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「ええっ、このメイクで!?」
奏の提案を見るなり、アートディレクターは、かなり素っ頓狂な声で叫んだ。
「こ…これは、うーん…面白いし、個人的には好きだけど、どうだろうなぁ。絵全体に影響あるし、僕が良くても他の人たちが何と言うか…」
「わかってます。没になるのは、覚悟の上です」
決意してしまえば、妙な遠慮は柄ではない。若干渋めのアートディレクターの表情にも、奏は怯むことなく食い下がった。
「急に決まった代役だし、メイクに対する特別な要望もなかったんで、そのまま無難にやろうか、とも思ったけど、一度この案が浮かんだら、どうにも頭から離れなくて―――試しに、メイクだけでもやらせて下さい。それ見てもらって、駄目だと判断されれば、すぐ落としてやり直しますから」
「うん…まあ、メイクはやり直しきくから、試すだけでもやってみる価値はあるけどね」
「お願いします!」
個人的には好きだという言葉は、まんざら嘘でもないらしい。うーむ、と暫し考え込んだアートディレクターは、やがて顔を上げ、撮影スタッフの1人に声をかけた。
「おい! モデルの人、もう来てるか?」
「えーと…はい、さっき廊下で見かけました」
「じゃあ、呼んで。ちょっとミーティングするから」
事前の最終確認にしては、少々早すぎるタイミングに、スタッフは怪訝そうな顔をした。が、いちいち事情を確認するほど、本番当日の現場は暇ではない。「わかりました」と言うと、彼はさっそく、先ほど見かけた本日のモデルを探しに廊下へと駆け出して行った。
今回のポスターは、デザイン自体はいたってシンプルで、背景は黒もしくは白、衣装は背景と反対色のスーツとなっている。
元々“VITT”そのものがモノトーンのイメージの強いブランドであり、過去に奏が専属を務めた時も、撮影されたポスターの大半が白や黒を貴重としたシンプルなものだった。今回も、その路線をそのまま踏襲したと言っていいだろう。
メイクに関しては、特に要望も指示もなく、先日の打ち合わせもスタッフ同士の顔合わせ的なものだった。事前に、どの部分にどのメーカーのどの色を使うか、といった指示を書き込むメイク指示書を作るケースもあるが、今回の場合は、撮影当日にぶっつけ本番でメイクするだけで十分―――元々の担当者もそう思っていたのだろう。ピンチヒッターとして奏に仕事が回ってはきたが、その手の指示は何ひとつ託されなかった。まあ、よほど特殊なメイクでない限り、どの仕事もこんなものだ。
普通に、無難に、そつなくメイクする。それがピンチヒッターの役目なのかもしれない。奏のように、技術者としてのキャリアもさほどではない立場なら、尚更に。
けれど―――新人に、代役に、発言の自由はない、という訳ではない筈だ。
「え、オレンジゴールドって、もしかして…」
「そう、この色」
集まったスタッフ一同の前で、奏は、小さなボトルを掲げて、その中央を指差した。
奏が手にしていたのは、今回の商材である“VITT”初のフレグランス、“VITT Note”の実物だった。男女兼用ということもあり、携帯した際男性でも馴染むように、ボトルカラーは基本的に鏡面仕上げの黒になっている。が、ボトルの高さのちょうど半分辺りの所に、1センチ弱の幅で、色も素材も異なる部分がある。淡い飴色をした透明な中に、金の粉を散りばめたような色合い―――複雑な色だが、パッと見た感じでは、オレンジゴールド、と答える人が多いだろう。
「ポスターにも、後から加工で金を背景にうっすら入れるって話だけど、メイクにもこの色を取り入れたらどうかと思って」
「メイクに、って、まさか、私の顔を金色に塗りたくる訳?」
使用する色などを書き込んだイラストを見つつ眉をひそめるアディに、奏は「まさか」と言って苦笑した。
「ラメの入ったチークとかパール入りのファンデーションで、雰囲気だけこのボトルの装飾部分に合わせるイメージだよ。口紅も、最初はシャネルっぽい赤を考えてたけど、肌の色に合わせてブロンズ系混ぜるとか」
「ふぅん…」
「僕は、面白そうだと思うんだけどね」
まだ検討中らしいスタッフたちの顔を見渡しながら、アートディレクターがそう口火を切った。すると、他のスタッフからも、次々意見が出始めた。
「オレンジゴールドは、今季の“VITT”のテーマカラーの1つでもあるし、人物にも商材を連想させる色をさりげなく乗せるのは、香水っていう今回の商材にも合うんじゃないかな」
「でも、それなら、背景と同じように後からデジタル加工で調整する方法もありますよ」
「そうだなぁ…後からの加工ならやりようもあるけど、撮影当日となると、検討するだけの余裕が…」
「社長は、極力画像処理は使わない主義ですよ。背景合成でも、やむをえない場合以外、なかなか通らないんですから」
「ああ…肌の質感が嘘っぽくなるから、って言ってましたね。特に今回は、撮影対象が人物だけですからねぇ…」
「まあ、変わるのは人物のメイクだけで、小道具も背景も変更なしなら、とりあえず試してみてもいいんじゃないかな」
カメラマンがボソリと呟いた一言に、奏は思わず身を乗り出した。
「30分だけ、時間をください。もし不評なようだったら、すぐ普通のメイクでやり直しますから」
「30分か…。よし、じゃあ、時間を無駄にはできないから、今すぐ始めて」
現場の責任者でもあるディレクターからのOKは、まさに鶴の一声だ。よしやるか、と現場の空気が前向きになるのを肌で実感し、奏は満面の笑みで「はい」と答えたのだった。
***
「一昨日の会議では、あんなにおとなしかったのに」
メイクを落とす作業の合間を縫って、鏡の中の目が、ちょっと面白くなさそうに、背後に立つ奏を睨んだ。
「先輩方に気を遣って控え目にしてるなんて案外カワイイのね、って思ったのに、とんだ猫かぶりじゃない。撮影当日に、いきなり別案出してくるなんて」
「人聞きの悪い…。最初からオレが担当してる仕事だったら、打ち合わせの段階で意見を出したよ」
「代役の立場で本番当日に意見を出したことを言ってるの」
「…スミマセン」
あまり申し訳ないと思っている訳でもないのだが、肩を竦めてそう謝っておいた。するとアディは、面白くなさそうだった顔を僅かにほころばせ、くすっと笑った。
「―――冗談よ。実を言うと、ちょっと驚いた」
「え?」
「一昨日会った時は、まだまだ駆け出しもいいところで、与えられた仕事を真面目にこなすだけでやっと、っていうレベルだと思ってたから。ケンジ・クロカワの店で修行してたとは聞いてたけど、こういう現場にはまだまだ不慣れだろうと思ってたし、他のモデルたちからは興味本位な噂しか出てこないしね」
「
どんな噂かは知らないが、どのみち、奏のメイクアップアーティストとしての技術力や成熟度など微塵も考えていない内容だろう。知らず、奏の眉が不愉快そうに歪んだ。
「素人相手の仕事がメインで、こういうプロの現場はまだまだ場数踏んでないのに、こうやって意見を堂々と述べられるってのは、私は嫌いじゃないわよ。人によっては生意気だって顔を顰めるかもしれないけどね」
「…そりゃどーも。アディに褒められると、逆に皮肉に聞こえるけどな」
「ホントよ? そもそも、私が奏を気に入ったのは、大先輩である私にも臆せず自分の考えをぶつけてきたからだったんだし。覚えてるでしょ」
勿論、覚えている。ショー前日に仲間同士で遊びに行ったことをアディから咎められて、「オレは仕事のために生きてるんじゃない、生きるために仕事してるんだ」と大反発したのだ。周囲は真っ青になったらしいが、その日のショーをきちんと務め上げた奏を見て、アディは納得してくれた。目の前の悪ガキは、キャリアは浅いが、翌日の仕事に響かないようセーブしながら楽しむ術をちゃんと身に付けているのだ、と。
「まあ、本心からの言葉と信じて、素直に受け取っておくけど―――正直なところ、アディは、どう思ってる?」
「何が?」
「オレが出した案について」
他のスタッフらが色々意見を出し合う中、アディは1人、ただ黙って、奏が描いたメイク指示書を見つめているだけだった。実際に撮影される張本人なのだから、自分がどう撮られるかについて一言あって当然だろう。
ところがアディは、眉ひとつ動かすことなく、あっさり答えた。
「特には、何も」
「何も?」
「何か思う必要なんて、ある?」
「……」
「たとえ自分のキャラクターに合っていなくても、その商品の宣伝としてふさわしくなくても、それを正すのは私の仕事ではなく、作る側の人間の仕事―――カメラマンなりアートディレクターなりデザイナーなりが示したものを、その範囲内で、カメラや観客の前で完璧にこなすのが、私の役目。たとえ顔中を金色に塗りたくることになっても、それが決定事項なら、私は粛々と顔を塗られるだけの話よ。違う?」
―――お見事。
一分の隙もない返答に、思わず一瞬、ポカンとしてしまった。
モデルがポスターの図案やら写真のアングルやらに口出しをするのは、普通に考えればおかしな話だ。不満ゼロの仕事などあるとは思えないし、我慢できない不満のある仕事なら断ればいいだけの話―――その代わり、受けたからには、その中でできる最高レベルの仕事をする。それが本当のプロだ。
―――…ああ、そうか。
だから、オレは、「そうじゃない仕事」をしてみたくなったんだ。
同じ世界を、今まで自分が見てきたのとは違う視点から見てみたくなった。それが、オレが今、していることなんだ。
何故だか不意に、ストン、と腑に落ちた。
自分がモデルを卒業しようと考えるようになった、その根本的な理由―――はっきりしているようで、その実、奏自身の中でも曖昧な部分があった。モデルとしての価値が下がってから惨めに引退するのが嫌だから、容姿より能力を求められたいから―――なるほど、そんな考えも全くない訳ではないかもしれない。外見とは無関係に長く続けられる仕事を見つけたい、というのも大きな理由だ。けれど、自分でも気づかなかった理由に、今、気づいた。
大勢のスタッフが力を合わせ、1つのステージを、1つの作品を作る。その世界の中で、奏は「表現者」であり「演じる者」だった。そのことに満足し、自分なりにやりきったと思える境地を見ることができた。だから今度は、「作り手」の側から、あの世界を体感したい―――それが、奏がメイクアップアーティストやスタイリストに興味を持った、根本的な理由。
奏が追い求めているものは、常に、プロが作り出すあの世界、ただ1つだけ―――その世界との関わりが、モデルという1つの形だけでは飽き足らなくなった。つまりは、そういうことだ。
―――そっか。だから、アディから「1つの仕事で成功するだけでも大変なのに、贅沢な話だ」って言われた時、図星さされたような気分になったのか。
確かに、飽き足らなくなるほどモデルの道を究めたのか、と言われたら、どう甘く見積もっても答えはノーだろう。自覚はなかったが、アディの言葉は、奏の本心からすれば耳の痛い話だった訳だ。人の話を聞いて、自分の本心にやっと気づくなんて、なんとも間抜けな話だ。
「? 何、笑ってるの?」
唐突に笑いを噛み殺すように肩を震わせ始めた奏を見て、アディが怪訝な顔をする。なんでもない、と手を振って答えた奏は、大きく息を吐き出し、ポン、とアディの肩を叩いた。
「OK、ご本人の承諾ももらえたことだし、じゃあ早速、メイクに入らせてもらうから」
「…昔より、わかり難い奴になっちゃったわね」
少々不満げな顔をするアディを、まあまあ、と宥めつつ、奏は、用意してきたファンデーションを手に取った。
***
奏が大急ぎで施したメイクは、概ね、全スタッフの間で好評だった。
「うん、なかなかいいんじゃないか?」
「目にもう少し力が欲しいかな…。それと、唇の色、もう少し抑えて」
「こうなると髪にももう一工夫欲しいところだな」
「フェイスラインに近い部分だけでも、メッシュ入れてみますか」
ものの数分で様々な意見が出され、その都度、スタイリストが、ヘアメイクが、撮影アシスタントが、そして勿論奏も動き、細かな修正や変更が施される。結果、完成した絵は、原案に奏の案を適度にミックスし、更に別のスタッフの意見も盛り込んだようなものになった。
全員納得の絵になったのは、結局、撮影開始予定時刻を20分過ぎてから。だが、撮影自体があっという間に終わったため、ほぼ予定通りの時刻に衣装チェンジに入ることができた。そしてここから、完全に反対の色使いになった衣装と背景に合わせて、再び各スタッフの微調整作業が始まった。
ユニセックスを強く意識した白スーツの時より女性的な部分を前に出そう、ということで、髪の分け方やチークの入れ方、スーツの着崩し方などが少しずつ変わっていく。それは撮影が始まってからも続き、目を伏せたアングル時には、それまでより一段鮮やかな色合いのアイシャドーを追加で入れたりもした。
ある意味主役とも言えるアディは、さすがの貫禄で、見ていて安心感すら覚える仕事ぶりだった。予定では手や足をフレーム内に入れての撮影はない筈だったが、アディが自発的に取ったポーズのいくつかは、頬杖をついたり髪を掻き上げたりと、かなり手が目立つポーズもあった。どんなポーズを取っても困らないように、常日頃から爪の形まで完璧に整えてあるからこそ、躊躇せずそうしたポーズが取れるのだろう。さすがはプロ中のプロだ。
スポットライトの中にいるのは、自分ではないけれど。
自分の意見を100パーセント採用された訳でもなければ、自分のアイディアが特別に評価された訳でもないけれど。
それでも奏は、モデル時代に味わったのと同じ大きさの充足感を、この現場で感じることができた。ああ、オレが欲しかったのは、こういう感覚なんだ―――そう実感できた。
『やっぱり、奏の天職は、裏方よりスポットライトの中じゃない? どの仕事をしても、モデルを超える達成感を得られるとは思えないわよ』
―――そんなの、わかんねーじゃん。
ぐっさりと胸に突き刺さった一言に、密かに反論する。
モデルとして得ることができた達成感にだって、現場によってバラつきがあった。瑞樹との仕事では、この仕事をやっていて本当によかった、と心から思えたし、こんな仕事受けるんじゃなかった、と激しく後悔した仕事もあった。
そして、メイクアップアーティストとして得られる達成感にだって、もう既にバラつきが出ている。大河内夫人の依頼では最悪の気分を味わったし、時田が咲夜を撮影した現場では、仕事の時以上の満足感が得られた。そして今、プロが、プロとして、最高の作品を完成させるために協力し合っている、この現場―――今感じている達成感が、モデルとして得られた達成感より大きいか小さいかなんて、単純に比較などできない。現場との係わり方が違うのだから、無理な話だ。
「全カット、撮影終了しました! お疲れ様でした!」
という掛け声を聞いた時、またこの達成感を味わいたい、と、奏は心から思った。
周囲のスタッフと握手を交わす奏の中に、昨日までの焦りや未練は、もう残ってはいなかった。
***
『今、ポスター撮影の仕事終わった。
ピンチヒッターで時間がなかったけど、久々に満足いく仕事できた気がする。
咲夜が仕事行く前に、ちょっとだけ電話する。時間なさそうだったら、先にメール入れといて』
送信ボタンを押すと同時に、いきなり背中をポンと叩かれた。
全くの無防備だったせいで、少しばかり前につんのめってしまった奏に、背中を叩いた張本人であるアディは、僅かに目を丸くした。
「あらら、大丈夫?」
「あ…ああ、なんだ、アディか。ごめん、ちょっと油断してた」
「後ろから見たら、なんだか俯いてガックリしてるように見えたから、思わず背中叩いちゃったけど―――何? メール?」
奏の手元を覗き込み、奏がやけに下を向いていた理由を察したらしい。なるほど、後ろからはそんな風に見えたのか―――苦笑しつつ、奏は携帯電話を閉じた。
「まあね。帰り支度は終わった?」
「ええ。あなたも帰るなら、途中まで一緒にどう?」
「あー、じゃあ、そうしようかな」
奏にしても、スタジオに残ったところでやることなど何もない。携帯をポケットに押し込むと、奏は、アディと並んで歩きだした。
時計は午後5時過ぎを指し示しているが、この時期、イギリスの日没は午後8時を大きく回ってからだ。スタジオの外は、まだまだ真昼のように明るい。
2人がスタジオの建物から出てきた途端、どこかから「あ、来た来た!」という甲高い声が上がった。何かと思って声の主を探すと、スタジオの出入り口のすぐ脇から、10代後半から20代前半といった風貌の女性2人が、ノートのようなものを持って駆け寄ってきた。
「あのっ、アディリナ・ゲイルさん、ですよね」
奏には目もくれず、2人はアディの前に進み出た。どうやら、アディの撮影スケジュールを何らかの方法で知り、いわゆる「出待ち」というのをしていたらしい。
芸能人化してはいない、モデル一筋で生きているアディだが、純粋にモデルとしてのアディに憧れている人は決して少なくない。特に中性的な部分のあるアディは、同性の間で人気が高かった。日本で言うところの宝塚的シチュエーションだろう。
「ファンなんです! サイン下さいっ!」
「お願いします!」
並んでノートを差し出すファン2名に、アディは涼やかな笑顔を返し、
「ありがとう。お名前は?」
と訊ねた。そして、慣れた手つきでノートにサインを記すと、その下にそれぞれのファンの名前と今日の日付を書き添えた。当然、ファンからすれば、ただのサインより「○○さんへ」と自分だけのために書かれたサインの方が数段嬉しい。ノートを受け取った2人は、興奮した様子で何やら黄色い声を上げた。もはや何と言っているのか聞き取れないレベルだが、恐らく「キャーっ、嬉しい!」とかそんなことを言っているのだろう。
「が、頑張って下さいね!」
「あたしたち、いつまでも応援してますっ!」
そう言って、ファン2名は、その場を立ち去った。立ち去りながらも、「やっぱり綺麗だよねー」などと言い合っているのが微かに聞こえる。それに混じって、余計な一言も、少しだけ聞こえてしまった。
「でも、あの男の人、誰かな」
「恋人…じゃないよね。噂になった人って、もっとおじさんだったし」
―――おっと、こりゃヤバイな。
ここ数年、こういう経験がほとんどなかったので、すっかり油断していた。再び歩き出しつつ、奏は、胸元のポケットに突っ込んであったサングラスを取り出し、さりげなくアディに差し出した。
「気を遣わせるわね」
奏の行動の意味は、アディにもすぐ理解できたのだろう。サングラスをかけつつ少し申し訳なさそうな顔をするアディに、奏も苦笑を返した。
「いや。顔を売る商売してる以上、仕方ないし」
「奏はこういう話、あんまり聞かなかったわね。一般ウケするって意味では、あなたの方が私よりファンが多かったでしょうに」
「んー…、仕事の時と普段のオレって、印象が相当違うらしくてさ。別に変装とかしてなくても、割とスルーされちゃってたんだよな。ほら、普段はこうで、仕事は“Frosty
Beauty”だから」
「ああ…、私ですら、最初は思ってたものね。紳士的で優雅なクール・ビューティーと、怖いもの知らずで寂しがりの大型犬、どっちがこの子の素顔なんだろう、って」
“Frosty Beauty”の方が素顔だったら、まさに鳥肌ものの気持ち悪さだが、素顔を知るアディですらそう勘違いしてしまうほど、モデルとしての奏は、そのキャリアの大部分を“Frosty
Beauty”の仮面を被って過ごしてきた。勿論、その枠の中で、いかに演じ、いかに商品を魅力的に見せるかを考えて仕事をしていたが、“Frosty Beauty”を辞めた後の自分を知ってしまった今では、もっと早く路線変更していれば、と思わずにはいられない。もっとも、素とかけ離れたキャラを演じていたおかげで、一番人気のあった時期を比較的自由に過ごすことができた、とも言えるのだが。
「日本では、どうなの? あっちでもモデルの仕事はしてたんでしょ」
「ああ、最近はファッション目的でしかかけないけど、最初は常にサングラスしてたっけなぁ…。なんか妙に視線が突き刺さって痛いから」
「視線が突き刺さる?」
「オレの顔、日本じゃちょっと異色だから」
「…なるほどね。こっちでもそこそこ目立つ方なんだから、東洋人の集団に放り込んだら、さぞかし目立つでしょうね」
どんな光景を思い描いたのか、アディは同情半分面白さ半分といった感じの苦笑を浮かべた。
「まあ、子供の頃に日本に住んでた時期もあったから、オレ自身はあんまり違和感ないんだけどな。この風貌で日本語ペラペラだとギョッとされることもあるから、もうちょいアジア寄りな顔に生まれておきたかったよなぁ…」
「こっちで仕事すれば、そんな面倒もないのに」
暗に“VITT”との契約が終了した後もイギリスで仕事を続けることを勧めるアディに、奏はニッと笑い、そつなく答えた。
「大先輩が引き止めてくれるのは嬉しいけど、オレ、惜しまれつつ去るのが好きだから」
「…言うわね。誰が惜しんでるって?」
アディの肘鉄砲が脇腹にクリーンヒットし、思わず素でむせてしまった。ゲホゲホ言う奏を見て、アディはムッとしたフリをやめ、表情を和らげた。
「私、日本に行ったこと、一度もないけど…前に写真で見た日本の風景、私が生まれた所に、ちょっと似てた」
「え?」
「ちょっと寒そうな、海。切り立った崖があって、白い波しぶきが岩を叩いてて―――あれって、日本のどこかしら。空の色まで似てたわ」
アディが生まれた所―――今まで聞いた記憶がない。まだ少しむせつつ、奏はなんとか声を絞り出した。
「どこ、だっけ。アディのふるさとって」
「アイルランドの、片田舎。といっても、2歳まで住んでただけで、大人になってから訪ねるまで、どんな所か全然覚えてなかったんだけどね」
「へぇ…、知らなかった」
「…ふるさと、か」
ふいに、アディが呟く。
何故かそのまま暫し黙り込んだアディは、怪訝に思った奏が言葉をかけるより先に、顔を上げ、奏の方を見た。
「思わず答えちゃったけど、ふるさと、ではないわね」
「え?」
「ポーランド人とドイツ人の間に生まれた父と、イギリス人とフランス人の間に生まれた母が、イタリアで恋に落ちて、アイルランドで私が生まれて―――2歳でアメリカに引っ越して、5歳でカナダに移り住んで、両親が離婚して母と一緒に実家のあるフランスに移って、母の再婚でイギリスに移って。…我ながら、落ち着かない人生よね。こういう場合、どこが私のふるさとなのかしら」
「……」
1回聞いただけで、アディの家族の変遷をちゃんと理解できるとしたら、相当頭の回転の速い人に違いない。少なくとも奏は、1回では無理だった。
島国の日本と違い陸上に国境のある国なので、外国人との結婚など珍しくもなんともないが、4カ国の血が流れている、というのはさすがに稀だろう。その上、出自とは無関係な国まで出てくるのでは、混乱するな、と言う方が無理な話だ。そんな、他人でも混乱するような変遷が、アディにとっては「自分の歴史」な訳だ。
「…悪い。オレ、あんまり頭よくないから、1回聞いただけじゃ、当てずっぽうでも答えられそうにないわ」
半ば呆然として奏が答えると、アディは可笑しそうに吹き出した。そして、その短い髪を掻き上げ、視線を前に移した。
「母が再婚してからはイギリスに落ち着いて、今の国籍もイギリスだけど…これまでの人生、私は、どこに行っても“
「正しい…自分?」
「極端だ、って思うかもしれないけどね。物心ついた頃から“いい子”だった私には、“これだからよそ者は”って言われた経験は、たとえその回数が少なくても、しこりとなって残り続けちゃうのよ」
具体的にどんな場面でそう言われたのか知らないが、アディの中のトラウマは、ちょっとわかる気がする。極々身近に、それに近いケースがいたから。
“ガイジン”という言葉に傷つき、いつも泣いていた、幼い頃の累。同じ言葉を浴びせられても、奏は「うん、実際オレ、外人だし」と思うだけだったが、優等生で他人から非難された経験の少ない累には、たった数回言われただけのその言葉が、いまだに「日本は苦手」と言わしめるほど、しこりとなっているようだ。
「より正しいイギリス人、より正しい生徒、より正しい娘でありたい―――今、自分が属している世界から、認めてもらうために。この世界の“異端”として切り捨てられないために」
そこで言葉を切ったアディは、一瞬、チラリと奏の顔を見、それから軽く天を仰いだ。
「だから、モデルとしても、誰もが“こうあるべき”と考えるであろう、正統派の、本物のモデルでありたい。どうせモデルなんてこの程度だろう、って、モデルの仕事をなめてる人間が少なくないからこそ」
「……」
「…ごめんね」
「は?」
突然の謝罪に、奏は目を丸くし、呆けた声を上げた。
「モデルとして天性の才能を持ってる奏が―――私と同じ道を歩むと思ってた奏が、あっさりモデルを辞めた上に、もう胸張って別の仕事してるのを見て、なんだか…自分の選んだ道を、否定された気がしたのよ。モデルなんて、一生続けるのは無理な仕事なんだから、若いうちにとっとと辞めて、つぶしの効く仕事に転職した方が賢いやり方だ、って」
「い、いや、オレは別に、」
「わかってる。あなたは、私を否定なんてしてない。あなたらしい生き方をしてるだけ。私が、私らしい生き方をしてるのと同じに、ね」
そう言うと、アディは足を止め、きちんと奏の方に向き直った。
「今日の仕事ぶりで、奏の気持ち、なんとなく理解できたつもり。だから、この前、私が奏に言った言葉は、忘れて」
「……」
多分、そのことが言いたくて、帰り際に声をかけてきたのだろう。真面目かつ律儀で、白黒はっきりさせないと気が済まない性分のアディらしい行動だ。
思わずふっと笑った奏は、アディを真似るように、きちんとアディの方に向き直った。
「アディみたいな本物のモデルが、この仕事を引き受けてよかった、って思えるような“現場”を作るのが、今のオレの目標だよ」
「…ありがと」
奏の言葉の中に、自分に対する敬意を感じ取ったのだろう。アディは小さくお礼を言うと、かけていたサングラスを外し、奏に差し出した。
「あなた、ここから
「いいよ、そのまま使って。また別の機会に返してくれればいいから」
「行きつけの店に寄るから、必要ないのよ。その後はタクシーだし」
「…そっか」
では遠慮なく、と奏がサングラスを受け取ると、アディは何故か、奏の顔をじっと見つめた。
「ねえ、奏。1つ、訊いていい?」
「ん?」
「あなたがやけに日本にこだわるのって―――向こうに、恋人がいるから?」
危うく、サングラスを落としそうになった。
返事をするより先に、露骨に動揺したリアクションを見せる奏に、アディは思い切り吹き出した。
「相変わらず、正直な顔ねぇ。これじゃあ、パパラッチを騙して恋人と密会する、なんて真似は死んでも無理ね」
「…わ…悪かったなっ。どうせバカ正直な顔だよっ」
「そのサングラスは、あなたがかけておきなさい」
サングラスを握り締めている奏の手を軽く叩くと、アディは意味深な笑みを口元に浮かべた。
「元・恋人とのツーショットを撮られたら困るのは、私だけじゃなく、あなたもでしょ?」
―――またそういう、触れて欲しくない話題を…。
危険な方向に転がり始めた話題に、奏の正直な顔が、困り果てた表情になる。その変化に満足したのか、アディは話を切り上げ、1歩後ろにさがった。
「じゃ、今日はこれで。また今度、ディナーにでも行きましょ。日本の話も聞いてみたいし」
「あ…ああ、わかった」
「じゃあね」
鮮やかな笑みを残し、アディはくるりと踵を返し、去っていった。さすがは現役モデル、その後姿は、プライベートだというのに実に優雅だった。
―――まあ、事実は事実なんだけどさ。
でも、付き合ってた、っつっても―――交際期間、1週間だぜ?
忘れていた訳ではないが、改めて言葉にして思い出させられると、懐かしさより気まずさの方が大きい。
「…元・恋人、ねぇ…」
遠ざかる後姿を見送りつつ、無意識のうちにそう呟いた奏は、なんとなく重くなった気分に、小さくため息をついた。
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