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― 大切なコトバ ―

 

 咲夜が木戸の家族に思いを馳せている頃、理加子は、“ベルメゾンみそら”の101号室を訪ねていた。

 いや、訪ねたのは、優也の部屋だ。
 ところが、アポなしで来てしまったのが災いして、優也はあいにく留守だった。何時頃帰ってくるのか携帯で連絡をとっているところに、たまたま真理が通りがかり、「優也が帰るまでうちで待ってたら?」と言ってくれたのだ。
 「今日は海原先生、こっちじゃなく、杏奈ちゃんたちの方にいるかと思ったんですけど…」
 「ア…アッハハハハ、その筈だったんだけどねぇ」
 乾いた笑い声を上げる真理の姿は、本日は「変身後」である。
 男だとバレているのだから、女装していようがいまいが、別に地声のままでもいいんじゃないかと思うのだが、彼(と呼ぶのもこの姿だと微妙だ)の声は通常時より数音高く、しゃべり方も梨花っぽい。もし無意識にやっているのだとしたら、習慣とは実に恐ろしいものだ。
 「ゆうべ、2階の木戸さんて人と、人生相談なんかやりながら、しこたま飲んじゃってねぇ。今朝までに上げる筈だった原稿が上がらなくて、1日延長してもらったのよ」
 「あ、その人って、バーベル落とす格闘オタクおじさんでしょ? 優也から聞きました」
 「…ああ、まあ、その認識も間違いではないかな」
 木戸に会ったことのない理加子にとっては、それが上の階に住むおじさんに関する全てだ。確かに木戸はよくバーベルを落として優也に迷惑をかけていたし、部屋には格闘家のポスターが大量にある。とはいえ、偏りすぎな情報に、さすがの真理も「そうそう、その人」ときっぱり同意し難いものがある。
 「へー、海原先生、2階のおじさんとも交流あるんだ。ここのアパートって、ホント、フレンドリーですよね」
 「うーん…確かに他のアパートよりは、ね。でも、隣の人とはほとんど話しないし、木戸さんとも随分久しぶりだしね。ま、木戸さんは、ここじゃ唯一の妻子持ち仲間だから、お互い、いい相談相手になれてるところはあるかもね」
 「…まさか、その格好で、妻子持ち同士の人生相談とかしてたんですか?」
 ふと疑問に思って理加子が発した言葉に、真理はギョッとしたように目を丸くした。
 「は!? ま、まさか! いくらなんでもシュールでしょうが、その絵は!」
 「あっ、じゃあ、2階のおじさんも知ってるんですね。海原先生の正体」
 「そりゃそうでしょう。いくらアタシでも、一児の父なのに“一児の母”のフリして人生相談は無理無理」
 と言いつつ、化粧をして服を変えただけで一人称が自然と変わるあたり、一概に無理とも言い切れない気がするのだが―――そうですね、と相槌を打ちつつ、理加子は頭の片隅でそんなことをチラリと思った。
 「あれ? でも、そしたらここの人たち、みんな海原先生が男だって知ってるってこと? だったら、そんな格好しなくても…」
 「あー、これは、仕事用。今夜原稿取りに来る編集者にはまだカミングアウト前なんで、あなた誰ですか、と言われないようにね」
 「…大変ですね」
 「出版社には、全社、頭下げ終わってるんだけどねぇ…。担当がショック受けるから彼女には黙っててやってくれ、なんて頼まれちゃあ…」
 ―――それってつまり、全社に正体バラし済み、ってことよね。
 サラリと真理が口にした言葉に、理加子は思わず首を傾げた。いくら先に勘違いしたのが出版社側だったとはいえ、こんな悪ふざけが何年もまかり通った上に、それを暴露しても誰も怒ったり法的措置を取ったり週刊紙にリークしたりしないのだから、不思議に思うのも当然だろう。
 「ままま、とりあえず、お茶でもどうぞ」
 「あっ、いただきます」
 目の前に湯飲みを置かれ、理加子は脱いだコートを傍らに置いて座った。真理も、自分の分のお茶を置き、理加子の真向かいに座った。
 「で―――その髪は、どうしちゃった訳?」
 一息ついたところで、真理がようやくそう訊ねた。
 当然、会えば真っ先に訊かれるだろうと思っていた。むしろ家に上がってから10分以上も何も訊かなかったのが不思議な位だ。くすっと笑った理加子は、すっかり涼しくなった首元を無意識のうちに押さえた。
 肩下5センチほどだった理加子の黒髪は、ばっさりと切られていた。襟足の髪先は一応肩についているが、かなり段を入れた、思い切ったショートヘアだ。
 「んー…、気分転換、かな? おばあちゃんが絶対切らせてくれなかったから、イメージ定着しちゃって、物心ついてからずっとあの髪型だったんだけど…」
 「おやま。どういう心境の変化?」
 「…心境が変わった、って訳でもないけど…」
 どう、表現すればいいのか、わからない。理加子自身、自分の中の何が変わって、何が変わっていないのか、まだよくわからないのだから。
 なので、事実だけ、告げることにした。
 「…パパと、ママが、別居することに、なったから」
 真理の目が、驚きに見開かれた。

 それから理加子は、海原家に招待された日からの2週間に自分の身に起きた出来事を、真理に手短に語った。
 母から離婚話を聞いたこと。翌日の家族会議を恐れて逃げ出したこと。優也が心底同情してくれたこと。咲夜が一晩泊めてくれたこと。そして、先週の土曜日、両親の前で初めて、自分の本音を曝け出したこと。半年間、“家族”になる努力をしない限り、離婚なんて認めない、と泣いて宣言したこと。
 「…凄く、びっくりしてた。2人とも、あたしが離婚に反対する筈がない、って思ってたみたい。変でしょ。親子なのに、お互い“相手は自分に関心がない”って思ったまま、ずーっと一緒に暮らしてたなんて」
 理加子の苦笑に、真理が僅かに眉をひそめる。が、何も言わず、先を促すように軽く頷いただけだった。
 「あたしもだけど、なんかパパとママも混乱しちゃってたみたいで、少し待ってくれないか、って言われて……2人でも話し合ったし、あたしもそれぞれから話を聞いたりもして―――あたし、1つだけ、すっかり忘れてたことに気づいたの」
 「…何?」
 「パパとママが、男と女なんだ、ってこと」
 「……」
 「あたしの両親としてセットで生まれてきたんじゃなくて、別々に生まれて、別々に育って…出会って、恋に落ちて、結婚して―――そういう、あたしたちと同じ、普通の男と女だったんだ、ってこと。当たり前なんだけど、一度も考えたことなかった」
 「…子供にとっての親ってのは、そんなもんだよ。誰だって」
 苦笑混じりに真理が言うと、理加子もコクンと頷いた。理加子も、自分だけではないことはわかっている。子供とは大抵、考える必要に迫られでもしない限り、両親が自分の親となる前のことなんて想像できないものなのだろう。
 「パパやママも、あたしと同じなんだ、って思ったら…少し、わかった気がするの。あたしだって、いくら好きになった人でも、気持ちが冷めちゃったり幻滅しちゃったりしたら、義務感だけで一緒に暮らせないと思うもん。だからって、離婚にすぐ賛成できる訳じゃないし、やっぱり勝手だって思う部分もあるけど…ちょっと、だけ」
 「そう。…それで、リカちゃんが出した条件は、呑んでもらえたの?」
 真理の問いかけに、理加子は微かに微笑み、首を横に振った。
 「パパは、嫌なことから逃げちゃうタイプの人だから。あたしも知らなかったけど、いっぱい話してみて、それがよくわかったの。なんか、色々理由つけてたけど、とにかく“無理”みたい」
 「…そう…」
 「でもね、聞き入れてもらえたことも、あるの」
 思い直したように、理加子は少し表情を明るくした。
 「本当は、今月中にも離婚に向けた手続きや準備に入ろうって話だったんだけど、それを延期して、とりあえずパパが家を出て一人暮らしを始めることになったの。それと、毎週決まった日に、っていうのは難しいけど、3人の都合が合う日を選んで、せめて月に1度か2度は、一緒にどこかで食事しよう、って」
 「ああ、それでさっき、“別居”って…」
 「そう。2人とも、あたしが納得しないうちは、離婚はしない、って」
 それが、一時的なことに過ぎないことは、わかっている。これは、両親が昔の気持ちを取り戻してやり直すための猶予ではなく、理加子が気持ちの整理をするための猶予なのだろう。それでも。
 「…初めてかも。パパやママが、あたしの気持ちを最優先してくれたのって」
 「嬉しい?」
 「うん」
 「でも、リカちゃんが望んだのとは、随分違う結論だよね? それでも?」
 「うん。あのパパとママが、あたしが嫌がってる、っていう理由だけで、離婚を思いとどまったんだもん」
 「…欲がないね、リカちゃんは」
 呆れるでもなく、かといって哀れむでもなく、真理がため息混じりに苦笑する。けれど、理加子はくすっと笑い、首を振った。
 「ううん、そんなことない。前に比べたら、欲張りになったもん。ついこの前までのあたしだったら、本当はショック受けてても、離婚に反対しなかったと思う。うちの家族はそんなもんなんだ、って諦めちゃってたから」

 諦めたくないと思うようになったのは―――杏奈に、出会ったから。
 自分とよく似た境遇にいるのに、両親の愛情を最大限受けている杏奈。真理も、梨花も、日々の仕事に追われながらも心から杏奈のことを思い、杏奈の気持ちを測りかねて悩んでいた。そのことが、真理や梨花の言葉だけではなく視線や表情から、理加子にもよくわかった。
 でも、杏奈は杏奈で、自分の存在が両親の仕事の足枷になっていると感じて、悩んでいて。なのに、一番杏奈のことを考えている筈の2人には、その気持ちは届いてなくて。
 お互いがお互いを、思っている。けれど、大事な気持ちは届いていない。理加子が伝えたことで初めて相手の気持ちに気づき、驚いている。そんな海原家の親子を見ていたら―――ふと、思った。
 自分も、そうなんじゃないか、と。
 寂しい。苦しい。悲しい。その思いは確かにあるのに、それを伝えたことは、なかったのかもしれない。親が怒りそうな、心配しそうな真似をわざとしては、その反応で親の愛情を測ろうとしてばかりで、本当の気持ちは、一度も伝えていないのではないか、と。
 そして、初めて、思った。
 もし、自分がそうであったなら、もしかしたら―――両親も、何か大切なことを、自分に伝え損ねてしまっているのかもしれない、と。

 「もしこのまま、別居から離婚、てことになっても、今度はあたし、ちゃんと納得できると思うの。あたしの気持ちを伝えて、2人にもそれを受け止めてもらえたし、あたしも2人の気持ちを聞いて、少しは理解ができたから」
 「…そう」
 「言葉って、大事なんだ」
 理加子がしみじみと言うと、真理も口元をほころばせ、ゆっくり頷いた。
 「人間と他の動物を大きく分けてるのは、二足歩行より、言葉での高度なコミュニケーションによる部分が大きいものね」

 言葉に傷つき、言葉に癒され、言葉で理解を深める。
 それは全て―――“人間”だから。


***


 理加子が真理の部屋を訪ねる、4時間ほど前。前日、真理と酒を酌み交わした木戸は、義弟の運転する車の後部座席にいた。

 「わざわざすまんねぇ、健二君」
 木戸が言うと、ルームミラーの中の義弟の目が、いえいえ、という風に笑った。
 「お義兄さんこそ、大変ですねぇ。きつい仕事な上に、毎週のように東京と秋田を往復してるんじゃあ…。僕には無理だなぁ」
 「ハハハ、まあ、丈夫なだけがとりえだからね」
 などと笑ってみせるものの、正直なところ、さすがの木戸も今日は疲労を自覚している。昨晩、結構遅くまで飲んでしまったのも原因の1つだが、ここ最近の不摂生も祟っているのだろう。廊下で苦しんでいるところを咲夜に助けられて以降は、酒の量だけは控えるようにしたが、食欲がないのでまともなものを食べていないし、日々のトレーニングもサボり気味でいるのだから。
 「こっちに支社がありゃあ、異動を考えんでもないんだが、あいにく支社ができる予定もないしね」
 「…だから、私たちが東京に戻ればいいんだってば」
 木戸の隣に座る娘の友子が、そう言って不満そうに唇を尖らせた。
 昨日は義弟の娘、つまり友子の従姉妹の誕生日で、そのお祝いに呼ばれていた友子は、そのまま隣町にある義弟宅に泊まったのだ。今日は病院に薬を貰いに行く日でもあるので、義弟が病院に送りがてら、途中の駅で木戸のことも拾ってくれた訳だ。
 「そうだなぁ、友子ちゃんも随分良くなったみたいだし、東京にいた頃の友達だっているしなぁ」
 「お兄ちゃんも、大学は東京の方で選ぶって言ってたよ」
 「えっ、そうなのか?」
 長男・豊は、秋田県内の私立高校に既に合格しており、間もなく本命である公立高校を受験する。まだ高校受験が終わってもいない段階なので、当然、大学の話など話題に上る筈もないのだが、まさか豊が既にそんな希望を持っているなんて、木戸は全く知らなかった。
 「いつそんなこと言ってたんだ?」
 「私が東京の学校受けたがってるの知ってるから、私にだけ言ったのかもしれないけど、結構前から言ってたよ。高校も、いつ東京に戻るかわからないから、って、ギリギリまで県内の高校受けるか迷ってたみたい。もし戻るんなら、ユウジ君と同じ高校、受けたかったんだって。でも、どっちにしてもお兄ちゃんの成績じゃ無理な高校みたい。だから高校で勉強頑張って、大学は同じとこ受けようって、約束したんだって」
 「…そういえば、ユウジ君が東京に戻ってるんだったなぁ」
 ユウジ君とは、東京にいた頃の豊の大親友で、木戸家が秋田に引っ越す少し前、父親の転勤について行く形で大阪に引っ越してしまったのだ。その後2人は、秋田と大阪に離れ離れになりながらも、地道に電話や携帯メールで連絡を取り合っていたらしく、去年のちょうど今頃、「ユウジんとこ、また転勤で東京に戻ったんだって。町田らしいよ」と、無口な豊にしては珍しく弾んだ口調で家族に報告していた。思えばあの頃から、いずれは自分もユウジのいる東京に戻りたい、と思っていたのかもしれない。
 「なんであいつ、父さんに相談しないんだ? 一言相談してくれりゃあ、豊だけでもこっちに来させるように母さんを説得してやるのに」
 木戸が眉根を寄せると、友子はクスクス笑いながら、内緒話をするみたいに少し声をひそめた。
 「ユウジ君より下の高校受けるために東京に行きたいなんて、カッコ悪くて言えない、って言ってた。それに、お兄ちゃん、全然家事とかできないから、今自分だけ行っても、お父さんの負担を増やすだけだ、って」
 「……」
 「これから頑張る、って言ってたけど、お兄ちゃんじゃ、どうかなぁ…。私が東京の高校行くのに大賛成なのって、私も行けば私にご飯作ってもらえる、って思ってるからなんじゃないかなぁ」
 「ハハハ…」
 ―――あいつも、色々考えてるんだなぁ…。
 難しい年頃になり、何を考えているのやらさっぱりわからなくなってしまった豊が、そんな風に自分や家族のことを考えていたとは。友子の話に笑い声を上げながら、木戸は豊の成長を実感して、少々感動してしまった。
 「ふーん…。秋田(こっち)の人間にとっちゃあ寂しい話だけど、豊君も友子ちゃんも義兄さんとこに行っちゃうんなら、姉ちゃんも孝連れて東京に戻るんだろうなぁ」
 少し残念そうな口調で、義弟がそう呟く。
 ―――いや、それはどうだかわからんぞ。
 内心、呟いたその一言を、木戸はさすがに口に出すことはできなかった。


 土曜日の病院待合室は、とてつもなく混んでいた。
 友子に付き添って病院に行くのは、考えてみれば随分と久しぶりのことだ。予約を取っているのに、どうしてこんなに待たねばならないのだろう、と首を捻ったのを思い出し、今日も相当待つんだろうな、と木戸は覚悟した。
 「お父さん、ジュース飲みたい」
 「ん? ああ、いいよ。何がいい?」
 「ううん、私が買ってくる。お父さん、ブリックパックの自販機の場所、知らないでしょ」
 どうやら、飲みたい銘柄が決まっているらしい。そうか、と言って、木戸は小銭入れを友子に渡した。
 「お父さんとおじさんの分も買ってくるね。何がいい?」
 「あー、そうだなぁ、ブリックパックか。じゃあコーヒーかな」
 「おじさんは?」
 「おじさんもコーヒーで」
 はーい、と返事をした友子は、慣れた様子で廊下を走って行く。その後姿は、こうして見る限り、他の健康な中学1年生の女の子と何ら変わりはない。つくづく良くなったなぁ、と、しみじみ実感する。
 「しかし凄い人だなこりゃあ…。健二君まで一緒に待たせるのは気がひけるよ」
 「いいんですよ。義兄さんと友子ちゃんを送ったら、実家に顔出すことになってるんで。それに、ばあちゃんの見舞いで何度か来たから、この病院の混雑も見慣れてますしね」
 ばあちゃん、というと普通は娘や息子たち世代から見た祖母のことを指すのだろうが、この場合は違う。義弟の言うばあちゃんとは、彼や妻にとっての“ばあちゃん”―――つまり、友子から見たら曾祖母である。確か今年94か95だった筈だ。同じ秋田県内に住んでいるのだが、年明け早々、転んで脚の骨を折り、一時この病院に入院したのだ。年齢が年齢なので心配されたが、無事退院し、今は元気に三味線を弾いているというから凄い。成人するまでに祖父母4人が全員他界してしまった木戸から見たら、まさにスーパー老人だ。
 「そういえば、おばあさんのお見舞いにも行けずじまいだったなぁ…」
 「いいですって。うちの親父だって、実の息子なのに1回見舞いに行っただけなんですから。僕はこの病院に職場が近いんで、全親戚代表みたいに見舞いに行かされたんですよ」
 「そうか。健二君の会社、この辺なんだったな」
 そんな話をしていた木戸だったが、

 「リョウ先生!」

 「!!」
 反射的に、ビクリ、と肩が強張る。
 騒がしい大病院の待合室で、何故、その声だけが木戸の耳に届いたのか……けれど、木戸は確かに耳にした。“リョウ先生”という呼び声を。

 『先生も、遠慮なく相談してくれていいのよ?』
 『やぁねえ、遠慮しちゃって。私とリョウちゃんの仲じゃないの』

 ―――“先生”…“リョウちゃん”…。
 “リョウ先生”。
 思い至るまで、僅か2秒だった。ハッとした木戸は、思わず振り返り、声の主を探した。雑多な人間で混雑している中でも、見つけるのは、案外簡単だった。
 「リョウ先生っ」
 声の主が、もう1回、呼んでくれたのだ。
 呼んだのは、この病院の看護士。呼ばれたのは、白衣を着た男―――多分、この病院の医師だろう。木戸たちから数メートル離れた廊下を歩いているところを、看護士に呼び止められ、振り返っている。
 “リョウ先生”を呼び止めた看護士は、何やら真剣な表情で彼と話を始めた。おかげで木戸は、じっくり“リョウ先生”を観察することができた。
 30代半ば位だろうか。銀フレームの眼鏡がちょっと冷たそうな印象だが、簡潔に言うなら“優男”が一番しっくりくる代名詞だ。そう言えば、去年衛星放送でやっていた中国だか韓国だかのドラマに出ていた俳優にタイプが似ている。木戸はそうした流行に疎い方だが、妻がその俳優に熱を上げていて、帰省した木戸に無理矢理見せたので、覚えていたのだ。
 間違いない―――予感が、確信に変わる。
 妻の深夜の電話の相手…“先生”。“リョウちゃん”。それは、あの医師だ。
 「義兄さん?」
 あまりしげしげ見ていたせいか、義弟が不審気に声をかけてきた。
 慌てて木戸が義弟の方を向く間に、木戸の視線を追って、義弟も“リョウ先生”に目を向けた。そして、義兄が誰を見ていたかを知ると、思いがけないことを口にした。
 「高橋先生が、何か?」
 「…え、タカハシ?」
 「あの先生。ばあちゃんが入院した時の主治医の先生ですよ。高橋先生。外科にタカハシ先生が2人いるんで、リョウ先生って呼ばれてるみたいだけど」
 ―――おばあさんの、主治医だったのか。
 妻も、祖母の見舞いには2、3回来ている筈だ。それに、外科……次男の孝が、柔道で肩を痛めて病院にかかったのは、確か去年の夏頃だったのではないだろうか? 友子がこの病院に通っているのだから、妻が孝を連れて行ったのも、恐らくこの病院だろう。だとしたら…その時、孝を診たのがリョウ先生だった可能性も…。
 「もしかして義兄さん、あの噂、知ってるんですか」
 ぼんやりと色々な可能性について考えをめぐらせていた木戸は、義兄のヒソヒソ声に、我に返り、眉をひそめた。
 「噂?」
 「いや、ここだけの話、リョウ先生は、ちょっとこの病院じゃ有名なんですよ。その、裏話の方で」
 「…裏話…?」
 他の患者に聞かれてはまずい情報なのだろう。義弟は更に声をひそめ、ちょっと面白がるような口調で話し出した。
 「あの先生、今月の頭に子供が生まれたばっかりなんですけどね。奥さんの妊娠中、あちこち遊び歩いたみたいで―――看護婦さんの間で噂になってたんですよ。どこそこで何号室の患者の娘と食事してるのを見ただの、どう見ても年上の女と繁華街を歩いてるのを見ただの」
 「……」
 「あ、僕は、同級生のかみさんがここの看護婦なんで、そこ経由で聞いたんですけどね。なんでも、看護婦にもちょくちょく手を出してたみたいですよ。人は見かけによらないですねぇ」
 どうせ年下の男にお世辞の1つも言われてその気になったんだろう、程度には思っていたが…よもや、自分の患者やその家族に、しかも複数手を出すような男だったとは。その上、看護婦にまで? 全くあきれ返る。いや、そんな男におだてられてその気になる妻も妻だ。
 ゴクリ、と唾を飲み込んだ木戸は、胃の辺りがムカムカしてくるのを感じながら、
 「…そ…それで? そんなに噂になって、問題にならんのか、あの先生は」
 と先を促した。すると義弟は、ここからが本番とばかりに、笑いを堪えるようにしながら続けた。
 「それがね、この前、ヤバかったらしいですよ」
 「ヤバかった?」
 「あの先生、子供生まれた途端、子煩悩パパに変貌しちゃったらしくて。誘いを断られ続けてキレたどっかのオバサンが、病院に来て、騙しただの裏切っただの、あーだこーだと喚いたんだそうですよ」
 「わ、わめ…」
 一瞬、木戸の脳裏に、激昂した顔で病院に怒鳴り込みに来る妻の姿が浮かんだ。いや、妻ではないだろう。もしそうなら、身内の大恥だ、義弟がこんな面白そうな顔で話す訳がない。
 「どの程度の関係だったか知らないけど、先生の方が“ご家族のことで悩んでる様子だったから、主治医として相談に乗ってあげただけ”で押し通した上に、心底親身になってるような顔で“僕が相談に乗ったことをご主人が面白く思っていないのなら、僕から説明に伺いますから”なんて言ったもんだから、すっかりそのオバサンの方がストーカー扱いですよ。結構ワルですよねぇ、見た目、紳士なのに」
 「…そ…そう、だね」
 ―――…あ…頭が…。
 「しかし、どこがいいのかなぁ? 第一、自分が既婚者で相手が年下って段階で、遊ばれてることは承知の上だろうに、本気にするようなバカがこの世に、しかも何人もいるとはねぇ…。女ってそんなもんなんですかねぇ」
 健二君、君、血を分けた実の姉がその“バカ”の1人であると知っても、今のセリフを言えるかね? なんてことを、木戸の性格で言える筈もなく。
 ただ、いまいち回転の悪くなった頭で、そういえば肝心のリョウ先生はどうなっただろう、とふと思い、視線をそちらに向けてみたら、既に先生の姿も看護士の姿もなかったことに、何故か妙にホッとした。
 ―――頭、が、ぐらぐら、する。
 「買ってきたよー」
 リョウ先生が立ち話をしていた辺りから、ブリックパックを3つ抱えた友子が現れた。
 友子の顔を見た途端、スイッチが、パチン、と音を立てて切り替わった。いかん。友子にこんな話は聞かせられないし、こんな話をしていたと悟られる訳にもいかない。木戸の顔に、父親の笑みが貼り付いた。
 「お、おお、ご苦労さん」
 反射的に立ち上がった、次の瞬間―――視界が、ふっ、と真っ暗になった。

 木戸は、健康オタクだ。
 子供の頃から健康で、肉も魚も野菜も好き嫌いなく食べたし、風邪をひくことも滅多になく、たとえひいても普通の人間が寝込むレベルの病状にも耐えられた、健康優良児だ。
 だから、「眩暈」という言葉を、辞書的意味としては知っていても、実際どんなものか、この時まで、知らなかった。

 「お父さん!!」
 「義兄さんっ!?」
 2つの悲鳴を聞きながら、木戸は、ガクリとその場に崩れ落ちた。

***

 「お父さんっ!」
 友子とよく似た声が、処置室の扉が開くと同時に飛んできた。
 そういえば、世の奥様方は、旦那が自分のことを「お母さん」と呼ぶと、密かに「私はあんたの母親じゃない」と不満を募らせるらしいよ、と昨晩、101号室の住人が言っていた。そのせいだろうか、妻のこの第一声を聞いた時、木戸が真っ先に頭に思い浮かべた言葉は、何故か「俺はお前のお父さんじゃないぞ」だった。
 処置室のベッドに寝かせられていた木戸は、血相を欠いた妻と、その後ろから心配そうな顔を覗かせた豊と孝に向かって、おお、と手を挙げてみせた。が、まだ眩暈が治まっていない木戸のうつろな笑顔は、かえって家族を心配させてしまったらしい。
 「ど…どうしたの!? どこが悪いの!? 健二っ、あんた、先生から何か聞いてるんでしょ!? ちゃんと説明してっ!」
 「ね、姉ちゃん、落ち着いて…」
 ああ、そういえば、妻は友子が発作を起こした時も、こうやって周りが見えなくなってアタフタしていたっけ―――心配性な上に、パニックに陥る傾向が高いのだ。一番トラブルに弱いタイプだ。
 「落ち着いて、って…あんたこそ、何をそんなに落ち着いてるの! あんなに慌てて電話してきておいてっ」
 「いや、かーさん、俺は大丈夫だから」
 ―――こいつは、俺の母親じゃないぞ。
 自分で言いながら、自分で突っ込みを入れる。お互い、名前で呼ばなくなって久しいが、考えてみれば、世の奥様方が憤慨するのは間違っている。奥様方だって、旦那を「お父さん」と呼び、旦那はそれを容認してるじゃないか。
 いや、そんなことは、今はどうだっていいのだった。
 どうも、初めてこんなことになったせいで、頭が混乱しているらしい。木戸は、駆け寄ってきた妻に、照れ笑いのような曖昧な笑みを返した。
 「大したことじゃあないんだ。健二君が驚いちゃって電話しただけで、家族を呼ぶようなもんじゃあ…」
 「でも、あなた、点滴なんかしてるじゃないの…! 全然大丈夫じゃないわよっ」
 「…いや、点滴してるから、もう大丈夫なんだが…」
 いまいち話が噛み合っていないところに、またドアが開いた。
 「あ、友子」
 豊の声に、大人3人もドアに目を向ける。見れば、この病院の名前が入った小さな袋を持った友子と、その後ろから、さっき木戸を診てくれた医師が入ってくるところだった。
 「あ、お姉ちゃん、どこ行ってたの?」
 弟の孝に訊かれ、友子は薬袋を掲げてみせ、「私の順番来ちゃったから」と小声で答えた。そして、妻の顔を見るなり、ホッとしたように顔をほころばせた。
 「えーと、奥さんですか」
 ドアを閉めつつ、医師がそう確認すると、妻は居住まいを正し、忙しなく頭を下げた。
 「木戸の、家内です。あの、主人は…」
 よほど妻の顔が蒼褪めて見えたのだろう。医師はちょっと苦笑し、妻の言葉を遮るように軽く手を挙げた。
 「ああ、それほど心配なさらなくても…。重大な病気という訳ではありませんので」
 「それじゃあ…?」
 「まあ、一言で言えば、過労ですね」
 医師の言葉に、孝が豊に「何、カロウって」と小声で訊ねた。少しうるさそうな顔をしつつも、豊も小声で短く「働きすぎってこと」と答えていた。
 「お話を伺いましたが、東京に単身赴任をされているそうで…。頻繁に帰省されるのは結構なことですし、健康維持のために日々トレーニングを欠かさないのも立派なことですよ。ご主人、大変真面目で仕事熱心で家族思いでらっしゃるようだから、多少苦しくても頑張ってしまう傾向が強いんでしょう。でも、人間の体は、働き続けられるようには出来てないんですよ。休日は、ゆっくりと体を休めないといけません」
 最後の一言は、木戸を軽く睨むようにして言われ、木戸は思わず体を縮めた。確かに、会社は休みがあるが、木戸自身が休んでいる日はほとんどない気がする。車の座席位置のズレに気づいてからは、時々帰省をパスするようになったが、そういう休日は1人で部屋にいるのが嫌で、ジムやプールで1日汗を流していたのだから。
 「それと、ここ最近食欲がない、と言われたのでちょっと検査してみたところ、胃腸がかなり弱っているようです。ただ、それは疲労やストレスからくる症状で、実際に胃や腸に異常がある訳ではないので、そこのところは安心して下さい」
 「…お父さんが、食欲がないなんて…」
 そんな木戸を、結婚してからこれまで一度も見たことのない妻は、ただそれだけで呆然とした顔をした。
 「あまり栄養状態が良くないところに、昨晩、お酒を飲まれたとのことで、一時的低血糖に陥ってるようです。一応点滴はしてますが、一時しのぎにすぎませんので、まずは十分な休養と栄養です。立場上難しいことはわかりますが、もし可能なら、何日か仕事を休んで、心身共に休めてあげた方がいいですよ」
 「…はあ…」
 「あ、それと、点滴が終わるまで、あと30分ほどかかりますので」
 「…はい」
 やっと、医師から言われたことの全てを飲み込み終えたのだろう。妻はようやく、はっきりした表情になり、そそくさと医師に「よろしくお願いします」と頭を下げた。


 まだ暫く帰れそうにないということで、子供たちは義弟が喫茶コーナーに連れて行ってくれた。妻は、心配だから、と言って、その場にとどまった。
 2人きりにはなったものの、木戸はやっぱり、“リョウ先生”のことを妻に訊く気にはなれなかった。というか…冷静になって考えてみたら、だんだん確信を持てなくなってきたのだ。
 もしあの医師が妻の相手だったとしたら、車の座席の件の説明がつかない。木戸家の車を運転した医師は、一体どうやって木戸家から帰ったのだろう? それに、あれほどシートを後ろに下げねばならないほど、高橋医師は大柄ではない。
 “リョウちゃん”とは、“リョウ先生”のことではないのだろうか?
 いや、やはり“リョウちゃん”は“リョウ先生”のことで、それとはまた別に、あの車を運転した男がいる、ということか…?
 もし、あの電話の相手があの医師だとしたら、妻は、義弟が話したようなあの医師に関する醜聞を、既に知っているのだろうか? 知らなかったとしたら―――…。

 そんなことを、木戸があれこれ考えていると。
 「…最近、帰って来ない日が増えたのは、体がきつかったからだったの?」
 ため息混じりに妻に言われ、木戸は一瞬、返答に窮した。
 ―――いや、そうじゃないぞ。お前の態度がおかしいから、うちの車がおかしいから、深夜の電話がおかしいから、帰って来れなかったんだ。
 そう答えたら、妻はどういう反応を見せるだろう? 試してみたい気もしたが、やっぱり木戸は臆病な人間だ。それに、体力的にきつかったのも嘘ではない。
 「まあ…ちょっと、な。そろそろ無理のきかん歳になったってことかもなぁ」
 木戸がそう答えると、妻は更に大きなため息をつき、なんだか泣き出しそうな顔をした。
 「それならそうと、なんで言わないんですか」
 「え…」
 「お父さんはいつだって、俺は大丈夫だー、俺は大丈夫だー、って言うばっかりでしょう? 全然大丈夫じゃなかったじゃないですか」
 色々と思うところがないでもないが―――確かに、倒れてしまった今となっては、そうですね、としか言いようがない。木戸は気まずそうな顔で、
 「…すまん」
 と謝っておいた。
 「もう…っ、お父さんのことだから、男が弱音を吐くなんてみっともないとか、男のメンツが、とか思ってたんでしょっ。ダメよ、ほんとに。あなたは一家の大黒柱なんだから、あなたが倒れちゃったら、家族全員共倒れなんですからねっ」
 「……」

 何故だろう?
 木戸がこの時、やけに強く感じたのは―――ああ、こいつは俺の母親じゃないし、俺はこいつの父親じゃないけど、こいつは俺の妻で、俺はこいつの夫だったんだなぁ、なんていう、実に当たり前のことだった。

 木戸が妻の変化に戸惑い、恐れを抱いたように、妻だって、帰ってくる回数の減った木戸に戸惑い、恐れを抱いたのかもしれない。
 “リョウちゃん”とやらに「どうせいい人でも出来たんじゃない?」と言っていたのも、今考えると、自分が勝手気ままにしていることへの言い訳ではなく、不安が言わしめた強がりだったのかもしれない。
 いや、そんなのは、木戸の都合のいい想像でしかないのかもしれない。「かもしれない」―――全ては、ただの可能性。何ひとつ、確かめた訳じゃない。
 でも、1つだけ、嘘じゃないことがある。
 それは、さっき妻が見せた、泣き出しそうな顔―――倒れてしまった夫を見て、取り乱してしまった、妻の顔。それだけは、嘘ではないと確信できた。
 …不思議だ。たったそれだけなのに、全ての疑問を、一瞬、忘れることができた。

 「…じゃあ、ちょっと弱音を吐かせてもらうかなぁ」
 苦笑した木戸は、枕元に座る妻を見上げた。
 「今すぐとは言わんが、どうだろう。近い将来、また東京に戻って来ないか?」
 「…近い将来…?」
 「友子も豊も、前の学校に親友がいて、2人とも東京に戻りたがってる。特に友子は、東京に憧れの附属高校があって、大学までそこに行きたがってるから―――友子が2年生のうちに、みんなでこっちに戻って来ちゃあどうだろう?」
 ここまで具体的な提案をしたのは、今回が初めてだ。一瞬、目をパチクリさせた妻は、直後、少し困ったように眉根を寄せた。
 「けど、豊が…。あの子、もうすぐ公立の試験でしょう?」
 「だから、今すぐじゃなく、近い将来だよ。とりあえずこっちの高校に入学するとして…そのままこっちの高校に通いたければ、お前の実家から通わせてもらう、って方法もあるだろうし、あいつが東京に戻りたがれば、編入って手もある。孝の気持ちだって訊かなきゃならんから、みんなでじっくり、今後どうするかを話し合えばいいさ。とにかく―――せめて、友子が本格的な受験勉強に入るまでには、お前たちもこっちに来て欲しいんだ」
 「……」
 「…いや、子供たちのことばっかり言ってしまったが、本当は違うな」
 どうしても子供優先の理論になってしまう。いかんなぁ、と自分で自分をたしなめた木戸は、点滴の針をちょっと気にしながら、腕を伸ばし、妻の手の甲をポンポン、と叩いた。
 「俺の方が、そろそろ、限界なんだよ。…友子が安心して住める、なるべく空気のいい所を探すから、こっちに戻ってくれないか」
 「…お父さん…」
 妻は、その言葉に少し驚いた顔をした。が―――やがて、僅かに笑みを見せると、
 「そうねぇ…。そろそろ、考えないといけないわね」
 と答えた。その、どことなくホッとしたようにさえ見える顔を眺めながら、木戸は初めて、ある事に気づいた。
 そういえば、自分も妻も、これまで何かを主張する時、「子供が」という理由は幾度も口にしたが―――「私が」「俺が」という理由を口にしたことは、ほとんどなかったのだ。

 

 それから数時間後。
 孝が通っている道場の先生が、真新しい車に乗って木戸家を訪れたことで、後ろにずれていた座席の謎はあっさり判明した。
 「実は、前に乗ってた車が事故で廃車になってしまいまして―――彼女は、中心部に住んでて無駄が多いから、って車持ってないし、新しい車を買うだけの頭金もないしで、困っていたところに、奥さんが事情を聞いて“うちのを使っていいですよ”と申し出てくださったんですよ」
 そういえば彼は、7月に結婚を控えていたのだった。木曜定休の婚約者とのドライブデートなどのために、時折、木戸家の車を借りていたのだ。
 「このとおり、やっと車を買えました」
 それを報告するために、木戸家から徒歩圏内に住む彼は、わざわざ新車に乗ってやってきたらしい。柔道の先生をやっているだけのことはある。ありがとうございました、と頭を下げる彼は、190センチを超える大男だった。頭の中で、その巨体を木戸家の自家用車の運転席に座らせてみたら、後ろにズレていた運転席にしっくりとはまった。
 「車貸してる友達って、先生のことだったんだ。僕、全然知らなかった」
 「す、すまんすまん。先生がお母さんに頼んだんだ。父兄の車で彼女とデートしてるなんて、みっともなくて、生徒には知られたくなかったんだよ」
 膨れる孝に、彼は汗をかきながらそう謝った。木曜の午前に借りて、金曜の午前に返す―――だから、子供たちも、車を借りているのが誰か知らずじまいだったらしい。もっとも、誰かに貸していることは知っていたのだから、木戸が友子か誰かに自分が気づいた異変について確認をとれば、あれほど悩まずに済んだのだが…。
 「…俺も、全然知らなかったぞ」
 木戸が軽く妻を睨むと、妻は悪びれない様子で、
 「隠してた訳じゃないけど、別にお父さんに断りを入れるほどの話でもないと思って」
 と答えた。その一言に、木戸は大いに拍子抜けしたのだった。


 木戸を悩ませた車の件は、木戸の杞憂に過ぎなかったらしい。
 それでも―――あの日、妻が家族に嘘をつき、“リョウちゃん”という“先生”と密かに会っていた事実は、消えない。そして、あの夜、木戸が妻の秘密の電話を立ち聞きしてしまった、という事実も、消えない。
 でも、多分、何も言わない。
 心の中に、小さな痛みとしこりを抱えたまま、きっと…一生、何も言わずに生きていくのだと思う。

 『許せるんですか…? 自分を裏切った人なのに…それでもまだ、愛せるもんなんですか?』

 ―――…どうなんでしょうねぇ…、如月さん。
 やっぱり、白黒つけたくないわたしは、臆病な人間だ、っちゅうことかもしれませんね。

 けれど、あの病室で、たった1つ、確信できたことがあったから。
 たとえ昔ほどの情熱がなくても、他の誰かの甘い言葉に心が動くことがあっても―――自分が、妻にとって、誰よりも必要な人間であること。絶対に失いたくない存在であること。…それだけは、確信できたから。
 それさえ、確信できれば、大丈夫。この痛みを抱いていても、妻と共に、生きていける。子供たちの親として。そして…夫婦として。
 何故なら、どんなに呆れる部分があっても、どんなに腹の立つ部分があっても、木戸にとっての妻もまた―――誰よりも必要な、絶対に失いたくない存在だからだ。


***


 木戸家で大男が輝く笑顔で頭を下げている頃、咲夜は、以前より若干敷居が高くなった実家を訪れていた。

 「よっ、亘。最後の追い込みで脳みそすり減らしてるー?」
 「…すり減ってたら、受験本番で使う脳みそがなくなっちゃうだろ」
 縁起でもない、と呟かれ、咲夜は機嫌良く笑い声を立てる。
 機嫌良く笑えるだけの図太さと演技力を持っていたことに、こういう時、感謝せずにはいられない。一体、誰から受け継いだ能力なんだか―――と考えた時、血の繋がらない叔父の顔を思い出して、げんなりした。
 ―――DNA含有率ゼロの奴から一番才能受け継いでるって、生物学的に明らかな異常事態だよね。
 「…で、何、そのたわしは」
 亘が握り締めているたわしに視線を落としながら訊ねる。どう考えても、姉を出迎えるのに必要なアイテムとは思えない。
 「ああ、これ? 今、ジョンの水槽の掃除してるんだ」
 「へー。寒いのにご苦労なことで」
 「なんか、最近元気なくてさぁ、あいつ」
 亘が飼っている亀のジョンは、如月家に来た段階で既に大人の亀だったので、年齢はよくわからない。鶴は千年亀は万年、というが、まさか本当に1万年生きる訳ではないだろう。ジョンは、亀の平均寿命からいったら、現在どの辺りにいるのだろう?
 「ジョンって、何歳くらいな訳?」
 「今、13歳みたいだよ」
 「えっ、なんでわかんの!?」
 「甲羅の模様が、年輪になってんだよ。年食うとはっきりしなくなってくるらしいけど」
 「お姉ちゃーん」
 玄関内に入った筈なのに一向に姿を見せない咲夜に焦れたのか、奥から芽衣がパタパタと駆け出してきた。その手に、たわしと同じ位おかしな物が握られているのを見て、咲夜はちょっと目を丸くした。
 「お帰りなさーい」
 「…ただいま。まさか歯ブラシで出迎えられるとは思わなかったよ」
 「これから、ジョンの甲羅を掃除するの」
 「ああ…そう」
 ―――何、今日のお祝い事って、ジョンに関係でもある訳?
 なにやらイベントがあってご馳走を作っているから、お裾分けのために咲夜を呼んだのではなかっただろうか? その割に、兄妹揃って水槽掃除に甲羅掃除ときている。なんだか妙な状況だ。
 「パパが帰ってくるまでに終わらせないといけないから、急いで掃除しちゃうね。あ、ママが、台所来てって」
 「ふーん…わかった」
 「頑張って急ぐから、勝手に帰っちゃわないでね。今、練習してる曲、お姉ちゃんに聴いてもらうんだから」
 「はいはい」
 芽衣はそう言うと、亘を急かしながら、奥へと引っ込んでしまった。早く掃除を終わらせないと咲夜が帰ってしまうと思っているのだろう。面倒そうに芽衣に引っ張られて行く亘を見送りながら、咲夜は思わず笑ってしまった。
 けれど…なるほど、読めた。突然のジョン万次郎邸大掃除の真相が。
 ―――考えてみりゃ、あの人も、あの拓海の実の姉なんだよね。
 人払いは万全、ということらしい。はぁ、と息をついた咲夜は、仰せの通り、台所へと向かった。

 「おかーさん、ただいま」
 ひょい、と台所を覗き込んで声をかけると、ちょうど炊飯器の蓋を開けたところだった“母”が振り返り、ホッとしたような笑みを見せた。
 「ああ、良かった、帰って来たのね」
 「ご馳走のお裾分けがあるって聞いたんだ……け…ど…」
 言いかけて、咲夜の目は、炊飯器の中身に釘付けになった。
 普段なら、真っ白なお米が入っている筈の炊飯器。けれど、今炊き上がったばかりのそれは、どう見ても白米ではなかった。
 「…どうしたの、赤飯なんて」
 こんなものをこの家で見るのは、多分これが初めてだ。鯛の尾頭付きと並ぶめでたいアイテムの登場に、父の昇進や芽衣のコンテスト優勝などの可能性を一瞬考えたが、“母”がすぐに、その答えを教えてくれた。
 「昔から、お赤飯炊く行事、って言ったら、決まってるでしょ?」
 「は?」
 赤飯を炊く行事、なんて、あったっけ?
 素で首を傾げた咲夜だったが―――ふと、電話での芽衣の妙な態度を思い出し、あ、と思い当たった。
 「…もしかして…芽衣?」
 恐る恐る訊ねると、“母”はニッコリと笑い、頷いた。
 「そう。芽衣がね、今朝、大人になったのよ」
 つまり、芽衣が初潮を迎えた、ということらしい。咲夜自身は体験していないが、豆知識的に、このイベントには赤飯がつきものだと聞いたことは一応ある。答えがわかって、あらゆることに大いに納得がいった。
 「ひえぇ…、そうかぁ、あの芽衣が…」
 「咲夜ちゃん、これからライブでしょ? 食べてく時間はないだろうから、これにお赤飯とおかずを好きに詰めて持って行きなさい」
 ちょっと呆然とする咲夜に、“母”はそう言って、よく惣菜コーナーなどで見かけるプラスチックの容器を突きつけた。無意識にそれを受け取った咲夜は、まだ呆然としたまま、機械的に菜箸に手を伸ばした。

 ―――あの芽衣が…ねぇ…。
 芽衣の好物、鶏のチューリップ揚げを容器に取り分けながら、なんとも言えない気分になる。
 初めて会った時、“母”のおなかの中にいた筈の芽衣が、逆に子供を宿せる体になった訳か―――なんて考えた途端、ちょっとグロテスクなものを感じてしまい、知らず、腕に鳥肌が立った。
 それにしても、あれほど気まずいことがあったというのに、“母”の咲夜に対する応対は自然そのものだ。いや、お見事―――さすが、拓海と同じDNAの持ち主だけのことはある。咲夜の方が気を遣って自然な空気を作る必要など、微塵もなかったようだ。

 「…それでね、咲夜ちゃん」
 お吸い物の味を調えながら、“母”はこれまでより少し声を低くして、何事かを切り出した。
 「前から決めてたから―――今日、芽衣に、本当のことを教えたのよ」
 赤飯をよそっていた咲夜の手が、止まった。
 本当のこと、とは何のことか、訊かずとも咲夜にはわかっている。思わず顔を上げると、“母”は薄く笑みを浮かべた。
 「芽衣が、咲夜ちゃんとも亘とも、半分ずつしか血が繋がってないこと」
 「……」
 「亘が知っちゃった時、お父さんと相談して、決めてたのよ。芽衣が初潮を迎えて大人になったら、本当のことを教えよう、って。隠し通せることじゃないし、大人の体になった芽衣には、正しいことを知らせないといけないと思って」
 「…そ…、それで、あの子…」
 「始めは、ショック受けて、ちょっと泣いてたけど…見たでしょ? 亘にも、あなたにも、今までと同じように接してる芽衣を。あれが、あの子なりの答えよ」
 では―――芽衣は、事実を事実と受け止められた、ということなのだろうか。決して精神的に強い方ではないと思っていたが…思いのほか芯のしっかりしている様子の芽衣に、ちょっと驚く。
 「もう、お父さんたら、ずるいんだから。こんなこと伝える役、同性の私でも辛いに決まってるじゃない、ねぇ?」
 肩の荷が下りて気が楽になったのか、“母”はそう言って、ちょっと茶化すような表情を見せた。咲夜もホッと肩の力を抜き、ニッ、と口の端をつり上げた。
 「同情しないでもないけど、ま、ずるいオヤジに貸し1本できた、って思えばいいじゃん」
 「そうね。何か高い物でもおねだりしようかしら」
 冗談めかしてそう言った“母”だったが、ふと表情を真剣なものに変え、手にしていたレードルをカタンと置いて咲夜に向き直った。
 「…咲夜ちゃん」
 「ん?」
 「私にとっての咲夜ちゃんは―――もしかしたら、“娘”とは違うのかもしれない」
 「……」
 どくん、と、心臓が大きく跳ねた。
 咲夜の表情が、一気に無機質なものに変わるのを見て、“母”の目が一瞬、動揺を見せる。けれど、咲夜が意味を問うこともなくその目を見返すと、静かにその続きを口にした。
 「ただね。“娘”ではないとしても……“家族”だと思ってる。それは、本当」
 「……」
 「“親は我が子のことを死ぬまで心配するもの”だから、咲夜ちゃんを心配してるんじゃない。“家族”だから…心配なの」
 ―――…蛍子さん…。
 咲夜だって、いくら口では“お母さん”と呼んでも、心の中ではやっぱり“蛍子さん”だ。けれど―――母とは思っていなくても、赤の他人とは異なる感情は、確かにある。それは、多分…今、“母”が言ったのと、同じ感情で。
 「…私も、蛍子さんのこと、“家族”だと思ってるよ」
 咲夜がそう答えると、“母”―――蛍子は、安堵したような笑みを浮かべた。

***

 「おーい、もう帰るよ」
 「うそっ!」
 咲夜が声をかけると、芽衣は歯ブラシとジョンを放り出して、バッ! と立ち上がった。
 「コラー! ジョンを投げ出すなっ!」
 巨大な水槽にバケツの水を移していた亘が、ごろん、と転がるジョンを見て悲鳴を上げた。が、芽衣はそれに構うことなく、咲夜のもとへと駆け寄った。
 「あと5分っ。あと5分だけ待って、お姉ちゃんっ」
 「うーん…待ってあげたいのは山々なんだけど、仕事あるしねぇ」
 あと5分待っても問題はないが、更にピアノ演奏を聴いて感想を述べて帰るのは、さすがにちょっと厳しい。急いで終わらせる、と言った割に、咲夜がお裾分けを詰め終え、随分前に届いていた出身高校の同窓会だよりを読み終えてもまだ終わっていないのだから、もう十分待ったと言っていいだろう。
 「また近いうちに、寄るからさ。その時までに、もっと練習しといて」
 「…うー…」
 納得がいかない様子ながらも、仕事と言われては弱いらしく、芽衣はそれ以上引き止める言葉は口にしなかった。そして、亘が自分が投げ出したジョンと歯ブラシを手に取るのをチラリと確認してから、部屋を出て、小声で咲夜に訊ねた。
 「ねえ、お姉ちゃん」
 「ん?」
 「お兄ちゃんは、お姉ちゃんの弟、だよね?」
 「……」
 不安そうな、芽衣の目―――どうやら芽衣は、実の姉と弟だと思っていた2人が“義理”の関係であると理解し、その上、2人の仲の心配までしてくれているらしい。
 やはり芽衣は、咲夜が思っていたよりずっと、強いようだ。ふっ、と笑った咲夜は、芽衣の頭をぽんぽん、と軽く撫でた。
 「当たり前じゃん。亘は弟だし、芽衣は妹だよ」
 咲夜の返答に、芽衣は嬉しそうに顔をほころばせた。
 「お赤飯、お裾分けしてもらった?」
 「もらったもらった。ライブの前に食べる」
 お裾分けの入ったレジ袋を軽く持ち上げてそう言った咲夜は、ふと大事なことを思い出し、もう1回芽衣の頭を撫でた。
 「ああ、言い忘れてた。大人の仲間入り、おめでと」
 「…えへへ」
 芽衣の顔が、僅かに赤くなる。やっぱり恥ずかしいんだな、と思ったら、どうやら違っていたらしい。
 「クラスの女子の中で、まだ来てないの、あたしだけだったから、うれしー」
 「…あ、そう」
 嬉しいもんかねぇ、と内心首を捻った咲夜だったが、続く芽衣の言葉にギョッとする羽目になった。
 「だって、お姉ちゃんだって、12歳になる前に来たんでしょ?」
 「は!?」
 何故、それを―――大きく目を見開く咲夜に、芽衣はケロリとした様子で更に続けた。
 「10月頃だったかなぁ、クラスであたし1人になっちゃった時、不安で、ママに相談したの。お姉ちゃんはどうだったの? って。そしたら、小6の夏だった、って、ママが」
 「……」
 「やっぱりお姉ちゃんも小6の誕生日までには来てたのかー、って思って、余計焦っちゃった。こういう時、4月生まれって嫌だよねぇ」
 どうやら、芽衣の中では「誕生日までには来ていなきゃいけないもの」という基準があったらしい。多分、クラスメイトたちがそうだったのだろう。勿論、こんなものは個人差があるのだし、芽衣が特に遅い訳でもない―――むしろ、咲夜が知る中では早い方に入っていたりするのだが。
 いや、そんなことは、どうでもいい。
 そんなことより―――問題は、今、初めて知った、真実。

 ―――なんで、蛍子さんが…。
 再婚前の、私のこんな情報を、どうして蛍子さんが知ってる訳?

 勿論、その答えは、1つしかない。その1つしかない答えに―――咲夜は、カッと頭の芯が熱くなるのを感じた。
 「…お姉ちゃん?」
 突如、自分ではないどこかを見て目を険しくした咲夜に、芽衣が不思議そうな声を上げる。我に返った咲夜は、慌てて笑顔を作り、芽衣を見下ろした。
 「あ、いや、なんでもない、なんでもない。…まあ、とにかく、良かったね。クラスのみんなの仲間入りができて」
 「うんっ」
 無邪気に喜ぶ妹の顔に、咲夜もニッコリと、作っていない笑みを浮かべる。
 けれど―――急激に温度の上昇した頭は、そう簡単に冷えそうになかった。

***

 ―――…ムッカツク…!
 むかつく、むかつく、本気で頭きた、あの馬鹿オヤジ―――…!

 「…あれ、咲夜、食わないのか? それ」
 ほとんど手付かずのまま、テーブルの上に広げられている赤飯やから揚げを見て、ヨッシーが不審げに眉根を寄せた。
 「んー…、あんまし、食欲なくて、最近」
 「おいおい、またかよ。お前はすぐ精神的なもんが体調に出るからなぁ」
 実際、ここ1週間ほど、食欲があまりなかった。でも、せっかくのご馳走を放置しているのは、食欲不振のせいではない。今、咲夜の中の優先順位が、空腹を満たすことより馬鹿オヤジに対する怒りを静めることの方が高いだけの話だ。

 咲夜が初潮を迎えたのは、実の母が亡くなって1ヶ月も経たない頃だ。当然、再婚前の出来事―――なのに、蛍子はそれを知っていた。
 何故か。
 父が、蛍子に、話したから。…それ以外、考えようがない。
 少なくとも咲夜にとっては、初潮の有無なんてことは、誰にも話したくないことだ。様子がおかしいことを気にした父が問い質したので、やむなく父には話してしまったが、性に直結するような話を男親にするのは、もの凄く抵抗があった。咲夜には嬉しそうに話した芽衣が、電話口での亘のからかいに対しては怒ったのも、多分あの時の咲夜と似た心境だったのだろう。
 そういう、家族にすら言い難い、極めてプライベートなことを、父は蛍子に―――咲夜が会ったこともない他人に、勝手に話していたのだ。
 再婚するに際して、母親として知っておくべき基本情報だとでも思ったのだろうか? それとも、ただの世間話の一部として、何かのついでにうっかり喋ってしまったのだろうか。真相は不明だ。
 でも、どんなシチュエーションだったかなんて、咲夜にとってはどうでもいい。
 あの男が、さもわかったような顔で、咲夜の体のことを蛍子に勝手に話した。その事実だけで、胃がムカムカしてくる。
 最低、鈍感、デリカシーがなさすぎる―――再婚することを咲夜に告げた時もそうだが、つくづく、咲夜の気持ちを一切考えようとしない奴だ。

 「食わないんなら、一口もらってもいいか?」
 カロリーメイトの袋を切る寸前だった一成が、物欲しげな顔でじっ、とからあげを見つめていた。
 元からの食欲不振に加えて、心理的なムカつきもあって、これ以上食べる気にはなれない。「どーぞ」と答えた咲夜は、弄んでいた箸を隣に座る一成に渡した。
 「…で、どうする? ラストライブから逆算すると、来月の前半には録音しないとまずいだろ」
 一成がからあげを口に入れるのを確認して、ヨッシーが自主制作CDの件に話を戻した。
 “Jonny's Club”終了後の活動については、いまだ3人で話し合い中だ。が、ひとまずCDを自主制作しようということだけは、具体的に話が進んでいる。いきなりアルバムレベルのものを作るのはリスクが高いので、とりあえずは2、3曲収録したものを少量作り、“Jonny's Club”のラストライブで試験販売してみるか、というのが現在の流れだ。
 CDを作るには、まずは録音をする必要がある。スタジオはヨッシーが心当たりがあるというので大丈夫だが、問題は日程だ。
 「週末とかは押さえ難いんだよなぁ…。お前ら、第1週の平日に、1日有給取る気、ない?」
 「俺は、なんとかなると思うけど…。咲夜は?」
 「うーん、そうだねぇ…」
 眉を顰めた咲夜は、壁にかかっているカレンダーに目をやった。雪景色の写真が入った2月のカレンダーの片隅に、近づいてくる3月のカレンダーが小さく掲載されている。
 「あー、そういやぁ私、9日に有給取るって、会社に言っちゃってるんだよなぁ…」
 「なんだよ、9日って」
 「奏の、ラストステージ」
 3月9日、火曜日―――奏の最後のステージとなる、“VITT”のファッションショーだ。ショー自体は夕方からだが、バックステージパスを貰って、最後の舞台の舞台裏をちょっと覗かせてもらう計画なのだ。
 「ああ、そういえば、そんなのがあったな」
 「9日に休むのに、第1週にも有給取ります、って、ちょっとキツイんじゃないか?」
 「ううむ…、だったら、いっそのこと9日の日中にするか? 9日に録音を完了するとして…えーと…」
 そう言って、ヨッシーと一成が、自分の手帳とにらめっこをしながら具体的な日程について相談を始める中。
 咲夜は、まだ、壁のカレンダーに目をやったまま、微動だにせずにいた。

 …2月の、カレンダー。
 今日は、2月の、第3土曜日。
 「―――…」
 何かが、心に、引っかかった。
 その、引っかかった何かに気づき、咲夜の眉が、怪訝そうに歪んだ。

 ―――いつ、だった?
 先月、は…いつ、だった?
 そして、あれは……“母”が会社に訪ねて来た日は、奏がサラ・ヴィットと会った日は、いつ、だった?

 親指を、折る。
 人差し指を、中指を、折る。
 指を折りながら、だんだん、鼓動が、速くなる。まさか、という思いを裏切るように、数えた数字は、予定の数字を通り越した。

 「…まさか」
 口に出して、呟く。
 まさか。それは、ないだろう。
 誰にでも、よくあること。特に、咲夜にとっては、昔から頻繁にあったことだ。何も、今月が特別おかしい訳じゃない。だから…まさか、それは、ない。
 「……まさか、ね」
 ふ、と苦笑をもらした咲夜に、
 「ん? 何が?」
 とヨッシーが突っ込みを入れた。どうやら独り言が聞こえてしまったらしい。

 …うん。大丈夫。
 いつものことなんだから、気にしなくても、大丈夫。

 「ううん、なんでもない」
 咄嗟にそう答えた咲夜は、カレンダーから目を外し、口元に笑みを浮かべてみせた。その笑みは、極自然な、作っていない笑顔に見えた。
 なのに、何故か―――心臓が、やけに速かった。
 いつもより速い鼓動だけが、咲夜の内側に巣食った小さな不安を、正直に表していた。


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