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― Calling -2- ―

 

 玄関まであと10メートル、という所で、携帯電話が鳴った。

 「もしもし、優也っ?」
 液晶の表示も確認せず電話に出てしまったが、幸い、電話の主は予想通りの優也だった。
 『リカちゃん? ごめんね、ホントに。何度も電話くれてたのに』
 「ううん、あたしこそ」
 『今って大丈夫?』
 「うん―――あ、ちょっと待って。もうすぐ家だから」
 土地柄上、この時間帯でも賑やかではあるが、深夜に女が1人で路上で立ち話していたのでは、何か事件に巻き込まれても同情の余地なしだろう。理加子は小走りで自宅の門内に入った。
 チラリと家の中の様子を窺った限りでは、どうやら母はまだ帰宅前のようだ。今日は得意先の人と約束がある、と言っていたので、多分遅くなるのだろう。あまり母に聞かれたくない内容なので、かえって好都合だ。理加子は安心して、玄関を開けた。
 「お待たせ。あー、よかった。あんまり連絡取れないから、すっごく心配しちゃった」
 『うん…ごめん。さっき、穂積からも聞いた』
 「えっ」
 いきなり蓮の名前が出て、ちょっと驚く。蓮たちが店を後にしてから、まだ2時間ほどなのに―――と考えたところで、当たり前のことに気づいた。そうだ、蓮は、優也と同じ所に住んでいるのだ、と。
 「蓮に会ったの?」
 『うん。バイトのために借りてた本があったから、さっき返しに行ったんだ。なんか、咲夜さんのライブの後、リカちゃんのバイト先に行ったらしいね』
 「そうなの。…あの、蓮、何て言ってた?」
 蓮には、かなり恥ずかしいことを言ってしまった気がするだけに、どこまで優也に伝わってしまったかが気になる。が、優也の返事は、いたってあっさりしたものだった。
 『僕と連絡取れなくて、何かあったんじゃないかって心配してたぞ、って。ほんとにごめん』
 「あ…う、ううん。別にいいけど」
 ―――よ…よかった。愛想尽かされたんじゃないか、とか、その辺のことは黙っててくれたんだ。
 あまり理加子を良く思っていないように思える蓮だが、理加子の心情を汲む程度のことはしてくれるらしい。思わず胸を撫で下ろし、自室のベッドにドサリと座り込んでしまった。
 「でも、何かあったの? 優也がこんなに連続で忙しくしてるなんて、今までなかったのに」
 『うーん…実は、バイト先で、余計なことに首突っ込んじゃって』
 「余計なこと?」
 『ほら、僕が今のバイト始めるきっかけになった、数学の先生。あの人の趣味に付き合ってたら、抜け出せなくなっちゃって』
 「…趣味??」
 『面白いから、いいんだけどね。でも、あの調子だとまだしばらくかかりそうだなぁ…』
 数学の先生の面白い趣味、とは、一体何だろう? 詳しく聞きたい気もしたが、優也がその話をこれ以上引っ張る様子はなかった。
 『あ、それで、何? 相談したいことって』
 「え? あ、うん、ええと…」
 母が帰ってきてからでは、話し難くなる。聞きたい気持ちをとりあえず横に置いて、理加子は本題に戻ることにした。
 「…あのね。パパとママのことなの」
 『え…、もしかして、決まっちゃった? 離婚のこと』
 「ううん、そうじゃなくて―――なんていうか、パパの方が、ね。この前突然、おかしなこと言い出して」
 『おかしなこと?』
 「…っていうか、虫のいい話だ、って、あたしは思う。パパの方が積極的に離婚を望んでたくせに、今になって、やめとこうか、なんて」
 『えっ』
 さすがに、優也にとっても予想外だったらしい。当然だ。その話を母から聞いた時、理加子だって耳を疑ったのだから。
 「ああ、でもね、元に戻る、って意味じゃないの。現状維持」
 『ってことは…』
 「別居維持。要するに、一緒に暮らしてるとギスギスしちゃうけど、離れて暮らしてれば別に不都合もない訳だから、何も離婚しなくても、このままでいいんじゃないか、って今になって言い出したの。ホラ、うちの場合、どっちかに好きな人が出来たとか、そういう理由じゃないから」
 『う、うーん……まあ、それは確かに、一理ある、かも』
 「……」
 『…あれ、リカちゃんは、反対?』
 「…なんか、納得いかない」
 唇を尖らせると、理加子はベッドの上にゴロンと転がり、片腕で枕をぎゅっと抱きしめた。
 「パパもママも、もう相手に対して愛情も未練もないんでしょ? 長年一緒に暮らした“情”みたいなのはあるんだろうけど、離婚決めた時点で、そういうのより不満とか苛立ちの方が大きくなっちゃってるんだろうし。一緒に暮らすとダメで、離れてるとうまくいく、って言うんだから、そういう合わない部分は今も変わってないんだよね?」
 『うん…だろうねぇ…』
 「だったら、夫婦でいる意味って、あるの?」
 『……』
 「お金のため、って言われた方が、まだ理解できるかも。ママが自活できなくて、生活のために形だけでも夫婦ってことにしてパパから生活費貰うとか、おばあちゃんの遺産相続の兼ね合いで、パパがこの家の土地欲しさに離婚を嫌がるとか、そーゆー、殺伐とした話の方が、理解はできると思うの。でも、パパは結構稼ぎがいい上にこの家に何の未練もないし、ママは働いてる上に家持ちだし―――だったら、なんで? 同じ家に住むこともできないような関係なのに、なんで夫婦でいる必要がある訳?」
 『それは……うーん……』
 「それって、もしかして、世間体のためじゃない?」
 母には言わなかった一言を、きっぱりと口にする。と、電話の向こうで、優也が図星を指されたように、ぐっ、と口ごもった。どうやら、優也もそう思ったらしい。
 「いい歳して離婚なんて人聞きが悪い、って今更思うようになった、ってことなんじゃない?」
 『う……い、いや、でも、誰だって人聞きの悪い真似は、できるだけしたくないでしょ。別居するまでは、離婚以外の解決方法が見つからなかったんだろうけど、離婚以外の解決法が見つかったのなら、そっちに流れたくなるのは仕方ないんじゃ…』
 「でも、それを言うんだったら、別居してる時点で十分人聞きが悪いんじゃない?」
 『……それもそうだね』
 諦めたように小声で相槌を打った優也は、小さく息をつくと、少し心配そうな声で、理加子に訊ねた。
 『リカちゃんは、離婚した方がいい、って思ってるの?』
 「……」
 『あれだけ嫌がってたのに―――お父さんが出て行ってから、考えが変わった?』
 「……よく、わかんない」

 わからない―――本当に。
 嫌だった筈だ。寂しくて、悲しかった筈だ。つい3ヶ月か4ヶ月前までは。たとえ実態を伴わなくても、気まずさやぎこちなさがあっても、今からでも“家族”を取り戻せる……いや、“家族”を作っていけるのなら、作りたいと願っていた。その気持ちは、今だって確かにある。
 けれど、何故だろう。父が、家族3人で会う約束を破る回数が3回、4回と増えていくにつれて、理加子の中で、何かが変わった。それは、父への気持ちが、というより―――この離婚騒動に対する、認識が。

 「あたしね。最初、パパとママが離婚することになった原因は、おばあちゃんだと思ってたの。多分、それもハズレではないんだと思う。けど……最近、わかってきたの。おばあちゃんがいなくても、同じ結果になってたかも、って」
 『え、どうして?』
 「ママは、あのおばあちゃんに育てられた人だから、白黒はっきりつけてキチンとしてるのが好きな人なの。でも、パパは……逆。何か問題が起きると、向き合って白黒つけるより、波風立たないようにやり過ごすのが好きな人なの。…それって、どっちが正しいとかじゃなくて、元から“合わない”のよね。きっとママ、随分前からパパに愛想尽かしてたと思う」
 今、理加子が、愛想を尽かしかけているのと、同じように。
 親に愛想を尽かすなんて、情けないと思うけれど……認めざるを得ない。理加子はこの4ヶ月で、父に何の期待もしなくなった。母は、20年以上だ。そんな長い期間、あの優柔不断で逃げ腰な父と、夫婦をやってきたのだ。実の娘が4ヶ月で気づいたことに、20年も気づかなかった訳がない。
 理加子が両親の喧嘩する姿を見たことがなかったのは、決して隠れて喧嘩をしていたからではないだろう。父が母と向き合うことから逃げていたからに違いない。トラブルが起きるたび、母は、この苛立ちと虚しさにうちのめされていた筈だ。何度も、何度も―――もう夫婦ではいられない、と決意するほどに。
 「パパの窮屈な思いも、ママの虚しさも、どっちもあたし、わかるから……だから、あの2人がやり直せる可能性がほぼゼロなのも、よくわかるの」
 『そっか…』
 ため息混じりに相槌を打った優也は、数秒、何かを考え込んでいるかのように黙り込んだ。そして、
 『お母さんは、何て言ってるの?』
 「え?」
 『別居のまま続けよう、って言ってるのは、お父さんの方だよね。リカちゃんはけじめをつけるべきだ、って思ってるけど―――もう1人の当事者であるお母さんは、どう思ってるんだろう?』
 「…うーん…迷ってる」
 『迷ってる?』
 「白黒はっきりつけたい人だから、こんな別居状態、絶対嫌な筈なの。だったら、パパの虫のいい提案なんて、ソッコーで蹴っちゃえばいいのに、ね」
 ふぅ、と息をついた理加子は、呟くような口調で、ポツリと付け加えた。
 「…多分、あたしのせいだ」
 『えっ。でも、リカちゃんも、もう…』
 「ううん、そうじゃなくて。あたしが離婚を嫌がってるからじゃなくて―――あたしの戸籍のこと」
 『…戸籍??』
 その辺の事情には、さすがの優也も疎いらしい。どこからどこまで説明すればいいのか―――少し迷ったが、結局理加子は、先日の母との会話を全て話すことにした。

 

 「あたし、もう別れてもいいと思うよ」
 父の提案について母から聞かされた理加子は、自分でも驚くほどあっさりと、そう母に告げることができた。
 「このまま別居続けたところで、どーせパパは月に1回の食事会もあれこれ理由並べてドタキャンし続けるんだろうし。離婚しない、って決まったら、もう連絡も取り合わなくなるんじゃない? 1年中顔も合わせないし声も聞かないし、それでも何とも感じないんだったら、家族でいる意味、ないじゃない」
 「そうねぇ…ママもそう思うけど…」
 反して、母の態度は、いまひとつ煮え切らないものだった。困ったように小首を傾げる母に、理加子は不審げに眉をひそめた。
 「もしかして、パパに未練があるとか?」
 「え? あ、あら、やだ、それは誤解よ。ママが迷ってるのは、そんな理由じゃないわよ」
 「ほんとに?」
 理加子の目から見ても、父はそこそこ整った容姿をしている。美男子とは言えないだろうが、その辺の同年代と比べれば、かなりこざっぱりしていて、スマートな印象だ。母も、もしかしたら性格より見た目で父を選んだのではないか、と理加子は睨んでいる。いくら中身に愛想が尽きていても、外見にはまだ恋心を残している可能性はあるかもしれない。
 が、母は苦笑を浮かべ、とんでもない、といった風に首を大きく横に振った。
 「そりゃあね、パパにもいいとこ、いっぱいあるわよ。本当は優しい人だし、ママの知らない分野で凄く博識だし、さすがに老けたとは思うけど、見た目もあの歳にしてはなかなかだし。でも―――夫として頼れるか、信用できるか、って言われたら……もう、無理。リカの見てない所で、散々思い知らされてきたから。おばあちゃんが生きてた時も、亡くなった後も、ね」
 「…だったら…」
 「でもね。パパが言うことにも、一理あるの」
 「え?」
 「パパとママが離婚すると、リカの戸籍にも、そのことが書かれちゃうのよ」
 「へえ…、そうなの。あ、そっか。苗字変わるから、その理由も書かれるんだ、きっと」
 「えっ」
 当然のように理加子が放った一言に、母が驚いたように目を丸くした。
 「苗字?」
 「え、変わるんでしょ? ママたちが離婚したら」
 「…もしかして、リカの苗字が変わる、ってこと?」
 「えっ、違うの?」
 キョトンとする理加子に、母は困ったような笑顔で、また首を振った。
 「ママは旧姓の“伊藤”に戻るけど、リカは“姫川”のままよ」
 「ええっ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。両親が離婚したら、自分も姫川理加子から伊藤理加子に変わるものと思い込んでいた理加子にとっては、青天の霹靂だ。
 「嘘っ、だ、だって、小川さん、中村さんに変わってた…」
 「小川さん?」
 「小4の時のクラスメイト。全然付き合いなかったけど、同じ高校に行ったの。小学校の時は小川さんだったのに、高校で再会したら中村さんになってたんで、どうして? って聞いたら、親が離婚してお母さんの方に引き取られたから、って…。だから、離婚してもこの家に住むあたしは、ママと一緒に伊藤姓になるのかと…」
 「ああ…それは、離婚した時、お母さんと養子縁組したのね、きっと」
 「よ、養子? 実の親子なのに?」
 「戸籍上は、そういうことになるの。んー…、確かに、子供がまだ小さいうちだと、母親の方が引き取るケースが多いものね。そうなると、父方の姓を名乗り続けるのも不都合があるから、養子縁組して母親と同じ姓にする人が多いのかもしれない」
 「養子……」
 理加子の知る“養子”は、自分の戸籍を調べたら養子だったことがわかって愕然、あたしパパとママの本当の子供じゃなかったんだ、という小説や漫画にありがちな展開のみだ。まさか、血のつながった親子の間で、養子縁組が行われるケースがあるなんて―――なんとも妙な感じだ。
 「私たち自身の戸籍なら自己責任だけど、リカの戸籍にまで親が離婚したことがついて回るとなると、ねぇ…」
 「……え……」
 「パパの言うとおり、離れて暮らしている分には丸く収まっている訳だし、お互い離婚しないと困る事情も特にないし。せめてリカが無事に結婚するまでは、このままで行った方がいいのかもしれない」
 「え……ちょ、ちょっと待ってよ」
 驚いているうちに、なんだか妙な話の展開になっていることに気づき、理加子は慌てて母の言葉を遮った。
 「そこで、どうして“あたし”? 別にいいじゃない、あたしの戸籍に、親が離婚した、って書かれても」
 「世の中には、親が離婚してると、子供のことも色眼鏡で見る人が、少なからずいるのよ。勿論、無関係な人に対してはそんなことない人が大半だろうけど―――自分の子供の結婚相手、となると、ね」
 「…ママも?」
 「うーん…どうかな。リカたちが上手くいってる時ならさほど気にしないだろうけど、リカが何か悲しい目に遭ったり苦労させられたりしたら、やっぱり少し考えちゃうかもしれない。円満な家庭に育ってないから、家族愛とか夫婦愛とかを持てないんじゃないか、とか……親の離婚原因がギャンブルとかお酒だったら、やっぱりそういう気質を受け継いでるのかな、とかね」
 「……」
 「別居なら、仕事の都合で、とか何とか言い訳もきくけど、離婚は、私たちだけでなく、リカの戸籍の上にも残ってしまう。黙ってたところで、リカが結婚する時、嫌でもわかってしまう―――わかれば、相手はともかく、相手の親御さんは、あれこれ気を揉むかもしれない。ずっと、親らしいこと、何ひとつしてこなかった私たちだからこそ、今できるのは、せめて体裁だけでも整えておいてあげることだけ、かもしれない。…そう、パパに言われたの」
 「体裁、なんて…」
 実態を伴わないものに、意味なんて、ない。
 母の言うことも理解はできるが、納得はいかない。世の中の親のどれだけが、息子の結婚相手の親の離婚を気にするだろう? そんなのどうでもいい、と思う親の方が多いのではないだろうか? 父は、そんな少数派のことを、さも一般的なように言って、母を懐柔しようとしているだけなのではないだろうか?
 「まあ、まだ返事はしてないし、急いで離婚しなきゃいけない事情もお互いない訳だから、もう少しよく考えてみるわ。ただ―――前は、夫婦で勝手に決めてしまったから、今回は、話が出た時点で、リカにもちゃんと話しておきたかっただけ」
 ニコリ、と笑ってそう締めくくった母の顔は、少し疲れているように見えた。
 こんな中途半端な生活、早く終わらせた方がいいのに―――そう言いたかったが、迷う理由が自分だとわかってしまうと、理加子は何も言うことができなかった。

 

 「うちってね、表札が2つあるの。おばあちゃんの“伊藤”と、パパの“姫川”と」
 つい数分前見たばかりの自宅の表札を思い浮かべつつ、理加子は呟くように続けた。
 「親が離婚しても、あたし、この家に住むつもりなの。でも、そうなると、表札は今のままなのよね。あたし、姫川のままだから」
 『うん…そうなるね』
 「伊藤になりたいなぁ。そうすれば、ママがいつまでも“姫川”を引きずらずに済むじゃない?」
 『…でも、それだと、リカちゃんもお父さんのの世帯から戸籍を抜いて、お母さんと養子縁組しなくちゃいけないんだよね? さすがにそれは、やりすぎじゃない?』
 「やりすぎ? どうして? 小川さんだってやってたじゃない」
 『それは、小川さんがまだ子供だったからでしょう。子供の生活全てに親が関わらざるを得ないから、苗字が違うと不都合が多いんだよ、きっと。でも、リカちゃんは大人だし』
 「大人だから、自分の好きな方を選んでいいんじゃないの?」
 『えっ。え…ええと、ど、どうなんだろう』
 詳しいことは、優也にもよくわからないらしい。でも、とか、だから、とか、曖昧に繰り返していたが、
 『…リカちゃんは、お父さんのこと、嫌いなの?』
 一番聞きたかったのであろうことを、やっと、理加子に訊ねた。ただ母のためだけに姓を変えることまでするか、と、不審に思ったのだろう。
 勿論、理加子が母の姓を名乗りたがっている理由は、それだけではない。が……父を嫌ってのことか、と言われると、微妙だ。理加子は眉根を寄せ、少し、考えた。
 「嫌い、ではないけど―――なんか、パパは、自分がラクチンできることばっか考えてる気がして。そのくせ、ママを言いくるめる時はあたしを材料にしてるとこが、ずるい感じ」
 『うーん…リカちゃんの立場から見ると、そう感じるのも無理ないのかもしれないけど…僕は、お父さんもお父さんなりに、リカちゃんのこと、考えてはくれてるんだと思うけどなぁ』
 「どのへんが?」
 『ほら、さっきの、体裁だけでも整えてやる、って話。体裁、ってあんまりいい感じしない言葉だろうけど、実際、その体裁が整ってないと、色眼鏡で見る人がいるってのも、事実だろうし』
 「……」
 『…僕もね、お父さんと衝突して、今まで思ってたこと、全部ぶちまけて初めて、お父さんの本音がわかったんだ。僕から見たら締め付けだったり理想の押し付けだったりしたことが、お父さんなりに、僕が失敗して後悔しないように、恥をかかないように、って心配してやってたことだったんだ。勿論、それ“だけ”じゃないんだろうけど―――そういう気持ちも確かにある、って、あの時、初めてわかった』
 少し照れたような口調でそう言うと、優也は、今までで一番はっきりとした口調で、理加子に告げた。
 『お父さんと、話し合ってみた方がいいよ』
 「えっ」
 『お母さんと話し合ったように、お父さんとも、ちゃんとお互いの目を見て話し合った方がいいよ。そうすれば、お父さんの本音も見えてくるだろうし、お父さんにもリカちゃんの気持ちがちゃんと伝わると思う』
 父と、話し合う―――考えたこともない選択肢だ。
 そもそも、約束した食事会をあれこれ理由をつけてはキャンセルしてばかりいる父が、理加子と1対1で向き合おうとするとは思えない。提案しても、また仕事を理由に逃げるだけだろう。
 でも―――優也の提案が、今の姫川家にとって一番必要だということも、理加子にはわかる。
 理加子は、母と同じ、祖母に育てられた子供で、母と同じ、女、という生き物で、母と同じ家で生活している。だから、母の方に同情的になってしまうのは仕方ないと思う。それは、逆の立場から見れば、父に対して圧倒的に不公平だということだ。
 互いの考えを憶測で決めつけていては、誰かしらに不満を残す結果になる。そうならないためには、父が渋ろうとも、一度、全員が全員と本音をぶつけあう必要がある。そして、今、一番お互いのことを理解できていないのは、明らかに、父と理加子だろう。
 「3人で、じゃなく、あたしとパパが、ってのが重要なのね、きっと…」
 そう呟いた理加子は、はあっ、とため息をつき、納得したように大きく頷いた。
 「うん、わかった。こうなれば何でもやってみて損はないもん。なんとか1回だけでも、パパと2人で会える機会、作ってみる」
 『ん……、そうだね』
 「あー、でも、よかった。優也と連絡ついて。やっぱり優也に喋るだけで、すっごく気が楽になる」
 『えっ。そ、そう?』
 「うん。親のこと、隠さず遠慮なしに相談できるの、優也だけだもん」
 その言い回しで、何かピンときたのだろうか。優也にしては珍しく、鋭い指摘が飛んできた。
 『もしかして、誰かに相談しようとして、できずにいたの?』
 「え、」
 『なんか、そういう風に聞こえた』
 「……」

 “随分難しい顔してたけど、何か悩み事?”

 ―――確かにあたし、あの時、須賀君には相談できなかった。そこまで踏み込ませていい関係じゃない気がして。
 「須賀君が…」
 『須賀君?』
 「なんか、時々、電話してくるの」
 そんな話を優也にしても、どうなるものでもない。が、なんだか全てを話してしまいたい気分だった。がばっ、と起き上がり、理加子はベッドの上に正座した。
 「電話してきて、ランチとかに誘うの。そのうち何度かは、実際に会って、一緒にご飯食べたり」
 『へえぇ……知らなかった』
 「ねぇ。どうして誘うのかな?」
 『えっ』
 「高校の時なんて、全然付き合いなかったのよ? 飲み会で再会した時も、携帯の番号は交換したけど、友達になろう、って言われた訳じゃないし」
 『…ええと、普通は、友達になるのにいちいち“友達になりましょう”って言葉で確認し合う訳じゃないと思うけど』
 「じゃあ、須賀君の方はあたしを、友達だと思ってる、ってこと?」
 『それは、わからないけど―――とりあえず、リカちゃんのことをもっとよく知りたい、と思うから、何度も誘うんじゃないかな』
 「知りたい?」
 『きっと須賀君は、リカちゃんのことが好きなんだよ。あ…、勿論、女の子として、か、性別関係ない1人の人として、かはわからないけど』
 「……」
 “好き”―――なんとも現実味のない言葉だ。特に、自分と須賀との間では。
 理加子が同級生たちから騒がれていた時ですら、好みではない、と裏では言っていた須賀なのだ。あれから数年経ち、異性に整った外見以外の物も求めるような年齢になった今の須賀なら、尚更、お人形のような理加子には興味を示さない筈だ。
 けれど、もしこれが、まるで裏を知らない初対面の人間なら―――確かに、優也の言うとおり、自分に興味を持って何度も誘ってきていると考えるのが、自然かもしれない。理加子だって、これまで誰かを個人的に誘うなどしたことはなかったのに、奏に対しては自分から行動を起こした。優也に対しても、あそこに行こう、あれに付き合って、と自分から言う。それは、彼らのことが“好き”だから。恋愛感情か友情かの違いはあれど、どちらも“好き”であることに変わりはない。
 「須賀君て誰にでも親切な人だから、なんかピンと来ないなぁ…」
 『親切な人なら、それこそ、遠慮せず相談してみればよかったのに』
 「…そっか」
 あっさりと返された言葉に、妙に納得してしまった。確かに、甲斐甲斐しく周囲の世話を焼くあの須賀なら、特に親しい間柄ではなくとも、知人から何かを相談されれば、嫌な顔もせず親身に聞いてくれそうだ。
 ―――あたしって、人間関係をあれこれ決めつけ過ぎてるのかなぁ。
 友達ならOK、知り合いだとNG、などと勝手に思い込んでいることが、これ以外にも色々あるのかもしれない。そう考えると、優也にも迷惑をかけていることがありそうな気がして、知らず冷や汗が滲んできた。
 と、ちょうど話が一段落したこのタイミングで、玄関のドアの開く音がした。
 「あ、ママが帰って来たみたい。そろそろ電話切るね」
 『うん。暫くは帰ってくるの今日くらいになりそうだから、電話くれるならこのくらいにしてもらっていいかな』
 塾の先生の“趣味”とやらが、まだまだ続くらしい。わかった、と答え、更に2、3の挨拶を交わして、電話を切った。
 ホッと息をつき、携帯電話を閉じようとした、その時。
 「……あれ、」
 携帯の外側にある、小さなライト。それがチカチカと点滅していた。メールの着信があったことを知らせるライトだ。
 日頃、メールのやり取りなど、誰ともやっていない。一体誰だろう、と不思議に思いつつ、滅多に開かない受信ボックスを開いてみると、そこにあったのは、須賀の名前だった。

 『電話中みたいだね。秋吉君と連絡ついたのかな。
  明後日の日曜、ヒマ? 店長に映画のタダ券もらったけど、よかったらどう?』

 優也と電話している間に電話をかけてきて、話中だったのでメールにしたらしい。着信時刻を見たら、ほんの2、3分前だった。
 「映画、かぁ…」
 ―――須賀君みたいに世話好きで気の回るタイプの人なら、映画に誘う相手なんていくらでもいる筈よね。それでもあたしに声かけてくれるってことは、優也の言うとおり、少しはあたしのこと気に入ってるってこと…なのかな。
 日曜は、理加子もバイトがなく、暇だ。理加子は、軽いタッチのラブコメディが好きだが、須賀はどんな映画を好むのだろう?
 映画、一緒に行ってみようかな―――パチン、と携帯電話を閉じ、そんなことを考えながら、理加子は母を出迎えるために階下へと向かった。

***

 日曜日の本屋は、結構な人で賑わっていた。
 須賀と映画を見る約束をし、その待ち合わせ場所をどうするか、という話になった時、理加子は迷わずこの本屋を選んだ。優也と遊びに行く時も、いつもこの大型店を待ち合わせ場所として利用しているからだ。本好きの優也が本を物色しながら待てる、というのもあるし、理加子がいかにも待ち合わせといった風情で何分も立っていたら危ないのではないか、という優也の気遣いもある。それに―――ここ最近、理加子は、この店のあるコーナーに、とりわけ用があった。
 ―――やっぱり、これだけ賑わってても、ここは人が少ないなぁ。
 巨大な書店の、隅の方の僅かなスペース。ざっと見た限り、このコーナーで本を探しているらしい客は、2、3人といったところだ。
 ズラリと並んだ書棚の上に掲げられた案内は、“洋書”―――その中でも、この列にあるのは、ここ1ヶ月ほどに海外で発売された雑誌ばかりだ。ビジネス雑誌や音楽雑誌、ファッション雑誌等々が、ズラリと並ぶ。そして、理加子のお目当ては「イギリスのファッション雑誌」だ。
 「うーん…」
 最新号をパラパラとめくりながら、軽く眉間に皺を寄せる。真剣なその目に、誌面を飾る煌びやかなモデルたちの姿は、ほとんど映っていない。理加子が探しているのは、そういった記事の片隅にあるであろう、小さな小さな“文字”だ。
 ―――やっぱり、ブランドのファッションショーの記事でも、スタッフの名前なんていちいち載せないのかな。
 理加子が探しているのは、勿論、たった1つ―――“Sou Ichimiya”という名前だけだ。
 “VITT”と契約してイギリスへ行った、と聞いている。そして実際、雑誌にはロンドンで行われた“VITT”のファッションショーの模様が、2ページにわたって紹介されていた。が、理加子の探し方が悪かったのか、それともそんなものを掲載する習慣がないのか、ショーの裏方たちと思われる名前は、どこにも書かれていなかった。
 イギリス―――遠い、とても遠い国。そして、奏が生まれ育った国。彼はそこで、どんな人たちを相手に、どんな仕事をしているのだろう? その姿の、ほんのひとかけらでもいいから、この目で見てみたい。恋は失ってしまったけれど、やはり今も、奏は理加子にとって特別な、憧れの人なのだ。
 「…んー、残念」
 今回もまた、どこにも見つけられなかった。はぁ、とため息をついた理加子は、雑誌を置き、携帯電話に表示された時刻を確認した。
 ―――あ、そろそろ須賀君、来るかな。
 雑誌を見たくて、待ち合わせの時間より早めに来ていたのだ。そろそろ待ち合わせ場所にした「音楽雑誌がある辺り」に移動した方が良さそうだ。
 洋書コーナーを離れ、1階下にある雑誌コーナーへ移動すべく、エスカレーターへと向かった理加子だったが、その時、なんだか見覚えのある後姿を見かけた気がして、思わず足を止めてしまった。
 「あれ…?」
 あの髪型、あのチェックのシャツ、あの歩き方―――顔は見えないが、どう見ても、優也だ。
 「優也、」
 その距離、10メートル強といったところだろうか。声をかけてみたが、聞こえなかったらしく、優也が振り向く気配はない。が、一瞬だけ見えた横顔は、間違いなく優也だった。理加子は、思い切って小走りで駆け寄り、その背中をポン、と叩いた。
 「優也っ!」
 手のひら越しに、背中が思い切り跳ね上がるのがわかった。
 凄い勢いで振り返った優也は、理加子の予想の3倍以上、眼鏡の奥の目を思い切り見開いていた。「ギョッとした」というのはよく使う表現だが、まさにこういう顔が「ギョッとした」時の顔だろう。
 「リ……リカちゃん!?」
 「やぁっぱり優也だ。偶然だねー」
 「な、な、な、なんで、こ、ここに」
 「須賀君と待ち合わせなの。ほら、いつも優也と遊びに行く時、ここ使うから」
 「あ…っ、そ、そう、なんだ」
 一昨日の電話を思い出してか、優也の口元が僅かにほころぶ。が、その笑い方は、プログラムで表情を動かしているロボットか何かのように、異様にぎこちない。見開いた目も、理加子の方をきちんと見ず、不自然にキョロキョロと動いている。
 急に声をかけたからビックリしたのだろう、と思っていた理加子も、遅ればせながら、優也の様子がおかしいことに気づいた。どうしたの、何かあったの、と訊こうとした、まさにその刹那。
 「秋吉君?」
 視界の外から、ホワン、とした声がした。
 ロボット化した優也の首が、ぐるん、と回って斜め下を見る。その視線を追って優也の隣に目をやると―――…。

 ―――わ…わあぁ…、
 かっ、可愛いっっ!!!

 くるん、と丸い目。昔読んだ少女マンガに出てきたキャラクターのような、毛先の丸まった可愛らしいポニーテール。男性としては比較的小柄なうちに入る優也と並んでも、十分すぎるほどにバランスが取れる、小さな小さな体。顔そのものは特別可愛い訳ではないが、全体が醸し出すムードが、理加子にとっては妙にツボに入る可愛さだった。
 優也を「秋吉君」と呼んだ彼女は、不思議そうな顔で、優也と理加子の顔を見比べていた。キョトン、としたように首を傾げる様子は、ランドセルを背負わせても違和感がなさそうだ。本能的に「可愛い!」と声を上げてしまいそうになるこの可愛さは、赤ん坊や小さな子供の愛らしさと同じ種類かもしれない。
 「秋吉君のお友達ですか」
 2人の顔を見比べながら、彼女が思いのほか丁寧な言葉で訊ねる。まだロボット状態から回復できずにいる優也は、やたらと早口で答えた。
 「ハ…ハイ、と、友達です。ビ、ビックリしました、まさか今日、ここで偶然、あ、会う、なんて」
 「ほぇ〜、ホントにお友達なのですか〜」
 驚いたような感心したような声を上げると、彼女は、そのまん丸な目を理加子の方にまっすぐ向けた。自分より10センチは低い位置から見上げられ、理加子は無意識のうちに、1歩、後ろに下がってしまった。
 「スゴイですね、秋吉君〜。ワタシ、こんな綺麗な女の子、今まで見たことないデスよ。ワタシが3つになった時、七五三祝いにおばーちゃんが贈ってくれた日本人形が、今も実家に飾ってあるけど、あのお人形より可愛いナリよ」
 「は、はあ…」
 あからさまな賛辞に、優也は遠慮がちに笑い、理加子は少し赤面した。可愛い、と思った相手から、可愛い、と褒められるとは、なんとも変な感じだ。
 「…あのー、優也?」
 この人は? という目をソロソロと優也に向ける。理加子にとっても初対面の相手なのだということに気づき、優也は慌てて説明した。
 「あ、ご、ごめん。大学の先輩で、藤本さん」
 「フジモトさん?」
 「ああ、えっと、“マコ先輩”だよ」
 「マ……」
 その名を聞いた途端、今度は理加子の方の目が大きく見開かれた。
 「マコ先輩って、あの―――…っ!!」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。その声の理由は、優也にもすぐわかったのだろう。理加子の声を遮るように、優也が即座に上ずった声でフォローを入れた。
 「そ、そうそう! 一番尊敬してる先輩、っていつも話してる、あのマコ先輩!」
 「そんなこと言ってるのですか」
 理加子の過剰反応より、優也の言葉の一部分に引っかかったらしく、真琴がちょっと咎めるように口を挟んだ。ドギマギした様子ながらも、優也は真琴を見下ろし、不自然に笑顔を作った。
 「じ…実際、尊敬してますから」
 「…尊敬なんてしなくていいナリよ」
 困ったように眉根を寄せたその顔に、また「あ、可愛い」と言ってしまいそうになった。優也の先輩、ということは、理加子から見ても1つ年上の筈なのだが―――これで、今年23歳。とても信じられない。
 ―――な…なるほどー、これがあの“マコ先輩”なんだ。
 考えてみれば、去年のクリスマス辺りに、一度この人物を見かけたことがあった気がする。見る角度が違うので印象が違うが、背丈から言って、あの時「うわー、高校生にしか見えない」と評したあの女性こそが“マコ先輩”だろう。あの時は、あの女性が男連れであることに優也は酷く驚き固まっていたが、あれが“マコ先輩”なら、優也のあの反応は大いに納得だ。
 正体がわかった以上、長いは無用。何故優也が日曜日に例の“マコ先輩”と出歩いているのか、その経緯が是非聞きたいところだが、どう考えても今の自分は“お邪魔虫”だ。
 「あ、っと、ごめん、ゆっくり自己紹介したいけど、そろそろ待ち合わせの時間だから」
 手の中の携帯電話に目をやりつつ理加子がそう切り出すと、優也はホッとしたように、少し笑った。
 「須賀君によろしく言っといて」
 「うん。じゃ、またね」
 軽く手を振り、少し速足でエスカレータに向かった。途中、チラリと背後に目をやると、優也と真琴は専門書コーナーの方へと歩き出していた。経緯はわからないが、多分、大学の研究に関係する本でも探しに行くのだろう。

 ―――そっかぁ…、優也が好きな人って、ああいう人なんだ。
 “マコ先輩”―――その名を、理加子はよく知っている。現在、優也が片想いをしている相手だ。
 先輩、と聞いていたし、優也も驚くほどの計算能力の持ち主だとも聞いていたので、もっとキリッとした、いかにも“才女”といった女性をイメージしていたのだが……かなり、予想外だ。
 でも、優也と2人で並んだ姿は、なんとなくお似合いだった。背丈のバランスも良いし、優しげな優也の風貌には、あんな感じのフンワリした小さな花のような女性がしっくりくる気がする。真琴の方の気持ちはわからないが、上手くいってくれたらいいのに、と素直に思えるカップルだ。
 ―――今日ここに来たのって、優也から言い出したのか、それとも先輩から言い出したのか、どっちかなぁ? 優也…だとしたら、すっごい進歩だよね。自分は後輩だから、先輩に告白するとか誘うとか絶対無理! って断言してたんだもん。あ、まさか、思い切って告白したとか? だったら、今のってデート中!? うわー、すごい場面に遭遇しちゃったかもー。
 と、そこまで考えて、はた、と気づいた。

 『姫川って、秋吉君のことは、名前で呼び捨てなんだ?』

 「……」
 “マコ先輩”は、優也のことを、“秋吉君”って呼んでた。
 あたし今、“優也”ってフツーに呼んじゃったけど―――もしかして、まずかった?

 ある嫌な出来事が思い出される。まだトールがホストクラブで働いていた時、偶然繁華街で見かけて普段どおりに声をかけたら、同伴出勤らしき女性客から「トール、トールって、馴れ馴れしい。あんた何者よ!?」とキレられたのだ。仲間内では、男女区別なくお互いを呼び捨てにしていたし、下手をすると彼女の目の前で理加子をチヤホヤするような輩までいたので、あまり気にしたことがなかった。が、その一件で、相手によっては変に誤解をされたり、要らぬ嫉妬をされたりするのだということを初めて知ったのだ。
 いくら「友達です」と言ったところで、それを素直に信じる人もいれば、信じない人もいる。真琴は、優也の想い人だ。その人の前で、下手に親しげな態度を取ってしまったのは……もしかしたら、失敗だったかもしれない。
 想像したら、冷や汗が噴き出してきた。しまった、声なんてかけるんじゃなかった―――優也の好きな人の顔が見れてラッキー、としか思っていなかった理加子は、今更のように後悔した。

 「姫川」
 「……っ!」
 俯き加減で歩いていたところを、いきなり肩を叩かれ、心臓が思い切り跳ねた。
 ぐるん、と背後を振り返ると、理加子のリアクションに驚いたのか、ポカンとした様子の須賀が立っていた。
 「な、なんだ、須賀君だったんだ。びっくりしたー」
 「…いや、ま、ちょっと驚かそうと思って後ろから声かけたのは事実だけど……にしても、凄い驚きっぷりだなぁ」
 「…だって…」
 ―――だって、一瞬、忘れてたんだもん。須賀君と待ち合わせしてることも。
 優也に迷惑をかけたかもしれない、と思い始めたら、落ち込むことに忙しくて、他のことに気が回らなくなっていたのだ。が、須賀本人に、「忘れてました」などと言える訳がない。気まずさもあいまって、理加子は拗ねたように唇を尖らせた。
 そんな理加子の顔を見て、須賀は思わず吹き出した。
 「な…何よっ」
 「アハハ……ご、ごめん。でも、姫川が子供みたいにむくれるなんて、高校の時は想像すらできなかったから」
 「……」
 「いやぁ、ほんと、姫川って意外だよなぁ」

 ―――あ。
 今の笑い方、結構、嫌いじゃないかも。

 高校時代の須賀、といえば、笑顔しか思い出せない。が、その笑い方は、周りを気づかって、場の空気を和ませたり盛り上げたりしようとしている、まるで宴会部長かやり手の営業マンみたいな、どこか作った笑い方―――だった、気がする。
 けれど、今の笑い方は、それこそ「子供みたい」だった。屈託なく、心から笑っている、本当の笑顔だ。
 つられたように、理加子も少し笑う。すると須賀は、ちょっと驚いた顔をして、それから、照れたような笑みを浮かべた。


 ……うん。
 案外、こんな関係も、悪くないのかもしれない。

 須賀が自分をどう思っているのか、まだ、よくわからないけれど―――わからないままでも、いい気がしてきた。
 ただ、今度、何かで悩んだ時は、優也が忙しそうだったら、須賀にもちょっと意見を聞いてみよう。そんな風に、理加子は思った。


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