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― Quatre-Quarts -2- ―

 

 ピピッ、という電子音を聞いて、コンロの火を止めた蓮が、振り返った。
 「何度?」
 「…ええと…」
 モゾモゾと体を動かして体温計を取り出した優也は、傍らに置いていた眼鏡をかけ、表示された数字をじっと睨んだ。
 「…38度1分」
 「上がってないけど、下がってもいないな」
 「熱より鼻水が辛いなぁ…」
 「出来たけど、食えそう?」
 「あ…うん」
 寝込んでしまったのですっかり忘れていたが、昨日の昼を最後に、丸1日、何も食べていない。いや、昼食はすぐに吐いてしまったので、実質は昨日の朝食が最後のようなものだ。僅かながらも空腹を感じた優也は、食欲が出た分、少しは良くなっているんだろうな、と考えた。
 蓮が用意してくれたのは、病気になった時に備え、優也自身が普段から1つ2つストックしている、レトルトパックのおかゆだった。蓮本人の昼食は、自宅から持ち込んだカップ麺。2人揃って、実に「怠惰な男の一人暮らし」な食べ物だ。ちょっと侘しい気分を味わいつつ、2人は向き合って座り、それぞれの昼食を口に運び始めた。

 優也が風邪をひいた原因は、一昨日のティッシュ配りだろう。
 土曜日は穏やかな天候だった。日向での立ちっぱなしの作業は、思いのほか喉が渇き、途中で汗をかいたほどだった。その反省から、2日目の日曜日は、前日より少し薄手の服装でバイトに臨んだ優也だったが、その日この時期にしてはやけに気温が低く、なおかつ風も強かった。結果―――月曜の朝、優也は、目覚めると同時に盛大なくしゃみをし、半日後には昼食を吐くまでになった訳だ。
 「1本電話入れてくれれば、昨日のうちに気づけたのに」
 「…昨日は39度いっちゃってたからなぁ…」
 「…その段階で医者連れてかなきゃ、意味ないだろ」
 ズズズ、と鼻をすする優也を蓮が軽く睨む。確かに、昨日の段階で注射の1本も打っておけば、昨晩高熱でうなされることもなく熟睡し、今頃はもう少しマシな体温に落ち着いていただろう。たまたま蓮が声をかけてくれたから気づいてもらえたが、それがなければ、今日も何も食べないままベッドの中で丸まったままだったに違いない。情けない表情で、優也は体を縮めた。
 「うーん…思ったより悪くないバイトだな、って思ったけど、やっぱり夏とか冬はキツそうだなぁ」
 「元々、秋吉に向いてる仕事とは思えないな」
 「うん。僕もそう思ってたけど…」
 「けど?」
 「…この有様で言っても説得力ないかもしれないけど、案外、まるっきり不向き、って訳じゃないのかも、って、ちょっとだけ、思ったんだ」
 意外な優也の言葉に、蓮は軽く眉をひそめ、理由を問うような目を優也に向けた。蓮が不思議に思うのも無理はない。温かいおかゆで曇ってしまった眼鏡を外して、優也ははあっ、と息を吐き出した。
 「要領悪いし、スタミナないし、積極性ないし、弱気で怖がりだし―――街頭で見知らぬ人に声かけて物配る仕事なんて絶対無理、って思ってたんだけど……それは、今もあんまり変わってないんだけど、でも……結果だけ見るとさ、意外と悪くないんだ」
 「悪くないって?」
 「2日目の僕の割り当て分、合計1000個、契約の3時間でなんとか配れたんだよね」
 「……」
 さすがに、蓮の目が丸くなる。
 「…ほんとか?」
 「うん。風強かったから、花粉症の人が10個とか平気でもらってくれるし、風邪気味なのか向こうから“それ、ちょうだい”って来てくれたりして……それに、一緒にやってた須賀さん曰く、僕がデメリットだと思ってた“存在感のなさ”が、あの場合、逆にメリットになるみたい。しつこくて強引な人って、遠くから見てもわかるから、避けられちゃったりするんだって」
 「……」
 「要領のいい須賀さんていうお手本がいたのも良かったのかも。何事もやってみないとわからないなぁ、ってつくづく思ったよ」
 「…ふぅん…」
 「あ、でも、さすがに“またやりたい”とは思わないよ。これからどんどん暑くなるし、やっぱり安定したバイトに就きたいから」
 慌てて優也が付け加えた言葉に、蓮はただ「そうだな」とだけ、穏やかに答えた。
 けれど、蓮がその時密かに考えていたのは、ある意味、優也の考えとは全く逆のことだった。

 ―――本当に要領が悪かったら、人より1年早く高校卒業できる訳ないってことに、なんで気づかないんだろう?
 前々から蓮は思っていた。優也が語る“秋吉優也像”と、自分が把握している“秋吉優也像”には、根本的なズレがあるのではないか、と。
 優也は自分を、不器用で要領が悪く小心者、と常日頃から言い続けているが、蓮にはそう思えない。確かに最初は、勝手がわからずオロオロして失敗ばかりしているが、やり方を教わり、手本を観察し、何故そうなるのかを理解すれば、かなりのスピードでそれを習得できる。今回のバイトがそのいい例だ。それに、17歳で日本でも5本の指に入る難関大学を受験した優也は、周囲の人間からは勿論、マスコミからも一時注目されたりした。そういうプレッシャーの中で見事合格する人間が、果たして小心者だろうか?
 そのやり方が地道で、器用と思われるほど極端にスピードがある訳ではないから、要領が悪いと思われてしまう。声が小さく態度もオドオドして控え目なので、小心者だと思われてしまう。でも、蓮の知る優也は、コツコツ型ではあるが要領が良く学習能力も高い、肝心な所では胆の据わったところを見せる人物だ。
 多分、ティッシュ配りの仕事は、優也には向いていないだろう。向いているからいい結果を残せたのではなく、真面目で要領が良いから、機械的な仕事を効率良くこなせただけだ。イレギュラーなトラブルに滅法弱いので、知り合いに会ったり通行人に絡まれたりしただけで、即座に辞めてしまうに違いない。
 ―――上手くいったのは向いてるからじゃなく自分の学習能力が高いからだ、って気づけば、秋吉ももうちょっと自信持つんだろうけど…。
 もっと自信持てよ、と蓮は思うが、あえてそれを優也に言うことはしない。蓮が優也の有能さを主張しても、優也がそれを素直に受け取らないだろうことが、過去の経験からわかっているからだ。

 「? どうかした?」
 いつまでも優也の顔をまじまじと見ている蓮を不審に思い、優也が首を傾げる。
 全く―――謙虚は日本人の美徳の一つではあるが、優也ほど度が過ぎているのも、なかなかに厄介なものだ。苦笑した蓮は、なんでもない、という風に、軽く首を振ってみせた。

***

 熱が平熱レベルまで下がったのは、その2日後のことだった。

 「バイトも大事だが、卒業研究の準備も疎かにしてはいかんぞ」
 休んでしまった講義の資料を取りに行ったついでに、ゼミの研究室を覗いたら、事情を聞いた永岡教授からそう釘を刺された。ごもっともです、としか言いようのないほどに、ごもっともな指摘だ。優也は消え入りそうな声で「はい…」と答えた。
 「で? どんな具合かね、準備の方は」
 「…はあ…やっぱり、ちょっと難航してます」
 「万華鏡をテーマとした切り口は、去年、藤森君がやってるだろう? なかなかいい発表だったし、参考になると思うがね」
 教授の口から真琴の名前が出ると、いまだに胸の辺りが妙にザワつく。が、その微かな動揺をなんとか飲み込み、優也は困ったように眉根を寄せた。
 「マ……藤森、先輩がやったから、尚更難航してるんです」
 「ん? なんでまた」
 「同じ正四面体万華鏡のモデリングだと、どうしても内容が被っちゃって…。一部、先輩にアドバイスもらって進められた部分もあるし。かといって、他の多面体万華鏡を今からやるのも、ちょっと…」
 「内容が被っていいじゃないか。藤森君の研究だってまだ途中で、未完成だっただろう?」
 「…それはわかってるんですが…」
 誰もやったことのない卒研を、と望んだところで、それが難しいことは優也も理解している。が、「どこかの誰かがやった研究」と「先輩が去年自分の目の前で発表した研究」とでは、まるで意味が違う。内容的に真琴がやったものと大差なければ「二番煎じ」と言われかねないし、少しでも違いを出そうとするあまり、真琴の発表を意識しすぎて、研究に身が入らない。発表を真琴も聞く予定になっているのだから、尚更だ。
 「まあ、卒研は、4年間勉強したことの成果を発表する場な訳だから、秋吉君が何に興味を持ってどんなことを理解したかを、こちらとしては見せてもらいたい訳だ」
 「……」
 「別に世紀の新発見をしろとか宇宙の法則を見つけろとか言ってる訳じゃあないんだから、気楽に、気楽に、な」
 「…はあ」
 「失礼しまーす」
 教授と優也しかいない研究室に、突如、別の声が割って入った。
 振り返るとそこには、院生の先輩が、いかにも誰かを探しているといった様子で立っていた。キョロキョロと研究室内を見回した彼は、困惑したような表情で教授の方を見た。
 「あれ? 藤森、見ませんでした?」
 「藤森君なら、30分ほど前に帰ったよ」
 「えー!? まじっすか!?」
 「アルバイトに間に合わない、って急いでたからね。どうした、藤森君に何か用かね」
 「参ったなぁ…。ほら、例の、企業から依頼を受けて解析したデータ。明日藤森が朝イチで持って行って説明することになってるんですけど、間違えて、最終版の1つ前のCDを渡しちゃったんですよ」
 「えぇ? そりゃまずいな」
 さすがの教授も、困り顔になる。優也はその作業に関わっていないが、ここ1週間ほど、教授と一部の院生がその作業に結構な時間を費やしていたのは知っている。その作業の締めくくりを任されて、真琴が珍しく緊張した顔をしていたのも、当然知っている。
 「バイト先に届けてやったらどうかね」
 「あー…でも、俺ももうバイトなんですよねぇ…しかも藤森のバイト先とまるっきり逆方向だし」
 「まあ、バイトが終わったら取りに戻るよう、連絡をすればいいんだが…」
 本人のミスではないのに、働いて疲れているところにそれでは、ちょっと気の毒だ。一瞬迷った後、優也はおずおずと申し出た。
 「あの―――僕が、持って行きましょうか?」

***

 先輩から教えられた真琴のバイト先は、中規模なショッピングセンターだった。
 といっても、レジ係ではない。真琴が働いているのは、このショッピングセンターの一角にある、フードコーナー。ラーメンなど数種類の軽食を提供する店が出店していて、客がセルフサービスで食べ物を席に運んで食べられるようになっている、大型店舗で時折見られるあの形式の店である。
 「あれぇ、秋吉君!」
 目ざとく優也の姿を見つけた真琴は、驚いたように目をまん丸に見開き、カウンターの向こう側から身を乗り出した。が、商品の入ったケースが邪魔で、優也からは目から上くらいしか見えなかった。
 真琴が働いている店は、ホットドッグやたい焼き、ソフトクリームなどを売っている店で、真琴の他にもう1人、40代らしき女性がカウンター内に入っていた。当然、真琴につられて、その女性の目も優也に向けられる。何者、という視線を受けて、優也はドギマギしながら小さく頭を下げた。
 「どうしたの? 買い物?」
 「…違います。田村先輩に頼まれて、マコ先輩を追いかけて来たんです」
 「田村さんに?」
 「これ―――間違って、未完成バージョンをマコ先輩に渡しちゃったそうです」
 優也が差し出したCD−ROMを見ても、真琴は一瞬、事情がわからなかったようだ。が、数秒後、その正体に気づいた真琴は、憤慨したようにむくれた顔をした。
 「むうううぅ〜〜〜っ、何をしてるのですか、田村さんはっ! 自分が間違ったというのに、秋吉君にこんな雑用をさせるなんて!」
 「い、いえ、その、た、田村さんもバイトの時間ギリギリだったんで、僕から届けるって言い出したんですよ」
 「でもぉ……だったら、ワタシが後で大学に取りに戻ればよかったのに」
 「…そんなこと、働いて疲れてるマコ先輩に、させられませんよ」
 当然のように優也がそう言うと、真琴はキョトンと目を丸くした。そして、次の瞬間、びっくりするほど顔を真っ赤にして、黙り込んでしまった。
 ―――え…っ、え、な、な、なんで???
 その赤面の仕方があまりにも急で、あまりにも露骨だったので、つられて優也も赤面してしまう。が、赤面しておきながら、何故赤面するのかさっぱりわからない。真琴は、今の言葉の何にそんなに顔を赤らめたのだろう?
 「あ、あの、えーっと、とにかく! これ、渡しておきますから!」
 妙に気まずい空気になりそうなのを感じて、優也は慌てて、手にしていたCDを真琴の方へ突き出した。赤面していた真琴も、それで我に返ったのか、焦ったような笑顔でそれを受け取った。
 「う、うんっ、ありがとナリ〜。あっ、そーだ、お礼に何かおごるナリよ」
 「え? い、いえ、いいですよ、そんな」
 「いーのいーの。あっ、店長、ワタシ後で代金支払いますから、このたい焼きとホットドッグ、いいですよね」
 真琴が、一緒に働いているらしい女性にそう確認した。パートかな、と優也は思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。
 店長と呼ばれた女性は、快く「どうぞどうぞ」と言ってくれた。CDを背後の床に置いていた自分の荷物に素早くしまうと、真琴はいそいそと、温蔵タイプのショーケースに入っていたたい焼きとホットドッグを、プラスチックの容器に入れた。
 「はいっ、これ」
 「…じゃあ…遠慮なく」
 本当はこんなお礼をされては困ってしまうのだが、店長の手前、変に遠慮をしてしまうと、真琴を困らせてしまうかもしれない。ずうずうしいよなぁ、と思いつつも、優也は差し出されたたい焼きとホットドッグを受け取った。
 仕事の邪魔になるから、早々に帰った方がいいとは思ったが、真琴におごられてしまっては、そうもいかない。結局優也は、ホットドッグだけはその場で食べていくことにして、ジンジャエールを追加で買った。これも真琴がおごると言ったが、それでは意味がないので、優也にしては珍しい位にきっぱりと断った。
 「マコ先輩って、前からここでバイトしてたんですか?」
 「ううん、4月からだから、まだ新人さんナリよ〜。前のとこが潰れちゃったからどうしようかと途方に暮れてたら、たまたまここの求人広告を見つけて、即応募したのですよ。家が近所だからラッキーだったナリ」
 「え、前のとこが潰れた、って…倒産、ですか」
 「ですよ〜。あんまり流行ってなかったから、いずれ潰れるだろうとは思ってたけど、まさか、何の前触れもなく、翌日行ったらお店が看板ごと無くなってる、なんてことになるとは夢にも思わなかったナリよ〜」
 「…うわぁ…」
 いつもホンワカと浮世離れしているイメージの真琴が、まさか、その裏でそんな大変な経験をしていたとは―――面接で門前払いを食らった程度で泣き言を言う自分が恥ずかしくなる。
 「そういえば、秋吉君は、もうバイト先、見つかったのですか?」
 ジンジャエールの入ったカップを手渡ししながら、真琴が軽く首を傾げて訊ねる。今、一番避けたい話題を振られてしまった優也は、うっ、と一瞬言葉に詰まった。
 「…いえ、まだです」
 「そうですかぁ…。早く見つかるといいですねぇ」
 「が…頑張ります」
 力ない笑顔でそう答えた優也は、じゃあ失礼します、と真琴に軽く頭を下げ、そそくさとイートインコーナーへと向かった。

 ―――うーん…やっぱり僕って甘いっていうか、贅沢なのかなぁ…。
 イートインコーナーでホットドッグをほおばり、バイト中の真琴を眺めながら、優也は小さくため息をついた。
 彼女は今、高校生らしきグループの注文に応じて、せっせと飲み物やら食べ物やらを用意していた。店長は作る方がメインで、レジと商品の用意が真琴の仕事らしい。ショーケースの向こうに立つと姿がすっぽり隠れてしまうほど小柄な真琴だが、なかなか手際よく仕事をこなしているようだ。
 真琴の見た目とスペックの高さのギャップは、十分わかっていたつもりだったが、こういう話を聞いてしまうと、改めて、自分がとことんへたれな駄目人間に思える。バイト先が潰れても雑草のようにたくましく淡々と新たな仕事を見つけてきた真琴から見れば、いまだにバイトが見つけられない優也など、甘えた根性としか言いようがないかもしれない。
 ―――と言っても、面接にもこぎつけられないんじゃなぁ…。もしかして僕って、社会不適合人間なんだろうか。その僕がそこそこ務まったってことは、やっぱりティッシュ配りが向いてるのかな。あー、でも、これから暑くなると炎天下での仕事に耐えられるとは思えないし、何より不定期で安定してないバイトってのもなぁ…。
 そう考えると、やはり、学生の募集が多い飲食店や小売店での接客を中心に狙った方がいいだろうし、そのためには、とにかく面接までこぎつけること、面接になったら「こいつに接客は無理だな」と思われないよう、事前に十分なシミュレーションと練習が必要だろう―――当初とは思考の方向が随分ズレてしまっていることにも気づかず、優也は妙に納得した気分になり、うんうんと頷いた。
 話す相手もいないと、ホットドッグなどものの5分もかからず食べ終えてしまった。ジンジャエールも飲み干した優也は、帰ったら早速求人広告を探そう、と考えながら、席を立った。
 すると。
 「うわあっ!」
 「えっ」
 ドン、と何かが背中にぶつかる感触があった。と思ったら、ドサドサドサ、と、何かが床に落ちた。
 慌てて振り返ると、数冊の本を抱えた若い男性が、今にも腕から落ちそうになっている本を、必死に抱え直そうとしていた。どうやら、優也が急に通路に立ったせいで、優也にぶつかって、抱えていた本を落としてしまったらしい。2人の足元には、更に何冊もの本が落ちていた。
 「す…っ、すみません! 大丈夫ですか!?」
 「ああ、大丈夫です、大丈夫。参ったな、ちゃんと袋を用意しておくべきだったか…」
 男性は、辛うじて残っていた本を傍らのテーブルに置き、しゃがみこんで落ちた本を拾った。優也も自分の足元に落ちた本を拾ってみたが、その本には、この近所にある図書館のものと思しきスタンプが押されていた。全部がそうかは不明だが、どうやら図書館で借りた本のようだ。
 彼が置いた本の上に、優也が拾った本も重ねいき、最終的には全部で10冊ほどになった。1冊1冊がかなり分厚いので、積み上げると結構な高さだ。そして何より、積み重なった本のタイトルが、優也の目を惹いた。“数学読本”、“数学入門”、“数学が苦手な人のための本”―――全て、数学の入門書的な本ばかりだったのだ。
 「いやー、かえってすみませんでした」
 「いえ」
 優也に軽く会釈すると、彼は、積み上げた本を「よっ」という掛け声とともに抱え上げた。が、背丈はそこそこあるものの、明らかに平均的成人男性より痩せ型である彼には、どう考えても重過ぎる荷物だ。どこまで持って行くのか知らないが、途中でまた落とす羽目になるのは目に見えている。
 「あの……手伝いましょうか?」
 「え?」
 「図書館で借りた本なら、外で落として汚したりしたら、まずいでしょう?」
 「うーん、そうだなぁ…」
 彼が抱えている本の山は、早くも一番上の1冊が微妙にずれ始めている。少し躊躇している様子だったが、彼は苦笑を浮かべ、
 「じゃあ、お言葉に甘えて」
 と答えた。

***

 道すがら聞いた話によると、彼は、この近所の学習塾の講師らしい。
 「やっぱり、教科は数学ですか?」
 抱えている本の題名をチラリと見つつ優也が訊ねると、彼は「ばれたか」という顔で笑った。
 「ご明察。ま、こんだけ数学の本ばっかり借りてりゃ、バレバレか」
 「塾の先生になっても、こんなに本借りるんですね」
 「ああ、これは、僕の勉強のためっていうより、生徒たちのためだよ」
 「え?」
 「うちの塾、一応進学塾ではあるんだけど、もう一方で、“学校での勉強についていけない子のための補習”的なコースもあってね。要するに、数学が苦手で毎回赤点、なんて子が来るんだ」
 「へーえ…」
 優也もかつては、塾に通っていた。全国展開している有名校で、設けられているのは「○○大コース」などといった志望校名のついた進学コースばかりだったと記憶している。でも、確かに彼の言うとおり、本来の塾には、学校の授業だけでは十分理解できない生徒が、それを補うために通う場所、という役割もあるだろう。
 「今年からそっちのコースも一部担当することになったんで、授業の進め方とか教材なんかも今までとはちょっと変えないといけないから、こうやって入門的な本を借りて色々研究してるんだよ。いやぁ、結構難しいよねぇ。そもそも、そういうコースに来る生徒っていうのは、根本的に“数学が苦手”っていう意識があるから」
 「あー…わかります」
 「ん? キミも、数学が苦手な人?」
 「あ、いえ。昔、英語がそんな感じでした。数学は得意です。一応その…数学科、なので」
 優也が答えると、彼は驚いたように、けれどちょっと嬉しそうに目を見開いた。
 「へーっ! 僕も数学科卒だよ」
 「え、そうなんですか」
 「うん。数学科は、設けていない大学も結構あるから、こういう偶然は嬉しいなぁ。でも、数学を専攻するほど数学が好きなんじゃあ、数学が苦手な生徒の気持ちはわからないか…残念」
 どうやら、優也が数学が苦手だったら、参考として意見を聞こうと思っていたらしい。実際、数学好きの優也には、数学に拒絶反応を示す生徒の気持ちは、どうにも想像し難い。
 「うーん…確かに、数学のどの辺が苦手に感じるのか、不思議かも…」
 「国語なんかの方が、僕にとってはよっぽど難解なんだけどね。数学はシンプルだし、ロマンがあるし」
 「ロマン?」
 突然出てきた単語に、優也は不思議そうな顔をした。すると彼は、そんな優也に対して、不思議そうな顔をした。
 「あれ? 思わない?」
 「…ええと…シンプルでいいな、とは思いますけど…」
 数学は、シンプルだ。読む人によって主旨すら変わってしまう国語や、分析する立場によって解釈が異なってしまう歴史などとは違い、公式によって導き出される答えは常にはっきりとしており、誰にとっても等しい答えとなっている。基本を理解すれば、応用だっていくらでもきく。そういう単純明快さが、優也が数学を得意とする理由だ。
 「確かにシンプルって部分もあるけど、僕は実にロマンがあると思うけどなぁ。例えば、そう―――カトルカール、っていう名前のケーキ、知ってるかな」
 甘党の優也だが、初耳だった。ふるふると優也が首を振ると、彼は、実に楽しそうな表情で、熱く語り始めた。
 「カトルカール、っていうのは、パウンドケーキの一種で、フランス語で“4分の4”っていう意味なんだ。なんでそんな変な名前がついているのかというと、材料となる卵、小麦粉、砂糖、バターの分量が、全て同じだから。つまり、小麦粉100グラムの場合は、卵も砂糖もバターも100グラム使う訳だ」
 「…はあ…」
 「4種類の材料が、同量ずつ集まって、1つのケーキを作る―――ということは、出来上がったケーキは、4分の4、という訳だ」
 「はい」
 「凄いと思わないかい?」
 「えっ」
 「4分の4が、だよ」
 4分の4が、凄い。
 カトルカールというケーキの正体はわかったが、4分の4の凄さは、優也にはピンとこない。置いてきぼり状態で途方に暮れる優也をよそに、彼はますますヒートアップし、演説口調になってきた。
 「考えてもみたまえ。同じ“1”という“結果”でありながら、4分の4とただの1とでは、まるで意味が異なっている。1は1だ。しかし、4分の4は、1ではあるが、1だけではない。そこに“4種類の材料が等量寄せ集められた結果”という、ケーキの見た目だけでは推測できない意味合いが込められている。人は4分の4という数字から、その意味を考える。4は何を表しているのか、その中身は一体何なのか―――その4つのうち4つ全てを集めた結果である1は、一体何なのか! これをロマンと呼ばずして何と呼ぶ!」
 「……」
 「もっと凄いのもあるぞ。もしここに100分の100という数字があったとしたら、キミは一体何を思う? 1000分の1000だとしたら? 何故、ただの1と表さないのか、わざわざ分母と分子が同数であることを主張する、その意味は一体何なのか―――もしかしたら、10分の10と書かれているのは、1という答えを出す一歩手前の最終形態であって、そこに至る前には、10分の2と5分の4を足す作業があったのかもしれない。だとしたら、10分の2とは何なのか、5分の4とは何なのか、それらを足した結果1となった“結果”は何なのか……謎だ。ミステリーだよ、これは。つまり、数学とはミステリーを解き明かす学問であると言える。ほら、実にロマンがあるだろう?」
 「……」

 ―――な…なんか、さっぱりわからないけど…。
 わからないけど、凄い。

 5分の5や100分の100に出会うのは、大抵が試験問題や参考書の中だ。実生活で目にすることなどほとんどない。カトルカールも、もしそのケーキを食べたことがあったとしても、4分の4だと気づかなかっただろう。
 でも―――実生活で目にしないからこそ、もしいきなりそんな数字が出てきたら、自分も疑問を持つだろうな、とは思う。5分の5って何だろう、5戦5勝? 5部作の作品のコンプリートセット? そういえば、仮分数は分子分母が等しいだけでなく、分子の方が大きい例だって、問題集には普通に出てくる。5分の5も疑問だが、5分の6なんてものが実生活で出てきたら、大いに謎だろう。
 彼の言うロマンは、理屈的には、わからなくもない。が、彼ほどの情熱を持って、そのロマンを語ることは、優也にはできない。勿論、古代建築などに複雑怪奇な定理が用いられていたりするのを知ると、その部分に大いにロマンを感じたりはする。が、ただの分数にここまでの思い入れを持つのは無理だ。
 でも、理解できるできないは別として、数字についてここまで熱くなれるということが、ただ単純に、凄い。優也も数学は好きだが、ここまでの情熱は持ち合わせていない。ただただ圧倒されるばかりだ。
 「しかしねぇ…そういうロマンを子供たちに語っても、数学に対する苦手意識が克服される訳がないし。それでこうして、数学の面白さを理解してもらえる手段はないかと模索してる訳だ」
 ロマンをひとしきり語って、落ち着いたのだろう。彼の声は普通のトーンに戻っていた。
 「ちなみにキミは、いつぐらいから数学が好きになったの?」
 「えっ。えーと…三角形の面積の求め方を習った時、だから小学校の時、かな」
 「へぇ、キミのロマンは、三角形の面積かぁ」
 「解き方を考えろ、って折り紙を渡されて、みんな、ああでもないこうでもない、ってやってて―――折り紙を半分に折って、黒板に描いてある三角形と同じ形だってことに気づいた時、凄く興奮したんです。まるっきりわからなかったことが、こうやってわかるようになるって、凄いな、って」
 「そうそう、その“凄い”が感じられれば、数学の面白さも感じられるんだよなぁ」

 そんな話をしていたら、どうやら彼の勤め先らしい建物に着いてしまった。
 ―――ああ、これかぁ。
 5階建てのビルのエントランスに掲げられた塾名は、全国区ではないものの、そこそこ有名な塾の名前だった。上京してからは塾とは無縁だったので詳しくはないが、神田だか秋葉原だかにかなり大規模なものがあり、他にも関東圏に5、6校あったように思う。
 「あ、ここまででいいよ、ありがとう」
 エントランスで、彼はそう言って優也から本を受け取ろうとしたが、優也は首を横に振った。
 「いえ、ここまで来たら、最後まで運びます。あ…もしかして、部外者立ち入り禁止とか…?」
 「いやいや、運んでもらう程度なら、そこまで厳しい制限はないけど―――なんか、悪いなぁ」
 恐縮しつつも、優也の好意に甘えてくれるらしい。ニコリと笑った優也は、抱えていた本を、よいしょ、と持ち直した。
 彼に続いて建物内に入ろうとしたその時、優也はふと、自動ドアの隣に貼られたポスターのようなものに、目を留めた。
 「……」
 目を留めて―――その内容に、思わず足も止めた。

 『パート・アルバイト募集』

 「ん? どうかしたかい?」
 優也が立ち止まったのに気づき、彼も立ち止まり、振り返った。
 「あ、あのっ、あのポスター…パート・アルバイト募集、って…」
 「あー、あれか」
 講師である彼も、その内容は把握しているらしい。身を乗り出すようにしてポスターを確認した彼は、優也の方に少し困ったような笑顔を向けた。
 「運営スタッフ、なんて書いてあるけど、早い話が雑用係だよ」
 「雑用係?」
 「本社の社員さんがやらないような雑務だよ。例えば、教材のコピー取ったり、入塾希望者の見学の案内したり、欠席なんかの電話を受けたり。大体5人くらいの契約社員やパートさんでローテーション組んでるんだけど、そのうちの1人がこの前辞めちゃってね」
 「……」

 なんだか、これは―――運命的なタイミング。

 あまりのタイミングの良さのせい、だろうか。
 電話対応も、見学者の案内も、まるで経験のない優也だったが、何故か直感的に思った。「これだ」、と。


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