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― Linkage ―

 

 久しぶりに、あの夢を見た。

 枯葉が1枚、また1枚と舞い落ちる。前髪の上にとまった枯葉を指先ではらいのけながら、奏はまた、誰かを待っている。
 以前見た夢と、1つだけ、違うことがあった。
 それは、隣に、累がいること―――それで、思い出した。ああ、これは、ただの脈絡のない夢なんかじゃなくて、昔……忘れてしまうほど昔、実際にあったことだったんだ、と。

 初めて自分たちと両親の関係を知ったのは、母の知り合いの女性が一宮家に遊びに来た時だ。何歳の時かは覚えていないが、まだロンドンに住んでいた、小さい頃だ。
 その人は、臨月を迎えた妊婦だった。大きなおなかが珍しくて、累と一緒に「何が入ってるの?」と無邪気に訊いた。「赤ちゃんが入ってるのよ」と聞いて、人間は卵から(かえ)るものだと思っていた奏はショックを受けたが、そういう想像すらしていなかった累はもっとショックを受けた。つまり、その位小さな子供だった時の出来事だ。
 僕たちも生まれる前、お母さんのおなかに入ってたの? と訊ねる累に、母は、少し困った顔をしながら、首を横に振った。
 『お母さんのおなかには、赤ちゃんを入れておく場所がなかったのよ。それで、毎日泣いてたら、神様がお母さんを可哀想に思って、奏と累を与えてくれたの』
 今にして思えば随分酷なことを訊いてしまったものだが、幼かった2人は、とりあえず、自分たちは母のおなかに入っていた訳ではないことと、でも両親の子として神様に授けられた子であることを理解した。
 その後も、誰かに何か言われたり、疑問に思ったりするたびに、2人は父や母に疑問をぶつけ、その年齢に合った答えを1つずつ得ていった。そして、母が最初に教えてくれたことの意味を正しく理解できる年齢になった時、累が初めて、ある疑問を口にしたのだ。

 『…僕たちって、本当のお父さんやお母さんに、捨てられたのかな』

 誕生日だった。学校の帰りに、近所の公園の片隅に2人並んで腰を下ろし、色づいた葉がヒラヒラ舞い降りてくるのを見上げながら、そんな話をした。
 累は、昔から、色々難しいことを考える方だった。だから多分、色々考えてしまったんだと思う。一方奏は、あまり物事を難しく考えない方だった。だから、両親の説明を、そのままシンプルに受け止めていた。

 『捨てたんじゃなくて、置いてったんだろ? 父さんも言ってたじゃん。世の中には、貧乏とか病気とかで、子供が育てられない親もいる、オレたちを置いてった人も、きっとそういう理由で置いていったんだ、って』
 『…それって、捨てたのと同じじゃない? もう1回戻ってきて、僕らを連れて帰る気なんて、きっとなかったんだよね?』
 『いーんだよ、それでも。オレ、ほんとの両親は、父さんや母さんみたいな人がオレたちを引き取るってわかってて、オレたちを置いて行ったんだ、と思ってんだから』
 『……』
 『オレたちは、最初から、父さんと母さんの子供として、その人のおなかん中に入ってたんだ。だから、オレたちは、捨てられたんじゃない。仮のお母さんが、本当のお母さんに渡すために、オレたちを置いてっただけだ』

 奏の説明で納得したのか、それとは関係なく自分なりに考えるところがあったのか、累はそれっきり、実の親について口にすることはなかった。ただ、抱えた膝の先にある自分のつま先を見つめて、じっと黙り込んでしまった。
 そんな累を見ながら、奏はこの時、初めて考えた。

 ―――オレたちを置いてった人って、どんな人だったんだろう?
 どんな事情があって、オレたちを育てられなかったんだろう? お父さんかお母さんか、どちらか一方だけでも、オレたちを育てること、できなかったのかな。
 …まあ、いいけど。
 オレ、今、幸せだから。捨てたなら捨てたで、別にいいよ。お礼が言いたい位だよ。捨ててくれてサンキュ、って。

 初めて考えた「捨てられた」という可能性について、奏は、そんな風に考えた。父が好きで、母が好きで、何より累が大好きだから、“本当の親”なんて別にどうでもいいことじゃないか、と思った。
 ただ―――説明のつかない寂しさのようなものが、その時、奏の中に生まれた。
 それは、小さな小さな、とても小さな風穴で……けれど、気づいてしまうと、なんとなく悲しくて。
 その悲しさ故に、奏は、そろそろ帰るか、という一言が言えず、黙って累の隣で落ち葉を見上げ続けたのだった。

 

 呼び鈴を鳴らしてからほどなく、ガチャリ、と鍵を開ける音がした。
 まだ眠っていたのだろう。玄関のドアは辛うじて開いたものの、顔を覗かせた咲夜の表情は、寝ぼけ眼そのものだった。
 「…うー…、どしたの、奏。まだ6時前じゃん…」
 「…ん…、悪い」
 力ない奏の声に、咲夜の目が少し開き、眉がひそめられた。体半分、ドアから外に身を乗り出した咲夜は、奏の顔を覗き込むように軽く首を傾げた。大丈夫? という咲夜の目に、奏は、バツの悪そうな苦笑いを浮かべ、小さく頷いた。
 「…ごめん。ちょっと、嫌な夢見ちゃって」
 「…ふぅん…?」
 「それで―――なんか、1秒でも早く、咲夜の顔見ないと、落ち着かなくて」
 改めて口にしてみると、なんだか、自分が酷く子供に思えてしまう。アホかオレは、と自分で自分に呆れかけた時、咲夜がくすっと笑い、腕を伸ばして奏の頭を軽く撫でた。
 「そ。じゃ、ちょっと早いけど、朝ご飯、食べない?」
 ―――やっぱ、いい女だよなぁ…。
 なんてことを、こんな時、改めて実感する。軽く受け流すように見せて、けれどもさりげなく受け止めてくれる咲夜が、やっぱり好きだと、奏は思った。

***

 「なるほど。職種じゃなく、現場の違いか」
 「うん…。ちなみに、成田はどう思う?」
 奏が訊ねると、瑞樹は、キーボードを叩く手を一瞬止め、軽く眉根を寄せた。
 「…まあ、お前の感じるとおりなんじゃねーの」
 「やっぱり?」
 「ついでに、プリンターの電源入れて」
 作っていた書類が完成したらしい。人の話を聞きながら、文章やら数字やらを考えながら、しかもキーボードを叩いて文書作成をするなんて―――と感心しかけたが、そういえば彼の前職はIT業界の技術職だった。オレには無理な仕事だな、と思いつつ、奏は立ち上がり、近くにあったプリンターの電源を入れた。
 「家にプリンターないの?」
 「いや、ある」
 「なのに、こんな時間まで事務所に居残って書類作成する訳? 家でやりゃあいいのに…」
 「関係資料とか全部持ち帰るより、ここで仕上げた方が早い仕事もあるからな」
 最後の一言に被さるように、エンターキーを叩く音が一際大きく事務所に響いた。それに続き、奏の傍らにあるプリンターから、A4の紙が吐き出され始めた。
 「―――で? どうする?」
 出てくる書類をついジッと見つめてしまっていたら、瑞樹から結論を促された。顔を上げた奏は、少し困ったような顔で答えた。
 「…うーん…やっぱ、今のまま“Studio K.K.”の仕事続けてくのは、無理だと思う。100パー否定する訳じゃないけどさ、なんつーか…一端気づいちゃったズレを、見なかったフリもできないし。だから―――遅かれ早かれ、黒川さんと話はしないとまずいな、とは思ってる」
 「…俺的には、“遅かれ早かれ”じゃなく“一刻も早く”だけどな」
 腕組み状態で、瑞樹がボソリと付け足す。うっ、と一瞬言葉に詰まった奏だったが、気を取り直して瑞樹に向き直り、真正面から見据えた。
 「そうは言うけど、先のこと何も考えずに黒川さんと話して、そんなら辞めちまえ、って店から追い出されでもしたら、どーすんだよ」
 「結構じゃねーか。追い出されろよ。頭のネジの緩んだ女が行列成してる生活には、未練なんて1ミクロンも持ってねーだろ」
 「…頭のネジが緩んだ、って…」
 相変わらずの毒舌に、思わず苦笑が漏れる。確かに、そういう話を瑞樹に愚痴ってしまったのは奏の方だが、勿論、そんな客ばかりではないだろうことは、奏にもわかっている。
 問題なのは、多分、客ではなく自分の方。
 技術を求められていない、顔目当てで指名されている、と思ってしまう、奏自身の心の問題だ。
 「例の大河内夫人みたいな客を相手にすることには、全然未練はないけどさ。でも、そんな客ばっか、と思っちゃうのは、多分、オレの自信のなさとかのせいでもあるんだと思うし…店での仕事をある程度維持しながら、氷室さんみたく外の仕事もこなせたら、それはそれでいいかな、って気持ちもあるしさ。まだオレ、店を離れて1人でメイクの仕事取ってこれるだけの(つて)も実績もないし」
 「そうか? 当面の仕事は、あるだろ」
 瑞樹の指摘に、ドキリとする。その一瞬の動揺を見透かしたみたいに、瑞樹は薄く笑った。
 「“VITT”専属メイクとして、半年間―――黒川賢治レベルの大物を黙らせるにも、まずまず悪くない再就職先だよな」
 「……」
 「社長から直々にお声がかかりました、申し訳ありません、とでも言って頭下げりゃ、黒川さんの顔潰すこともなく、穏便に辞められるんじゃねーの」
 「…引き受ける訳ないっつーの。あの女が持ってきた仕事なんて」
 目を逸らした奏は、吐き出すようにそう言い捨て、少々乱暴に近くにあった椅子に腰を下ろした。話題にするのも不愉快、と言わんばかりの態度に、瑞樹は肩を竦め、出力し終わった書類を取るために奏の目の前を横切って行った。

 『恩に着せて何か見返りを求める気もないし、幸せに育ったあなたたちに対して罪悪感なんて持ち合わせてもいないわ。あなたの手助けをできる立場にいる、って気づいたから、手を差し伸べた―――それだけのことよ』

 罪悪感なんて、持ち合わせてもいない。
 …簡単に言ってくれるものだ。結果よければ全てよし、とでも本気で思っているのだろうか? いくら奏が「捨ててくれてありがとう」と皮肉混じりに言っているからといって、生後1日の子供を、何も言わずに置き去りにした罪が消える訳でもないだろうに。
 そういう奴だと、前々から思ってはいた。けれど、ああも堂々と開き直られると、改めて怒りが込み上げてくる。そんな女が、「手助けしたい」なんて殊勝なことを言ったところで、どうしてそれを信用できるだろう?

 「ちなみに、この話がサラ・ヴィットとは無関係だったら、お前、どうしてた?」
 プリンターの電源を切りつつ、瑞樹が訊ねる。どういう答えを予見しての質問なのか、と少し警戒しつつ、奏はボソリと答えた。
 「…ビミョー。仕事の中身自体は、願ってもない話だとは思うんだ。オレもモデルとして参加してたからわかるけど、“VITT”のショーは、かなり凝ってていいスタッフも揃ってるし…。第一、駆け出しのメイクが、あんな大掛かりなショーを任されるなんて、絶対あり得ないオファーだろ?」
 「…一般客相手とはいえ、あれだけの場数踏んでるお前が、駆け出しか?」
 「それはそれ、これはこれ。美容院だってそうだろ。何十人、何百人の髪切ってたって、いきなり一流モデルのヘアメイクが任される訳ないじゃん。オレがプロの現場でメイクしたのって、かなりマイナーな仕事で、しかも数えるほどしかないんだから、“VITT”レベルの仕事が請けられるようになるのなんて、5年10年先の話だよ」
 「そこまで言うのに―――“微妙”か」
 「だって…」
 言いかけて、口ごもる。絶対、バカにするだろうな、と思ったが、今更誤魔化すのも無理だと悟り、諦めて続きを口にした。
 「…日本、離れなきゃならないから」
 「……」
 「ああああああ、言いたいことは、わかってるって! でも! カメラに関しちゃ完全素人だった蕾夏をイギリス行きに同行させたあんたに、この部分であーだこーだ言われたくないからなっ」
 呆れたような目をする瑞樹に、先制攻撃でそうまくしたてる。そう、瑞樹だって、人に偉そうなことは言えない筈なのだ。
 時田がアシスタントとして瑞樹をスカウトした時、蕾夏はシステムエンジニアをしていて、結構責任の重い仕事をしていたのだ。勿論、それを辞めて瑞樹について行ったのは蕾夏自身の選択だが、傍から見れば、それを許してしまった瑞樹は、「離れたくない」という極めてプライベートな理由のために蕾夏の生活を犠牲にしたことにほかならない。
 実際、その部分については多少の後ろめたさもあるのだろう。頬を紅潮させて睨んでくる奏に、瑞樹はからかいの言葉も非難の言葉も口にはしなかった。代わりに、困ったように眉根を寄せ、小さくため息をついた。
 「…一応言っとくけど、当時の俺は、蕾夏がいないと、まともに写真撮れなかったんだからな」
 「…わかってる。それに、オレがひっかかってるのは、何も“咲夜と離れたくない”だけの理由じゃないし」
 「じゃあ、何」
 「なんていうか―――オレ、嫌いなんだよ。日本国内で大した実績も作ってない癖に、お手軽に海外に行って“ハクつけてきました”、みたいな風潮。そういうのがまかり通ってるとこも確かにあるのかもしれないけどさ、少なくとも、この業界はそんなに甘いもんじゃないだろ?」
 「俺は知らねーけど、まあ、そうだろうな」
 「…なんか、オレじゃなく、日本全体が侮辱された気分」
 サラの言葉を思い出し、思わず眉をしかめる。
 「黒川さんも似たようなこと言うけど、日本人が日本について卑下したような言い方するのは、謙遜文化をはき違えてるって思うこともできるよ。けど…あの女に言われると、すっげームカつく。たとえ本気で言ってるんじゃないにしろ、海外のメジャーブランドで半年も経験積めば、オレみたいな駆け出しでもホイホイ仕事が貰えちゃうようなレベルの国だ、って言ってるようなもんだろ? ひでーよ。どんだけ日本を舐めくさってんだよ」
 「それを“お前が”言うのも、妙な感じだな」
 イギリス人なのに「日本が侮辱された」と怒っている奏を見て、日本人である瑞樹が苦笑する。口を尖らせた奏は、あんたも怒れよ、と言いたげに、軽く瑞樹を睨んだ。
 「熱くなってるところに水を差すようだけど、俺はサラ・ヴィットのセリフ、別に日本を見下して言ってる訳じゃないと思うぜ」
 「どこがだよっ」
 「たとえば、今、お前が店を辞めたとする。いきなりフリーで仕事取れないのは、お前自身も認めてるよな。となると、どうする?」
 思わぬ質問に、奏の目が丸くなる。が、勿論、店を辞めた場合の身の振り方は、あれこれ考えてある。その中で、最も現実的な進路を、奏は口にした。
 「そりゃあ…どこかの事務所に入るのが、一番堅実な方法なんじゃない?」
 「だろうな。ただし、当然、店での実績は大して認められずに、お前は完全に見習い扱い―――暫くは、アシスタントとしてしか現場に行かせてもらえないだろうな」
 「……」
 「3年近くもやってきて、その扱い、お前に我慢できるか」
 我慢…する。できる、できない、ではなく、我慢するに決まっている。
 でも、もしそれが、“VITT”の仕事を請けた後なら―――話は、変わってくる。
 海外だから、とか有名ブランドだから、という問題ではなく、彼女が出した条件にメジャーどころのコレクションが複数入っているのがカギだ。たかが半年だが、中身が半端ではない。パリ、ミラノ、ニューヨーク…そして、ロンドン。これだけのメジャーコレクションを経験しているメイクアップアーティストなら、事務所側もアシスタント扱いはできなくなる。
 「今、十分我慢して働いてるお前に、また我慢を強いるのは酷だと思ったんじゃねーの、あの女も」
 「……」
 「…仕事、終わったから、帰るぞ」
 「え。…あ、うん」
 やけに現実的な瑞樹の声に、我に返る。あっという間にパソコンの電源を落として帰り支度を始める瑞樹を横目で見ながら、奏もジャケットを羽織り、自分の荷物に手をかけた。

 2月も残り僅かだというのに、随分と冷え込んでいる夜だ。外気の冷たさにぶるっと身震いした奏は、首を竦め、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
 「…あーあ…咲夜にもそろそろ相談すっかなぁ…」
 ため息混じりに奏が呟くと、瑞樹が呆れたような視線を返してきた。
 「もう1月近く経つのに、まだ言ってなかったのかよ」
 「う…、だって、あいつのことだから、さらーっと“うん、いい話じゃん、行ってきなよ”って言いそうでさ」
 「…弱いな、つくづく」
 「…どーせ」
 瑞樹に指摘されるまでもなく、奏は、呆れるほど咲夜に弱い。他愛もないことで不安になるし、情けないほど簡単に自信を失くす。半年も日本を離れることを咲夜に告げて、もし、少しも寂しがっていない反応が返って来たら、それが強がりなのかどうかを見抜く前に落ち込むこと間違いなしだ。
 「あんたみたいに、イギリスに咲夜を連れて行けるんなら、オレも考えないでもないんだけどなぁ…」
 「俺たちはレアケースだから、参考にするな」
 すげなく返されて、奏は「わかってるって」と拗ねた顔をした。
 「でもさ。もし、郁が求める写真を撮るのに、別に蕾夏が一緒にいる必要がなかったんだとしたら…成田は、どうした?」
 「置いて行ってただろうな」
 「ほんとかよ」
 「実際、最初は、俺だけイギリスに行くって言って、蕾夏を泣かせたし」
 初めて聞くエピソードに、奏の目が丸くなった。瑞樹と蕾夏の繋がりの深さは、誰よりも知っているつもりだった。だから、よもや瑞樹が半年も蕾夏と離れ離れでいる気だったなどとは、想像したこともなかったのだ。思わず歩を緩め、隣を歩く瑞樹の顔を覗き込んだ。
 「なんで? 成田が蕾夏を半年も遠くに放っておける訳ないし、蕾夏だってそんなの辛いだろうに」
 「なんでって…ただ“辛い”とか“寂しい”だけのために、仕事辞めさせてまで連れて行くか? 普通」
 「……」
 「俺たちはたまたま、目指すものが同じだったから、その時の生活全部捨てて行くことができたけど、それが許されるのが稀なことは、お前だってわかるだろ」
 「…そうだよな」
 蕾夏の夢は、瑞樹の写真集を作ること。だからこそ、瑞樹がカメラマンになるチャンスに賭けるため、それまでの生活を捨てることも厭わなかった。瑞樹のために、ではなく…自分自身の、夢のために。
 瑞樹だって、それを理解したからこそ、蕾夏を連れて行ったのだ。決して自分勝手を通して平然としているタイプの人間ではない瑞樹には、ただ離れたくないという欲求だけで、蕾夏にそこまでの決心はさせられなかっただろう。そう―――ちょうど、「この仕事を引き受けるとしても、咲夜を連れて行くことはできない」と考えている、奏のように。
 「ああ…、そういやあ、今日発売の週刊誌に、サラ・ヴィットのインタビューが載ってた」
 「えっ」
 今思い出した、とでもいうように突如言われ、奏の声が若干裏返った。
 「あの女、インタビューなんて受けてたのかよ」
 「急成長中の海外ブランドが、初めて日本に進出するんだから、取材の1つや2つ、受けて当然だろ」
 「…そりゃ、そうだけど…」
 「なかなか、面白かったぜ」
 読んでみろ、とは言わずに、瑞樹はそんな言い方をした。
 誰がそんなもん読むか、と反発を覚えつつも、奏だって少し気になりはする。彼女の裏事情を知る瑞樹が読んで「面白い」と感じたサラ・ヴィットのインタビューとは、一体、どういうことが語られているのかが。
 すると、それを見越したみたいに、瑞樹はふっと笑った。
 「ボルヴィック買いたいから、今からコンビニ寄るけど―――お前、どうする?」
 「…わざわざ訊くとか、軽くイジメ入ってんだろ」
 とんでもない、と肩を竦める瑞樹を、奏は気まずい表情でわざと睨みつけた。


***


 目の前にずいっ、と突き出された、草加せんべいの空き缶に、咲夜は出かける仕度の手を止め、空き缶の底をじっと見つめた。
 「…何、これ」
 「金曜日の送別会の会費を徴収に来ました〜」
 「ああ、」
 同僚の一言を聞いて、先日聞いた話を思い出した。1つ下の女子社員が、今月いっぱいで寿退社することになっていて、その送別会を金曜日に行うのだ。
 「あれって、今週末だっけ…すっかり忘れてた」
 「て訳で、よろしくお願いしまーす」
 「…うー…、できればパスしたいなぁ」
 咲夜が眉を顰めてそう呻くと、同僚の女子社員は、むっ、と膨れた顔をした。
 「なんでよぉ? みんな出るのに、如月さんだけ出ないとか、酷くない? 同じ外回り部隊なのに」
 「いや、そういう意味じゃなくてさ。ここんところ、どうも食欲なかったり、体調悪かったりで、お酒も控えてるんだよね。今日も昼、抜いてるし。この調子のままだと、下手に出席しても、なんか場を盛り下げちゃいそうでさ」
 咲夜の言葉に、彼女の不満顔が、少しだけ変わる。しまった、前回、胃を壊して突然仕事を休んだことを、まだ覚えているらしい。変な心配をされてはまずいので、咲夜は慌てて目の前で両手を振った。
 「あー、と言っても、仕事休むほどのことじゃあないんだけどさ。去年ぶっ倒れた時、医者から結構きつく言われたから、慎重になってるだけで。だから、ちょっと様子見させてくんないかな」
 「いいけど…いつ、最終の返事もらえる? もう火曜だもの。人数変更するなら、早めに店に言わないと、キャンセルできなくてそのままの料金取られちゃうし…」
 「…だよね。えーと、じゃあ…明日。明日の夕方には、返事するからさ」
 咲夜がそう言うと、彼女はちょっと心配げな顔をしつつも、一応了承してくれた。やはり、体調がよろしくないと言われてしまうと、あまりきついことは言えないのだろう。ちょっと卑怯だったかな、と思わなくもないが、せっかくなので、この展開に甘えさせてもらうことにした。

 ―――明日の夕方、かぁ…。それまでに、返事できる状態になるのかな。ほんとに。
 荷物を助手席に置き、バタン、とドアを閉めると同時に、咲夜の顔に微かな不安の色が浮かぶ。
 初めて、その可能性が頭をよぎったのは、土曜日。そして今日は、火曜日……もう、火曜日だ。とすれば、予定の狂いは、既に10日ほど。
 まさか、という思いの方が、最初は強かった。
 体の基礎が出来上がる一番重要な思春期に、拒食症やら高熱やらで体がボロボロになってしまったせいか、咲夜は元々、不安定な体をしている。月のものがきっちり28日で訪れないのは毎月に近いことだし、頭痛や吐き気を起こすのも毎度のこと、直前の食欲不振も、今更気にかけるようなイベントではない。だから、どうせいつものことだ、という思いの方が強かった。少なくとも、土曜日、気づいた時点では。
 でも、それから数日経った今は―――もしかしたら、という疑いの方が、勝りつつある。

 『お前、大事なこと忘れてないか? 来るべきものが来ない、って場合―――栄養不足より、妊娠疑うだろ、普通』

 はからずも、拓海のあの言葉が一種の予言になっていたとは。思い出し、知らず舌打ちをする。
 あの時は、身に覚えがなかった。けれど…今は、ない、とは言い切れない。
 勿論、注意はしている。望まない妊娠が不幸を招くこともあるという事実を、悲しいことだが、奏自身が一番よくわかっている。100パーセント確実な避妊などないのはわかっているが、それでも、普段ならばやっぱり「まさか」で片付けられた。
 でも…ただ、一度だけ。
 あの日―――奏が実の母と会い傷ついて帰って来た日。そして咲夜も、“母”に対してタブーであった一言を言ってしまった日。改めて数えてみたら、かなり危険な日だった。その危険な日に…身に覚えが、ある。

 もし、そう、だったら。
 …そうだったら、自分は一体、どうしたいのだろう?

 今、すべきことは、わかっている。奏に打ち明け、相談する。そして、本当のことを確かめる。当然のことだ。当然、だけれど。
 「…最低…」
 ため息と一緒にそう呟いた咲夜は、ハンドルに両腕を預け、疲れたように突っ伏した。
 自分はこんなにも、臆病な人間だったのだろうか。こんな当然なことにすら足の竦む自分に、とことん愛想が尽きる。
 ―――駄目だ。今夜はライブがあるんだから、気持ち切り替えないと。
 限られた時間しか残っていない“Jonny's Club”でのライブだ。私事を引きずって、無様なパフォーマンスをするような真似は、絶対できない。何がわかった訳でも、何が決まった訳でもないのだから、今から動揺していては駄目だ。
 くしゃっ、と髪を掻き上げた咲夜は、顔を上げ、大きく深呼吸をした。そして、不安や迷いを振り切るように、エンジン・キーを力任せに回した。


***


 これまで過去を語ることの少なかった、美貌の女性社長。その原点を訊ねたところ、意外な素顔を本誌に語ってくれた。

 「両親を早くに亡くして、親戚のところに身を寄せてたんだけど、お世辞にも愛されていたとは言えない毎日で、いい思い出がほとんどないの。でも、親戚は田舎の小さな縫製工場を営んでいて、その得意先のはからいで、9歳の時、初めてファッションショーを見ることができたんです。綺麗な服を着て大勢の前を歩くモデルたちに、純粋に憧れたわ。それが私の原点です」

 人生の目標が、モデルから独自ブランドの設立へと変化し始めたのは、単身、ロンドンに出てきてからだという。

 「まだ15、6歳の田舎娘ですから、どうしたらモデルになれるかわからなくて。それまでも親戚の縫製の仕事を手伝っていたので、とりあえずお針子の仕事に就いたんです。その生活の中で、ファッション業界の色々な職業の人に会ったり、話を聞いたりする機会に恵まれて、モデルとしての仕事も少しずつもらえるようになったけれど―――だんだんと、ファッション業界でトップを極めるというのは、自分がデザインしたものを、自分の力で世に送り出すことなんじゃないか、と思い始めたの」

 トップモデルになり、有名になる。そしてその名を冠した自分のブランドを立ち上げ、世界最高の品質とデザインを誇る作品を世に送り出す。ロンドンで芽生えた壮大な夢は、アメリカで実を結んだ。

 ――今回の日本への出店は、社長の戦略の中では、どういった位置づけにあるのでしょう?

 「大変、大きな意味を持っています。私にとっては、長年の悲願でした」

 ――と言いますと?

 「世界的に、ファッションの中心地はヨーロッパと思われていますが、その中で高評価を得たからといって満足するのは、私の本意ではないのです。欧米とは異なる美的感覚を持つ国ででも受け入れられてこそ、本当の意味での“世界進出”でしょう。ですから、独自の美を持ち、優れた色彩感覚を持つ日本で評価されることは、“VITT”にとって非常に大きな進歩です」


 誌面に釘付けになっていた奏の視線は、ふいに聞こえてきた呼び鈴で、広げた週刊誌から久々に離れた。
 急ぎ玄関に向かい、魚眼レンズを覗き込んでみると、少し疲れた表情の咲夜が外に立っていた。が、奏がドアを開けると、一瞬前の表情を払拭するかのように、奏を見上げてにっ、と笑ってみせた。
 「やっほ。例のクッキー買ってきたんだけど、紅茶飲まない?」
 「お、いいね」
 ちょうど何かつまみたくなってきたところだった。入れよ、と咲夜を促した奏は、さっそく、紅茶を淹れるためにキッチンへ向かった。
 「奏って夕飯食べたの?」
 「ああ、食べた。今日、店からの帰りに郁の事務所寄ってさ。成田がまだ仕事してたんで、それ見ながらコンビニ弁当食った」
 「…仕事してる成田さん見てて、なんか面白い?」
 「いやー、別に。スゲー集中力で仕事してるから、一体何分間黙ったまんま仕事続けるか、ずっと見てただけ。結局、オレの方が沈黙に耐えられなくて、勝手にべらべら喋ったんだけどさ」
 「ハハハ。…っと、」
 バサッ、という音が背後でした。ケトルをコンロにかけた奏は、条件反射的に振り向き、直後、しまった、と思った。
 今の、本が落ちるような音は、さっきまで読んでいた週刊誌。床に落ちたそれの表紙を、咲夜がじっと見つめていた。その横顔が、少し目を丸くしているように見える。多分―――見つけたのだろう。表紙の片隅に書かれた「“VITT”日本進出間近! 社長に単独インタビュー」の文字を。
 「…な、なんか、成田が読んで面白かったって言うからさ」
 「奏も、読んだ?」
 「ああ、まあな」
 「…ちょっと、読んでもいいかな」
 「いいよ。まだ紅茶入るまで時間あるし」
 奏が答えると、咲夜は荷物をまとめて床に置き、雑誌を拾い上げてその場に座り込んだ。
 別に読まれて困ることが書いてある訳でもないが、なんとなく落ち着かない。奏はお湯が沸くまでの間、座ることはせずにティーカップを出したり茶葉を用意したりと忙しく動き回った。
 「…ふぅん…、サラ・ヴィットって、まだお針子やってた時代から、独自ブランド立ち上げるって夢、持ってたんだ」
 全部記事を読み終えて咲夜がそう言ったのは、奏が紅茶を淹れ終えるのとほぼ同時だった。
 「てっきり、モデルになるのだけが夢だったんだと思ってた」
 「…あー…、うん、オレもそう思ってた」
 ティーカップをテーブルに置いた奏は、チラリと週刊誌を見遣り、陰鬱な顔をした。
 「けど、その記事見て、ああ、いかにもあの女が考えそうだよな、って思った」
 「え?」
 「そこには曖昧にしか書いてないけどさ。あいつ、両親亡くして預けられた親戚んとこで、相当酷い目に遭ってたらしいんだ」

 『…愛なんて、家族なんて、知らなかった。憎しみしかなかった。露骨に厄介者扱いする親族のことも、散々私をなぶりものにした従兄弟たちのことも、ずっとずっと憎んでた。許さない…絶対見返してやる。モデルになるんだ、モデルになって、有名になって、成功して、あいつらを見返してやる―――それだけが、私が生きてる理由だった。郁夫に会うまでずっと』

 「郁に会うまでは、そいつらに対する復讐心で生きてたみたいな女だから―――最終目標を独自ブランド設立に定めたのも、自分をボロボロにした親戚を見下してやるには、ただ有名になる以上にそっちの方が効果的だからじゃないかな。実際、有名になってから、擦り寄ってきた親族をバッサリ切り捨てて高笑いしてやった、って聞いたから」
 「…縫製工場を経営してた、って書いてあったものね」
 両親を亡くしたまだ幼い子供に外道の仕打ちができるような人間性の持ち主たちだ。過去、散々下に見ていいように扱ってきたサラが、成功し、しかも自分たちの家業と大いに関係のある服飾ブランドの社長となったと知れば、当然のように(たか)って来ただろう。その辺の展開が咲夜にも想像できたらしく、一言呟いた咲夜は、ため息をつき、難しい顔で広げたままの雑誌を見つめた。
 が、次の瞬間、咲夜の眉が、怪訝そうにひそめられた。
 「でも、だったらどうして、サンドラ・ローズの名前でブランド立ち上げなかったんだろうね?」
 「は?」
 「だってさ。モデルとしての知名度からいったら、サラ・ヴィットよりかサンドラ・ローズの方がはるかに上なんでしょ? なんせ、伝説になっちゃう位なんだから。だったら、なんでサンドラ・ローズを辞めちゃったんだろう?」
 「……」
 そういえば―――何故サンドラ・ローズを辞めたのか、その辺の経緯を、ちゃんと確かめたことはなかった。
 そもそも、どうして本名ではない名前でデビューしたのかも、よくわからない。最初は時田や両親に探し当てられたら困るからか、とも思ったが、顔がどう見たってサラなのだから、名前など変えてもすぐバレる。むしろ、サンドラ・ローズを辞めて本名でデビューし直した時、わざわざ顔を変えてまでサンドラ・ローズの影を払拭したことの方が驚きだ。咲夜の言うとおり、その後のブランド立ち上げまで見通していたのなら、サンドラ・ローズの名を利用するのが当然の戦略の筈なのに。
 「…よく、わかんねーけど…何か、サンドラ・ローズのイメージを引きずりたくない事情でもあったんじゃない? デメリットがあるから切り捨てた、って考える以外、辻褄合わない気ぃする」
 「デメリット、ねぇ…」
 「―――つーか、読めば読むほど、郁が一瞬でもこいつと結婚する気だった、ってのがミステリーだよなぁ」
 パシン、と人差し指で誌面を弾いて、奏はようやく、クッキーに手を伸ばした。
 「温かい家庭に憧れてたってサラの気持ちもわからないでもないし、子供できて舞い上がる郁の気持ちも理解できないでもないけど、お互いに譲れないほどの夢持ってる同士なのに―――しかも、その夢を叶えるための入り口にやっと立った位の若さなのに、普通に結婚して子供作って、なんて生活、どう考えたって無理だろ」
 「……」
 「そもそも、ここまでの目的意識持ってるなら、なんでこいつ、オレたちを産んだんだろう? 一度は同意された分だけ、裏切られた郁の傷は大きかったんだし、なまじオレたちの顔見たりしたから―――…」

 『…それでも、おなかの中で毎日大きくなる子供を実感すると、今更殺してしまう気にもなれなかった。だって…赤ちゃんだけが、私の唯一の“家族”だったから』
 『生まれてきたあなたたちを抱いて初めて後悔したけど、私のために途方もないお金が動いちゃった後じゃ、引き返せなかったし。…愛情いっぱいに育ってるあなたたちを見て、自分の選択は正しかった、と思ったけど、たくさん涙も流したわよ。愚かな子供だった点では同罪なのに、叔父って立場で傍にいられる郁夫を、恨めしく思う位には、ね』

 刹那、サラのセリフを思い出して、ドキリとした。
 いや。それでも―――やっぱり、納得がいかない。そんな感情が生まれる前に、堕ろすという選択はできた筈だ。実際、2人の話し合いの中では、そういう選択についても出たというのだから。
 「―――…とにかく、オレたちを捨ててでも叶えたい夢があるんなら、そもそも産むなよ、って思うし、結婚したら二度と叶わない夢って訳でもないんだから、産んだからには捨てたりするなよ、とも思うし……どっちにしろ、オレたちと“VITT”を天秤にかけた結果、オレたちは“VITT”に負けたんだな、って思うと…やっぱ、ちょっと虚しいよな」
 思い出してしまった、サラらしからぬ感傷的なセリフを頭から払いのけるように、奏は一気にそう吐き出した。が、言い終えた途端、随分愚痴っぽい話になってしまったな、と胸がチクリと痛み、苦笑しながら付け加えた。
 「ま、産む方選択してくれたからこそ、今ここにオレがいる訳だから、オレが文句言うのも筋違いなのかもしれないけどな」
 「…ううん。奏が理不尽だって思うのは、無理ないと思うよ」
 苦笑を返し、そう言って首を振った咲夜だったが、ふいに笑みを消し、視線を僅かに落とした。
 「ただ、さ。…サラさんが、堕ろすって選択しなかったのは…なんか、わかる気する」
 「え、」
 「欲しかったんじゃないかな。時田さんとの間の子供が」
 「……」
 欲しかった? 子供が?
 考えてもみなかった言葉に、奏の目が丸くなる。
 「欲しかったのに…置いてったのか?」
 「置いてったことは、私もどうかと思うよ。もっと他に方法があるんじゃないの、って。ただ―――…」
 言葉を切った咲夜は、顔を上げ、僅かに眉をひそめた。
 「どれだけ育てる自信がなくても、今は困る、って気持ちがあっても―――愛する人との間の子供を“なかったこと”にするのだけは、どうしてもできなかったんじゃないかな」
 「……」
 「子供なんか未来永劫一切いらない、って思ってる人なら別だけど、家族に縛られず夢を追いたい、って本音と、愛する人の子供を産みたい、って本音が、同時に心の中にあるのって、そんなにおかしなことかな」
 何故か、やけに鼓動が乱れる。
 咲夜にそう言われると、理解できなくもない、と思ってしまいそうな自分が、怖い。理解などしたくないし、どんな事情があっても自分たちが捨てられた事実は変わらないのに。
 「…おかしく、ないのかもしれないけど、」
 ゴクリ、と唾を飲み込んだ奏は、やっとの思いで口を開いた。
 「だったら余計に、その“愛する人との間の子供”を手放してまで追いかけるほど、あの女の夢って、重たいもんなのかよ」
 「……」
 「いくら幸せな家庭に憧れてたとしても、女にはそういう本能が備わってるんだとしても―――そうまでして追いかけたい夢がある人間が、子供産んで普通の家庭築きたいとか思うのが、間違ってるんじゃないのか?」
 咲夜の瞳が、微かに揺れた。
 その思わぬ反応に、もしかして女性に限った話と誤解されただろうか、と焦る。慌ててティーカップを置き、一言付け加えた。
 「あ、いや、念のため言っとくけど、男も、だからな。家族捨ててでも実現したい夢があるような奴は、そもそも結婚しちゃあまずいだろ、って思ってるから、オレは」
 「…やだな。奏が男尊女卑な思考の持ち主じゃないのは、よくわかってるよ」
 くすっ、と笑った咲夜は、ティーカップを手にし、それに口をつけた。そして、ほっ、と一息つくと、ポツリと呟いた。
 「でも、自分自身の夢を追いかけるには…やっぱり、男より女の方が、不利みたいだね」
 ―――確かに。
 あまり考えたくない説だったが、こうして記事を読み、咲夜と話してみると、そういう部分もあるかもしれない、と認めざるを得ない。
 勿論、男だって、家庭を持つことで経済的にも精神的にも束縛を受ける部分はあるだろう。けれど、男は能天気に「産んでくれ」と言えば済む立場だが、そのために女性が失う自由や背負い込むリスクは、計り知れないほど大きい。妻が妊娠していようが、夫は夢を叶えるチャンスを掴むことができるが、実際に大きなおなかを抱えてしまった妻は、それが人生最後のチャンスだったとしても、掴むことができないケースがほとんどだろう。
 「…やっぱり、その頃の郁には、サラを支えるだけの器がなかったんだろうなぁ…」
 サラの将来への不安を取り除いてやるだけの力も、余裕も、冷静さも、まだ20歳そこそこだった時田には、ほとんどなかった。あったのは、有り余る夢と、情熱的な愛。それだけでは、恋愛はできても、生活はできない。

 ―――だから、仕方、なかったのか?
 郁との子供を産むことと、長年夢見てきたことが実現できるかもしれないチャンス、どちらも諦めることができないなら、母さんや父さんが育ててくれると信じて置いて行くのも、仕方のないこと、だったのか?
 悪いのは全部、郁とオレたちを捨てたあの女だと思ってたけど―――もしかして、違うのか?
 郁に、あと少しの力があれば…子供を育てながらでも夢を追うことはできるんだ、って信じさせるだけの、そしてそれを実現できるだけの器があれば…オレたち4人は、「家族」になれてたのか…?

 「……っ、」
 奏の思考を遮るように、カチャン、という鋭い音がした。
 驚いて目を上げると、咲夜が口元に手を置き、僅かに顔を歪めていた。その右手は、ソーサーの上に置かれたティーカップを持っており、口元に置いた左手には食べかけのクッキーがあった。今の音は、ティーカップを乱暴に置いた時の音だったらしい。
 「ど…どうした? 咲夜」
 「…ご…ごめん、なんでもない」
 早口にそう答えた咲夜は、食べかけのクッキーをソーサーの片隅に置き、大きく息を吐き出した。
 「バターかな。なんか、クッキーの甘ったるい匂いが、今日はダメみたいで。…ごめん、これの残り、全部奏が食べていいよ」
 「え…っ、大丈夫かよ、おい」
 サラのことも時田のことも、一瞬で吹き飛んだ。奏は思わず咲夜の肩に手を置き、その顔を心配げに覗き込んだ。
 「あんまり、顔色良くないな。それにお前、ここ最近、あんまり食欲ないだろ。まだ胃がやられてるんじゃないか?」
 「だ…大丈夫大丈夫。やっぱ、ライブ終了が決まって、この先の身の振り方がなかなか見つからないのが、ちょっとストレスになってたのかなぁ…」
 心配させたくないのか、咲夜はそう言って、ハハハ、と力なく笑った。けれど、ストレス、なんて単語が出てきたのでは、拒食症の前歴を知っている奏にはかえって逆効果だ。
 「念のため医者行っとけよ」
 「…んー…まあ、週末までこの調子だったら、それも考えるよ」
 「絶対だぞ」
 奏がきつく睨むと、咲夜は苦笑し、至近距離にあった奏の唇に軽く口づけた。
 「…こら。誤魔化すんじゃねー」
 「あはは、わかってる。うん、必ず行くようにするから」
 絶対だからな、と念を押すように、今度は奏の方から唇を押し付ける。触れた唇の感触に、一瞬、自制心が折れてしまいそうになったが、辛うじて持ち堪えた。


 ―――本当は、例の仕事のこと、話すつもりだったんだけど…。
 咲夜を見送り、玄関の鍵をかけながら、小さくため息をつく。
 今夜、咲夜が来たのは想定外のことだったし、まだ奏自身の頭の整理もできていないのだが、咲夜が雑誌記事を読んだのをきっかけに、いっそ今夜話してしまおうか、とちょっと考えていたのだ。でも―――なんだか、言いそびれてしまった。話をするより前に、これまで考えなかったようなことが、色々と頭に浮かびすぎて。
 ―――オレたちを産みたかった、って…そんなこと、ホントにあるのかよ。育てる自信も資格もないくせに、ただ産みたいだけなんて、アリかよ。無責任な奴。
 心の中でそう詰りながらも、悔しいことに、奏はそれが、照れくささからくる悪態だということに、気づいてしまっていた。
 淳也と千里を真の親と思い、彼らに望まれさえすれば実の親などどうでもいい、と累に言い聞かせ、また自分自身もそう思ってきたのは、間違いない筈なのに―――なんだか、両親を裏切ってしまったような気がして、奏はまたひとつ、ため息をついた。


***


 「Some say love it is a river... that drowns the tender reed... Some say love it is a razor... that leaves your soul to bleed...」

 ―――なんか、元気ないなぁ、レオンのやつ。
 幸いにして、晴天。開け放った窓からちょっと外に出してやろうかとも思ったが、まだ早朝は空気が冷たいので、可哀想な気がして、やめた。いつもより2センチ、窓際にレオンの鉢植えを寄せて、咲夜は大きく息を吸い込んだ。

 「Some say love it is a hunger... an endless aching need...」

 咲夜は、この歌が主題歌となっている映画『The Rose』を見ていない。主演のベッド・ミドラーは大好きなシンガーの1人で、彼女が歌う『The Rose』は飽きるほど聴いたが、最近になって、映画のあらすじを一成から教えられて、なるほど、と思った。
 人は言う。愛は、弱き人を飲み込む川の流れだと。人の魂を切り裂く氷の刃、永遠に果てることのない渇望だと。…ただ愛し愛されることを求めて、短い人生を駆け抜けるように生きた主人公・ローズにとって、愛はまさに、自分を飲み込む川で、自分を切り刻む刃で、命尽きる瞬間まで求めずにはいられなかったもの、だったのだろう。

 「...I say love it is a flower... and you its only seed...」

 ―――私は言う。愛は、1輪の花だと。そしてあなたは、その唯一の種。
 …何故だろう。歌いながら、何故か咲夜は、あの人を―――奏の実の母のことを、思い出していた。

 「ちょっと聴いただけだとフツーだけど、よく聴くと深いよなー、その歌」
 「!」
 突如、朝の発声練習に割って入った声に、珍しく歌いながらボンヤリしてしまっていた咲夜は、ハッと我に返った。
 隣の窓に目を向けると、わざとらしく拗ねた顔をしていた奏が、不意打ちに成功したことに気を良くしているみたいに、くつくつと笑っていた。
 「お前、オレが窓開けても、ぜーんぜん気づかないでやんの。発声練習から、そこまで歌の世界に没頭しちゃってて大丈夫かよ」
 「…人が悪いなぁ。声かけてくれりゃいいじゃん」
 バツの悪さに、思わず唇を尖らせる。そんな咲夜を見て、奏はますます愉快そうに笑ったが―――ふいに、落ち着かない表情になり、僅かに視線を泳がした。
 「あー、と、えっと…どう、気分は」
 「は? ああ…、うん、大丈夫。なんかまだ貧血っぽい感じだけど、昨日の夜よりは、かなりマシ」
 実際、昨夜、クッキーを一口かじった時に覚えたような胃のむかつきは、今朝はほとんどない。これなら普通に朝食もとれるかもしれない、と思えるほどに。
 「じゃあ、仕事行く前に、そっち行っていいか? ちょっと話があって」
 「話?」
 軽く、心臓が跳ねる。
 ―――まさか、何か気づいた、ってことじゃ…ない、よね?
 自分の方にこそ、奏に話さねばならないことがあるから、つい、奏の「話」の内容を勘繰ってしまう。けれど、表面上は努めて冷静を装い、咲夜はニコリと笑ってみせた。
 「ふーん…、いいよ。パンとカフェオレでよければ、ご馳走するけど、どう?」
 「じゃあ、りんごあるから、そっち持ってく」
 ホッとしたように笑った奏は、そう言って部屋の中に引っ込んだ。咲夜も軽く手を振り、窓を閉めた。
 ―――何だろう。話って。
 サラ・ヴィットに関することなんじゃないか、と、漠然と感じる。日頃、サラのことをほとんど口にしない奏が、昨夜あれほどサラに関して自分の考えをぶつけてきたのも、話したいことの一部だったのではないか、と。
 だとしたら……複雑な心境だ。
 今、咲夜が思い悩んでいることと、決して無関係ではない話―――サラを許すことなど到底できないが、昨日、奏と話してみて、咲夜は少なからず、サラに共感してしまった。時田を裏切った、奏と累を捨てた、あの人に。
 …いや。何も聞かないうちから、あれこれ考えて落ち込んでも、仕方ない。唇を噛んだ咲夜は、窓際に置いたレオンの鉢をクルリと回転させてから、立ち上がった。

***

 「え…っ、それって…」
 デザートのりんごにフォークを突き立てたまま、咲夜が驚いたような声を上げる。
 気まずそうな顔の奏は、残っていたカフェオレを一気に飲み干し、覚悟を決めたように告げた。
 「つまり、専属メイクアップアーティストとして、“VITT”と契約しないか、って意味」
 「……」
 「詳しい条件とか全然話聞いてないけど、“VITT”が主催するショーをいくつかと、パリ、ミラノ、ニューヨーク、それとロンドン―――4つのコレクション、全部任せるって言うんだ」
 「パリ、って…あれだよね。パリ・コレってやつ」
 「そう」
 ファッションに疎い咲夜でも、パリ・コレは知っている。疎くても知っているほど、桁違いにメジャーな国際的なショー、という訳だ。だから、この話がどれほど幸運で、どれほど凄い話なのか、咲夜でも理解できる。
 「す…凄い話じゃん!」
 思わずパン! と手を叩いて、そう叫んでしまう。
 このところ、奏はずっと、今自分がやっている仕事や置かれている状況に、疑問と違和感を抱いていた。それを、僅かな期間日本にいただけのサラが見抜いたとは驚きだが、そういう奏の現状を打破するためにこんな話を持ってきてくれたというのが本当のことなら、咲夜からも彼女にお礼が言いたい位だ。理想と現実のギャップに苦しみ、義理と義務で身動きが取れなくなっている奏を見るのは、ただ見ていることしかできない分、余計に辛いことだったから。
 「…ん、凄いのは、オレも認める。ついでに、オレの実力が買われての依頼じゃないのも、認める。オレが、サラの肉親じゃなかったら、絶対こんな話、舞い込んでこなかったと思う」
 「それを言っちゃうと、身も蓋もないけど―――もしかして、そこが引っかかって、迷ってるの?」
 こうして相談するということは、まだ引き受けるかどうか迷っている、ということなのだろうが、その理由が「親の七光りオファーをホイホイ受けるなんて、オレのプライドが許さねぇ」である可能性は十分考えられる。
 「正直、最初はそれもちょっとあったけど、今はその部分には目ぇ瞑れると思う。その仕事をモノにするきっかけがオーディションだろうがコネだろうが口コミだろうが、現場で力を試されるのはオレ自身なんだから、関係ねぇ、って」
 「大人になったじゃん」
 「…いや、まだ、そう思おうと努力してるとこなんだけどさ」
 やはり、本音では割り切れない部分が多々あるのだろう。ぼそぼそと付け加えた奏は、複雑な表情で、眉根を寄せた。
 「じゃ、何が問題なの。黒川さんに義理立てしてんの?」
 「う…、それも、まだちょっとある、けど」
 曖昧に答えた奏は、チラリと咲夜の顔を見、眉間の皺をますます深くした。
 「―――お前、わかってないだろ」
 「は?」
 「最初の“VITT”のショーが、4月。最後のロンドン・コレクションが、9月末。…もしこの話引き受けたら、オレ、都合半年も日本を離れるんだぜ?」
 「……」

 半年―――…。

 胸の辺りが、すっ、と冷たくなった。
 顔色を変え、言葉を失う咲夜を見て、奏は何故か、少し意外そうな顔をした。が、すぐに気まずそうな表情になり、歯切れの悪い口調で更に続けた。
 「…なんていうか、ただ単純に、咲夜と半年も離れてるのは嫌だな、って気持ちもあるけど―――時期的に、な。ずっと続けてきたライブがなくなって、さあこれからどうするか、っていう、咲夜にとって一番大事な時期に、オレが傍にいない、ってのが、なんか嫌でさ」
 「……」
 「それと―――やっぱり、なんか、腹が立つんだよな。こんなデカくなってから、母親面して“力になりたい”とか言ってるけど、非力な赤ん坊を放り出した女が、育ててもいない子供にそんな感情抱くなんて、信じられないし。“親”ってさ、ただ産めばなれるもんじゃなくて、子供を育てながら、だんだんなっていくものだろ? 母さんなんか、オレたち産んだ訳じゃないけど、あれ以上母親らしい母親って滅多にいないよな、って思う位“母親”してるぜ? そういう母さん見てるから、“親なんだから”ってあの女の口から出てくると、どうしても反感しか覚えなくて…」
 「…そ…っか…」

 …心臓。
 うるさい。心臓。黙れ。

 奏の言葉は、聞こえている。言っている意味も、ちゃんと頭に入ってきている。けれど、咲夜の頭には、奏が話すこととは全く別のことが、一気に、もの凄いスピードで渦巻いていた。
 視点が、うまく定まらない。嫌な感じの動悸は、鎮まる気配すらない。グラグラする視界の中、咲夜の中で唯一、きちんとした言葉となって渦巻いているのは、ただ一言―――「どうしよう」だった。
 「な…成田さんは、何て言ってた?」
 奏に、この動揺を悟られたくない。辛うじて普段と同じ高さの声を維持して、訊ねた。
 「成田は、ああしろこうしろ、言わないからなぁ…。でも、“VITT”の専属レベルの話なら黒川さんを納得させるには十分だろうし、日本に戻ってからどこかの事務所に入る時、メジャーコレクションを複数経験してるってのは、大きな武器になる筈だ、って言ってた」
 「…そう。やっぱり、そう、だよね」
 「―――咲夜は、どう思う?」
 遠慮がちな奏の問いに、一瞬、言葉に詰まる。

 …答えなくては。
 半年なんて、長い人生の中で大した長さではない。たとえそれが、サラの身勝手な自己満足でも、それを利用してやる位の気持ちでいればいい。このチャンスを逃したら、絶対に後悔する。引き受けた方がいい。行った方がいい。…そう、答えなくては。

 「い―――…」
 行っておいでよ。
 勢いよく顔を上げ、笑顔でそう、言いかけた咲夜だったが。

 「―――…っ…たい…」
 「え?」
 咲夜の顔が、苦痛に歪む。
 視界がグラリと大きく揺れ、体の中の血が、体の傾きに従って、コップの中の水のように揺れたように感じた。
 …痛い。
 痛い……!
 「咲夜っ!?」
 おなかを押さえた咲夜は、思わずテーブルに突っ伏した。突然の事態に仰天した奏は、膝歩きで咲夜の傍に駆け寄り、うずくまる咲夜の背中に腕を回した。
 「お…おい、咲夜っ! どうした!? 大丈夫か!?」
 「…わ…わかん、ない。でも…」
 この痛みには、覚えがある。でも…もし、ここ数日の懸念が、現実だったとしたら…。
 「…ヤバイ、かも」
 「は!?」
 「…ご…ごめん、奏、タクシー呼んで」
 「タクシー…びょ、病院か!? 病院行くんだな!? わ、わかった。まだ開いてないから、救急だよな。いや、どうだっけ? お前が前に入院した病院って、」
 パニックに陥りつつも、以前、咲夜が拒食症で倒れた時に運ばれた病院に咲夜を連れて行こうとしているらしい。気力を振り絞って顔を持ち上げた咲夜は、奏を引き止めるように、その腕を掴んだ。
 必死の形相の奏が、立ち上がるのをやめ、咲夜を振り返る。
 違う、そうじゃない―――首を激しく横に振る咲夜の様子に、奏の綺麗な眉が、怪訝そうにひそめられた。


***


 はっきり言って、人生最大のパニック状態だった。
 タクシーの後部座席で、あまりに奏がソワソワと動き回るものだから、気になってしょうがないのか運転手が胡散臭いものを見るような目で何度か振り返っていた。ちゃんと確かめた訳じゃないんだし、と咲夜に言われても、奏のパニックは収まらなかった。そうだよな、まだ何も決まった訳じゃないんだから、ちょっと落ち着こう―――なんて、器用に切り替えられる男がいたら、心底尊敬する。少なくとも奏には、逆立ちをしたって無理そうな話だ。
 もし、気のせいじゃなく、本当に妊娠していたのだとしたら……今のこの事態は、最悪の結果を示していることになる。
 詳しい知識は全く持ち合わせていないが、状態によっては咲夜の体にも大きな傷を残す可能性があることは、奏も知っている。いや、大事には至らずに済んだとしても、今現在、激しい下腹部痛と貧血と吐き気で今にも倒れそうになっているのだ。
 頼むから、早く診察してくれ。
 何悠長に熱測ったりしてるんだ。こんな寒い待合室に待たせんなよっ。今すぐなんとかしてくれ…っ!
 「…無理だってば。まだ診察時間前じゃん…」
 あまりに奏がパニックの様相を呈しているので、逆に咲夜の方が落ち着いてしまった。そういう意味では、奏が付き添ったことは、大いに効果があったと言っていいだろう。


 「うん、特に異常はないですね」
 「……」
 穏やかな医師の言葉に、2人は、揃って呆けたような顔をしてしまった。
 本来、この場に奏がいるのは、おかしい。外でお待ち下さい、と言う看護士に、必死に頼んで中に入れてもらったのだ。咲夜は「恥ずかしいからヤダ」と頑なに拒否したが、「こーゆーのは男にも半分責任があるんだ。だから、結果を聞く義務も半分はオレのもんだ」と主張する奏を前に、妥協する以外なかった。
 「……は?」
 数秒の沈黙の後、そう訊き返したのは、咲夜だった。
 「内診、エコー検査、どちらも異常なしです」
 「…あの、ということは、その…私が心配したようなことは」
 なんとか咲夜が訊ねると、医師はニコリと微笑んだ。やはりこういう職業に就く人間は、どこか似た部分があるのだろうか。肝っ玉母さんを思わせるその笑顔は、なんとなく千里と似通って見えた。
 「大丈夫。流産ではありませんよ」
 「……」
 「今は、流産としてカウントされないほど早期の流産もちゃんとわかるようになっていますから、間違いありません。確かに、予定日より10日も遅れると、真っ先に妊娠を疑うのは当然ですけどね。むしろ、10日も遅れているのに、妊娠検査薬で調べることすらしないというのは、よくありませんよ」
 「…す…すみません」
 恐縮したように、咲夜が僅かに頬を赤らめ、首を竦める。それでもまだ、奏は呆けた状態からなかなか復帰できなかった。
 異常、なし。
 妊娠もしてないし、流産もしていない。臓器にも特に異常なし。
 ゆっくりとそう、頭の中で繰り返して―――やっと、納得する。咲夜は大丈夫なのだ、と。
 ―――よ…よかった…。
 納得したら、どっと安堵と疲労が襲ってきた。大きく息を吐き出し、露骨にホッとした顔をする奏に、医師は思わず苦笑した。
 「ただ、伺ったお話だと、10日遅れても異常だと感じなくても無理もないほど、過去には不安定な時期がかなり長くあったようですし、やはり一度、ちゃんと検査を受けていただいた方が…。それと、特に臓器に異常がなくても、今、妊娠の計画がないのであれば、ピルを使って正しい周期にコントロールした方がいいですよ」
 「…はあ…」
 「うちは予約制ではないので、ご都合のいい日に、また来て下さい。あ、できれば生理が終わった直後だと助かります。一番検査に適した時期ですから」
 「…はあ…」
 「じゃ、今日はこれで。もう結構ですよ」
 まだどことなく呆けた様子だった2人も、その言葉に、慌てて立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げた。
 「誠実な彼氏さんで、よかったですね」
 最後に医師が咲夜に言った一言には、今度は咲夜だけではなく、奏も僅かに頬を紅潮させた。


 「…ごめん。仕事行くの、遅らせちゃって」
 病院を出て第一声、咲夜は俯いたまま、そう言った。
 「ばーか。そんなの、お前が気にするようなことじゃないって」
 そう言って、奏が咲夜の頭をくしゃっと掻き混ぜる。が、咲夜は、まだ顔を上げようとはしなかった。
 「それより、何事もなく無事でよかったな」
 「…うん」
 「ほんと、生きた心地がしなかったぜ。まだ結婚前の彼女から、子供ができた、って報告されるのも結構ヘヴィーだけど、それ飛び越していきなり流産なんて、究極ヘヴィーだろ」
 「……」
 「でも、何日も悩んでたんなら、なんでオレに相談しないんだよ。オレだって当事者なのに…そんなにオレ、頼りなく見えるか?」
 「…あのさ、奏」
 奏の質問を無視するかのように、咲夜は顔を上げないまま、どことなく硬い声で切り出した。
 「さっきの話だけど」
 「さっきの話?」
 「“VITT”の話。…あれ、受けた方がいいよ」
 「…は?」
 一瞬、話の展開が、飲み込めなかった。ピタリと足を止め、やっと顔を上げた咲夜は、何故今ここでその話が出てくる、と不思議そうな目をする奏に、にっこりと笑ってみせた。
 「さっき話聞いた時はさ、妊娠してるのかも、って思ってたから、即答できなかったけど―――幸い、勘違いだったし。だから、もう反対する要素、全然ないよ。引き受けなよ」
 「…咲…」
 「ただ、ねぇ。イギリスって、奏の元カノの巣窟なんだよね。厳しい仕事で弱ってるとこに、誘惑が山のようにあったら、奏だってグラついて当然だしさ。そういう所に行くのわかってるのに、半年も奏を縛りたくないし、」
 一気にそこまで言うと、咲夜は、あっけらかんと、言い放った。
 「イギリスに発つ日で、一旦、私との関係、リセットしない?」
 「リセット?」
 「別れちゃうってこと」
 「……」

 …別れる?
 浮気をされても仕方のないような環境に、奏を送り出すのだから―――その前に、別れる??

 「何、言ってんだ、お前」
 自然と、声が低くなる。けれど、険しくなった奏の表情に怯む様子もなく、咲夜は更に続けた。
 「フリーになってれば、もし向こうで出会った人をもの凄く好きになっても、私に罪悪感抱くことなく付き合えるし、帰ってくる期日を決める必要もなくなる―――ううん、そのまま、故郷のイギリスでメイクの仕事続けるのだって自由になるんだよ」
 「……」
 「勿論、やっぱり日本で仕事がしたい、って思えば日本に来ればいいんだし、その時、まだお互いが一番好きな相手のままなら、改めて付き合ったっていいんじゃない?」
 「…本気で言ってんのか?」
 奏が、半ば睨むようにして見据えながら、確認する。咲夜は、笑顔を1ミリも崩すことなく、答えた。
 「本気だよ」

 ―――…わからない。
 咲夜の考えていることなんて、今も奏には、全然わからない。咲夜が本心を隠して放つ嘘を、あっさり真に受けてしまう。咲夜の本当の気持ちに気づくこともできずに、咲夜の言葉に踊らされて、怒ったり拗ねたりしてしまう。そんなところは、多分、今だって変わっていない。
 ……でも。

 「―――お前、気づいてないのかよ」
 「何が?」
 平然を装って笑顔を保つ咲夜に、奏の顔が歪む。堪えきれずに、奏はそっと手を伸ばし、咲夜の頬に触れた。
 両頬に伝う、幾筋もの涙。
 無言のまま、それを親指で拭ってやると、刹那―――咲夜の笑顔が、脆くも崩れた。
 「…お前の彼氏名乗ってんのは伊達じゃないんだからな。あんまり舐めた真似すると、本気で怒るぞ」
 「……」
 「お前が、笑いながら残酷な嘘つくのは、お前自身が一番傷ついて苦しんでる時だ。…いつだって、そうだった。今までずっと」
 痛くて、痛くて―――でも、その痛みを隠してでも、守りたい何かが、救いたい何かがある時、咲夜は笑いながら、残酷で冷たい嘘をつく。嘘で自分の傷を覆い隠して、相手を突き放すフリをして、背中を押す。拓海に対しても、佐倉に対しても、そして…奏に対しても、いつもそうだった。
 でも、こんな風に、涙を流したことは、なかったのに。
 笑顔を作りながらも、傷を覆い隠しきれず、涙を流して―――そのことに、自分で気づいてさえいないなんて。
 何が、咲夜をここまで打ちのめしているのか、わからない。もどかしさに、奏は、まだ呆然と涙を流し続けている咲夜を、必死の思いで抱きしめた。
 「…もしかして、オレに、愛想が尽きた?」
 「……」
 「今回はたまたま、勘違いで済んだけど…咲夜をそういう危険に晒したのは、事実だもんな。ああいう無責任なことしたオレのこと、怒ってんのか? それとも、お前が悩んでるのに気づいてやれなかったオレに、悩んでるお前に自分の相談ばっかしたオレに、愛想尽きたとか?」
 「…ち…がう…」
 奏の腕の中で、咲夜は何度も何度も、首を横に振った。そして、身を捩るようにして、奏の胸に両手をつき、体を少し離した。
 「奏は……何も、悪くない。…愛想が尽きたのは、自分に対してだよ」
 「自分に?」
 意味がわからず、眉をひそめる。すると咲夜は、顔を伏せ、肩を震わせながら、声を絞り出すようにしながら答えた。

 「…子供…できたかも、しれない、って思った時…ホント言って、困った、って思った。…奏のことは、本当に好きだけど…もしこれが、もっと先の話なら、喜べたかもしれないけど、“今”は―――ライブも終わって、この先の見通しがまだ全然立っていない“今”は、子供なんて無理だ、困る、って」
 「…それは、オレも、同じだぜ?」
 奏だって、咲夜のことは愛しているし、結婚したいと真剣に考えている。でも、それは“今”ではない。そもそも、妊娠を告げられて単純に喜べるような幸せな状況にあるのなら、こんな風に「早くプロポーズできるだけの足場を作らなくては」と焦っている訳がないのだ。
 「もし今日病院に来たのが、妊娠してるのかどうかはっきりさせるためで、その結果が“勘違いでした”だったら、正直、ホッとしたと思う。っつーか、オレらに限らず、子供を積極的に欲しがってるカップル以外は、大抵そうだろ?」
 奏が言うと、咲夜ははっきりと、頷いた。わかってる、自分だけじゃなく、奏だって困るに違いないって、わかってた―――無言のうちにそう告げた咲夜は、大きく息を吐き出し、ノロノロと顔を上げた。
 涙は、まだ止まっていない。これでもまだ抑えている方なのか、小刻みに震える肩も、いまだ治まってはいなかった。
 「…でもさ。勘違いじゃなかった場合は…2人が今も好き合ってて、どちらも中絶する気になれなければ……大抵の人は、結婚して、子供産む決意、するんだよね。“今”は無理だった、筈なのに。…何かを我慢して、何かを諦めて、そうやって……“親”に、なるんだと思う。多分…私や、奏も」
 「…うん…、かもな」
 「でも、私…そういう未来、想像したら…凄く、不安で」
 「え?」
 「…今、奏と結婚して、子供を産むとしたら……私、歌を、続けられるかな、って」
 力ないその一言に、奏の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
 思わず、息を呑む。けれど、何故今の言葉にそれほどドキリとさせられたのか、自分でもよくわからなかった。
 「もっと、先なら…“Jonny's Club”の後の活動が、ある程度軌道に乗った後なら…自信、持てたかもしれない。でも、今、このまま一時的にでも歌を辞めてしまったら―――本当に、また、歌を、始められるのかな。始められたとしても、その時、私が立つステージは…私と一緒にステージに立ってくれる仲間は…いるのかな…って…」
 「…咲夜…」
 「…もしか、したら…歌を、諦めるしかなくなるのかも、しれない、って、思ったら―――怖くて。歌を失うのが、怖くて…」
 咲夜の目から、これまで以上の涙がこぼれ落ちる。嫌な風に乱れる鼓動を必死に宥めながら、奏はまた咲夜の頬に手を当てた。
 「そ…そりゃ、当たり前だろ? 歌は、咲夜の命みたいなもんなんだから。結婚して、子供産んだからって、簡単に諦められる訳ないし、復帰のための道筋も見えないんじゃ、不安に思って当然だって」
 奏が、涙を拭ってやりながらそう言うと、震えていた咲夜の肩が、ピクリと、軽く跳ねた。
 涙の溜まった目を上げ、奏を見上げた咲夜は、僅かに眉をひそめた。
 「…わ…かんないの…?」
 「え?」
 何が? と不思議そうな目をする奏に、咲夜は、少し悲しげに目を細めた。

 「私が言ってること―――サラさんが奏たちを置いていった理由と、同じことなんだよ…?」

 ―――心臓が。
 一瞬、止まった。

 咲夜を見下ろす奏の顔が、目を見開いたまま、凍りつく。再び、心臓が動き出してもなお、奏は指一本、動かすことができなかった。
 そんな奏を見て、それをどういう反応と受け取ったのだろう、咲夜は大きく息を吐き出し、また目線を下へと落としてしまった。瞬く度に涙がパタパタと落ちるのを、奏は、ただ呆然と、言葉を失ったまま眺めることしかできなかった。
 「…“VITT”からの依頼の話、聞いた時は…奏には何も言わず中絶する、って選択肢も…一瞬、頭に、浮かんだ。いろんなこと、考えたけど、結局……愛する人とその子供がいれば、後はどうなったっていいじゃないか、とは…私には、どうしても、思えなかった。どうしても…歌、だけは…」
 「……」
 「…奏が、昨日言ったとおりだよ。私は…あの人と同類な私は…奏に、ふさわしくない。せ…世界の、何より、奏を優先してくれる…奏の家族になるのが最大の夢みたいな人の方が、奏に、ふさわしい。…だから…」
 「…バ…ッカ…」
 奏の顔が、耐え難い痛みを受けたみたいに、歪む。
 乱暴な位の勢いで咲夜を引き寄せた奏は、力の限り、咲夜を抱きしめた。

 違う、と、体中が叫んでいる。
 違う…咲夜が奏にふさわしくないなんて、絶対に違う。むしろ逆だ。そういう咲夜だから―――温かい家庭より、贅沢な生活より、ただ、自分の歌を、命の限り歌い続けることを望むような、咲夜だから、奏は咲夜に惹かれたのだから。
 でも、今、何を言っても、どう言い訳をしても、きっと咲夜には届かない。
 それほどの夢を持っている人間が、普通に結婚をしようと思うのが間違っているんじゃないか―――そう言ってしまったのは、奏自身なのだから。


 『―――…不思議だね』
 『君と僕を似ていると思ったことは、これまで一度もなかったのに―――ファインダーを通して彼女を見た時、痛いほど実感したんだ。君と僕は、血が繋がってるんだな、ってことを』

 …そうか。
 あれは、あの女と咲夜が、同じものを持っている、っていう意味だったのか。
 どうしても捨てることのできない夢を、苦しみながら、血を流しながら追いかけている者が持つ、奇跡みたいな一瞬の光―――郁、あんたも、その光に死ぬほど焦がれたのか。


 サラを許したいなどとは、微塵も思わない。
 けれど、歌を失うのが怖かった、と泣く咲夜を抱きしめながら―――奏は、初めて、わかった気がした。サラが自分たちを置いて行った、その時の彼女の気持ちが。


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