教授も好きだけどユーも好きだぞよ”なんて、絶対許せないだろうから〜』

 優也が教授に呼ばれていた間、真琴は複雑そうな笑顔で、蓮にそう言った。
 真琴は、正直で、真っ直ぐだ。ただ「好きだぞよ」と思ったから、それを伝えたかっただけ。そこに、教授のことは忘れたのか、とか、本命チョコが2つなんておかしいだろ、とか、そういう理屈は全く関与しない。
 でも、見た目ほど軽い気持ちであのチョコを差し出した訳でもないのが、蓮には何となくわかる。1ミリたりとも本気とは受け取ってもらえなかったことに、真琴なりに傷ついていたのが、あの泣きそうな困惑顔にはっきり表れていたから。
 「…俺、秋吉は、マコ先輩を好きなんじゃないかと思ってた」
 真琴に対する同情のようなものも手伝って、つい、そんなことを口にしてしまった。
 それを聞いた優也は、一瞬で顔を真っ赤にし、それからうろたえたように周囲をキョロキョロ見回した。どうやら、まだ大学の近くだから、知り合いに聞かれてしまったのではないかと心配したらしい。
 「あ、あ、あ、あ、あの、な、なんで? 僕、そう思わせるようなこと、何かしたっけ」
 「なんで、って…いや、なんとなく」
 そこまで慌てるか? と少々呆気に取られつつも、蓮は優也のために少し声のボリュームを落とし、数センチだけ優也との距離を詰めた。
 「―――やっぱり、そうなのか?」
 「…う……っ、そ―――…」
 茹蛸のように真っ赤になった優也は、一瞬、ちょっとだけ頷きかけたが、何故かそのまま顔を下へは向けず、斜めに角度を変えて、首を傾げた。
 「―――…う、なのかなぁ…?」
 「は?」
 「自分でもまだ、よくわからないんだ」
 優也は、まだ紅潮したままではあるが一応理性の戻った表情になり、困ったように眉根を寄せた。
 「先輩のことは、凄く尊敬してるし、あのポジティブな、常識とか体裁にこだわらない自由な発想にも、凄く憧れてるんだ。先輩と話したことで、スーッと心が軽くなった時もあったし。み、見た目はその…特に、好みな訳じゃないけど、まあ普通だし、たまーに可愛いかな、と思わないでもない、し」
 「…で?」
 「…そう、思うんだけど、なんでか―――先輩には、寛容になれないんだよなぁ」
 「寛容?」
 場違いにも聞こえる単語に、蓮が眉をひそめる。優也は、少し落ち込んだように、小さくため息をついた。
 「居酒屋の時も、他の先輩たちが人のこと面白おかしく言ってるのは、迷惑だなぁ、と思いながらも、割と聞き流せたんだけど、マコ先輩に言われると、なんか無性に腹が立っちゃって…それで、あんなことになっちゃったし。そもそも、永岡教授に片想いしてるのだって、リカちゃんが一宮さんのこと好きだっていう気持ちは別に非難する気ないし、運が悪かっただけだよね、なんて慰めたりもできるのに―――先輩には、そうできないんだ」
 「……」
 「好きな相手なのに、なんで友達や先輩に対してより、心狭くなるんだろう? って思ったら、なんか…本当にマコ先輩のこと好きなのか、あんまり自信なくなっちゃって。もしかしたら、あまりに先輩が僕にはできないことを簡単にするから、好きを通り越して先輩に嫉妬してるんじゃないか、って―――そう思ったら、なんか、落ち込んじゃって」
 本当に落ち込んだように視線を落としていた優也は、けれど、すぐに顔を上げ、大きく息をついた。
 「でも、僕が寛容になれない相手って、マコ先輩が初めてだから。それってきっと、僕にとって重要なことのような気がするんだ」

 ―――つまり、恋愛小説から仕入れた知識じゃ、自分の恋愛感情を分析できない、ってことだな。
 自分が何故真琴に対して寛容になれないのか、その理由が本気でわからず首を捻っている優也を見ていると、そう結論づけざるを得ない。なんといっても優也は、蓮の数十倍の冊数の恋愛小説を読み漁っている筈なのだから。
 寛容になれないのは、優也が真琴に、恋愛感情を持っているからだ。
 好きなのに寛容になれない、のではなく、好きだから寛容になれないのだ。
 理加子の恋愛話は「他人事」だが、自分が想いを寄せる女性の恋愛話は「一大事」だ。だから、理加子の片想いは許せても、真琴の片想いは許せない。相手が誰であっても不愉快だが、妻子持ちで、かつ自分には到底太刀打ちできない大物ときては、不愉快極まりなくて当然だ。
 宴席でのことも、同じこと。優也があれほど怒ったのは、好きな相手から恋愛ネタで茶化されたからだ。真琴は自分を異性と見ていない、自分は真琴にとっての恋愛対象外でしかない―――それを実感してしまったから、傷ついて、真琴に当り散らしてしまったのだ。
 好きなんだけど言えなくて、自分の気持ちにさっぱり気づいてくれない彼女にイライラして、彼女の想い人が妻子持ちと知って「けっ、なんだよ、あんなおっさん。あんなののどこがいいんだよ」と拗ねている。笑えるほどに典型的パターン。
 正直、優也がそういうタイプだとは思ってもみなかったので、真琴に対する優也の一連の反応は、蓮にとって少々意外だ。そして多分、優也自身も、そういう自分に気づいてない。だからこそ、自分らしからぬ感情が理解できず、困惑しているのだと思う。
 ―――マコ先輩も秋吉のこと好きだって知ったら、秋吉があれこれ悩む必要もないんだろうけど…。
 当然、あの時、真琴が泣きながら言った言葉も、土曜日に聞いた言葉も、優也には話していない。真琴本人の了承も得ずに自分が明かすのは、ルール違反だろう。
 本当は両想いなのに、相手の気持ちが見えずに悩んだり失敗したりしている姿は、傍で見ていてちょっと面白いが、気の毒でもある。でも―――やはり、何も言うまい。多分、優也も真琴も、蓮が何も言わないことを本能的にわかっているからこそ、蓮にだけ本音を明かしたのだと思うから。


 「マ、マコ先輩の話は、置いといて―――確かに、リカちゃんに対してはもう少し厳しく接した方がいい部分もあるのかもしれないけど…彼女、ちょっと躁鬱傾向あるみたいで、時々不安になるんだよなぁ。ネガティブ入った途端、いきなりダークサイドに落っこちちゃうような感じで」
 「ダークサイド…」
 じゃあポジティブな時はフォースが使えるのか、と冗談を言いたくなったが、やめておいた。おかしな表現だが、優也の言わんとするニュアンスは、なんとなくわかる。
 「まだ結論出てないから電話できずにいるんじゃないかと、俺は思うけど」
 「そうかなぁ…。やっぱり心配だから、今夜にでも携帯に電話してみようかなぁ」
 そう言って心配そうに眉根を寄せる優也は、確かに理加子より年下の筈なのに、なんだか妹を心配する兄のようだ。感覚的にはそれに近いものがあるのかもしれないな、と、蓮はくすっと笑った。
 蓮が「そうだな」と相槌を打ったことで、その話はとりあえず終わった。が、話が終わった後も、優也はプログラミングの作業に戻らず、暫し蓮の顔を盗み見るようにして見つめていた。
 実は優也には、この前からずっと、蓮に訊きたいことがあったのだ。
 「…あの、穂積」
 「ん?」
 「穂積って、言ってたよね、園田先輩の壮行会の時、好きな人いるって」
 「んー…」
 「やっぱり、それって、その……咲夜さん?」
 もの凄く訊き難そうに、優也が訊ねる。蓮は、一番肝心な演算部分のコードをもう少し簡潔にできないかと思案しつつ、あっさり答えた。
 「うん」
 「……」
 答えを聞いた優也は、非常に複雑な表情になった。一方蓮の方は、特に表情を変えることもない。その事実に、優也はますます眉をハの字に下げた。
 「…咲夜さんとこのお店のライブ存続を求める活動やってたのも、咲夜さんのため…だよね」
 「それだけじゃないけど、半分位は、そうかな」
 「―――辛く、ないの?」
 優也の言葉に、蓮は顔を上げ、少し目を丸くした。
 「なんで?」
 「だって…咲夜さん、彼氏がいるんだよ? 片想いならまだしも、両想いだなんて…穂積が咲夜さんのために色々やっても、そりゃ感謝はされると思うけど、振り向いてくれる確率は低いじゃないか」
 「…別に、振り向いて欲しくて、やった訳じゃないんだけど…」
 優也の言わんとするところが、いまいちピンと来ない。困惑した顔でいる蓮に、優也は、まるで自分の方が辛いみたいな顔をした。
 「振り向いて欲しくないなら、なんで好きでいるの?」
 「は?」
 「恋って、好きになった人に、同じように自分を好きになって欲しいと思うものだよね? 穂積は、咲夜さんが一宮さんより自分を好きになってくれないかな、って思ってないの?」
 …困った。
 恋とはそういうものです、と言われてしまうと、まあ普通そうかもな、としか言いようがない。うーん、と髪を掻き毟った蓮は、しょうがないので、正直な自分の気持ちを口にすることにした。
 「…咲夜さんに好きな奴がいなけりゃ、勿論、俺が一番になってみせる、他の奴に取られてたまるか、って思うけど…一宮さんいるなら、俺は、いい」
 「な…なんで!?」
 「幸せそうだから」
 当然のことのように、蓮はそう言った。
 「一宮さんはいい人だと俺も思うし、咲夜さんが一宮さん好きな理由も、悔しいけどよくわかる。一宮さんと一緒にいて幸せそうにしている咲夜さん見るのは、さすがに少し寂しいけど…それ以上に、嬉しいし」
 「う…れしい…?」
 「俺、好きになった女には、幸せでいて欲しいんだ」
 迷いのない蓮のその言葉に、優也の目が丸くなった。
 「俺が自分の手で幸せにできれば最高だろうけど―――咲夜さんには、もう、幸せにしてやれる男がちゃんといる」
 「……」
 「俺は、咲夜さんから幸せを取り上げるような真似はしたくない。だから、どんなに咲夜さんが好きでも、一宮さんに取って代わろうなんて思わない。ただ、それだけだよ」
 眼鏡の奥で、見開かれた優也の目が、僅かに揺れた。
 暫し、言葉を失っていた優也は、やがて、微かな笑みを浮かべると「…そうか」とだけ答えた。


 ―――穂積。
 それって、恋じゃなくて……愛、なんじゃないかな。

 指摘しようかと、ちょっと、思ったけれど―――なんだか気障に聞こえる気がして、やめておいた。
 ただ、想いを伝えるつもりはない、と言いつつ、一途に教授を慕っていた真琴を思い出し、優也はあの時理解できなかった真琴の気持ちが、ほんの少しだけ、理解できた気がした。


***


 「えーと、内容は、通販カタログの撮影なんだけど、」
 「やるっ」
 詳細を聞く前に、早くも挙手する奏を見て、氷室は唖然としすぎて、言葉に詰まった。
 「…まだ、仕事の内容もギャランティも説明してないよ?」
 「タダでもいい。マイナー通販でもいい。横暴なカメラマンでもセンスゼロの編集者でもいい。とにかくやりたい」
 「…僕が断ることにした、ってことは、急な仕事ってことだよ?」
 「いつ?」
 身を乗り出す奏をチラリと見遣り、氷室は資料に目を落とした。
 「明々後日―――19日、木曜日。12時入り18時エンド」
 「……」
 それまで、やる気一色だった奏の顔が、一気に曇る。数秒後、奏はガクッと肩を落とし、うなだれた。
 「予約表とか手帳見なくてもわかるところが、凄いな」
 「…結婚式、って理由で予約が4人連続で入ってたから、インパクトあった」
 「そうか、19日は、大安だったな」
 至極納得した氷室は、仕方ないね、という顔で、手にしていたA4サイズの紙を折り畳んだ。
 「じゃ、この件は、他を当たって下さい、ってことで」
 「…チクショー、またかよ」
 これで、3度目。
 最初は、客からのオファーだった。半月後に控えた娘の結婚式で、娘にメイクをしてやってもらえないか、という、極内輪のものだった。次の依頼は、今回同様、氷室に来たテレビ局の仕事を、氷室の代わりにやらないか、という話。既に他の依頼が入っていた氷室が、奏に回そうとしてくれたのだ。そして―――今回。
 3回。ただでさえ少ない依頼の中で、貴重な3回を、奏は泣く泣く断っている。「その日は動かせない予約客で一杯」という、全く同じ理由で。
 「奏を指名する客が格段に多くなったのも事実だけど、うちの店でのヘアセット受けるようになって、客の数が一気に増えたのも要因だな」
 落ち込む奏を見下ろしつつ、氷室が気の毒そうにそう言う。
 従来、“Studio K.K.”は、メイクアップと顔面エステティックを専門に行ってきたが、昨年末からそれに加え、ヘアセット専属のスタッフが1人入った。ヘアサロンのようなカットやパーマなどはできないが、カーラーやドライヤー、ヘアアクセサリを用いたヘアスタイリングを行う。客から要望が多かったため導入したのだが、これがパーティーやお見合いのためにメイクしてもらいに来る客に、大変好評なのだ。
 服だけ着て来ればこの店からパーティー会場に直行できるのよ、という口コミが広まり、新規客が増えた。おかげで、導入から2ヶ月とちょっとしか経っていないのに、髪の毛専門部隊は2名に増員され、奏たちメイクスタッフの予約も、特に大安などの吉日は、全員休む暇なしの状態になってしまった。
 当然、店的には万々歳だが―――正直、奏にとっては、あまり喜ばしい現状ではない。
 元々外部の人間で、業界関係者との繋がりを持っている氷室とは違い、この店からスタートしている奏やテンのようなスタッフは、個人的オファーなどほとんど来ない。来るとしたら、この店の客からの依頼か、もしくは、氷室たちベテランが断った仕事の穴埋め作業―――つまり、今回のように、数日後という急すぎて引き受けられない仕事だ。氷室のように、2ヶ月ほど前から依頼が入っていれば、店側の予約の調整もできるだろうし、指名客の少なかった頃の奏なら、3日後の仕事もなんとか受けられた。けれど、指名客数を氷室と競っている現状では、到底不可能―――結果、奏は、予約と日常業務をこなすだけで精一杯だ。
 「指名がなー。指名でなけりゃ、オレじゃなくてもいいんだもんなぁ。常連の何人か、それとなく、山ノ内に任せるようにしようかな。あいつも、かなり使えるようになってるんだし」
 「確かに、技術的には使えるけど…接客が、な。あんまり口上手い方じゃないから、話しかけないでくれってタイプのお客様からは好評だけど、奏の常連は会話も楽しみに来てる方が多いだろ」
 「ううう…」
 「まあ、焦るな」
 苦笑した氷室は、慰めるように、奏の背中をポンと叩いた。
 「来月には、メイクスタッフも増員されるし。黒川さん自ら即戦力になる奴選ぶって言ってたから、お前も余裕出てくるって」
 「……」
 …違う。そうじゃない。
 氷室の言っていることは、正しい。けれど、奏を苛立たせている問題は、それで解決するようなものではない。もっと根本的な―――でも、言葉では上手く説明できない、“何か”だった。

***

 「あの店って、基本プラス歩合制でしょ? なら、固定客増は、直、収入増に繋がるんだから、結構なことじゃないの」
 その夜、立ち寄った事務所で、佐倉からそう言われた。
 奏のモデルとしての仕事も残すは来月のショー本番だけとなり、佐倉の事務所にもあまり用がなくなった。なのに、奏がちょくちょくここに顔を出しているのは、実は仕事欲しさ故である。勿論、メイクの。
 しかし、現実はそう甘くない。佐倉が奏を使いたいと言ってくれても、既にメイク担当が決まっている案件ばかりだ。
 「…金の問題じゃないんだっつーの」
 「じゃ、仕事の内容? あたしから見たら、羨ましいけどねぇ…。メイクになったって、毎日メイクの仕事がある奴なんて、ほとんどいないわよ? しかもキミらは、1日に何人もの客にメイクしてる訳だから、実戦経験だけならベテランにも負けないじゃないの」
 「そーゆーんでもないんだってっ」
 どう表現すればいいか、わからない。苛立った奏は、不貞腐れたようにそう言って、事務机に頬杖をついた。
 「佐倉さんにはわかんないかもしれねーけど…なんか、違うんだよ。もっと違うことがしたいのに、過密スケジュールがそれを邪魔するもんだから、余計腹立ってきて…。メイクの仕事は楽しいしやり甲斐あるけど―――今はなんか、工場のロボットになった気分なんだよ」
 「…まあ、言いたいことは、わかる気するけどね」
 書類をトントンと揃え、佐倉は、奏に諭すような視線を向けた。
 「でも、今は辛抱のしどころかもしれないし。客にも色々いて、将来キミの仕事に大きなメリットになる人物だっているかもしれないわよ? そう焦らず、今は店での仕事に没頭してみたら」
 「……」
 「…それができれば苦労はしない、って顔ね」
 ふう、とため息をついた佐倉だったが、ふと、まだ机の上に残ったままの書類の存在を思い出し、表情を変えた。
 「―――ちょっと、一宮君」
 「んー?」
 「今度の土曜、午後から時間ある?」
 「……」
 一瞬の間の後、奏はがばっと顔を上げた。
 「休日出勤の振替で、午後休とってる」
 それを聞いて、佐倉はニンマリと口の端をつり上げた。
 「タダ働きでもいい、って、さっき言ってたわよね?」

***

 「えーっ、マジでタダ?」
 「そ、マジでタダ」
 さすがの咲夜も、完全ゼロ円には恐れ入ったらしい。缶ビールを両手で包んだまま、軽く3秒、絶句した。
 「…もしかして、バカ?」
 「ちげーよっ。今は金のことより、店以外の仕事をすることの方が大事なんだよ、オレには」
 ちょっと口を尖らせた奏は、ぐいっ、とビールをあおり、一息ついた。
 「けどさぁ…なんでゼロ円? 普通ないでしょ、そんなの。一体どんな仕事?」
 「…とあるファッションブランドの、Webサイトの扉絵に使う写真。この前無事撮り終わった筈なのに、今になってクライアントが“やっぱり他の服で撮り直してくれ”って言い出して、やり直しなんだってさ」
 「はぁ? そんなん、通るの?」
 「通したくないけど、通すしかないよなぁ…。ギャラはサイトオープン後の支払いだから、ゴネられたら終わった分のギャラだってどうなるか…。それほどデカい会社でもないし、制作予算がほとんど残ってないんで、カメラマンの追加料金もかなり値切られたし、モデル料も相当酷いらしいぜ。まあ、一発で納得いくもん作れなかったのは、現場の人間全員にもやっぱり責任あるから、仕方ない部分あるけど…。で、僅かな制作費をあちこちで分けてたら、メイク頼む金がなくなったから、佐倉さんとこに“自分たちで何とかして下さい”と来た訳だ」
 「ふーん…つまり、タダでもいいから仕事くれ、って奏が来たのは、佐倉さんにとっては大ラッキーだったんだ?」
 「そゆこと」
 「…奏が喜んでるから、あんまり言っちゃ悪いかもしれないけどさ、」
 軽く眉根を寄せ、咲夜はボソリと呟いた。
 「利用されたっぽいね」
 「―――あえてそれは言わないでおいたのに」
 あのニンマリ顔を思い出し、奏も眉を顰める。でも、まあ―――奏にとっても、餓死寸前まで飢えていたところに舞い込んだ餌なのだ。佐倉の高笑い位、甘んじて受け入れよう。
 「ま、経験から得られるものはプライスレスだし…とりあえず“よかったね”と言っておきましょう」
 ニッ、と笑った咲夜は、そう言って缶ビールを掲げてみせた。奏も同じように笑い返し、自分の缶を咲夜の缶にぶつけた。
 「よーし、私も頑張るぞー。それこそ、お金の問題じゃないからね。次のライブの目処が立たないんなら、入場無料でも構わないから、自分らでライブ開いちゃえばいいんだし」
 「そういや、CDはどうするんだっけ」
 「まだ検討中。一成の立場が微妙だから、ライブ会場で販売するだけなら、思い切ってパソコン使って自分でCD焼いちゃおうか、なんて意見もあるしね」
 「うはははは、究極の手作りCDだな」
 「私らが有名になったら、プレミアつくよ」
 “Jonny's Club”のステージが残されることが決まったせいか、咲夜の笑顔は、この前とは違って何かを吹っ切ったような明るさがある。先はまだまだ見えないけれど、歌い続ける、という、決してブレない軸があるからこその、この笑顔なのだろう。
 ―――オレも、負けてられないよな。
 自分には、まだ、そういう軸がない―――咲夜の言葉に笑顔で頷きながらも、奏は密かに、焦りを感じていた。


 『一宮君らしくないわねぇ。日本で仕事すること決めた時は、随分ロングスパンで自分の進む道を少しずつ見つけようとしてた筈なのに…。何を焦ってる訳? 早く一流になりたい、なんて、仕事の厳しさ知らない子供の世迷言だってこと、キミが一番よく知ってるでしょうに』

 別に、早く一流になりたい訳じゃない。
 ただ…今の自分は、あまりにも迷いが多すぎる。このまま店で働き続けて、個人的オファーを地道に増やしていく―――それが本当に最良の道だとは、どんどん思えなくなってきている。
 存分に迷えばいいじゃないか、と佐倉は言うだろう。何も焦ることはない、と氷室も言うだろう。
 焦らせたのは―――背中を押したのは、サラ・ヴィットだ。

 4月から、最低半年間―――冗談じゃない。そんな誘いに乗る訳がない。咲夜と離れたくないし、あの女とまた仕事をするなんて考えただけで寒気がする。お断りだ。
 けれど、サラは、奏が本当にやりたい仕事を、ちゃんと見抜いていた。そこにだけは驚かされた。
 奏が憧れたのは“現場”の仕事―――モデルとしてショーや撮影に携わった時、その現場で忙しく働いていた、ヘアメイクやスタイリスト、アートディレクターやカメラマン。別にメイクにこだわった訳ではなく、そういう“現場”の人間になりたいと、奏は思ったのだ。
 そして今、奏は、憧れた“職業”には就いているが、憧れた“現場”には立っていない。目先の仕事で精一杯で、その先にある未来の自分が、どうしても見えてこない。
 そんな奏に、サラは、別の可能性を示した。今歩いている道が、気の遠くなるほど先で自分の夢に繋がっていたとしても―――そこに繋がる道は、1つではない。他にもたくさんある。その可能性を。
 可能性が見えてしまえば…焦らずにはいられない。
 本線離脱を決断するなら、まだ離脱可能な段階でなければならない。可能性を試すなら、失敗の許される段階でなければならない。決断の時期を逸してしまったら、今の仕事を辞められない状況になってしまうかもしれない。今なら失敗してもやり直しがきくが、これが数年後だったら…やり直しは、難しくなるかもしれない。


 ピスタチオナッツを剥いている咲夜の顔を、チラリと見遣る。
 ―――早く、自分の軸を、はっきりとさせたい。
 咲夜の顔を見ると、その思いが、余計強くなる。
 今は2人揃って足元がグラグラでそれどころではないが―――いずれは咲夜と結婚したい、と奏は思っている。勿論、まだ口に出したりしてはいないが。
 しかし、それを実現するために奏が対決しなくてはいけない相手は、一流ジャズピアニストである拓海を「いい歳をしてヤクザな商売から足を洗わないろくでなし」扱いしている人物だ。
 外国人で、大した学歴もなく、一般人から見たら派手そうに見える仕事に就いている奏は、咲夜の父が理想とする咲夜の結婚相手ではないだろう。咲夜の話から察するに、奏の顔と髪の色を見ただけで「こんな男に娘を任せられるか!」と激怒しそうだ。ただでさえそうなのだから、もしその時、奏の足元がまだグラついている状態だったら…リングに上がる前に蹴落とされるのがオチだ。

 1人なら、焦ったりなどしない。
 2人だからこそ―――幸せにしたい相手がいるからこそ、焦るのだ。

***

 土曜日。
 タダ働きの現場は、郊外にある比較的大きな公園だった。
 自然光の下での撮影なので、天気に大いに左右される。本日の東京は、晴れ。カメラマンが連れて来たアシスタントの1人は、まだ新人らしく、レフ板片手に右往左往していた。テストモデルを務めているもう1人のアシスタントの顔にかかる影が、なかなか上手くコントロールできずにいたのだ。
 「もう1回、目ぇ閉じて」
 奏の淡々とした指示に、同じ事務所のモデルの女の子が、素直に目を閉じる。比較的最近入った子なので、奏と仕事をするのはこれが初めてだ。佐倉が見つけてくるモデルにしては珍しく、額が広くて童顔なタイプ―――もしや、と思って年齢を訊いたら、案の定、中学生だった。
 彼女の衣装は、綿素材のフェミニンな白いブラウスと、赤系統チェック柄の、ミニプリーツスカート。2月の外での撮影でこの服装だ。寒さでリンゴみたいな頬になっては困るので、本番直前まで、フードつきのもこもこのダウンジャケットを着込んで待機していた。おかげで、アイラインを直す奏の傍らでは、佐倉が大急ぎで彼女の髪をスタイリングしている。
 ヘアメイクはおらず、スタイリストも不在。クライアントであるブランドから、自社製品を持った担当者が1名来ているが、上司から言われたものを持ってきただけらしい。あといるのは、サイト制作を請け負っている会社の人間が1名だけというシンプルさだ。
 「なんつーか…この手作り感が、たまんないな」
 「あたしは結構好きよ、こういうの」
 佐倉と顔を見合わせ、互いに苦笑する。勿論、奏もこういう空気は好きな方だ。咲夜たちのライブもそうだが、みんなで何かを作り上げるぞ、という現場の空気そのものが、奏は好きなのかもしれない。
 ―――考えてみたら、この“みんなで”ってのが大きいのかもなぁ…。
 一流ブランドのファッションショーだって、同じだ。デザイナーがいて、モデルがいて、メイクがいて、照明がいて、音響がいて―――それぞれがプロだが、1人ではステージは完成しない。日々の仕事が「客対自分」で完結してしまう店での仕事との違いは、その部分かもしれない。
 テンなどは、逆にその「客対自分」という部分に、大きな魅力を感じているらしい。テレビやスチールの現場では、メイクなど裏方の1人に過ぎないが、店では違う。自分のサービスが、技術が、客を満足させる全てだ。それが最高に楽しいのだ、とテンは言う。
 奏の感じ方も、テンの感じ方も、間違ってはいない。どちらも真実だし、どちらも魅力のある仕事だろう。あとは、向き不向きの問題―――どちらでより満足を得られ、どちらでより力を発揮できるか、だ。
 やはり、今のような状況が今後も続くなら、黒川か店長に掛け合って対策を考えてもらった方がいいのかもしれない―――外の空気を吸って、いかに自分が酸素不足に陥っていたかを痛感しつつある奏は、黒川にその話を切り出すシーンを想像し、重たい気分になった。

 撮影は、ちょっとした丘のような形状をした、芝生地帯で行われた。
 芝を見て、何故この場所が撮影に選ばれたのか、その理由がはっきりわかった。まだ2月だというのに、芝生が青かったのだ。冬場も枯れない西洋芝を使っているのだそうだ。
 「そうそう…そんな感じでいいよ。スカートのライン、気をつけてね」
 カメラマンにそう言われたモデルは、えっ、という感じで、意味もなくスカートの裾を弄った。彼女からはよくわからないのだろうが、芝生の上で膝を抱えて座る姿勢なので、スカートの裾の一部が上がりすぎてしまっていたのだ。
 本来、スタイリストが直すところだが、今日はそれに当たる担当者がいない。結果、いち早く気づいた佐倉が駆け寄り、一番綺麗に見えるラインに裾を整えた。
 「よし、風もおさまってきたので、撮影いきます」
 佐倉がフレームの外に出ると同時に、カメラマンがそう声を上げた。こうして無事、撮影はスタートした。

 …が、しかし。

 「…うーん…」
 数枚、連続で撮ったところで、カメラマンが謎の呻き声を発し、カメラから目を外した。
 「ポーズはいいんだけど、何か、足りないなぁ」
 「えっ。あ…あの、わたし、何か間違ったこと…」
 「ああ、いや、君はいいんだけどね。服装かなぁ? どうでしょう?」
 最後の「どうでしょう?」は、クライアントから派遣されている女性社員に向けられたものだ。自分の仕事振りに問題があった訳ではないと悟り、まだ経験の浅いモデルは露骨にホッとした顔をした。が、話を向けられた女性社員の方は、逆に焦ったような表情になった。
 「ええと、ど、どうなんでしょう? 確かに少し画面が寂しい気もしますけど…絵コンテも、こんな感じでしたしねぇ…」
 「そうですか…。うーん、いっぺん、ポーズ変えてみますか」
 「そ、それは困ります。このポーズだから意味があるサイトトップのデザインになってるんですから…」
 カメラマンの提案は、サイト制作者により却下となった。が、やはり何かがしっくりこないのは事実のようで、サイト制作者も、膝を抱えたモデルを眺めて、うーん、と首を捻った。
 確かに、何かが、足りない。
 ただし、奏は、それが“何”なのかに気づいていた。そして、それを埋める物も、既に見つけていた。
 チラリと佐倉を見ると、確認するような奏の視線に、肩を竦めて「あたしはキミに任せるわ」という笑みを返してきた。この場では飽くまでモデルのマネージャーでしかない佐倉は、何か気づいていても、直接手を出せる立場にないのだろう。
 任されたのなら、遠慮は無用。
 「―――あいちゃん」
 奏が駆け寄り声をかけると、所在なげにしていたモデルは、ちょっと不安そうに顔を上げた。
 「今日、来る時、確かキャスケット被ってたよね。あれ、どこにある?」
 「え…っと、あ、バッグの中に入れてます」
 「そっか。ちょっと借りるよ」
 彼女のバッグは、他の備品と一緒に、まとめてカメラマンの背後に置かれていた。ちょっと失礼、と急いでバッグの中を確認すると、確かに、2時間ほど前に見たえび茶色のキャスケットがそこに押し込まれていた。
 ―――ええと、タグ、タグ…。よし、ノーブランドだな。
 「ノーブランド品なら、問題ないですよね。これ、使いましょう」
 奏がキャスケットを掲げてそう言うと、カメラマンは一瞬驚いた顔をし、直後、ストンと腑に落ちたような納得した笑顔を見せた。
 「ああー、なるほどね。確かに、背景が広い分、頭部の軽さがバランス崩してるなぁ」
 そう、足りなかったのは、上半身のバランスだ。
 オフホワイトのコットンブラウスと赤系のプリーツスカートは、立っている分には十分可愛く、バランスも取れている。が、座って膝を抱えてしまうと、全身で一番色が派手なスカートの部分が半分ほど腕で隠れてしまう上に、このブラウスの特徴である胸元のギャザーフリルの大部分が見えなくなってしまう。モデルの髪型もショートボブで、ボリュームに欠けている。靴下やスニーカーも、スカートが失ったバランスを補うほどのインパクトはない。結果、ブラウスの明るい色ばかりがやけに目立ってしまい、全体がアンバランスになってしまったのだ。
 「これ被って、手前の腕を体の横につくポーズにすれば、大体バランス取れると思うんですけど」
 「それなら、もう少し襟元や胸元見えるように、若干こっち向き気味にしてみるか…。ちょっと相談するんで、とりあえず、モデルの方の準備、お願いします」
 サイト制作者と絵の確認をするらしく、カメラマンはそう言って、カメラ前を離れ、他のメンバーにも何やら声をかけ始めた。なんと言っても、今回は「撮り直し」なのだ。これを提出してまたダメ出しされたのでは敵わない。有無を言わせないものを突きつけてやる、とカメラマンも思っているのだろう。低ギャラの仕事にしては、目がやたら真剣なのが笑えた。
 「よし。あいちゃん、ちょっと立って。佐倉さん、ごめん、そこのメイク道具持って来て」
 「…社長使いが荒いわね、一宮君」
 苦笑しつつも、佐倉は素直にメイク道具を持ってモデルの所まで来てくれた。その様子を横目で見つつ、奏はモデルの頭にキャスケットを被らせ、帽子のつばから覗く前髪や耳にかかる髪を整えた。
 「ピンで固定した方がいいかしら」
 「そうだな…。佐倉さん、任せていい? オレ、ちょっとメイク直すから」
 別に、メイクが崩れた訳ではない。キャスケットを被ったせいで顔が幾分暗くなったので、若干の修正が必要になったのだ。佐倉がヘアピンでキャスケットを固定しようとする中、奏はアイライナーを手に取り、さっそく作業に入った。

 ―――なんか、変な感じだよな。
 自分でやっていて、これってどこかで見た光景だな、なんて、少し思ってしまう。
 それは、ロンドンで黒川のアシスタントの真似事をしていた頃に見た光景―――ファッションショーの裏側で、たくさんのモデルの間をアクセサリーやメイク道具を片手に忙しく回っていた、黒川の姿だった。メイクとスタイリスト、どちらの仕事もこなせる黒川は、よくこうして両方を1人で受け持ち、バックステージを駆けずり回っていたのだ。

 『ファッションていうのは、髪型、メイク、服装、アクセサリ、小物…それら全てが互いに絡み合って作る“美”だ。メイクではカバーできない欠点を髪型がカバーしたり、洋服の問題点を小物やアクセサリーが解決したりする。だから、僕のように引き出しを複数持っている方が、自由が利くんだよ。顔に華やかさが足りない時、華やかさを演出する手段を複数持ってるんだからね』

 どこの現場でだったか、黒川がそんなことを言っていた。
 あの時も、なるほど、と思ったが、こういう経験をすると、余計にあの言葉に共感する。引き出しは、多ければ多いほどいい。他の同業者にはできない提案が、より多くできるのだから。
 ―――あの頃にちょっとだけやってたスタイリスト見習いが、オレの引き出しの1つになってんのかな…。
 メイクの直しを終え、再びフレームの外へと移動しつつ、ぼんやりそんなことを思う。あながち、間違いではないだろう。あの頃の経験がなかったら、私物のキャスケットを引っ張り出してくるような機転が利いたかどうか、結構怪しいと思う。
 あんな小さな経験も、ちゃんと引き出しになっているのか、と少しくすぐったい気分を味わった奏だったが―――ふと、あることに気づいた。
 今、自分が持っている、一番大きな引き出し。
 それは、メイクアップアーティストとして積み上げた経験ではなく―――「モデル経験」なのではないか、と。

 ファッションは、複数の要素が絡み合って織り成す“美”……確かに、そうだ。でも、その要素の中には、必ずモデルが―――「人間」が含まれる。人間がいて、“美”は完成する。どんなに優秀なプロを揃えても、それがモデルをその気にさせ、自ら輝こうとするエネルギーを持たせられなければ、何の意味も持たなくなるのだ。
 奏ほどのモデル経験を持つ人間が、メイクやスタイリストの世界に転身する例は、恐らく珍しいだろう。「モデル経験」という引き出しは、他の同業者が持ち得ない、奏だけが持っている引き出しだ。
 だとしたら―――この引き出しは、奏にとって最大の武器なのではないか?
 もしかしたら、奏だからできる、モデルとして一流を見た人間だからできるメイクやコーディネートが、あるのではないだろうか…?

 ―――やっぱり、今のままじゃ、ダメだ。
 思いがけず気づいた可能性に、奏は唇を噛み、まだ置いていなかったアイライナーをぎゅっときつく握り締めた。
 奏は、漠然とではあるが、気づいてしまったのだ。
 自分が、一般客相手の今の状況に違和感を覚えずにはいられない、最大の理由―――それこそが、自分だけが持っている「モデル経験」という大きな引き出しだということに。


***


 ―――奏のやつ、上手いことやってるかなぁ…。
 立ち読みしていた雑誌を置き、咲夜はほっと息をついて、腕時計を確認した。
 「4時か…」
 予定どおり進んでいれば、そろそろ撮影が終わり、撤収作業をしている頃だろう。まるでデートにでも行くみたいに生き生きしていた今朝の奏の顔を思い出し、咲夜の口元に思わず笑みが浮かんだ。
 咲夜の方は、まだ店に行くには早すぎる時間だ。カラオケボックスで軽く発声練習でもするかな、などと思いつつ大きく伸びをした時、バッグの中から、携帯の着信音が聞こえてきた。
 ヨッシーか一成からだろうか、と思い、携帯を引っ張り出して見ると、表示されたのは、考えてもみなかった名前だった。
 “如月”―――実家の固定電話からだ。
 「……」
 知らず、緊張が走る。
 “母”が会社に訪ねて来た、あの日―――“母”と後味の悪い別れ方をしてから、既に3週間近く経つ。その間に、弟の亘の私立高校の受験と発表があり、発表当日に亘本人から「受かったよ!」と電話があった。が…、それ以外、咲夜も、そして“母”も、互いにコンタクトを取り合っていない。日頃から電話などしない間柄なのだから、当然なのだが。
 亘…では、ないだろう。亘の第一志望は都立だが、合格発表はおろか、試験もまだだ。試験本番を数日後に控え、私立の時以上にピリピリしているに違いない。芽衣は、自分では電話してこない。いつも亘か“母”に電話してもらって、電話を代わってもらうのだ。別に意味はないが、それが癖になっているらしい。
 どっちにしろ、“母”と話さなくてはいけないようだ。はぁ、とため息をついた咲夜は、やむなく電話に出た。
 「…もしもし」
 『お姉ちゃん?』
 聞こえてきたのは、意外にも、芽衣の声だった。
 「芽衣? どしたの、珍しい」
 『え、えへへへ…、ちょ、ちょっとねー』
 なんだか異様に照れた声だ。何なんだ一体、と咲夜が眉をひそめていると、芽衣は思いがけないことを言い出した。
 『あのねっ、今日ってお姉ちゃん、夜はお仕事なんでしょ?』
 「? そうだよ。それが、何?」
 『あのさー…、お仕事行く前に、ちょこっとだけ、うちに寄れない?』
 「は?」
 家に、寄る?
 「何かあったの?」
 『えっ。え、えーと…』
 『お祝い事だよー』
 芽衣の声に被さるように、亘のからかうような声が聞こえた。その声に反応して、「もぉっ! お兄ちゃんは向こう行ってて!」と芽衣の憤慨する声がした。どうやら受話器を下ろして亘に怒鳴っているらしい。
 「…何、お祝い事って」
 『ちっ、違うのっ。別にお祝いじゃないのっ。で、でも、ご馳走作るから、お姉ちゃんにもお裾分けしたいなぁ、って…ママが』
 何だかよくわからないが、ご馳走を作っているのなら、何かイベントがあったのだろう。そのことより、芽衣が小さな声で付け足した部分が、咲夜には気になった。
 「…もしかして、お母さんに頼まれた?」
 すぐには、返事がなかった。が、それまでより幾分声を小さな声で答えが返ってきた。
 『…うん。お姉ちゃんに電話して、ちょっとだけうちに寄るように言って、って、ママが』
 「…そっか」
 『ママと喧嘩したの?』
 喧嘩―――ではないだろう。“母”と咲夜は、喧嘩をしたことがない。何故なら、お互い本音を言い合ったことがないから。
 「違うよ。ちょっと、私がお母さんに心配かけてるだけ」
 『じゃあ、ほんのちょっとでいいから、顔見せてよ。そしたらママも安心するから』
 「うわ、なんか生意気なこと言うようになったじゃん」
 あの芽衣から、こんなことを言われようとは―――苦笑した咲夜は、「わかったよ」と返事をし、電話を切った。
 まあ、何のイベントがあったのか知らないが、きっかけを欲しがっていた“母”が、それに便乗して芽衣に電話をさせた、ということなのだろう。気まずい状態があまり長く続くのも嫌なので、咲夜にとってもいい機会なのかもしれない。
 「はー…。やれやれ」
 携帯をバッグに戻しながら歩き出した咲夜は、数歩歩いたところで、ちょうど本屋に入ってきた客とぶつかってしまった。
 「てっ」
 思いのほか、勢いがついていたらしく、ぶつかった相手が声を上げた。
 「あ、すみません」
 反射的に謝り、顔を上げると、相手は作業服を着た30代くらいの男性だった。不機嫌な顔をしつつも、大して痛くはなかったのか、「どうしてくれるんでぃ、ええっ!?」などと凄むこともなく、ジロリと咲夜の顔をひと睨みし、去って行ってしまった。
 ―――ん? なんか、見たことある作業服だな。
 どこで見たのか思い出せず、思わず去って行った男の背中を目で追う。作業服、作業服、と頭の中で繰り返していた咲夜は、ようやく思い出し、ぽん、と手を叩いた。
 「木戸さんだ」
 木戸が勤めている建設会社の作業服。作業着姿で出勤することの多い木戸だから、咲夜も覚えてしまっていたのだ。
 ―――そういえば、木戸さんとこ、どうなったかな…。
 妻の不倫疑惑という、洒落にならないトラブルを抱えている木戸のことを思い出し、咲夜の表情が暗くなる。今週末は、秋田の実家に帰っているだろうか? それとも、妻の裏切りの証拠をこれ以上見つけてしまうのを恐れて、また浴びるほど酒を飲んでいるのだろうか。

 木戸の娘は、息子は、母の不実を知ったら、どう思うだろう?
 もし知ったら、父や自分たちを裏切った母と、この先、どうやって暮らしていくのだろう?
 自分の不貞を全て知っている家族たちの前で、木戸の妻は、一体どんな顔をして生きていくのだろう―――…?

 ―――蛍子さんは、どういう顔で、私のこと出迎えるのかな。
 実の親ではない、と断言してしまった人の前で、一体私は、どんな顔をすればいいんだろう?

 多分、彼女も自分も、これまでと同じ顔で接することはできないだろう―――その予感に、咲夜は深いため息をついた。


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