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― Stranger -1- ―

 

 他人の恋愛ごとに、これほど共感することも、珍しいかもしれない。

 『あの雰囲気だと、歌もギターも元々関係なさそーな気がするけどさ。ま、失敗するよりはいい出来の方が航太郎も弾みがつくだろうし。とりあえず、一応納得のいく出来で、ホッとした』
 「ふーん…そっか。よかったな」
 一度も会ったことのない、航太郎とかいう名の、咲夜の大学の同期。彼の気持ちが、我が事のようにわかる。だから、是非とも上手くいって欲しいと、切に願う。
 けれど、我が事のようにわかるからこそ、自分と比較して気持ちを尖らせてしまう部分も、ちょっと……いや、かなり、ある。こっちは東京とロンドンだぞ、それに比べたら東京大阪間なんて隣近所だろ、その程度でガタガタぬかすな―――情けないけれど、それもまた、奏の本音だ。
 「でも、惜しいよなぁ。いや、ストリートにこだわってたってことは、一応理解してるけどさ。でも、藤堂が徹底的にこだわって作ったセッションなんだろ? だったら、小さくてもいいから、ライブ会場で客入れてじっくり聴かせたかったんじゃねぇ?」
 『うーん…まあ、ねぇ。ストリートはライバルと客を取り合いになっちゃうし、時間帯とか場所が悪いと、最悪、観客数が片手にも満たなかったりするし…』
 と言ったところで、電話の向こうの咲夜が、「あ」と短い声を上げた。
 『そうそう、忘れてた。ちょっとびっくりなことがあったんだよ』
 「びっくり?」
 『なんと。観客の中に、蓮君がいたの』
 バドワイザーの小瓶を弄んでいた奏の手が、一瞬、ピタリと止まった。
 「えっ…、蓮が?」
 『そう。向こうも驚いてたけど、こっちもびっくりしたよ。たまたま選んだライブ現場に、たまたま遊びに来てた蓮君が通りかかるなんてさ。偶然てあるんだね』
 「へえ…そっか…」
 『? どうかした?』
 奏の微妙な空気は、電話を通しても咲夜に通じてしまったらしい。怪訝そうな声に、奏は曖昧な口調で返した。
 「あ、いや、その―――あの、さぁ…」

 ―――それ、本当に、偶然か? だって、あいつ……。

 蓮の立場や性格を考えれば、偶然であることは、疑いようもないのに―――思わず口にしてしまいそうになった言葉に、一瞬の後、吐き気がした。自己嫌悪を紛らすかのように、奏は小瓶を少々乱暴に傍らに置いた。
 「い、いや、なんでもない。ただ、ちょっと―――覚悟はしてたけどさ。離れてるって、だんだん、オレの知らない咲夜が増えてくことなんだな、ってこと、今更実感しちゃって」
 誤魔化しと呼ぶには、随分と本音丸出しなセリフだ。電話の向こうで、咲夜がくすっと笑った。
 『…何言ってんの。そもそも、このアパートで出会うまでの20年以上分、私の知らない奏も、奏の知らない私もいるじゃん』
 「そりゃそうだけど…」
 『それに、今のセリフ、そっくりそのまま、私にも言えるんだよ?』
 …全くだ。奏からは見えない咲夜がいるように、咲夜からは見えない奏がいる。リアルタイムでお互いの身に起きたことを共有できないもどかしさは、奏も咲夜も同じだ。なのに、つい自分ばかり不安な立場に立たされているような気になってしまうなんて、お世辞にも男らしいとは言い難い。カッコ悪いなぁ、と、思わず髪を掻き毟った。
 『…ロンドンが、横浜辺りあったら、よかったのにな』
 結構本気で呟いた一言は、咲夜に随分とウケてしまった。楽しそうな笑い声を聞きつつ、ますますカッコ悪いなぁ、と思った。

***

 「オレ、こっち来てから、性格悪くなったかも」
 「え?」
 息子の自己嫌悪ぶりに、千里はティーカップを置きつつ、僅かに眉をひそめた。
 「私にはそうは見えないけど、どの辺が?」
 「うーん…例えば、咲夜の大学時代の同期が遠距離恋愛になるって話聞いても、いくら遠距離でもオレよりマシじゃん、て思ったりさ。累とカレンが仲いいのは、兄貴としてまあ嬉しくはあるけど、心のどっかでイラッとしてる部分があったりとか」
 「…なるほどねぇ」
 大いに納得がいった、という風に一度頷くと、千里は一言、言い放った。
 「それは、性格悪くなったっていうより、ただの欲求不満ね」
 「……」
 「ダイエットで苦しんでる最中に、目の前で自分の好物をたらふく食べられたりしたら、どんなに性格のいい人でもムッとして当然でしょ。財布の中に1円しか残ってない人から見れば、今月はもう外食できない、って愚痴ってる人なんて贅沢にしか見えないだろうし。別に心が狭い訳でも人間が出来てない訳でもないわ。不満を刺激された時の、人間の至極当たり前な反応よ」
 「当然の反応だとしても、心の広さや器のでかさは、無関係じゃないだろ」
 千里の言葉に、奏は軽く口を尖らせた。
 「人間の出来てる奴とそうじゃない奴とじゃ、耐えられる刺激の量が違うだろ。…なんか、元々大してでかくもなかった器が、こっち来てからどんどん小さくなってってる気ぃする」
 「それだけストレスを抱えてるってことよ。もうちょっとストレス解消に努めてみたら?」
 ポン、と奏の肩を叩いた千里は、自分の分の紅茶もテーブルに置き、やっと奏の向かいに座った。
 普段ならこの時間帯は、千里も仕事で家を空けているのだが、今日は勤め先の学校が創立記念日とやらで休みらしい。父も累もカレンもいない実家というのは随分珍しいので、少し落ち着かない気分を奏は味わっていた。
 「それにしても、面白いわねぇ」
 カチャカチャ、というスプーンを動かす音に乗って、千里がどこか感心したような口調で、そんなことを呟いた。
 「何が?」
 「奏よ」
 「オレ?」
 「気づかない? 面白いこと言ってるって」
 面白いことを言った覚えなど、まるでない。ポカンとした顔を奏が返すと、千里は苦笑し、スプーンを置いた。
 「奏。あなたの国籍は、どこ?」
 「…イギリスだけど」
 「そうよね。奏はイギリス人―――なのに、あなたさっき、“こっちに来てから”って言ったのよ? しかも、2回も」
 「……」
 「…奏にとってイギリスは、“帰る”所じゃなく“来る”所なのね。今は」
 完全に、無意識だった。バツの悪さに、奏は軽く咳払いをし、紅茶に口をつけた。
 実際、イギリスで知人友人に再会した際、奏は自分が今イギリスに居ることについて“come back”と言った回数は、ほぼゼロだと思う。逆に、半年後には日本に行くことについては、大抵“go back”と説明している気がする。奏の基準点は、無意識のうちに、既に日本にあるらしい。
 「まあ、元々奏は、英語より日本語が得意だし、小中学校で日本に馴染みすぎちゃって、帰国してからもお友達に頼んでお笑い番組の録画テープを送ってもらってた位だから、最初から日本に縁があったのかもしれないわね」
 「…つか、家での会話の99パーセントが日本語で、DNAも日英半々なんだから、生まれた時から縁あって当然だろ」
 「あはは、そりゃそうね。淳也がイギリス人だからイギリス人ってことになっちゃったけど、ほんの少し状況が違っていれば、日本人として生まれてた可能性もあったんだものね」
 確かに、そのとおりだ。1年の大半をロンドンで過ごしている時田だが、今も国籍は日本のまま―――もし、奏と累が時田の子供になっていれば、2人は日本人になっていた筈なのだ。たとえ日本の土を一度も踏んだ事がなかったとしても。
 「母さんは、イギリス国籍取得したんだよな、確か」
 「そう。結婚したら勝手にイギリス国籍になるかと思ってたけど、違ってたのよね。在住期間が条件満たしてから、自分で申請したのよ」
 「日本国籍のままじゃ、まずかった訳?」
 「まずくはないけど、生活の実態のない国より、実際に暮らしている国の方の参政権が欲しいじゃない? 日本は二重国籍を認めていないから、イギリスの国籍を取れば、自動的に日本の国籍は失われるの」
 「そっか…国際結婚って、そーゆーのも考えないといけないんだよな。うーん…」
 全く考えていなかった訳ではなかったが、改めてそういう話を聞くと、同じ国同士では発生しない問題が発生するのだということを再認識させられてしまう。仕事の面でも違いがあるだろうし、一度じっくり調べてみなくては―――真剣な面持ちでそう考えた奏は、ふと、母の視線に気づき、テーブルの1点から目を上げた。
 千里は、実に楽しそうな顔で、ニヤニヤ笑いながら奏を眺めていた。
 「…何だよ」
 「ん? いいえ、別に何でも〜?」
 「なんなんだよっ。気になるだろっ」
 「ふふふ、本当に何でもないわよ? ただ、真剣なんだなぁ、って思っただけで」
 「は?」
 「前言撤回。奏が日本に縁があるとかないとか、そんなの関係ないわね。咲夜さんがいる所が、あなたが帰る所―――ただそれだけのことなんだもの」
 「……」
 咲夜がいる所が―――確かに、そうかもしれない。
 隣に咲夜がいて、窓を開ければあの歌声が聴こえる毎日―――窓越しに下らない話に花を咲かせたり、喧嘩をしてそっぽを向いても壁1枚隔てた向こうの気配に一喜一憂してしまったり……互いの体温を感じながら眠ったりできるのが、当たり前の毎日。そこが東京だろうがロンドンだろうが宇宙の果てだろうが、あれが、今の奏の居場所。奏が帰りたい場所だ。

 家族もいて、友達もいて……なのに、日々感じるのは、安堵より孤独の方が大きい。何故なのかは、自分でもわからないけれど。
 帰りたい―――その思いが湧き上がるたび、言い知れぬ焦りが、胸の奥に生まれてくる。
 …帰れない。誰に強制された訳でもなく、自分自身で選んだ道だからこそ、帰る訳にはいかない。このままでは。黒川に対して恩知らずな真似をして、仲間にたくさんの迷惑をかけ、咲夜にあんな苦しい思いをさせてまで、この道を選んだのだから―――それを補って余りある成果を手にしなくては、帰れない。

 ロンドンに来て、2ヶ月あまり。
 奏は密かに、焦りを感じ始めていた。

***

 「香水?」
 「そう。8月発売予定のね」
 “VITT”本社の長い廊下を歩きながら、広報担当者から手渡されたのは、香水のボトルの写真が入ったレジュメだった。
 「うちじゃ初めてのオリジナル香水だから、担当部門も結構ピリピリしてるよ。宣伝に関しても突き上げが厳しくて参るね」
 「へぇ…、服以外にも色々やり出したんだなぁ。女性用?」
 「いや、ユニセックスで使えるタイプ。だから、モデル選考がなかなか難かしかったよ。奏が現役でやってりゃあ、一発で採用だったのに」
 シグという名のこの“VITT”広報担当者は、奏が専属モデルをやっていた時からの知り合いでもある。確かに自分向きな案件だな、と、以前やったMP3プレーヤーの仕事を思い出し、奏はシグに苦笑を返した。
 今から行われるのは、2日後のポスター撮影を前にした最終打ち合わせというやつで、カメラマンは勿論のこと、ヘアメイク、メイク、スタイリストなどの担当者も一堂に会する。こんなギリギリの時期だというのに、奏がこの仕事についてほとんど何も知らないのには、実は訳がある。本来、この仕事は他のメイクアップアーティストに既に依頼が回っていたのだが、予算面のイザコザが発生して、急遽、奏に仕事が回ってきてしまったのだ。当然、カメラマンやモデルとも、これが初対面だ。
 「で、結局、男女どっちに決まった?」
 「女性で、衣装がメンズスーツ」
 「…なるほど」
 それは少々、素材によってはメイクが面倒かもしれない。想定外の設定に、奏は僅かに眉根を寄せた。

 奏たちが会議室に入ると、ヘアメイクとアートディレクターが既に顔を揃えていた。ジャンルが似通っていることもあり、奏は自然と、ヘアメイクの隣に座ることになった。
 ようやく、腰を落ち着けて資料を読むことができるようになり、奏は、シグから受け取ったレジュメにざっと目を通した。そして、2枚目に書かれたスタッフ名簿の中に、意外な人物の名前を見つけて、思わず目を丸くした。
 「…アディリナ・ゲイル…?」
 無意識のうちに奏が呟くのと同時に、会議室のドアが開く音がした。
 反射的に顔を上げると、今、奏がその名前を呟いたばかりの人物が、まさにその場に立っていた。そして、自分の方を見て呆けている様子の奏を見つけ、少し驚いたように眉を上げた。
 奏が知っていた頃より随分短くなった、銀色の髪。けれど、顔立ちは当時とあまり変わっていない。あえて言うなら、元々クールな印象だった外見が、より鋭く、より洗練された感じになったかもしれない。間違いない、アディリナ・ゲイル―――あの“アディ”だ。
 奏がこの場にいる意味がわからないのか、アディは困惑した様子で、部屋の中をキョロキョロと見回した。そして、どうやらモデルの1人としている訳ではないことを理解すると、ますます訳がわからないといった顔で、マネージャーと共に会議室の一角に腰を下ろした。
 ―――まあ、自分1人しかモデルのいない仕事で、後輩モデルがいきなりミーティングに加わってりゃあ、ああいう顔するのも当然だよな。
 アディの困惑も、当然のことだ。けれど、奏の方も、アディほどではないものの、かなり驚いていた。何故なら、奏の知るアディは、奏が22歳前後の頃から、活動拠点をパリに移していたからだ。
 彼女がロンドンからパリへ移った理由を知っているからこそ、奏は不思議でならなかった。
 何故―――何があって、彼女は、ロンドンに戻ってきたのだろう?

***

 ミーティングは、大した波乱もなく、スムーズに終わった。

 「奏!」
 来るだろうな、と思っていたら、案の定、会議室を出てすぐに呼び止められた。小走りに駆け寄ってきたアディは、マネージャーを先に帰したのか、1人きりのようだ。
 「どういうことなの? 奏がメイクをやってるなんて」
 奏の目の前に立つなり、アディはさっそく、どこか不満気に疑問をぶつけてきた。挨拶もそっちのけでいきなり本題かよ、と苦笑したが、きっとそれだけ驚きが大きかったのだろう。
 「メイクアップアーティストに転職したんだ」
 「一体、いつから?」
 「ええと…この夏で、3年目かな。メイク1本でやるようになったのは、この春からだけど」
 「1本、って…じゃあ、モデルは?」
 「辞めた」
 アディの目が、大きく見開かれる。信じられない、とでも言うように。
 「まさか」
 「いや、ほんとに」
 「どうして? “Frosty Beauty”の評価は、イギリス以外でも高かったのに」
 アディがそう思うのも、無理はない。彼女の知る奏は、飽くまでも“Frosty Beauty”としてカメラの前に立ち、傍目にはそのことに満足しているように見えていた奏だけなのだから。
 「…一言では説明できないよ。立ち話も何だから、隣のカフェ行く? オレも、そっちの話、聞きたいし」
 奏が促すと、アディもその提案に頷いた。


 アディリナ・ゲイル、通称“アディ”は、奏が尊敬するモデルの1人である。
 奏がモデルデビューをした18歳の時、アディは既に活躍中のモデルだった。知的でクールな容姿のため、主に教養番組やニュース関連の仕事などのオファーも多かったそうだが、モデルという仕事にこだわりを持っている彼女は、全て断っていたという。故に、ファッション業界での知名度は高かったものの、いわゆる芸能人的な知名度はあまり高くはなかった。ある意味、佐倉と似たタイプのモデルと言えるだろう。
 奏は、彼女とは事務所も異なっていたが、同じファッションショーに出たのがきっかけで、知り合いになった。芸能志向な若手が多い中、飽くまでファッション業界でやっていきたいという奏を、アディはいたく気に入ってくれたようだ。先輩面をして面倒を見るような真似はしなかったが、業界人とのパーティーにさりげなく呼んでくれたり、自分が出るショーに招待してくれたりした。
 勿論、いいことばかりではなく、アディの辛辣な指摘に奏が反発したり、奏の遠慮ない態度にアディが怒り出したりと、色々あったのも事実だ。けれど、知り合ってからの1年半あまりの間、奏にとってアディは、最も尊敬でき、かつ、最も信頼できる先輩モデルだった。
 ところが、奏が22歳の誕生日を迎える頃、アディは突如、活動拠点をパリに移した。
 世界レベルで見た時、ロンドンのファッション業界は、到底、最先端を走っているとは言えない―――それが、アディの主張。30歳までのカウントダウンが迫る中、自分の実力を世界で試したい、と考えたアディは、イギリスのファッション業界に見切りをつけ、世界の最先端であるパリへ移った。
 当然、奏は、大いに反発した。そもそも、国毎のファッションに優劣をつけること自体、奏は好きではない。ロンドン発のブランドであっても、パリやミラノに負けない、斬新で機能美にあふれたファッションはいくらでもある。アジアのデザイナーが欧米で評価されることもある。アディの意見は、奏が一番嫌う類の理論だった。
 けれど、パリには、ファッション業界のビッグネームが名を連ねているのも、また事実だ。そのうちの1つから、専属にならないか、との声がかかっているのだと聞かされれば、納得せざるを得ない。軽い口論はあったものの、奏も最終的には、先輩のビッグチャンスを笑顔で祝ってやったのだった。
 以降、奏がアディと個人的に会う機会は、一度もなかった。日々目にする雑誌やテレビ、ポスターといったもので、彼女の活躍を知るだけだった。
 だからこそ、不思議でならない。何故、アディが―――ロンドンのファッションに見切りをつけた筈のアディが、今、ロンドンにいるのか。


 「アディは、いつからこっちに?」
 適当な飲み物を手に、カフェの一角に腰を下ろすなり、まず奏の方から質問を切り出した。
 以前は腰まであった髪をバッサリと思い切りの良いショートにしたアディは、その短い髪を掻き上げつつ、そうねぇ、と軽く天井を仰いだ。
 「2年ほど前かしら。専属契約していた所との契約が切れたのを機に、戻ってきたの」
 「なんでまた…。世界のトップレベルの仕事はパリでないと、って言ってたのに」
 「…まあ、色々あったのよ。それに、人間、年齢を重なれば考え方も少しは変わるわ」
 「ふぅん…。“VITT”の仕事を受けたってことは、今は専属とかやってない訳?」
 「ええ、今のところ、ね。先のことはわからないけど、別に専属にこだわらないで、色々やってみたいのよ」
 「…変われば変わるもんだなぁ…」
 先のことはわからない、なんて、昔のアディなら絶対に口にしなかった類のセリフだ。志の高さ故に、付き合いにくい、と仲間内では倦厭されがちだったアディだが、今は少し状況が違っているのかもしれない。
 「で? そっちは? 一体何があって、モデルを辞める羽目になった訳?」
 少し身を乗り出すようにして訊ねるアディに、奏は苦笑し、肩を竦めた。
 「辞める羽目になった訳じゃないよ。オレ自身の意思で辞めたんだ」

 それから奏は、アディの知らない間に自分の身に起きた出来事について、簡単に説明した。
 “Frosty Beauty”という虚構のキャラクターにずっと疑問を感じていたこと、けれど具体的な行動が取れず苛立っていたこと。そして、瑞樹との出会い―――人形ではなく人間を撮ってやる、という彼と仕事をしたことで、本来やりたかった仕事に気づき、事務所を辞めてフリーになったこと。事務所との確執でロンドンでは仕事がやり難くなったこと。そんな中、日本で行った“Clump Clan”のファッションショーがきっかけで、佐倉の事務所と契約をしたこと。
 勿論、黒川のことも説明しなくてはいけなかった。ケンジ・クロカワの名は、欧米でも知られているので、アディもすぐに、あのクロカワのことか、と理解してくれた。モデルの仕事を一生続けるのは難しいと感じていたこと、メイクやスタイリストといったスタッフサイドの仕事に興味を持ち始めたこと、日本で参加した黒川のセミナーをきっかけに、“Studio K.K.”で働くことになったこと―――約2年半にわたる二足のわらじ生活の詳細は省いたが、だいたいそんなことを話して聞かせた。

 「早く技術者として独り立ちしたいから、デビュー10年にあたる28の誕生日でモデルの仕事は辞める予定だったんだけど、ちょっと大口の仕事が入って、集大成としてどうしてもやりたくて、3月まで延長したんだ。まあ、そっちの仕事は上手くいって、オレも満足して引退することができたんだけど…メイクの仕事の方が、さ。店の仕事をやりながら、本来オレがやりたかった撮影現場やショーの仕事を取っていくのは難しい状態で…他にも黒川さんと考え方の違いがだんだんはっきりしてきてさ。どうすべきか迷ってた時、“VITT”から、メイクアップアーティストとしての引きがあったんだ」
 「いきなり? だって奏は、素人相手のメイクアップスタジオでの仕事がほとんどだったんでしょ?」
 怪訝そうに、アディが眉をしかめる。一瞬、ドキリとしたが、奏はすぐに笑顔を作り、話を続けた。
 「あー、うん、確かにね。ただ、“VITT”とはモデルとして付き合いが長いし、その時からセンスだけは買ってくれてたみたいで…多分、技術を買われた、っていうより、“VITT”っていうブランドをよく理解してる、って部分で声かけてくれたんだと思う」
 「ああ…そういう考え方も、確かにあるか。スタイリストは勿論のこと、メイクもヘアメイクも、ブランドカラーをしっかり理解してるってのは大事なことだものね」
 いくらバカ正直な奏でも、サラ・ヴィットの件だけは公にする気にはなれない。神妙な面持ちで頷くアディに、奏も内心ホッとした。
 「正直、日本を離れることに抵抗があったし、駆け出しの身でどこまでできるか自信もなかったけど、でも…経験を積むためにも、黒川さんから独立するためにも、このチャンスは逃がしたら駄目だと思った。それで、半年契約で、こっちで仕事することにしたんだ」
 奏のその説明を聞いて、頷きながら聞いていたアディが、え? という顔で少し目を丸くした。
 「半年契約?」
 「そういう条件だったからね」
 「ちょっと待って。じゃあ、半年後はどうなる訳?」
 「日本に帰るよ」
 「帰る、って…あなた、こっちが故郷でしょうに。なんでわざわざ日本で仕事を?」
 「それは―――…」
 それは、咲夜が、いるから。
 と説明しようと思って―――やめた。仕事に私情を挟むことをアディは何より嫌うし、それに、まだ自分でも上手く説明ができないが、日本で仕事がしたいと感じているのは、咲夜だけが理由ではない気がしたので。
 「…なんていうか、実際に仕事してて、オレに合ってる気がするんだ」
 「でも、日本じゃまだまだメイクアップアーティストの地位が確立されてないって聞くわよ? 予算の取れない現場では、ヘアメイクがメイクも兼任することも多いって話じゃないの」
 「それも含めてさ。オレ、できることなら、黒川さんみたいにスタイリストもメイクもできるマルチなアーティストになりたいし。そういう意味じゃ、日本のそういう土壌も、あんまりネガティブに考えてないんだ」
 「ふうん…」
 微妙な表情で相槌を打ったアディは、手にしていたカプチーノを一口飲み、ポツリと呟いた。
 「贅沢な話ね」
 「え?」
 「1つの職業で一応の成功を収めるだけでも大変なことなのに―――モデルが天職、とまで言われた奏が、新しい仕事の上に、それ以外の道も探ってるなんて」
 「……」
 胸の奥の方が、嫌な風にドクンと脈打った。
 奏の顔色が僅かに変わったのに気づいたアディは、カップをテーブルに置き、取り繕うように笑顔になった。
 「あ…、別に非難してる訳じゃないわよ? むしろ、羨ましいくらい。私はモデル以外の仕事を考えたことがないし、やろうと思っても無理だと思うから」
 「…オレだって、才能があると思ってる訳でも何でもないよ」
 得体の知れない妙な動悸を覚えつつ、ぎこちなく奏が答えると何故かアディは、正面から奏の顔をじっと見つめた。
 「? 何?」
 「―――ううん、なんでもない。ただ、ちょっと感じが変わったな、って思って」
 「は?」
 今の会話のどの辺から、そんなことを思ったのだろう? 訝しげな表情を返す奏に、アディは残りのカプチーノを飲み干し、くすっと笑った。
 「残念ながら、タイムアップ。これからヨーガのレッスンがあるの。日本の話とか、色々聞いてみたかったんだけど、また今度」
 「え…っ、あ、ああ、うん」
 唐突なタイムアップに、思わず素でポカンとしてしまった。呆けたような奏の顔を見て、アディはますます可笑しそうに笑いを噛み殺した。
 「ま、前から表情が豊かだとは思ってたけど…ますます正直な顔に磨きがかかったわねぇ」
 「…どーせ」
 「やっぱり、奏の天職は、裏方よりスポットライトの中じゃない? どの仕事をしても、モデルを超える達成感を得られるとは思えないわよ」
 「……っ、」
 何気ない一言だが、奏の胸には、ぐっさりと刺さった。その痛みが顔に出たらしく、アディは、まるで宥めるように、「わかってる」と深く頷いてみせた。
 「容姿を商品にする以上、どこかで限界が来る―――誰からも必要とされなくなってから惨めに舞台を降りるより、最高の拍手を背中に受けながら舞台を降りたい。…そう思う人の気持ちは、私も理解できるわ。自分自身が萎れてしまわないうちに、確かな技術を身につけて、地に足の着いた仕事をしていきたい、っていう奏の考えは、立派だと思う」
 そこまで言って、言葉を切ると、アディは座ったままピンと背筋を伸ばし、まっすぐに奏を見つめた。
 「でもね。私は、この世界がそういう刹那的で残酷な世界だからこそ、最後までモデルとして人生を全うしたいの。この世界から必要とされ続けるために、ずっと自分を磨き続けるつもり。惨めに舞台を降りるなんて、まっぴらよ」
 その表情は、ちょうど、パリに活動拠点を移すと宣言した時のアディと同じ表情だった。自信に満ち、固い信念を滲ませた表情―――常に一流であり続けることにこだわってきた、プロの顔だ。
 「…アディらしいな」
 ふっと笑って奏が呟くと、アディは、美しい弧を描くように、唇の端を綺麗につり上げた。そして、傍らに置いた荷物と空になったカップを手にして立ち上がった。
 「じゃあ、また。明後日の撮影、楽しみにしてるわ」
 ああ、と答えようとした奏だったが、返事をしようとした刹那、言葉が、喉の奥で止まった。
 腰を屈めたアディが、奏の唇に、軽く口付けたからだ。
 「!!」
 咄嗟のリアクションが取れず固まる奏をよそに、アディは至近距離で、悪戯っぽく笑った。
 「やっぱり、かなり変わったわね」
 そう言い残し、アディは奏にひらひらと手を振って、その場から去って行った。

 ―――どーゆーつもりなんだか…。
 颯爽と歩き去るアディの背中を見送りながら、無意識のうちに、唇を手の甲で拭う。
 変わった―――確かに、そうだろう。アディの知る奏なら、この程度のキスなど、ただの挨拶レベルと受け取り平然としていた筈だ。でも、今の奏なら、きっと違う反応を返すに違いない……アディはそう考えて、あんな真似をしたような気がする。あの、してやったり、とでも言いそうな目が、アディの中の悪戯心を映していた。

 一体アディは、この短い時間で、奏から何を感じ取ったのだろう?
 何を感じ取り、何を悟らせたくて、あんなことを言ったのだろう?

 「…あんたに言われなくても、わかってるよ」
 思わず、日本語で、呟く。
 そう。言われなくても、わかっていた。けれど…言われるまで、そのことを自分でも認めようとはしなかった。

 一番認めたくない、心の奥底に眠っている、秘められた本音。
 奏は今も、あのステージを忘れられずにいる。自分自身がライトを浴び、観客に己の全てをぶつけることができる、あのステージを。
 モデルを引退して、2ヶ月。辞めてみて初めて、痛感した。人が「未練」と呼ぶものの正体を。
 「―――…カッコ悪ぃな、ほんと」
 情けない―――唇を噛んだ奏は、やり場のない憤りをぶつけるように、ドン、とテーブルを拳で殴った。


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