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― レジスタンス -2- ―

 

 「あら? もしかして、藤堂さん?」
 無事当日券を手に入れ、ライブハウス内に足を踏み入れて間もなく、聞き覚えのない声がそう声をかけてきた。
 声の主は、30代前半と思しき女性だった。バサッと直線的に切り落としたようなショートヘアが特徴的だが、一成は見覚えがなかった。
 「ええ、藤堂、です…けど」
 困惑気味に一成が答えると、彼女は「やっぱり」と言って笑顔になった。
 「お久しぶり。私、音楽マガジン“ミュジラ”の編集者だった、横井です。ほら、藤堂先生の取材でお宅にお邪魔した…」
 「ああ…、あの時の」
 それは、一成が音大を卒業する少し前のことだった。取材のきっかけは母の教え子が某国内ピアノコンクールで優勝したことだったが、取材内容は「典型的クラシック一家のご自宅訪問」といった感じだった。一成も取材の場に同席させられ、家族写真なども撮られたが、喋るのは両親だけで、一成自身は返事くらいしか発しなかった気がする。
 その時のインタビュアーの顔など、元々女性を服装と髪形位でしか見分けられない一成が覚えている訳がない。しかも、これだけ特徴的な髪形なのに全く記憶にないということは、当時は全然違う髪形だったのだろう。
 「あの時は色々お世話になりました。ご両親とも、その後もご活躍のようで…」
 「いえ、まあ…」
 そうですね、とも答え難いし、いや全然活躍してません、と言う訳にもいかない流れのような気がして、妙な返事になってしまった。が、向こうも社交辞令らしく、特に変な顔もせず、にこやかに続けた。
 「今は“ミュジラ”を辞めて週刊誌の方にいるんですけど、コンサートには時々行かせていただいてるんですよ。そうそう、先日はお姉様にも会場でご挨拶いただいて―――…」
 そう言った彼女は、ふと、一成の斜め後ろに立つ人影に気づき、表情を変えた。
 「あ…あら? 藤堂さん、弟さんいらっしゃったかしら?」
 「は?」
 「そちらの…」
 そちら、とは、勿論蓮のことである。えっ、と蓮は目を丸くし、一成は慌てて首を横に振った。
 「ち、違いますよ。彼は知人です」
 「え? あ、そ、そうなんですか。やだわー、なんだか似てるから、ご兄弟かと思っちゃった」
 「ハハ…」
 まあ、確かに―――蓮を振り返りつつ、一成も苦笑する。兄弟と間違えるほどではないだろうが、大きく分類すれば、恐らく同じカテゴリーに入る顔立ちやムードではあると思う。さほど深い知り合いでもないのに、初対面時からなんとなく親近感が湧いたのも、無自覚ながらも自分と似た何かを感じていたからなのかもしれない。
 「ところで、客席側にいるってことは、今日は観客として来られたのかしら?」
 「ええ。そちらは取材ですか?」
 「いえ、私もプライベートで」
 そう言うと、彼女は何故か、やけに意味深な笑みを口元に浮かべた。
 「麻生拓海って、興味深い人よね、色々と」
 「は?」
 「“ミュジラ”時代に一度、インタビューさせていただいたけど、魅力的な人よ。あ、勿論、ピアノも素敵だけど、人間的にも。一度でファンになっちゃった」
 「……」
 ―――ああ…なるほど。そういう意味か。
 拓海と直接言葉を交わした回数はそう多くはないものの、咲夜を通じて、麻生拓海という男の人間像は、ある程度わかっているつもりだ。だから、彼女がどういう意味で「興味深い」とか「魅力的」とか言っているのか、一成にはなんとなく想像がついてしまった。
 「最近、プライベート面の噂をさっぱり耳にしなくなったけど、何かあったのかしら。あ、藤堂さんて、ジャズに転向したんでしたっけ。何か裏情報とか、聞いてません?」
 「いや、全く」
 ―――ま、多少、心当たりがなくもないけど。
 実際のところ、一成は、拓海のプライベートな出来事など、何ひとつ知りはしない。が、咲夜のことなら、それなりによく知っている。そして、かつて彼女が想いを寄せていた相手が誰なのかも、いやというほどよく知っている。
 恋人ができたから、なのか、それとも、咲夜が拓海以外に目を向けたこと自体、拓海に何かが起きたことが原因なのか……その辺の絡みは、一成には全くわからない。でも、拓海の女性関係の噂をあまり耳にしなくなった(らしい)ことと、咲夜が拓海との距離を置き始めたこと、そして咲夜に恋人ができたこと―――この3つは、何らかの形で1本の線につながっている気がする。勿論、そんな情報を、マスコミの人間であるこの女性にバラす訳もないが。
 「そう…。あー、なんとかもう一度、インタビューを取りたいわ。どこかにコネ、ないかしら」
 「それより、そろそろライブ、始まりますよ」
 一成の指摘で、自分がここにいる本来の目的を思い出したらしい。我に返った様子の彼女は、とってつけたような笑みを顔に貼り付かせた。
 「え? あ、あら、ほんとだ。じゃあ、私はこれで」
 会釈して、そそくさと去っていく彼女が向かった先は、最前列の端っこだった。当日券組の一成たちは、当然ながら、最後列である。本来ならため息のひとつもつきたいところだが、彼女と席が遠かったのはラッキーだったとしか言いようがない。やれやれ、と、一成は大きく息をついた。
 「悪かったね、穂積君。妙なことに付き合わせてしまって」
 振り返りつつ一成がそう言うと、蓮は僅かに笑みを見せ、「いえ」と答えた。が、その表情は、どことなく複雑そうな様子だった。
 「? どうかした?」
 「え?」
 「なんか、微妙な顔してるから」
 「…あ、いえ、その…」
 少し躊躇した蓮だったが、上手い誤魔化し方も見つからなかったのか、気まずそうにポツリと呟いた。
 「…やっぱり、似てますか」
 「は?」
 「藤堂さんと、俺が」
 「…あー…どうだろう? 兄弟と勘違いするのは行き過ぎだと思うけど、まあ、タイプとしては似てるんじゃないかな」
 「……」
 「俺に似てると、何かまずいことでも?」
 「いえ、そういう訳じゃ。ただ―――前にも一度、言われたことがあるんで」
 「似てるって? え、誰に?」
 「名前は忘れたけど、藤堂さんのファンだっていう子に。“Jonny's Club”でアルバイトしてたそうですけど」
 ―――ああ…あの子か。
 半ば忘れかけていた顔が、脳裏に浮かぶ。と同時に、妙な胸騒ぎを覚えた。
 「多分ミサちゃんのことだと思うけど、一体なんで彼女と?」
 「一宮さんと食事に行った時、偶然、同じ店に来合わせていただけです」
 「あ…、そう」
 確かにミサは奏の顔を知っているだろうし、あの性格なら、偶然再会すれば声のひとつもかけてくるだろう。でも、そういう流れで自己紹介しあっただけにしては、蓮の表情が微妙すぎる。
 「あの…もしかして、何か、あった?」
 恐る恐る訊ねると、案の定、蓮の表情がますます気まずそうなものに変わった。
 「…いや、あった、っていうほどでも…」
 「…あ…、そ、う」
 ―――あんまり詳しく聞かない方が身のためだな。多分。
 冷や汗が滲んでくるのを感じつつ、一成は曖昧に笑い、それ以上この件については触れないことにしたのだった。

***

 成り行き上当然のことだが、一成の席は、蓮の席の隣だった。
 特にパンフレットもないライブなので、どういう曲順か、どんな曲が演奏されるのか、全てが始まるまで謎のままだ。勿論、咲夜の出番がいつ頃なのかもわからない。おそらくは純粋に咲夜目当てであろう蓮には、少々退屈なことになるかもしれない。
 「そういえば穂積君、前に買ったCDに、麻生さんの演奏も入ってたよね」
 少し心配になり一成が訊ねると、蓮は微かな笑みを浮かべ、頷いた。
 「はい。それと、今回ライブ来るための予習として、最新アルバムも1枚買いました」
 「予習か…。どう? 麻生さんのピアノを聴いた感想は」
 咲夜と似た音楽性を持つピアニストなので、咲夜のファンである蓮の評価も高いだろう、と予想したが、意外にも、この質問に答える蓮の表情はいまひとつ冴えなかった。
 「…うーん…上手いな、とは思ったけど、知らない曲ばっかりで」
 「ああ…今日もオリジナルが多いかもしれないなぁ」
 このところ、拓海は作曲に力を入れているらしく、最新アルバムに収録されている曲は、9割がオリジナル曲だ。ジャズ初心者で、スタンダードナンバーを聴き漁っている状態の蓮にとっては、馴染みのない曲ばかりのアルバムは、ただそれだけでとっつき難いと感じても無理はない。
 「あのアルバムには歌の入ってる曲はなかったけど、普段はこういう共演はないんですか?」
 「全部のライブ聴いてる訳じゃないけど、あんまりないね。たまに中堅どころの歌手をゲストに呼んだりするけど、それと今回の咲夜とは別物だし」
 「別物?」
 「咲夜は、ゲストじゃないからね。麻生さんのオリジナル楽曲の、正式な歌い手な訳だから」
 「あ、そうか…。でも、1曲だけなんですよね。もったいない」
 やはり、ファンとしては物足りないらしい。蓮は、残念そうに小さくため息をついた。
 たった1曲とわかっていてもこうして足を運ぶのだから、筋金入りのファンと言っていいだろう。これほど熱心なファンがついている咲夜が、同じミュージシャンとして羨ましくもあるし、そこまで熱心になれる対象のいる蓮が、同じ音楽愛好家として羨ましくもある。いいなぁ、と一成はしみじみと笑みを浮かべた。
 と、その直後、それまで会場に流れていたBGMが止み、フロア全体の照明が暗くなった。どうやらライブが始まるらしい。一成も蓮も、雑談を止め、少し姿勢を正すようにして前に向き直った。

 舞台上に現れたのは、拓海の他に2名、ウッドベースとドラムだった。
 ピアノが主役なので当然といえば当然かもしれないが、拓海のライブは、比較的こういう小規模な編成のものが多い。大体がピアノ、ウッドベース、ドラムのトリオ形式で、大きくなってもこれにサックスを加えたカルテット程度だ。コンサート会場然としたホールより中規模 のライブハウスを好んで使うから、というのも、小規模編成を好む理由なのかもしれない。
 拍手の中、それぞれの持ち場についた彼らは、数秒のアイコンタクトの後、さっそく1曲目の演奏を始めた。『Autumn Leaves』―――ジャズのスタンダード中のスタンダードだ。
 一成にとっても、弾き慣れたお馴染みの曲。だが、弾き手が変われば、その表現法も変わる。特にアレンジ部分の表現は、弾き手の個性が一番現れる部分だ。
 ―――何だろうなぁ…。やっぱり、テクニック部分の上手い下手じゃない次元で、何かが決定的に違ってるよなぁ…。
 軽妙なタッチで、実に楽しげに鍵盤を叩く拓海を眺めつつ、改めてそう感じる。その感想は、2曲目として彼のオリジナル曲が演奏されると、更に強くなった。
 特に指導を受けたこともなく、完全な独学でピアノをマスターしたと聞く。始めの頃など、楽譜もまともになく、ラジオで流れている曲を耳でコピーして弾いていたらしい。当然、編曲や作曲の指導など受けたことがある筈もなく、処女作に至っては楽譜すらないそうだ。勿論、今は楽譜の書き方もわかっているのだから、改めて楽譜に起こせばいいのかもしれないが、「ソロの曲だから自分の頭の中にあれば十分」らしい。
 音楽一家に生まれ、漢字を覚えるより早く楽譜の読み方を覚え、ピアノも楽典も作曲技法も一流音大の教授の指導の下身につけてきた一成とは、明らかに対照的なバックボーン―――だからこそ一成は、拓海のピアノを意識してしまう。
 抑圧に耐える中で生まれた、(ソウル)の音楽であるジャズ。その成り立ちとは程遠い、恵まれた道を歩んできたから、所詮苦労知らずのサラブレッドに泥臭い音楽など無理だ、と言われるのが何より嫌だ。独学で音楽を身につけ、単身アメリカで武者修行をした拓海を、自分よりジャズに近い存在と感じて対抗意識を覚えるのも、一種のコンプレックスの表れなのだろう。
 ただ純粋に憧れていられた頃は、つくづく幸せだったと思う。多少は成長し、彼の場所に幾分近づいた今、一成が麻生拓海というミュージシャンに抱く感情は、結構複雑なのだ。

 2曲目に続き、3曲目もオリジナル曲が演奏され、やっとMCが入ったのは3曲目が終わってからだった。MC、といっても挨拶程度で、非常に短い。演奏した曲名と、今からやる曲名を言っただけで、すぐに4曲目の演奏が始まってしまった。
 舞台上の拓海は毎回こんな感じで、喋る暇があるなら1曲でも多く演奏させろ、といわんばかりに、最低限のことしか喋らない。以前、拓海のライブを見たという音楽仲間が「あの人ってストイックで渋いイメージだよね」と言ったのを聞いて、リアクションに困ったが、案外そう思っているファンは多いのかもしれない。
 4曲目からは、スタンダードナンバーとオリジナル曲とが交互に続いた。今日聴きに来た一番の理由も半分忘れて、一般聴衆としてライブを楽しんでいた一成だったが、「それ」は、ライブ中盤に、唐突にやってきた。

 「えー、次の曲は、新しく作った曲で、ライブでやるのも今日が初めてになります」

 心臓が、軽く跳ねた。
 ファンからすれば嬉しい話だ。歓声や拍手があちこちから上がる。そんな中、一成だけは、少し表情を硬くし、無意識のうちに座る姿勢を正したりした。

 「で、ですねぇ、この曲()るにあたって、どうしても俺1人じゃ無理だったんで、助っ人を呼びました。あー、前にも1回出演したことあるんで、顔見て“ああ、あの時の”って思うかもしれないけど―――この曲を歌える唯一のシンガーに、拍手をどうぞ。如月咲夜です」

 なかなかプレッシャーのかかる紹介内容だ。大丈夫か、と心配する一成をよそに、拍手の中、舞台上に現れた咲夜は、意外なほど涼しい顔をしていた。
 晴れ舞台というのに、咲夜の服装は、いたってシンプルだった。飾り気のない七分袖のコットンシャツに、履き慣れたジーンズ……そう、普段の彼女の服装そのままだ。もっとも、このライブの主役である拓海もそれと大差ない服装なので、1曲だけの登場となる咲夜が派手な服装をするのもアンバランスなのかもしれない。
 ステージのほぼ中央、ピアノの傍らに置かれたスタンドマイクの前に立った咲夜は、微笑を作り、客席に軽く頭を下げた。
 ―――ああ、あいつなりに、緊張はしてるんだな。
 一見、涼しい顔に見えるが、それなりの年数、一緒にステージに立ってきた一成には、咲夜の笑顔の質の微妙な違いがわかってしまう。どんなに平然として見えても、あの顔は間違いなく、普段の数倍、緊張している顔だ。
 どうやら、咲夜本人の挨拶などはないらしい。準備が整ったのか、咲夜がスタンドマイクに手を添え、ピアノの方を振り返る。それを受けて、拓海も頷くと、途端、ステージ上の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。
 そして―――その曲は、始まった。

 始めの4小節は、ピアノのみの前奏のようなもので、歌が入ったのは5小節目からだった。
 ピアノと声とのユニゾンで、更に6小節。7小節目からハモり始め、やがて、ピアノと声の掛け合いに変わる。そう、飽くまで“声”―――前もって聞いてはいたが、“歌”の前提となる歌詞が、一切ない。スキャットのみだ。
 アップテンポな変拍子、広すぎるほど広い音域……なるほど、電話で咲夜が愚痴っていたのも納得の難易度だ。いや、咲夜だけではない。拓海のピアノにしても、この疾走するかのようなアレグロは、訓練され尽くした指だからこそできる技だろう。
 これは、大変な曲だ。
 始めの30秒ほどを聴いた、それが、一成の第一の感想。
 けれど、メインフレーズが終わり、それぞれのアドリブソロが始まった辺りから、一成の顔色が徐々に変わってきた。そして―――気づけば、膝の上で握り締めていた拳が、力の入れすぎで震えていた。

 ―――同じ、だ。
 あの時と―――初めて麻生拓海のライブを見た、あの時に感じたのと、同じものだ。

 ステージ上の2人は、実に楽しそうだった。
 いや、楽しい、というより、自由に―――何者からの束縛も受けず、自分の思うままに歌い、弾いているように見えた。タイトルもなく、歌詞すらもない曲だから、尚更に―――曲そのものからすら縛られることなく、自分の本能のみに従って、音楽を奏でているように見えた。
 全く同じことを、拓海のライブを初めて見た時にも感じた。演奏していたのは、昔から多くのミュージシャンが演奏してきたスタンダードナンバーだったのに、拓海の弾くそれは、彼自身の中から自然と湧き出た音楽、と思えた。ピアノを弾くのが楽しくて楽しくて仕方ない、そんな気持ちに衝き動かされて鍵盤を叩いているのだと、彼の表情が、動きが、奏でる音が訴えかけてきた。
 あんな風に、弾きたい。
 たとえ裏では血の滲むような努力をしていようと、その曲を演奏するまでに様々な葛藤があろうと、ステージの上ではあんな風に、自分の中にあるものを解き放つようにして弾きたい。
 あんな風に弾くために、ジャズに転向した筈だった。クラシック一家に生まれ、音大で学び、常に枠組みを感じながら弾いてきたからこそ、その枠組みの外に出たかった。外の世界に出れば、自由に弾くことができると思った。
 けれど―――転向してこれまで、それを肌で実感できたことは、まだ一度もない。確かに、クラシックでは許されなかったことができるし、誰かから制限を設けられてもいない。演奏している時は楽しいと感じてもいる。けれど、何かが……具体的な言葉では表せない何かが、自分が憧れたものとは、違っている。

 何が違うのか。それはまだ、わからないけれど。
 でも、違うのだ、ということを、今、目の前で見せつけられている。見せつけられて、あんな風に弾きたくて、また体が震えてくる。

 曲が終わるまでの約5分間、一成は、瞬きすら忘れたかのように、身動きひとつせず、ステージ上の2人を震えながら見ていた。
 パートナーを横取りされたような気分になるかもしれない、自分より拓海との方が息が合っていて焦りを覚えるかもしれない、と、今日ここに来る前は、そんな心配をしていた。が、歌い終え、ホッとした表情で拍手に応える咲夜を見た時、湧き上がってきた感情は、そういった類のものではなかった。
 そこにあったのは、羨望―――自分がまだ到達し得ていない境地を体感した者に対する、悔しい、羨ましい、という気持ちだけだった。

***

 「あの…俺まで、いいんでしょうか」
 そう言って恐縮した様子で後ろからついて来る蓮に、一成は振り返りつつ苦笑を返した。
 「咲夜のファンなら、麻生さんだって邪険には扱わないから、大丈夫だよ。マネージャーさんとは一応俺も顔見知りだし」
 「はあ…」
 「案外、控え目なんだなぁ、穂積君は。署名活動立ち上げたりして、行動力あるから、チャンスと思えば遠慮なく話に乗るタイプかと思ってた」
 「…相手が雲の上の人物ですから」
 雲の上の人物、とは、勿論、麻生拓海のことである。
 終演後の帰宅客の波を抜け、路地からライブハウスの裏手に回った2人は、関係者専用の扉を開けて、そこに居たガードマンらしき人物に事情を説明した。話は既についていたらしく、ガードマンは笑顔で2人を通してくれた。そして、現在―――場所は、楽屋前だ。
 “STAFF ONLY”とだけ書かれたドアをノックすると、内側からドアが開き、いきなり咲夜本人が顔を覗かせた。
 「あ、やっぱり一成だった」
 約束をしていたので、そろそろ来る頃と踏んでいたらしい。一成の顔を見るなり、咲夜はそう言ってニッと笑った。
 「ステージから客席の顔まで確認できなかったから、来てるかどうか半信半疑だったけど、良かった。無事、当日券ゲットできたんだ」
 「ああ。それと―――偶然会ったから、連れてきたんだ。いいかな」
 一成の言葉に、咲夜はキョトンとして、その背後を覗き込むように首を伸ばした。そして、蓮の顔を見つけるや、驚いたように目を丸くした。
 「えー! ホントに来てくれたんだ!」
 「こんばんは」
 蓮がフワリと微笑み、軽く頭を下げる。こんな柔らかい笑い方もするんだな、と、先ほどまでの硬派な表情との違いに、少し驚いた。
 「うわー、嬉しいけど、申し訳ないなぁ。無駄に高いチケットなのに、私が出たの、本当に1曲だけだったし」
 「いえ。確かに咲夜さんの歌目当てではあったけど、それ以外も楽しめましたから」
 「おいおい、そこの青少年。“それ以外”ってのは俺のピアノのことか?」
 突如、咲夜の背後から割って入った声に、蓮の笑みが一瞬で引きつった。
 当然ながら、咲夜の背中越しにこちらを見ているのは、本日のステージの主役・麻生拓海だった。咲夜のおまけ扱いをされて大いに不服、という顔をしているが、それが本気ではなく冗談であることは、傍目にも明らかだ。が、言ってしまった当人である蓮にとっては、十分冷や汗ものだろう。
 咲夜もそうだが、拓海の方も、舞台の上と一切変わらない服装のままでいた。もっとも、ステージ衣装と呼ぶにはラフ過ぎる、完全な普段着で舞台に上がっていたのだから、そのままの格好で帰宅するのも当然なのかもしれない。
 「咲夜もたいした身分になったもんだなぁ。1曲のために高いチケット並んで買ってくれるような奇特なファン、俺にだっているかどうか疑問だぞ」
 咲夜をからかうように小突いた拓海は、そう言って目を蓮に向けた。
 「で? どうだった? “それ以外”のピアノは」
 「…こら。いい歳こいて若者を虐めないの」
 容赦ない咲夜の肘鉄が脇腹に食い込み、拓海の悪ふざけはあえなく終わった。一方の蓮は、むせながらブツブツと文句を言っている拓海の様子を、始めはあっけに取られたような表情で見ていたが、やがて、苦笑のような笑みを浮かべて、答えた。
 「楽しそうでした。麻生さんのピアノ」
 「楽しそう?」
 「個人的にはスローバラードの方が好きだけど、アップテンポの曲も、あんまり楽しそうに弾いてるから、聴いてるこっちも楽しくなれました」
 蓮の素直な感想は、拓海も気に入ったらしい。うんうん、と頷くと、拓海は蓮の肩をポン、と叩いた。
 「そりゃあ良かった。俺のピアノの基本は“楽しむ”ことだからな。小難しいことは抜きにして、楽しい気分になってくれりゃあ、今日のライブは成功だ」
 「拓海の場合、客そっちのけで本人が楽しみすぎな気もするけど」
 ぼそっと咲夜が言うと、拓海はムッとしたように咲夜を見下ろした。
 「俺以上に楽しそうに歌ってたくせに」
 「あ、ねえ、2人とも夕飯まだ? だったら一緒に食べに行かない?」
 拓海の呟きを完全無視で、咲夜が一成と蓮の顔を交互に見つつ、訊ねた。
 「ああ…俺は構わないよ。穂積君、一緒にどう?」
 遠慮がちな蓮を気遣って、一成が振り返りつつそう訊ねると、蓮は一瞬躊躇うような表情を見せたものの、すぐに笑顔で頷いた。
 「じゃあ、遠慮なく」
 「おっけー。じゃ、ちょっと待ってて。すぐ支度してくるから」
 そう言うと、咲夜は、背後の拓海の横をすり抜けるようにして、楽屋の奥へと引っ込んだ。
 咲夜や拓海の姿で隠れてしまっているが、奥には、一成も顔を知っている拓海のマネージャーや、今日一緒にライブを務めたベーシストやドラマー、その他スタッフ等々もいるらしい。
 「麻生さんたちは、打ち上げとかしないんですか?」
 一成が訊ねると、拓海は、ポケットから煙草を取り出しつつ、肩を竦めた。
 「同じメンツで、まだあと2ステージやるからね」
 「え。じゃあ、咲夜も…」
 「あの曲は、今日限定だよ。ある意味テスト的な発表だから。今日の客の反応見て、あまりに酷いようならロンドンで出すのはやめとこうと思ってた」
 「…で、結果は…」
 テスト、などと言っているが、ある程度確信が持てていなければ、咲夜に前もってロンドン行きの話などしない筈だ。案の定、ニヤリと笑った拓海が放ったセリフは、余裕あり気だった。
 「ま、ほぼ予想どおり、かな」
 「……」
 「とはいえ、あれ1曲のためにロンドンまでついて来い、ってのも酷な気するから、何かもう1、2曲、スタンダードのボーカルナンバーでも用意するかなぁ…。あいつからすりゃ、有給取ってわざわざ来る訳だし」
 それは確かに、そうだろう。一体ギャラがいくらか知らないが、たった1曲歌うために日常生活のうちの何日間を丸々犠牲にしなくてはいけない、というのは、かなりきつい。実際、電話で咲夜がぶつぶつ言っているのを聞いていた一成は、咲夜が歌うのは1曲だけではなさそうだ、とわかり、密かに胸を撫で下ろした。
 ―――そうか…あの曲を、咲夜と麻生さんが、ロンドンで演るのか…。
 なんとも複雑な感情が、胸の奥に湧いてくる。それが表情にも出てしまったのだろう。拓海が、ふと気づいたように、軽く眉をひそめた。
 「ん? どうかした?」
 「え、」
 「なんか、妙な顔してるから」
 「いえ、その…」
 心の内を見透かされたようで、鼓動が速くなる。
 実は、あの曲を聴き終えた直後から、一成はある思いに駆られていた。拓海に、ある事を頼みたくて―――どうせ断られるとわかっているので、口にする気もなかったのだが、こうして訊ねられたのは、もしかしたらチャンスなのかもしれない。
 「―――あの、麻生さん」
 「ん?」
 「咲夜が歌ったあの曲……あれの楽譜を、貸してもらえませんか?」
 かなり驚いたのだろう。拓海の目が、丸くなった。
 「楽譜を? なんでまた」
 「弾いてみたいんです」
 一笑に付されて終わらなかっただけでも、可能性はある。一成は、真剣すぎるほど真剣な面持ちで、拓海を真っ直ぐ見据えた。
 「勿論、俺がプライベートで弾きたいだけで、仕事で弾くこともしないし、咲夜と合わせるつもりもありません。ただ、初めて麻生さんのライブを見た時から、あんな風に弾いてみたい、って思ってたから…」
 「あんな風、って、たとえばどんな?」
 興味津々の目で、拓海が更に畳み掛けてくる。その表情を見る限り、どこまで真剣にこの話を聞いているのか甚だ疑問だが、ここまで言ってしまった後では今更引っ込める訳にもいかない。自身の考えをまとめながら、一成は話を続けた。
 「…俺は、お手本みたいに上手い、と言われたことはあっても、楽しそう、とか、独創的だ、とか、そういう類のことを言われたことは、一度もないんです」
 「ああ…まあ、実際、切れるように上手いから、余計そう見えるかもな。そういう評価は、不満か?」
 「いや、不満なんて―――ピアノにも個性があるから、これが俺の個性だ、って言われたら、確かにそうなのかもしれないです。でも、なんていうかこう、常にどこか冷静に、冷めた目で自分の演奏を見ている俺がいて―――クラシック界の枠組みを嫌って飛び出してきた筈が、自分で枠を作ってる気がして…」
 「枠、ねぇ」
 「そんな俺にとって、麻生さんの演奏は“自由”の象徴なんです」
 「自由、か」
 「ああ、今、この人の頭の中には、上手く弾こうとか聴衆に何かを訴えかけようとか、そういう計算も義務感も何もないんだろうな、って―――1回のライブに何曲か、そういう演奏をしてるように感じるんです。特に、今日のあの曲は……タイトルも歌詞もないから余計に、ジャズっていうジャンルからも、曲や歌の解釈からも自由になって、完全に“自分が楽しむために”弾いてるように、俺には思えたんです」
 「……」
 「俺は、上手い、なんて褒め言葉はいらないから、もっと感情的な部分を表に出した演奏がしたいんです。でも、枠を感じたり作ったりしている限り、そんな演奏は無理な気がして……でも、あの曲みたいに、全ての枠を取り払った曲を弾いたら、嫌でも素の“自分”が見えてくるんじゃないかと―――それが見えたら、もう少し感情をはっきりと出した演奏ができるようになる気がしてるんです」
 「ほほー…なるほど、なぁ」
 腕組みをした拓海は、さも感心したかのような声で相槌を打った。そして、大きく一息つくと、微かに苦笑を浮かべた。
 「なかなか哲学的で難しい話だけど、言いたいことは、わからないでもない。特に、俺と君とは、音楽に関わった経緯も演奏スタイルも、面白い位に正反対だからなぁ。隣の芝は青いもんだ。俺の演奏を“ソウルフル”って評価されてるの見て、常に“クール”と評価される君が羨ましくなるのと同じように、君の演奏を“基礎に裏打ちされた圧倒的技術”って評価されてるの見て、“野良ピアニスト”なんて言われたことのある俺は、ちくしょういいなぁ、と悔しがる訳だ」
 「麻生さんが? まさか」
 「おいおい。俺だって人間だし、これでも負けん気は強いから、自分より優れた人間に対抗意識の1つや2つ、持って当然だろ?」
 確かにそうだが、自分と拓海とでは、業界でのランクに差がありすぎる。明らかに格下の自分に対抗意識を燃やすなんて、あるのだろうか―――いや、売れたから自分の方が上、と考えられる人間なら別だが、純粋にミュージシャンとしての腕前のみを問題にしている人間なら、拓海に限らずこんな風に考えるのかもしれない。
 「君があの曲弾きたい動機は、聞いても今ひとつわからない部分があるけど、弾いたら何か脱皮できるような気がしてるんなら、楽譜を貸してやってもいいよ」
 サラリと、実にサラリと、拓海が答えた。あまりにあっさりした答えだったので、一成は一瞬ポカンとしてしまった。
 「ほ…本当ですか?」
 「悪筆だから、借りたはいいけど解読不可能、って可能性もあるけど、それでよけりゃ、どうぞ」
 「構いません! 是非、貸して下さい」
 まさか、OKが出るとは思わなかった。気が変わらないうちに、と言わんばかりに身を乗り出す一成を見て、拓海は面白そうに笑った。
 「でも、俺が知る限り、君は十分“感情的”な人間だけどねぇ」
 「え?」
 「まあ、それがピアノに出てこないのは、君の言うとおり、育ってきた環境や教育が原因なんだろうけど―――俺は、君のクールな演奏、結構好きだよ。特に、ボーカルとコンビを組む場合は、そのクールさが安定感につながってるしね」
 「……」
 「それは、藤堂君もわかってる筈だけど……俺にこんなこと頼むほど思いつめてるとは、なかなか興味深いね」
 ―――み…見透かされてる、か。
 拓海が一成の隠された本音に気づいているのは、この表情から見て間違いないだろう。なのに、はっきりと「それ」に言及しないのは、あえて聞かない、ということなのか―――どういう顔をすればいいかわからず、一成は僅かに顔を強張らせた。

 そう。ボーカルと―――咲夜と組むなら、今のピアノでいい筈だ。それは、一成自身もわかっていた。
 なのに最近、やけに個性や感情を問題視し始めたのは、それ以外の可能性を―――ボーカルと組んでのピアノではなく、ソロとしての活動を考え始めているからだ。
 “Jonny's Club”での仕事がなくなり、咲夜と組む機会がほとんどゼロになっている現状、それでも2人セットでの活動に固執するのは、自分だけでなく咲夜の首をも絞める結果になる。今回のように、咲夜が他のミュージシャンと組んで歌う機会があればどんどん歌うべきだし、自分もオファーがあればソロ・デュエットを問わず受けていくべきだ。
 しかし、社員として所属している“HANON”のイベントなどで、クラシックやジャズのソロ活動の機会に恵まれるたび、毎回同じ不安が心の内に浮かんでくる。

 ボーカルとのコンビとしては、今の自分でいい。でも……ソロのピアニストとしては?
 ソロピアニスト・藤堂一成としての“売り”は、何なのか。技術が凄い、教科書のように上手い、ただそれだけで、果たしてピアニストとして魅力があると言えるのか?

 今の技術が、この徹底した客観的な視点が、自分が生まれた環境や受けた教育から来るものだと自覚しているから尚更、それ以外の何かを得たくて、焦る。
 ただ上手いだけではない“何か”を―――初めてライブを見た時から拓海のピアノに感じていた“何か”と同じように、人の感情を本能の部分から揺さぶるような“何か”を、手に入れたい。手に入れたくて、焦っているのだ。

 「一つだけ、忠告しておく」
 言葉に詰まる一成に、拓海は少しだけ声を低くし、思いのほか真剣な表情で告げた。
 「あの曲は、“俺の曲”だ。俺が、君が言うところの“枠”を取っ払って、咲夜が言うところの“客そっちのけ”状態で弾くために、俺のために作った曲だ。だからこそ、俺は、プロなら考えなきゃいけないチケット代のことやら売り上げのことやらを、あの曲の間だけは全部忘れて、完全にピアノ始めた頃のガキの自分に戻って弾くことができる。君が感じたとおりに、ね」
 「……」
 「咲夜は、俺と感性が似てる部分が多いから、より俺に近い感覚で歌えると確信してた。実際、その確信は正しかったと思う。正しかったからこそ、君にも、そこの彼にも、それが伝わったんだと思う。でも―――君は、全く違う個性の持ち主だ」
 「……っ、」
 「全く違う個性の持ち主だからこそ、咲夜とコンビを組んだ時、いいバランスを保ててる。そういう君が、あの曲を弾いたところで、俺や咲夜と同じように弾けるとは、俺には思えない。多分、俺たちが躓かなかった部分に躓いて、俺たちが悩まなかった部分に悩むのがオチだと思う」
 「…それじゃあ…」
 「いや、楽譜は貸すよ。人間、トライ・アンド・エラーだ。試したいことはじゃんじゃん試せばいいさ。ただし―――あの曲は、“君の曲”じゃない。それだけは念頭に置いて、あんまり期待し過ぎないように、ってことだよ」
 ポン、と一成の肩を叩き、拓海はニッと笑った。その笑い方が、どことなく咲夜と似通っていて、一成は何故か背筋に冷たいものを感じた。
 「“君の曲”は、きっと、別の所にあると思うよ」
 「…別の?」
 「これから君自身が作る曲かもしれないし、既成曲かもしれない。ジャズかもしれないし、そうではないかもしれない。とにかく、楽しくて楽しくて、このまま曲が終わらなければいいのに、と思えたら―――それが“君の曲”だ」
 「……」
 「それが悲しいメロディだったとしても、楽しいという単語のイメージとはかけ離れたコンセプトの曲だったとしても、藤堂君自身が楽しいと感じていたら、聴衆にはそれが伝わる。この人は、ピアノを弾くことが好きで好きで仕方ないんだ、ってね」


 一成はこの時、予感だけはしていた。
 “拓海の曲”を弾くことは、決して無駄ではない―――正反対の個性を持つ人間の、結晶のような音、それを弾くことで、正反対に位置する自分の“何か”が、漠然とでも見えてくるのではないか、と。
 一成が、この時の拓海の言葉の意味を本当に理解するのは―――そして、長い長い一成のレジスタンスが、ひとつの結論を迎えるのは、この日から数ヶ月後のことだった。


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