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― Spring has come here ―

 

 「痛ってー…」
 おかしな姿勢で寝ていたせいか、体のあちこちが痛かった。
 なんとか体を動かし起き上がった奏は、両腕を大きく伸ばし、ふあぁ、と盛大にあくびをした。
 「あれ、起きてたのかい」
 ドアを開けてリビングに入ってきた時田が、既に起き上がっている奏を見て、意外そうな顔をした。奏の目覚めの悪さは彼も知っているから、意外なのだろう。もっとも、時田も相当寝起きの悪い口で、実際今だって、目が半分閉じかかっているのだが。
 「いつもは耳元で目覚まし時計を鳴らしまくらないと起きないのに」
 「うー…、なんか、妙な寝方したみたいで、どっか筋違いしてるっぽい。痛くて目が覚めた」
 「…そんなとこで寝てるんじゃあね…。そろそろ疲れも蓄積してるだろう」
 背の高い奏が脚を伸ばして寝るのは不可能な、常識的なサイズのソファ。勿論、奥行きだって寝返りを打てるほどある筈がなく、奏でなくとも寝心地は最悪だろう。
 「ま、あと半月もすりゃ慣れるんじゃない」
 「慣れるより、普通にベッド使った方が早くないかい?」
 「アホかっ! 何が悲しくて、郁とダブルベッドに寝なきゃいけねーんだよっ!」
 想像しただけで、おぞましい図だ。ぶるっ、と震え上がる奏の様子に、時田は気分を害したように眉根を寄せた。
 「失礼だなぁ。怪談聞いて眠れなくなっちゃった累君には、添い寝してやったこともある僕なのに」
 「…小学校に上がる前の話だろ…。とにかく、オレはここでいい。どうしてもキツかったら、床にマットレス敷いて寝る」
 よっ、と勢いをつけて立ち上がった奏は、カーテンを開け、ついでに窓も開いた。

 ―――…あ。
 春だ。

 何故か唐突に、そう思った。
 頬に感じた朝の空気が、ほんの少し、昨日とは違う。東京より気温の低いこの町で、春を感じたのは、帰国後ではこれが初めてだ。思いきり深呼吸をした奏は、振り返り、棚の上の置時計に目をやった。
 ロンドンは現在、朝の7時半。遠い空の彼方にあるかの国は、既に夕方だ。
 そして―――数時間後には、“Jonny's Club”のラストステージの幕が上がる。

 「…こっち来るの、4月からにすりゃあ良かったかなぁ…」
 未練たらたらな声で呟く奏に、時田が苦笑した。
 「空港に着いたその足で、仮眠も取らずに“VITT”のショーに直行して、ぶっつけ本番で仕事ができるんなら、そういう選択もアリだったろうねぇ」
 「わかってるよっ。…でも、なぁ…なまじ、今日は特に予定入ってないもんだから、ここが日本だったらなぁ、と思わずにはいられない訳よ」
 「あ、そう。今日は暇なんだ」
 いい話を聞いた、とでもいう風に、時田がほくそえんだ。
 しまった―――うっかり口を滑らせたことを即座に後悔したが、時既に遅し。
 「僕は逆に、今日は忙しくてね。助かるなぁ、奏君、手際が結構いいから」
 「いい加減、ちゃんとしたアシスタント雇えっ!」
 「そんなこと言っていいのかなぁ。今日のモデルさん、君の古巣の子だよ? 確か、君の2年後輩」
 「えっ」
 途端、奏の顔色が、180度変わった。
 「打ち合わせの時、奏君の名前出したら、よく可愛がってもらった、って言って、懐かしがってたよ。モデルを辞めたって聞いて仰天してたなぁ」
 「……」
 「かつての仲間がまだまだ第一線で活躍中だから、今の君から見れば、あのモデルクラブはクライアント予備軍の山みたいなものなのに、相当やりあって飛び出した経緯があるから、まだ挨拶にすら行ってないんだろう? せっかく“VITT”以外の仕事も受けられる契約にしてもらったのに、もったいないなぁ」
 「……」
 「…で、どうする?」
 答えがわかっているのに、わざわざ訊くな。
 と言いたいところをグッと押さえ、奏は、わざと仰々しく頭を下げてみせた。
 「謹んで、お供させていただきます」
 「よし。じゃあ、さっさと朝飯を済ますとするか」
 「あ、ちょっと待って。その前にやりたいことあるから」

 今頃、高揚感と緊張感と寂寥感を足して3で割ったような気分でいるであろう、彼女に。
 自分のメイクで、自分のコーディネートでステージに送り出してやりたかったけれど……せめて、その代わりに。

 もう一度、深呼吸をした奏は、窓を閉め、窓際の棚に置いておいた携帯電話を、手に取った。


***


 ―――また留守かぁ…。
 空っぽの物置を覗き込み、優也は残念そうにため息をついた。
 どうせまた、あのお気に入りの猫の家に遊びに行っているのだろう。「ちゃんと夜には寝床に帰ってくるんだから、律儀じゃないか」と蓮は言うが、こんなに頻繁に他人の家に忍び込んでいるというのも、どうかと思う。塀を飛び越え、愛しの彼女のもとへと駆け寄るミルクパンを想像する優也の顔は、自然と渋い表情になっていた。
 「…そうかぁ…」
 …そろそろ、潮時なのかな。
 認めたくないが、そう思った。
 マリリンも蓮も、口を揃えて「美人猫の家に引き取ってもらった方がいい」と言うのだが、優也1人が、それに反対をしているのだ。だって、美人猫とミルクパンが戯れているのを見た人はいくらでもいるが、美人猫の飼い主がミルクパンを受け入れている様子を見た人は、まだ誰もいないのだ。毎晩、ちゃんと帰ってくるのだって、飼い主に見つかって逃げ帰っているのかもしれないじゃないか。お気に入りの猫と一緒にいられるからといって、それが一番幸せとは限らない筈だ。
 ―――なぁんて言っても、やっぱり、屁理屈にしかならないのかもなぁ…ここまでくると。
 他人から疎まれても、全然報われなくても、傍にいたい。そんな熱い想いを、優也はまだ抱いたことがない。由香理のことは大好きだったが、疎まれたら速攻、踵を返して退散するつもりでいたような、臆病でぬるま湯な恋だった。
 もし、ミルクパンが、かの家で冷たい扱いを受けていたとしても……それでも日々彼女のもとに通うミルクパンのことが、なんだかちょっと羨ましく思えた。

 「…あれ、秋吉」
 顔を上げ、振り向くと、そこにヘルメットを抱えた蓮が立っていた。
 「あ、穂積…。出かけるの?」
 「ああ」
 「ツーリング…にしては、ちょっと出るの遅いよね」
 「咲夜さんの店の、ラストライブなんだ」
 そう答える蓮の顔は、何故か、珍しく焦っているように見えた。何をそんなにソワソワしているんだろう、と不思議に思った優也だったが、その理由は、すぐにわかった。
 「前売りチケットを入手し損ねたから、当日分を何がなんでも手に入れないとまずいんだ」
 「うわ…、だ、大丈夫? 当日券て、何枚出るの?」
 「カウンター席の分だから、6枚。やばいな…もう並んでるかも」
 軽く舌打ちした蓮は、優也に目だけで「じゃ」と挨拶し、バイクへと駆け寄った。
 「…が、頑張って…」
 一応、エールを送ってみたが、ヘルメット越しでは聞こえないだろう。優也との間に大きな温度差を残し、蓮は風のように走り去ってしまった。

 「……」
 ―――あれってやっぱり、咲夜さんに対して恋愛感情があるからこその熱心さ、なのかな。それとも…ただの熱狂的ファン?
 すぐ赤くなる自分とは違い、蓮の顔には、あまり咲夜に対する想いが表れないから、優也には彼の気持ちが今ひとつわからない。
 ただ―――もっと、好きになっても辛くないような相手のために、気持ちや時間を費やした方がいいんじゃないか、なんて言っても、やっぱりそれも屁理屈にしかならないんだろうな、ということだけは、なんとなくわかった。

 蓮もミルクパンも不在だし、仕方ないから、作りかけだったプログラムをちょっと進めておこうかな、と優也が部屋に戻りかけた、その時、102号室のドアがガチャリと開いた。
 「あ…っ」
 開いたドアにぶつかりそうになって、慌てて1歩、足を引く。出てきた由香理も、優也がいることに気づき、慌てたように開ききったドアを少しだけ戻した。
 「だ、大丈夫!? ぶつからなかった?」
 「い…いえ、だ、大丈夫です」
 心配げに優也の様子を上から下まで何度も確認する由香理に、優也はぶんぶん頭を振り、即座に身なりを整えた。
 「ごめんね。ちょっと急いでたものだから…」
 「いいえ、運動神経鈍い僕でもよけられた位なんだから、気にしないで下さい。…あれ、」
 そこで初めて、由香理が、平日に見るような、かっちりしたスーツ姿であることに気づいた。
 「お仕事…ですか? この時間から」
 思わずそう訊ねると、由香理はちょっと目を丸くし、それから自分の服装を見下ろして、納得したように苦笑した。
 「あー…、そういえば、休みの日の外出は、スーツでももっとカジュアルなのを選んでるものね」
 「やっぱり、お仕事ですか」
 「うーん…、そうなんだけど、ちょっと違うの」
 「え?」
 「実は、これから、面接に行くのよ」
 意外な答えに、優也の目が丸くなった。
 「て…転職、するんですか?」
 「…んー、まだ、決めてないけど。とりあえず、どんな会社か知りたいし、向こうも私に直接会って話が聞きたいって言ってるみたいだから、社長さんの面接を受けることにしたの。出来たばかりの小さな会社で、給料もガクッと下がっちゃうから、行きたいような、行きたくないような、複雑な心境なんだけどね」
 「へえー…、そうなんですか…」
 由香理は、今勤めている大企業に、結婚するまでずっと勤め続けるものだと、てっきり思い込んでいた。いや―――以前の口ぶりからすると、きっと由香理自身もそのつもりだったのだろう。
 「じゃあ、どっちに転んでも“よかった”って思えて、いいですね」
 「フフ…、確かに、その考え方、悪くないわね」
 優也の言葉に、面白そうにクスクス笑った由香理は、はあっ、と息を吐き出した。
 「まあ、転職するにしろ、今の仕事を続けるにしろ―――3月中に、白黒はっきりさせたいわ。4月からの新年度は、すっきりした気分で迎えたいもの」
 「…新年度、かあ…」
 もし転職を決めれば、由香理にとっては目が回るほど忙しい新年度のスタートとなるだろう。そして、自分にとっては、卒業後の進路について、より具体的に悩み迷う1年がスタートする。

 暦は、もう、春―――何かが終わり、何かが始まる季節。
 静かに動き出した新しい季節を感じながら、由香理も優也も、ほんの一時、それぞれの思いに耽った。


***


 「まぁた、見てる」
 ゴツッ、と後頭部を拳で殴られた勢いで、額が携帯の液晶画面にぶつかりそうになった。
 「…っ、あっっっぶないなー、もーっ」
 携帯を閉じ、咲夜が唇を尖らせてヨッシーを見上げると、ヨッシーは憮然とした表情で眉を吊り上げた。
 「15分毎に携帯開いては、らしくもないへらーっとした幸せ顔で笑われたら、鉄拳の1つや2つお見舞いしたくなるだろうが。なあ、一成」
 「え? あー…、うん、まあ」
 同意を求められた一成は、どっちの味方にもつきたくない、といった風情で、曖昧に苦笑を返した。
 「滅多に見られない“幸せボケモードの咲夜”を見るのも、俺は結構、面白いけどな」
 「おお。当然だ。俺も面白いと思うぞ。ついでに、咲夜がここまでヘラヘラになるようなメールってのは一体どんなメールなのか、素直に見せてくれれば、なおさら面白い」
 「やーだね。絶対見せませんー」
 もうおしまい、と言わんばかりに、咲夜は閉じた携帯電話を傍らに置いたバッグの中に突っ込んだ。

 『卒業おめでとう。
  オレは、カウンター席一番端っこで聴いてるつもりで1日過ごすから、咲夜もそのつもりで歌えよ』

 これのどこがヘラヘラする内容なんだ、と、とうの昔に液晶画面を覗き込み済みのヨッシーは訝ったのだが―――実は、このメールには、続きがある。
 液晶画面を覗き込まれることを予想してか、何行もの改行を挟んで打ち込まれた、最後の1行。勿論、意味を知らない人から見れば、ただの意味不明な記号の羅列にしか見えないだろう。でも、ヨッシーか一成、どちらかがこの意味を知っていたら、本番前だというのに目一杯冷やかされることは必至だ。

 『From U.K. with XXXOOXOXXOOOXXX』

 ―――なんとなく、一成あたりは、知ってそうだよなぁ…。
 Xは、キス。Oは、ハグ。英文のラブレターではお馴染みの記号だ。…にしても、並べすぎだろう、いくらなんでも。思い出したら、最初にメールを開いた時のように、また吹き出してしまいそうになった。
 「お前ー、もっと緊張感持てよー。ラストライブなんだぞ」
 口元が歪む咲夜に気づいて、ヨッシーがムッとしたようにそう釘を刺した。勿論、緊張感が足りないのが許せないのではなく、メールの肝心の部分を見せてもらえないのが面白くないだけなのだが。
 「あのね。緊張感でガチガチになって歌うより、この位リラックスしてた方が、実力発揮できると思うんだけど」
 「リラックスし過ぎだろ。その緩みきった頬をなんとかしろっ」
 「…っと、おい、時間だぞ」
 2人の言い合いに、一成の冷静な声が割って入った。
 ―――いよいよだ。
 途端、ピタリと口を閉ざした3人は、それぞれに準備を始め、控え室を後にした。


 “STAFF ONLY”の扉をくぐるのも、これが最後と思うと、無性に寂しさを感じた。
 薄暗がりの中、ステージの真ん中に立った咲夜は、マイクのスイッチを入れる前に、大きく息を吐き出した。
 見渡した店内は、カウンター席すら明かりを落とし気味にしているので、客の顔など見える筈もない。それでも、僅かに見える人間の輪郭で、満員御礼であることはわかる。
 この、たくさんの人たちの中に、蛍子がいるかもしれない。
 この、たくさんの人たちの中に、父がいるかもしれない。
 勿論、そのどちらも、ここにはいない可能性が一番高いし、万が一、来ていたとしても、その顔をスポットライトの眩しいこの位置から見分けるのは、きっと無理だろう。

 だから、確かめることはしない。
 もしかしたら、という思いを、心の片隅にほんの少しだけ忍ばせて―――いつものように、歌うだけ。

 奇しくも、ラストライブ1曲目は、咲夜の十八番、『You'd be so nice to come home to』。
 遠く、はるか彼方の空の下で、きっと自分に思いを馳せているだろう、彼のことを思い浮かべながら……歌おう。離れ離れの寂しさを、切なさを、不安を、それでも信じようとする心を―――この愛を、ありのままに。


 自分を照らすスポットライトの眩しさに、一瞬、目を細める。
 湧き上がる拍手に、口元をほころばせた咲夜は、マイクを引き寄せ、最後となる決まり文句を口にした。

 「こんばんは。“Jonny's Club”へ、ようこそ」


――― "Home. -Fake! 2nd season-" / END ―――
2008.10.02


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