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― Happy Maker -2- ―

 

 「…いまひとつ、わかり難い理論だな」
 咲夜から航太郎の話を聞いて、一成は難しい顔で首を捻った。
 「プロポーズをするのに、ギターの腕前なんて関係ないだろうに。ギターが下手だと断られるとか、そういうもんでもないだろ?」
 「…藤堂さんにはわからないっすよ」
 チューニングの締めくくりに、ジャン、と短く開放弦を鳴らして、航太郎は軽く口を尖らせた。
 「藤堂さんには、ピアノがあるでしょ」
 「え?」
 「藤堂さんといえば、ピアノ。咲夜ちゃんといえば、歌。自分の生きる道はこれだー! っていうものがあって、今もそれを貫いていて、これが自分です、っていつだって自信持って示すことができるでしょ」
 「……」
 そこまで大層な物でもないと思うけど―――並列に並べられた2人は、ちょっと困ったように顔を見合わせた。
 「自分の中にある軸、っていうのかな。僕にも、確かにそれがあった筈なのに、意志の弱さとか生活の変化とか人間関係の問題とかで、気づいたら軸から思いっきりブレた人生送ってたんですよ。そのまま気づかずにいれば平気だったんだろうけど、あー、もう戻りたくてもあの頃の軸のある自分には戻れないんだなー、って気づいちゃった時の、僕のあの喪失感というか、虚無感というか……あの絶望的に物悲しい気分、ブレずに生きてる人には、わかんないだろうなぁ」
 「…よくわからないけど、ギターの腕前の問題じゃなく、航太郎君の気持ちの整理の問題なんだな?」
 詩人か哲学者のように自分の世界にどっぷり浸りまくる航太郎に、わからないなりに、一成がそう結論づけた。しっくり来るかどうかは別として、一応方向性は合っていたらしく、航太郎はうんうんと頷いた。
 「一言で言うと、けじめと自信とアイデンティティーの問題かな」
 「……」
 ―――ごめん、やっぱ、よくわかんない。
 こう見えて航太郎も、結構インテリで、かつ、感受性の強い典型的ロマンチストだ。大学時代も、時折、こういう難しいことを口にして周囲にはてなマークを量産させることがあったが、その辺は社会人になった今も変わらないらしい。
 「ま、まあ、動機や目的が何であれ、ベストパフォーマンスを披露したいって気持ちは1つな訳だから。時間もないことだし、さっさと練習、始めよ?」
 話を終わらせるように咲夜がそう言うと、一成も航太郎も「そうだな」と同意し、やっと本日の目的―――明日の本番に向けての合同練習が始まることとなった。

 ―――やっぱ、整ってんなぁ、“HANON”は…。
 マイクスタンドの高さを調整しつつ、改めて思う。
 いや、見た限りでは、他の貸しスタジオとの違いはほとんどない。けれど、音―――隣の部屋の音の遮断率は、数段ランクが違う。今、隣の部屋では、見るからにハードロックやメタルをやってそうなバンドが練習をしている筈だが、その音は全くこちらに漏れてこない。本格的な録音スタジオと同等の防音設備が整っていると考えてよさそうだ。
 考えてみれば、咲夜が“HANON”のスタジオで練習をするのも、随分久しぶりのことだ。そもそも、この練習スタジオの利用料自体が、お世辞にもリーズナブルとは言えない。一成が社員の立場を利用して便宜を図ってくれようとしたこともあったが、会社側にバレた時のことを懸念して断ってきた。それに、“HANON”の音楽教室の生徒や社会人向け講座のメンバーが優先的に使うため、空室が出ること自体少ない。最後に咲夜が利用できたのは、確か1年近く前だったように思う。
 そういう、“HANON”と無関係な人間が使えることの稀な場所を、このタイミングで偶然押さえることができたのだから、航太郎もなかなかの強運の持ち主だ。航太郎の腕前がどれほどか少々不安ではあるが、これは幸先がいいかもしれない。

 「いきなり合わせるのもキツイだろうから、とりあえず、航太郎君だけで一通り弾いてみてくれるかな」
 休日返上で練習に付き合ってくれることになった一成は、言わば、先生やコーチといった役回りだ。一成に促され、真顔で頷いた航太郎は、
 「じゃあ“Blue Skies”から…」
 と言って、ギターを持ち直した。

 数年ぶりに聴く航太郎のギターは、さすがに少々硬くなっていた。
 「Never saw the sun shining so bright, Never saw things going so right....」
 航太郎や一成には聴こえないよう、ほとんど声を出さず、ギターに合わせて歌を口ずさんでみたが、一成のピアノに合わせる時のようなビシッとはまる一体感が、どうしても足りない。
 でもそれは、航太郎が大学時代より腕が落ちたせいではないだろう。一成と航太郎は、ミュージシャンとしては正反対のタイプだ。それに、コンビを組んだ期間は2人ともほぼ同じ位だが、現在進行形と「元」とでは意味が違って当然だろう。使い慣れた枕を別の枕に変えて、新しい枕に慣れた頃、昔の枕で寝てみようとしたら、なんだか頭がフィットせずに、うまく寝付けなかった…なんて話と、どこか似ている「しっくりこない」感だ。

 一通り弾き終わると、航太郎はホッと息をつき、「どうでしょう?」とお伺いを立てるような目で一成の方を見た。
 「…うーん…」
 微妙な顔で腕組みしていた一成は、困ったように眉根を寄せた。
 「まあ、硬さはすぐ取れると思うし、腕前も心配したほど落ちてはいないけど…」
 「…けど?」
 「なんていうか―――何かが、物足りないな」
 「物足りない…」
 「1人で弾いてる分には、素人にしちゃまあまあだな、程度のことは言えると思うよ。でも、今の咲夜と組むには、ちょっと…なあ…」
 「……」
 「いくらバックと言っても、実力差があまりに開いてると、バランスが悪くなる。ギターが歌に“負け”すぎ、なんて演奏は、航太郎君だって聴かせたくないだろ?」
 「う……」
 聴かせたくないに決まっている。が、実力差はいかんともし難いと感じているのか、言葉を詰まらせるだけだった。
 「いやあの、合わせてみないことには、何とも言えないじゃん。とりあえず、1回やってみようよ」
 間を取り成すように咲夜が言うと、一成も思い直したように頷き、
 「そうだな、とりあえず合わせてみるか」
 と同意した。


 そして、30分後。


 「こらーっ! 咲夜、そこで遠慮するなっ! ギターも顔色見ながら弾くなって! 気持ちが負けてるから演奏に迷いが出るんだ、ボーカル食ってやる位の勢いで弾け!!」
 ―――い…一成先生、スパルタすぎ…。
 自分にも厳しいが他人にも厳しいストイックなミュージシャンなので、実に一成らしい反応とも言えるが、容赦なく出される厳しい指摘に、慣れていない航太郎は早くも挫折寸前だ。
 「ちょ、ちょっと一成…、仕事でもないのに気合い入れすぎじゃない? プライベートな理由のストリートライブなんだから、もっと気軽に楽しめばいいじゃん」
 さすがに見かねて咲夜が進言すると、一成はキッ、と咲夜の方を見、即座に返した。
 「音楽に仕事もプライベートもあるか。仕事以外なら適当な演奏していい、なんて思ってるのか、お前は」
 「い、いや、そんなこと思ってはいないけどさ」
 「それに、自分自身を納得させるというか、“けじめ”をつけるためのライブなんだろ? だったら、半端なレベルで済ませて、もし思ったような結果が得られなかったら、たとえライブが無関係だったとしても後悔する羽目になるんじゃないか?」
 「それは私もわかってるよ。でも、一成が求めてるのは、“コンビとしてのベストパフォーマンス”でしょ。そんなの、たった1日で、一成が納得するレベルに持ってくなんて無理だって。ライブの目的考えたら、航太郎自身が満足いく演奏できれば、それでよしと考えていいんじゃない?」
 「だったら、咲夜が一緒に歌う意味、あるか?」
 …実に、ごもっとも。涙が出るほど正論だ。歌が入って初めて成立するような楽曲を、以前やっていたスタイルのまま披露したい、という気持ちがあるからこその、「咲夜と一緒に」で「ストリートライブ」なのだ。ギターテクニックを自慢するだけのことなら、ギターソロでも部屋で弾けば済むことなのだから。
 「ごめん、咲夜ちゃん…僕のスキルが足りないせいで…」
 自分のせいで咲夜が上手く歌えずにいる、と感じたのか、航太郎は意気消沈した様子でうなだれた。そういう問題ではないのに、変に萎縮されても困る。咲夜は慌てて、両手を振って否定した。
 「いや、航太郎はちゃんと弾けてるって。そーゆーんじゃなくてさ、コンビ解消して長いし」
 「でも咲夜ちゃん、いつも藤堂さんとだけ組んでる訳じゃないじゃん。昨日だって、普段一緒にやってない人と合わせてたでしょ」
 「そりゃ、向こうはバリバリの現役プロだから、同じようにいかないのは当たり前だよ。それにギターとボーカルだけじゃ、トリオやカルテットより派手さに欠けるのは否めないしさ」
 ジャズには、ある程度の決まったパターンというのがあって、ボーカルが1コーラス歌い終えると、そこから先は各楽器のソロパートが順々に続くのが常だ。咲夜の十八番“Blue Skies”も、ピアノとベースによる前奏に続き、咲夜が歌う1コーラス、一成のピアノソロ、サビの部分でベースのソロアドリブ、最後にまたボーカルを入れて1コーラス、という、一番スタンダードな形式になっている。
 これが、航太郎との“Blue Skies”になると、ピアノやベースの見せ場である部分が、スキャットと呼ばれるアドリブの歌に変わる。いわゆる「伴奏」であるギターがソロに回ってしまうと、バックを支えるリズムパートがなくなってしまうからだ。バックなしにギター単体でソロパートを見せるには、「伴奏」としての役割も果たしつつソロとしての見せ場も作らねばならない訳で、当然、相当な腕前がいるのだ。
 「正直言うと、ちょっと構成見直した方がいい気がするんだけど…」
 30分ほど合わせた中で感じたことを率直に咲夜が告げると、航太郎も難しい顔で唸った。
 「…うーん…だよねぇ…やっぱり、無理あるのかなぁ、1日じゃあ。でも、日が経つにつれ、自信失くしちゃう気してさぁ。こういうのって勢いで持ってかないと、延ばし延ばしでタイミング逃しそうじゃない?」
 「…だねぇ。特に、航太郎は」
 タイミングを逸し、なし崩し的に遠距離恋愛に突入し、本人の懸念どおりフェードアウトした挙句、何故あの時もっと頑張れなかったんだ、と後悔するタイプだ。
 「まあ、とにかく…愚痴っててもしょーがないから、ガンガン練習しますか」
 気分を切り替えるべく、そう言って再び椅子から立ち上がった咲夜だったが、
 「―――ちょっと待った」
 途中から黙っていた一成が、突如、そう言って2人を制した。
 「? なに、一成」
 「…ちょっと、考えがある。すぐ戻るから、待ってろ」
 は? と目を丸くする2人を置いて、一成は練習スタジオを出て行ってしまった。そして3分後―――ドンドン、とドアを蹴飛ばすような音がした。
 慌てて航太郎がドアを開けると、現れたのは、大きなキーボードを抱えた一成だった。
 「えっ、どーしたの、それ」
 「せ…説明は後にして、これ、早く持ってくれ」
 よく見ると、キーボードだけで手一杯なのに、更に指3本でMDデッキらしきものを提げていた。それに気づいた途端、咲夜と航太郎の顔色が変わった。
 「ひええぇっ、ピ、ピアニストがなんて持ち方してんのっ!!」
 「キ、キーボード、僕が持ちますからっ! 咲夜ちゃん、デッキ持って!」
 慌てて駆け寄り、2人して一成から持ち物を取り上げた。全く―――自分にも他人にも厳しいくせに、こういう部分では時々無頓着だから、困った男だ。
 一成は結局、キーボードとMDデッキを、部屋の片隅にある長テーブルの上に置いた。少々低めではあるが、一応、成人男性が立って弾ける程度の高さにはなった。
 「“Summertime”は、いいと思う。ボサノバアレンジで、咲夜のスキャットも効いてるし。問題は“Blue Skies”の方だよな」
 腕まくりをしつつ、一成が「そうだろ?」と2人に目で確認を取る。当然、2人も意見は同じだ。揃って頷いてみせた。
 「だったら、リズムも一定だし、ピアノを録音して加えてやれば、上手くいくかもしれない」
 「あ…、」
 確かに、いけるかもしれない―――頭の中で、航太郎のギターに一成のピアノをプラスして再生してみて、思った。
 「シンプルなギターソロなら、今からでも作れるだろ」
 「う…っ、ま、まあ、多分…なんとか」
 ここまでされて、「できません」なんて言える筈もない。恐らく自信は皆無なのだろうが、航太郎は引きつった笑顔で、一成にそう答えた。
 ―――いいけど、あと1時間半で済む訳? その作業。
 部屋を借りている残り時間のことを思い、そんな素朴な疑問が頭を過ぎった。が、「よし、じゃあいくぞー」の掛け声に、その疑問は、口にする前に消えてしまった。

 1時間半で済む訳がないのだ。
 という当たり前のことをしみじみ実感したのは―――日も暮れ、一成が2度目の時間延長手続きを終えて戻ってきた頃だった。

 帰宅後、「練習しすぎて完全ダウン、眠くて仕方ないからもう寝る」とだけ奏にメールを打って、ベッドに倒れこんだ咲夜は、妥協を知らないミュージシャンをその気にさせてしまったことを、少しだけ後悔した。

**

 明けて、翌日。

 「咲夜ちゃーん」
 「……」
 ―――おお…、テンション高いなぁ。
 ギターケースを担いで走ってくる航太郎は、昨日の疲れなど忘れてしまったかのようなハイテンションぶりだった。
 その1歩後ろからは、思いのほか長身でボーイッシュな女性が、MDデッキを抱えて走ってきていた。事前情報から察するに、あれが航太郎の恋人だろう。大学時代の恋人であった嶋崎とは、まるで正反対のタイプだ。小動物系が好きだと以前から言っていた航太郎が、最終的に選んだのがキリンタイプとは、少々意外だ。
 「ごめんごめん、遅くなって。車停める場所探すのに手間取ってさぁ」
 「…だろうね」
 車で来るとは聞いていなかったが、考えてみれば、あんな重たいギターとMDデッキを持参したまま丸1日デートをしようと思ったら、車でないと無理だ。
 ―――だったら今日はデートやめて家から現場直行ってスケジュールにするとか、ストリートじゃなく貸しスタジオでのお披露目にするとか、色々回避方法はあるんだけど…航太郎的には却下、なんだよね。
 だって、仕事柄、2人同時に休みが取れる確率が非常に低いから、デートは外せない、ストリートライブにこだわりがあるから、ストリートも外せない、ロッカーに荷物を預ける手もあるけど、大事なギターをあんな怪しい所に置き去りにはできない―――昨晩、別れ際に聞いた航太郎の「だって」の数々を思い出し、咲夜は、駐車場探しに四苦八苦したであろう航太郎を気の毒に思うのをやめた。こだわりを捨てられない自業自得だ。
 「えーっと、この人が、僕のカノジョの、ナルミちゃん」
 航太郎に紹介され、彼女は微かに笑みを作り、「はじめまして」と挨拶した。その笑い方は、意外に小動物っぽい可愛らしい表情だった。なるほど、となんとなく納得しながら、咲夜も笑顔で「はじめまして」と応えた。
 「で、こっちが、大学の時一緒に音楽やってた仲間の、咲夜ちゃん。プロのジャズ・シンガーなんだ」
 「えっ」
 それを聞いて、彼女の目が大きく丸くなった。
 「プ、プロの方なんですか? やだ、航ちゃんの仲間って聞いてたから気軽に考えてたのに、そんな、プロの人にわざわざ…」
 「あ、いや、プロ、ってくっきりハッキリ断言できなかったりするんだけどー」
 慌てた様子の彼女に苦笑しつつ、咲夜は自虐気味に乾いた笑い声を立てた。
 「今のところ知名度ほぼゼロの、兼業シンガーなんで。だから、プロが路上ライブなんてやっていいの? とか、航太郎が密かにギャラを要求されてるんじゃないか、とか心配しないで」
 「…あ…、そう、なんだ」
 考えを見透かされてしまい、彼女は少し顔を赤らめ、あはは、と誤魔化すように笑った。
 「さて、さっそくだけど、やりますか」
 「私はいつでもOK」
 日頃からストリートパフォーマーが多く、場所取りをしようと狙っている人間も結構いる激戦区なので、いつまでもノンビリ立ち話をしている訳にはいかない。集合して早々だが、咲夜も航太郎も、即座に準備に取り掛かった。

 準備はあっという間に終わり、5分後には、MDデッキを傍らに置いた咲夜と航太郎が、彼女の目の前にスタンバイしていた。
 目的を考えると、実質、観客は彼女オンリーのようなものなのだが、人通りの多い場所なだけに、準備段階から「なんだなんだ」と興味を持った通行人が、ちらほらと足を止めていた。といっても、1ブロック先で、ジャグラーらしき路上パフォーマーが大勢の人を集めているので、そちらに流れてしまう人がほとんどだが。
 「えー、それでは、一晩限りのコンビ復活ライブ、さっそく始めさせていただきまーす」
 咲夜がそう挨拶すると、彼女から小さな拍手が贈られた。結構ノリのいい人だな、と思いつつ、咲夜も笑顔でそれに応えた。
 「訳あって2曲のみとなりますが、少しの間、お付き合い下さい。では、1曲目―――ジャズのスタンダード・ナンバーから、“Summertime”を…」

 自由なテンポでのギターソロに続き、咲夜の歌が始まった。

 「Summertime and the livin' is easy... Fish are jumpin' and the cotton is high...」

 面白い―――この曲を誰かと歌うたび、そう感じる。
 一成のピアノで歌う“Summertime”は、夜のイメージだ。1日の疲れをまだ引きずったまま、子供を寝かしつけながら歌う、子守唄……歌詞のせいもあって、そんな光景が浮かぶ。一方、航太郎と歌う“Summertime”は、昼下がり(シエスタ)―――うだるような暑さの中、木陰でのんびり休憩を取りながら口ずさむ歌を思わせる。歌詞もメロディも同じなのに、不思議なほどイメージが違う。
 うららかな午後の陽射しを感じながら、咲夜は、賑やかな夜の町に向かって“Summertime”を歌い上げた。航太郎も、昨日の練習ではイマイチ自信がなさそうだったアルペジオを、大学時代と同じ位鮮やかに弾きこなした。やっぱり、閉ざされた空間とストリートでは気分も違ってくるのだろう。のびのびと自由に演奏を楽しんでいる航太郎の様子を傍らで眺め、咲夜は少しホッとした。

 2曲目の“Blue Skies”は、MDデッキの再生ボタンと共に始まった。
 一成の力強い、軽快なバッキングに乗せて、咲夜の歌と航太郎のギターが、掛け合いのようにして青空を歌い上げていく。明るい曲調に惹かれたのか、足を止める客の数も目に見えて増えた。
 そんな中、航太郎の恋人は、時折足や肩でリズムをとりながら、少し微笑むようにしてライブを見つめていた。その視線は勿論、他の客の目が集中しがちな咲夜の方ではなく、航太郎に―――大学時代と同じように、実に楽しそうにギターをかき鳴らしている航太郎に向けられていた。
 ―――うん、なんとなく、わかった気がする。航太郎がどうして、ストリートライブをしたい、って思ったのか。
 それは、きちんと言葉にできる理由ではなくて、ものすごく個人的な―――そう、それこそ、航太郎の言うとおり「けじめと自信とアイデンティティ」の問題、なのだろう。将来を決める前に、自分の中でクリアしておきたい“何か”が、航太郎にとっては“音楽”であり“ギター”であり“ライブ”であった。ただ、それだけのことだ。
 そして、改めて考えてみれば、奏や咲夜も、航太郎と同じことを今、しているのだ。奏にとっては、自分の将来像をある程度はっきり思い描くこと、咲夜にとっては、プロのシンガーとしての足がかりを掴むことが、自分の中でクリアしておきたい“何か”―――それをクリアするために、遠く離れた場所で、それぞれにもがいているのだ。

 「Blue days, all of them gone... Nothing but blue skies from now on...」

 最後まで歌いきると同時に、いつの間にか10人以上に増えていた観客から、一斉に拍手が起こった。
 「ありがとー」
 と拍手に応えつつ、観客の笑顔を一通り見渡した咲夜は、なんとか無事ライブを終えた安堵感にホッと胸を撫で下ろした。
 バラバラと人が散らばっていく中、彼女だけは、小走りに2人のもとに駆け寄り、観客の中で一番の笑顔で改めて2人に拍手を送った。
 「2人とも凄かったぁ。あたし、ストリートライブなんて見るの初めてだったから、驚いちゃった。生の音って、凄く胸に響くね」
 「おおっ、ナルミちゃんも、そう思う?」
 嬉しそうに身を乗り出してくる航太郎に、彼女は笑顔で頷いた。
 「うん。それに、航ちゃんのギター、カッコよかった」
 「えっ」
 「今日だけの復活ライブなんて、もったいないよ。これからも時々やればいいのに。そしたらあたし、ファン1号になって追っかけやるのにさ」
 「……」
 「? どうかした?」
 驚いたような、どこか呆然とした様子の航太郎を見て、彼女は不思議そうに首を傾げた。自分が呆然としていたことに気づいていなかった航太郎は、ハッとしたように、慌てて笑顔を作った。
 「い、いや、アハハハハハ、な、なんでもないんだ、なんでも」
 「?」
 「すぐ片付けするから、ちょっとそっちで待っててくれる? 店予約してた時間まで、もうあんまり余裕ないし」
 気恥ずかしさを誤魔化すみたいに、航太郎はそう言って、彼女の腕の辺りを押して促した。よくわからない、という顔をしながらも、時間がないのは本当らしく、彼女は「じゃ、待ってるから」と言ってすぐ近くの本屋の方へと行ってしまった。
 ―――多分あの人、何も知らないんだろうなぁ…。
 今の彼女のセリフが、何故、航太郎を驚かせたのか、航太郎の過去を知っていたら、きっとすぐわかった筈だ。小動物のように可愛くて、独占欲と嫉妬心が強かった、かつての恋人―――彼女にとって、音楽は、恋敵だった。憎みこそすれ、ファンになって応援するなんて、あと何年付き合ったって無理だっただろう。
 「…いい彼女じゃん」
 彼女の後姿を見送りながら、咲夜が軽く肘で小突きながら言うと、航太郎は無言のまま、視線だけで頷いた。
 「洒落たレストランでも予約して、これから最終決戦、てなとこですか」
 「…うん。なんか、色々スッキリしたから、自信持って言える気がする」
 「そっか」
 晴れやかな笑顔になった航太郎を見て、咲夜も本心から笑顔になった。
 「じゃあ私は、早々に退散させてもらおうかな。片付けるもんないし、長居してもラブラブぶり見せ付けられるだけだし」
 「あはは…、うん、わかった。ありがと、咲夜ちゃん」
 頑張れよ、と拳を突き出して親指を立ててみせると、航太郎もそれに応えて親指を立ててみせた。ここから先は当事者以外立ち入り禁止だ。離れた場所に立つ彼女の方にも手を振ってみせてから、咲夜はその場を立ち去った。


 もしかしたらこの先、また航太郎がギターを弾くようなことも、あるのかもしれない―――駅の改札に向かってぶらぶら歩きながら、そんなことを予感して、自然と口元に笑みが浮かんだ。
 プロになるだけの情熱はもう失ったとしても、趣味としてギターを続けていくことは、できる。そしてこれからは、彼女というファンがすぐ隣にいるのだから―――きっと航太郎は、彼女を喜ばせるためにも、弾くだろう。どちらかを選ぶのではなく、自分の生活の一部として、彼女と一緒に音楽を愛していける。きっと。
 ―――でも、こんなに長い間ギターを弾く気になれなくなるほどのショックを与えるなんて、シマリスも罪作りな女だよなぁ…。まあ、あれがあったから、航太郎も今の彼女の良さがよくわかるんだろうけど。

 「―――咲夜さん」

 ふいに、背後から呼びかけられ、咲夜の足がピタリと止まった。
 条件反射的に振り返ると、そこには、気まずそうな顔をした蓮が立っていた。思ってもみなかった人物の登場に、咲夜の目が大きく見開かれた。
 「えっ、れ、蓮君?」
 「…こんばんは」
 「どーしたの、こんなとこで」
 「…いや、その、偶然…」
 ボソボソと言い難そうに答えた蓮は、詳細を曖昧にしたまま、ポツリと呟くように付け加えた。
 「驚きました。まさか、こんなとこでストリート・ライブをやってるなんて」
 「あ、見てたんだ? 今の」
 「はあ。仕事ですか?」
 「ううん、純然たるボランティア。さっきのギターの奴が、カノジョにどうしてもライブが見せたいから、ってんで、協力したの。あ、ちなみに、あのギターは大学の時のストリート・ライブの仲間ね」
 咲夜の答えに、パチパチと目を瞬いた蓮は、なるほど、と納得したように息を吐いた。
 「ああ、ライブの後話してたあの人に聴かせるための、ライブだったんだ」
 「ありゃ、そこも見てたんだ。人が悪いなぁ。見てたんなら、一言声かけてくれりゃよかったのに」
 「…そんな訳には、いかないですよ」
 彼女の正体もライブの主旨も知らないのだから、蓮がそういうのも当然だ。わかってるだろうに、と少し困ったように眉根を寄せる蓮に、咲夜は「ごめんごめん」と苦笑しながら謝っておいた。
 「蓮君は、この辺で何してたの? 買い物?」
 逆に咲夜が訊ねると、蓮はいっそう気まずそうな顔になり、首の後ろ辺りを手持ち無沙汰に掻いた。
 「まあ…そんなとこです」
 「ふーん。しかし奇遇だねぇ」
 「…あんまり気乗りしない用事だったけど、来てよかった」
 ぼそっとそう呟いた蓮は、ようやく、僅かに笑みを見せた。
 「咲夜さんの“Blue Skies”が聴けるなんて、思ってもみなかったから」
 「はは、喜んでくれて、ありがと。持つべきは熱心なファンだね」
 何の気なしにそう口にした咲夜は、ふと気になって、改めて蓮に向き直った。
 「ねえ、蓮君て、私の歌のどこが好きな訳?」
 「え?」
 「いや、あんまりそういう話、お客さんから直接聞くことなかったからさ。“Blue Skies”だって、いろんな人が歌ってるじゃん。その中で、私の“Blue Skies”を気に入ってくれる人って、私の歌のどこを評価してくれてんのかなー、って。まあ、ただの興味本位なんだけど」
 「……」
 単純なようで、結構難しい質問だ。むむむ、と眉をしかめた蓮は、10秒ほど黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
 「…幸せにしてくれるから、かな」
 「幸せ?」
 「少なくとも俺にとっては、咲夜さんの声は、幸せにしてくれる声だから」
 「???」
 よく、意味がわからない。キョトンとする咲夜に、蓮はポツリポツリと、自分で自分の言葉を整理するみたいに話した。
 「…俺、普段はあんまり、喜怒哀楽がハッキリしないタイプで、内心凄く腹立ってるのに、傍目にはそう見えなかったり、自分でもそんなに怒ってないと思ってたり…。でも、咲夜さんの歌聴いて、知らないうちに涙が出てたんです」
 そういえば―――以前、“Jonny's Club”で突然涙を流した蓮を、咲夜も思い出した。
 「涙が出たら、なんだか、自分でもよくわからなかったことが、自分の中でしっかり形になって―――凄く、楽になったんです」
 「…悲しい涙でも、楽になる訳?」
 「涙を流すのは、究極の癒し、らしいですよ。さる著名な研究者が言ってましたから」
 「へえぇ…知らなかった」
 「楽しい歌でも、悲しい歌でも、ドロドロの恨み節みたいな歌でも、咲夜さんが歌うと、感情が揺さぶられるんです。歌の内容以上に…声、かな。ドラムが、近くで弾いてる楽器の音で振動して、音を出すみたいに―――咲夜さんの声は、なんとなく、この辺を振動させるんです」
 そう言って、蓮は、自分の胸の辺りを押さえた。
 ―――心が振動して、感情を自覚できるのが……“幸せ”?
 よく、わからない。けれど―――それは、歌の意味が伝わるとか、曲の主旨が理解できるとか、そんなことより、もっと原始的な“感動”を意味している気がした。そんな“感動”を、たとえ蓮1人だったにせよ与えられるということは、ちょっと嬉しい話だ。
 「ふーん…幸せ、かぁ…。じゃ、今日の“Blue Skies”も、ちょっとは蓮君を幸せにした?」
 咲夜の言葉に、蓮は、珍しいくらいに笑顔になった。
 「ええ。ほんと、強引に抜けてきてよかっ―――…」
 と、そこで、蓮の笑顔が、一気に凍った。
 「―――…っ! しまった、バイト…!!」
 「は?」
 突如、顔色を変えた蓮は、慌てたように腕時計を見、それから、肩から落ちかけていた荷物をぐい、と引き上げた。
 「す、すみません、失礼します!」
 「えっ。あ、蓮……」
 蓮くーん、という咲夜の声は、既に改札に向かって猛ダッシュを始めた蓮の背中には、届かなかった。そして、蓮の姿は、30秒も経たないうちに、改札の向こうの人ごみの中へ消えた。
 「…はや…っ」
 さすが、バイク乗りは、スピード感が違う―――意味不明な方向に感心しつつ、咲夜は半ば呆然と蓮の後姿を見送った。

 ―――バイト行く途中だったのかな。偶然とはいえ、なんか悪いことしたな。
 …でも。
 急いでいる中でも、この声ひとつで足を止めてくれるようなファンがいるってのは…かなり、幸せなこと、かも。

 ひとり、密かに笑った咲夜だったが…心のどこかに、チクリとした痛みを感じた。


 航太郎と彼女に幸せになって欲しくて、歌った歌。そして、蓮が幸せと感じてくれた歌。
 …奏にも、聴いて欲しかった。
 誰よりも一番、幸せにしたい人に、聴いて欲しかった。

 寂しさ、という名の痛みに、咲夜はそっと、胸に手を置いた。ちょうどさっき、蓮がそうしたように。


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