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― Quatre-Quarts -1- ―

 

 「え? 倒産、って……」
 「……そういうこと」
 どんよりと沈んだ表情で優也が答えると、蓮の切れ長の目が、珍しい位にまん丸になった。
 「そんなに経営が行き詰ってるようには見えなかったぞ?」
 「うん。確かにそこそこ繁盛してたんだけどね」
 優也が登録している、家庭教師センターの話である。
 昼間、突如携帯電話に連絡があり、何事かと馳せ参じた結果、出てきた答えが「倒産」だ。優也と同じように呼び出された登録家庭教師が何人もいたが、全員茫然自失の様子だった。
 「昨日のニュースで、なんとかっていう大手の進学塾がつぶれた、ってのがあったんだけど、穂積知ってる?」
 「ああ…あれか。副社長が会社の金使い込んで雲隠れしてるとかいう」
 「そう。うちの家庭教師センターって、あの塾の系列会社だったんだって」
 「…なるほど」
 それだけで、優也のバイト先に何が起きたのか、おおよその見当はついたのだろう。ため息混じりに呟いた蓮は、気の毒そうな目で優也を流し見た。
 「生徒の方の救済はあるかもしれないけど、登録してる家庭教師へのフォローなんて、当然、ないよな」
 「…全然。特に僕みたいに生徒持ってない待機中の登録者は、履歴書返却されておしまいだった」
 「まあ、自分たちの先行きもわからない状態なんだから、無理もないか」
 「話してる間、電話が鳴りっ放しだったし、ダンボールがあちこち積まれてて、なんかもう事務所丸ごとパニック状態っぽかったよ。あんな様子見せられたら、わかりました、って言うしかないよなぁ…」
 優也がそう言ってため息をつくと同時に、エレベーターが1階に到着した。狭いエレベーター内で話すような話題でもないので、そこでこの話は一旦保留となった。
 「やっぱり、結構混んでるかな」
 「どうかな。夕方の方が混むだろうけど」
 「夏休みに海外旅行計画してる人なんかが申請する時期だから、平日昼間でも混んでるかもなぁ…。穂積は、パスポート取らないの?」
 「今のところ、予定ないし」
 「…だよね。僕だって別に取りたくないんだけどなぁ…。海外旅行とか、あんまり興味ないし」
 この金欠の時期に、不本意にもパスポート申請をする羽目になったことを、思わず愚痴る。これが、友人との卒業旅行のためのパスポート申請であったなら、こういう不満もないのだろうが―――おめでたいこととはいえ、甚だ迷惑な話だ。

 目的の階に到着し、旅券センターに向かうと、早くも窓口に並んでいる人々の列が目に入った。
 「うわ…やっぱり混んでるなぁ…」
 「ギリギリ昼休みタイムだからな」
 出直そうかな、と優也が思った、ちょうどそのタイミングで、隣を歩く蓮の足が、ピタリと止まった。
 「……」
 「? どうかした?」
 気づいた優也が声をかけたが、蓮は、前方に目を奪われたまま、何も答える様子がない。怪訝に思いつつ、蓮の視線を追った優也は、そこに1人の人物の姿を見つけ、瞬時に納得した。
 そこにいたのは、咲夜だった。
 勤め先の制服か何かなのだろうか、普段の彼女の趣味とは明らかに違う、チェック柄のキュロットパンツという服装の咲夜は、ちょうど旅券センターから出てきたところのようだ。手に持った書類をバッグに押し込んでいるので、恐らく彼女も、パスポートの申請に来たのだろう。
 咲夜の方も、自分を見ている2人組に、すぐ気づいたらしい。顔を上げたと思ったら、直後、少し驚いたように目を見開き、笑顔でこちらに駆け寄ってきた。
 「あれー、奇遇だね、2人とも」
 「ど、どうも…」
 あたふたと頭を下げる優也の隣で、蓮は落ち着いた様子で「こんにちは」と挨拶した。由香理と廊下や道端で会った時もそうだが、どうも優也は、相手に対する好意の大きさとは無関係に、知り合いに突然会う、というシチュエーションそのものに弱いらしい。
 「2人揃ってパスポート、って、何、夏休みに海外旅行にでも行くの?」
 「あ、いえ、その…今日は、僕の申請手続きに、穂積に付き合ってもらってるんです」
 優也が答えると、咲夜は興味を持ったように目を輝かせた。
 「へー、どこ行くの?」
 「…ハワイです。母方の親族が、あっちで結婚式挙げる、って言って、一族郎党招待しちゃったんで」
 「おおー、豪華。もしかして初海外?」
 「あ、いえ。うちの高校、修学旅行が海外だったんで、2度目です」
 素直に答えたら、咲夜だけではなく蓮までもが、聞き捨てならん、という感じで軽く眉を上げた。
 「うっわ、ブルジョア。うちの高校なんて、登山に牧場体験実習だったのに」
 「…俺んとこも、冬山でスキー教室だった」
 「すすすすすみません」
 別に謝るようなことではない筈だが、反射的に謝ってしまった。が、咲夜も蓮も、本気で優也を羨ましがったり妬んだりしている訳ではないので、そんな素直すぎる優也の反応に、2人同時に吹き出してしまった。
 「あっはは、冗談冗談。まあ、おめでたい話で何よりじゃん」
 「はあ…」
 ―――めでたくはあるけど、その花嫁が僕の叔母さんで、しかも再婚だって点は、どうなんだろうなぁ…。
 正確な年齢は怖くて確かめていないが、母が父と結婚した時、その叔母は高校生だった、と聞いている。母の結婚した年齢を知っている優也としては、純白のウエディングドレスに身を包んだ叔母を見るのが、楽しみというより不安である。
 「咲夜さんも、パスポートの申請ですか」
 冷や汗状態の優也をフォローするかのように、蓮が訊ねる。親戚の結婚式についてこれ以上突っ込んで訊かれずに済みそうだな、と、優也は密かに胸を撫で下ろした。
 「ああ、うん。急に海外行く予定が出来ちゃって」
 「…もしかして、一宮さんの所ですか?」
 蓮が発した一言に、優也はハッとして、咄嗟に蓮の横顔を伺ってしまった。
 が、蓮の表情は、優也が予想していたのとは対照的に、不思議なほど穏やかで、むしろ微笑んですらいるように見えた。逆に、咲夜の方が、困ったような気まずいような、なんとも形容しがたい苦笑を浮かべた。
 「あー…いや、まあ、行き先はロンドンではあるんだけどさ。目的は奏じゃないんだよね」
 「え?」
 「し、ご、と。歌を歌いに行くわけよ、ロンドンに」
 「えっ!」
 さすがに、蓮だけでなく優也も声を上げてしまった。2人のその反応を見て、咲夜はすかさず、言葉を付け足した。
 「あああ、っつっても、私自身のライブがある訳じゃないよ」
 「え、じゃあ…」
 「実は、とあるピアニストが作った曲を、私が歌うことになってね。その人、8月にロンドンでライブやるから、そこでその曲歌うために、私も同行するってわけ」
 「へえー…そうなんですか」
 ゲストを海外まで連れて行くなんてこともあるのか、と優也は単純に驚いたが、その隣で、蓮の方は何故か少し表情を硬くしていた。そして、まるで確かめるのをためらっているかのような口調で、ポツリと訊ねた。
 「ピアニスト、って―――麻生拓海、さん、ですか」
 優也にとっては、初耳の名前。だが、咲夜は露骨にびっくりした顔になった。
 「え…っ、な、なんで蓮君が拓海のこと知ってんの!?」
 「…藤堂さんに会った時、たまたまCDが店内に流れてて……この人が咲夜さんにジャズを教えた人だ、って教えられただけです」
 「なんだ、まぁた一成が情報源か。全く…」
 しょうがないなあいつは、と言わんばかりに、不服そうに唇を尖らせた咲夜だったが、事情を飲み込めずにいる優也の様子に気づき、即座にフォローしてくれた。
 「私の父親が再婚した人の弟が、麻生拓海。つまり、私の叔父さんに当たる人」
 「あ…そう、ですか」
 今時珍しい話でもないことは理解しているが(事実、叔母も再婚なのだし)、予想もしていなかった「父親の再婚」という言葉に、ドキリとしてしまった。けれど、咲夜にとっては、特に触れたくない話題でも何でもないらしい。説明する咲夜の顔に、言い辛そうな様子は微塵もなかった。
 「才能はあるんだけど、強引で気まぐれな奴でねぇ。来月のライブで発表する筈のピアノソロの曲を、今更、ボーカルとのデュオにしたい、なんて言い出して、そのとばっちりを受けてるわけ」
 「来月……じゃあ、日本でもその歌、聴ける機会、あるんですか?」
 さすがはファン、咲夜の一言に反応して、すかさず蓮が訊ねた。が、答える咲夜の表情は、少し困ったような顔だった。
 「一応、その予定にはなってるけど、当日までにお客様の前に出せるレベルになってるかどうか…。まあ、間に合わなかったら、来月のライブは拓海のピアノソロとして出すらしいけど」
 「でも、間に合えば歌うんでしょう? いつですか?」
 「18日の、金曜日……え、もしかして、聴きたいとか思ってる? 前売り券、完売しちゃったよ?」
 「当日券なら、チャンスは残ってますから」
 さも当たり前のように答える蓮に、さすがの咲夜も、言葉を失う。やがて、降参したかのように息をつき、苦笑を浮かべた。
 「…わかった。じゃあ、後で蓮君とこの郵便受けに、チラシ入れとく。場所とか時間とか合いそうなら、是非どうぞ。ただし、無理しないでよね。拓海レベルになると、チケットも結構な値段するし、私が歌うのはホントにその1曲だけなんだから」
 「はい」
 ―――うわー…、穂積が笑ってる。
 いや、勿論、普段でも蓮は十分笑ったりしているのだが、なんだかその“質”が微妙に違っているように、優也には思えた。少なくとも、蓮がこんな柔らかで嬉しそうな笑い方をするのを、優也はこれまで見たことがない気がする。
 「…っと、やばいやばい、いい加減会社戻らないと」
 腕時計をチラリと確認した咲夜は、そう言うと、2人に向かって慌しく「じゃあね」と手を振り、足早に去って行った。キュロットパンツという服装のせいか、咲夜の後姿は、なんだかいつもより少しだけ子供っぽく見えた。
 ふと蓮の方を見ると、彼は、酷くぼんやりした顔で咲夜の背中を見送っていた。その横顔が、さっきの笑顔と同じくらい珍しい表情に見えて、優也は急に不安を覚えた。
 「あの…穂積?」
 「……」
 「まさかとは思うけど、ロンドンのライブにも行こうとか思ってる?」
 途端、蓮の目がぱっちりと開き、驚いたように優也の方に向けられた。
 「え? なんで?」
 「い、いや、なんか、そこまでしそうな勢いに見えたから…」
 「まさか。いくら俺でも、さすがに無理だよ」
 「…だったら…いいけど」
 「だから、来月のライブは、絶対行かないと」
 そう言うと蓮は、再び、咲夜が走り去った方角に目をやった。優也の存在を忘れたみたいにまたぼんやりし始める蓮を眺めつつ、優也は複雑な心境に眉根を寄せた。

 『俺が自分の手で幸せにできれば最高だろうけど―――咲夜さんには、もう、幸せにしてやれる男がちゃんといる。俺は、咲夜さんから幸せを取り上げるような真似はしたくない。だから、どんなに咲夜さんが好きでも、一宮さんに取って代わろうなんて思わない。ただ、それだけだよ』

 以前、蓮はそう言っていた。咲夜の後姿を見送る時、奏の名を口にする時、蓮は辛そうでも苦しそうでもない。きっと、あの時の言葉は、嘘でも誤魔化しでもない、蓮の本当の気持ちなのだろう。
 自分が由香理に片想いしていた時と似た心境なのだと考えれば、蓮の気持ちはわからなくもない。が、優也の時は大きな違いが、1つだけある。それは、優也は由香理の好きな人や恋人を全く知らないが、蓮は咲夜の相手をよく知っている―――知っているだけでなく、2人が仲睦まじく暮らすすぐ近くで、毎日のように2人の姿を眺めざるを得ない生活を送ってきた、という点だ。
 もし、優也がそんな立場なら……耐えられない。早く他の人を好きになれるよう努力するか、2人から離れるために引っ越すだろう。
 なのに蓮は、咲夜のファンであることをやめないし、いずれは奏が戻る筈の場所に、今も住み続けている。そういう蓮の気持ちは、優也にはいまいち、理解できない。
 ―――2人が仲良さそうなのを見ても平気な程度の“好き”なのかなぁ…? それとも、平気なフリしてるだけで、内心は凄く辛かったり苦しかったりしてるのかな。
 もし無理をしているのなら、彼が心惹かれるような女性が早く現れてくれることを、心から願う。
 咲夜に向けて蓮が返した、あの笑顔―――どうせならば、あんな笑顔を蓮にも返してくれる人にこそ、ああいう笑顔を見せて欲しい。蓮が大好きだからこそ、優也はそう願ってやまないのだった。

***

 『どう? 決まった?』
 「…ううん、まだ」
 電話の向こうの理加子に答えながら、優也は、床の上に広げた求人雑誌をまためくった。
 「この前のとこ、一応面接には行ったんだけど、その場で不採用って言われちゃったから」
 『えぇ〜? なんでよ、優也の何が気に食わないのよ。確かシュークリームか何かのスタンド販売だったでしょ?』
 「…面接した人が、なんか、見た目凄く怖い人で……しかも、訊き方も、引っかかってボロ出すの待ってるみたいな意地悪っぽい質問が多くてさぁ…。なんでうちに応募したの? 他の店より何かピンと来る部分でもあったの? 特にないの? だったら他行けば? みたいな感じで延々ねちねちやられて―――声は震えるわ、言葉は出てこないわで、散々だったんだ」
 『はあああぁ!? 何それっ!』
 まるで我が事のように憤慨した声で、理加子が叫ぶ。あまりの大声に、優也は思わず反射的に携帯電話を耳から離してしまった。
 『そんな人が採用担当になるようなお店、絶対まともじゃないわよっ。こっちから願い下げよ。落ちて正解だったのよ、優也!』
 「う、うん。わかってる。ありがとう」
 実際、あの採用担当者と毎日のように顔を合わせなければいけないバイト先など、こちらから願い下げだ。いかに向こうに正当な理由があろうとも、あのねちねちした嫌味な質問の仕方はいただけない。負け犬の遠吠えと言われようとも、不採用で正解だったと、心底思う。
 『やっぱり優也には、家庭教師みたいなのが合ってるんじゃない?』
 「うーん…でも、こういう雑誌で募集してる家庭教師は、みんな登録制で、生徒来るまで待機中になっちゃうからなぁ…」
 『そっかぁ…。じゃあ、また接客業、いってみるの?』
 「できればそれ以外がいいけど…学生歓迎って、本当に体力勝負か接客業ばっかりなんだよね」
 更にもう1ページめくってみたが、そこにズラリと並ぶ求人広告は、いずれもホールスタッフや販売などの接客業ばかりだ。たまに違う職種も混じっているが、そういうのに限って体格の貧弱な優也には向かない仕事である場合が多い。贅沢を言うつもりはないのだが、そんな訳で、6月になった現在に至っても、まだ優也の希望に沿った仕事が見つからない。
 「今週号はもう見尽くした感があるし、来週号出るまで、ちょっと待とうかなぁ…」
 『そうねぇ…』
 ため息をつく優也に合わせるように、理加子も小さくため息をついたが。
 『…あ、そういえば、須賀君とこで、アルバイト募集してた』
 「え?」
 突然の話に、須賀君て誰だっけ、とポカンとしてしまった。が、すぐに思い出した。理加子の高校時代の同級生で、カラオケ店でバイトをしていた、あの愛想の良い人物のことだ。
 「それって、カラオケ店員のバイト、ってこと?」
 『あんまりよく見なかったけど、一昨日行った時、入り口のとこに“急募”って貼紙があったの。ただ“短期”って文字も見た気がするから、普通の店員ではないのかも』
 「短期、かぁ…」
 1人でカラオケには行けない、と言っていた理加子が、またあの店に行ったらしいのは、少々驚きだ。が、今はそれより、バイトの話の方が気になる。
 短期の仕事、というのは、これまでにもいくつか見かけた。その中には、興味を持って電話してみたケースもあった。が、短期ものは人気があるのか、いずれも「既に決定してしまいました」という返事で、まだ面接すらしたことがない状態だ。
 カラオケ店のバイトで、かつ、短期―――どんな仕事なのか、さっぱり見当もつかない。けれど、こうして理加子から話が来たのも、何かの縁かもしれない。
 「…とりあえず、その貼紙、見に行ってみようかなぁ…」
 何度も読み返したせいで随分くたびれてしまった求人雑誌を閉じ、優也は結局、そう決断したのだった。

***

 善は急げ、ということで、さっそく翌日、理加子と一緒に件のカラオケ店に出向いた。
 理加子が言っていたとおり、カラオケ店の入り口には、結構目立つカラーリングで「アルバイト急募」の紙が貼られていた。
 「土・日の昼間、3〜5時間程度のお仕事です……やだ、これだけ? それに、時給600円から、って妙に安くない?」
 「“から”が気になるなぁ…時間帯で時給が変わるのかな。うーん…何の仕事なんだろう?」
 情報のほとんどない求人広告を前に、2人して途方に暮れる。「詳細は従業員まで」と書いてあるので、ひとまず、店内の受付カウンターまで行ってみることにした。

 平日の昼間ということもあり、カウンターには、男性従業員1名しか入っていなかった。
 勇気を出して訊ねてみたら、従業員は、カウンター奥のドアに向かって「店長ー」と声をかけた。やがて出てきたのは、30代半ばと思しき、丸顔の男性だった。
 「アルバイトの希望の方ですか。あー、どうぞどうぞ。こちらで説明しますので」
 店長に促された優也は、理加子には受付前にあるソファで待っていてもらうことにして、店長と共にカウンター奥のドアをくぐった。
 そこは、簡単な事務室のような部屋になっていて、事務机やパイプ椅子、長机などが雑然と並んでいた。簡単な自己紹介の後、パイプ椅子に座るよう言われた優也は、長机を挟んで店長と向き合う形になった。
 「ええとですね、求人ポスターにもあったとおり、募集しているのは短期のバイトさんでしてね。仕事の内容は、ホラ、駅前なんかでよく見るでしょう、広告の入ったポケットティッシュを配ってるやつ。アレです」
 当然、見たことがある。というより、今日ここに来る時も、駅前で英会話教室か何かのティッシュをもらった。あの手のものは、無視する人が結構多いようだが、優也は律儀にもらってしまうタイプで、そうやってもらった分だけで日頃使うポケットティッシュは賄えてしまっているほどだ。
 「昔は長期で探したりもしたんですが、1、2回で辞めちゃう人があまりに多いんで、今は週単位での求人です。中には2週、3週と続けてくれる人もいますけど、今はちょうど先週の人が辞めちゃったんで、本当に“急募”ですよ。もう木曜日ですからねぇ」
 「はあ…」
 「ちなみに、秋吉君は、こういう仕事の経験は?」
 「い、いえ…全く」
 「そうですか。じゃあ説明しますと、こういう仕事、何百個配りきっていくら、っていうノルマ制の所と、時給制の所があるんですよね。昔はノルマ制にしてた所が多かったようですが、まとめて捨てちゃったりするケースが出て問題になったんで、だんだん時給の所が多くなってます。そんな訳で、うちも時給制なんですが、同じ賃金なら一生懸命配るだけムダ、なんて考えるバイトさんがいましてね。それで、1時間に最低何個は配るように、っていうボーダーを設けて、それを守ったか守らなかったかで、時給を変えるシステムになってるんです」
 どうやら、理加子が「安すぎる」と憤慨していた600円は、こういう裏事情があるかららしい。初心者の自分でもクリアできるボーダーなのだろうか、と優也は少々不安になった。

 その後も店長は、日雇い扱いのアルバイトであるため履歴書等の提出の必要はないこと、免許証等で身元の確認だけはさせてもらうこと、バイト料は日払いであること、アルバイト従業員がもう1人一緒に配ることになっていること、などをてきぱきと説明した。
 正直、あまり興味をそそられる仕事ではない。差し出したティッシュを無視されるのを想像すると、やめといた方がいいような気もする。
 けれど―――短期間限定のバイトで、即日払い。今までとは違う仕事をしてみたい、と考えていて、現在、節約のためかなり切り詰めた食生活を送っている自分には、ある意味、ピッタリなバイトなのではないだろうか?

 どうしますか? と問われて、かなり迷った。
 が、最終的に優也が口にした言葉は、
 「はい。やらせていただきます。よろしくお願いします」
 だった。

***

 という訳で、土曜日。

 「あれ? 君って…」
 本日一緒にティッシュ配りをやるバイトさんですよ、と紹介されたのは、優也の見覚えのある顔だった。向こうも記憶にあったのだろう、優也の顔をみるなり、驚いたように目を丸くした。
 「秋吉……やっぱり! 姫川の友達だろ? 前に、一緒にカラオケに来た」
 「は、はい」
 そう、アルバイト従業員は、あの須賀という男だったのだ。
 お互い紹介らしきことは一切されていないが、優也は理加子から彼について聞いているし、今の反応を見る限り、須賀の方も理加子から優也について聞いているのだろう。どんな人と一緒にやるのだろう、と不安だったが、全くの初対面ではない人であったことに、優也はホッと安堵した。

 今回は、15時から18時の3時間で、優也に渡されたのはポケットティッシュ1000個。時間当たり100個を下回るようだと、理加子が安いと憤慨していた時給600円になるらしい。といっても、この条件が甘いのか厳しいのか、優也には皆目見当がつかない。
 「本当は平日夜のシフトだけなんだけど、頼まれてこっちの仕事も手伝ってるんだ。真夏や冬はキツイけど、今の時期なんかは結構悪くないバイトだしね」
 ティッシュの入った袋を両手に提げて、2人して駅前まで歩く道すがら、須賀はそんな事情を優也に話して聞かせた。
 「今の時期は花粉症で需要がまだまだ高めだし、うちのは印刷の入ってない無地のパッケージで、ティッシュに入ってるチラシが50円割引のチケットにもなってるから、受け取ってもらえる率はかなり高めだと思うよ」
 「パッケージとかでも、受け取ってもらえるかどうかに差が出るんですか?」
 「ほら、チラシが入ってるだけなら抜けばいいけど、消費者金融の名前がバッチリ印刷されてるパッケージだったりすると、普段使い難いだろ?」
 「あー…そうか、なるほど…」
 「まあ、初心者が3時間で1000個は無理だけど、ここの駅、人通りは多いから心配いらないよ」
 励ますように笑顔で言われ、優也も思わず笑顔になる。
 ―――ほんとに愛想良くて人当たりのいい人だなぁ…。
 いかにも「気配りの人」という感じで、人見知り傾向の激しい優也でも、比較的緊張せずに話すことができる。きっと従業員としても優秀な方なのだろう。接客業にはまるで自信のない優也にとっては、なかなか学ぶべき部分の多い人物かもしれない。

 駅前の所定の場所に到着した2人は、須賀からの提案で、歩道を挟むようにして立ち、駅方面から来る客を優也が、駅へ向かう客を須賀が受け持つことになった。とはいえ、優也は右も左もわからない状態なので、まずは須賀が配るのを見ているよう言われた。
 「こんにちはー。カラオケボックスでーす」
 「カラオケの割引券でーす」
 誰かが通るたび、須賀は明るく声をかけ、素早くティッシュを差し出していた。何かコツでもあるのか、その受け取ってもらえる確率は、5分間観察した中では、80パーセントを大幅に超え、もしかして90パーセントいってるんじゃ、と思わせる高さだった。
 とりあえず、何と言って渡せばいいか、文言のパターンは大体出揃ったので、優也も見よう見真似で配り始めた。が、しかし。
 ―――ちょ…ちょっと待って、みんな歩くの速いって。
 渡そうと思った客は、「こんにちは」の「こん」まで言った時点で、既に優也の目の前を通過してしまう。ギリギリ間に合った、と思ったら、今度は優也の存在に気づいてくれない。声が小さすぎるのかな、と考え、頑張って声を大きくしてみたが、あまり効果はなかった。やっとの思いで渡すことができたのは、開始から3分後、歩く速度の遅かった見るからに人のよさそうな老夫婦だった。
 試行錯誤しながら10分続けた時点で、その間に渡せた数を確認した優也は、このままじゃ駄目だ、と悟った。背後に用意しておいたスポーツドリンクのペットボトルを掴み、優也は一息入れつつ、もう一度須賀の様子を観察した。
 声の大きさ―――優也が頑張って出している声と、大差ない。笑顔―――優也も努力はしているが、いかんせん、慣れていないのでぎこちないのは仕方ないだろう。第一、ティッシュを受け取る人々は、差し出す人間の顔などほとんど見ていない。笑顔の差だけで、これほど差が出るとは思い難い。
 となると、原因は、タイミングとか差し出し方とか、そういう動作の部分だろうか。もしかして、差し出されると思わず受け取ってしまうタイミングとか位置とか高さとか、そういうものがあるのだろうか?
 元来、勉強熱心で研究熱心である優也は、暫く、須賀の様子を注意深く見守った。そして、少なくとも、手元に差し出すと受け取ってもらえる率が高いらしいことを理解した。須賀の動きを見ながら、相手がどの位まで来たら差し出すのか、そのタイミングを自分の中で何度か反復し、優也は再び、仕事に戻った。
 「カラオケボックスです。お願いします」
 やって来た女性2人組の、バッグを持った手のすぐ前に、急いでティッシュを差し出す。すると、おしゃべりに夢中だった2人の視線が、一瞬チラリと差し出された物に向き、そして、すんなりそれを受け取ってくれた。
 ―――あ、あれ?
 試みた最初の1組でいきなりこの結果―――思わずキョトンとしてしまう。いや、単なる偶然という可能性もある。半信半疑ながらも、優也は、須賀のテンポを真似るようにして、再び配り始めた。

 須賀を真似るようにしてからは、受け取ってもらえる確率が、格段にアップした。
 勿論、受け取ってもらえないケースも、結構ある。が、優也の存在そのものに気づいていない、とわかるケースは激減した。そう、受け取ってもらえなかった一番の原因は、気づいてもらえなかったことだったのだ。
 ちょっとした工夫で、目に見える形で効果を実感できた、というのは、かなり嬉しい出来事だ。自分の方から行動を起こす、ということに苦手意識のある優也だからこそ、尚更に。

 「どう? 最低ライン、クリアできてる?」
 開始から1時間半経った辺りで、須賀が駆け寄ってきて、優也に訊ねた。が、腕に提げている袋の中身の残りを見て、大体のペースが読めたのだろう。優也が答える前に、そのまま言葉を続けた。
 「おっ、いいペース。結構コツ掴むの上手いね」
 「い、いえ、須賀さんが配ってるのを参考にしたんで…」
 「参考にしてすぐ実践できるってのが凄いよ。やっぱり頭の出来が違うんだなぁ。この分なら大丈夫そうだね」
 そう言うと、須賀はポンと優也の肩を叩き、また自分の持ち場に戻った。苦手と思っていた分野で褒められる、という思いがけない出来事に、優也はなんともいえないくすぐったさを覚えた。

 結局須賀は、開始から2時間半で、彼の持ち分である1000個を配り終えてしまった。
 余った時間、彼は優也を手伝い、一緒に配ってくれた。そんなことをして規則上問題はないのか、と優也は心配したが、須賀曰く、配った個数によって時給に差の出る優也とは違い、須賀は普段のシフトの時の時給で固定されているので、時間が余ったのなら優也を手伝ってくれた方が店側にはメリットになる、とのことだった。確かに、店にとっては「1つでも多くのティッシュが客の手元に渡ること」が重要だろう。引け目を感じつつも、優也は須賀の申し出をありがたく受け入れた。
 花粉症なのか、10個下さい、などと複数もらってくれる人が後半になって何人か現れたこともあり、午後6時、優也の手元に残った個数は、100個を切っていた。

***

 店に戻り、今日の分のバイト代をもらった優也は、今日はこれでもう仕事はないという須賀と一緒に帰ることになった。
 「へぇ、明日も来ることにしたんだ? 結構根性あるね」
 「最初から、そういう約束ですから」
 正直なところ、明日はパスしたいな、という気持ちも、ない訳ではない。慣れない立ち仕事と緊張のせいで、軟弱な優也の足は既に棒のようになっている。明日もこれを体験するのかと思うと、かなり憂鬱だ。
 けれど、最初から「今週の土日」という約束で引き受けたバイトなのだから、「やっぱり明日はパスします」は常識的に通用しないだろう。今後のことは別として、明日だけは約束どおり仕事をすべきだ、というのが優也の考えだ。
 「須賀さんて、この仕事、随分慣れてるみたいですけど、手伝うようになって長いんですか?」
 「そうでもないよ。3ヶ月くらいかな」
 「3ヶ月で、あの位配れるようになるもんなのかぁ…」
 「おれは元々、要領だけはいいタイプだからね。でも、本当に凄い人は、1時間に500個とか600個とか配るらしいよ」
 それは、凄い。どの世界にもプロはいるんだな、と優也はつくづく思った。
 「でも、いくらバイトが見つかるまでのつなぎとはいえ、秋吉君みたいな超エリート大学の学生が、よくこんな仕事する気になったね。知り合いに見られたら恥ずかしいから、なんて言って倦厭する奴も少なくないのに」
 隣を歩く須賀が、ちょっと不思議そうな目を優也に向ける。
 別に恥ずかしい仕事でも下賎な仕事でもないが、友人に見られたくない、と思う人がいるのは、なんとなくわかる気がする。無視され煙たがられることが少なくない仕事だと、誰もが認識している仕事―――知人に見られたら哂われるんじゃないか、という不安が優也の中に微塵もない、と言ったら嘘になる。
 でも―――優也は須賀の方を見、微かに笑った。
 「自分でも、あんまり向いてないと思うけど……だからこそ、こういう機会に、やってみたいと思って」
 「だからこそ?」
 「苦手なことって、苦手だから、って避けてたら、一生経験しないまんまでしょう? 好きなこと、得意なことだけやってたら、いつまでも成長しないままなんじゃないか、って―――短期限定で、何か新しいことにチャレンジできるんなら、思いっきり僕らしくない、この先経験するには相当勇気がいるようなことが、いいんじゃないかと思ったんです」
 「へーえ…。なんだか、姫川と似たこと言うね。あいつもこの前、今までの自分を変えたい、今までの自分らしくないことがしたい、って言ってたよ」
 感心したようにそう言ったかと思うと、須賀は、急に好奇心いっぱいの目になり、優也の顔をじっと凝視した。
 「なあ。姫川は否定してたけど、ホントに付き合ってないの、姫川と」
 「えっ」
 ギョッとした優也は、とんでもない、とブンブン頭を振った。
 「じょ、冗談でしょう!? 本当に、ただの友達ですよ!」
 「なんで? あーんな美少女、滅多にいないだろ、もったいない」
 「…もったいないなら、須賀さんが付き合ったらどうですか?」
 優也にしては珍しく、そんな意地悪な切り返しをしてみせる。勿論、須賀の気さくさに甘えて、つい調子に乗って放ってしまった悪ふざけのようなものだ。
 ところが、そんな優也の言葉に、須賀の反応は意外なものだった。
 秋吉君も人が悪いなぁ、と大笑いしてかわすか、それもいいなぁ、と調子を合わせてふざけてみせるか、どちらかだろうと思っていたのに……須賀は一瞬、キョトンとした顔をして、直後―――真っ赤になったのだ。
 「……」
 ―――あ、あれ?
 なんだか、嫌な汗が、ジワリと滲んでくる。
 どうやって誤魔化そう、と焦った優也が必死に言葉を探していると、動揺したせいか、須賀が、前から歩いてきた通行人と、すれ違いざまにドン! とぶつかってしまった。
 「うわっ!」
 「きゃ…っ!」
 須賀とぶつかったのは、若い女性だった。体格的に須賀の方が勝っていたので、彼女の方が派手によろけてしまった。
 「だ、大丈夫ですか?」
 彼女を支えようと手を伸ばした須賀だったが、彼女は転ぶこともなく、無事歩道に踏みとどまった。
 「す…すみません、大丈夫です」
 ちょっと恥ずかしそうな声で、彼女はそう答えつつ、顔を上げた。
 途端。
 「……っ、」
 彼女の顔の作り笑いが、いきなり、凍った。
 「あ……、」
 彼女の顔を見た須賀も、表情を変える。ついさっきまで真っ赤になっていたその顔に浮かんだのは、なんとも形容し難い、苦い表情だった。
 ―――あ…、あれ????
 理加子の話の時とは違う種類の冷や汗が、優也の背中をゾクリと冷えさせる。
 何かフォローを入れた方がいいんだろうか、と優也は焦ったが、そんな焦りは、まるで無用だった。須賀と彼女は、どことなく気まずそうに目を逸らし、どうも、という感じに互いに会釈した。そして、一言も言葉を交わすことなく、すれ違ってしまったのだ。
 再び歩き出した須賀を追うように、優也も慌てて歩き出す。歩き出しながら、須賀の横顔に、恐る恐る訊ねた。
 「今の人…もしかして、知り合い…?」
 すると、須賀は目だけを優也に向け、ちょっと気まずそうな笑みを口元に浮かべた。
 「あ…ああ、うん。昔、付き合ってた子なんだ」
 「えっ」
 「1年以上前に別れたんだけど、あんまり円満とは言えない別れ方だったから」
 だからお互いああいう態度になったのだ、ということらしい。どう円満ではなかったのか、などとは到底訊ける筈もなく、優也は若干引きつった顔で「そうですか」とだけ答えた。

 ―――昔、付き合ってた人…か…。

 思わず、彼女が歩き去った方角を、振り返る。
 淡い色合いのシャツにジーンズという、シンプルな服装の、後姿―――遠ざかって行くその背中は、何故かとても小さく見えた。

 ―――円満じゃない別れ方、って、何だったんだろう?
 須賀さんの顔を見た時の、あの子の表情―――なんだか、怯えてるように、僕には見えたんだけど…。

 なんとなく、見てはいけないものを目撃してしまったような気分だ。再び前を向いた優也は、今の出来事は見なかったことにしよう、と、心の中で自分に言い聞かせた。


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