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― Happy Maker -3- ―

 

 ―――何かが、違う。

 「…うーん…」
 「何、また悩んでるの?」
 少し呆れたような佐倉の声に、拓海は苛立ちを紛らわそうとするかのように、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。
 「この前は、納得のいく曲が出来た、って上機嫌だったじゃないの」
 「曲は、納得いってるんだ、曲は。でも…うーん、どうにもしっくりこないなぁ」
 「“何”が?」
 「そこが、自分でもわからないから、困る」
 ため息をつきつつ、人差し指1本で鍵盤を叩く。ポーン、という澄んだ音が、ピアノの上に置かれたワイングラスを震わせ、微かな音を立てた。
 久々の2人きりの時間だというのに、拓海の頭の半分以上は音楽で占められている。もっとも、ソファに陣取っている佐倉にしても、テーブルには仕事の資料や雑誌を広げているのだから、お互い様だが。
 一見、相手からは大いに顰蹙を買いそうな、この光景。けれど、拓海と佐倉はお互い、この距離感が心地よいと感じている。性格的には共通項の少ない2人だが、こと、自分のライフスタイルを乱されたくない、という点では、呆れるほどに似ている。そういう同士だからこそ、上手くいっている部分もあるのだろう。
 「俺自身のために、俺のこの手が、実際に鍵盤叩きながら作った曲なのに、何なんだ、この違和感は」
 「…あたしには、そういう音楽的違和感て、わかんないけど―――喩えるなら、自分に合わせて、自分でデザインして、自分で縫い上げた服なのに、いざ鏡の前で着てみたらイマイチ似合わなかった、とか、そういう感じの違和感?」
 自分の理解可能な世界に置き換えて佐倉が訊ねると、顔を上げた拓海は、少し困ったように眉をしかめた。
 「俺には逆に、そういうファッション的違和感がわからないから、イエスともノーとも答え難いぞ」
 「…そりゃ、そうね」
 生きているフィールドが違うのだから、相手の苦悩に共感し難いのも、仕方のないことだ。肩を竦めた佐倉は、
 「まあ、他の音楽でも聴いて、ちょっと気分転換してみたら?」
 と言って、傍らにあったコンポのスイッチをオンにした。
 「あ、せっかくだから、咲夜ちゃんのCD、聴かせてもらってもいい?」
 「ん? ああ、それなら、そこにあるから」
 咲夜たちが自主制作したCDを、まだ佐倉は一度も聴いていなかったのだ。スタンダード・ジャズで頭をクールダウンするのも悪くないな、と思いつつ、拓海はようやくピアノから離れた。

 『You'd be so nice to come home to... You'd be so nice by the fire...』

 スピーカーから流れる歌声に、2人して、暫し無言で聴き入る。自主制作にしては、なかなかの音質だ。
 「こうして聴くと咲夜ちゃんて、地声はアルトだけど、歌は低音よりむしろ高音がいいのよねぇ」
 「んー…そうだな…」
 咲夜の高音は、独特だ。
 低音からいきなりポンと高音に飛ぶような歌でも、驚くほど正確に、クリアに次の音を掴む。そして「鋭い」とすら感じる最初の音が、伸ばしていくうちに、微かなビブラートを伴う。曇りひとつない磨かれたフロートガラスから、繊細で、指先で触れたらパリンと割れてしまいそうなスリ板ガラスに、声の質が変わる。
 楽器に喩えるなら―――そう、多分、ピアノだ。息の強弱を伴う管楽器とも、弦の弓の摩擦を伴う弦楽器とも違う。ハンマーがピアノ線を叩く硬質な音が、響板を震わせ、余韻となって響く。この音の変化が、咲夜の高音の魅力だ。
 「ねえ。前から興味あったんだけど…叔父の欲目抜きにして、咲夜ちゃんってどうなの?」
 「どう、って?」
 「歌手として、よ。あたしは素人だから、素人でわかるレベルの上手い下手しか言えないけど、プロの目で見たら、どの程度の実力なのかな、って思って」
 「…それを、俺に訊くかねぇ」
 興味津々の目の佐倉に、拓海は振り返り、ふっと笑った。
 「言っただろ。咲夜は俺の“音楽の女神”だよ」
 「それって、イコール、才能ある、ってこと?」
 「ハ……、単に才能の有無だけなら、咲夜レベルは業界にゴロゴロ転がってるさ」
 拓海の微妙な言い回しに、佐倉の眉が僅かにひそめられる。どういう意味? と佐倉が目で問うと、拓海は苦笑を浮かべ、答えた。
 「…まだ中1だったあいつが、1度聴いただけの“Summertime”を歌った時、ダイヤモンドの原石を見つけた、って思ったよ。その直感は正しかったと思うけど、面白いのは、これだけ磨かれても、あいつの中に、いまだに“原石”のまんまの部分がある、ってことだ」
 「原石のまま…?」
 「10年も磨かれりゃあ、大抵のミュージシャンは“上手く演奏する”ことに長けてくる。咲夜は、そういうそつのなさが、何年経っても出てこない。内面がボロボロだと、声すら出なくなる。歌えないことで、余計ボロボロになっていく。磨いても磨いても、そこんとこは変わらないんだよな、あいつは」
 佐倉の表情が、少し曇った。拓海が「面白い」と評しようとも、ボロボロになった咲夜を目の当たりにしたことのある佐倉にとっては、ただの心配の種だ。
 「でも、そういう咲夜だから、普段、ああいう歌が歌えるんだろうけどな」
 「ああいう歌、って?」
 「“音楽”、だよ」
 「?」
 「“音”を、“楽”しむ―――俺の原点だ」

 拓海もかつては、咲夜と同じ“原石”だった。
 学校の、古びたアップライトピアノ。面白半分に叩いてみて、奏でられた音に胸が躍り、以来、こっそり音楽室に忍び込んでは、ラジオで聞きかじった音を鍵盤の上に紡ぐ。男がピアノなんて女々しいことをやるな、という偏見の持ち主だった父と対立し、売り言葉に買い言葉で家を飛び出した時も、隠れ家に選んだのは音楽室だった。難しい音楽理論も楽典も、拓海とは無縁だ。音を紡ぐのが楽しい―――その感情が、あの頃の拓海の唯一の原動力だった。
 けれど、いつしか、音楽は楽しいだけのものではなくなった。
 音の解釈やら、曲に込められた意味やら、色々と難しいことを考えながら鍵盤を叩くようになった。チケットの売れ行きやCDの初回プレスの枚数なんてものまで考えなければいけなくなった。音楽からかけ離れたトラブルのせいで、まともなピアノを弾けなくなったりもした。音を楽しむ―――その当たり前のことを、大人になり、プロになった拓海は、時々、忘れるようになった。
 そんな拓海が、自分の原点を見失いそうになった時、救いになったのが、咲夜の歌声だ。
 咲夜は、どんな歌も「自分の歌」に変える。本来の曲に込められた意味とは違っていても、曲から咲夜自身が感じ取った物を自分の世界に引き寄せ、日頃は胸の奥に溜め込んでいる様々な感情を、歌に乗せて解き放つ。綿花農場で働く黒人奴隷の悲哀の歌である“Summertime”も、その時々の咲夜の感情によって、穏やかな景色になったり灼熱の夏の陽射しになったりする。歌の意味にも、形式にも縛られず、ただ自分の感じた世界を、自由に歌う―――まるでそれが、生きるために呼吸するのと同じ、咲夜の本能であるかのように。
 そんな咲夜を、もっと自由に歌わせてやりたくて、拓海は咲夜というボーカリストを育て続けた。育てながら、咲夜の中にかつての自分を見つけては、「音を楽しむ」から現実の色々な事柄にシフトしてしまいそうになる自分を、少しだけ、原点へと引き戻す―――その繰り返しで、一番苦しかった時代を、拓海は乗り切ることができた。
 音楽の女神―――その言葉どおりだ。拓海にとって咲夜は、“音”を“楽”しむことの象徴なのだから。

 「…そっか…実際に自分に影響を与えた相手じゃ、欲目抜きにしても、完全にフラットな評価なんて、できる訳ないわよね」
 実際、佐倉にしても、拓海のピアノや多恵子の歌を完全なフラットな気持ちで聴くことなど不可能だ。拓海が苦笑した意味を理解し、佐倉も苦笑いを浮かべた。
 「でも、あなたにそれだけの影響を与えられるだけの魅力があるのに、どうしてなかなかメジャーになれないのかしら」
 また新たな疑問に眉をひそめる佐倉に、拓海はため息をつき、少々忌々しげに答えた。
 「…認めたくはないけど、“ジャズだから”って部分は、確かにあるかもな」
 「えっ」
 「商売となりゃ、誰だって世間にウケやすい素材に目をつけるからな。ジャズ・シンガーにも個性はあるが、ウケそうな“いかにもジャズ”な声は、咲夜とは逆の声だ。そう…例えば、多恵ちゃんみたいな」
 多恵子は、地声からして若干ハスキーで、そのハスキーボイスを圧倒的な声量と歌唱力で支えている感じの歌声だった。高音になると掠れてしまうため、あまり高音域の多い曲を好まず、逆に低音を聴かせる曲をよく歌った。咲夜の歌声が、心の琴線に触れて感情が揺さぶられるような声であるなら、多恵子はただただ上手さと迫力に圧倒させられる歌声だった。どちらがいい、という問題ではないが、確かに、佐倉レベルの一般視聴者にとっては、多恵子の黒人ゴスペルを連想させる歌声の方が、より「いかにもジャズ」な声に感じられる。
 「咲夜の声を聴いた業界人は、大抵、ポップスを歌わせたがるんだよな。J−POPがオリコンの大半を独占してる時代だから無理もないけど、あいつは、ジャズが生まれた背景やらアドリブ主体のプレイスタイルやら、全部ひっくるめてジャズを愛してるからなぁ…」
 「…そういえば、何とかいう芸能プロが咲夜ちゃんをスカウトしようと粘ってた時も、そこんとこで意思疎通ができなくて玉砕したって、一宮君が言ってたわね。あたしは咲夜ちゃんのジャズも魅力的だと思うけど、プロにとっては商品価値が乏しいのかしら」
 「いや。咲夜にぴったりな歌を1回聴かせりゃ、飛びつく業界人は確実にいるさ。ただ、あいつが得意としてるスタンダードナンバーには、あいつの高音が活かせる曲が少ないからな。あいつにピッタリなオリジナル曲でもありゃあ―――…」
 そこまで言いかけて―――拓海の表情が、変わった。

 ―――何かが、違う。
 納得して作った曲だった筈なのに、鍵盤を叩いて出てきた音が、上手く曲に馴染まない。拭いきれない違和感…何かが、違う。何かが。
 …でも、もしも。
 もしも、これが、ピアノではなく―――“声”、だったら?

 「―――…そうか…」
 拓海の口元に、不穏な笑みが浮かぶ。
 何を思いついたのか知らないが、彼の頭の大半が再び音楽で占められたことは、すぐわかる。もう、スピーカーから流れる咲夜の歌声も、半ば耳に入っていないだろう―――くすっと笑った佐倉は、何も言わず、チェック途中で放り出していた雑誌を再び手に取った。


***


 「…何か、あったのかな…」
 携帯電話に新たなメールの着信履歴がないのを見て、咲夜は思わず呟いた。
 現在、咲夜の腕時計が示す時間は、午後5時過ぎ―――かの国は、サマータイム期間中につき、朝9時だ。普段の奏なら、とっくに起床し、朝食も終えている頃だろう。
 なのに、昨日の夜、咲夜が寝る前に送ったメールに対する返信が、まだ、届いていない。
 別に、おかしな話ではない。5分以内に返信をしないと友情を疑われてしまうような世代とは違い、奏と咲夜のメールのやりとりは、至極常識的だ。時差のせいで生活の時間帯がズレているので、メールの着信に数時間気づかないことも多い。起きている間に受け取ったメールには寝るまでに返事を送るようにしているが、それが叶わないこともたまにある。第一、さほど返事が必要な内容でもないメールだったのだから、返事が来なくても不思議はないだろう。
 それでも、ちょっと気になってしまうのは、多分…日曜日の、電話のせい。


 『えっ、蓮が?』
 『そう。向こうも驚いてたけど、こっちもびっくりしたよ。たまたま選んだライブ現場に、たまたま遊びに来てた蓮君が通りかかるなんてさ。偶然てあるんだね』
 『へえ…そっか…』
 『? どうかした?』
 『あ、いや、その―――あの、さぁ…』
 『何?』
 『……い、いや、なんでもない。ただ、ちょっと―――覚悟はしてたけどさ。離れてるって、だんだん、オレの知らない咲夜が増えてくことなんだな、ってこと、今更実感しちゃって』


 ―――奏、何か言いかけてた気がしたんだけど…何だったのかな。
 なまじ毎日顔を合わせるのが当たり前な生活をしていたものだから、相手の様子のわからないもどかしさに、つい不安を覚えてしまう―――それは、奏だけでなく、咲夜だって同じだ。
 以前なら顔を見てその本音も推し量れたのに、声だけでは、奏の考えがまるで見えない。だから、返信がこない程度の些細な異変を、少し様子が変だった電話と結びつけて、変に胸がざわついてしまう。駄目だな、と、携帯電話を閉じた咲夜は、小さくため息をついた。
 と、その時、閉じたばかりの携帯電話が、咲夜の手の中でブルブル震えだした。
 「……っ、」
 まるで計ったかのようなタイミングだ。慌てて携帯を開いた咲夜は、ろくに液晶画面も確認せず、受話ボタンを押した。
 「もしもし!? 奏!?」
 思わず発した言葉に、返ってきた声は、酷く不愉快そうな声だった。
 『―――悪かったな、一宮君じゃなくて』
 「…あ…、な、なんだ、拓海か」
 『“なんだ”ぁ? なんだとは、なんだ』
 「あ、あははははは、ごめんごめん。珍しいじゃん、どーしたの?」
 冷静に考えてみたら、仕事中のこの時間に奏が電話してくるほど、奏は非常識ではない。裏を返せば、こんな時間に電話をしてくる拓海は非常識な人間、ということになるが、長年拓海と関わってきた咲夜にとっては、この程度の非常識は日常茶飯事だ。本来文句を言うべきだろうが、“なんだ”扱いしてしまったので、まあイーブンだろう。
 『まあったく……まあ、いい。咲夜、お前、今日はこの後、何か予定あるか?』
 「予定? えーと…もう1件お客さんとこ行って、会社戻ってちょっと事務処理やったら、後は帰るだけ、だけど」
 『そうか。じゃあ、帰りにちょっとうちに寄れ』
 「は? 何、急に」
 『いいから、ちょっと顔出せ。お前にとっても悪い話じゃないから』
 「…堀さんのスカウト話だったら、聞かないからね」
 咲夜にとっても悪くない話、というのだから、どうせその筋の話だろう。ため息混じりに咲夜がそう釘を刺すと、電話の向こうで、拓海が苦笑した。
 『わかってる。今日はその話じゃないから安心しろ』
 「じゃあ、何?」
 『まあいいから。とにかく顔出せよ。じゃあな』
 「え、ちょ、ちょっと、拓海!」
 拓海、という名前を呼び終わるより早く、拓海からの電話はプツリと切れ、ツー、ツー、という無愛想な音だけが返ってきた。
 ―――あ…相変わらず、一方的な奴…。
 慣れたつもりではいたが、久々だとさすがに唖然とさせられる。僅かな通話時間を表示している液晶画面を暫し見下ろした咲夜は、さっきの数倍大きなため息をつき、パチン、と携帯電話を閉じた。

***

 ピンポーン、という音から10秒後。
 「おー、開いてるから、適当に入れ」
 「……」
 アメリカが長いというのに、この無用心さ―――拓海もすっかり日本の平和ボケに馴染んでしまったらしい。
 遠慮なく玄関のドアを開けると、入ってすぐの廊下に、拓海の姿があった。手振りで「あがれ」と咲夜を促している拓海の片手には、携帯電話が握られていた。どうやら電話中だったらしく、咲夜が扉を閉めるのを確認すると、奥の部屋へと向かいながら、拓海は携帯を耳にあてた。
 「ああ、悪い、今咲夜が来たんだ。…ああ、大丈夫、スケジュールは変えなくていい。俺が責任持つから、任せとけ」
 思いがけず出てきた自分の名前に、なんだか落ち着かない気分になる。話のムードから察するに仕事絡みの話らしいので、相手は多分、マネージャーの堀だろう。
 「じゃあ、明日は10時半ってことで。…わかった。じゃ、よろしく」
 話が終わったらしく、拓海はそう締めくくり、電話を切った。
 「…今の、堀さん?」
 ソファに腰掛けつつ咲夜が訊ねると、拓海は携帯電話をスピーカーの上に置き、ちょっと疲れたように息をついた。
 「ああ。来月の仕事に、ちょっとした変更が出てな。その調整で朝からバタバタしてたんだ」
 「ふーん…マネージャーも大変だね」
 「お前、夕飯は?」
 「え? あ、ううん、まだ。でも、家に作りおきのおかずあるから、それ食べるつもり」
 「そうか。だったら、コーヒーでも飲むか?」
 「あ…それなら、私が淹れる」
 拓海にコーヒーを淹れてもらうなんて、どうにも妙な感じだ。拓海が動き出すより先に、咲夜は立ち上がり、キッチンへと小走りに向かった。
 勝手知ったる他人の家、とばかりに、咲夜がてきぱきとコーヒーの用意をしている間、拓海は、ピアノの上に散らばっていた五線紙を掻き集め、それを真剣な面持ちでチェックしていた。作曲なのか、アレンジなのか、まだ作業が完全に終わった訳ではないらしく、傍らに置いたペンを手に取り、何やら書き足したりしているようだ。
 「ところで咲夜、この先、何かライブとかの予定、入ってるか?」
 楽譜に目を落としたまま、拓海が唐突に訊ねた。
 「あー…、一応、7月頭に、セッションライブが1つ、入ってる。一成やヨッシーと一緒に3曲演奏するんだ」
 「ふうん…それ以外は?」
 「…今んとこ、ない」
 「そうか。まあ、アレだな、ジャズ・フェスタに出れなかったのが惜しかったな。2年連続で出りゃあ、相当知名度も上がっただろうに」
 そう。昨年は出場したジャズ・フェスタに、咲夜たちは参加することができなかった。といっても、予選落ちしたのではない。「予選に出られなかった」が正しい。ちょうど予選の時期が“Jonny's Club”のライブ廃止決定の時期と重なり、店のことでゴタゴタしているうちに、参加締め切りが過ぎてしまったのだ。
 「…ま、しゃーないよ。今年は九州で開催だったから、交通費考えたら出なくて正解かも」
 「ハハ…、貧乏丸出しなセリフだな」
 「誰かさんみたいにギャラいただいて出演するような立場じゃありませんから」
 拓海が肩を竦めるのと同時に、2人分のコーヒーが出来上がった。咲夜がトレーにコーヒーカップを乗せるのをチラリと見た拓海は、楽譜を再びまとめてテーブルの上に投げ出した。
 「咲夜。コーヒー飲みながらでいいから、そこの楽譜、ちょっと見ろ」
 「え?」
 「来月のライブで発表する予定の、新曲だ」
 新曲―――つまり、拓海が作曲した、オリジナル曲だ。目の色を変えた咲夜は、即、トレーを置き、無造作に投げ出された楽譜に手を伸ばした。
 明らかに拓海の手によるものとわかる、手書きの楽譜―――相変わらず、本人以外には読み難いことこの上ない書き殴り方だ。でも、パッと見た瞬間、咲夜は違和感のようなものを覚えた。
 ―――あれ? 何これ、ピアノ譜じゃない訳?
 殴り書き状態とはいえ、一見しただけで、ピアノ譜とは明らかに違うとわかる。メロディラインだけを抜き出したかのような譜面だ。疑問に思いつつも、無意識のうちにタイトルが入るべき場所に目を向けた咲夜は、その意外な内容に眉をひそめた。
 「“Non-Title”? 何、来月発表なのに、まだタイトル決まってないの?」
 「…いや。それが、タイトルだ」
 思わず顔を上げ、首を傾げる咲夜に、ピアノの前に座った拓海は、ニヤリと笑った。
 「この曲には、タイトルがない。歌にこめた想いもなければ、ストーリーもメッセージもない。あるのは―――“音楽”だけだ」
 「お…んがく…?」
 「―――ま、いい。とりあえず、1回、通して聴いてみろ」
 言うが早いか、拓海は前に向き直り、鍵盤に指を乗せたまま、軽く息をついた。
 そして―――いきなり、“それ”は、始まった。

 ピアノの硬質な音が、空気を震わせる。
 始まりは、5拍子。かと思いきや、突如4拍子が挟まり、そこから2拍子、2拍子、3拍子―――めまぐるしく拍子が変わる上に、テンポも相当速い。ヨッシーが聴いたら「こりゃ、ベーシストとして腕が鳴るな」と喜びそうなスピード感だ。
 しかし、楽譜を目で追いながら、咲夜の体は何故か、正しいリズムを無意識に刻んでいた。
 リズムとスピードに翻弄され、振り落とされても無理はない筈なのに、手足はちゃんと、曲に合わせて動く。その複雑なリズムが、むしろ心地よいほどだ。
 ―――“音楽”…“音”を、“楽”しむ、か。
 聴いていて、拓海の言わんとするところが、朧気ながら見えてきた気がする。
 情感たっぷりに歌い上げる歌がある。思いの丈をぶつけるようにして歌う歌がある。それぞれが素晴らしい音楽であり、芸術だ。咲夜自身、そうした「想いの込められた歌」は、いかにもジャズらしくて好きだし、ライブなどでも多く選曲する。
 でも、この曲―――拓海が“Non-Title”と呼んだ、この曲。そこに込められた想いがあるとしたら、それは…“音楽”、だけだ。
 この音が心地よい、このリズムが楽しい、ただそれだけの感情で奏でる音。意味もストーリーも一切無用、1音1音をただ楽しめば、それでいい。音楽とは本来、“音”を“楽”しむということなのだから。
 多分、自分が弾きたいと思った音をどんどん重ねていったら、この曲になったのだろう。それでもちゃんと1つの音楽として成り立っているところが凄い。とんでもない曲作ったな、と、咲夜は感心したように大きく息をついた。

 曲は案外短く、4分ほどで終わった。
 「…お見事」
 手を叩きながら咲夜がそう評すると、拓海は満足げに口の端をつり上げた。
 「お気に召しましたか」
 「うん。“いい曲”っていうより“凄い曲”だね。聴いてて圧倒されるし、だんだんハイになってくる。これを楽しそうに弾けちゃうとこが、やっぱプロだなぁ…」
 「まあな」
 「でもさ、曲は最高だけど、この楽譜はないよ。所々、弾いてる音と随分違ってたし、アドリブのとこ休みになってたり、逆にまるまる1ページ“アドリブ”としか書いてないとこあったりさ」
 手にしていた楽譜を掲げ、ヒラヒラさせながら咲夜がそう訴えると、拓海は涼しい顔で、当然のように答えた。
 「当たり前だ。それは、お前のための楽譜だ」
 「……」
 なんだか、今、とんでもないことを聞いた気がする。固まる咲夜をよそに、拓海は話を続けた。
 「先に言っておくけど、元々は、俺がピアノソロとして、今みたいな感じで弾くつもりで作った曲だからな。人間が歌うことを前提にしてないから、相当無理な部分もある。一応、ブレスとか考慮してボーカル用にアレンジしてあるけど、歌ってみて物理的に不可能なら、早めに申告しろよ。手直しするから」
 「…ちょ…っ、と、」
 「ああ、それと、当然歌詞はないから。全編スキャットでいけ。お前、アドリブのスキャット得意だから、好き勝手やっていいぞ」
 「ちょっと、待って!」
 放っておいたら、このまま、説明もなく話が進められてしまいそうだ。大声で拓海を制した咲夜は、大きく深呼吸をしてから、恐る恐る、訊ねた。
 「…あの、まさかとは思うけど…今のアレを、私に歌えと?」
 「アレンジは違うけどな」
 「でも、今の曲で、楽譜はこれ、なんだよね?」
 「ああ」
 「…さっき拓海、来月のライブで、この曲発表するとか言ってなかったっけ」
 「言ったよ」
 「だったら、なんで今更、ボーカルありバージョンなんか別途で作ってんの?」
 「バカ、ボーカルありバージョンじゃないぞ。今弾いたのが未完成曲、咲夜のボーカル入れたのが完成曲だ」
 何言ってんだ、とでも言いたげな口調の拓海に、咲夜は思わず立ち上がり、叫んだ。
 「はあっ!? てことは、ま、まさか…」
 「来月のライブでは、当然、お前も一緒にステージに立ってもらう。ああ、正式な依頼は、改めて堀が書類作るから」
 「む、無茶言わないでよ! こんな複雑な曲、今日聴いて来月なんて…」
 「大丈夫大丈夫、お前なら歌える。音域も一応お前の声域の範疇だし、変拍子も今の様子じゃなんとかなりそうだろ」
 「でも…!」
 「歌ってくれ」
 思いがけず真摯で強い口調に、咲夜も思わず、反論の言葉を飲み込んだ。
 「トランペットでもサックスでもギターでもなく、お前の声だからこそ、この曲の意味があるんだ。俺と同じ音楽性を持っていて、ピアノでは出し切れない伸びのある高音が出せる咲夜だからこそ…」
 「……」
 「こだわって作った曲なんだ。変な妥協はしたくない。いくらピアノソロでほぼ完成してるといっても、ボーカルバージョンを諦めたくないんだよ」
 ―――そ…それは、わかる、けど。
 曲を作った人間が、より目指した音楽に近づけるため妥協はしたくない、と考えるのは当然だ。そのこだわりのポイントが自分の声である、と言われたら、正直、悪い気はしない。本当なら、二つ返事で引き受けたい話だ。
 でも、それは飽くまで「普通の曲なら」という前提だ。今聴いたあの曲は、咲夜の中の「普通」レベルを大きく逸脱している。ただ歌うだけならまだしも、金を払って聴きに来る客に披露できるレベル、となったら、来月中なんて無理としか思えない。
 「…せめて7月なら…来月なんて、いくらなんでも間に合わないよ」
 もう一度、咲夜がそう言って難色を示すと、拓海は咲夜の頭にポンと手を乗せ、真正面から咲夜の目を見据えた。
 「大丈夫だ。間に合わなかった場合のことも、一応考えてはあるから、心配するな」
 「……」
 「お前は、俺と同じ、“音楽”でハッピーになれる人間だ。この曲は絶対、今、お前が必要としてる曲だって保障する。俺のためだけじゃなく、お前自身のためにも、歌ってくれ」

 今、自分に、必要な曲。

 何故だろう。何故か―――その言葉だけが、妙に印象に残った。

***

 「…参ったなぁ…」
 エレベーターの扉が閉まると同時に、思わずため息をついてしまった。
 咲夜の手には、来た時には持っていなかった筈の、大きめの茶封筒が1つ―――中に入っているのは、拓海の手書きの楽譜と、ピアノバージョンの“Non-Title”が収録されたMD1枚。そして、随分前に拓海に返却した筈の、拓海の部屋の合鍵だ。

 『来週1週間、西日本でライブが2本あるんで、留守にする。その間、好き勝手使ってくれていいぞ。戻ってきたら、その時点でどの程度歌いこなせるようになったか聴かせてもらうから』

 そう。結局咲夜は、拓海の強引な依頼を承諾してしまったのだ。
 勿論、“Jonny's Club”が終わってからこのかた、ライブに飢えている咲夜にとっては、拓海からの依頼は願ってもない話でもある。参ったな、と言いつつも、心の半分を期待感や嬉しさが占めているのも事実だ。
 けれど、あの曲―――タイトルも歌詞もない歌。普段歌うジャズなら、人恋しさや裏切りの苦しさ、愛や情や未練などを感じながら歌うことができるが、あの歌は一体、何を思い、何を考えながら歌えばいいのだろう? あるのは“音楽”だけだと、拓海は言った。ならば、“音”の“楽”しさを感じながら、ただただ純粋に楽しんで歌えばいいのだろうか? もしそうだとしたら…あの複雑な曲を、果たして、たった1ヶ月で楽しんで歌えるまでになれるだろうか。…かなり、不安だ。
 即答したのは、間違いだったかもしれない。早まったかな、と少々後悔している部分も確かにある。でも―――…。
 「…今の私に、必要な曲、か」
 拓海がどういう意味で言ったのかは、定かではないけれど―――その意味を知るために、歌ってみたいと思った。
 まるで呼吸をするかのように自由に、軽やかに、楽しそうにあの曲を弾いていた拓海を見て、自分もあんな風にあの曲を歌えたら、今まで見えなかった境地が見えるかもしれない、と思ったのだ。
 ―――まあ、そのための時間が1ヶ月ほどしかないんじゃ、見える筈の境地が見えるかどうか怪しかったりするんだけどさ。
 再びついた大きなため息に、1階に到着したことを告げる明るいチャイムの音が重なった。その音が、悩んでいる暇があったらとりあえず前に進め、と言っているように聞こえた。
 幾分気をとり直し、エレベーターを降りたちょうどその時、バッグの中から、軽やかな着信音が流れてきた。
 「……!」
 メールではなく、電話の着信音だ。封筒を抱え直した咲夜は、急いでバッグから携帯電話を取り出し、開いた。
 液晶画面に表示されていたのは、“Sou-2”の文字―――奏がイギリスで契約した方の携帯電話の番号だ。エントランスの片隅に小走りに駆け寄った咲夜は、一歩外の雑踏に背を向けるようにして受話ボタンを押した。
 「もしもし」
 『あ……咲夜? オレだけど』
 なんだか、いつもより少しだけ、遠慮気味な声だ。それでも、連絡があったことに安堵し、咲夜はほっと息をついた。
 「うん。どしたの、こんな時間に」
 『…ごめん。実は、ついさっき起きた』
 「は!?」
 思わず腕時計を確かめ、頭の中でそこから8時間引き算すると、答えは真昼間の午後11時半過ぎと出た。
 「えぇ、ちょっと、仕事は? 大丈夫?」
 『不幸中の幸いで、今日はたまたま仕事ないんだけど…あー、失敗した。二日酔いでぐったりだよ』
 「でも、珍しいね。どうしちゃったの?」
 咲夜が訊ねると、何故か一瞬、返答まで間が空いた。
 『…ん…昨日、ちょっとヘコむことあってさ…それでつい、飲みすぎた』
 「あらら…。何、仕事か何かで?」
 『まあ、そんなとこ。偶然、古い知り合いに会ってさ。結構辛辣なこと言われちゃって―――でも、自覚してた部分あったから、あんだけ荒れたのかもなぁ。認めたくないけど』
 「そんなに荒れるほどのことって、一体何言われたの」
 『…それは、今は、ちょっと』
 少し困ったような奏の声に、咲夜の眉が僅かに上がった。
 「ふーん…私に言えないような内容なんだ?」
 『いや、そうじゃないって! そうじゃない、けど…なんか、今、咲夜に愚痴ったら、オレ、とことん自己嫌悪に陥りそうで』
 「自己嫌悪?」
 『…痛いとこ突かれて、まともな反論もできなくて、彼女に愚痴って慰めてもらうなんてさ。格好悪すぎだろ』
 「……」
 確かに格好よくはないかもしれないが、格好を気にして格好つけるのは、もっと格好悪い気もする。でも、今の奏は、咲夜がそう言ったところで素直に話したりはしないだろう。落ち込んだ様子の声に、頑なな硬い部分があるのを、何となく感じる。
 誰に何を言われたのか、気にならないと言ったら嘘になる。けれど、咲夜に話すことで奏が余計自己嫌悪になるのなら、今は聞かない方がいいだろう。
 「…まあ、何があったか知らないけど、無茶もほどほどにね。奏、あんまりお酒強くないし」
 咲夜が軽い口調でそう言うと、電話の向こうの気配がホッと緩んだ。
 『わかってる。あ…、そうそう、メールの返事出せなくて、悪かったな』
 「別にいいよ。ストリート・ライブの話をしちゃった手前、結果報告しといた方がいいかな、って思っただけだから」
 『しっかし、もう両方の親に挨拶したとか、展開速いな』
 「ねー、私もビックリした。転勤っていうリミットがあるから、こっちにいるうちに進めるだけ進めなきゃ、ってことなのかなぁ」
 そんなやり取りが、突如、甲高い笑い声で遮られた。
 「!!」
 ギョッとして振り返ると、マンションの住人だろうか、30代半ばから40代前半といった風情の男女が、エレベーターに向かって歩いていた。今、突然割って入った笑い声は、どうやらその女性の方が発した声だったらしい。
 『あれ、もしかして、まだ外か?』
 奏にも今の笑い声は聞こえてしまったらしい。顔を引きつらせた咲夜は、まだ大声で何かを話しているカップルから遠ざかるように、ジリジリと移動した。
 「う、うん、仕事帰りにちょっと寄り道したんで、今帰ってる途中なんだ」
 『そっか。スゲー声だな、今の人』
 「…酔っ払いかな。ごめん、うるさくて」
 『いや。あ…、郁がそろそろ出かけるんで、昼飯食わないと』
 「あ、時田さん、いるんだ」
 『いるいる。電話する前、さんざん冷やかされて参ったよ。…でも、電話してよかった。咲夜の声聞いたら、ちょっと気が晴れた』
 しみじみと噛み締めるような奏の口調に、咲夜の口元にも笑みが浮かんだ。
 「残念ながら、二日酔いまでは治してあげらんないけどね」
 『ハハハ。じゃあな。気をつけて帰れよ』
 「うん。またね」
 咲夜の返事を受けて、珍しく、奏の方から電話を切った。興味津々の時田さんの視線でも気にしたのかな―――そんな想像にくすっと笑い、咲夜も電話を切った。

 ―――本当は、さ。
 本当は、拓海からの依頼のこと、ちょっと、話したかったんだけどさ。

 でも……落ち込んでいる様子の奏には、言えなかった。今、そんな話を聞いたら―――奏が、チャンスも義務も放り出して、日本に戻ってきてしまいそうで。

 嘘をついた訳でも、隠した訳でもない。
 けれど、なんとなく―――奏に秘密を持ってしまったような後ろめたさを、咲夜は感じた。


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