←BACKi -アイ- TOPNEXT→




― Stranger -2- ―

 

 「……あ…あいたたたたた…」
 久しぶりに経験する類の頭痛に、奏は、寝転がったまま思わず頭を抱えた。
 ガンガンと頭の芯を叩くような痛みを堪えつつ、なんとか首だけ起こして辺りを見回す。どうも寝心地が悪いと思ったら、どうやらリビングのソファで寝てしまったらしい。
 「あ、やっと起きたね」
 視界の外から、時田の声がした。もう少し頑張って首を回してみたが、その姿を確認できる角度まで曲げるのは無理そうだ。
 「いやぁ、ゆうべは久々に凄かったねぇ」
 「…うー…オレ、どのくらい飲んだ?」
 「そのボトル、ゆうべ新品を開けたばっかりで、なくなってる分の4分の3は奏君が飲んだと思っていいよ」
 時田の言葉を証明するかのように、傍らのローテーブルには、残り少なくなったウイスキーのボトルが、恨めしそうに鎮座していた。
 「…まじかよ…」
 「奏君の自棄酒は、360度どこから眺めても“自棄酒”って感じの飲み方で、いっそすがすがしいねぇ」
 すがすがしい自棄酒って何だよ、と突っ込みを入れたかったが、頭が痛すぎてその余裕もない。呻きながら体を起こした奏は、極力頭を動かさないよう手でくびの付け根を押さえつつ、体を捻るようにして時田の方を見た。
 「…なんか、異様に明るいな、外。今って、何時?」
 「午前11時ちょっと前」
 「は!?」
 思わず上げた声が、頭蓋骨全体に響いた。ぐわんぐわん、という余韻が津波のように押し寄せ、奏はまた呻きながら頭を抱えた。
 「じゅ、11時、って…」
 「今日は仕事ないって言ってたから寝かせておいたけど、僕は昼から出ないといけないんだ。僕もちょっと二日酔い気味だから、昼はあっさりお茶漬けにしようかと思ってるんだけど、どう? それなら食べられそうかい?」
 頭痛に苦しみながら、なんとか頷く。ロンドン在住というのに、お茶漬けを常備している家というのも珍しいだろうが、いかにも「ザ・男の手料理」な料理以外は滅多に作らない時田にとって、お茶漬けは手軽に空腹を満たしてくれる便利アイテムなのだ。
 「ああ、それと、ゆうべ、奏君の携帯が鳴ってたよ」
 「えっ」
 「短かったから、メールの着信音かもしれないけど」
 慌てて、ジーンズのポケットを探り、バックポケットから1個、右のポケットから1個の、計2つの携帯電話を引っ張り出した。片方は、奏が日本で使っていてそのままこちらにも持ってきた携帯。もう1つは、イギリスに戻ってから契約した、イギリスの携帯電話会社の携帯だ。日本語でメールがしたいので、本当は日本から持ってきた携帯1本でやっていこうと思っていたのだが、海外ローミングは、イギリス国内同士でも着信する側も着信料がかかったりと色々面倒だ。幸い、通話料が大変お得な会社があったので、通話専用に追加で契約したのだ。
 2つの携帯のうち、着信ありを示すライトが点滅していたのは、日本から持ってきた方だった。ということは、当然、咲夜だろう。興味津々の時田の目を気にしつつ、奏はさっそくメールを開いた。

 『航太郎から業務連絡。作戦成功、既に双方の両親に挨拶済みだって。結婚式で歌ってくれって頼まれた。展開早すぎて、ちとついてけないわ』

 「おお……」
 路上ライブが土曜の夜だから、まだ3日ほどしか経っていないことになる。なのに、もう双方の両親に挨拶に行ったとは、恐るべきフットワークだ。特に、彼女の方の実家は、京都だというのに。
 「何?」
 奏の声に反応して、時田が首を伸ばしてこちらを覗き込もうとした。見られて困る内容でもないが、奏は反射的に、見せまいとするように携帯を隠した。
 「咲夜の大学の同期が、この前彼女にプロポーズしたんで、その結果報告があった、っていう話だよ」
 「同期…ああ、路上ライブの人か。そりゃまた随分展開早いねぇ」
 「だよなぁ……って、え? なんで郁がその話知ってんの?」
 時田に航太郎の話をしたことはなかった筈だ。驚く奏に、時田は、至極当然のように答えた。
 「ゆうべ聞いたよ? 奏君から」
 「……」
 「東京大阪間くらいの距離で焦るなんて女々しい奴め、こっちなんて1万キロ弱離れてるんだぞ、って文句言ってたよ」
 「…あ…あの、オレ、昨日って飲みながらどんな話してた?」
 酔った勢いで何を口にしたのかを想像すると、嫌な汗が額に滲んできた。案の定、時田はニンマリと、意味深な笑みを奏に返した。
 「そりゃあもう、色々と言ってたよ。仕事のことからプライベートのことまで、幅広く」
 「……」
 「ま、僕も酔っ払ってたし、あんまり覚えてない、ってことにしとこうか」
 「…そ…そうしてくれると、助かるかも」
 「でも、1つだけ言わせてもらうと、追いかけられるより追いかける方が得意な奏君には、逃げ上手な咲夜ちゃんは、いい相性だと思うよ、僕は」
 このセリフだけで十分、何をぶちまけていたかが想像できる。冷や汗が余計吹き出してきた。
 「なんだか、遠距離恋愛ってのは、精神的に色々と大変みたいだねぇ」
 「う…っ、い、いや、単にオレが根性なしなだけって説もあるんだけどさ。ハハハ」
 「恋人一筋で真面目に生活するのは結構なことと思うけど、あれだけストレス溜めるくらいなら、もうちょっと遊んだ方がいいんじゃないかねぇ。あ、いや、浮気しろって言ってるんじゃないよ? 友達と遊びに行ったり、酒飲んでパーッと騒いだりとか。昔はそうやって、よく遊び歩いてただろう?」
 「…そーゆー気分じゃないんだよな、今は」
 「気分じゃなくても、ちょっと仕事から離れてみた方がいいと思うよ。仕事のためにこっちに戻ったとはいえ、古くからの友達だって大勢いるじゃないか」
 「友達はいるけどさ」
 というか、既に、そのうちの何名かとは、ロンドンに戻った最初の半月あまりのうちに会っているのだが―――説明したところで、時田にはただの気鬱としか映らないかもしれない。複雑な顔で一瞬黙り込んだ奏は、ポツリと呟いた。
 「浦島太郎の気分…というより、逆・浦島太郎の気分、かな」
 「え?」
 時田がキョトンとするのも、無理はない。苦笑した奏は、それ以上の説明はせず、「なんでもない」とだけ返した。

***

 この日は仕事がなかったので、明日の撮影に備えて、広告写真や雑誌を見て、イメージを膨らませることに専念する予定だった。時田の家には、この手の資料が山ほどあるので、非常に助かる。新婚との気詰まりな同居より男の一人暮らしに居候する方が気楽でいい、というのがここを選んだ理由だったが、仕事の面でもメリットが多いことに、居候をしてから気づいた。
 ―――うーん、男女兼用の香水、かぁ…。衣装はメンズスーツだったよな。てことは、メイクは女性的にした方がいいか。アディは顔立ち結構キツいから、控え目にした方が無難かなぁ…。
 傍らに白紙のメイク表を置き、あれこれ考えを巡らせていた奏だったが、その時、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話が鳴った。
 「……っ、と」
 イギリスで契約した方の携帯は、仕事の連絡手段も兼ねている。時間帯からいっても、仕事の電話である可能性の方が高い。雑誌を放り出した奏は、急いで電話に出た。
 「はい」
 『奏? サラよ』
 知人にサラは1人しかいない。奏の表情が、若干曇った。
 「ああ…どうも」
 『今、仕事中かしら』
 「いや、明日の撮影のために家で準備してる」
 『それはいい心がけね。でも、ちょっと中断して、社長室まで来てくれないかしら』
 「え?」
 『明日の仕事の前に、直接話をしておきたいの。今、あなたに仕事の依頼を出しているのは広報のシグだけど、あなたを選んだのは私自身ですからね』
 「……」
 相手がサラだと、どうにも言うことを100パーセント信用する気になれないが、それでも何故か、奏は、この話は受けておかないとまずい、と直感的に思った。
 「…了解。今から出ると4時くらいになると思うけど…」
 『構わないわよ。次の予定はビジネスディナーだけだから。1階の受付には話を通しておくから、直接来て頂戴』
 本来のしゃべり方より、若干早口気味で、語気も強い。
 ―――下手に裏があるんじゃないかとか勘繰ったまま行ったら、逆にオレの方が公私混同してる、甘い、って言われるな。
 サラとの付き合いはさほど深くないが、声のムードで、なんとなくわかるのだ。これは、仕事上の、何かよくない内容の話である可能性が高い、と。気を引き締め直すように、奏は唇を引き結び、軽く自分の頬を叩いた。

 

 奏が仕事でロンドンに戻ってから、サラとちゃんと顔を合わせるのは、実はこれがまだ4度目だ。
 社長であるサラは、奏の何倍も忙しく、奏の何倍も気にかけなければならない事柄を抱えている。自分自身で話を持ちかけたとはいえ、奏の仕事の全てに顔を出せる筈もないし、そんなことをする立場にもない。最初に、これから窓口となる人物だ、としてシグを紹介された時と、4月にあった“VITT COLLECTION”の最終打ち合わせと本番、計3回しかサラと直接顔を合わせる機会がなかったのも当然だろう。

 「わざわざ足を運ばせて、悪かったわね」
 奏の顔を見るなり、サラはそう言って、ソファに座るよう奏を促した。
 指定された場所に腰を下ろしつつ、何気なくローテーブルの上に目をやると、そこには、発売されたばかりの雑誌が置いてあった。奏が読んだことのない雑誌名だが、仕事と無関係の物をこんな場所に置くとも思えない。何の雑誌だろう、と、思わず表紙に並ぶ文字を目で追った。
 「去年創刊の情報誌よ」
 奏の視線に気づき、サラがそう説明した。
 「情報の早さを売りにしてるらしいわ。実際、かなり早いわね。先月の“VITT COLLECTION”の記事が、もう出ているんだもの」
 「え、」
 家族の中に2人も雑誌関連の仕事をしている人間がいるので、取材内容が記事として日の目を見るまでの期間は、大体把握しているつもりだが、確かにそれは、異例の早さだろう。よほど優秀なスタッフが揃っているのか、それとも、普通の出版社が行っている工程を大幅にショートカットしているのか、どちらだろう? 少なくとも、父が編集長を務める雑誌では、まず考えられない話だ。
 「まだまだ未知数の雑誌だけど、こうして注目してくれるのはありがたい話だわ。見てみる? なかなかいい写真を使ってるわよ」
 「…えーと、オレ、確かここには、話を聞きに来たような気がするんだけど」
 悠長に雑誌を眺めている場合ではないだろうに―――奏のそんな視線に、サラは意味深な笑みを浮かべ、まあ読んでみなさい、と目だけで促した。妙な流れだな、と怪訝に思いつつも、奏は雑誌を手に取り、ページをめくり始めた。
 “VITT COLLECTION”のレビュー記事は、雑誌の大体真ん中あたりに掲載されていた。見開き2ページのみで、まさに速報といった扱いの記事だ。
 今年の“VITT”は、裏地にポイントを置いたデザインとなっているのだが、掲載されている写真は、ちゃんと裏地を覗かせたポーズのものが選ばれている。サラの言うとおり、写真はなかなかの出来のようだ。ざっと本文も読んでみたが、内容は概ね好意的なもので、「スタンダード、ノーブルといった路線を貫いてきたブランドが、そのスタイルを維持しつつ、色という部分で冒険を試みているのが、今季の特徴」と締めくくられていた。
 「どう思う?」
 脚を組み、奏の様子を眺めていたサラが、おもむろにそう訊ねた。質問の意味がわからず、顔を上げた奏は、軽く眉をひそめた。
 「どう、って?」
 「写真よ。あなたも関わったショーでしょ。客観的に見て、出来映えはどう?」
 「…うーん…」
 出来映え、と言われても、少々返答に困る。
 “VITT COLLECTION”では、奏ともう1人、計2名のアーティストがメイクを担当した。当日の作業は、事前に作成しておいたメイク表に従って次々にメイクを施していく、というもので、それについては、ほぼ納得のいくメイクができたと、奏自身は思っている。実際、こうして写真で見ても、衣装とちぐはぐになることもなく、モデルの顔を悪目立ちさせるような失敗例も見当たらない。かといって、大成功、と呼ぶほどのものでもない気がする。
 「まあ…予定通りにはできた、って程度かな」
 「てことは、満足してる?」
 「いや、満足、とまでは…。ただ、まあ、失敗と思われる点も見当たらないし、事前に決めたメイクを、今持ってる技術でできる限りのレベルできちんとこなせた、とは思う。自惚れでなければ、だけど」
 「…なるほどね」
 ふっと笑い、サラは優雅な身のこなしで、脚を組み直した。
 「一言で言うと、“無難(acceptable)”って感じね」
 「え?」
 「メイクを施さなくても十分整った顔立ちをしたモデルたち。ショー向けな奇抜なデザインのない、実用的な様式美のファッション。この道10年以上のディレクター、ヘアメイク、スタイリスト。そして―――周りから向けられる、好奇の目。…そんなとこかしら。あなたが、“VITT COLLECTION”でのメイクの決定時、自分よりキャリアのある先輩アーティストの意見に一言も反論や提案をしなかった理由は」
 「……っ、」
 奏の表情が、一瞬で強張った。
 もしかしたら、昨日のアディの言葉の数倍、ストレートでグサリと突き刺さる言葉だ。何故ならそれは、ここ最近、奏が抱え込んでしまうようになった孤独感の原因と、まさに直結する内容だったから。
 「誤解のないように言っておくけど、メイク自体に文句つける気は、一切ないわよ。最終案にOKを出したのは、私自身なんだから」
 サラの言葉に、動揺を飲み込みつつ、頷く。わかっている―――サラが奏に言いたいのは、結果的にどんなメイクをしたか、ということではなく、そこに至る過程のことだ。
 「…オレは、最終案見て、金とか銀を使ったら面白いんじゃないか、って思った」
 サラがOKを出した結論に難癖をつけるつもりではないが、奏は、その時自分の頭の中に描かれていた絵を思い出しながら、ポツポツと口を開いた。
 「裏地に、鮮やかなロイヤルブルーを使ってるラインと、オレンジを使ってるラインがあったけど……で、主役は服だから、メイクに関しては服を殺さない色使いで、って話になって、オレもそれでいいと思ったけど……例えば、ブルーに合うシルバーを、思いっきりアイシャドーに入れてみたら、ブルーが締まってカッコイイんじゃないか、とか、フェイスパウダーにゴールド混ぜて、チークもブロンズ系をはっきり入れたら、オレンジとのグラデーションになって洒落てるかな、とか」
 「ふぅん……いいじゃない。何故言わなかったの?」
 「―――無難、だったから」
 「……」
 「オレの何倍もキャリアあるスタッフが決定した内容で、実際、衣装ともよく合ってるし…これでもいいじゃん、て思った。衣装チェンジと同時にメイクも変えるなんて非現実的な気ぃするし、そういう非現実的な提案を今更したら―――これだからモデル上がりは裏方の仕事を理解してない、って言われるかもしれない、って思った」
 「…正直ね」
 言い訳も誤魔化しもない奏の言葉に、サラは苦笑気味にそう呟き、軽く息をついた。
 「できれば、あの場でその意見が聞きたかったわ。そうすれば、ショーをもっと面白くできたかもしれないのに」
 「…すみませんでした」
 反論の余地なく、悪いのは自分だ。居住まいを正し、サラに深々と頭を下げた奏だったが、サラの反応は意外なものだった。
 「謝る必要はないわよ」
 「は?」
 顔を上げ、不思議そうに目を丸くする奏に、サラはくすっと笑った。
 「私も同じだから」
 「同じ?」
 「あの場では納得してOKを出したけど、本番の時、何かが足りない、あと少し足りない、って思ったのよ。でも、実際、ショーは成功したし、この通り評判も上々―――あの時感じた違和感は何だったのか、よくわからずにいたけど、今回、この雑誌の写真を見て、気づいたの。今回の色使いは、“VITT”としては冒険をした方だから、無意識のうちに、メイクを無難な線でまとめてしまったんだ、ってことに」
 「……」
 「そしたら、何か言いたそうな顔してたあなたのことを思い出したのよ。失敗したわ。自由奔放なキャラクターが共通認識になってる一宮 奏が、まさか、キャリアの有無を気にして遠慮するなんてね。わかってれば、あの場で私自らあなたに意見するように促せたのに」
 そんなキャラクター付けを勝手にされても困る。が、そういうイメージで定着してしまっている自覚も多少はあるので、奏は気まずそうに咳払いするだけだった。
 それより、豪腕のワンマン社長で、常に攻めの姿勢で事業を拡大し、スタッフを大事にする代わりに一切の妥協は許さない―――そんな風に思われているサラが、「無難にまとめていた」なんて、その方が意外だ。どんなに迷いなく前進しているように見える人間でも、裏ではいっぱい悩み、迷い、反省したり後悔したりしているのかもしれない。当たり前のことだが、今更ながらにそう思った。
 「前にも言ったけど、私があなたに仕事を頼んだのは、会社のためでもあるのよ。うちの契約スタッフは腕もいいし、長年契約しているから“VITT”のカラーも心得ていて安心だけど、最近、幾分マンネリ化してきてるから、モデル出身で写真の世界にも縁の深いあなたに、新しい空気を入れて欲しいの。ハサミを入れたら元には戻らない布とは違って、メイクなら、失敗しても落とせばやり直しがきく―――だから、“失敗しないこと”より“チャンスを生かすこと”を考えて」
 サラがそこまで言ったところで、ドアがコンコン、とノックされた。
 「社長、お出かけの時間まで、あと10分です」
 秘書らしき女性が、ドアの向こうから、遠慮がちに声をかける。腕時計をチラリと確認したサラは、「わかったわ」と答え、腰を上げた。
 「そういう訳だから、明日の撮影も、そのつもりで臨んで頂戴。アディリナ・ゲイルは、いい仕事をする分だけプライドが高いから、“無難(acceptable)”なんて単語は一切許さない筈よ」
 丁度電話をもらう前、まさにその“無難”な路線を考えていた奏にとっては、少々耳の痛い言葉だ。自らも立ち上がりつつ、奏は「わかりました」と神妙に答えた。
 「明日の現場には立ち会えないけど、よろしく頼むわよ」
 そう言ってサラが差し出した右手を、奏も微笑と共に握り返した。話も終わったようだし、外出予定もあるとのことなので、早々に社長室を後にしようとした奏だったが、
 「―――奏、」
 ドアノブに手をかけたところで、ふいに呼び止められた。
 思わず振り返った奏に、サラはツカツカと歩み寄り、何かを差し出した。見るとそれは、奏も以前読んだことがある、サラへのインタビュー記事が掲載された、日本の雑誌だった。
 「プレゼントよ」
 「…発売された頃に、読んだよ。日本に置いてきたけど」
 「“今”、読んで欲しいのよ」
 そう言うと、サラは奏の手を取り、半ば強引に雑誌を押し付けた。怪訝な顔をする奏に、サラはにっこりと美しい笑顔を返した。
 「奏。過去に対して未練を感じるのはね、“今”が上手くいかないことに対する、逃避でもあるのよ」
 「!!」
 「“今”が満たされて初めて、本当に自分が進むべき道が見えてくる―――昔、あなたの“お母さん”が私に言った言葉よ」
 ポン、と肩を叩いたその手は、思った以上に力強かった。
 千里の言葉を、サラの口から聞く―――その、説明のつかない不愉快さに、奏の顔は、僅かに苦痛そうに歪んだ。まるで、サラの手の強さに、痛みを感じたみたいに。

***

 パリ、ミラノ、ニューヨークと、メジャーなコレクションに次々新作を発表する“VITT”だが、その船出は、決して順調なものではなかったという。

 「一番人気のある時にモデルを辞めたせいか、色々憶測を呼んでしまったようで…。さる著名人からは、“デザインのイロハも知らない元お針子でも、有名人なら、簡単に独自ブランドを立ち上げられるなんて、嘆かわしい時代だ”、と嫌味を言われたし、モデル仲間からは、実業家を気取りたがってるとか、落ち目のブランドに名前だけ利用されてるんじゃないかとか、色々噂されたりもしました。一時は自分自身でも、自分のやっていることは本当に正しいんだろうか、って悩んだくらい」

 ―――初めて発表された服の評判は、いかがでしたか?

 「賛否両論でしたね。特に奇抜なデザインでもなく、クラシックな、悪く言えばどこにでもあるデザインでしたから。オリジナルを生み出すだけのデザイン力がないんだ、なんて陰口を叩かれたりもしましたよ」

 ―――今も“VITT”のメインラインナップは、機能的でシンプルなデザインですね。何かこだわりがあるのですか?

 「デザインより、素材と縫製ですね。どんなデザインであれ、本当にいい素材と丁寧な縫製を徹底すれば、着てもらえさえすればよさをわかってもらえるというのが、唯一のポリシーなんです。だから、今後は、これが本当に“VITT”のデザインか、と言われるような服を突然発表するかもしれませんね」


 「あれ、もしかして奏?」
 頭上から聞こえてきた声に奏が顔を上げると、傍らに立ち止まっていた男の顔が、はっきりと目に入った。
 10年前は美少年で女の子と間違われてました、という感じの顔立ち―――だが勿論、現在の顔は、どう頑張っても女の子と見間違うことはあり得ない、それなりに線が太くなった、20代後半の男の顔だ。誰だっけこいつ、と頭の中の元仲間リストとの照合を試みたが、答えが出る前に、相手が名乗ってくれた。
 「僕だよ、キース。ほら、デビュー同期の」
 「…あー、そういえば」
 所属事務所は違うが、同い年で、かつ、同年モデルデビューという、変な縁のある奴だ。奏がクール・ビューティーというキャラクター付けをされた一方で、彼の場合は、アイドルのような可愛い顔立ちで、主に女性と一部の特殊な男性に非常にモテたと記憶している。その後、どの程度活躍したかは覚えていないが、確かに当時の面影が今の顔のそこかしこに点在している気がする。
 「なんか、日本に行ったって聞いたんだけど、帰って来てたんだ?」
 了解した覚えもないのに、キースはそう言いつつ、奏の向かいの席に腰を下ろした。どうやら、飲み物を頼んで、自分の席に戻る途中だったらしい。ドン、とテーブルの上に置かれたのは、このパブ名物のコーヒーリキュールを使ったカクテルだった。無視する訳にもいかず、奏も読んでいた雑誌を閉じ、飲み残しのコーラを手元に引き寄せた。
 「ああ。といっても、半年契約だから、9月末でまた日本に戻るけど」
 「え、そうなんだ」
 意外そうな顔をしたキースは、次の瞬間、急に心配げに眉根を寄せ、奏の顔をじっと見つめた。
 「…まさかとは思うけど…あの噂って、本当?」
 「噂?」
 「独立問題で元の事務所と大揉めしたせいで、モデル続けられなくなって、今は裏方の仕事してる、とか」
 「……」
 「もしそうならさ、諦めることないよ。あの事務所、奏に続いて人気のモデルをよそに引き抜かれたもんだから、今は経営難で結構厳しいらしいから。日本に戻るくらいなら、古巣に戻ること考えてみたら?」
 またか―――もう何度目とも知れないウンザリ感に、奏の表情がどんよりと曇った。

 『モデルを辞めさせられたんだって? え、自分から辞めた? なんで? あ、もしかして、そーゆーことに表向きはなってんの?』
 『なんでメイクの仕事なんて…奏らしくないわよ。スポットライト浴びるのが奏らしい生き方なのに』
 『なんなら、うちの事務所にかけあってみようか。奏なら大歓迎だと思うよ』
 『ああ…うん、そうだね、いいんじゃない? 元モデルのメイクアップアーティストなんて、特に男じゃ滅多にいないから、いい話題になると思うよ。そうすりゃ、本業の方だって好転するさ。まだ28だろ? これからじゃないか』

 ハイスクール時代の友達や元モデル仲間に再会するたび、繰り返されてきた言葉。その表現はまちまちだが、主旨は皆同じ。奏の“本業”は飽くまでモデルであり、それをやれないからメイクをやっている―――それが彼らの共通認識だ。
 彼らの中の“一宮 奏”は、3年ほど前で時が止まっている。方向性の違いから事務所から独立し、その事務所からの圧力で仕事がなかなか得られず苦しんでいた時の奏―――その後、日本に行ったことは知っているが、日本での暮らしぶりも知らなければ、モデルとメイクの兼業がどんなものだったのかも知らない。知らないから、想像が一人歩きしているのだ。
 それでも最初の頃は、誤解を解きたくて律儀に説明をしたものだ。が、同じことが3回続いた時点で、面倒になってやめた。説明しても、それを強がりやカッコつけと解釈されるだけであることがわかったから。
 日本では、こうしたギャップを感じずに済んだ。日本で仕事を始めた当初から、モデルとメイクアップアーティスト、二足のわらじを履いた状態だったからだ。日本での奏は、どこに行っても「モデルとメイクを兼業している一宮 奏」であり、モデルを引退する、という選択も、残念がられはしたが、本人の選択として尊重してもらえた。メイクもモデルも、一方が上手くいかないから仕方なくやっている、なんて色眼鏡で見る者もいなかった。
 でも、ここ、ロンドンでは、奏はどこまで行っても「モデル・一宮 奏」なのだ。引退した、と本人が言っているのに、それを本意と受け取ってくれない。事務所を辞めた経緯がお世辞にも穏やかなものではなかったし、実際に圧力に苦しんだこともあったので、そう勘違いしても仕方ないのかもしれないが、モデルとしてのやり甲斐を求めていた奏だけが彼らの中に強く残っているから、他のものを求める奏の今の姿の方が嘘にしか見えないのだろう。
 そう―――これこそが、帰国以来、奏を蝕んでいる気鬱の正体。
 竜宮城で3日過ごして帰ってきたら何故か100年経っていた、という浦島太郎とは逆に、日本で2年半過ごして帰ってきたらロンドンはまだ1日しか経っていなかった、という気分。まるで、新しい恋をし、結婚して戻った故郷で、昔の恋人とよりを戻せ、と周りから言われているような心境なのだ。

 ―――それでも、結婚した相手と上手くいってりゃ、アホか、で済む話なんだよな。
 前の彼女の方がよかったのかな、などと一瞬でも思ってしまうのは、要するに、家庭円満ではない証拠、という訳だ。先ほどのサラの言葉を思い出し、奏は胸のムカつきに思わず顔をしかめた。
 「…事情のわからない外野の面白くないジョークとして、ありがたく受け取っておくよ」
 営業スマイルで奏が放った嫌味は、キースには通じなかったらしい。「は?」という顔をするキースに、奏は誤解を解くことも嫌味の説明をすることも諦め、ただ苦笑だけを返した。
 「オレのことより、そっちは最近どうなんだよ」
 面倒な話はここまで、とばかりそう切り返すと、途端、キースの顔が僅かに強張った。
 とはいえ、そこは奏と同じだけの年数、ファッション業界で生きてきた人間だ。不自然ながらも、すぐに困ったような笑顔を作った。
 「あ、僕? 僕は、まあまあ、って感じかな。テレビ出るようになってから、本業のモデル以外の仕事の方がどうしても多くなっちゃうけどね。イベントとか、ビデオとか」
 「ふーん…」
 その中性的な可愛らしいルックスで、キースがメディアにもてはやされていた時代を、奏は知っている。主人公の友人の1人、といった役で起用されたドラマも見たことがある。メディア露出が増えるにつれ、普通のモデルの仕事現場で彼を見かける頻度は極端に減った。あいつ、モデル辞めて芸能人になったんだな―――仲間内ではそう言われたが、やがて、現場以外でも彼を見かけなくなった。少年が大人に変わった途端、需要がなくなる、という典型例だろう。
 親しい間柄ではないので、彼のその後の動向は全く知らないが、こんな店に堂々と素顔で来ても、ファン1人、パパラッチ1人寄って来ないことで、おおよその見当はつく。あまり突っ込んで訊かない方が賢明だろう。
 「そうか、頑張ってんだな」
 当たり障りのないところで、奏がそんな風に言うと、キースはどこかホッとしたように笑った。
 「ま、まあね。今はちょっと小さな仕事が続いてるけど、もう一度、大きな仕事ができるように、コツコツ頑張るよ」
 と、その時、捲り上げたシャツの袖の隙間から、キースの腕が、ほんの一瞬、覗いた。
 「……」
 明らかにシールとは違う質感を持った、濃紺の刺青(タトゥー)―――それに気づかなかったフリをして、奏は、微かな笑みをキースに返した。

 

 ―――多分、あいつとモデルの仕事現場で再会することは、もう二度とないだろうな。
 どんな服でも着こなすのが、モデルの仕事だ。故に、肌に消す事のできない痕をつける刺青はご法度―――基本中の基本だ。モデル以外の仕事が多い、と言っていたが、あれでは実質、モデルの仕事はゼロだろう。「本業はモデル」と言うキースの袖口から覗いた刺青は、滑稽というより、むしろ物悲しさを感じさせた。
 傍目には、奏もキースも、同じものを追い求めているように見えるだろう。確かに、脳裏にあるのはどちらも、自分たちが立った、あのステージだ。でも、同じステージであっても、2人が求めているものはまるで違うのだということに、今日、改めて気づかされた。
 奏は、あのステージで感じられた、達成感、高揚感、充足感を。
 キースは、あのステージで浴びた、スポットライトや歓声、賞賛の声を。
 そして多分、奏の元仲間の多くが、どちらかというとキースと同じものを追い求めがちで―――だから、奏の選択を、素直に信じられないのかもしれない。同じ業界にいた人間なのに、何故わかってくれないんだ、と思っていたが、望んでいるものが全く違っているのなら、理解されなくて当然だ。
 価値観の違う人間の、勝手な言い分。そんなものに、ほんの一瞬でも心を乱されたのかと思うと、自分の弱さが腹立たしい。

 『“今”が満たされて初めて、本当に自分が進むべき道が見えてくる―――昔、あなたの“お母さん”が私に言った言葉よ』

 よりによってサラに指摘されるとは面白くないが、おっしゃるとおり。
 今、自分の中にある、この未練―――それが、本物の未練なのか、それとも、今の仕事で思うような充足感を得られないことに対する“逃げ”なのか。それを見極めるには、今の仕事で、望んだものの一端でも掴むしかない。

 「…甘えてんじゃねーぞ、奏」
 雑誌をソファの上に放り出し、ポツリと呟く。テーブルの上には、外出前見ていた雑誌やメイク表が、雑然と置かれたままだ。
 失敗しないためのメイクではなく、チャンスを掴むためのメイク―――唇をきつく引き結んだ奏は、外出前とは違った心持ちで、明日の撮影のための資料を手に取った。


←BACKi -アイ-. TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22