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― レジスタンス -1- ―

 

 藤堂家は、音楽一家である。
 バイオリニストがピアノ教師と恋に落ちた結果出来た家族なのだから、そうなるのは当然なのかもしれないが、音楽一家である。
 子どもたちには、幼い頃から様々な楽器に触れる機会が与えられ、その中で本人に向いていそうな楽器が彼らの進む道として選ばれた。藤堂家長女がフルートを、長男がピアノを弾くようになったのは、そういう経緯からだった。
 職業柄、クラシックをこよなく愛する藤堂家だが、決して「クラシック至上主義」などというほど、凝り固まった思想を持っている訳ではなかった。子どもたちは、同世代が聴くような流行の曲を自由に聴くことができたし、両親にそれらの音楽について語ることもできた。
 ただし、それは飽くまで、娯楽としての音楽の話。正統な道・王道は、クラシック―――それが、藤堂家における暗黙のルール。好きな音楽を好きなだけ聴いて構わないが、自分たちが進む道は、クラシックでなければならなかった。
 長女は、このルールに、実に忠実だった。というより、彼女自身、聴くのも演奏するのもクラシックが一番好きだった、というだけのことだが。ポップスやロックも悪くはないが、そういうジャンルはギターやドラムに任せればいい、フルートはやっぱりクラシックでなきゃ、というのが、彼女の持論だ。
 長男は、そんな長女とは少し違った思想の持ち主だった。フルートと比べてピアノは、クラシック以外でも耳にする機会が多いからかもしれないが、正統派クラシックピアノだけがピアニストの道ではない、と、漠然とながら思っていた。
 彼の心を特に激しく動かした最初の曲は、ジョージ・ガーシュウィンの『Rhapsody in Blue』だった。オーケストラの演奏ながら、そのリズムはどことなくジャズを思わせる曲―――こういうのが弾きたい、というその思いは、同じガーシュウィンの『I Got Rhythm』を聴いた時、より強くなった。
 ガーシュウィンが手がけた曲を聴き漁る中で、歌曲『ポーギーとベス』に出会い、その中で使われた名曲『Summertime』と出会った。その、なんとも物悲しい音色に惹かれ、その曲をカバーしている名盤を次々に聴きまくった。それが、本当の意味でのジャズとの出会いだった。
 抑制された黒人の嘆きや怒りから生まれた音楽は、非常に感情的で、情緒的だった。弾き手の感情を廃し、音符に忠実であることを求められるクラシックとは、ある意味正反対な音楽だと、彼は感じた。体を揺らしてピアノを弾くスタニスラフ・ブーニンが「異端者」とされるクラシック界に以前から疑問を抱いていた彼にとって、ジャズピアノは、とても魅力的な世界に思えた。
 それでも彼は、ジャズピアニストになろう、とまでは思わなかった。ジャズだけでなく、クラシックも好きだったし、正統派の両親に育てられ、そして実際、両親の期待どおりに正統派として育っている自分には、ああいうソウルフルな音楽なんて無理だろう、と、無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。


 ジャズピアノに憧れるだけの、正統派クラシックのサラブレッド。
 そんな藤堂家長男・一成が、初めて、ジャズピアニストになりたい、と思ったのは、音大に進んで3度目の夏のことだった。


***


 それは、とある女性ジャズピアニストのライブでのこと。
 さすがにまだ誰も来ていないだろう、と思ったのに、そのライブハウスの入り口には、既に先客が1人、いた。
 「もしかして、当日券狙いですか」
 開場までぼーっとしているのもつまらない、と思ったのか、彼の方から一成に声をかけてきた。そうです、と一成が答えると、彼は、やっぱり、という顔で笑った。
 「いやー、今回はほんと、ソールドアウトがめちゃくちゃ早かったですよねぇ」
 「ええ。電話がつながらなくてイライラしてる間に、売り切れてました」
 「2年くらい前まではここまでメジャーじゃなかったから、もっと取りやすかったんだけどなぁ…。人気が出るのも考えもんだな」
 へえ、そうなんだ、と少し意外に思った。
 ジャズピアノが好きとはいえ、セロニアス・モンクやオスカー・ピーターソンといった海外の往年のジャズピアニストばかり聴いていた一成は、国内のピアニストについては、ほとんど知らずにいた。が、この女性ピアニストに関しては、昨年ドラマの主題歌として使われて大ヒットしたため、一成も知るようになったのだ。
 弾き語りというのはあまり聴いたことがなかったし、アルバムを聴いてみたら非常に良かったので、どうしても生で聴きたい、とチケット発売日にはりきって電話をかけたのだが、あえなくソールドアウト。こんなに人気があるのでは、自分が知らなかっただけで随分有名なピアニストだったのだろう、と一成は思っていたのだが、彼の話から察するに、どうやらそうではなかったようだ。
 「昔からのファンなんですか?」
 一成が訊ねると、彼は少々バツの悪そうな顔になり、困ったように頭を掻いた。
 「あ、いや…、その、前に一度、一緒に仕事したことがあって」
 「えっ」
 「こう見えても一応、自分もミュージシャンなんで」

 彼の名は、吉澤。プロのベーシストだった。一成にとっては、初めて言葉を交わす、本物のプロだ。
 一成が音大生だと知ると、向こうも興味を持ったらしい。年齢的にも印象ほどには差がないことがわかり、それから開場までの時間、2人は、なんだかんだと話し込んでしまった。
 「へーえ、そりゃあ筋金入りのサラブレッドだ。それならさぞかし、音楽やるには恵まれた家なんだろうなぁ。うちなんて安普請のアパートだから、騒音問題で揉めないかヒヤヒヤしながらの生活だよ」
 「まあ、その部分は。でも、音楽のためには金を惜しまない分、収入の方は大したことないんで、家ばっかり豪華で生活は貧乏ですよ」
 「え、そうなの? 音楽一家で姉弟揃って音大行ってる、なんて聞くと、ブルジョワ、ってイメージなのに」
 「ローン抱えてブルジョワもないでしょう。オーケストラはどこも財政難だし、俺も将来、金では苦労しそうです」
 「いずこも同じ、か。全く、ミュージシャンなんて、ジャンルを問わず、金持ちになれるのは極々一部だけだよなぁ」


 そのライブから間もなく、一成は、吉澤に誘われて、彼が参加しているジャズバンドの練習を見学した。
 1人1人が音を持ち寄り重ね合わせ、1つの音楽として作り上げていく工程は、ジャズもクラシックも同じだ。ただ、楽譜に忠実なクラシックと違い、ジャズバンドは非常に流動的だと、一成は感じた。目の前で、音楽がどんどん動いていき、次々に姿を変えていく―――その中で、個人的なクオリティも全体的なクオリティも保つには、反射神経と即興性、協調性が必要だ。憧れると同時に、怖いな、とも感じた。
 練習の最後、「何か1曲披露してくれ」と言われて、一成が彼らの前で弾いたのは、ジャズではなくクラシックだった。ショパンの『英雄ポロネーズ』……大学の定期演奏会で弾いたばかりの、一成が得意とする曲だ。
 「うわ、さすが音大の秀才。上手いなー」
 「うんうん、基礎がしっかりしてるよな、やっぱり」
 「親御さんも音楽家で、姉さんも音大なんだろ? やっぱりアレか、小さい頃からコンクールとか出て海外行ったりしてるのか」
 彼らの中では、音楽一家に生まれてピアノをやっている、というと、そういう王道を歩むイメージが定着しているらしい。恐らく、世間的にはそういうイメージが先行しているのだろう。苦笑した一成は、軽く首を振った。
 「いえ、全く。そういう華々しい経歴があるなら、今頃アルバムの1枚も出してますよ」
 「でも、これだけ上手いんなら、周りが放っておかないだろ?」
 「ああ…まあ、そういう話もあったけど…俺自身が、あんまりそういうの、好きじゃないんで」
 「へーえ…無欲なんだなぁ」
 別に、無欲な訳ではないのだが―――感心した様子のバンドメンバーに、一成は曖昧な笑みを返した。


 一成だって、極当たり前の俗人だ。世間から認められたいし、自分の実力を目に見える形で評価されたい、という欲求も、ちゃんと持ち合わせている。
 ただ、小6の時に出場した、ある小規模なピアノコンクールでの体験が原因で、一成はいわゆる「賞取り合戦」のようなイベントにネガティブな感情を抱くようになった。
 そのコンクールには、一成が常日頃から「あいつにだけは絶対敵わない」と認めていた同い年のライバルも出場していた。当日のライバルの演奏は、過去、一成が聴いてきた彼の演奏の中でも、特に素晴らしい出来だった。どの出場者の演奏も甲乙つけがたかったが、彼が金賞を取るに違いない、と一成は確信していた。
 なのに、金賞を取ったのは一成で、ライバルは銀賞に甘んじた。
 彼の演奏より自分の演奏が勝っていたとは、到底思えなかった。だから、周囲から「おめでとう」と言われても、素直に喜ぶことはできなかった。こんなのはおかしい、どうして彼じゃないんだ、と憤る一成に、父は諭すかのようにこう言った。

 『審査員だって人間だから、実力に大きな差がなければ、好みな曲、好みな弾き方の方を選ぶのは当たり前だろう? つまり、お前たちの力の差は、弾く曲や審査員が変わったら簡単にひっくり返る位、僅かな差でしかない、ってことだ。今回は、あの子は選曲を誤った。確かに上手いと思ったけど、父さんが審査員でも、やっぱり一成の方を選んだと思うよ』

 父の言うことは、小6の一成にも理解できた。そして、賞なんて大した意味を持たないな、と心底思った。
 けれど、一成がそう思っても、第三者は違っていた。どう考えても基礎技術も表現力もライバルの方が上なのに、一成が金賞で彼が銀賞だった、という結果のみで、2人のピアノの腕前を評価した。こんなに上手いのに銀賞だったんだ、惜しかったねぇ、とライバルが言われるのを見るたび、感じるのは優越感どころか、むしろ屈辱だった。
 賞賛も、賞状も、トロフィーも、自己評価と異なってしまえば、ただの苦痛でしかないのだ、ということを、一成は悟った。
 他人が下した優劣の判断など無用だ。大事なのは、自分自身が、望むとおりの音楽を奏でること―――それだけだ。以来、一成は、日頃の成果を発表するだけの演奏会やフェスティバルには参加したが、どんなに周りから勧められても、一切のコンテスト、コンクールに出場しなくなった。


 「ふーん、生まれ育ちはサラブレッドだけど、生き方はロックだなぁ」
 練習の帰り道、一成からその話を聞いた吉澤は、笑いながらそう言った。
 「藤堂君は、ジャズは弾かないの?」
 「…1人でなら、時々。残念ながら、親しい連中の中に、ジャズをやる奴がいないんで」
 「そうか…。いい具合にクールなジャズを弾きそうな感じなのに、仲間がいないってのはもったいないな」
 どういった感じのものを「クールなジャズ」と呼んでいるのかは不明だが、妙に納得したように頷いた吉澤は、一成の方に目を向け、意外なことを口にした。
 「どう? 今度、一緒にやってみない?」
 「え?」
 「秋に、ちょっとしたイベントをやるんだ。プロとして金取ってやるライブじゃなく、仲間内で小さなライブハウス借りて、好き勝手な曲を好き勝手に演奏しまくる会。幸か不幸か、うちはピアノのメンバーがいないし―――将来はクラシックの道に進むにしろ、趣味でなら、好きなジャズで舞台を踏むのも、いい経験じゃないか?」
 ジャズピアノを―――思ってもみなかった展開に、一成は僅かに目を丸くした。
 正直、自信がない。クラシック一筋できた自分に、ジャズらしいジャズなど弾けるのだろうか? しかも、周りは現役のプロのミュージシャンだというのに。
 けれど、そんな不安をもってしても、ジャズへの好奇心を押さえ込むことはできなかった。
 「…他のみんなが迷惑でないんなら、是非」
 結局一成は、そう答えていた。


 これが、一成と、吉澤―――通称“ヨッシー”がコンビを組むようになったきっかけ。
 彼らと同じ舞台を踏むたびに、ジャズピアノに対する一成の思いは、次第に大きくなっていった。深く、静かに―――けれど、一成が自覚しているより、はるかに大きな思いへと。


***


 音大4年目の春、一成は、ファッションビルでのフロア演奏というアルバイトを始めた。
 休日などに、ビル1階の吹き抜けフロアに置かれた白いピアノ(多分普段はインテリア的小道具扱いなのだろう)を使って、1日に3回ほど、演奏をする。不定期なので収入は安定しないが、舞台度胸のつく、なかなかいいアルバイトだった。
 人気スポットということもあり、音大の知人友人に偶然出くわすことも時々あったが、その日、ステージを終えた一成に声をかけてきたのは、かなり意外な人物だった。

 「藤堂」
 呼ばれて振り向くと、そこにいたのは、同じピアノ科同期の、入江という男だった。
 「入江も、こういうとこで服買ったりするんだ」
 彼のイメージではなかったので、少々驚いたように一成が言うと、入江はどことなく迷惑そうに眉をひそめた。
 「まさか。僕の好みじゃない。今日はたまたま、妹と待ち合わせだ」
 「ああ、なるほど…」
 入江はいつも、上等で上品な服を着ている。間違っても流行に乗っかっただけのような格好はしないし、ジーンズに綿シャツ、などというラフな格好も皆無だ。こういう場所が「好みじゃない」のは、いかにも入江らしい趣味だ、と納得した。
 入江は、ひょろっと背が高く手足の長い人物で、神経質そうなシャープな顔立ちそのままに、ピアノも緻密で繊細な曲を好む。風貌も独特で印象深いが、ピアノの技量もかなりのもので、同期でも目立った存在だった。人付き合いの悪い人物なので、一成ともあまり親交がないのだが、彼の弾く繊細なピアノを高く評価している一成は、密かに彼をライバルと目していた。それは入江の方も同じらしく、一成についてコメントを求められると、彼の口から出てくる言葉は、大抵辛辣で対抗心を滲ませるものばかりだ。
 「フロア演奏をやってるとは噂で聞いてたけど、初めて聴いた」
 「そうか。夜想曲(ノクターン)は入江の十八番だから、複雑な心境だな」
 一成はアップテンポでダイナミックな曲を得意とするが、入江が得意なのはスローで優しい色合いの曲だ。今日弾いた夜想曲(ノクターン)は、まさに入江お得意の曲で、周囲の評価も高かった。
 けれど、一成の言葉を聞いて、入江は意外なことを言った。
 「別に十八番て訳じゃない。藤堂が得意とするような曲が、苦手なだけだ」
 「え?」
 「藤堂は、器用だな。どんな曲でも弾きこなす」
 ―――これって、褒めてるのか? それとも、こいつ独特の皮肉か?
 日頃が日頃なだけに、どうも素直に受け止めることができない。どうリアクションすべきか困惑する一成に、入江はふっと口元だけで笑った。
 「しかし、よかった。卒業後はオーケストラの楽団員になると聞いてたのに、フロア演奏のバイトをしてる、って噂を聞いて、ちょっと心配してたんだ」
 「は? 心配?」
 「もっとこう、飲み屋とかでポップスとかジャズなんかを弾くバイトかと思ったんだよ」
 「……」
 「ああいうのを弾くと、知らないうちに影響されるからね。藤堂の純粋なクラシックスタイルが、そういう色に染まるのは、先々マイナスになる。特に、あの楽団は、日本でも有数の正統派交響楽団で、クラシックを専門としてるからね」
 「…それは、心配してくれて、どうも」
 もしここで、趣味とはいえ、ジャズバンドに参加して時々舞台に立つこともある、なんて事実を暴露したら、入江はどう言うだろう? 試してみたい気もしたが、ただでさえ家族にいい顔をされていない現状なのに、この上入江からまで文句を言われるのはごめんだ。一成は、短い言葉を返しただけで、一切反論することをしなかった。
 そう。一成は、卒業後の進路として、父や姉が在籍するオーケストラを選んでいた。入江の言うとおり、純粋にクラシックを専門としている交響楽団を。
 楽団には立派なピアノソリストが在籍しているが、中堅どころのピアノ奏者が海外に移籍してしまったため、現在、一時的なピアニスト不足に陥っている。移籍が噂されるようになった昨年辺りから、一成は既に、父や姉から入団を打診されており、一成もそれを受け入団テストに応募することにしたのだ。
 勿論、ジャズへの思いを完全に断ち切れた訳ではない。卒業後にふっきれるとも思えない。けれど、プロとしてやっていくだけの自信が、まだ一成にはなかった。なんとしてもピアノで生計を立てたい一成は、まだ燻る思いを抱えつつも、ジャズではなくクラシックを選んだ。もっとも、入団テストに合格すれば、の話だが。
 「そう言う入江は、卒業後、どうするんだ?」
 「僕? 僕は、まだ検討中だ。音楽の世界で生きていきたいとは思ってるけど、選択肢も少ない上に狭き門だからね。教授は大学院進学を勧めてくれてるけど、タダで行ける訳ではないからな」
 「大学院か…」
 「藤堂も、オーケストラより、ソロ狙った方がいいのに。国内オケは、特に新人は薄給だろう?」
 「まあね」
 企業からの資金援助が次々引き上げられてしまい、存続の危機にある楽団は少なくない。一成の父がコンサートマスターを務めているオーケストラも、日本国内では有数の一流楽団だが、経営は決して楽ではない。新人団員の給料は、一般の大卒初任給より下だ。給料だけでは生活できず、副業をしている者も多いと聞く。
 しかし、たとえ薄給でも、決まった給料を貰いながら音楽活動ができる、というのは、非常に恵まれた環境だ。父が一成を自分らのオーケストラに誘うのも、単なる親のエゴではなく、安定した環境で音楽を続けさせてやりたい、という親心であることを、一成は理解している。
 「好きなことを職業にして生きていけるなら、贅沢は言わないよ。賞取り合戦から離脱してたから、知名度ゼロだし―――第一、学生の中で1、2を争ってても、所詮井の中の蛙だろ。入団テストに受かるかどうかも怪しいと、俺は思ってる」
 苦笑しつつ一成が言うと、入江は薄く微笑み、
 「筋金入りの純血種の割に、意外に謙虚なんだな」
 と、皮肉とも感心ともつかない言葉を呟いた。


 それから数ヶ月後、彼が卒業後の進路として調律師を選んだことを知った時、一成は、少なからず驚いた。
 調律師も、金銭面で言えば相当厳しい世界だ。あの日の話しぶりから、入江を「金には結構シビアな男」と思っていた一成には、この入江の選択は予想外だった。いや、金のこと以上に、自分より腕前では優っていると言える入江が、よりによってピアノを弾かない職業を選ぶとは―――これは、一成だけでなく、周囲の人間誰もが首を傾げた。
 音大まで出て、しかも腕前もトップクラスなのに、ただの調律師ではもったいない、と残念がる人々に、入江はこう答えたという。

 「ピアノを弾くのは好きだが、人に負けるのも嫌いだし、自分の演奏を素人から偉そうに評価されるのも嫌いだ。こういう人間は、趣味でピアノを弾く方が合っていると思う。一番好きなことだからこそ、仕事にしたくないんだ。ピアノと関われる仕事ができれば、それで十分だ」

 一番好きなことだから、一生の仕事としていきたい、という一成と、一番好きなことだから、仕事にはしたくない、という入江。
 共にトップを競い合ったライバル2人は、結局、あのバイト先での会話を最後に、大した話もすることなく、卒業した。


***


 そのまま時が過ぎれば、一成はずっと、楽団員として生きていっただろう。
 元々、ジャンルを問わずに、ただピアノを弾くということが好きなのだし、楽団は大所帯ながらも家庭的な一面もあって、なかなか居心地の良い場所だった。父や姉もいる、というい点では少々気詰まりだったが、総じて、一成は自分の仕事に満足していた。
 ジャズへの思いは、勿論、卒業後もずっと一成の心の中で燻り続けていた。学生時代のように自由に時間を取れなくなり、また、ヨッシーもとあるボーカリストのツアーメンバーに抜擢されてしまったため、実際にジャズを弾く機会はガクンと減ってしまったが、休日などにはスタンダードナンバーを弾いて、なかなかジャズに接することができないフラストレーションを地味に解消したりしていた。
 消えることのない、小さな炎―――それを、無視できない大火に変えたのは、1人のピアニストだった。


 「藤堂、お前、ジャズが好きだったよな」
 ある日、楽団員の1人からそう言われ、当然ながら一成は頷いた。
 「じゃあ、このチケット、買い取ってくれないか?」
 「チケット?」
 「ライブのチケットだよ。前売りで買ったはいいけど、急に仕事の予定が入って、行かれそうにないんだ」
 仕事、とは楽団の仕事ではなく、音大受験生の家庭教師の仕事だ。自宅通いの一成は余裕があるが、独立している楽団員の中には、そうした掛け持ちをしている者も少なくない。
 「明日の午後6時半からなんだけど…どう? 行けそうか?」
 「あー…予定の方は、大丈夫だな。で、何ていうアーティスト?」
 「知ってるかな。麻生拓海っていう、ジャズピアニストなんだけど」
 「ああ、知ってる。一度、生の演奏を聴いてみたかったんだ」
 「そりゃあよかった。じゃ、交渉成立だな」
 せっかくのチケットが無駄にならずに済むとわかり、彼はホッとしたように笑った。

 麻生拓海―――実を言えば、前から気になっていたアーティストだった。
 一成より一回りほど年上なので、若手、と称するにはキャリアがありすぎる。が、大御所、と呼ぶほど熟練もしていない。いわば、第一線で活躍する働き盛りの世代、といった位置に、彼はいる。メディア露出が少なく、また海外での活動が比較的多いので、あまりメジャーな印象はないが、ジャズ界ではかなりの有名人だ。
 初めて彼の演奏を耳にしたのは、数名の日本人ジャズ奏者が作ったオムニバスCDの1曲だった。興味を持ち、アルバムも購入してみたが、スタンダードはどこまでも泥臭く、オリジナル曲は遊び心満点といった感じで、麻生拓海というプレイヤーの多面性がそのままCDになったような1枚だった。面白い―――是非一度、彼のライブを実際に見てみたい。そう思った。
 しかし、彼に注目するようになったのはここ1、2年のことで、入団テスト、学祭、定期演奏会、卒業論文……と目の回るような忙しさだったため、ライブチケットの前売りなどに気を配っている余裕がほとんどなかった。結果、気になっていた割にはいまだに一度もライブを見たことがない、という状態になってしまったのだ。

 思いがけない形で巡ってきたチャンスを一成は単純に喜び、大した意気込みも思い入れもなく、ライブハウスへと向かった。
 ところが、そこで一成が出会ってしまったものは、一成の人生を動かすような、衝撃的なものだった。


 体中に、震えが走った。
 感情の動きのままにテンポも音量も自在に変化する『Summertime』、ブレーキが壊れたみたいに疾走するオリジナル曲―――ルールも枠組みも感じさせない、自由気ままな音楽が、そこにあった。
 ステージ上の麻生拓海は、“音楽”という言葉のとおりに、楽しそうだった。いや、楽しい、なんて言葉では表せない次元だ。まるで、陸に打ち上げられて今にも窒息しそうだった魚が、棲み慣れた水に放たれて、生命を取り戻さんと無心に泳ぎ回っているかのようだった。
 約2時間のライブの間、一成はずっと、両腕を抱くようにして、自身の震えを押さえ込んでいた。瞬きも忘れたかのように、呼吸すら忘れたかのように、ただ一心に、ステージを見つめ続けた。
 そうしなければ、衝動に負けてしまいそうで。
 叫びだしそうな、今すぐここを飛び出してしまいそうな、衝動―――ただ、じっとしていられない。何かをしたい、何かをしなくてはいけない衝動が体中で脈打っていて、少しでも動けば爆発してしまいそうで。

 あんな風に、弾きたい。
 クラシックでもいい、ジャズでもいい、ポップスでもロックでも、ジャンルなんて何でもいい。ただ、あんな風に、自由に、自分の内側にあるものを曝け出して、本能の赴くままに、弾きたい。

 ずっと自分の中にあった切望を、一成はこの時、やっと形あるものとして自覚した。
 そして、思った。自分には―――少なくとも“今”の自分には、クラシックでは、オーケストラでは、駄目なのだ、と。


 麻生拓海のライブから、丸3日、悩んだ。
 結果、一成は、オーケストラに退団願いを提出した。
 当然ながら、家族からは大反対された。特に、同じオーケストラの一員である父と姉の拒否反応は凄まじかった。

 「何を考えているんだ? 自分が何をしてるのか、お前、本当にわかってるのか?」
 「…わかってる。わかった上で、どうしてもジャズの世界に行きたいんだ」
 「なんでジャズなんだ? クラシックでも自己表現はできるし、ブーニンが非難された頃よりは、今はスタイルにそれほど厳しくもないだろう? 近代・現代音楽をやることだってあるんだ。何故、クラシックじゃ駄目なんだ?」
 父の言うことも、確かに一理ある。一理あるだけに、一成の考えは理解してもらえないかもしれない。それでも一成は、父の前に正座し、膝の上の拳をきつく握りしめて、答えた。
 「…俺はずっと、クラシックっていう“枠”の中で生きてきた。本番でのアドリブなんて言語道断、個性より周りとの調和を大事にして、何十人もで1つの音楽を作る―――そういう世界に生きてきた。父さんや姉貴が、そうであるように。それはそれで、素晴らしい世界だってことは、俺もわかってる。同じ曲を譜面通りに弾いたとしても、全く同じ演奏にならない……ちゃんと弾き手の個性が出るものだ、ってことも理解してる」
 「だったら…」
 「それでも、駄目なんだ。俺は、今の“枠”が窮屈で、その外を見たくて仕方ないんだ。随分前から―――多分、この“枠”に気づいた時から、ずっと」
 「……」
 「窮屈に感じるのは身の程知らずなのかもしれない。何もわかっちゃいない、って父さんが言うのも無理ないと思う。でも…今の俺は、何の“枠”もない世界で、自分の音楽を試したいんだ。結果、アドリブの1つも浮かばないで譜面通り弾くのがやっとだったとしても、試さずに今の道を進み続けることはできない。一度、試さないと……この衝動を解決しないと、クラシックの方も半端なままになってしまうと思うんだ」
 あまり多弁な方ではない一成の必死の主張に、家族は少し気圧されたような様子だった。
 「一度タッチが荒れてしまったら、純粋なクラシックに戻るのは不可能か、できたとしても何年もかけなきゃならないんだぞ」
 やっぱりジャズよりクラシックがいい、となって戻ってくる可能性を父から指摘されたが、それでも一成の気持ちは変わらなかった。
 「その時は、もう一度、ゼロからクラシックをやり直す」
 「…なんて遠回りだ。気が知れん」
 「一生ピアノを弾いていく覚悟だから、急ぐつもりはないよ。自分を誤魔化しながら優等生を演じ続けるくらいなら、遠回りする方がマシだ」
 そう断言する一成に、家族ももう反論はしなかった。

 「お父さんは、あなたに期待してたのよ。これだけの腕を持っているのに、ずっと表舞台に立たずにきたから―――オーケストラで下積みしながら、いずれは超一流のソリストになって、ピアノリサイタルを開けるぐらいになって欲しい、って」
 家族会議の後、母が、父の聞いていないところで、こっそりそう言った。
 「お父さんだけでなく、オーケストラの人たちも、新しい戦力として大いに期待していたのよ。その期待を裏切るんだってこと、しっかり肝に命じておきなさい」

 母が言うとおり、オーケストラ側の反応は、非常に冷ややかだった。
 すべて俺のわがままです、申し訳ありません―――誰も賛成してくれる人がいない中、一成は、オーケストラを退団した。


***


 「“Jonny's Club”?」
 「そう。お前も名前くらい知ってるだろ」
 “HANON”の仕事とジャズピアニストの仕事、二足のわらじ状態にもだいぶ慣れてきた頃、ヨッシーが突如、そんな話を持ち込んできた。
 勿論、一成も“Jonny's Club”の存在は知っていた。2度ほど、客として訪れたこともあった。
 「上手い具合に、今やってるバンドが近々辞めるんだよ。こりゃチャンスだぞ。お前だって、“HANON”でピアノのデモ演奏やってる方がジャズライブの回数より多い現状は、つまらないだろ?」
 「もし決まれば、週に3日、計6ステージ……ってこと、だよな」
 まさに、喉から手が出るほど欲しい仕事だ。が、ヨッシーの提案には、1つ問題点があった。
 「ただなぁ…今のところ、この話に乗れそうなのが、俺とお前の2人しかいないんだよ。辞めるのがボーカル含めたクインテットだったこと考えると、ピアノとベースだけじゃあ、雇ってもらえる確率は低いよなぁ…」
 「ボーカル…」
 その一言に、一成は思わず、あ、と声を上げた。
 ほんの数日前、偶然見かけた、路上ライブ―――ボーカルとギターのみ、という変わった構成のジャズだったが、そのボーカルを務めていた女性の声に、一成は一発で惚れ込んでいたのだ。
 「その話、ボーカルがまだ素人でも、問題ないか?」
 身を乗り出す一成に、事情を知らないヨッシーは、「は?」と目を丸くするばかりだった。


 路上ライブの主は、名を如月咲夜といった。
 ストリート以外のジャズライブ経験はほとんどないに等しいとのことで、“Jonny's Club”でのライブ出演の件を、彼女は二つ返事で了承してくれた。
 面接までの間、プライベートな時間の全てを費やして練習したが、彼女はその抜群のリズム感と音感で、ヨッシーをも驚かせた。が、彼女の通う大学は普通の大学で、音大ではない。ボイストレーナーなどのレッスンも受けていないと聞き、一成も驚いた。
 なんとかトリオとして形が出来たところで、“Jonny's Club”の面接を受けた。結果―――見事、採用。3人は、週に6ステージを、共に務めていくこととなった。
 ライブをやるには、当然、曲が必要だ。さっそく、トリオでやれる曲の絞り込みとアレンジ、そして練習が、急ピッチで進められた。その中で一成が密かに驚いたのは、咲夜のレパートリーの豊富さだった。
 「いつからジャズやってるの」
 ある日、練習帰りの道すがら、訊ねてみた。咲夜は気さくでサバサバしたタイプだが、プライベートなことをほとんど話さないので、彼女のことはそんな世間話レベルのことですら把握していなかったのだ。
 「なんでそんなこと訊くの?」
 「いや、その、レパートリー多いから、いつ頃からてるんだろう、って思って」
 「始めたのは中1からだけど、そんなに多いかな」
 「え、随分早いな。アイドルなんかに熱上げる年頃だろ?」
 「あー、そっち系は元々、ぜんっぜん興味なかったんだよね。ていうか、歌うのは好きだったけど、特に歌手になりたいとも思ってなかったし」
 「じゃあ、何をきっかけに、ジャズボーカリスト目指すようになった訳?」
 一成の質問に、一瞬、咲夜が口ごもった、ような気がした。
 が、それは本当に一瞬のことで、直後、咲夜は極めてあっさりとした口調で、答えた。
 「うん、まあ……親戚に連れられて、ジャズバー行ったのがきっかけ、かな」
 「親戚?」
 「叔父さん。ジャズピアニストなんだ」
 「えっ」
 「そこそこメジャーな方だと思うけど、知ってるかな。麻生拓海っていうんだけど」

 ドクン、と、心臓が跳ねた。
 ―――知ってるも何も…。
 麻生拓海―――彼は、一成にとっては、特別な存在だ。ファンとか憧れとか、そういう意味ではなく、自分の人生を変えさせた人物、という意味で。

 「あ、もしかして、知らないか」
 一成が言葉を失っているのに気づき、咲夜がそう言って苦笑した。まずい、冷静にならないと―――自分に言い聞かせつつ、一成はなんとか微笑を口元に浮かべた。
 「いや…知ってる。好きなピアニストの1人だよ」
 「えっ、マジで?」
 叔父のピアノを気に入ってくれている、と知って、咲夜はちょっと嬉しそうな顔をした。その表情から、彼女自身も彼のピアノが好きなのだと、言葉で聞くよりはっきりとわかった。

 あの麻生拓海の、姪。そして恐らく、彼から直接、ジャズの基本を叩き込まれた人物。
 ―――だから、初めて聴いた時、どうしようもなく惹かれたんだろうか。
 麻生拓海のライブを初めて見た時の、あの衝撃に近いものを、咲夜の歌を初めて聴いた時、感じた。それはもしかしたら、咲夜の歌の中に麻生拓海と同質の……一成を衝き動かす何かを、感じたからかもしれない。

 それは、確かな、予感。
 この先、自分は、あの人のピアノと常に戦っていかなければならなくなる―――たとえ、咲夜自身が、2人のピアノを比較しなかったとしても。
 咲夜というボーカリストに、惚れ込めば惚れ込むほど、意識せざるを得なくなる。自分こそが最高のパートナーだ、と自信を持って言えるようになる、その日までは。

 麻生拓海――― 一成にとっての、自由とレジスタンスの象徴。
 巨大すぎるライバルを前に、一成は密かに、拳を握り締めた。勝ちたい―――心から、そう思いながら。

 

***

 

 まだ誰もいないだろう、と思っていたのに、先客が1人、いた。
 ちょうどヨッシーと初めて出会った時と、同じライブハウス、同じシチュエーション―――あまりの偶然に、一成は知らず苦笑を漏らした。

 「穂積君」
 ライブハウスの入り口で、雑誌を読みながら開場待ちしていた人物は、一成の声に顔を上げ、その切れ長の目を少し丸くした。
 「…藤堂さん…」
 「やっぱりいたか。そんな気はしてたんだ」
 一成の言葉に、蓮の顔が僅かに紅潮する。それを誤魔化すためか、彼は雑誌を急いで閉じ、「どうも」と言いながら結構な角度まで頭を下げた。
 「藤堂さんも、当日券狙いですか」
 「ああ。前までは咲夜に頼んでたんだけど、今回はその暇がなくてね」
 言いながら、ライブハウスの入り口横に掲げられたポスターを流し見る。そこには、本日の出演者である、麻生拓海の名とモノクロ写真があった。
 そして、ポスターに掲載はないが―――咲夜も出演することを、一成も、そしてきっと蓮も、知っている。

 『ええー、いい、いい、来なくていいって。一成が聴いてると思うと、緊張が5割増しだから』

 ―――なんて言われて、大人しく引っ込む訳ないだろ。
 本音を言えば、少し……いや、かなり、聴くのが怖い。
 けれど、確かめずにはいられない。拓海がどんな曲を作ったのか、そして―――咲夜が、その曲を、どう歌うのかを。


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