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― Happy Maker -1- ―

 

 「咲夜ちゃん」
 背後からかけられた声が、一瞬、誰の声か、わからなかった。
 薄情な話だと思う。けれど咲夜は、あれ以来、振り向いてその顔を見る瞬間まで、彼のことを思い出したことがなかったのだ。
 「こ―――…」
 航太郎。それが、彼の名前。大学の4年間の大半を、共に音楽に費やした仲間だ。
 突然の再会に声の出ない咲夜に、航太郎は、昔と変わらない力の抜けた笑顔になった。
 「へへ…、久しぶり」
 「び…びっくりした…。何してんの、こんなとこで」
 だって、ここは、ライブハウスで。
 そこは、つい40分ほど前、咲夜が2曲ほど歌ってきたステージで。
 こんなレアな場所で航太郎と「偶然」再会するなんて、あまり賢い推理ではない。案の定、ライブハウスのドアを振り返り、航太郎はくすっと笑った。
 「聴いたよ、さっきのライブ」
 「あ…やっぱり」
 「この前、久々に楽器屋行ったら、そこで吉澤さんに偶然会っちゃってさ。咲夜も出るからよければ見に行ってやってくれ、ってチラシ渡されたんだ」
 吉澤―――よっしーと偶然会ったのはそれほど驚くことではないが、互いに顔や名前を覚えていたとは、少々びっくりだ。よっしーと航太郎が会った回数など1、2回程度の筈だし、しかもそれは、咲夜が大学を卒業して間もない頃の話なのだから。
 「よっしーのやつ、昨日電話で話した時には、航太郎の“こ”の字も出さなかったくせに…」
 一本取られた、という不満顔で咲夜がそう言うと、航太郎は可笑しそうにくすくす笑った。
 「変わんないねぇ、咲夜ちゃん。そういうとこ」
 「どーせ成長がないですよ」
 「でも、歌は変わった」
 「え?」
 「学生時代のイメージで止まってたからさ、僕ん中では。いや、もう、全然違うね、あの頃とは。勿論、あの頃も上手いとは思ってたけど、アマとプロの違い、なのかなぁ、なんていうか、こう、しっかりした軸があるっていうか―――…」
 少し興奮したようにそうまくしたてた航太郎は、そこで言葉を切り、大きく息を吐き出した。
 「―――…やっぱり、本物だね、咲夜ちゃんは」
 「…なんか、そこまで露骨に持ち上げられると、リアクションに困るんですけど」
 「アハハ、お世辞じゃないよ」
 「わかってる。…とりあえず、来てくれてありがと」
 うん、と笑顔で頷いた航太郎だったが、直後、急に真顔になった。
 「あの、咲夜ちゃん」
 「ん?」
 「実はちょっと、頼みたいことが…」
 「頼みたいこと?」
 「うん。ええと…30分ほど、時間、もらえるかな」
 航太郎がこんな真面目な顔をするのは、学生時代も滅多になかった。よほど深刻な相談事かな、と幾分緊張しつつ、咲夜はコクリと頷いた。

***

 「えっ、転勤?」
 パチリと目を見開く咲夜に、相変わらずアルコールはあまり得意ではないらしい航太郎は、オレンジジュースのグラスを手に取りつつ、頷いた。
 「まあ、覚悟はしてたけどね。うちって、転勤するのがキャリアアップみたいなもんで、支店長クラスになるまで4、5年周期で全国ぐるぐる回るのが普通だから」
 「へぇ…、そうなんだ。結構面倒だね」
 「で、むしろここからが本題なんだけど―――ついでに、結婚もすることにしたんだ」
 「え!!」
 転勤以上のビッグニュースに、思わず咲夜も身を乗り出してしまった。
 「け、結婚!? マジで!?」
 「うん、マジで」
 「ひえぇ…お、思い切ったねぇ…」
 「だねぇ。僕もちょっと驚いてる」
 「…って、自分のことでしょうが」
 何を他人事のように驚いてるんだ、と咲夜が呆れると、航太郎も自分で自分に呆れたみたいに笑った。
 「実は、まだ、彼女にプロポーズしてないんだ」
 「はぁ? 何それ」
 「大阪転勤になるよ、って話はしたんだけど、一緒に来てくれ、って話は、まだ。そもそも、転勤話自体、今週頭に決まったばっかだし。ただ、僕の中では、結婚するぞ、って決めてる。ていうか、決めた。この1週間で」
 「決めた、って…第一、彼女は何て言ってんの? 転勤のこと」
 「結構ポジティブだったよ。彼女、実家京都だから、デートと帰省兼ねられて一石二鳥だね、とかさ。実際に転勤するのは7月だから、まだピンときてない部分もあるだろうけど…」
 そこで僅かに言葉を切ると、航太郎は小さくため息をついた。
 「…強がってる部分も、ちょっと、あるかもしれない」
 「……」
 「彼女、僕より2つ上なんだけど、そのせいか、時々、異様に物わかりのいい態度取るんだよね。急な会社の付き合いが入ってデートがドタキャンになっても、“しょうがないよね”ってあっさり許してくれちゃったり、会社の女の子からバレンタインチョコ貰っても、“モテモテでいいねぇ”なんて、からかってみたりさ。あれ、僕たちって付き合ってるんじゃなかったっけ? ってマジで不安になる時あるよ。今回の転勤話のリアクション含めてさ」
 ―――み…耳が痛いなぁ…。
 やけに聞き覚えのある話に、咲夜の顔が僅かに引きつる。会ったこともない航太郎の恋人に、妙に親近感が湧いてきた。
 強がり―――そう、それも確かに、あると思う。でも、それ以上に多分…自信が、ないのだ。愛される自信、というより、愛され“続ける”自信が。今、どれほど熱い想いがあったとしても、それが永遠に続く筈もない―――その思いが、咲夜の周りに硬い殻を作っている。その殻を、咲夜は、航太郎の彼女の周りにも見た気がした。
 「それが本音じゃないの、わかっててもさ。今、離れたら…なんか、もたない気がする」
 「航太郎…」
 「いや、彼女のこと、勿論本気で好きだし、彼女以上の人にこの先出会えるとは思えないから、結婚するとしたらこの人以外あり得ないって、付き合いだした頃からずっと思ってるよ。離れ離れになっても、きっとその気持ちは変わらないと思う。けど…」
 「…けど?」
 「…人って、弱いから、さ」
 そう言って、航太郎は、ちょっと悲しそうに笑った。
 「本当に好きで、できることなら一生一緒にいたいと本気で思っていても…会えなかったり、会うのが辛かったり、隙間を簡単に埋める方法が目の前に転がってたりすると、つい、この辺でいっか、って折り合いつけて、いつの間にか“会わないのが当たり前”になっちゃったりするから」
 「……」
 「離れても大丈夫、心は繋がってる、なんて口で言うのは簡単だけど…それをそのまま実行できたケースだって山ほどあるのは、わかってるけど…僕自身、あんまり意志が強い方じゃないし。慣れない土地でいっぱいいっぱいになったら、会えない部分を埋めようっていう努力をどこまで続けられるか、正直、自信ないんだ。咲夜ちゃんから見たら、そんな軟弱な考え、信じらんないかもしれないけど」
 「私?」
 唐突に自分の名前を出され、咲夜の目が再びキョトンと丸くなった。
 「なんで、私が?」
 「だって、咲夜ちゃんは、ずっと好きな気持ちを貫いてるだろ」
 「…は?」
 「ジャズだよ」

 ―――ジャズ?
 ジャズが好きな気持ちを、ずっと貫いている?

 あまりに当たり前なことすぎて、航太郎の言わんとするところが、よくわからない。目を丸くしたまま咲夜が首を傾げると、わからないのも無理はない、とでも言いたげに、航太郎は軽く苦笑した。
 「僕だってさ、大学の頃は、ギターが全てだったよ。プロ目指すほどの腕じゃなかったけど、勉強より恋より、ギターが大事だったし。“あたしを最優先してくれる人の方がいい”なんて言われて、カノジョと別れる羽目になって、もう、ギターなんて辛くて弾けない、って思った時も、完全にギターを捨てることなんてできなかったし、弾いてる瞬間は辛さより楽しさが勝ってたし」
 その辺りの事情は、はからずも、咲夜も既に知っている。当時の航太郎の彼女・嶋崎から、ヒステリック気味に真相をぶちまけられたから。
 「でもさ。社会人になって、仕事覚えるのに必死で、家帰ってもギターに触る余裕ない日が何日も続くとさ。…いつの間にか、前ほど辛くなくなってたんだ。ギター弾かなくても」
 「……」
 「それが1年、2年続くとさ、ギター弾かないのが当たり前になっててさ。たまに弾いてみて、下手になったな、ってしみじみ感じちゃったりすると、むしろ…弾くのが、辛くなってたりさ」
 「……」
 「咲夜ちゃんは当たり前のようにやってるけどさ。それが人であってもモノであっても、“好き”を持続させるには、パワーが要るんだよ。距離が遠くなれば、その距離を埋めるパワーがないと、心も遠くなってしまうんだ。僕にとってのギターがそうだったみたいに」
 そのパワーを保てるのが、本当の“好き”なんじゃないの―――という考えが、一瞬、頭を過ぎった。
 言うだけなら、簡単だ。けれど、航太郎の表情を見ていたら、咲夜はそれを簡単に口にすることができなかった。
 ―――別に、ギターがどうでもいい存在になった訳じゃないんだね、きっと。今も、あの頃とほとんど変わらないレベルで“好き”で……でも、あの頃のように夢中になるには、失ったものや足りないものが多すぎるんだね。
 それは多分、自分自身の技量であったり、ギターのために割ける時間であったり、気持ちのゆとりであったりするのだろう。他に見つかった楽しいこと、大事なこと、やらなくてはいけないことと比較した時、それらを後回しにしてギターをやるだけのモチベーションが、今の航太郎にはなくなってしまった。それは、大人になれば当たり前のことだけれど―――航太郎の表情は、そんな自分を、少し寂しく思っている顔だった。
 「僕は、ギターと遠距離恋愛して、自然消滅したようなもんだから…彼女と離れたら、同じ結果になるかもしれない。もしそうなったら、絶対後悔する。わかるんだ。この人でもいい、って思える相手が他に見つかっても、いつか絶対、あの時離れていなければ、って思う日が来るって」
 「…だから、プロポーズしたいんだ?」
 失ってはいけない存在だと、本能的にわかっているから―――そう言外に意味をこめて咲夜が問うと、航太郎はきっちりと口を真一文字に結び、頷いた。
 「断られるかもしれないけど、精一杯頑張ってみようと思ってるんだ」
 「…そっか」
 いつもお気楽といったムードで、あまり物事を深刻に考える方ではなかった航太郎にとっては、これはかなりの覚悟と言っていいだろう。髪の色と長さ以外、見た目はあまり変わっていないが、やっぱり中身は成長してるんだな、と咲夜は内心感心した。
 「頑張りなよ。陰ながら応援してるから」
 ニッと笑って咲夜がそう言うと、航太郎は一瞬頷きかけ、それから慌てたように首を振った。
 「いやいやいや、そうだった、こっからが本当の本題なんだ」
 「は?」
 「陰ながら、じゃなくてさ、咲夜ちゃんに、目一杯表で応援してもらいたいことが、1つ、あるんだ」
 そういえば、そもそも航太郎は「頼みたいことがある」と言って咲夜をこの店に誘ったのだった。まだ何も頼まれてなかったことに気づいた咲夜は、改めて居ずまいを正し、何? という風に首を傾けた。
 「今日のライブ聴いちゃった後だと、ちょっと頼み難い感じもするんだけど…」
 「うん、何?」
 「…あのさ。もう1回、僕のギターで、歌ってくれないかな」
 「えっ」
 かなり、意外な「お願い」だ。なんでまた、と眉をひそめる咲夜に、航太郎は、ちょっと気まずそうに頭を掻いた。
 「今の彼女と付き合い始めたの、去年の夏だったんだけど…夏の終わり頃だったかな、初めて僕の部屋に遊びに来た時、部屋の隅っこに置いてあったギターを見つけられちゃってね。大学までギター三昧だった話したら、弾いてみせて、って随分ねだられてさ。えーと…あの時は確か、まるまる1ヶ月、ケースからギター出してすらいない状態だったかなぁ。いざ弾こうとしたら、なんか、頭真っ白になってさ」
 「うわ、」
 最悪の結果が、脳裏に浮かぶ。図星らしく、航太郎の顔も渋い表情になった。
 「フォークギターでヴァン・ヘイレン弾こうとするとか、もう、バカとしか言いようがないよね」
 「…航太郎って、エレアコもエレキも持ってたよね」
 「一般住宅でアンプつけて弾く訳にもいかないから、普段から外出してあったのが、フォークギターだったんだよ」
 「で、弾けたの?」
 「…フォークギターで、どうやってディストーション効かせろと」
 航太郎がヴァン・ヘイレンを弾いたのなら、選曲は間違いなく“Panama”だろう。イントロでいきなりディストーション効かせまくりのギターパートがある曲で、軽音部時代にしょっちゅう弾いていたからだ。あーあ、とため息をついた咲夜は、力なく首を振った。
 「ていうかさ。選曲失敗した以上に、指が曲を指が覚えてないことの方がショックだった。頭で考えないと弾けないってのが」
 「まあ…しゃーないよ。こればっかりは」
 「うん、わかってる。プロでもブランクあくとヤバイって聞くし。でも―――悔しくてさ」
 そう言うと、航太郎は落ち込んだように視線を落とした。
 「彼女は、昔からお菓子作りが好きで、実際そういう仕事に就いて、今も一流パティシエ目指して頑張ってる最中でさ。1つのこと、コツコツコツコツ、ずーっと続けてきた努力の人なんだよね。でも、僕の方は、彼女に誇れるような何かを全然持ってなくて…今までの人生で一番熱中したものだった筈のギターも、この有様だなんてさ」
 「うーん…そういうモノを持ってる人の方が、少ないんじゃない?」
 「かもしれないけど…単純に、見て欲しかったんだよ。僕が中1から大学卒業まで夢中でやってたことは、これなんだよ、ってのを。彼女と出会う前のことで、今はほとんどやってないから、余計に」
 「…そっか…」
 「で…、その場は笑って誤魔化したけど、なんか悔しいから、後で1人でこっそり弾いてみたんだ。僕の指が、どの曲覚えてるのか。そしたら―――意外だった。ずっとやってたハードロックとかヘヴィメタは、アレ? みたいな部分があったのに……スラスラ弾けたんだ」
 何を、と目で問う咲夜に、航太郎は、ちょっと感慨深そうに答えた。
 「咲夜ちゃんとストリートでやってた時の、十八番。“Summertime”と“Blue Skies”の、2曲」
 「え…」
 「ビックリだよね。でも、思い返してみたら、なんでかわかった気がした。確かに、好きでよく弾いてたのはロックなんだけど、真剣に―――遊びじゃなく“プロ”を意識して真剣に弾いてたのは、咲夜ちゃんとのストリートライブだった、って」
 「……」
 「秋頃から今まで、一応、僕なりに練習してきたけど…できることなら、咲夜ちゃんの歌も含めて、彼女に聴かせたいって思ったんだ。どっちも、プロポーズには合わない曲かもしれないけど、僕が一番真剣に取り組んでた音楽を聴いてもらって、それからプロポーズしたいんだ」
 なるほど、それで、咲夜にもう一度歌って欲しいと頼んだ訳だ。なかなかロマンチックな事情に、咲夜は口元をほころばせた。

 多分、プロポーズに歌やギターが付いていてもいなくても、彼女の答えに違いはないだろう。でも、ギターを自然消滅的に辞めてしまったことが、今も航太郎の心の重荷になっているのなら―――いや、そんなことも、正直、どうでもいい。
 要するに、もう二度と一緒に音楽をやることはないと思ってた航太郎と、またやることができる。咲夜にとっては、それだけで十分だった。

 「OK、わかった。ここはひとつ、助太刀させていただきましょ」
 咲夜がそう答えると、航太郎はやけにホッとした顔で笑った。
 「よかった! 実は、もう彼女と約束してるんだ。この週末にギター聴かせるから、って。咲夜ちゃんに断られたら、僕の下手な歌で披露する羽目になるとこだった」
 「ふーん……って、え、ちょっと待って」
 うっかり聞き流しそうになったが、今、もの凄いことを聞いた気がする。嫌な予感に、咲夜の眉が軽くひそめられた。
 「―――“この週末”?」
 大喜びの航太郎を片手で制し、咲夜が恐る恐る訊ねると、航太郎は無邪気な笑顔で答えた。
 「うん」
 「……」

 今週末のことを、金曜日に頼むか、こいつ。

 軽く引き受けすぎたかな―――咲夜は、ちょっとだけ、即答してしまったことを後悔した。

***

 『結構無謀な話だな。自信ある訳?』

 今、咲夜が考えていることをそのまま文字にしたような返信に、思わず「だよねぇ」と口に出して相槌を打ってしまった。
 ミネラルウォーターを一口飲み、慣れた手つきで携帯電話のボタンを押す。親指1本打法は一生慣れないだろうな、と思っていたが、人間、必要に迫られれば何とかなるものだ。この2ヶ月で、あまり縁のなかった携帯でのメール打ちも、すっかり板についてしまった。

 『正直、ない。でも、ギターとセッションするのも、ストリートライブやるのも、大学卒業以来のことだから、楽しみでもあるよ。キューピッド役でもあるから、まあ、精一杯頑張りましょ』

 送信。

 ふあぁ、と盛大にあくびをした咲夜は、弾みをつけて立ち上がり、半分ほどに中身の減ったペットボトルを掴んでキッチンへと向かった。
 実際、自信など皆無だ。航太郎と組んでいた時の“Summertime”のアレンジは、今、一成とやっているアレンジとはまるで違う、ヴォサノヴァのリズムに乗せたバージョンで、ノリも違うし、ギターソロ部分もまるで違う。いくら長い期間繰り返してた曲とはいえ、これだけのブランクがあると、コンビとしての勘を取り戻すのにも時間が必要な筈だ。
 計画延期も当然提案してみたが、そもそも航太郎と彼女の休日が重なる機会自体少ないらしく、日曜を逃すと次はかなり先になってしまうことがわかり、諦めた。こういうのはタイミングが肝心だ。転勤の話をしてからあまり時間を置いてしまっては、あまり意味がなくなってしまうだろう。さすがにぶっつけ本番など無茶なので、一成に頼んで“HANON”のスタジオスペースを、明日、2時間だけ借りてもらったが(勿論費用は航太郎持ちだ)、2時間で本当に大丈夫かねぇ、というのが咲夜の本音だ。
 ―――ってかさー、あいつ、ちゃんと弾けてんのかなぁ? 本当に。自分で自分の腕の落ちっぷりに愕然とするほど、下手になってたんでしょうが。特訓したって言っても、どこまで戻してるか不安だなぁ…。私がそれなりに歌いこなしたところで、航太郎本人がボロボロだったら意味ないよ。
 ううむ、と眉間に皺を寄せつつ、ペットボトルを放り込んだ冷蔵庫をバタンと閉じる。と同時に、テーブルの上に放り出してあった携帯電話が、軽やかなメール着信音を立てた。
 やけに返信が早いな、と思いつつ、受信したメールを開いてみると、そこにはこんな一文が書かれていた。

 『咲夜がキューピッドとか、似合わねー。ま、せいぜい頑張れよ』

 「……」
 軽く、ムカッときた。が、この短い一文が、咲夜には、全く別の文章に見えた。

 “ふーん、ギターセッションに、ストリートライブかー。オレ、どっちも聴いたことないなぁ。ふーんふーん、オレがいない間にそんなイベントやるんだ。しかもオレが日本に戻る頃には、そいつって大阪行っちゃってるんだ。ふーん”

 ―――はいはいはい。噂でしか聞いたことのなかった航太郎とのセッション、生で見られるチャンスを逸したのが、そんなに悔しい訳ね。
 顔が見えなくても、声が聞こえなくても、文字で相手の気持ちが感じ取れるまでに進化できるとは―――人間の脳にはまだまだ未知の潜在能力があるな、なんて考えつつ、咲夜は素早く返信を打った。

 『計画がうまくいったら、奏が日本に戻った時、航太郎呼びつけてもう1回セッションやってもらうよ』

 プロポーズなんていう人生の大事をサポートしてやるのだから、成功した暁には、大阪から自腹で飛んで来い、位のことを命令しても罰は当たらないだろう。半分本気でそう思って送信したところ、またすぐに奏からの返事が届いた。

 『おおっ! よし、頑張れ! オレも応援してやるからな!』

 「……単純……」
 愛すべき単純さに、思わず吹き出す。
 でも、無機質な液晶画面に、尻尾を振りまくっている愛犬の満面の笑みが見えてしまう辺り、自分も相当のバカかもしれない、と思った。

 ―――遠距離恋愛、かぁ…。
 更に2、3のメールのやり取りをし、「おやすみ」で締めくくった咲夜は、小さくため息をつき、背後を振り返った。
 窓際のカラーボックスの上に、アグラオネマの“レオン”と、奏から預かったサボテンの“マチルダ”が、仲良く並んでいた。その姿が、2ヶ月前までの自分と奏のように思えて、咲夜の胸はチクリと痛んだ。
 ついこの前まで、すぐ隣にいた。奏も、そして、歌も。
 そう…今、咲夜は、恋人とも歌とも遠距離恋愛中だ。だから余計、恋人と離れることに不安を抱く航太郎に、普段以上に共感してしまったのかもしれない。

 この瞬間だって、心の片隅では、咲夜も不安を抱えているから。
 すぐ隣にいた存在が、いない。そんな日々が続いたら、自分がどうなってしまうのか―――咲夜にも、わからない部分が、あるから。

 「…死ぬ気で、頑張ってみますか」
 “レオン”と“マチルダ”を見つめ、咲夜は、自分に言い聞かせるかのように、そう呟いた。


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