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― Light up the sky ―

 

 気まぐれに、猫に餌をやろうかな、と思い立った。
 でも、何故だろう? 前回、そう思い立った時も、なんだか、これとそっくりなシチュエーションに出くわしたような気がする。

 「―――…あれ、友永さん?」
 「……」
 振り返った咲夜が、由香理が身を隠すより早く、その姿を見つけてしまった。
 気まずさに、あの時と同じように、思わずペットフードの入ったレジ袋を背後に隠す。そんな由香理を見て、由香理がたまたま物置のところで足を止めた訳ではないと察したのだろう。咲夜は苦笑のような笑みを浮かべた。
 「なんか、どっかで見た光景だね」
 「…あなたの方こそ」
 前回、こうして咲夜と物置前で出くわした時、咲夜は一晩借りていたミルクパンを返しに来たところだった。そしてそのまま、小雨の降る中傘もささずに散歩に出てしまったのを見て、やっぱり変わった人ね、と由香理は思ったのだ。
 「また、猫を借りてたの?」
 由香理がそう訊ねると、咲夜は肩を竦めてみせた。
 「そうしようかなーと思ったけど、どうやら留守みたい」
 「え?」
 「多分カノジョんとこじゃないかな」
 「…カノジョなんて、いたの、あの猫」
 「年末辺りから、らしいよ」
 「ふぅん。生意気、猫の分際で」
 眉をひそめる由香理に、咲夜は一瞬目を丸くし、続いて苦笑した。
 「ハハ…、唯一、種の存続のためじゃない恋愛をしている動物である人間が、他の種族の真剣勝負を“生意気”って言うのも、まずくない?」
 「―――いやだわ、ちょっと、納得しちゃったじゃない」
 その答えが気に入ったのか、咲夜はやけに楽しげに笑った。
 勿論、子猫のうちに避妊・去勢手術を受けさせられるのが常である飼い猫には当てはまらない理論であることは、2人も百も承知だ。でも、確かに―――人間が介在しない世界では、「恋」とは「種の存続のための行為」とイコールで結ばれる。その摂理と無関係に恋愛を繰り返す謎の生物は、人間くらいのものかもしれない。
 「カノジョって、飼い猫なのかしら」
 「みたいだね。私もよく知らないけど、優也君あたりは名前も知ってるみたいだし」
 「そう…。じゃあ、その家に引き取られるのも、そう遠くないかもしれないわね」
 「かもねぇ…。仮住まいと言いながら、もう2年経つし」
 そう相槌を打った咲夜は、軽くため息をつき、どことなく寂しげに主のいない物置を見遣った。一番ミルクパンの面倒を見ているのは優也だし、部屋に入れて可愛がっているのは主に101号室の住人だと思うが、やはり拾ってきた人間なりの寂しさのようなものがあるのだろうか。
 「まあ、それは、そこ置いとけばいいと思うよ」
 由香理が背後に隠したものを目で指し示し、咲夜が物置の片隅を指差す。気恥ずかしい思いに思わず不貞腐れたような顔をしつつも、由香理は小声で「…ありがと」と答えておいた。


 基本的に由香理は、今も、猫があまり好きではない。日頃は自分の好き勝手に辺りを自由にうろつき回っている癖に、自分が寂しい時だけ飼い主に擦り寄り、それを可愛さだけで許されてしまっている。そういう生態が、飼い主には忠実な犬に比べて「ずるい」という感じがして、嫌なのだ。
 けれど、自分が寂しい時だけ、日頃無視している物置の黒猫を構ってみたくなるのだから、自分も猫と大差ないのではないだろうか―――そんなことを考え、由香理はベッドの上で、ひとり、苦笑してしまった。
 今日、由香理が気まぐれを起こした理由は、明白だ。昨晩、母からかかってきた電話―――それが原因。

 『叔父さんだって、由香理を心配して話を持ってきてくれてるのよ? あなた、自分の年齢、わかってるんでしょうね? …また、そんなこと言って…。そっちでは違うって言っても、こっちじゃ十分、適齢期を逃してるの! お見合いの話が来ているうちが花よ? 30の声を聞いたら、気の毒がる人はいても、いいお話なんて持ってきてくれないんだから。もう、お父さんもお母さんも、今から心配で心配で…』

 …心配? 何が?
 ここまで繋いできた偉大なる遺伝子の継承ならば、既に姉がその役目を果たしている。「友永家」の存続であるなら、むしろ自分より長男である兄の心配をこそすべきだ。定職にも就かずフラフラしているが、それ故に決して実家から出て行かないとわかっている兄がいるから、老後に面倒を見てくれる子供世代がいなくなる心配をしている訳でもないだろう。案外、嫁などもらって出て行かれるのは困るから、両親は兄に対して寛大なのかもしれない。
 では、両親は一体、「何」を心配しているのだろう?
 由香理が、地元的適齢期を越えてもなお独身でいると、どんな不都合があるというのだろう? 見合い話が来なくなることが、そんなに恐ろしいのだろうか? 29歳で結婚すれば幸せで、30歳で結婚したら不幸だとでも言うのだろうか?
 ―――なんか、だんだん、何のために結婚するのか、わかんなくなってきちゃったなぁ…。
 天井を見上げ、ため息をつく。
 自然界は、シンプルだ。生れ落ちた時から、種の存続のためのパートナー探しが、生物が生きる意義となる。子を産む雌は、自分の遺伝子を確実に後世へと残すため、より強い雄を求めることに人生をかけるし、子を産めない雄は、自分の遺伝子を残してくれる雌を惹きつけようと、より強く、より美しくなることに人生をかける。生きることとは、イコール、遺伝子の継承のための活動だ。
 きっと人間も、類人猿だった時代は、そうだったのに違いない。けれど、いつからか―――人間の一生は、ただの遺伝子の継承活動ではなくなった。
 ―――誰だっけ、ほら、有名な映画に出てた、ハリウッド女優。子供は欲しいけど男は要らない、って言って、精子バンクに登録されてる精子で人工授精して、子供産んだ人がいたじゃない? あの人に「結婚て、何でしょうね?」って訊いたら……きっと「無意味」って答えるんじゃないかしら。
 それでも、少し前までは…由香理も何か、意義を見出していた気が、するのだけれど。
 何かを見出していたからこそ、あれほど玉の輿願望丸出しな人生を送っていたのだと、思うのだけれど。
 「…何も、見出してなかったのかも…」
 思わず、ポツリと呟いた。
 もしかしたら自分は、伴侶を見つけることに何らかの意義を感じたから結婚したかったのではなく―――ただ、「負け犬」と呼ばれたくなかっただけなのかもしれない。

***

 「…あ、」
 既視感のある場面に、2日連続で遭遇する、というのも、珍しい。
 由香理の顔を見つけた途端、カップに入ったコーヒーを取り出し口から持ち上げた真田の表情が、僅かに変わる。休憩室のドリンクコーナーには、他に誰もいない―――ああ、あったあった、こんなこと、と思いつつも、由香理も少し落ち着きを失くした。
 あの時がそうであったように、真田はまた、少し気まずい表情のまま、窓際へと移動した。由香理もまた、何事もなかったように装いながら、100円玉を握り締めて、自販機へと歩み寄った。
 「…休憩?」
 ボタンを押し終えて、カップにドリンクが注がれている間に、一応そう声をかけてみる。取り出し口を見つめたままだったので、真田がそれにどんな顔をしたかは見えなかったが、
 「…まあ、そんなところ」
 と答えは返ってきた。
 「缶コーヒーより、やっぱりこっちだからな。俺たちの部署、カフェストック置いてないし」
 「ああ…そういえば、そうね」
 「友永さんのところには、あるだろ?」
 来賓室と会議室がある由香理の階にだけ、“カフェストック”のコーヒーメーカーが設置されているのだ。なのに何故わざわざ100円払って自販機でドリンクを買うんだ? というトーンの真田の言葉に、できあがりを知らせるアラーム音が被った。
 「ホット以外が飲みたい時に、ここ使ってるのよ」
 由香理の言葉どおり、取り出し口から出てきたカップには、ホットココアが入っていた。なるほど、という小さな声を聞きながら、由香理は真田とは少し離れた所にある椅子に腰掛けた。
 ―――やだなぁ…気まずくて。
 以前、同じ状況になった時とは少し質が異なる気まずさに、若干甘みがきつすぎると言われるいつものホットココアが、今日はやけに薄く感じられる。
 何を話せばいいのやら―――でも、何も話すことがないからといって、黙ったままなのも、余計気まずい。何か無難な話題はないか、と考えを巡らせていた由香理は、ふと、忘れかけていたことを思い出した。
 「…そういえば真田さん、この前、下のロビーで誰か社外の人と難しそうな話してたでしょ」
 ふと思い出したら、無意識のようにそう口にしてしまっていた。
 真田にとっても思いがけない言葉だったらしく、少し驚いたような視線が由香理に注がれた。
 「見てたのか?」
 「ほんの数秒よ。相手の人が、どこかで見覚えのある顔のような気がするのが、ちょっと気になって」
 「…ああ、見覚えはあるだろうな。元、うちの社員だから」
 「うちの?」
 元社員とは、意外な答えだ。見覚えがあった理由には納得がいくが、元同じ会社の人間なら、もう少ししっかり記憶に残っていても良さそうなものだから。
 「あんな人、うちにいたかしら」
 「友永さんたちが入社した年の7月に辞めたからな」
 「ああ、だから…。でも、変な時期に辞めたのね」
 「ライバル会社に引き抜かれたんだよ」
 「えっ」
 それは…もしかして、ちょっと、まずいのではないだろうか。いや、辞めた本人のことではなく、そういう人と深刻な顔で会っていた、真田が。
 由香理の視線が変わったのを感じてか、真田は口に運びかけたコーヒーを下ろし、目を上げた。そして一瞬、逡巡するような表情を見せてから、やけに淡々と答えた。
 「あの人、俺の大学の先輩でね。在籍被ってたのは1年間だけだけど、たまたま同じサークルにいたから、元々知り合いなんだ。それに、就職してからも、同じ営業だったし」
 「…もしかして、今度は、真田さんを引き抜きに来たの?」
 下手に回りくどい訊き方をするのもいやらしい気がして、思い切りストレートに訊ねる。その質問は、真田も予測できていたのだろう。ふ、と微かに笑ったが、頷きも、首を振ることもしなかった。
 「会社を、辞めたんだそうだ。仲間3人で、自分たちの会社を立ち上げるために」
 「え…っ、で、でも、ライバル会社ってことは…かなり、大手よね?」
 「日本のビッグネームトップ10に入る、大手だよ」
 「…チャレンジャーね」
 「まあ、ね。世界規模でいけば何万人が働いてる企業で、それなりの地位も築いたのに、それを捨てて社員数一桁の会社の取締役だからね。チャレンジャーというより“バカ”と言われることが多いみたいで、年下の俺なんかにまでちょくちょく相談してくる。この前のも、俺に直接見せたい資料があったんで、出社途中にここに寄ったんだ」
 そう言って、残りのコーヒーをくいっとあおった真田は、大きく息を吐き出すと、ポツリと付け加えた。
 「力を貸してくれ、と言われた」
 「……え、」
 「アイデアは、いい。技術力もある。ただ、業界じゃ明らかに後発部隊だ。立ち上げて3ヶ月、いい滑り出しは見せてるけど、既に得意先を持ってる企業から仕事を分捕らないと、生き残れない。そのためには―――強気で斬り込んで行く、優秀な営業マンが必要だ、ってことで」
 強気の、優秀な、営業。
 力を、貸してくれ―――その意味が、由香理にもわかった。
 「い…行く、の?」
 何故だろう、真田の答えが、聞く前から確信できていた。けれど……何故だろう、その確信に、紙コップを握る手が、微かに震えてしまうのは。
 「今すぐは無理だけど、一応、そのつもりで検討してる」
 「…どうして…」
 「…この会社で、今までどおり頑張れば、社長まで上り詰めるのも無理じゃないのに、って?」
 どこか自嘲気味に笑った真田は、手の中のカップをくしゃりと握りつぶし、ゴミ箱へとシュートした。丸まった紙コップは、ゴミ箱の端に当たって一旦バウンドし、乾いた音を立てて箱の中へ落ちた。
 「確かに、それが俺の目標だったし、実際、そうなれる自信がないでもない。スキャンダルでの足の引っ張り合いにも、免疫ついた分、他の平和な連中より数倍強いしな。でも―――戦って、他の奴らに勝って、課長、部長、専務……その過程を想像したら、なんか、ゲームで面クリアしてるような気がしてきた。第1ステージクリア、はいボーナスアイテム入手、第2ステージクリア、敵機300機撃退でプレイヤーのレベルが3に上がりました、ってなもんでね。ゲームデザイナーがこしらえたシナリオの中で、用意されたエンディングを目指してるような…そんな気が、最近、してた。ずっと」
 「……」
 「で、そういう、ボスキャラ倒すために必死に攻略法を探してるプレイヤーが、ぎゅうぎゅうひしめきあってる大企業じゃ―――俺1人がリタイアしたって、世界は、何も変わらないんだな、と思ったら…給料が上がる訳でもないのに身を削って働いてる自分が、ちょっと、虚しくなった」
 「……」
 「…それでも俺は、負けず嫌いだから、人がクリアしたゲームは、そいつより短い時間で、高得点でクリアしないと、気が済まないんだ。ゲームでも、スポーツでも、勉強でも、仕事でも」
 そう言うと、真田は、真剣な目つきでどこか遠くを見つめた。
 「だったら―――誰が何回倒れても替えのきく勝負より、俺1人の勝ち負けが会社を動かすような勝負がしたい」
 「……そう」
 こんな時、真田は変わったと、実感する。
 負けず嫌いなところは、今も昔も同じだ。でも、以前の真田は、より早くより高得点で、に加えて「より楽に」があった。効率のいい攻略法が見つかれば、それがゲーム的にルール違反スレスレであっても、平気で裏技を使うタイプだった。そういう人間だからこそ、自身の出身大学の人間が優遇され続けているこの会社を選んだのだから。
 そして多分、由香理も…変わった。
 人生の「負け犬」になりたくないのは、今も昔も同じ。でも…一流企業の有望株という地位より、未知数の新会社を選ぼうとしている真田を見たら、以前の由香理なら「バカじゃないの」と言った筈だ。いや、そこまで言わないまでも、少なくとも―――こんな風に、好ましい、なんてことは、微塵も思わなかったに違いない。
 このオフィスから真田がいなくなる、と考えると、説明のつかない感情に手が震えたのも、事実だ。けれど、大企業の中で出世のためにしのぎを削るより、まだ小さな会社を大きくしようと懸命に駆け回る方が、“今の”真田にはふさわしいように、由香理は感じた。
 「じゃあ、真田さんにはこの話、チャンスでもあるのね。でも…営業成績1位が抜けるとなると上もうるさいだろうし、引継ぎだなんだで、暫くは大変そうだわ」
 小さくため息をつきながら由香理がそう言うと、真田は少し意外そうな顔をした。
 が、由香理がその理由を問うより前に、真田は平静な顔に戻り、由香理の顔を暫しじっと見つめた。
 「な…、何よ」
 「…いや」
 「そんなに人の顔まじまじ見ておいて、いや、ってことはないでしょっ」
 また何か嫌味か皮肉でも言われるのではないか、と、思わず身構える。そんな由香理に、真田はなおも黙ったままでいたが、やがて、思い切ったように口を開いた。
 「…実は、先輩と意見が分かれていて、困ってるんだ」
 「え?」
 「先輩は、戦力の増強こそが最重要課題だと言って、広報や営業をもう少し増やしたいと言ってる。でも俺は、広報や営業を後回しにしてでも、他の部署を基礎固めをしっかりすべきだと主張して、先輩と揉めてるんだ」
 「…そ、そう」
 ―――それが、何?
 今の言葉と、真田がやけに由香理の顔をしげしげ眺めていたこととが、さっぱり結びつかない。困惑顔で曖昧な相槌を打つと、真田はちょっと言葉を切り、続けて低く、けれどはっきりと、由香理に告げた。

 「―――優秀な、事務職が、必要だ」
 「……」
 「今は社長が、やるべき業務の片手間に無理矢理こなしてるけど、増強後は、社員数も10名近くなる。先輩は適当な新人を安く雇い入れたいと思ってるらしいけど、それじゃ駄目だ。会社を大きくしていくつもりなら、現場の戦力が自分の仕事に集中できるように、的確なバックアップをしてくれる“裏方”が、必要不可欠だ。」
 「……」
 「…必要なんだ。経理に精通し、人事管理もこなして、たった1枚の紙切れの重要度を正しく理解できる―――社内をしっかりと守ってくれる、ベテランの“裏方”が」

 真田は、それ以上、何も言わなかった。
 言わなかったけれど、その言葉がどういう意味なのかは、一度として由香理の顔から逸れることのない真田の視線が、物語っていた。
 その意味を、はっきりと悟って―――由香理は、大きく目を見開いた。


***


 「いや、ホラ、まだ本調子じゃないしー」
 「またそーやって逃げるっ。如月さんはいっつも一次会でドロップアウトなんだから、今日という今日は、何が何でも1曲歌っていただくわよ。ねー?」
 ねー、という声が、周囲から揃って返って来る。その結束力を仕事に生かせ、と言い返してやりたいところだが、辛うじて思い止まった。
 ―――本当は、そういう気分じゃないんだけどねぇ…。
 はいはい行きましょう、と背中を押されつつ、咲夜は密かにため息をついた。

 『あ…あのな。今すぐには、お前に納得してもらえるように、上手いこと説明できないけど―――とにかく! “VITT”の仕事受けることになっても、別れるとかそういうことだけは、絶対! 絶対言うな! いいか、絶対だからなっ』

 一昨日、それぞれの仕事へと向かう前、奏が早口に告げた言葉を、思い出す。
 色々と、本当に色々と言った筈なのだけれど―――その中には、咲夜が激しく自己嫌悪に陥るような内容もあった筈なのだけれど―――泣いている咲夜を必死に宥め、なんとか泣き止んだところで奏の口から出て来たのは、結局、これだけ。要約すれば「オレはぜってー別れねぇ」だ。
 ―――私が言った話、ちゃんと通じてんのかなぁ、あいつ。
 一瞬、そう思ってしまいそうになるが、奏が咲夜の話をちゃんと理解していたことは、あの時の表情で、十分わかる。自分の夢の実現のために、奏と累を置いて行った女性(ひと)の名前を出した時の、奏のあの表情―――凍りついたような、愕然とした表情だけで。
 …どう、思ったのだろう、奏は。多分この世で一番想いを共有したい女と、多分一生理解などしたくない女、そのどちらもが、どうしても捨てられない夢を持っていると―――たとえ大切な我が子のためであっても、その夢を犠牲にはできない人間だとわかって。
 母親にとって子供が一番大事で当たり前―――それが世間の「常識」。それに奏は、母親に置き去りにされた過去を持つ。千里という愛情豊かな女性に育てられたから余計、実母に対する彼の目は厳しい。恨んで当然だし、そうした女性に嫌悪感を抱いて当然だ。
 幻滅されたかもしれない…そう考えると、さすがに胸が痛む。そうなるんじゃないかと思ったからこそ、気づいてしまった自分とサラとの共通点は、絶対口にしたくなかった。残酷すぎる嘘も、作り笑いも、全部そのためだ。
 …なのに。
 なのに、まさか―――あの場面で、泣くなんて。

 「ちょっと、如月さーん、どこ行くの? 店、ここだよ?」
 「…は?」
 頭が、一気に現実に引き戻された。
 歩きながら考え事をしていたらしく、振り返ってみれば、カラオケボックスの店先で咲夜を呼んでいる同僚らの姿があった。いつの間にか店の前を通り過ぎてしまっていたらしい。
 「…あ…、は、はっはっはっは」
 「ボケてるねー、大丈夫ー?」
 うん、相当ボケてるね。
 自棄気味に心の中で相槌を打ちつつ、咲夜は同僚のもとへと急ぎ戻った。

***

 とっとと1曲歌って帰る、という当初の目論見は、入店3分で脆くも崩れた。プロの後には歌い難い、などという勝手な理由をつけて、カラオケの順番は咲夜が最後にされてしまったのだ。
 ―――1人3分半から4分として、ひぃふぅみぃの…9人。げ、最低40分、下手すりゃ1時間は順番回ってこないのか。
 しかも、トップバッターの営業の男が、いきなり長淵剛の『乾杯』ときた。早くも5分越えだ。こりゃ覚悟を決めるしかないな、と、咲夜は硬いソファに身を沈めた。
 「飲み物来ましたよー。はい、モスコミュールの人〜」
 「ちょっとちょっと、何主役が雑用係やってるの」
 本日の主役であるところの、寿退社をする後輩社員がみんなに飲み物を配っているのを見て、先輩社員が突っ込みを入れる。が、その先輩も次が自分が歌う番だったらしく、彼女に代わって飲み物を配ることまではしなかった。
 「えーっと、アイスティーの人〜」
 「あ、私」
 咲夜が手を上げると、どういう因果か咲夜の隣に座っていた主役は、体を捻るようにして、「はい」と咲夜の前にアイスティーを置いた。「あ、どうも」とお礼を言った咲夜だったが、その時、ふとあるものに気づいてしまい、さすがにドキッとした。
 「……」
 体を捻ったせいで見えてしまった、シャツの内側に隠された、真っ白な包帯―――どうやら、右肩を怪我しているようだ。
 そこだけ不自然に浮いて見える包帯に、つい、咲夜がじっと視線を注いでしまうと、その視線に気づいたのか、彼女は苦笑を浮かべながら、シャツの上から自分の右肩を撫でた。
 「やだ、気づいちゃった?」
 「あー、ごめん。見えちゃったもんだから、つい…。どしたの、それ」
 「この前の休みに、」
 既に2人目の歌が始まっているので、あまりよく声が聞こえない。「え?」と咲夜が眉をひそめると、彼女は咲夜の耳元に口を近づけて、
 「この前の日曜日に、ロードで派手に転んじゃったの」
 と答えた。同じ外回りを担当してはいるものの、あまり親しく話す機会もなかったのだが、それでも、彼女が見た目よりアウトドア派で、車だかバイクだかのレースを趣味でやっているということだけは、咲夜も聞いたことがあった。
 「なんだっけ、なんかレースやってるんだよね」
 「自転車ね。練習で山道走ってたんだけど、前日雨だったみたいで、油断してたらスリップして―――倒れて手をつく時、ちょっと変な風に捻っちゃって。幸い軽い捻挫で済んだけど、まだあんまり動かしちゃまずいし、痛みが取れてないから、湿布貼って固定してるの」
 「ひえー…、大丈夫な訳? 確か結婚式、来月の半ばだよね」
 「うん、大丈夫。もう、彼氏なんて真っ青だったのよー。ウエディングドレス、思い切り肩出てるデザインだから、もし包帯ぐるぐる巻きで式なんか挙げたら、うちの親戚からDV疑われる、って」
 「ハハハ」
 それは青くもなるだろう。包帯グルグル巻きでの新郎新婦の誓いの言葉を想像して、咲夜も思わず苦笑した。
 苦笑してから、ふいに、気になった。
 「結婚する相手も、自転車やる人?」
 「ううん、全然。逆に完璧にインドアな人」
 「へぇ…。結婚してからも、自転車続けるの?」
 「勿論! オリンピック、とはさすがに言わないけど、一生に一度位は、全国大会の上位に食い込みたいもの」
 「けどさ、インドアな人じゃ心配するだろうし、子供なんかできたら反対されるんじゃない?」
 咲夜が訊ねると、彼女は、うーん、と唸って首を傾げた。
 「そうねぇ…今でも怪我なんかすると“いい加減やめろ”って喧嘩になるし、それで1回別れそうになったしねぇ…。それに、彼が反対しなくても、子供できちゃったら、大きなおなかして自転車は無理だし、産んだ後も暫くは厳しいかなぁ…。ブランク作っちゃうと、元に戻す時間が必要だし」
 「…だろうねぇ」
 「でも! 子供を保育園とか幼稚園に預けられるようになったら、絶対復帰するつもりでいるから、子育て中も基礎トレーニングは欠かさないようにしなくちゃ」
 うん、と大きく頷いて彼女が口にした言葉に、咲夜は少し目を丸くした。
 「辞める、って可能性は、ない訳?」
 「今のところ、ないよー? 子供は当分作る気ないし、彼が金沢だから仕事辞めるけど、向こうでまた就職先探すつもりだし」
 「…じゃあさ、極端な話、家庭を取るか自転車を取るかどっちかにしろ! って彼氏が迫ってきたら?」
 「あー…、そこまで言うようになったら、どっち選ぶ、っていうより、彼氏に愛想尽きるかも」
 「よ…容赦ないね」
 「だって、彼に言われたから辞めます、なんてスッパリ辞められる程度のものなら、復帰を目指して苦しいトレーニングを積もうなんて思えないじゃない? その位好きなものを、もし本当に人に言われて辞めちゃったりしたら、きっと家庭も上手くいかないと思うなぁ、あたし」
 「……」
 なんだか、今の言葉は、ストンと腑に落ちた。
 「きっと彼も、そういうことわかってると思うなぁ。なんだかんだ言って、あたしがレースに出ると、一番の声援送ってくれるのが彼だし、家で可愛くお裁縫なんかしてるあたしだったら、彼もあたしを好きにはならなかったんだろうなー、と思うし。あ、勿論、最低限のことはきちんとこなせてなきゃ、大きな顔して趣味を続けてなんかいられないだろうけど、彼、あたしの手料理が世界で一番おいしいって言ってくれるしー」
 さりげなくノロケてみせた彼女は、そう言うとニコッと笑った。
 「先のことはわからないけど、結婚生活もロードレース、どっちも諦めないぞ! って気持ちと愛さえあれば、頑張って両立できる、かな?」
 微妙に自信が足りないのか、最後だけは少し照れたように首を傾げる。そんな彼女に、咲夜はふわりと微笑んだ。
 「…そっか。そーだよね」

 ―――諦めない気持ちと、愛さえあれば…、か。
 改めて冷静に考えれば、至極当たり前のことだ。その、至極当たり前のことが考えられなかったのは…やっぱり、それだけ精神的に逼迫していたからなのだろう。
 自分は絶対、歌を捨てられない。家庭のために歌を辞めろ、と言われて辞めたら、家庭も破綻する。きっとそうなってしまう自分には、結婚する資格などない、などと思ってしまったが―――それは逆のことも言えるのだ、と、冷静になった頭でなら、はっきりわかる。
 だって、愛を失ったら、歌っていけない。
 夢を絶たれるかもしれない可能性に震えながらも、ああした過去を持つ奏には自分のような人間はふさわしくないと本気で思いながらも、これまで同様完璧な笑顔を作っているつもりでいながらも、「リセット」という言葉を自ら口にしながらも―――奏と離れる辛さに涙を流したのは、他でもない、咲夜自身なのだから。
 身勝手と言われようと、欲張りと言われようと、愛と歌は表裏一体―――片方を押し殺しては、生きていけない。それが、自分という人間だ。

 …でも。
 自分は、そうであっても―――奏は、どうなんだろう?

 結局、ぐるりと1周して、最初に戻ってしまった。こんなにグチグチ悩む奴だったっけ? と自分で自分に呆れてしまう。
 「如月さーん、曲、入れた?」
 「んー…、まだ」
 「何やってんのよ、早く早く」
 アイスティーをずずずっと啜りながら、まだあと6人もいるじゃん、と心の中で突っ込みを入れる。正直、ノレない気分なのだが、仕方ない。眉をひそめつつも、咲夜は、突き出されていた分厚い冊子を受け取った。
 ―――ま、今の話聞いたお礼だと思って、頑張りますか。
 呑気に歌っている暇があったら、奏と話をしなくてはいけないのだけれど―――密かにため息をつきつつ、咲夜は無理矢理気合いを入れた。


***


 「はい、これでOKです」
 やっとかかったOKの声に、奏はホッと息をつき、上げていた腕を下ろした。
 「本当に、急にお願いしてすみませんでした。おかげで本番に間に合いそうです」
 留めたピンがずれないよう、慎重にジャケットを脱がせつつ、担当者が心から安堵したような声でそう言う。“VITT”のショー本番まで、あと10日ほど―――このギリギリの時期にきて、よもやオープニングの衣装が変わることになるとは、彼も思わなかったのだろう。
 「けど、面白いなぁ、これ」
 まだ仮縫い状態で傍らに置かれているコートに目を向ける。それは、通常、コートに使われる生地ではなく、カジュアルに用いられるデニム生地で作られたコートだった。同じく仮縫い状態のスーツも、上質のコットン。奏もあまり見たことのない、光沢のある糸の織り込まれたもので、当然ながら、今回のショーのためのみに作られた特注品だ。
 「非売品ですよね」
 「そりゃあ、実用には向かないですからねぇ」
 「こういうの結構好きだけどなぁ、オレ。せっかくだから、プレミアつけて売ればいいのに」
 半分冗談半分本気で奏が言うと、担当者は苦笑を浮かべ、いやいや、と首を振った。
 「1点モノのは、社長も思い入れが強いんで、本社のワードローブにコレクションしてるんですよ。“作品は子供と同じ”って、昔、インタビューでも答えてましたしね。今回のも気合い入ってますから、ショーが終わったら、社長が自分でロンドンに持ち帰ると思いますよ」
 「…ふぅん、残念」
 ―――子供と同じ、ね。
 そんな話を聞いてしまうと、一応彼女の“子供”である奏は、どうリアクションすればいいのやら、という心境だ。
 下手に突っ込んだ話になってボロを出してはまずい。素早く着替えた奏は、その場にいた“VITT”の社員数名に短い挨拶を済ませ、早々に“VITT”東京支社を後にした。


 ―――あーあ…さすがに疲れたなぁ。
 今日1日、というより、通常の仕事を終えてからの数時間を振り返り、思わずため息が漏れる。
 今日もいつもどおり、それなりの数の予約客をこなした奏だったが、閉店間際になって、なんと黒川が店に姿を見せた。近日中に来るとは聞いていたが、全く、これほど頻繁に来るのでは航空運賃だけでも馬鹿にならないだろうに―――とにかく、まるで測ったかのようなタイミングだったので、終業後に少し時間を貰って、黒川に相談した。

 『君の気持ちもわかるよ。君は長くファッションの最前線で活躍してきた人だから、早くその世界に戻りたいと焦るのも無理はないものね。でも、君を指名してくれるこの店の常連様も、一流のファッションモデルも、君にとっては同じ“お客様”だよ。同じ、君のメイクを求めている顧客なのに、その立場の違いで分け隔てするのは、感心できないね』
 『別に、分け隔てしてるつもりじゃ…ただ、せめて氷室さんの代役話が来た時くらいは、オレの指名客の予約を山之内に振り分けてもらうとか、固定客の何割かを担当替えしてもらうとか…』
 『うん、まあ…山之内君も、技術的には十分戦力になってくれてるけどねぇ…。この仕事は、ただ技術を売るだけじゃないでしょ。話術やその場のムード作りも、“接客術”という重要な要素で、君の代わりをするには、山之内君はまだまだその部分が足りないんだよね』
 『…それは…オレも、わかりますけど…』
 『大河内夫人みたいな人がたまにいるから、君はその部分の自分の才能をあまり高く評価したがらないけど―――君を指名してくれるお客様たちは、君と話して、日頃とは違う自分に変身することで、心身共にリフレッシュできるんだよ。上手いメイクなら、技術さえ伴えば誰にでもできる。君が卑下しがちな部分は、君の大きな財産であり武器なんだよ』
 『…でも、このままじゃ、店外の仕事が全然できないし…』
 『そうは言うけど、今、一宮君を名指ししたオファーが外から来ている訳じゃないでしょう? まだ来てもいない仕事と、今目の前にいるお客様、どっちが大事かは、一宮君にもわかるよね』

 結局、現在テンのヘルプに就いている山之内を、暫く奏のヘルプに就かせる、ということで、今日の話は終わってしまった。言いたいことは、まだまだたくさんあったが、店が終わった後“VITT”に衣装合わせのために出向く約束が既に入ってしまっていたので、なんだか消化不良のまま店を後にする羽目になった。
 そう。今、実際に店以外の仕事の依頼がある訳じゃない―――全てはそこで頓挫してしまう。外の仕事がしたいのは、飽くまで奏の希望であって、現実ではない。夢より現実を優先しろ、という黒川の言葉は、雇い主として当然だろう。
 だからつい、言ってしまいたくなった。
 “VITT”から、誘いを受けてるんです―――辞めさせて下さい、と。

 「言えねーよなー…」
 電車を待ちながら、思わずポツリと呟く。
 多分、これが数日前なら、迷わず言っていただろう。“VITT”の仕事を受ける、受けないは別にして、言うだけは言っていた筈だ。
 でも―――今は、とても言えない。
 あれ以来、1日中、咲夜の泣いた顔が、頭から離れない―――駄目だ。今、咲夜を置いて日本を離れるなんて、絶対できない。咲夜に正々堂々プロポーズするためにこそ、仕事を早く確立させたい、と焦っているのに、その咲夜を失ってしまったら、全て無意味になってしまう。

 『奏が、昨日言ったとおりだよ。私は…あの人と同類な私は…奏に、ふさわしくない』

 ―――違うんだよ…。
 違う。そうじゃない。オレが間違ってるんだ。お前がふさわしくないなんて、絶対違う。
 そう言ってやりたいのに、たった1つの疑問が、奏を羽交い絞めにする。「じゃあお前は、夢のために自分を捨てたサラを許してやれるのか?」……わからない。許したくなどない。でも。

 生い立ちが不幸な少女。幸福な家庭を築くことを夢見つつも、その悲惨な経験故に、自分が子供に愛情を注げる自信が持てず、震えている少女。
 どうしても捨てきれない夢と野望に苦しんで、けれど、“家族”という、掴みかけたもう1つの夢も、諦めきれなくて、けれど、その夢を維持していく力を信じるには、それまでの人生が悲惨すぎて―――そんな時、目の前に、現れた。彼女が思い描く、「理想の母」が。
 そして、少女は、思いつく。
 子供ができないことに苦しんでいる一組の夫婦が、幸福になる。愛する人との間の子供が、幸せに育ってくれる。愛する彼が、これからも子供たちを見守っていける。そして自分も、目の前に転がっているこの最大のチャンスを、掴むことができる。…そんな、最高のアイディアを。
 それが少しもいい方法ではないことは、少し考えればわかりそうなものだった。もし彼女が違う生い立ちを持っていれば考えつきもしなかったであろう方法だし、もっと成熟した大人であれば笑い飛ばしたような陳腐な考えだ。
 けれど…彼女は、自分の母性に極端なほどコンプレックスを持つ、まだ20歳そこそこの、未熟でちっぽけな人間だった。自分さえ我慢すれば、彼と子供への想いを断ち切る努力さえすれば、これが一番いい選択だと、本気で思ってしまった。
 そして―――それを、実行してしまった。

 …許されない行為なのに、捨てられた側の立場なのに、なんだか、サラという人間が理解できてしまいそうで、怖い。
 だって、自分はもう、当時のサラよりずっと大人で、サラより幸せな人生を送っているというのに、咲夜にプロポーズすることすらできずにいる。咲夜だって、妊娠したかもしれない、と考えただけで、どうしていいかわからず途方に暮れた。
 彼らより、知恵も経験も勝っている筈の、自分たち。なのに、突然のことにうろたえる姿は、彼らと何ら変わらない。…情けない。彼らの愚かさを嘲笑うだけの資格は、自分たちには、まだないのかもしれない。
 そんなことを、考えていたら―――1つ、奏の中で、変化があった。
 これまでは、サラを責める気持ちしか生まれてこなかったのに…ふいに、疑問に感じたのだ。自分たちの本当の父・時田という男の存在を。

 死ぬほど愛した女に去られて、カメラを持つことすらできなくなった男。
 それほどまでに大事な女性だったのなら―――何故、ちゃんと捕まえておけなかったのだろう?
 そもそも、互いに野心と夢を持っていた同士であれば避妊にだけはしっかり気を配るべきなのだが、それは若さ故の愚かさとして、目を瞑らないでもない。けれど、サラが時田のもとを去っていったのは、何もサラだけの問題ではないような気がする。いや…そういう可能性に、今回初めて気づいた。
 何故、いつか必ずステージに、カメラの前に戻って来れると、サラを信じさせてやれなかったのだろう?
 何故、育てられないかもしれない不安に震えるサラを、大丈夫だよ、と励ましてやれなかたのだろう?
 そして、サラが自分のもとを去った時―――何故、追いかけなかったのだろう? すぐには無理でも、雑誌の表紙を飾る“サンドラ・ローズ”を見つけた時、何故、借金をしてでもアメリカに渡り、彼女をもう一度捕まえようとはしなかったのだろう?

 ―――もしかして…郁が、そういう奴だったから、サラは郁とオレたちを置いて行ったんじゃないか?
 人生をかけた夢だった筈なのに、サラが消えた途端、カメラを持つことすらできなくなるような―――死ぬほど愛してた筈なのに、裏切られた自分を哀れむあまり、居場所がわかっているのに追いかけることもしなくなるような―――そんな男だと感じたから、郁を捨てたんじゃないか?
 夢を追いかけながら、家族も養って、なおかつサラの夢も実現してやるなんて、あの頃の郁の器じゃ無理だった筈なのに…その無理なことを呑気に口にする郁を見て、結婚しても上手くいかない未来しか見えなくて、絶望したんじゃないか?

 「……っ、」
 ぶるっ、と身震いがした。
 この前の一件のせいで、つい、サラに咲夜を、時田に自分を重ねてしまい、恐ろしくなったのだ。
 ―――い…いやっ、オレと郁は違うぞっ! 当時の郁よりは甲斐性あるし、金だけの問題ならその辺のサラリーマンより余裕あるし、何より、ジャズシンガー・如月咲夜の一番のファンを自負してるんだしっ! 第一、もし咲夜がオレを捨ててどっかに行ったら、それが宇宙だろうがあの世だろうが、オレはどこまでも追いかけて行って連れ戻す! 郁みたいに被害者面して泣き寝入りするなんて、ゼッテーしねぇっ!


 「一宮さん」
 その声に、ハッ、と我に返った。
 慌てて振り向くと、そこに、蓮が立っていた。すっかり考え事に没頭していて気づかなかったが、いつの間にか地元の駅まで戻ってきて、しかも既にアパートに向かって歩き出していたらしい。
 「どうも、こんばんは」
 「あ…ああ、こんばんは。バイト帰り?」
 誤魔化し笑いを作って奏が訊ねると、蓮は歩を早めて奏に並びかけながら「はい」と答えた。
 「確か、飲食店だろ。あんまり接客業が好きなようには見えないのに、結構頑張ってるよなぁ」
 「…バイト料がいいんで」
 やはり接客業は苦手らしく、蓮は苦笑いとともにそう言った。
 「来月でバイクのローンも終わるんで、また考えるかもしれません」
 「お、ついに完全に自分の物になるのか。あのバイク、高そうだもんなぁ…。これからも、あのまま1階に停めとく訳?」
 「いや…でも、なかなかいい駐輪場がなくて―――あ、」
 蓮の視線が、前方を逸れて、少し斜め右へと移された。何だろう? と奏もその視線を追ってみると、蓮の視線は、反対側の歩道に面した家の、塀の上に注がれていた。
 「あ」
 思わず、奏も同じ声を上げてしまった。そこには、ミルクパンがいたのだ。
 「なんだ、あいつ。何してんだ? こんな時間に」
 「…あの家に飼われてる猫と、遊んでたんじゃないですか?」
 何か事情を知るらしい蓮が、そう答える。奏は何も事情を聞いてはいなかったが、その言い方でピンときた。
 「はーん、カノジョか。やるじゃん」
 感心したように奏が眺めていると、ミルクパンは2人より一足先に、塀伝いにアパートへと走り出してしまった。
 「こんなご近所なのに、あいつ、よく律儀に物置に帰ってるよな。カノジョんとこに居ついても不思議じゃないのに」
 「…あそこの家の飼い主が、あいつも飼ってくれると、いいんだけど」
 ポツリと蓮が呟いたその一言に、奏も思わず、しみじみ相槌を打った。
 「そうだよな―――猫だって、恋人と離れて暮らすのは、嫌だろうな」
 「……」
 途端、蓮の視線が奏の横顔に向けられた。その視線を頬に感じて、奏も蓮の方を見ると、蓮は何故か少し目を丸くしていて、奏が「何?」という顔をすると、どこか心配げに眉を僅かにひそめた。
 「…もしかして、どこか遠くに行く予定が、あるんですか」
 「え、」
 「なんか、実感こもって、聞こえたから」
 ―――す…鋭い。
 思わず、顔が引きつる。事実、さっきのセリフを口にした時、奏は無意識のうちに、脳裏に咲夜のことを思い浮かべていたのだから。
 「あ…いや、別にそういう訳じゃ…。ただ、半年ばかしイギリスで仕事してみないか、ってオファーがあって、ここ最近、どうするか迷ってたから」
 奏が、若干歯切れの悪い口調で答えると、蓮は切れ長の目を見開いた。
 「行くんですか?」
 「えっ」
 「受けるんですか、そのオファー」
 「…今んとこ、断る方向で考えてるけど…」
 すがるような蓮の表情に圧されて、つい曖昧な言い方になってしまう。が、蓮はそんな曖昧な言葉でも、僅かに安堵したような表情になって小さく息をついた。
 「そうですか…」
 「…つか、なんでそこで蓮がホッとするんだか、オレにはわかんないんだけど」
 当たり前すぎる疑問を奏が口にすると、蓮は一瞬、はっとしたような表情になった。そして、少し気まずそうに顔を赤らめ、ぼそぼそと答えた。
 「…だって、咲夜さんが、いるから」
 「…え?」
 「俺は、咲夜さんの歌のファンだから…咲夜さんの歌には、一宮さんが必要だから」
 「……」
 ―――オレが、必要?
 「普段のあの人、あんまり本音出さないっていうか、なんていうか…ああいう人、なんで。なのに、歌では、あんなにストレートに感情を表現できるのは―――やっぱり、一宮さんがいるからだと」
 「…なんで?」
 何故、自分がいると感情をストレートに表現できるのか、そこがよくわからない。奏が首を傾げると、蓮は真っ直ぐ奏を見つめ、今度ははっきりとした口調で告げた。
 「一宮さんが、俺でも調子狂う位、真正直で感情的な人だから」
 「……」
 「…家で…ちょっと、いろいろ、あって。俺、今まであんまり、人の喜怒哀楽が信じられなかったんです。楽しそうに笑ってる人間が本音では退屈してたり、反省したって泣いて許しを請う人が心の中では舌出してたり―――そんなのを、嫌になるほど経験したから、相手の感情表現が派手になればなるほど、逆に俺は冷めた態度しかとれなくて」
 その話を聞いて、クリスマスイブの騒動が、ふと頭に浮かんだ。裏事情はさっぱりわからないが、多分そうなった原因の何割かはあの「兄貴の婚約者」だろうな、と奏は思った。
 「でも、一宮さんは…本当に、本音のまま、ぶつかってくるから」
 「……」
 「プライドとかメンツとか考えずに、嫉妬すればそのまま嫉妬を顔に出すし、相手が敵でも味方でも、同情すれば一緒に泣くし…相手が俺なのに、後ろ向きな態度にイライラすれば、恋愛ができないなんて諦めたこと言うな! って、励ますし」
 その時のことを思い出したのか、蓮は苦笑のような笑みを、一瞬浮かべた。
 「その位、真っ正直に真正面から感情をぶつけてくる人には―――応える側も、つい、正直になるんです。俺もそうだし、多分…咲夜さんも」

 正直に―――…。

 何故かその時、咲夜のあの泣き顔が、また頭を掠めた。
 傷つきやすい何かを守るかのように、己の周りに堅い殻を持つ咲夜。なのにあの時…その殻をもってしてもせき止めることができず、咲夜は涙を流していた。
 …何を想って?
 拓海への恋心を断ち切る時でさえ、本人の前では涙を見せなかった咲夜が、あの時、耐え切れず涙を流していたのは―――…。

 ―――オレの、前だから?
 本音のままぶつかってくるオレには、正直になってしまう。だから……別れたくない、って本音が、咲夜を泣かせたのか…?

 「…あ、すみません。わかったような口きいて」
 奏が何も言わないことをネガティブに捉えてしまったのか、蓮は少し恐縮したように、そう言って軽く頭を下げた。誤解されてしまったらしいことに気づいた奏は、慌てて目の前で両手を振って、それを否定した。
 「い、いや、謝ったりするなって。むしろ、なんか褒められた気がして、嬉しい位なんだし。…っつーか、随分冷え込んできたし、早く帰ろうぜ。ミルクパンのやつも、とっくに家帰ってるんだし」
 なんだか気まずい空気を払拭するように奏がそう言うと、蓮も苦笑し、「そうですね」と言って歩き出した。

***

 ―――あ、そうか。咲夜は送別会だっけ。
 まだ暗い201号室の窓を見て、思い出した。一昨日も昨日も、あまり話ができなかったので、ちょっと寄ろうかと思っていたのだが―――しょうがないな、とため息をつき、素直に自室に引っ込んだ。
 鍵を閉め、スニーカーを脱ぎながら、郵便受けに入っていた広告やらダイレクトメールやらを確認していた奏は、その中に毛色の違った1枚を見つけ、おや、と眉をひそめた。
 それは、エアメールの封書だった。差出人名を見るより早く、奏の名前が書かれた表書きの筆跡で、それが誰からの手紙かすぐわかった。
 「…なんだろ、郁のやつ」
 手紙1枚だけ入っているとは思えない、それなりの厚みと重さの封書だ。抱えていた他の広告類を床に放り出し、奏は立ったまま、時田からのエアメールの封を切った。
 案の定、中身は手紙だけではなかった。なんとなく予感はしていたが、メモ程度の手紙1枚のほかは、全て写真だった。

 『ちょっとヤボ用で国外を回ってたんで、すっかり送るのが遅くなってしまったけど、正月に撮った咲夜ちゃんの写真です。個展用に2枚ほど使わせてもらうと思うので、彼女にもよろしく伝えておいて下さい』

 ―――あー、あの時の写真か。
 “VITT”からのオファーやら、“Jonny's Club”のライブ存続の危機やらが立て続けにあったせいで、すっかり忘れていた。どれどれ、と、ちょっとワクワクした気分で、奏は同封されていた写真を封筒から引っ張り出した。
 そして、1枚目を見た瞬間―――心臓が、ドクン、と大きく跳ねて、止まった。

 それは、奏もよく知る、咲夜の表情だった。
 斜め後ろからのライティングの中、浮かび上がった咲夜のその表情は、バラードを歌っている時のそれだった。あの時歌ったラインナップからすると、歌っているのは『What's new』だろうか。
 切なさと愛しさを()い交ぜにした表情は、妖艶でありながら、どこか母のようなやわらかさを感じさせる。その視線は、カメラから少し外れた場所に向けられていた。
 あの現場にいた奏だから、その位置に誰がいたか、勿論よくわかっている。
 この視線の先にいたのは…間違いなく、奏自身だ。

 ―――…オレ…?
 昔、麻生さんを想って歌ってたみたいに……今は、オレが、咲夜を歌わせてんのか?

 「……っ」
 全身に、震えが走った。
 無意識のうちに唾を飲み込んだ奏は、瞬きすら忘れて、写真の束を1枚、また1枚とめくっていった。
 カメラは、実に多彩なアングルで、多彩な咲夜の表情を捉えていた。『Blue Skies』を歌う時の、リズムと一体化した、心地よい風を楽しむような表情。『Calling you』を歌う時の、魂を解放するみたいな歌い方。そのどれもが、奏がこれまで幾度もステージ上で見てきた表情であり―――これまで一度も見たことのない表情でもあった。
 小さな枠に切り取られた、ステージ上の咲夜。それはまるで、原石から切り出した極上のダイヤモンドみたいに、輝いていた。
 こいつ、こんなに、輝いていたのか―――プロのモデルである奏が、そう、衝撃を受けるほどに。

 “歌が、好き”。
 写真の中の咲夜が、痛い位に、叫んでいる。歌いたい―――歌わなくては、生きていけない、と。
 けれど、常にカメラから少し離れた場所に向けられている瞳が、それと同じ位に訴えかけている。

 “…あなたが、好き”。
 “歌を、愛してる。奏を、愛してる。だから―――どちらを失っても、私は、生きていけない”。


 『時には、一番触れられたくない領域を守るため、表面的な傷口を晒すことすら厭わない―――咲夜さんの背景はわからないけど、似たものを感じたわ。楽しそうに笑いながら、その裏でいっぱい血を流してる子供特有の、仮面のようなものを』
 『だから、奏が、必要なのよ。奏が、彼女とは全く逆の、感情のコントロールのできない正直な人間だから』


 『…それでこそ、一宮君だ』
 『誤解されたら、誤解を解けばいい。逃げようとするなら、全力で追いかければいい。…そういう一宮君だから、咲夜を託せたんだ』


 「……そうだよ」
 母の言葉が、拓海の言葉が、今更のように頭の中に響く。
 奏の中で、絶対に譲れないもの。それを、見失いそうになっていたけれど―――こうして写真を見て、はっきりしてきた。あの時…時田が咲夜を撮影したあの現場で、自分が何を感じ、何を見つけ、何を夢見たのかが。

 ―――郁。
 やっぱりオレたちは、親子なんだな、って思う。
 暖かい家庭を夢見てる寂しがり屋のサラに惹かれたのも、郁の本音。でも…あんたのこの写真が、はっきり言ってる。「それだけ」じゃダメだった、って。
 オレも、そう。
 バカで、ガキで、子犬レベルから全然成長しないオレを、さりげなく受け止めて頭を撫でてくれる咲夜も、もの凄く好き。だけど―――「それだけ」だったら、こんなに惹かれなかった。

 郁は、失敗したけど。
 いや、もしかしたら、郁もサラも、その失敗があったからこそ、世界に認められる存在になれたのかもしれないけど。
 オレは、あの頃の郁より大人で、でも、あの頃の郁よりバカでプライド低くて諦めが悪いから―――死に物狂いで、追いかける。オレの夢も、そして、咲夜の夢も。

 広告と一緒に放り出していた鍵を、おもむろに拾い上げた。
 心が決まれば、行動は、1秒でも早く。それが、奏のポリシーだ。写真をポケットに突っ込んだ奏は、部屋を飛び出した。

***

 「い…いいいいいい一宮君っ!!!?」
 突然の事態に、黒川の声が裏返る。
 四方八方から、視線が突き刺さるのを感じる。…当然だ。チェックインしてくる客もまばらなこの時間帯、高級ホテルのロビーを行き交う人の大半は、このホテルのスタッフだ。もしや不審者の乱入か、と気色ばむ視線を感じつつも、奏は、正座の姿勢を一切崩そうとはしなかった。
 「なっ、何、どうしたの急に!? そういう仁侠映画か時代劇みたいなやり方、一宮君には似合わないよ!?」
 動揺しているせいか、黒川の指摘は、どことなくピントがずれていた。
 でも、晒し者上等という勢いで乗り込んできた奏が、そんなセリフでやり方を変える筈もない。幾多の視線が集中する中、奏は、毛足の長い上等な絨毯に、バン! と両手をついた。
 「黒川さんには、本当に感謝してます。ド素人だったオレが、モデル続けながらここまでやってこれたのも、黒川さんが拾ってくれたからだと思ってます。その恩を考えたら、わがまま言えた分際じゃないのも、わかってます」
 「い、一宮君…」
 「でも…すみません」
 一度、深く頭を下げた奏は、再び顔を上げ、唖然としている黒川を見上げた。
 「オレは、今、自分が立っているステージが好きで、オレを囲んでいる世界が好きで―――職種は何でもいい、モデルを続けられない年齢になっても、このステージに、この撮影現場に関わっていきたい、って…そう思って、メイクの仕事を始めたんです。一般客相手が嫌だとかそういう問題じゃなく、“ステージともカメラとも無縁な現場”だっていう、その部分で、今オレがやってる仕事は、オレがやりたかった仕事じゃないんです」
 「そ…それは、僕も、理解してるつもりだったよ? でもね、今の段階では、ちゃんと生活できている今の仕事を大事にして、外部の仕事は段々と…」
 黒川の言葉を、奏は首を振って遮った。
 「オレは、あの世界に、恋してるんです」
 「…恋…?」
 「好きで好きで、恋しくて仕方ない人がいるのに、今、寂しさを紛らせてくれる人がいるからって、本当に好きな訳じゃない人と一緒にいるなんて…オレにはもう、できません」
 「……」
 「まだ早くても、手に入れる方法が見つかってなくても、オレから逃げて行ってても―――追いかけたい。追いかけずにいられないんです」

 そう―――これは、恋。
 咲夜の写真を見て、あの時感じた充実感を思い出して、痛いほどに実感した。自分がどれほど、ステージでの感動に、フラッシュの眩しさに、飢えていたのかを。
 あのステージの空気が、歓声が、熱狂が、好きで好きでたまらない。
 そして、そんなステージの上で、ダイヤモンドのように輝く咲夜が―――震えがくるほど、好きでたまらない。

 「…すみません」
 少し掠れた声でそう言うと、奏は、絨毯に額がくっつきそうなほど、頭を下げた。
 「すみません。黒川さんにも、みんなにも、迷惑かけるのはわかってます。でも―――オレのわがままを、許して下さい」


***


 駅の改札を抜けた途端、その姿が目に入り、咲夜は思わず息を呑み、足を止めた。

 「……」
 「…遅かったじゃん」
 少し寒そうに背中を丸めている奏は、開口一番、そう言って少し笑った。…確かに、予定外に遅くなった。結局、なんだかんだと引き止められたせいで、現在時計は午前0時少し前を指している。
 「い…いつからそこで待ってたの!?」
 「あー…、20分位かな。いきなり黒川さん来たり、衣装合わせに行ったり、帰って来たのにまた出かけたりで、結局オレもこんな時間になっちゃったし」
 「…一体、何してた訳、それ」
 何やら慌しい1日だったらしい話を聞いて、眉をひそめる。すると奏は、丸めていた背中を伸ばし、少し表情を引き締めた。
 「―――黒川さんに、土下座してきた」
 「はっ?」
 「オレ、店辞めることにした。オレの後を任せるために、山之内をスパルタ教育するから、暫く帰ってくるの、遅くなると思う」
 「……」
 いや、山之内がどうなろうと、別に咲夜にはどうでもいいことなのだが―――呆気にとられかけた咲夜は、3秒の絶句の後、慌てて奏に詰め寄った。
 「ちょ…ちょっと、待ってよ。帰宅時間なんかより、もっと重要な話が抜けてんじゃないの?」
 「うん、わかってる」
 苦笑した奏は、ほんの少し間を置いて、思い切ったように告げた。
 「“VITT”のオファー、受けることにした」
 「……」
 「咲夜のことが、マジで、死ぬほど、好きだから―――行くことにした」
 ―――私が…好き、だから?
 意味が、よくわからない。混乱したまま奏を見上げる咲夜に、奏は、ふいに表情を和らげた。
 「…誰にも言ったことない秘密。咲夜にだけ、教えよっか」
 「秘密?」
 「オレさ。自分の本当の親が誰なのか知らなかった頃は…サラのこと、凄く好きだったんだ」
 「えっ」
 「勿論、好き、って言っても、恋愛対象じゃなったけど。でも…そうだな、あと10歳位若かったら、ちょっと憧れたかもしれない。その位には、いい女だな、って思ってた」
 そういえば奏は、サラの正体を知る前にも、それなりの期間、“VITT”の仕事を通じてサラ・ヴィットと顔を合わせていたのだった。そのことは知っていたけれど、その当時、奏が彼女をどう見ていたかなんて、咲夜は想像したこともなかった。
 「サラは、ファッションショーの指揮を自ら執る、ワンマン社長でさ。リハーサルも衣装合わせも、全部顔出すんだ。音響から照明から、細かいとこまで、人任せにしないでどんどん指示を出してくし、最高のステージを作るためなら絶対妥協しない。自分でランウェイ歩いてお手本まで見せるんだぜ? しかも、そのウォーキングが、現役モデルと遜色ないほど、優雅で綺麗ときてるんだから、出演するモデルは立場ナシだよな。でも…凄く、スタッフを大事にする人だった。モデルたち連れて食事に行ったり、裏方のスタッフ1人1人に、ねぎらいの言葉かけたり…」
 そこで言葉を切ると、奏は、当時を懐かしむようにどこかを眺めていた視線を咲夜に戻し、微笑んだ。
 「ステージを愛してる人なんだな、って、思った」
 「……」
 「ショーの最後に、モデルたちに囲まれて挨拶に出てくるサラ・ヴィットは、どんなモデルよりスポットライトの中で輝いてるように見えた。同じステージに立つ人間として、凄く憧れた。あんな風に年齢を重ねられたら幸せだろうな、って」
 「…うん」
 1度だけ見たサラ・ヴィットの姿を思い出し、咲夜もなんとなく、納得した。
 現れた途端、その場の視線を一瞬で奪った彼女は、外見的な美醜の問題ではない、オーラとも呼ぶべき輝きを持っていた。それは、素人の咲夜でも、はっきりわかったから。
 「オレたちの本当の両親が、郁とサラだってわかって―――好きだった分、悔しくて、腹が立ってさ。捨ててくれてありがとう、って感謝したい位だ、なんて口では言ってたし、本当にそう思ってもいたけど…やっぱり、憎んでたと思う」
 「…当然だと思うよ」
 「うん…当然だと、思う」
 チクリと、胸が、痛む。
 だって、自分も、そんなサラと大差ない人間だ。この年齢になっているから、もっと賢く生きられるとは思うけれど…当時の彼女と同じ年齢で、同じ状況に置かれたら―――少なくとも、恋人や子供のために暫くはステージを諦める、なんてことは、やっぱりできなかったと思う。
 そんな、咲夜の心の内を見透かしたのか、奏は、ポケットに突っ込んでいた手を、そっと咲夜の頬に伸ばした。外気で冷え切った咲夜の頬に、その指先は、温かかった。
 「でもさ。わかったんだ」
 「え?」
 「暖かい家庭を欲しがって、ただ郁との結婚だけを望んでるような女だったら、郁は、サラをあれほど好きにはならなかったと思う。カメラの前で最高に輝く“被写体”としてのサラもいたからこそ、サラを愛したんだと思う。だって、郁自身、どんなに家族が大事でも、そのためにカメラを犠牲にすることなんてできない、夢を捨てられない男なんだから」
 「……」
 「…オレも、同じなんだって、痛感した」
 頬を撫でた指が、軽く、咲夜の唇に触れた。
 「お前が言うみたいな、オレさえいれば他には何もいらない、なんていう女だったら…オレは、こんなに咲夜を好きにならなかった」
 「……」
 「ステージの上でキラキラ輝いてる咲夜がいるからこそ、こんなに咲夜が好きなんだ。だってオレは、モデル辞めた後も現場スタッフとしてステージに関わりたい、って思って黒川さんに弟子入りした位に、ステージを愛してる人間だから―――その、オレが愛してるステージの上であんなに輝く咲夜に惹かれるのは、当然だろ?」
 「…そ…」
 「それに気づいたら―――サラのことも、もう一度、好きになれる気がしてきた」

 指先を追うように、唇が、軽く押し付けられた。
 羽根みたいに、優しいキス―――こんなくちづけは、久しぶりかもしれない。そのせいか、唇を離した奏は、ちょっと照れたような顔をしていた。

 「…オレと離れたくない、って泣く咲夜も、歌を失ったら生きていけない、って言う咲夜も…オレは、どっちも欲しい」
 「…奏…」
 「でも、今のオレは、自分のやりたい仕事もできずに、もがいてるばっかりだから。このままじゃ、自分の夢を見つけるのに手一杯で、結局サラに逃げられた郁のこと、全然笑えない。だから―――店辞めて、“VITT”のオファーを受けることにしたんだ。1日でも早く、オレが立ちたかった現場に戻れるように」
 ―――…どうして、奏といると、こんなに涙腺が弱くなるんだろう。
 この前は自覚できなかったけれど、目頭が熱くなってくるのが、自分でもはっきりわかる。それを誤魔化すように、咲夜は慌てて目を逸らし、奏が撫でた頬を軽く押さえた。
 「で…でもさ。もし、向こうで仕事していく中で、このまま“VITT”の専属としてやっていきたい、って思ったりしたら、どうすんの?」
 「そりゃないよ。元々オレ、1社に縛られるような仕事の仕方、好きじゃないし」
 「…でも、“VITT”に限らず、奏がやりたいって思う仕事が、あっちで待ってるかもしれないよ? 向こうには、モデル時代の仲間もいっぱいいるし、家族だっているし…半年って決めてても、日本に戻るのが惜しくなること、たくさんあるんじゃないかな」
 「惜しくても、戻るって」
 ちょっと笑いを含んだ奏の声に、咲夜は眉をひそめ、再び奏を見上げた。
 「そんなの、駄目」
 「ダメ?」
 「奏が、イギリスに残りたい、って本当に思ったんなら、戻って来ないで。やりたかったこと諦めて日本に戻って来られても、嬉しくもなんともないよ。私1人のために日本に戻るって言うんなら、」
 「だーかーらー。別れるとかリセットとかは、絶対ナシっつっただろ」
 早々に咲夜の言おうとしたセリフを察して、奏は咲夜の口を手で塞ぎ、強い口調でそう言った。
 「あのな。お前が何て言おうと、優先順位はオレが決めるの。向こうにどんだけ魅力的な仕事が転がってても、絶世の美女が手招きしてても、頼むから仕事手伝ってくれって郁が泣きついてきても、オレは半年で日本に帰る。何がなんでも帰るからな」
 「…帰る、って…あっちが、本来、奏が帰る場所じゃない」
 奏の手のひらの中で、もぞもぞと突っ込みを入れる。
 すると、まるでその言葉を待っていたみたいに、奏は一瞬、ニヤリと笑い、咲夜の口を押さえていた手をどけた。
 「そうだな。咲夜の言うとおりだ」
 「……」
 「オレは、イギリスで生まれたイギリス人で、両親も、兄弟も、実の親も全部、イギリスにいる。オレは日本に“来てる”んだし、オレに“帰る”場所があるとしたら、それは母国のイギリスだよな」
 …そのとおりだ。
 自分で言っておきながら、奏の口から改めて言われると、胸が痛い。多分…無意識のうちに、いつも咲夜の中には、その事実が1つの重しとなっていたのだろう。奏は、日本に“来ている”だけ…奏が帰る場所は、別の所にある。だから、いつかは離れて行ってしまう―――そんな風に。
 咲夜が、相槌を打つこともできず瞳を揺らしていると、奏の顔から、笑みが消えた。
 真顔になった奏は、すがるような、どこか切ない目をして、咲夜を見つめた。
 「それでも、オレは、日本に“帰って”来たいんだ」
 「……っ、」
 「オレは、成田と蕾夏がいるから、日本に“来た”。けど…今は、咲夜がいるから、日本に“帰って”来たいんだ」
 「…そ…う…」
 「…お前がオレのこと見捨てたら、オレ、日本のどこにも、帰る場所、なくなるじゃん。…オレが帰って来れるように、オレの居場所、あけといてよ」

 誤魔化した筈の涙で、奏の顔が、ぼやけて見えた。
 駄目だ―――奏の前では、いつも、嘘がつけなくなってしまう。涙が頬を伝うのと同時に、咲夜は、奏の胸元に顔を埋めるようにして、抱きついた。

 「…ごめん。ライブがなくなるこんなタイミングで、半年もお前のこと1人にして」
 「……」
 「でも、オレ―――咲夜を泣かせるのも、咲夜を歌わせるのも、オレじゃなきゃ嫌だ」
 「…うん…」

 ―――そんなの、当たり前だよ、奏。
 こんな風に私を泣かせるのも、あんな風に私を歌わせるのも、この先もずっと…奏しか、いない。
 愛し、愛されることを信じられなくて、傷つくのを怖がって、いつも暗闇の中へ逃げ込もうとしてしまう私を、呆れるほど真っ直ぐな愛で照らし出してくれる、眩しい光―――こんなにも愛しい光は、奏しかいない。

 顔を上げてみると、奏は、少し不安そうな、辛そうな顔をしていた。そして、ごめん、ともう一度、小さな声で呟いた。
 そんな奏に、咲夜は、安心させるようにふわりと微笑んでみせてから、一言だけ、返した。
 「待ってるから―――必ず、帰って来て」
 背伸びをして、奏の唇に軽くくちづけた。
 唇を離して、見つめた先あった奏の顔は、安心したような、幸せそうな笑顔だった。


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