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― Calling -1- ―

 

 何度目ともわからない留守番電話サービスの自動音声を耳にして、理加子はぷぅっと頬を膨らませた。
 ―――もぉ、何してるのよ、優也は。全然連絡つかないじゃない。
 メッセージは昨日も残したので、今日は残すのをやめた。まだ自動音声が流れているうちに、早々に電話を切った。
 最初に電話をしたのは、4日前。理加子の方からだった。
 留守番電話になってしまったので、「電話ちょうだい」とメッセージを入れて、その日は寝てしまった。翌日、専門学校の授業中に優也が電話をくれたようだが、当然理加子は出られず、「ごめん、何の用だった?」というメッセージを聞く羽目になった。すぐに電話をしたが、今度は優也が出られない状況らしく、またしても空振り。その後も、バイトの前、寝る前、等々節目節目で電話をするのだが、悉く繋がらない。それは優也の方も同じで、優也が電話をしてきたらしき時間は、決まって理加子が電話に出られない状況だ。
 「ついてないなぁ…」
 ため息と一緒に、愚痴のひとつもこぼれてくる。それを耳にしたのか、ちょうど従業員通用口から出てきたトールが、キョトンと目を丸くして理加子の顔を覗き込んだ。
 「お、何? 何かあった?」
 「ううん、なんでも。トールこそどうしたの? 休憩?」
 「いや、カクテルに使うリキュールが切れそうだから、本格的に混んでくる前に、予備出しとくんだ」
 「ふーん…」
 「リカも、早く入った方がいいよ。6時から10人の団体予約あるらしいから」
 「えっ」
 午後6時といえば、あと10分ほどだ。バイトに入って早々に団体客に来られたら、手際よくこなすだけの自信はまだ理加子にはない。「ありがと」と短く礼を言って、理加子は急いで店内へと向かった。
 ―――トールって、仕事になると、意外と真面目だなぁ。
 鼻歌を歌いながらリキュール類のストックを漁っているトールをチラリと振り返りつつ、改めてそんなことを思う。
 理加子の知るトールは、“適当”とか“いい加減”とか、そんな言葉の似合うタイプだった。楽しそうなことにだけ顔を出し、面倒なことには一切首を突っ込まない―――晴紀の子分、と見なす向きもあったが、実態は、晴紀というリーダーにくっついておいしいとこ取りしているコバンザメ、といった感じだった。女性に関しても同じで、特定の彼女など作らず、遊びと割り切ってその日その日を楽しめる相手を選んでいた。つい先日も、ホスト時代のご贔屓さんと偶然再会して豪華ディナーをおごってもらった、と喜んでいたので、そういった部分は今も“適当”で“いい加減”なのだろう。
 けれど、“Jonny's Club”でのトールの仕事ぶりは、至って真面目で、かつ、積極的だ。今のリキュールの件にしても、おそらく店長や他の従業員に指示された訳ではなく、トールが自ら考えてやったことだろう。同じ給料を貰うなら、少しでも楽をしたい、と考えるタイプだと思っていたので、こんな面を知ることができただけでも、同じ店で働いてよかった、と思う。
 ―――トールとは毎日に近い位顔合わせてるんだから、優也と連絡つかないなら、トールに相談してみればいいんだろうけど……うーん、なんでかなぁ、トールにはプライベートなこと、相談し難いなぁ。そういうんじゃない気がする。あたしとトールの関係って。
 同じグループのメンバーとして、バイト先の仲間として―――お互いのプライバシーには踏み込まず、2人きりで遊びに行くようなこともないが、なんだかんだと縁があって、協力できる部分では協力し合っている。理加子とトールの関係は、いつもそんな感じだ。
 そんな関係にあるトールに、プライベートな事を相談するのは、なんだか違う気がする。女王様扱いされていた時の理加子をよく知っている相手だから、その顔とは対極にある素の自分を晒し難い、というのもある。
 となると、やっぱり、極プライベートな相談をできるのは、たった1人しかいない訳で。
 「……何してるのかなぁ、優也は」
 また、ため息と共に、そう呟いてしまうのだった。

 そう。理加子は今、悩んでいる。
 しかも、悩みは1つだけではない。2つもあるのだ。

***

 「どうかした?」
 「……え、」
 ハッ、と我に返ると、テーブルを挟んだ向こうに、怪訝そうな須賀の顔があった。
 一瞬、今自分がどこで何をしているのか、把握できなかった。そして思い出した。今はランチタイムで、須賀と一緒にイタリアンカフェでBランチを食べている最中だ、ということを。
 須賀が何について訝しげな顔をしているのかは、自分の手元を見れば明らかだった。中途半端にパスタが絡まったフォークが、これまた中途半端な高さで止まっている。多分、このポーズのままぼんやりしていたのだろう。
 「ご、ごめんね。ぼーっとしちゃって」
 「いや、俺はいいけどさ。パスタが硬くなっちゃうと、マズイんじゃないかと思って」
 見れば、理加子と同時に食べ始めた筈の須賀のパスタは、残り僅かというところまできている。ほとんど手付かずの自分の皿を見下ろし、思わず頬を赤らめた。
 一方の須賀は、さして気を悪くした様子もなく、赤面した理加子を見て面白そうに苦笑した。
 「随分難しい顔してたけど、何か悩み事?」
 「…うーん…悩み事、っていうか…」
 悩み事は、確かにある。が―――そのうちの1つは、まさに目の前にいる須賀に関することなのだ。
 本人の目の前で、実はかくかくしかじか、と悩みを打ち明ける訳にもいかない。曖昧に言葉を誤魔化した理加子は、結局、こんな風に答えた。
 「ええと、ここ何日か、優也と連絡がつかなくて」
 「優也? ああ、秋吉君か」
 唐突に上った名前に、一瞬、須賀がキョトンと目を丸くする。が、ティッシュ配りのバイトの時のことを思い出したのか、すぐに名前と顔が一致したようだ。
 「何度も電話はしてるんだけど、毎回留守電で…。優也からも電話は来てるんだけど、今度は逆にあたしが電話出られない時ばっかりで、“何の用だったの?”ってメッセージだけ入ってるの。それでまたあたしから電話するけど、やっぱり優也の方も留守電―――この繰り返しなの」
 「ふーん…タイミング悪いなぁ」
 「何かあったのかしら? メッセージでは何も言ってなかったけど…」
 「就職活動で忙しいんじゃない? 遅い奴だと、まだやってる頃だろ」
 自身も同じ大学4年である須賀が、そう思うのも無理はない。苦笑した理加子は、軽く首を横に振った。
 「優也は、就活はしてないもん」
 「え? ああ、もう決まってるのか」
 「ううん。大学院に行くの」
 「えっ」
 「って言っても、まだ確定じゃないけどね。優也自身も就職と大学院、どっちにするかまだ迷ってるし、大学院に進むのにも試験があるし」
 「へー…そうかぁ。勉強好きそうな顔してたもんなぁ」
 感心したような、考え込むような顔をして、須賀がそう呟く。須賀本人は、既に去年のうちに内定を取っている。そこそこ名の知れた企業で、希望職種は営業―――再会したあの飲み会の席で、そう聞いた覚えがあった。
 「ま、理系なら、大学院出るのもアリかもな」
 「理系なら、って、文系はダメなの?」
 「ダメってことはないだろうけどさ。普通の企業に普通に就職するなら、浪人・留年なしの新卒が一番だろ。何らかの専門職となると、留学して向こうの博士号でも取った方が断然ハクがつくだろうし」
 「ふぅん…」
 「秋吉君も、迷ってるんなら、どっか内定だけでも取っておけばいいのに。新卒での就職逃すと、人生そのものが変わっちゃうからなぁ」
 その辺の社会事情は、一般的な進路を選ばなかった理加子には、よくわからない。が、優也の考えそうなことなら、大体わかる。
 「きっと優也は、就職しないかもしれないのに、内定なんて取っちゃいけない、って思ってるのよ」
 「は?」
 「会社は、入社してもらうつもりで採用する訳じゃない? なのに、迷った挙句に“やっぱりやめます”なんてこと言ったら、会社の人にも悪い、って思ってるんだと思う。“念のため”なんて考えの自分が内定取る位なら、確実にその会社に入社できる、心から働きたい人が内定取れた方がいい、って思ってるんじゃないかな」
 「…今時、そんな考えの奴っているの? 普通に就活してる奴も、取れるもんなら複数の会社の内定取っとくから、必然的に内定蹴ることになるけど、そんなもんだ、って割り切ってるよ。いくら真面目だからって言ってもさぁ…」
 「うーん…真面目、っていうより、揉め事が嫌なんだと思うけど」
 確かに、優也は真面目だ。が、誰かが何社も同時に内定を取ったとしても、特に問題が起きていないようであれば、別に非難したり眉をひそめたりはしないだろう。
 ただ、内定を辞退されたら困る会社だってあるんだろうな、とか、一緒に受けて落ちた奴が知ったら凄く怒るんだろうな、などといった想像は、当然ながら、する。そして、自分はそう思われる立場には絶対なりたくない、と震え上がるタイプなのだ。「困りますよ、どうしてくれるんですか!」、「お前どういうつもりだよ、ふざけるな!」等々の言葉を浴びせられたら、自分は確実にパニックに陥り、何の対応もできないとわかっているから。
 「自分は後ろ指をささないけど、自分が後ろ指をさされる“かもしれない”のは、凄く嫌なのよ、きっと。ああ見えて結構頑固だし、大学院へは行かない、って決めない限りは、就職活動はしないと思う」
 「ふーん、そうか…」
 「バイトの時間は避けて電話してるし、大学だって講義のコマ数減ってそんなに頻繁に行ってない筈だし―――ホント、どうしたのかしら?」
 ため息をつきつつ、そうブツブツと呟く理加子を、須賀は頬杖をついて眺めていた。が、続いて須賀の口から飛び出したのは、思ってもみない言葉だった。
 「それはそうと、姫川って、秋吉君のことは、名前で呼び捨てなんだ?」
 「え?」
 あまりに唐突な流れに、理加子の目がパチッと見開かれる。それを、聞こえなかった、という意味に取ったのか、須賀は軽く苦笑して、もう一度言い直した。
 「秋吉君のことは、名前で呼び捨てにするんだね、って言ったんだよ」
 「うん。…え、どうして?」
 「いや、だってホラ」
 「?」
 須賀が、何を言いたいのか、よくわからない。パチッと見開いたままの目で理加子が困惑していると、須賀は、ちょっとバツが悪そうに、ボソリと続けた。
 「その―――俺は、苗字で呼ばれてるのになー、と」
 「……」
 そんなこと、今更、言われても。
 冷や汗のようなものが、うっすらと滲んでくるのを感じる。気まずさに視線を泳がせた理加子は、慌てたように再びフォークを手に取った。
 「だ、だって、須賀君は、須賀君じゃない。それに……須賀君だってあたしのこと、姫川、って呼ぶし」
 これにはさすがに反論のしようがなかったのだろう。焦ったかのように不自然な笑みを作った須賀は、
 「ま、まあ、それは確かに、そう……なんだけどさ」
 と言って、残り少ない自分のパスタを、やたらと猛烈な勢いで食べ始めた。
 ―――何。この、出来損ないの少女マンガみたいなシーン。
 なんとも気まずい雰囲気の中、目も合わせず、ただ黙々とパスタを食べる男女2名―――どこかで見たことのあるような典型的な場面だ。気まずさのあまり、必死に食べている割に、パスタの味がいまいちわからなかった。

 須賀と再会して2ヶ月あまり。社交辞令的に携帯番号を交換して、お互いのバイト先を訪ねて―――以来、バイトを離れて2人きりで会うのは、これが3回目だったと思う。いずれも、須賀から誘いの電話があり、断る理由もないので、理加子がそれに応じる、といった感じだ。
 “姫川”と“須賀君”は、その呼び方の通り、元・クラスメイト。しかも、同じクラスにいた間、互いを意識したこともなければ仲が良かった訳でもない、お互いが「その他大勢」でしかなかった相手だ。
 なのに、何故か今、こうして、向き合ってBランチを食べている。その事実に、どうにも馴染めない。

 ―――この人、どういうつもりで、あたしと会ってるんだろう?
 チラリと目を上げ、様子を窺ったが、真向かいに座る須賀は、その視線に気づかないのか、一心不乱にパスタを食べ続けるだけだった。。

***

 結局、Bランチを食べた日の夜も、そして次の日の朝も、タイミングが合わず優也と連絡がつかなかった。
 何時に電話が欲しい、と時間帯を指定するメッセージを入れてみては、という須賀からのアドバイスがあったので、今夜のバイトが終わった後の時間を留守番電話に残しておいた。これなら、指定した時間に優也から電話がかかってくるか、もしくは、都合が悪いので別の時間帯を逆指定してくるかの、どちらかになるだろう。とりあえず、優也と連絡がつきそうな目処が立ち、理加子は少しホッとした。
 が、その日の夜を待たずして、少々想定外なことが起こった。


 「……」
 目の前にいる一団の顔ぶれを見て、一瞬、そのメンバー構成の意味が、理解できなかった。
 他のウエイターが運んできたドリンクを手に、和やかに乾杯をしているそのグループのメンバーは、咲夜と、確かピアノ担当だった男性、そして―――何故か、蓮もそこにいた。
 何故、蓮が、あの2人と―――彼らのテーブルから2席離れたテーブルを拭きながら、半ば呆然とした理加子だったが、そこでハッとあることに気づいた。
 空っぽのグラスと台拭きを乗せたトレーを手に、ダッシュでカウンターまで戻った理加子は、それらをシンク脇に一旦置いて、また客席へと戻った。勿論、行き先は咲夜たちの一団がいたテーブルだ。
 3人は、まだ理加子には気づいていないようだった。すぅ、と息を軽く吸い込むと、理加子は意を決して、蓮の背中をトン、と叩いた。
 驚いたように振り返った蓮は、自分の背中を叩いた人物の顔を見上げ、それが理加子だとわかると、更にギョッとしたように目を丸くした。
 蓮の動きにつられて、咲夜ともう1人の男性も、理加子の方を見た。
 「あ、リカちゃんじゃん」
 咲夜の声に応えて、理加子は一応の笑みを作り、「こんばんは」と軽く頭を下げた。が、すぐに蓮の方に目を向け、彼のシャツの肩の辺りをぐい、と引っ張った。
 「ごめん、ちょっと」
 「は?」
 「いいから、ちょっと」
 ヒソヒソ話のような小声でそう言い、更にシャツを引っ張る。ちょっと来て、という意味は伝わったようだが、あまりに唐突な展開に、蓮は軽く固まってしまっていた。
 困惑したような、少し迷惑そうな顔をした蓮は、咲夜と連れの男性の方を見た。2人も、蓮同様事態を把握できていない様子だった。が、一瞬互いに目を合わせた後、咲夜の方が蓮に向かって、行ってあげれば? という風に軽く肩を竦めてみせた。
 「…すみません」
 2人に断るように、ぺこり、と頭を下げると、蓮は小さくため息をつき、仕方なさそうに立ち上がった。理加子も2人に営業スマイルで会釈し、蓮の腕を引っ張るようにして、店の入り口方面へと急いだ。

 幸い、帰り客の少ない時間帯のせいか、入り口のレジカウンター前は人気がなかった。
 「何なんだよ。咲夜さんたちに変に思われるだろ」
 理加子が腕を離すと同時に、蓮が小声でそう訴えた。人気がないとはいえ、一番近い席までそう距離がある訳でもない。店員である理加子と揉めているような会話を、他の客に聞かれてはまずい、と思っての小声だろう。
 「ごめん…。っていうか、なんで蓮があの2人と一緒に来てるの?」
 「…咲夜さんが出演したライブを聴きに行って、その会場で藤堂さんにも会って、3人で飯食いに行こうってことになっただけだよ」
 「え、ライブ? この近くであったの?」
 「いや、2つ隣の駅。この店になったのは、咲夜さんのリクエストだよ」
 「へーえ…」
 「…で、何」
 早く本題に入れ、と言わんばかりに、蓮が少し急かすように促した。理加子の方も、仕事中に長く立ち話をしている訳にもいかない。声を潜め、若干早口気味に切り出した。
 「実は、最近、優也と全然連絡が取れないの」
 「連絡が取れない?」
 「あたしが電話すると、決まって留守電で、メッセージ聞いた優也が電話してくると、今度はあたしが留守電で―――それの繰り返し。お互い、学校とかバイトの時間は避けてるのに、よ?」
 「…メールにすれば?」
 「あたし、携帯メール苦手なの。あ、優也も苦手だって。パソコンの方のメールは、アドレス持ってないし…」
 「…はあ」
 「ね。優也って、何かあった?」
 「何か、って……いや、別に?」
 「ホント?」
 「俺の知る限りは、だけど」
 「もしかして、」
 無意識のうちに、ずいっ、と一歩詰め寄る。それに合わせて、蓮も無意識のうちに、一歩後ろに足を引いた。
 「もしかして、だけど―――あたしのこと、避けてる、とか」
 「……は?」
 「実は、あたしと遊びに行ったり電話で話したりするのが苦痛になってきてて、それでわざと電話に出ないようにしてる、とか、ない? 優しいから面と向かっては何も言わないけど、蓮になら本音を愚痴ったりしてるんじゃない?」
 もの凄く真剣な顔の理加子を、蓮はポカンとした表情で凝視した。
 「何か、秋吉に避けられるような心当たりでもあるわけ?」
 「それは―――ない、と思う、けど」
 思う、けど……自信は、ない。
 そうなのだ。理加子が、優也と連絡がつかない、と言って妙に焦っているのは、相談したい事が原因ではない。避けられているのでは、嫌われてしまったのでは、という不安が原因なのだ。
 優也の方から手を差し伸べてくれることで始まった、優也との友人関係―――だから、たとえ偶然であっても、連絡がつかない事態が度重なると、途端に不安になる。ああ、やっぱり優也にも愛想を尽かされたのかもしれない、と。
 おもちゃやお菓子で、名ばかりの友達を得ていた、子供時代。中学以降は、それが自身の外見にすり替わっただけだった。理加子の周りにいる人間は、理加子に友情以外のものを期待して集まっていた。そういう人間関係しか築くことができないまま、成人してしまった。
 だから、何の見返りもなく傍にいてくれる優也は、理加子にとって大事であると同時に、理解しがたい謎の人物だ。何の得もないのに、何故いてくれるのか、わからない。わからないから、距離が離れた途端、やはり見返りのない付き合いなど無理なのか、と思ってしまうのだ。
 「ないんなら、気にしなくていいんじゃないか?」
 理加子の複雑な心情をよそに、蓮はあっさりそう言ってのけた。あまりに簡単な答えに、理加子は不服そうに唇を尖らせた。
 「特別心当たりがなくたって、優也がどう感じてるかなんて、わからないじゃないっ」
 「いや、凄く嫌だったり心底迷惑だったりすると、結構顔に出るよ、秋吉は。俺が見る限り、そんな様子はないから、君に対して悪い感情は持ってないと思う。俺だって、同じ所に住んでるのに顔見ない日なんていくらでもある。留守電のメッセージを無視されてる訳でもないんだから、ただの偶然だろう」
 彼にしては長めのセリフを、実に整然と語る蓮に、喋る時は喋るのね、と、妙なところに感心して、思わず口を閉ざしてしまった。でも、一切の迷いのない声で断言されると、なんだか納得するしかない気がしてくるから不思議だ。
 「そ…そう、かな。ただの偶然、だよね?」
 幾分ホッとした気持ちで理加子が呟くと、蓮は言葉では答えず、ほんの少しだけ口元をほころばせた。
 ―――あ。珍しい。笑った。
 と思ったのもつかの間、すぐ無表情に戻った蓮は、
 「じゃ、戻るから」
 と言って、早くも席に戻ろうとした。
 「えっ! ちょ、ちょっと、ちょっと待ってよっ」
 思わず理加子が腕を掴むと、蓮は、困ったような顔で振り向いた。その顔が、迷惑そう、とか、うんざりしている、とかではなく、本当に「困っている」という顔だったので、さすがの理加子も一瞬怯んだ。が、今更引っ込むのもかえって妙な感じなので、思い切って続けた。
 「ついでに1つ、訊いていい?」
 「……何?」
 「あのね、もし、蓮が結婚する時、」
 「は!?」
 裏返ったような、素っ頓狂な声が、蓮の口から飛び出した。
 その声に蓮自身が驚いたのか、蓮は焦ったように背後の客席を振り返った。が、どうやら今の声に気づいた者がいないらしいことを確認すると、再び理加子のを方を向き、少し怒ったように答えた。
 「な、何だよ、急に」
 「あ、勿論“将来”の話よ? 飽くまで“たとえば”の話」
 「当たり前だろっ」
 そう言いつつも、理加子の表情が決して興味本位ではないことには、蓮も気づいたようだ。無視をして席に戻るようなことはせず、一応話だけは聞こう、と理加子の方にきちんと向き直った。
 「……で?」
 「たとえば、将来蓮が結婚する時、相手の人の戸籍に普通とは違うことが書いてあったら……やっぱり、気にする?」
 「普通とは違うこと?」
 「例えば、親の離婚歴とか―――養子になって苗字が変わった、とか」
 「……」
 質問の意味を探るかのように、蓮の目が、じっ、と理加子の目を見据える。あまりじっと見られると、少々落ち着かないが、目を逸らす訳にもいかず、理加子も、じっ、と蓮の目を見据え返した。
 無言のまま、数秒が過ぎ―――やがて、彼なりに何がしかの想像ができたのだろう、蓮は静かに、答えた。
 「俺は、気にしないと思う。けど、気にする人もいると思う」
 「……」
 「でも、知られて困るような事実がないなら、事情をちゃんと説明すれば、理解してくれる人は多いと思う」
 「…ホント?」
 「ああ。…もしかして、秋吉と連絡取りたがってるのも、その件?」
 コクリ、と理加子が頷くと、蓮は少しだけ心配そうな顔になった。
 「大丈夫か」
 「…うん。もう、覚悟は決まってる。ただ、ママがあたしの将来のこと考えて色々悩んでるから」
 そうか、と一言呟き、蓮は黙り込んだ。どんな話が持ち上がっているのか、とか、どんな事態になっているのか、とかを訊ねることはせず、ただ黙って、理加子の前に佇んでいた。
 ―――相変わらず、不思議な人だなぁ…。
 訊ねられれば答えるけれど、それ以上に踏み込もうとはしない。勝手にしろ、と突き放すことはしないけれど、手を差し伸べることもしない。その姿は、優也が戻ってくるのを待つ間、2人きりで黙って待っていた時と同じだ。
 こんな時、どんな態度を取るのがふさわしいのか、理加子にはよくわからない。わからなくて、居心地の悪さを感じてしまう。悪い人ではないのだろう、とは思うものの―――やっぱり、理加子は、蓮が少し苦手だ。
 「あの…じゃあ、それだけ、だから」
 他に言いようもなくて、理加子がそう言うと、蓮もまた、そうか、と呟いた。
 「じゃあ、そろそろ戻るから」
 「あ…、う、うん。ありがと」
 互いにそう言い合い、蓮は元いた席へ、理加子は仕事へと、それぞれ戻ろうとした。が―――客席に戻る蓮の足が、2歩進んだところで、何故かピタリと止まった。
 「?」
 どうしたんだろう、と思い、理加子も足を止め、彼の視線を追うように客席の方へと目を向けた。そして、蓮が立ち止まった理由を、即座に理解した。
 咲夜が、携帯電話を片手に、こちらに小走りで近づいてきていたのだ。既に、携帯を耳に当てて何やら話している。どうやら、誰かから電話がかかってきたので、周囲の迷惑にならないよう席を立ったらしい。

 「ちょっと、待って。今、迷惑にならないとこに移動してるから。ん? ああ、“Jonny's Club”に来てんの。ホラ、ライブ完了のお祝いで」

 すれ違いざま、咲夜はチラリと蓮や理加子の方を見、いたずらっ子のような笑顔で片手を挙げた。「悪いね、ちょっと席外すわ」というセリフが聞こえてきそうなゼスチャーだ。
 立ち聞きをする気はないが、なんとなく気になって、そのまま咲夜の姿を目で追った。

 「は? 違う違う、一成と蓮君がライブ聴きに来てくれたんで、3人で来てるんだってば。……そそ。ホントに来てくれるとは思わなかったよ。……うん……うん、あー、まあまあ、かな。自己採点は80点くらい?」

 そんな話をしながら、入り口ドアの脇の壁に身を寄せた咲夜は、携帯電話を左手から右手に持ち直した。理加子の位置からだと、咲夜の顔を斜め後ろから見る形になり、その細かい表情まではよくわからない。が、僅かに見える顔は、楽しげな笑顔だった。

 「……んー、どうだろうね。本心は知らないけど、口では褒めてたよ。まあ、一成と蓮君がいる手前、褒めざるを得なかったのかもしれないけどさ。……あああ、はいはいはい、そこ、むくれない、むくれない。しょーがないじゃん、お互い様なんだし」

 ―――多分、一宮さんだ。
 直感的に、わかった。名前が出てきた訳ではないが、今、咲夜が電話で話している相手は、奏に違いない。
 チクリ、と、胸の奥が微かに痛む。とうに失ってしまった恋ではあるけれど、奏は今でも、理加子にとって特別な人だ。21年の人生の中で、まだ一度しか経験していない感情を抱いた相手なのだから。

 「…はいはい。あんたの無念さはよーくわかった。でも、もうちょっとの辛抱だって。今日のでロンドンライブも本決まりしたし。……うん。だから、そんなに拗ねないの。そっちで、奏が聴きたい曲、何曲でも歌うからさ」

 そう言いながら髪を掻き上げた、咲夜の横顔が、はっきりと見えた。
 普段、どちらかと言うと中性的でサバサバとしたイメージの咲夜だが、電話の向こうにいる奏を宥めるその顔は―――なんだか、理加子が通っていた幼稚園の庭にあった、聖母マリア像の表情に、似ていた。
 しょうがない奴、と苦笑しつつも、拗ねてむくれているであろう奏が、愛しくて、守ってあげたくて、大切で仕方ない、と思っているのが伝わってくるような、笑顔。多分、奏にしか見せない―――いや、奏の前ですら見せないかもしれない、心の内にある愛情をそのまま表したかのような、笑顔だ。
 前に一度だけ、これと似た表情を、見たことがある。それは、まだ理加子が奏に対する自分の気持ちに気づいていなかった頃―――熱射病に倒れた彼を送って、彼の部屋に初めて行った時。何か歌ってくれ、とせがまれて、奏を寝かしつけるかのように英語の歌を歌っていた咲夜は、今見せたのとよく似た笑みを浮かべていた。
 いいなぁ―――ただ素直に、そう、思った。
 あの笑顔は、多分、ただ一方的に愛情を注いでいるだけでは生まれてこない笑顔だ。自分を求めて伸ばされた手が、決して嘘ではないとわかっているからこそ、あんな笑顔を浮かべて握り締めてやることができる―――相手を必要とし、相手からも必要とされている自信があってこその笑顔だ。
 …羨ましい。たとえ相手があの奏ではなかったとしても……あんな笑顔になれる相手がいる、それが、羨ましい。

 ―――強くて、才能あって、その才能を活かすこともできてて……咲夜さんなら、どんな困難でも、きっと自分の力で乗り越えられるんだろうに、その上、あんな素敵な、100パーセント自分を必要としてくれている恋人がいるなんて。
 神様って、不公平だ。どうしてあんなに恵まれた人が、この世にいるんだろう? 弱くて、大した才能もなくて、いつも道に迷ってばっかりいるあたしこそ、心を許せる、お互いを必要とし合えるような相手が欲しいのに。
 恋が、したい―――ううん、恋、なんて中高生が夢見るような言葉じゃなくて、愛が欲しい。
 綺麗だから、みんなに自慢できるから、素敵な物を持ってるから、なんて理由じゃなくて、あたしをあたしとして認めて、必要としてくれる人が欲しい。あたしがその人を必要とするのと同じ重さで、その人から必要とされたい。
 なのに、そういう人と出会えるような予感すらしないのは、これまであたしがやってきたことに対する、罰なのかな。
 それとも、二十歳過ぎても親の離婚問題なんかで一喜一憂しているような幼稚な人間が、誰かから必要とされたい、なんて思うこと自体、身の程知らずなの、かな。

 …いけない。咲夜を見ると、どうしても卑屈になってしまう。ため息をついた理加子は、雑念を払うように軽く頭を振った。
 雑念がどこかに追いやられた途端、今、耳にした会話の一部が、ふいに気になった。ロンドンライブが本決まり、と咲夜は言ったが……それはつまり、咲夜自身が、ロンドンでライブを行う、という意味なのだろうか? だとしたら、咲夜レベルの知名度のミュージシャンにとっては大ニュースの筈だが。
 「ねえ、蓮―――…」
 何か事情を知っているかも、と思い、蓮の方を振り返った。
 が、そこに、蓮の姿は既になかった。あれっ、と思って探したところ、元いた席へと戻る途中の蓮の背中を見つけた。理加子同様に、立ち止まって咲夜の様子を見ているような気配を感じていたのだが、どうやら、理加子の知らないうちにその場を離れていたらしい。
 「……なんだ」
 自分だけが立ち聞きのような真似をしていたのかと思うと、なんだか急激に罪悪感が湧いてきた。少し顔を赤らめた理加子は、まだ楽しげに奏と話している咲夜に背を向け、急いで仕事へと戻った。

 ―――そう言えば、蓮って、咲夜さんのライブ聴きに行ったり、この店のライブにも何度か来てたみたいだけど、やっぱり咲夜さんの歌のファンなのかな。
 今更ながら、そんなことに気づいて、再び蓮の方を見た。
 既に席に着いていた蓮は、席に残っていた男性と何やら話をしていた。そこに、電話を終えた咲夜が戻ってきて、談笑の輪は3人になった。
 こんなに身近にいる人のファンになるのって、どんな感じなんだろう―――その答えは、咲夜を見る蓮の穏やかな笑顔からは、読み取ることはできなかった。


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