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― アタラシイオト ―

 

 「おーい、如月! ちょっと!」

 『はーい』

 と、答えたつもりだった。
 代わりに出てきたのは、発音不明瞭な、掠れた声。出そうとした声が、喉の奥で引っかかって、その抜け殻だけが声になったみたいな声だ。
 けほん、と軽く咳払いをして、改めて「はい」と答えた咲夜は、書きかけの営業報告を置いて席を立った。
 「はい、なんでしょう?」
 「おっ、どうした、風邪か?」
 掠れ気味の咲夜の声を聞いて、上司は僅かに眉をひそめた。
 勿論、この上司も、咲夜のもうひとつの顔については知っている。故に、彼女が体のパーツで最も気を遣っている部分が喉であることも、当然のように理解している。風邪か、と訊ねる声は、自然と、他の社員に対する場合とは違った意味合いを滲ませていた。
 「あ、いえ…、ハハハ、ちょっと練習で無理し過ぎまして」
 「ふーん…。気をつけろよ」
 「はい」
 「ああ、それでな、お前が担当してる地区の顧客リストの件なんだが…」

 ―――ヤバイ。
 まさか、ここまで負担がかかってるとは、思わなかった。

 咄嗟に声が出なかった。その、事実。
 上司の話を真面目に聞いている顔のその裏で、咲夜は密かに、焦りのようなものを覚えた。

***

 『え、それじゃあ今って、もしかして、麻生拓海の家か?』
 「そーゆーこと」
 一成の意外そうな声に答えつつ、冷蔵庫を開ける。昨晩入れておいたビタミンC入りドリンクは、ほぼ空っぽに近い冷蔵庫の特等席を独占していた。相変わらず、生活感の薄い冷蔵庫だ。
 「留守中限定で借りてんの。騒音気にせずに大声出せるからありがたいけど、おかげでつい限度を忘れちゃってねぇ…」
 『…その掠れ声の原因は、それか。練習で喉痛めてるんじゃ、本末転倒だぞ』
 「わかってる。でもなぁ…あと1日しかないからなぁ」
 咲夜にとてつもない宿題を残していったこの部屋の主は、明後日、帰ってくる。
 留守中自由に使え、とのことで久々に合鍵を渡された咲夜は、毎日、仕事以外の時間の大半をこの部屋で過ごした。当然、この部屋にいる時間の9割が歌の練習だ。これまでにないリズム、これまでにない音階、これまでにない歌詞(そもそも歌詞がないのだが)……手強い難敵を前に、練習の止め時を失ってしまうことが多く、ついにそのツケが喉に回ってきてしまった、という訳だ。
 『そもそも、腹筋使っても喉が嗄れるってことは、無理して声出してるってことだろ。お前の音域に合ってるのか? その曲』
 「うー…それが、ねぇ…」
 ドリンクの蓋を開けながら、ピアノの上に置かれた手書きの楽譜をチラリと見る。勿論、既に楽譜を見なくても歌える状態だが、時々「ほんとにこれで合ってんの?」と心配になるので、今も常に手元に置いているのだ。
 「音域は合ってはいるんだけどね。ただ、その―――私の歌える音域の上限と下限、ギリギリいっぱいまで、フルに使ってあるから」
 『え?』
 「高い方はまだマシなんだけど、低音が、きついきつい。それに、低いとこからポーンと高いとこに飛ぶ部分が何箇所かあって、その落差がまた激しいから、うっかり喉で無理に引き上げようとしちゃうんだよね」
 『…ピアノ曲をそのまま歌おうとすれば、そりゃあ無理が出るだろ』
 2オクターブ離れた音を出すのに、ピアノならそのキーを叩くだけで済むが、人間の声帯はそう簡単にはいかない。チューニングさえすれば正しい音が出る楽器とは違い、音程がずれることもある。それを調整すべく無理をすれば、疲労し、その疲労が蓄積すれば、喉を痛める。バイオリンの磨耗した弦は張り替え可能だが、喉は交換不可だ。
 『まあ、これから歌いやすい流れに変えていくんだろうとは思うけど…だったら、変わること前提で、歌いづらいとこは無理に歌わず飛ばしとけば?』
 「うーん、でもねぇ、そーゆーとこに限って、あ、この部分面白い、とか、このフレーズかっこいい、みたいな部分だったりするから」
 『…それをあえて無視できるなら、声嗄らしてないよな』
 咲夜の歌い手としての性格は既に熟知済みの一成は、諦めたようにため息をついた。
 『まあ、お前にとってはビッグチャンスなんだから、多少は妥協して、コンディション整えることの方を優先しろよ』
 ビッグチャンス―――その言葉に、多少なりとも違和感を覚えなくもないのだが、客観的に見てそうであることに、咲夜も異論はない。
 「…なるべく、善処します」
 という咲夜の答えに、一成はちょっと可笑しそうに笑ったが、
 『うまくいけばいったで、正直、ちょっと心中複雑なものがあるけどな。同じピアニストとしても、咲夜とコンビ組んできた身としても』
 一成が付け足したその言葉には、咲夜は、どうリアクションを返せばいいか、わからなかった。


 ―――ビッグチャンス、かぁ…。
 ピアノの蓋を開き、出だしの音のキーを叩きながら、小さくため息をつく。
 拓海と同じステージに立つのが夢で、拓海が契約していたレーベルからCDを出すのが夢だった、あの頃の咲夜ならば、きっと今回の話も手放しで喜んでいられたのだろう。曲の難しさに愕然とし、同じだけの苦労をしたとしても、これで拓海に認められれば夢が叶うかもしれない、という希望の方が大きかったに違いない。
 けれど、今の咲夜は、あの頃の咲夜とは違う。
 “Jonny's Club”でそれなりの年数プロとして歌ってきたし、既に一度、拓海との競演を果たしている。拓海のピアノで歌うことの強みも、そして弱点にも気づかされた。“Jonny's Club”での仕事がなくなった今、CDデビューをしてメジャーになることより、観客の前で1回でも多く歌うことを、強く強く望んでいる。
 そして何より、一番の違い―――それは多分、咲夜が、新しい恋をした、という点。
 拓海に片想いをしていた頃は、自分の夢が「ジャズへの想い」なのか「拓海への想い」なのか、自分でも曖昧な部分があった。拓海が好きだからジャズシンガーを目指した訳ではない―――それは自分でもわかっていた筈なのに、恋愛感情が先行している間は、それすら混乱して見えなくなっていたのかもしれない。
 奏への気持ちに気づいた頃から、咲夜は次第に、ジャズと拓海を別個の物として考えられるようになった。その2つを分けられるようになると、「拓海と同じステージ」や「拓海と同じレーベル」は、咲夜の夢にとって必ずしも重要ではないことに気づいた。咲夜は、拓海のパートナーになりたいのではなく、ジャズシンガーになりたいのだから。

 ビッグチャンス―――チャンスは、掴みたい。
 でも、今の咲夜の心境は、親のコネでは就職したくない、という子供に近いかもしれない。“拓海離れ”を果たしつつある雛鳥にとって、親鳥が差し出す餌は、どんなに空腹でも手を出したくないものなのだ。
 ―――なぁんてこと言ったら、奏から怒られそうだな。
 自分を捨てた親からのオファーを、きちんとこなしているらしい奏のことを思い出し、まだまだ甘いな、と自省した。
 ともかく、与えられた課題を「私の力量では無理です」と返却するのだけは、咲夜のプライドが許さない。ペチペチ、と活を入れるように両頬を叩いた咲夜は、ようやく、いつもの発声練習を始めた。

***

 結局、いつもの如く、止め時を逸してしまい、アパートに帰り着いたのは日付が変わる直前になってしまった。
 「あー、あー、あー」
 近所迷惑にならない程度のボリュームで軽く声を出してみる。腹筋の上の方に痛みが走り、喉の奥の方がヒリヒリした。こりゃまずいな―――休んでいる暇はないのに、と、咲夜は軽く眉を顰めた。
 郵便物をチェックし、2階へ上がろうとした咲夜だったが、ちょうどそのタイミングで101号室のドアが開き、反射的に足を止めた。
 「…あれ、マリリンさん」
 当然ながら、101号室から出てきたのは、その部屋の主である真理(まさみち)だった。
 現在の真理は、妻と娘が暮らす妻の実家で生活をしていて、“ベルメゾンみそら”には、ちょうどサラリーマンが仕事をしに会社に行くように、執筆をするために毎日通ってくる。時には泊まっていくこともあるらしいが、基本はそういう生活様式なので、こんな時間に真理に会うことは極めて稀だ。
 「おや、咲夜ちゃん。お久しぶり」
 「お久しぶり……って、ちょっと、何でそんなカッコしてんの?」
 危うく自然にスルーしてしまいそうになったが、目の前にいる真理の服装は、どう見ても“真理(まさみち)”ではなく“真理(まり)”仕様だ。当たり前のように「マリリンさん」と呼んでしまったのも、慣れ親しんだこの格好だったせいだろう。
 「ああ、これ? 気分転換にやってみたんだけど、疲れちゃったんで、このまま帰ろうかと思って」
 「…帰って大丈夫なわけ?」
 「大丈夫でしょ。梨花さんと杏奈ちゃんは問題なしだし、義父母はとっくに寝てる時間だし」
 とあっさり答える真理の声は、地の姿の時より数音高く、口調も完全に女性だ。あのお人形のように愛らしい娘が、「これ」を「パパ」と呼んでいたのを思い出したら、微かに頭が痛くなってきた。
 「咲夜ちゃんも随分と遅いわねぇ。それに、なんか声が―――風邪?」
 「あー、いや、そうじゃなくて、ちと練習しすぎで、喉がへばってるだけ」
 「あらま。せっかく練習しても、喉痛めてたんじゃ意味ないでしょうが」
 一成だけでなく、真理にまで言われてしまった。ごもっともです、としか言いようのない指摘なのだから、言われて当然なのかもしれないが。
 「ハ、ハハ…、私もそう思うんだけどさ。明後日には、どこまで歌えるようになったかのチェックが入ることになってるんだよね。まあ暗譜で一通りは歌えるけど、合格レベルとは言い難いから、ちょっと焦ってるのかも」
 「ははぁ…、なるほど」
 引きつった笑顔で答える咲夜に、真理は腕組みをし、うんうん、と頷いた。
 「わかるわかる。タイムリミットが間近に迫ってるってのに、まだ納得のいくものが仕上がってないと、ついつい根を詰めちゃうもんなのよ。頭では非効率的だってわかってても、宿題抱えたまま休む気になれないのよねぇ」
 「…なんか、やけに実感こもってない?」
 「そりゃあ、締め切りに追われる生活をしてますから」
 「あ。そっか」
 「今だって、次の原稿、3分の1まで書いたところで止まっちゃってね。もう4日間も、原稿用紙1枚に満たない分を、書いちゃあ消し、書いちゃあ消し、の繰り返しよ」
 「ひえぇ…」
 かねてから、創作活動とは大変なことだ、と漠然と思ってはいたが、現実は想像より過酷そうだ。もし咲夜が真理の立場だったら、どれほど執筆業が好きでも、もはや拷問としか感じられないだろう。
 「締め切りまで余裕があるってのにこれじゃあ、アタシも咲夜ちゃんに偉そうなこと言えたもんじゃないか…。よし、決めた。明日は1日、完全オフにしよう」
 「はっ? え、それで大丈夫なの?」
 「大丈夫大丈夫。こういう時はね、変に頑張っても結果は出ないの。開き直って休んじゃって、考えてた文章が全部頭から吹っ飛んじゃった後に、改めて机に向かうと、不思議といい文が浮かんだりするんだから」
 そう言うと、真理はポン、と咲夜の肩を叩き、ニッコリと笑った。
 「咲夜ちゃんも、開き直って、喉を休めることに専念してみたら?」
 「…うーん…」
 「ま、とにかく、無理しないように。じゃ、おやすみ」
 もう一度咲夜の肩を叩くと、真理はヒラヒラと手を振りながら、去って行った。明日は休み、と決めたせいなのか、その足取りはやけに軽い。
 ―――ていうか、やっぱマリリンさん、そーゆー趣味あるんじゃないの?
 歩き方まで女性化している真理の後姿を見送りつつ、今更ながら首を捻る。
 性的嗜好がノーマルで性転換願望もないけど女装は好き、という人は、結構いそうな気がする。女装、と考えるから見方が偏りがちだが、コスプレ、と考えれば妻子持ちの愛好家がいても不思議ではない。まあ、観光地などでは、貸衣装を着て記念撮影する商売などもあるようだから、変身願望は誰でも持っている、ということなのかもしれないが。
 「…開き直って、か」
 真理の姿が消えると同時に、ポツリと呟く。
 既に暗譜しているし、歌詞は元々ないので覚える必要もない。スキャットの発音はその時の気分で変わる可能性もあるが、この1週間の歌い込みで自然と音が固定されてしまったので、いまや、考えるまでもなく次の音が出てくる状態だ。不安要素は、音程の不安定さだけ―――それだって、喉の調子が悪ければ、いくら練習しても逆効果にしかならない。
 ―――よし。開き直るか。
 このタイミングで真理に会ったのも、何かの縁だろう。たまには神様のいうことも聞いておくか、と、咲夜は肩を竦め、郵便受けに入っていたチラシをくしゃっと握りつぶした。

***

 運命の土曜日は、雨だった。

 「おおー、来たな。雨の中お疲れさん」
 まあ入れ、と促す拓海の手には、早くも楽譜が握られていた。恐らく、咲夜を待つ間、来月のライブ用のアレンジなどを手がけていたのだろう。帰宅してまだ大して経っていないだろうに、全く元気なことだ。
 「で? どうだった? 1週間歌い込みした感想は」
 「……しんどかった。正直、自信ない」
 見栄を張ったところで、歌えばすぐにバレることだ。咲夜が素直に答えると、ピアノの前で振り返った拓海は、さもありなん、という顔でニヤリと笑った。
 「まあ、順当な感想だな。暗譜は?」
 「それは、大丈夫。どう考えても歌い辛いとこあるけど、とりあえずはそのまんま覚えた」
 「OK。さて…どうする? 始める前に一旦休憩するか?」
 「ううん、いい―――あ、水だけ1杯飲ませて」
 どうぞ、と拓海が目で答えるのを確認してから、咲夜はキッチンに回り、置いてあったグラスに水を汲んだ。
 丸々1日休んだせいか、しとしとレベルの雨が幸いしてか、このところ不調気味だった喉の調子は随分と楽になっていた。一口水を飲んで、軽く声を出してみたが、一昨日まであった違和感は綺麗に消えている。やはり、あのタイミングで真理と会ったのは、神様からの「休め」のお告げだったのかもしれない。
 ―――よし、大丈夫。
 音程の不安が解消した訳ではないが、喉の調子が良ければ、なんとかなる気がしてくる。最後まで水を飲み干した咲夜は、はーっ、と大きく息を吐き出し、トン、と音を立ててグラスを置いた。
 「あのさ、拓海。1つ、訊いていい?」
 「何?」
 「この曲って、歌詞つける予定はないの?」
 既にピアノの前に座り、楽譜の見直しをしていた拓海は、僅かに顔を上げ、目だけを咲夜の方に向けた。
 「歌詞が欲しいのか」
 「うーん…欲しいっていうか、歌詞ないと、歌に感情を込め難いよね。タイトルもないし。何を表現したい曲なのか、どこにもヒントがないから、どうもノリきれなくて」
 「表現したいことなら、この前教えただろ。“音”を“楽”しむ、だ」
 「それはわかってんだけどさ。ほら、同系統でも、“It don't mean a thing”なんかは、歌詞で伝えたいことが理解しやすいじゃん。他の曲にしても、ああ、これは別れの切なさを歌ってるんだな、とか、愛について語ってるんだな、とか、歌詞から情景をイメージできるし」
 「ハハ…、要するに“言葉で説明してる”ってことだろ」
 「説明、て…」
 「ああ、別に、歌詞を字幕スーパー扱いしてる訳じゃないぞ。ボーカル曲なら、咲夜の言うとおりだと、俺も思うさ。ある決まったストーリーやドラマを歌で表現する―――そういう曲なら、まずは歌詞ありき、って訳だ」
 そう言うと、拓海は、手元の楽譜をパチンと指で弾いて、ニッと笑った。
 「でも、こいつは、ボーカル曲じゃない」
 「……」
 「“言葉”は、いらない。ドラマもストーリーもいらない。必要なのは“音”と、それを“楽”しむことだけだ。客も、“音”を聴いて、それを“楽”しんでる俺たちを見て、頭で考えるんじゃなく体でこの曲を感じりゃ、それでいい。そういう曲だ」
 「…だったら、ボーカル入れる意味、ないんじゃない? ピアノじゃ高音部分納得いかないなら、他の楽器でも…」
 「他の楽器でもいいなら、別にボーカルでもいいだろ。ボーカリストが“歌詞”を歌うもんだなんで、誰が決めた?」
 そう言われると、反論の余地がない。うっ、と言葉につまった咲夜は、「そりゃそうだけど…」と口の中で曖昧に呟いた。
 「まあ、お前はずっとボーカル曲を歌ってきたからな。この10年、ひたすら、歌詞に込められた想いを歌にするための表現力を磨いてきた訳だから、歌詞なし、タイトルなしじゃ、戸惑うのも無理ないさ」
 「その曲を作った本人に、同情的なこと言われてもねぇ…。こんな難しい曲、もっとキャリアのあるボーカルに頼めばいいのに」
 なんで私に、と、少し恨みがましい目をする咲夜に、拓海は苦笑し、ちゃんと体ごと咲夜の方を向いた。
 「お前、自分が初めてジャズを歌った時のこと、覚えてるか?」
 「え? えっと……いつ?」
 「多恵ちゃんの歌を、ジャズバーで初めて聴いた日」
 「…それって、私が、ジャズシンガーってもんの存在を初めて知った日じゃん」
 中学1年の、あの日。拓海のピアノで歌う多恵子の歌声を聴いて、咲夜は、魂全体が揺さぶられたような気がした。あんな風に歌いたい、ああいう歌を歌ってみたい―――憧れから発したその言葉に、拓海が応えてくれて、咲夜はジャズシンガーを目指すことになったのだ。
 「ジャズが歌いたい、とは言ったけど、歌ったっけ?」
 「歌ったよ。間違いなく」
 「…ごめん。覚えてない」
 「そりゃ残念。俺の人生の中じゃトップ3に入る、衝撃受けたシーンだったのに」
 「はっ?」
 「あれは凄かったなぁ」
 遠い日を懐かしむように、拓海は視線を上げ、僅かに目を細めた。
 「音程違ってるとこもあったし、忘れたからハミングで誤魔化してたとこもあったけど―――咲夜が歌った“Summertime”は、多恵ちゃんが歌った“Summertime”を、見事にコピーしてた。たった1回聴いただけで、ね」
 「……」
 「あの時の咲夜は、あの歌の意味も知らなかったし、歌詞も知らなかった。多恵ちゃんが歌った歌詞…というより“音”を、耳が記憶して、“音”として再現しただけだ。曲の解釈もなし。歌に込める感情や想いもなし。咲夜はただ、多恵ちゃんの歌を聴いて、その“音”を“楽”しんで歌ってた」
 “音”を、“楽”しむ―――今、咲夜の手の中にある曲に通じる言葉に、ドキン、と胸が鳴った。
 「俺が初めてピアノを弾いた時も、あの時の咲夜と同じだった。楽譜は読めない、楽典の知識も皆無、どの鍵盤がどの音を出すかわからない―――でたらめに鍵盤叩いて、その音を面白がってつなげてたら、音楽になってた。それが、俺の原点。この曲は、そういう原点に戻りたくて作った曲だ」
 「原点…」
 「お前も、俺と同じ、頭で考えずに本能で“音”を“楽”しむことができる人間だ。だから、この曲がピアノだけじゃ足りないと悟った時、デュオにするなら、どの楽器より咲夜がいいと思った」
 「……」
 「心配するな。“言葉”ありきのボーカリストには馴染みがなくても、俺たちにとっては、“言葉”のない音楽がスタンダードだ。とにかく、頭空っぽにして、1回歌ってみろ」
 全ての話は歌ってみてからだ、と言わんばかりに、拓海はそう言い切り、ピアノの角をトントン、と叩いた。ここに来て歌え、という昔からのサインだ。
 ―――うーん…拓海の言いたいことは、なんとなくわかるけど…。
 確かに、数ある楽器の中で、“音”ではなく“言葉”を発するのは、歌手という名の楽器だけだ。音楽に“言葉”は必須ではない、それは、咲夜にも理解できる。けれど―――音楽に必須でなくても、「歌手には」必須なのではないだろうか? タイトルがあったり、もっと単純な曲であれば、まだマシかもしれないが、こんなに複雑な曲を、歌詞なしに、人間の声を使ってやるメリットなどあるのだろうか?
 拓海の狙いは、わかるようで、いまいちはっきりしない。けれど、拓海自身だって、本当はよくわかっていないのかもしれない。頭では考えていても、まだ咲夜とピアノを合わせた訳ではないのだから。企画倒れであれ考え違いであれ、とにかく、一度歌ってみればわかる筈―――意を決した咲夜は、ピアノの傍らへと歩み寄った。

 「発声練習は?」
 「あー、音階と、曲の最初の1音だけもらえる?」
 ポーン、と、発声練習の最初の音が響く。その音に合わせて、咲夜は声を張り上げた。
 家でも発声練習はしてきたが、雨で多少喉が冷えていた。その割には、低音から高音まで、比較的楽に出すことができた。幸い、喉の調子は悪くなさそうだ。
 「アドリブ部分は、今日はひとまず、俺が適当に弾いて省略する。入りのタイミング合図するから、見落とすなよ。それと、渡したデモ演奏とは違うフレーズを弾くから、引きずられるなよ」
 一通りの発声練習を終えると、拓海はそう言い、シャツの袖をまくり上げた。
 咲夜もその言葉に頷き、表情を引き締めると、拓海からのアイコンタクトを見逃さないよう、視線を拓海の横顔に据えた。
 そうして、タイトルも歌詞もない曲の、初めてのセッションが始まった。

 前奏は、4小節。入りのタイミングで、一瞬、拓海がこちらに視線を送る。反射的に、咲夜は、最初の1音を口にしていた。
 咲夜の歌うメロディと全く同じ音を、拓海の右手が奏でた。勿論、和音になっていたり、多少のフェイクは入っているが、基本的にはユニゾンのまま、6小節―――7小節目で初めて、歌声とピアノの音が、ハモった。
 ―――あ、そっか、デュオだとこうなるんだ。
 一昨日まではなかった音だ。咲夜が主旋律と思っていた音が、実はハモりの部分であったことに気づく。へえっ、面白い―――新鮮な驚きに、歌う咲夜の表情が明るくなった。
 掛け合いになったり、和音になったり、一方のソロに対するバックコーラスのようになったり―――歌声とピアノの音の関係性は、めまぐるしく変化する。1人で歌っていた時にはなかった変化に、咲夜はその都度驚きつつ、次第にそれが楽しくなってきた。

 ―――楽しい。
 メチャクチャに見えて決まると最高にかっこいいリズムも、僅かなずれもない絶妙のハーモニーも、楽しくて、楽しくてたまらない。

 歌詞がないと歌い難いなどと、何故思ったのだろう? こんなに自由に声が出せる。まるで、ボーカリストという名の足枷から解放されたかのように、ただ音楽を奏でる1つの楽器として、何にも制約されずに歌える。本当の意味で頭を空っぽにして歌えたのは、これが初めてかもしれない。
 初めて経験する類の楽しさに、咲夜の頭からは、余計なことは一切吹き飛んだ。曲の解釈、などという小難しいことは勿論のこと、練習時に上手く歌えなかった箇所への不安や、歌える音程ギリギリの音のことも。
 そして気づけば、あまりの高低差に泣かされ、喉を痛める結果になった箇所も、少しも無理をすることなく、あっさり歌いこなしてしまっていた。咲夜本人が、歌えたという事実に気づかないままに。
 アドリブを大幅カットしての、約3分の演奏―――結局咲夜は、一度も戸惑うことなく、タイトルも歌詞もないその曲を歌いきった。

 「…………」
 歌い終わっても、暫く、声が出なかった。
 歌っている間、咲夜の顔に浮かんでいた笑みは、今はすっかり消えていた。まるで憑物が落ちたかのように、咲夜はどこか呆然とした表情で、言葉もなくその場に立ち尽くしていた。
 鍵盤から手を下ろした拓海は、咲夜の方を見て、少し驚いたような顔をしていた。予想以上の結果に、拓海本人も驚いているのかもしれない。
 ほんの数秒、僅かに目を丸くして咲夜を見ていた拓海だったが、やがて、まるで咲夜の目を覚まさせるかのように、ピアノの一番低いキーを叩いた。
 「!!」
 はっ、と我に返った咲夜の目が、拓海の視線とぶつかった。咲夜が「帰って来た」のを見届けると、拓海は、不敵ともいえるような笑みを口元に浮かべた。
 「―――やるな。なかなか」
 「……」
 「咲夜なら絶対歌えるとは思ってたが、まさか1週間で、俺に本気出させるとは、な」
 ゾクリ、と、何かが、背中を這い上がった。
 本気……そう、今のはまさに、本気だった。仕上がり具合を確認するためのものではなく、ピアノと歌の、本気のぶつかり合い―――真剣での斬り合いだ。
 ―――怖い。
 本能的に、恐怖を、覚えた。
 得体の知れない、恐怖―――何だろう、何か、とてつもない体験をしてしまった気がする。その予感に、武者震いに近い震えが咲夜の体に走った。
 「じゃあ、1週間でここまで歌いこなしたご褒美に、これをやろう」
 立ち上がりつつそう言うと、拓海は咲夜のもとに歩み寄り、その頭に、大きな手をポン、と乗せた。
 「?」
 キョトンとする咲夜の目の前に突きつけられたのは、1枚のハガキだった。
 モノクロで加工も入っているのでわかりにくいが、そこに印刷された人物像は、拓海らしい。日付やチケットの値段などが書かれているところを見ると、いわゆるフライヤーと呼ばれるものの類のようだ。
 クラブやライブハウスに行けば、似たようなハガキを大量に目にすることができる。ただし、目の前のフライヤーは、1点だけ特異な部分があった。
 “Live”という単語と同じくらいの大きさで印刷された、“London”の文字―――そして、フライヤーのどこにも、日本語は1文字も見つからない。
 「お前に妬かれるとまずいから黙ってたけど、3月頭には正式決定してたんだ」
 「…これって…」
 「そう。麻生拓海、初の、ロンドンでのライブ。8月だ」

 ロンドン。
 8月。
 2つの言葉が、頭の中でパチンと弾ける。それと同じタイミングで、拓海はフライヤーを咲夜の手に握らせ、ニッと笑った。

 「合格だ。週明けにでも、有給休暇とパスポートの申請をしてこい」


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