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 「まあ、相場から考えても、こんなところでしょうね」
 テーブルの上を滑らせるようにして差し出された書類には、思ったよりシンプルな内容が書かれていた。
 書類を手に取り、穴があくほど隅々まで睨み通した奏は、思わず呻いた。
 「うっわ、きっつー…」
 「あら、そぉ? あなたレベルの経験値で、かつ部分専属でその条件なら、まあまあだと思うけど」
 「うー…」
 「何なら、“VITT”完全専属の1年契約にする? それならその倍じゃなく3倍で契約するわよ」
 奏の考えを見透かしたかのように、サラはそう言って、頬杖をついた。
 勿論、見透かしているのだろう。何故なら、奏が出した条件は、ただ1つ―――「半年限定」。それだけなのだから。
 書面に書かれた数字によれば、収入は現在より下がる計算になるが、経験値等々考えればサラの言うとおりだし、第一、これは金の問題ではない。
 「…とんでもない」
 手にしていた書類をテーブルの上に丁寧に置いた奏は、ふ、と片眉を上げて笑った。
 「身の程はわきまえてますよ、社長。この条件で十分です」
 「そう。それは結構な心がけね」
 ニッコリと微笑んだサラは、そう言うと、奏に向かって手元にあった万年筆を差し出した。
 「じゃあ、気の変わらないうちにサインして頂戴」
 「……」
 ―――機嫌いいなぁ、オイ。
 なんとなく、面白くない気分。でも、ここでそれを顔に出すのは禁物だ。相手はクライアントなのだから、私情はあってもそれを表に出すな―――瑞樹の助言どおり、奏は飽くまでビジネス用の顔をキープしたまま、万年筆を受け取った。
 「そうね。多少金銭面で厳しくなってでも、せっかくの半年間、有効に使わなくちゃ損だわ。幸い、あなたのお仲間は、今も大半が現役モデルだしね。個人的にメイクを請け負うなり、ファッションアドバイザーにチャレンジするなり、思う存分、可能性を試さなくちゃね」
 ペンを走らせる奏を眺めつつ、サラは奏に聞かせるでもなく、そんなことを言った。
 確かに、下手にギチギチに拘束されるより、保障は小さくても自由がある方が、今の自分にはいいのかもしれない、と奏自身も思う。経験を意識して1つの仕事に囚われていたら、一番合っている仕事を見逃して、後々悔やむことになるかもしれない。これまでやってきたことを活かすからには、やはりメイクの仕事を最優先でやっていくが、チャンスさえあれば他の仕事も試してみたい―――そう思っているのなら、チャンスがあるかどうかは別として、チャンスが来たら掴める位置にいるべきだ。
 でも…それを、サラから先に言われると、癪に感じるのも、また事実。今もなお、サラという女は、奏にとって素直に認め難い存在のようだ。
 「これでいいかな」
 サインを終えた書類をサラの方へと押しやると、サラは書面を一瞥し、満足そうに頷いた。
 「OK。これで契約成立ね」
 席を立ちながら差し出された右手に、思わず一瞬、ためらってしまう。が、心の内に湧いた罪悪感のようなものを静かに飲み込み、奏は腰を浮かせつつ、その右手をしっかりと握った。
 「よろしくお願いします」


 「えっ、もう帰ってしもたん?」
 サラを見送り損ねたテンは、窓の外を横切るサラらしき人影だけ見て、驚いたように目を丸くした。
 「ある程度、電話で話はしてあったからな。書面で確認して、サインして、おしまい」
 「それにしても、まだ店に来てから15分しか経ってへんやん。お茶出す暇もなかったわ」
 「オレの仕事中に来たんだから、当たり前だろ。それに向こうだって忙しいんだよ」
 そう。サラは、とんでもなく忙しいのだ。
 ロンドンの“VITT”本社に電話をして、サラに直接オファー受諾の旨を伝えたのが、金曜の夜。実際に彼女が日本に飛んできたのが、それから実質40時間後―――昨日の夕方だ。そして今日、“Studio K.K.”で奏と契約を結び、今夜の便でロンドンに戻る。
 実質滞在時間、僅か1日と少し。その間でさえ、本番まで残り10日を切ったショーのために奔走する。
 ―――どうせまたすぐ日本に来るんだから、契約はその時でよかったのに…。
 もっとも、新しく追加した衣装を確認するために、元々来るつもりだった、とサラは言ったのだが…全く、黒川といいサラといい、そう何度も行き来していたのでは、飛行機での移動時間がもったいない、とは思わないのだろうか。
 「…なあ、いっちゃん。ホンマのとこ、あの人っていっちゃんの“何”なん?」
 「は?」
 唐突な質問に、奏の目が丸くなる。やけに探るような声音に首を傾げつつ、奏はテンに目を向けた。
 「何って…前言わなかったっけか? 叔父貴の知り合いだって。あ、言ったのは氷室さんにだけか」
 「それはウチも後で聞いたけどっ。叔父さんの知り合い程度で、大企業の社長自ら足運んでまで契約結ぶほど、いっちゃんは有名でも天才でもないやんかっ」
 「…いや、だから、オレ自身も知り合いだって。“VITT”の専属モデルやってたし」
 「そーやなくてぇ、」
 わかってへんなぁ、と苛立ったように、テンはぐいっ、と奏の腕を引っ張り、ヒソヒソ声で続けた。
 「もしかして―――あの人、いっちゃんに気ぃあるんとちゃうの?」
 「……はぁっ!?」
 あまりの飛躍振りに、一瞬、話についていけなかった。テンの手を振り払うようにしながら、奏は、激しく首を横に振った。
 「じょ、ジョーダン! 勘弁しろよ、何をどう妄想すりゃあ、そんな説が出てくるんだよ!?」
 「…相変わらず、自覚が足りんわ、いっちゃんは。ウチだけやないで? 店の人間の大半が、仕事と引き換えに愛人契約も結ばされたんちゃうか、って心配しとるわ」
 「んな訳あるかっ!」
 大声で怒鳴りそうになったが、ここが営業中の店内であることを咄嗟に思い出し、辛うじてボリュームを想定の半分程度に抑えた。
 にしても―――事実を知らないからそんな想像も飛び出すのだろうが、いくらなんでも、あんまりだ。奏に恋人がいることは店の誰もが知っているのだし、その恋人が原因で奏がイライラしたりボーッとしたりしている姿も散々見ている筈なのだ。
 「ひでーなー…。咲夜がいるのに、仕事欲しさにそんな条件飲むような奴に見えるのかよ」
 「そういう訳ちゃうけど…そんだけ突き抜けた“ありえなさ”やっちゅうことやん。突き抜け過ぎて、大量の指名客放り出して行くいっちゃんを、誰も非難する気にならへん位に」
 …確かに、非難轟々でも文句が言えない立場なのに、スタッフたちの反応はやけに静かだった。もっとも、店長はさすがに渋い顔をしていたし、スパルタ教育を受けることになった山之内は更に渋い顔をしていたが。
 ―――しょうがない。秘密にしておくつもりだったけど、オレの名誉を守るために、リークするか。
 郁、ごめんよ、と心の中で謝りつつ、奏は大きくため息をついた。
 「…叔父貴の、恋人なんだ」
 「ほぇ?」
 「あの人。しかも、相当昔からの。だから、オレのことも、甥っ子みたいに思って世話焼きたがってんだよ」
 「…叔父さん、て…前、店に来た、あの人やんな?」
 「そう」
 「……」
 「…ロンドン名物パパラッチも、まだ嗅ぎつけてないネタなんだから、言いふらしたりするなよ」
 まん丸に見開かれたテンの目に、そう釘を刺したのだが―――どうやらテンの驚きは、奏が考えたものとは、若干方向がずれていたようだ。
 「えー!? あの金髪美女と、あの平凡な親父が!? 嘘、ありえへーん! もしホンマやったら、バミューダトライアングルレベルのミステリーなんとちゃう!? ひえー、世の中わからへんわー」
 ああ、郁、本当にごめん―――がっくり、とうなだれつつ、奏はもう一度、深く深く、時田に謝ったのだった。


***


 奏が“VITT”と新たな契約を結んだ日は、都立高校の合格発表の日だった。

 「メール見たよー。おめでとう」
 『ありがとう』
 電話の向こうの声が、少し照れたトーンで答える。その声だけで、亘の嬉しそうな顔が思い浮かび、部屋の暖房のスイッチを入れる咲夜の口元が自然とほころんだ。
 「お父さんやお母さんも喜んでるんじゃないの」
 『うん、まあね。ご馳走作ってもらったし、父さんにはワイン飲ませてもらった』
 「はぁ? 何中学生に酒飲ませてんの、あの親父」
 『約束してたんだよ。友達に、毎晩父親の晩酌に付き合ってるから酒なら任せろ! なんて言ってる奴がいて、おれ、飲んだことないからちょっと羨ましくてさ』
 「ふーん…そういうお年頃って訳ね。どうだった? おいしかった?」
 『酸っぱかった』
 素直な感想に、思わず声を立てて笑う。でも、あの頑固親父が、いくら約束したからといって、そんなことを許すとは、ちょっと驚きだ。
 「私も何かお祝いするよ。何がいい?」
 『えっ、ほんと?』
 「うん。あー、でも、あんまり今余裕ないから、高い物はパスだけどさ」
 咲夜の申し出に、亘が出した答えは、意外なものだった。
 『あ、じゃあさ、久しぶりに叔父さんとこ、連れてってくれない?』
 「え、」
 『芽衣がさ、この前姉ちゃんに聴かせ損ねた曲、叔父さんにも聴いて欲しいんだって。叔父さん来ると父さんがあんまりいい顔しないし…それに最近、全然遊びに行ってないから、姉ちゃんの歌も聴いてないし』
 「…うーん…そっかー…」
 確かに最近、そういう機会もめっきり減ってしまっていた。拓海は如月の家には滅多に寄り付かないし、もし訪問してもピアノなど弾かない。元々、人を家に上げたがらない拓海の性格をよく知っているので、“母”が子供らを拓海の所に連れて行くこともないだろう。唯一、拓海と音楽面でも交流のある咲夜が、最近拓海と会っていないのだから、亘や芽衣が不満に思っているのも当然なのかもしれない。
 正直なところ、参ったなぁ、という気分がない訳でもないが―――滅多にないお祝い事なのだ。多少の面倒は、あえて目を瞑らなくては。
 「よし、わかった。とりあえず拓海に連絡してみる」
 『やった!』
 早くも決まったつもりでいる亘は、さっそく芽衣を電話口に呼びつけた。兄妹仲の良いことで微笑ましい限りだが、既に帰宅しているであろう父が2人のはしゃぐ姿をどう見ているだろう、と一瞬考え、咲夜の表情が僅かに曇った。


 「…てな訳なんだけど、スケジュールはどう?」
 『土曜の真昼間なら、一応空いてるぞ』
 答える拓海の背後から、何やら口笛のような音と拍手が聞こえてきた。ノイズキャンセラーを掻い潜って耳に届いたその音に、思わず顔を顰める。何でも、マネージャーである堀の後輩が先日入籍をして、その仲間内のパーティーに呼ばれているのだそうだ。
 「盛り上がってるねぇ…。拓海も1曲披露すんの?」
 『…お前な。誰に向かって言ってるんだ、それ。仮にもプロだぞ』
 …ごもっとも。マネージャーの後輩ごときのために、さして親しくもない拓海が、タダで演奏を聴かせる訳がない。お人好しは美点になるが、芸の安売りはプロ失格だ。ちゃらんぽらんに見えても、やっぱり拓海はプロなんだな、なんて今更なことを思った。
 「あー、えーと、じゃあ、土曜日のお昼過ぎ位に連れてくんで、いいかな」
 『そうだな。帰りは、俺が家まで送るよ。お前、店があるだろ』
 「うん。じゃあ、亘に連絡しとく」
 『ああ、咲夜』
 「ん?」
 『…大丈夫か』
 唐突な、一言。
 さほど心配しているようにも聞こえない、このたった一言で、何を言わんとしているのか察してしまえる自分が嫌だ。情報早いな、と内心ちょっと驚きつつ、咲夜はふっと笑った。
 「大丈夫だよ」
 『本当だろうな?』
 「どっかの風来坊に10年も付き合った経験アリだから、半年ごとき、なんのなんの」
 『―――嫌な納得のさせ方だな、おい』
 そんな風に言いつつも、苦笑の混じったその言葉は、どこか少し安心したようにも聞こえた。
 じゃあな、と短く締めくくり、うん、と答えて、電話を切った。まあ、土曜まで引きずらずに済んで、良かった―――携帯をパチンと閉じて、咲夜は大きく息を吐き出した。
 さすがの拓海も、佐倉から話を聞いてしまい、ちょっとは心配したのだろう。なんといっても、奏が行くのは、ただの海外ではなく“母国”なのだから。
 あれほど日本適応能力が低い拓海だって、結局のところ、軸足をアメリカに移すには至っていない。アメリカでのライブを頻繁に繰り返しつつも、必ず日本に帰ってくる。それがただの郷愁の念ではなく、生活上の便利や仕事の上でのメリットを考えてのことであることを、咲夜も知っている。
 きっと、奏にとってのイギリスも、同じだと思う。
 奏自身がどう思っているかとは関係なく、イギリス人である奏にとっては、イギリスの方が何かと生き易い。支えてくれる家族、これまで積み重ねたキャリアを活かせる人脈―――実際に向こうで仕事をしてみて、奏もきっと、そのメリットを実感するだろう。
 でも―――…。

 と、その時、まるで電話が終わるのを待っていたかのように、呼び鈴が鳴った。
 こんな時間に訪ねて来るのは、奏しかいない。が、予想していたより随分早い時間だ。携帯を置いた咲夜は、小走りに玄関に向かった。
 念のため、レンズで外の様子を確認すると、ぐったりとした表情の奏が扉の前に佇んでいた。多分、奏からスパルタ教育を受けている筈の山之内も、これと似た表情をテンに見せているのだろう。掴むべきチャンスであることは誰もが認めるが、全く、大変なことを引き受けてしまったものだ。
 「おかえりー」
 ドアを開け、咲夜が顔を出すと、奏はその表情のままの声で、
 「…おー。ただいま」
 と答えた。
 「意外に早かったじゃん。もっと遅くなるかと思ってた」
 「…オレも」
 部屋に入った奏は、オーバーな位に大きなため息をつき、勝手知ったる咲夜のベッドの上にドサリと腰を下ろした。
 「やっぱ、人間にはそれぞれ、限界があるっつーことなんだろうなぁ…。オレのお得意様のレシピを一通り把握させようとしたけど、そんなに一遍に覚えられない、って言われちゃったよ。山之内は、スローでコツコツしたタイプだから」
 「あー…そんな感じだよね。何で美容業界なんか目指したんだろう? って思うほど、山之内君て、いがぐり頭の純朴な高校生っぽい顔してるし」
 「そーだよ。なんであいつが、接客業やってんのか、そこんところからしておかしいんだよ」
 今日1日のことが思い出されたせいか、奏の言葉に妙に力が入る。
 「客から話振られたら答えられるけど、自分の方からどう話を振ればいいかわからない、って、何でそれで客商売やってんだよ? 話しかけられたくない客もいるでしょ、って、そりゃそーだけど! そういう客と、沈黙に耐えられない客見分けるのがプロだろ。あいつ、人一倍喋るテンのヘルプについてたせいで、その辺のコツを身につけないまま来ちゃったんじゃないか? 駄目だろ、もーっ」
 「はいはいはいはい、本人いない所で、そんな拳握りしめないの。疲れてるところに興奮すると、血管切れるよ?」
 ぽんぽん、と奏の頭を撫でてやると、拗ねた顔で咲夜を見上げた奏は、はぁ、と息をついて、咲夜の腕を引き寄せた。
 「…ま、いいや。山之内の根性がないおかげで、思ったより早く帰ってこれたし」
 「…そんな余裕顔でいると、スパルタ教育の終盤は、家に帰ってくることすらできなくなるよ?」
 「そん時はそん時で。いざとなったら、山之内放り出して、全部テンに押し付けてやる」
 そう言うと、奏は、隣に座った咲夜を、ぎゅーっ、と抱きしめた。あまりにぎゅーぎゅー抱きしめるので、苦しい、と腕を叩いて訴えたが、奏はそれを無視した。
 「ちくしょー、あいつら…ホント、むっかつく」
 「うぐぐ…え、えぇ? 何が?」
 「…咲夜は、外回りの仕事してて出会いも多いし、ステージもやってるからファンもいるだろうし、半年も1人にしておいたら、絶対浮気される、今から覚悟しとけ、とか言いやがった」
 「……」
 ―――なるほど。むしろ、原因はこっちですか。
 山之内のスパルタ教育に疲れたというより、同僚らの脅しがダメージになっているらしい。まあ、テンたちのことだから、きっと奏が不貞腐れるのを面白がって言っているだけだろうが。
 「そんなに私って、浮気するように見えるのかねぇ…」
 「ちげーよっ。あいつらに言わせると、オレが“捨てられる”ように見えるんだよっ」
 奏の返答の可笑しさに、思わず派手に吹き出しそうになる。が、突如、咲夜を引き剥がした奏の顔は、驚くほど真剣そのものだった。
 「…なぁ、咲夜」
 「な、何?」
 「もし、万が一…いや、絶対ないに決まってるけど、ほんとーのほんとーに、万が一、いや、億に一…」
 「わ、わかったって。その位、起こり得ない話ってことでしょ。そんで?」
 「…万が一、オレいない間に、何かの気の迷いで浮気とかしちゃってもさ。絶対、ぜーったい、オレには言うなよな」
 「……」
 これはまた、想定外なお願いだ。キョトンと目を丸くした咲夜が「なんで?」とシンプルすぎる疑問をぶつけると、奏は、軽く口を尖らせた。
 「日本語にもあるだろ。“知らぬが仏”って」
 「…英語にも、あるんだっけ」
 「Ignorance is bliss. …本気じゃないんなら、バカだって言われてもいいから、知らない方がいい」
 「…そっか」
 確かに―――ことわざになる位だから、それが、万国共通の人間心理なのかもしれない。白黒つけるのが怖い、と言っていた木戸のことを思い出し、咲夜もなんとなく、奏の言わんとするところを理解した。
 「じゃあ、奏も、向こうで浮気しても、私には内緒にしといて」
 「バカ、捨てられまいと必死になってるのに、浮気なんてするかよっ」
 ―――変なの。こいつの頭の中では、自分が私を捨てる、って構図は、微塵もないのかな。
 多分、第三者が見たら、確実にその構図の方がリアリティがあるだろうに―――本気で必死そうな顔の奏を見て笑いをかみ殺す咲夜に、奏は余計むくれた顔になり、ちょっと乱暴に咲夜を抱き寄せた。

 ―――不安だ、心配だ、って口にできちゃう人間の方が、きっと、不安や心配を上手く乗り切れるんだろうな。
 咲夜は、臆病だ。
 ある意味、拓海という少々非常識な男に育てられてしまった部分があるから、大抵のことには動じない、可愛げのない女であることは自覚しているが……こと、恋愛に関してだけは、情けないほどに臆病だ。
 この世で一番苦手なことは、多分「信じること」。裏切られた痛みの記憶が、信じたがる心にブレーキをかける。日本より生き易いに違いない所へと行ってしまう奏のことも、信じたいけれど…やっぱり、信じ切れない。
 でも、それはきっと、奏も同じこと。
 100パーセント信じられる方が、稀有なこと。本音では誰もが、小さな不安を抱えて生きているに違いない。

 こんなにも自分を必要としてくれて、こんなにも毎日顔を合わせている人と、半年も離れ離れだなんて―――本当に耐えられるのかな、と、本音ではとてつもなく不安で、怖い。怖すぎて、思わずいつもの癖で、「帰って来ない」という最大のバッドエンドを頭の片隅に置いてしまいたくなるほどに。
 でも…怖くて不安なのは、奏も同じだと思うから。
 不安でも、将来のためにこの半年を耐え抜こうとしている奏に、恥ずかしくないように―――自分も、この世で一番苦手なことを、半年間、精一杯頑張ってみよう。咲夜は、そう思ったのだ。


***


 ちょっと無理をしたせいか、古傷がシクシクと痛んだ。
 でも、急いだ甲斐はあったようで、蓮が“Jonny's Club”のドアを開けた時、本日2度目のライブはまだ辛うじて始まってはいなかった。安堵の息をついた蓮だったが、超満員状態の店内を見渡し、これは相席を頼む以外ないな、と覚悟した。
 さて、どうしたものか、とキョロキョロしていると、
 「お、蓮だ」
 驚くほど近くから名前を呼ばれて、思わずギョッとした。
 慌てて声の主の姿を探すと、すぐ後ろの2人席の片方に、奏が座っていた。置かれているカクテルがほとんど手つかずの状態であることから察するに、彼もまた今しがた来たばかりなのだろう。
 「こんばんは。…来てたんですか」
 「んー、本当はどうするか迷ってたけど、ギリギリ間に合いそうだったから。席、ないだろ? そこ座れば?」
 向かいの席を目で示されてしまっては、断る訳にもいかない。「すみません」と頭を下げつつ、奏の向かい側に腰を下ろした。
 「平日なのに、混んでるよなぁ。ライブ終了の話がいろんなとこで取り上げられたから、昔のファンとかも来てんのかな」
 蓮のオーダーが終わるのを待って、奏が店内を見渡してしみじみとそう呟く。蓮も、同じように辺りを見回して、小さく頷いた。
 「ラストライブまで、あと3週間ちょっとだから、常連さんも名残惜しいんでしょう」
 「こんだけファンがついてりゃ、すぐにでもメジャーになれそうなもんだけどなぁ、咲夜たちも」
 「……」
 言われてみれば、確かに。それでもメジャーになれないのは、ジャズというジャンルの特異性なのか、それとも活動の仕方に問題があるのか―――華やかに見えるけれど、やっぱり難しい世界なんだな、と、蓮は改めて思った。
 「今後のことって、何か聞いてますか?」
 「あー、なんか、自主制作でCD作るって言ってたな」
 「CD?」
 「ラストライブに間に合うように作って、ライブの最後にその場で売りさばく気らしいよ。今後もどこかでライブは続けるだろうけど、頻度はがくっと落ちるだろうし、それまで忘れないでもらうためにも、CDは結構いい手だよな」
 「…へえ…自主制作CDか…」
 そういう手段があることすら、蓮は知らなかった。自分とはかけ離れた世界の話のように思えて、少し寂しい気もする。そんな気持ちがつい出てしまったのか、呟いた声は幾分暗い色をしていた。
 「オレも1枚欲しいなぁ…。オレが出発するまでには完成しないだろうから、後から送ってもらおうかな」
 ため息混じりの奏の一言を、一瞬、そのまま聞き流しそうになった。が、その言葉の意味するところに気づき、蓮は、ステージの方に向けていた視線を奏に向けた。
 「出発、って…」
 「……あ、」
 蓮の声に、奏の顔がちょっと気まずそうになる。つい、無意識のうちに言葉に出してしまっていたらしい。今更誤魔化しもきかないと思ったのか、奏は表情を引き締めると、姿勢を正して蓮に向き直った。
 「この前、蓮にもちょっと話したけど―――暫く、日本を離れるんだ。9月の末まで」
 「この前は、断る方向で考えてる、って言ってたんじゃ…」
 「ん…、そう思ってたけど…考え直した」
 「どうして…。咲夜さんは? 咲夜さんは、どう言ったんですか?」
 「相談したら、好きなだけ行って来い、って言われたよ。その上、行き先がイギリスだもんだから、“帰国”扱いしやがるし。…ま、予想はしてたけどさ」
 そう言いながら奏が浮かべた苦笑いを見れば、咲夜がどんな調子で奏の背中を押したのか、なんとなく想像できる。
 ―――平気な訳が、ないのに。
 ちょうどオーダーした飲み物が運ばれてきたので、会話が一時中断する。口をつぐんだまま、暫しじっと考え込んだ蓮は、飲み物を置いた店員が完全に視界から消えるのを待って、口を開いた。
 「…どうしても、行かなきゃならないんですか」
 「は?」
 「日本でこのまま仕事を続ける訳には、いかないんですか?」
 奏の目が、ちょっと驚いたように丸くなる。驚いて当然だ。随分と差し出がましい口をきいているのは、自分でもわかっている。
 「きっと咲夜さんのことだから、笑いながら、一宮さんがいなくなっても平気みたいな顔して、言ったんだと思います。でも…本音は、絶対、違うから」
 「……」
 「行かせるべきだ、って思ってるのは本当だろうけど、本音では、行って欲しくない筈だから」
 「…うん。わかってる」
 丸くしていた目を細め、奏は短い言葉で、蓮の言葉を遮った。
 「咲夜は、外側はダイアモンド並の強さでも、中身はガラスだから。これまで散々騙されてきたけど、わかってるよ。オレが思ってる以上に、あいつが結構、オレのこと必要としてるのは」
 「だったら…! だったら、いてあげて下さい。…ずっと続けてたものが、突然無くなるのは、続ける間はそれほど感じなくても、凄く辛いものなんだ、って、俺は、知ってるから―――もう、ここには戻れないんだ、って実感した時、その辛さを、多分あの人も、誰にも言わないんだろうな、と思うと…」
 蓮は、誰にも言えなかった。
 頭では理解し、次の生活のために既に行動を始めていてもなお、自分の意思とは無関係に奪われたあの場所に立った時感じた、あの寂寥感―――でも、蓮からその場所を奪った張本人たちが、罪悪感いっぱいの顔で目の前にいる日常では、あの日、最後にグラウンドに立った時に流した涙のことは、誰にも言えなかった。
 「…ライブが無くなるこの時期に、咲夜さんの傍にいてあげて欲しいんです」
 訥々(とつとつ)とした喋り方ながらも、蓮にしては早口気味な言葉に、奏は少し表情を変え、蓮の顔をまじまじと見つめた。そして、それまでより表情を引き締め、真剣な面持ちで口を開いた。
 「勿論、オレだって、傍にいてやりたいよ。ラストライブだって見たかったし、これからどういう活動をしていくのか、すぐ隣で、リアルタイムで知りたい。そのためにオファーを蹴ることも本気で考えてた位にさ。でも―――今回のオファーだけは、断れない。断らないって決めた。絶対に」
 「俺が、いてもですか」
 自分でも驚くほど、鋭い声だった。
 「一宮さんがいない間、咲夜さんが1人で何か辛い思いしてるの見たら―――取りますよ、本気で」
 「……」
 奏が息を呑んだのが、はっきりとわかった。
 反射的に出てきてしまった、一言。口にしながら、何言ってるんだ俺は、と冷静に己をたしなめる自分もいるのに、脅しに近いその言葉は、何故か止められなかった。
 嫌な動悸を覚えながら、奏が何と返すかをじっと待っていると、ふいに、硬い表情だった奏が、ニッ、と笑った。
 「…その時は、オレも認めてやるよ」
 「え、」
 「咲夜は、小手先のことで気持ちがグラつくような奴じゃないから、もし咲夜が蓮に心変わりすることがあったら、それは蓮がスゲー頑張って、真剣に咲夜にぶつかってった結果だと思うから、オレも認める」
 驚きに目を見開く蓮に、奏はテーブルに腕を置き、少し身を乗り出した。
 「ただし! 帰ってきたら、全力で、取り戻す」
 「……」
 「オレがイギリス行くのは、咲夜を支えられるだけの男になるためだから。本当にやりたい仕事を見つけて、それを日本で実現するための経験を目一杯積んで、オレはこの道を歩くんだ、って自信持って言えるようになって、必ず帰ってくる。帰って来て、咲夜の親父さんと、正面から対決するんだ。多分、見た目だけでアウトって言われるから、それでも負けねー自信つけなきゃ、リングに上がることもできないだろ?」
 対決―――それが何を意味するのか、蓮にもわかった。蓮は咲夜の父を知らないが、奏の口ぶりでは、相当厳しい目の持ち主なのかもしれない。
 「咲夜が、ここで待っててくれるって言ったから―――咲夜と一生一緒にいるためなら、半年位我慢してみせる。だから、万が一お前が咲夜を横取りしてても、オレは絶対、取り戻すからな」
 「……」
 「…ま、遠慮してくれる方が、もっとありがたいけど」
 力強い言葉の後に、まるでついでのように付け足されたその一言に、蓮は思わず、吹き出した。
 ―――これだから、この人には、敵わない。
 悔しさに歯噛みしたくても、ショックに落ち込みたくても、こんな風に、あっさり拍子抜けさせられてしまう。しかも、それが冗談や戦略ではなく、完全に本音であるところが、また敵わないところだ。
 蓮が吹き出したのを見て、奏は、何がおかしいんだよ、とでも言いたげに眉をひそめた。が、それと時を同じくして、店内の照明がゆっくりと落とされ始めた。
 「あ、始まるな」
 「そうですね」
 どちらにとっても、ライブが最優先だ。それぞれ自分のドリンクを一口飲むと、奏と蓮は、まだ暗いステージへと視線を向けた。

 正直なところ、さっき口にした言葉が、完全に脅しなのか、それとも本音でもあるのかは、蓮自身にもよくわからない。
 多分…その、両方。奏の不在をチャンスとは思えない自分も真実だし、自分の手の小ささも忘れて咲夜を守りたいと思う自分も、また真実。蓮の咲夜に対する想いは、世間一般で言う恋愛感情とは、どこか違っているのかもしれない、とも思う。
 でも、ここで奏を待つと、咲夜が言ったと聞いて。
 愛を信じることが苦手らしい咲夜が、奏の自分に対する想いを信じて、奏が戻ってくるのを待つと言っていると知って―――何故か、とても、安堵した。

 「えー、本日1曲目は、お馴染みの“Blue Skies”をお送りしました。次のナンバーは…」
 スポットライトの中、スタンドマイクに手を添え艶やかに笑う咲夜は、先日までと変わらない、いつもの咲夜だ。

 ―――…大丈夫。
 この人は、愛する人と離れ離れになっても、きっとその愛を信じて、今まで以上の愛の歌を歌い上げてくれる。

 奏への想いを見せつけられたようで、少し胸が痛まない訳でもないが、それでも―――蓮が感じた安堵は、もしかしたらそういう、咲夜の歌が変わらないことへの安堵感だったのかもしれない。


***


 土曜日。
 弟と妹を迎えに行ったが、亘は電話中で、芽衣はまだ身支度の真っ最中だった。
 「はぁ? まだやってんの?」
 「待って待って。髪の毛が上手くいかなくて〜」
 「髪なんていーじゃん…拓海相手にめかし込んでどーすんの」
 呆れたように咲夜が言うと、鏡の中の芽衣が、髪をとかしながら、むぅ、と膨れた。
 「拓海叔父さんだから、オシャレするんじゃないのー。叔父さんて、モテるんでしょ? もう中学生になるんだから、叔父さんにバカにされないように、精一杯オシャレしなくちゃ」
 「……」
 ―――いや、そういう意味じゃなく、“叔父”相手にオシャレすることに何の意味があるのさ、と…。
 自分とは違い、芽衣にとっては、拓海は間違いなく血の繋がった叔父なのだが―――そうすることが身だしなみと認識しているのか、それとも、やはり拓海の方がおかしなフェロモンの持ち主なのか。とにかく、自分が拓海と出会ったのがちょうど今の芽衣の年齢なのも手伝って、必死に長い髪の毛と格闘する芽衣を見ていると、なんとも妙な気分になってきた。
 「…じゃあ、居間で待ってるから」
 そう断りを入れ、早々に妹の部屋から退散することにした。

 「お父さんは、仕事?」
 居間で新聞を読んでいた“母”に訊ねると、チラリと目を上げた“母”は、くすっと笑い頷いた。
 「3月末の異動で、ちょっと大変な部署のトップになっちゃうから、今の仕事を次の人に引き継いだり何だりで、大変みたいよ」
 「ふーん…。大変な部署任されるってことは、まだまだ現役バリバリかぁ」
 「そりゃあそうよ。お父さんには頑張ってもらわないと。咲夜ちゃんは成人したけど、うちにはまだ金食い虫が2人残ってますからね。今はゆとりあるけど、今年で無事PTAからも解放されたから、私もパートにでも出ようかと思ってるのよ」
 「…芽衣が大学卒業するのって、お父さんが60超えてからだもんね」
 父のことだから、60で引退なんぞする気は微塵もないだろうが、年齢がいってから生まれた子供がいるというのは、老け込む暇もないものなんだな、と改めて思う。
 「金食い虫筆頭より、謝辞を述べさせていただきます」
 仰々しく咲夜が頭を下げると、“母”は可笑しそうに笑い、新聞をバサバサと折り畳んだ。
 「芽衣は、まだ仕度してたの?」
 「うん、まだまだ。なんか、急にマセちゃったね」
 苦笑混じりに咲夜がそう言うと、“母”の方も困ったように眉根を寄せた。
 「そうなのよ。ついこの前まで“パパ、パパ”ってまとわりついてたのに、急によそよそしくなっちゃったから、お父さんもちょっと寂しそうよ」
 「…まあ、しゃーないわ。小6でまとわりついてる方が、今時レアなんじゃないの?」
 「そうねぇ…。咲夜ちゃんなんて、小6でも高校生みたいに大人びてたものね」
 「それはオーバーでしょ」
 「あ…、そうそう」
 何を思い出したのか、“母”は、折り畳んだ新聞を脇に置き、咲夜の背後にチラリと視線を向けた。どうやら、廊下で電話している亘の様子を窺ったらしい。誰と話しているのか、咲夜が来てから8分が経過したが、まだ電話中である。
 「この前、咲夜ちゃんが来た時に話そうと思ってたのに、タイミングを逃しちゃったんだけど…」
 少し声のボリュームを落とし、“母”は、立ったままの咲夜を見上げ、微笑んだ。
 「咲夜ちゃん、前に、私に訊いたでしょう? どうしてお父さんと結婚する気になったのか、って」
 「えっ。あー…、うん」
 去年の夏、母の命日に墓参りに行った時、偶然“母”と鉢合わせになってしまい、その帰り道に確かにそんな話をした。
 「あの時は、咲夜ちゃん曰く“あんなオヤジ”と何故付き合う気になったのか、って部分に答えたけど、結婚した理由については、ちゃんと答えなかったと思うの」
 「…え、だってそれは、芽衣が、」
 父の子を身ごもったから―――“母”が打ち明け、父がその責任を取る決断をしたから、結婚した。それで十分、納得できる。
 ところが、“母”は何故か、咲夜の言葉を遮って、首を横に振った。
 「勿論、それは大きな理由だけど―――でも、それだけじゃないの」
 「え…?」
 「…私ね。妊娠がわかった時、お父さんには絶対言うまい、って決めてたの。咲夜ちゃんのお母さんが亡くなって間もなかったし、お互い、強い恋愛感情があった訳じゃなく、似通った不幸を体験した者同士の連帯感みたいなものを感じてただけだって、ちゃんとわかってたから―――亘を連れて、実家に戻ろうと思ってたのよ」
 それは、初耳だ。咲夜の目が、少し、丸くなる。
 「じゃあ…なんで、話したの?」
 「…実はね」
 “母”は、小首を傾げるようにして、ちょっとイタズラっぽい笑みを浮かべた。
 「ある日、お父さんと食事に行ったら、その席でお父さんが、大きなため息をついたの」
 「ため息?」
 「困り果てたような、真剣に悩み過ぎて疲れちゃったような顔でね。凄く言い難そうに、私に言ったの。“実は今朝、娘が大人になったことが、わかったんだ”って」
 「……っ、」
 この前、芽衣から聞いた話が、頭によみがえった。
 デリカシーのない奴め、と頭に血が上った、あの話が、まさかここでまた出てくるとは―――僅かに頬を紅潮させた咲夜に、“母”は苦笑し、更に続けた。
 「2日も前からだったのに、男親である自分には言い難かったらしい。実際、それがわかった瞬間、どう声をかけていいのかすら、自分にはわからなかった。こんな時、男親は本当に役立たずなんだと思い知らされた、…って、本当に、頭抱えちゃいそうな様子でね」
 「……」
 「これからの方が、あの子には女親が必要だろう。こんな時こそ、妻にいて欲しかった。幽霊でも構わないから、ちょっと帰って来て、暫くあの子についていてくれないものだろうか―――ってため息つくお父さん見てたら、ああ…この人は、娘と同じ“女性”を、家族の一員として必要としてるんだな、って思ったの」

 咲夜の瞳が、落ち着きを失い、揺れた。
 だって、咲夜から見たら、他界した母とは、「守ってやらなくてはいけない存在」だったから。
 母の死を悲しむのは当然のことだが、まさか…まさかあの父が、母がいなくなって、困っていたなんて。寂しさや恋しさのためじゃなく、「咲夜を育てていくために」母の力を必要としていたなんて―――考えたことなど、一度もなかった。

 「きっと何年後かには、自分が亘について同じことを思うんだろうな、とも思ったし―――それで、芽衣のこと、打ち明けることにしたのよ」
 「……」
 「私の前でのあの人は、1人の男性である前に、咲夜ちゃんの父親なのよ。今も昔も、ずっとね」
 「お姉ちゃーん」
 母の言葉が終わるのとほぼ同時に、廊下をぱたぱたと走る芽衣の声が聞こえてきた。
 はっとした咲夜は、静かに動揺を飲み込み、近づいてきた足音の方へと目を向けた。ひょい、と顔を覗かせた芽衣の背後に、「あ、妹の準備ができたみたいだから」と電話の相手に言っている亘の声が聞こえた。
 「お待たせー。どぉ?」
 「うん、可愛い可愛い」
 さっきとどう違うのか、イマイチよくわからないのだが―――それでも、咲夜が笑顔でそう褒めれば、芽衣は得意気な顔でエヘヘと笑うのだった。
 「亘も電話終わったみたいだし、行こうか」
 「うん」


 「じゃあ、咲夜ちゃん、よろしくね」
 玄関先まで見送りに出てきてそう言う“母”に、靴を履いた咲夜はニッと笑い、頷いた。
 「6時までには帰らせるようにするから」
 「拓海が送ってくれるなら、もっと遅くていいわよ。土日に長時間1人だなんて、本当に久々なんだもの」
 「あはは」
 気を遣わず遊ばせるための言葉と思いきや、これが案外本音だったりするのだ。「日頃は1人でいるから、自分のペースで動き回ることに慣れちゃってるのよね。だから、家族がいる休日は賑やかでいいけど、疲れちゃって」と、何年か前に言っていたのを覚えている。確かに―――咲夜も1人で暮らしているので、自分のペースを貫けない休日にイラつく気持ちは、ちょっとわかる。
 「思う存分、羽根のばしといて」
 と言って、咲夜は“母”に向かって手を振った。

 先に歩き出した亘や芽衣に追いつき、一緒に駅に向かいながらも、咲夜の頭は、まだ先ほどの“母”の話を引きずっていた。

 『これからの方が、あの子には女親が必要だろう。こんな時こそ、妻にいて欲しかった。幽霊でも構わないから、ちょっと帰って来て、暫くあの子についていてくれないものだろうか』

 1人ではどう対処していいやらわからずオロオロしている父の姿など、想像もできないけれど…思い浮かべてみようとしたら、何故か、奏のことを思い出した。
 自宅を訪ねてきた明日美が倒れた時の、そしてこの前、咲夜を病院に連れて行く間の、奏のあの慌てぶり。過去に何人もの女性との交際経験がある筈の奏なのに、間違っても自分が体験し得ない類の体調の変化に苦しんでいる明日美や咲夜を前に、奏はオロオロするばかりだった。
 ―――…カッコ悪いよなぁ、ほんと。
 父の右往左往する姿が、おぼろげながら思い浮かべられて、思わず苦笑いしてしまう。
 苦笑しながら―――何故か、胸が、チクリと痛んだ。

 「姉ちゃん?」
 突如、足を止めた咲夜に気づき、亘が怪訝そうに眉をひそめた。
 芽衣も足を止め、キョトンとした目で咲夜の顔を見上げている。2つの視線を受け止めた咲夜は、咄嗟に笑顔を作った。
 「…あ、えーと、ごめん! ちょっと忘れ物してきた」
 「えぇ?」
 「ダッシュで取ってくる。すぐ追いつくから、先歩いてて。万が一、先に駅着いちゃったら、切符売り場で待っててよ」
 突然のことに驚く2人に背を向け、咲夜は、今来た道を走り出した。


 父が、闘病中の母を裏切る行為をしたのも、事実。
 母を失ったばかりの娘の気持ちを無視して、勝手に再婚を決め、新しい生活を咲夜に押し付けたのも、事実。
 許せる訳がない。頭では理解しても、心はやっぱり拒絶する。
 でも―――自分とは異なる神秘の存在を手元に残されて、どう扱っていいか苦悩している父を想像したら…理不尽にしか見えなかった父の行動が、これまでとは、ほんの少しだけ違うものに映る気がして。

 その行動は短絡的で、やっぱり咲夜の気持ちを無視しているし、咲夜が頼った相手が“母”でなく自分と同じ男である拓海だったからといって、そのことに憤る父は、やっぱり大人げない。
 けれど―――…。


 大して歩いていなかったので、家にはすぐ着いた。
 呼び鈴を鳴らすと、ほどなくドアが開き、驚いたような顔が現れた。
 「さ…咲夜ちゃん? どうしたの?」
 「…ちょ…ちょっと、忘れ物」
 短い距離とはいえ、本気で猛ダッシュしたので、軽く息が上がっている。はあっ、と大きく息を吐き出した咲夜は、トートバッグの外ポケットから、ある物を取り出し、それを“母”に差し出した。
 「これ」
 「?」
 「…Jonny's Club”の、ラストライブの、チケット」
 “母”の表情が、変わった。
 「普段はチケットなんてないけど、ラストライブは来たいと思ってるお客さんも多いから、ワンドリンク付き千円でチケット販売してんの。…で、本当は来る筈だった奴が、ちょっと、事情あって来れなくなったから、これ、余っちゃったんだ。だから、」
 言葉を切った咲夜は、目を丸くしている“母”の手を掴み、その手のひらの上に、チケットをぽん、と置いた。
 「如月家に、これ、進呈しちゃう」
 「……」
 「もち、使わなくてもOKだよ。席に空きができたら、当日チケットで対応するみたいだから。それに、1枚じゃ、1人しか入れないしね」
 「…咲夜ちゃん…」
 「―――蛍子さんも、お父さんも、来たことないからさ。“Jonny's Club”のライブ」
 来たくもないのかも、しれないけれど。
 このまま、父に見せることなく蛍子がしまいこむ可能性も、こんなもんいらん、と破り捨てられる可能性も、十分あるのは、百も承知だけれど。
 多分―――実際に来てくれるかどうかではなく、こうして渡すことが、今の咲夜にとっては、大事だと思うから。
 「来なくてもいいから、受け取っておいて」
 念を押すように、手のひらにチケットを押し付ける。
 すると蛍子は、驚きの表情をゆっくりと崩し、酷く嬉しそうに、笑った。
 まるで、雪解けみたいな笑顔だな―――やんわりと面に表れたその笑みを見て、咲夜は、そんなことを思った。


***


 「あんまり時間がないから、一発()りでいくぞ」
 ヨッシーの真剣な声に、一成も咲夜も、緊張した面持ちで頷いた。
 ミキサーの前に座っているのは、ヨッシーの知り合いの、その道のプロだ。作ったところで、インディーズレーベルにすら扱ってもらえる当てのないCDに、よくぞ協力してくれたものだと思う。そんな人物の存在もあって、デモテープ作りの時とは、緊張の度合いがまるで違っていた。
 でも、不思議と、緊張しすぎて上手く歌えない、というような不安は、少しも感じない。
 いい意味での、緊張感―――ちょうど、ステージの真ん中で、真っ暗な客席を見渡した時のような緊張感だ。
 ―――よし、いくぞ。
 スタンドマイクをちょっと引き寄せた咲夜は、大きく深呼吸をし、2人に合図を送った。

 「Some say love it is a river... That drowns the tender reed...」

 激しい恋に生き、激しい愛に死んだ、伝説のロック歌手・ローズ。この歌を主題歌とした映画『The Rose』のヒロインに、歌い上げるこの瞬間だけ、同化する。
 ―――同じ名前だなんて、妙な因縁だよね。
 同じく“伝説”と称された1人の女を思い浮かべ、内心、くすっと笑った。
 向こうは今頃、本番前の最終リハーサルで、地獄のような混乱状態にあるだろう。モデルやスタッフの間を歩き回り、てきぱきと指示を出す彼女を見て、奏は、何を思うだろう?

 許せない、という思いも、真実。
 けれど、わかりあいたい、という思いも、また、真実。
 思慕の情は、いまだ、固い氷の下に閉じ込められているけれど―――長い年月をかければ、少しは、それが顔を出すこともあるのかもしれない。

 When the night has been too lonely, And the road has been too long
  (あまりにも孤独すぎる夜や、道のりがあまりにも長すぎる時)
 And you think that love is only, For the lucky and the strong
  (愛は、幸運で強い人のためだけにあるものだ、なんて考えてしまう時)
 Just remember in the winter, Far beneath the bitter snows
  (思い出して。冬、冷たい雪のはるか下には)
 Lies the seed that with the sun's love, In the spring becomes the rose...
  (種が横たわり、太陽の恵みを受けて、春には薔薇の花となるのだということを)

 

 「ちょっと待って! あたしのパンプスどこー!?」
 「吉田さーん! マキさんの2着目、持ってきてー!」
 飛び交う声と、せわしなく動き回る人、人、人―――毎度お馴染みの光景の中で、奏は比較的、落ち着いていた。
 というか、半分、スタッフと化していた。
 「あああ、チークはオレが手伝うから、あんたは髪の方進めて。このメイク表でいいんだよね?」
 「すみませーん、助かりますー」
 なんでモデルのオレが、他のモデルにメイクしてやってるんだろう―――素朴な疑問が頭をよぎるが、その答えは明確だ。
 パフを手にしつつ、ぐるりと背後に顔を向ける。その視線の先には、着替えに手間取っているモデルに、自ら手を貸してやっているサラの姿があった。
 ―――“VITT”との契約期間、まだ始まってないだろっ。何が「ぼやぼやしてないで手伝ってやりなさい」だよ。けっ。
 調子に乗るんじゃねーよ、と面白くない気分になるのも事実だが、
 ―――でも、もしかして、1つでも多く“現場”を踏ませてやろう、っていう配慮なのかな。
 なんて考えてしまうのも事実で。
 そんな風に考えてしまう自分に、少し腹が立って……でも、何か少しくすぐったいような気もする。

 『…ごめんね、奏』
 先日、“VITT”のオファーを受けて暫くイギリスに戻ることを報告すると、千里はため息をつき、そう言った。
 『母さんにとっては、あんまり気分のいい話じゃないかもしれない。だって、弟を傷つけた張本人だし、オレたちを捨てた女な訳だから。オレも、あの女に母親面して首突っ込まれるのは嫌だな、とか思ってたんだけど…』
 千里の複雑な心境を察して、今回の件を決意するまでの心境を、奏はそんな風に説明したのだが、それがかえって、「自分の存在が奏の決断の妨げになった」と感じさせ、千里を落ち込ませてしまったらしい。
 『確かにね。奏があの人の…産みの親の助力を受け入れた、って聞いたら、正直、寂しい思いもあるし、嫉妬に近い感情もある。捨てて行った癖に何よ、今更でしゃばらないで、なんて思ったりね。フフ…カウンセラーだって、ただの人間だもの。神様や仏様みたいに、慈悲の心だけで生きていられる訳がないわ』
 『母さん…』
 『でもね、奏。サラを憎むのも、サラを愛するのも、あんたの自由なのよ』
 『……』
 『私や淳也がサラをどう思おうと、郁夫がサラをどう思おうと、奏は奏なりに、サラと向き合えばいいの。…人間の感情は、好きと嫌いの2種類じゃないわ。憎みながら愛する…そんな関係も、世間にはゴマンとあるでしょ』

 私だって、サラを憎んでるだけじゃない。奏と累を私に与えてくれた人として、とても愛してる―――千里は最後に、そう言った。
 ―――オレなりの向き合い方…か。
 捨てられたことは、絶対、許せないけれど。多分一生、何のわだかまりもなくサラと接するなんて、無理だと思うけれど。
 でも―――奏の中で、確かに何かが、変わり始めている。その、変わり始めた何かを掴みたくて、サラが差し出した手を取ったのかもしれない。

 「ハイ! では、最終リハーサルを始めます! みなさん、スタンバイお願いしまーす!」
 スタッフの声に、奏の表情が、一気に引き締まった。
 手にしていたメイク道具を置き、立ち上がる。目の前にある壁一面に施された鏡に向かって、スーツの着崩れを軽く直し、クルリと1回、ターンしてみせた。

 いよいよ、始まる。モデル・一宮 奏としての、ラストステージが。
 久々の高揚感を覚えながら、奏は1歩、踏み出した。

 


***

 


 「せめて週に2回」
 「だーめ。週1が上限」
 冷たく言い放つ咲夜に、奏が露骨にしょげた顔をする。ため息をついた咲夜は、足を止め、奏に向き直った。
 「あのね。何のために携帯にメール機能がついてると思ってんの? 日々の報告は、メールで十分」
 「報告なんてどーでもいいんだって。要するに声聞けるかどうかが問題なんだから」
 「…声聞いたら、元気かー、元気だー、程度じゃ終わらないでしょうが。私はライブ収入がなくなるし、あんただって、住みもしないのに家賃払い続けるんだから、余裕ないんだよ? 国際電話の通話料がバカにならないの、奏が一番よく知ってんじゃん」
 「…うー…」
 呻きはするものの、「わかった」の一言は、ない。凄い勢いで度数が減っていく国際電話カードを見ている奏だから、日本とイギリスで携帯で毎日連絡を取り合うとしたら、莫大な通話料がかかってしまうだろうことは、すぐに想像できるだろう。それでも、週に1度の電話で半年間乗り切れるとは、どうしても思えないらしい。
 しょうがないなぁ、と眉根を寄せた咲夜は、仕方なく、電話の回数を減らしたいもう一方の理由を口にした。
 「それにさ。…あんまり頻繁に声聞いちゃうと…会いたく、なるし」
 「えっ」
 「…半年、会えないことは、わかってるんだからさ。多少きつくても、1人きりの状態に、慣れた方がいいと思う。なのに、毎日声聞いちゃったりしたら―――毎日顔合わせてたこれまでの感覚から、なかなか抜け切れないでしょ」
 「……」
 キョトンと丸くなった奏の目を見たら、なんだか急激に恥ずかしくなってきた。慌てて目を逸らした咲夜は、ぶっきらぼうに話を締めくくろうとした。
 「だから! 電話は、緊急の用がない限り、日本時間の日曜日に1回限り。あとはメー…」
 締めくくろうとした言葉は、最後まで言えなかった。
 ぐい、と強制的に上を向かされたと思ったら、問答無用で、唇を塞がれたから。

 「―――…」
 ここ、空港なんだけどなぁ、とか。
 周りに人、すんごい数いるんだけどなぁ、とか。
 言いたいことは、山ほどあるけれど―――なんだか、どうでもいい気がしてきた。
 苦しさに一瞬離れても、またすぐに唇を重ねる。公衆の面前で交わすにしては激しすぎるキスに、あちこちから視線が飛んでくるのを感じるが、それを無視して、求め合った。半年間―――このキスを、絶対忘れられないように。

 「―――…奏、」
 「…何」
 「…キリがないよ?」
 「……」
 合間に呟いた言葉に、名残惜しげにしつつも、やっと唇が離れた。が、今度は、コツンと合わせた額が、なかなか離せない。
 本当に、キリがない。
 それに―――もう、時間も、なかった。
 「…郁んとこに落ち着いたら、まずは、電話するから」
 「うん」
 「その電話は、カウント外にしろよ」
 まだ言ってる―――飽くまで電話の回数にこだわっている奏の言葉に、思わず吹き出した。
 「…じゃあ、そろそろ、行く」
 「うん」
 額を離して見上げると、奏は、どこか心細そうな顔をしていた。つられて、しんみりした表情になってしまいそうになるが、咲夜はあえて強気な笑みを作った。
 「奏が向こうで必死に道を探してる間、私も死に物狂いで、もっと大きなステージに立つ道、探すからさ。半年でどっちがよりビッグになってるか、競争だね」
 「うわ、油断してらんねー」
 苦笑いした奏は、ふざけたようにそう言うと、はぁっ、と息を吐き出し、手荷物のボストンを持ち直した。
 「じゃーな」
 笑顔でそう言った奏に、
 「うん、行ってらっしゃい」
 咲夜も笑顔で、そう返した。
 互いの笑顔を確認すると、奏は咲夜に背を向け、出国審査のゲートへと向かった。
 ―――やっぱり、見送りに来るのって、辛いな。
 遠ざかる背中を見送りながら、胸が締め付けられるような感じを覚え、知らず顔を歪める。が―――直後、思わぬ事態が起きた。
 ずんずん歩いていた奏が、突如、ピタッと足を止めて、こちらに向き直ったのだ。
 「……っ、」
 ぎょっとして、息を呑む。
 振り返った奏の顔は、何やら、激しく葛藤しているような表情だった。仁王立ちの状態で、数秒、無言で何かと戦い続けた奏は、キッ、と咲夜を見据え、声を張り上げた。
 「あー、チクショー、やっぱダメだ! 前言、撤回!」
 「はっ?」
 「万が一、オレの留守中に他の男と何かあったら、秘密にしといてくれ、って言ったけど―――あれ、ナシ! 絶対秘密にするな! 絶対だぞ!」
 「……」
 さっきの熱烈なキスシーンと同じ位、多くの視線が2人に集中する。冷や汗が滲んでくるのを感じつつも、咲夜は呆気にとられ、声が出なかった。
 そういう咲夜の状態にも、周囲から突き刺さる視線にも気づいていないのか、奏は更に続けた。
 「本当は何かあったんじゃないか、とか心配して、1人で悶々としてるなんて、やっぱりオレらしくねー。どのみち、咲夜を他の奴にやる気なんかないんだから、留守中の浮気は絶対NG! 万が一あったら、メールか電話で即座に連絡してこいよ。イギリスからでも、オレの女に手ぇ出すんじゃねー、って、相手にきっちり釘さしてやるから」
 「……」
 「浮気もNGだけど、心変わりも絶対NG。本気だからしょーがないとか、絶対言うなよな。もしそんなことになったら、相手の男をぶっ殺す!」
 ―――空港で、ぶっ殺す、とか言うな。
 過激すぎる発言に、眩暈がしそうになる。
 でも、奏の意気込みのほどは、十分すぎるほど伝わってきたから。
 何があっても、どんな状況になっても、この人は、諦めず追いかけてきてくれる―――そう、信じられるから。
 「そのセリフ、そっくりそのまま、お返しさせていただきますー!」
 咲夜の方も、声を張り上げた。
 「浮気はNGだし、本気もNG。居心地良すぎてイギリスにしがみついてるようだったら、私がイギリス行って、奏の首根っこ捕まえて引きずってくるから!」
 咲夜の返答を聞いて、奏の顔に、本物の笑顔が浮かんだ。
 ぶんぶん、と大きく振られた手に、咲夜も本心からの笑顔になり、手を振り返した。

 ―――そうだよ。必ず、帰ってきて。

 奏。あんたの帰ってくる場所は、ここなんだから。


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