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― Calling -3- ―

 

 約4ヶ月ぶりの再会だった。

 「元気、だったか」
 待ち合わせ場所に理加子が現れるなり、父が発した一言。
 気まずそうな、ぎこちないその笑顔に、こちらまでどういう顔をしていいか困ってしまう。僅かに視線を泳がせた理加子は、父から目を逸らしたまま、コクン、と1回頷いた。
 「とりあえず、この店にでも入るかな」
 目の前にある喫茶店を目線で示す父に、もう一度、頷く。
 今にも雨粒が落ちてきそうな、梅雨の終わり間近の曇り空―――自分から言い出したことなのに、理加子の気持ちは、この空模様と同じくらい、曇っていた。


 本音を言えば、父がOKするとは、夢にも思っていなかった。
 家族3人での食事会、という約束も、あれこれ理由をつけて延期、延期を繰り返し、守れた回数など片手にも満たない。母が連絡を取っているから話が通じているが、それを止めてしまったら、1年でも2年でも音信不通になりかねないムードだ。
 離婚問題が持ち上がる前から、父との関係は希薄だった。理加子が記憶している限り、父と2人きりになったこと自体、なかったように思う。祖母か母と会話する中で、父も少し口を挟む、それに理加子が少し答える―――その程度だ。記憶にないほど幼い頃がどうだったのかは知らないが、祖母が作った理加子のアルバムには、父と一緒に写っている写真は3枚しかなく、そのどれもが母も含めた3人での写真だった。
 トラブルが嫌いで、いつも逃げ腰な父―――あまり交流のない、後ろめたい事情もある相手とのサシでの話し合いなど、苦手中の苦手だろう。どうせ断るに決まっている、OKしても土壇場でキャンセルに決まっている。……そう、思っていた。実際に父の顔を見る、その瞬間まで。


 「どう、学校の方は。上手くいってるか?」
 アメリカンとロイヤルミルクティーを注文し終えると、父は咳払いをひとつして、そんな定型文のような質問をしてきた。
 上手くいってるか、とは、専門学校の授業の中身のことだろうか? それとも、学校の中での人間関係のことだろうか? 前者については、前期試験の真っ只中なのでまだ何とも言えないし、後者については、どう見ても上手くいっていない。一瞬、どう答えたものか困ったが、結局、ありきたりな返事に収まった。
 「…うん、まあ…普通」
 「勉強、大変か」
 「…今、試験の最中だから、ちょっとだけ」
 そうか、と言って、気まずそうに水を飲む。理加子も喉がカサカサに渇くのを感じ、水を一口飲んだ。そのまま、双方黙り込んでしまった。
 ―――困ったなぁ…なんて言って話を切り出せばいいか、わかんないよ。
 こういうシチュエーションは、本当に苦手だ。飲み会での談笑の輪に入るのと同じ位、苦手だ。けれど、今日に限っては、理加子の方から「話がしたい」と父を呼び出したのだ。自分の方から、なんとかして話を切り出さなくてはいけない。
 言いたいことは色々あるのに、きちんとした言葉として頭の中に組み立てるのが、なかなか難しい。こちらからも父の近況など聞いた方がいいのか、それともさっさと本題に入った方がいいのか、等々迷っていると、沈黙に耐えかねたのか、父の方から切り出してくれた。
 「ママから、聞いたんだってね」
 「え、」
 「別居続行の話。…今日来たのは、その話なんだろう?」
 「……」
 パパは、ちゃんとわかってるんだ―――こちらの目をちゃんと見返す父の様子に、思わずコクリと唾を飲み込む。父にとって耳の痛い話が出るだろうことも、話の流れ次第では今後の展開が父の望まない方向に転ぶ可能性があることも、覚悟の上でここにいる。ならば―――理加子も逃げる訳にはいかない。
 「…あたし、よくわかんない。パパがなんで今更、そんなこと言い出すのか」
 目を逸らさず、真っ直ぐに父の目を見返す。
 「ママから、大体のことは聞いた。けど…わかんない。親が離婚してるとあたしが将来結婚する時にマイナスになるかもしれない、なんて、そんなの、今急に法律が変わった訳でも、世の中の常識が変わった訳でもないでしょ? そういうの承知の上で、離婚しよう、って話になったんだよね? なのに、なんで今更?」
 「…リカは、パパたちの離婚には反対だと思ってたけど、違うのかな?」
 父の目が、僅かに困惑している。不審に思うのも、無理はないかもしれない。一瞬怯みかけたが、理加子は思い切って、今の本音をぶつけることにした。
 「反対だった、けど―――今の状態だったら、結婚してる意味って全然ないな、って思ってる」
 「……」
 「一緒に暮らしたいけど、仕事とかのせいでそれができない、っていうんなら、離れて暮らしてても家族でいる意味はあると思うの。でも、離れて暮らしてなきゃ上手くいかない関係で、一緒に暮らしたい気持ちも全然ないんなら、書類の上だけの家族でいる意味なんて、ないんじゃないかな。少なくとも、あたしが“パパとママには離婚して欲しくない”って思ったのは、こういうことじゃない―――ちゃんと一緒に暮らして、普通に“家族”したかったの。そうじゃないなら、今は……離婚、した方がマシだと思ってる」
 「マシ……マシ、かねぇ? 離婚しても、しなくても、今の生活には何の変わりもないよ?」
 「生活は変わらないかもしれないけど、気持ちが変わるじゃない」
 「お待たせしました」
 突如、視界の外から別の声が割って入ってきた。
 親子同時にハッと顔を上げると、そこには、コーヒーと紅茶をトレーに乗せたウェイトレスがにこやかに立っていた。他人の前でおおっぴらに話せる内容でもないので、父も理加子も、ウェイトレスが去るまでの間、一旦、口をつぐんだ。
 考えてみれば、ここは父の会社のすぐ近くで、定時直後ということは、父の同僚や部下などがこの店に立ち寄っていてもおかしくないシチュエーションだ。幸いにして、喫茶店というよりラウンジと称した方がいいようなゆとりのある店の構えなので、隣の話が筒抜けになるようなことはないが、もう少し配慮すればよかった、と少し後悔した。
 「―――気持ちが変わる、って、たとえば?」
 十分にウェイトレスが離れるのを見計らって、父の方から訊ねた。理加子も、ウェイトレスの後姿との距離を横目で確認し、再び口を開いた。
 「…たとえば、パパの方は離婚しても名前が変わらないけど、ママは旧姓に戻るじゃない?」
 「そうだね」
 「一緒に住んでなくても、書類の上で結婚してるだけでも、“姫川さん”って呼ばれるたびにパパとのことを嫌でも思い出すし、“姫川”って表札見るたび、パパが家にいなくてもまだパパの奥さんなんだって自覚しちゃうし―――もし、あたしがママだったら、そのたびに虚しくなったり気分が落ち込んだりすると思う。ママって、中途半端が嫌いなタイプだから」
 「ああ…確かに、そうかもしれないね」
 「パパのことは…ごめん、あたし、よくわからない。ママのこと、どう思ってるのか、とか。ただ、ママとは別居してから何度も話してるから、少しはわかるの。だからあたし、パパたちが離婚して、ママが旧姓に戻ったら、あたしもママと養子縁組して、ママと同じ姓になろうと思ってるの。“姫川”って苗字から自由になって欲しいから」
 それまで、時折頷きつつ静かに話を聞いていた父が、そこで突然、怪訝そうに眉をひそめた。
 「……え??」
 「え?」
 不審げな父の様子に気づき、理加子も眉をひそめる。すると、父は少し首を傾げるようにして、理加子の目をジッと見た。
 「養子縁組?」
 「うん」
 「リカが、ママと、かい」
 「うん……そうしないといけないんだよね?」
 「…誰から聞いたの、その話」
 「ママから。あたし、ママが離婚したら、一緒に住んでるあたしも自動的に“伊藤”に変わるもんだと思ってたの。そしたら、あたしは“姫川”のまんまで、ママと同じ苗字を名乗りたいなら、ママと養子縁組しないといけないんだ、って、ママが…」
 「……ああ……」
 理加子の説明を聞きながら、父は何事か考えを廻らせているようだった。が、大体の事情が想像できたのか、納得したように一度頷き、苦笑気味に吹き出した。
 「ああ、そうか―――参ったなぁ。相変わらず、妙なところで天然で」
 「…どういうこと?」
 「いや、今の話は、ママの勘違いだよ」
 「え?」
 「確かに、パパとママが離婚しても、リカは“姫川”のままだよ。でも、“伊藤”姓を名乗りたいなら、役所にそういう申請をして、入籍手続きってのをやれば、それでいいんだ」
 「入籍、って……確か、結婚する時やるやつじゃないの?」
 「そう、あれも入籍。でも、結婚以外でも、同じ戸籍に入ることを“入籍”って呼ぶんだよ。リカとママは実の親子なんだから、養子縁組の必要はないよ」
 「…だったら、どうしてママは、そんなこと…」
 母の話しぶりは、嘘を言っている風では決してなかった。となると、母自身、理加子が自分と同じ姓を名乗るには養子縁組が必要だと思い込んでいるのだろう。実の親子で養子縁組なんて、と不審に思うのが普通なのに、何故そんな突飛な勘違いをしているのだろう?
 母の勘違いの原因がわからず、理加子が首を傾げていると、父は小さく息をつき、アメリカンをミルクも砂糖も入れないままに、一口、飲んだ。そして、コーヒーカップを置くと同時に、静かに切り出した。
 「―――ママは、パパの言ったことを、そのまま鵜呑みにしてるだけなんだよ、きっと」
 「パパの言ったこと?」
 「ママは、リカに話さなかったのかもしれないけどね、」
 目を上げた父は、少し言い難そうに、けれどはっきりと告げた。
 「パパのお母さん―――リカから見たらおばあちゃんは、パパが子供の頃、離婚したんだ」
 「……えっ」
 父方の祖母―――会った記憶がない。というか、父の実家に行った覚えがない。そうだ。何故今まで不思議に思わなかったのだろう? 母方の祖母がいるのだから、父方の祖母だっていて当然なのに。
 いや、それよりも今は、離婚の話だ。父の両親も離婚していた―――勿論、理加子には初耳だ。どうリアクションすべきかわからず、理加子はただただ、びっくりしたように目を丸くするだけだった。
 「パパが小学5年生の時かな。パパ以外にもまだ小さい弟がいて、子供2人連れての離婚だよ。父親はほとんど家に居つかない人だったし、時々、母親が父親に泣きながら怒鳴り散らしてたのも覚えてる。詳しくはとても聞けなかったけど、今思えば、浮気か何かだったんだろうな」
 「……」
 「当時住んでた家のすぐ近くに母方の実家があって、そこに身を寄せたんで、それまで通ってた学校にそのまま通えたんだけど、学校の途中で苗字が変わると、周りからあれこれ言われるんじゃないか、っておじいさんが心配してね。離婚しても、子供たちの苗字は父方の姓のままだったんだ。で、パパが中2の秋、今度は、母親が再婚することになって―――で、再婚と同時に、パパと弟も再婚相手と養子縁組して、同じ籍に入ったんだよ」
 「え…っ、じゃあ“姫川”って…」
 「そう、その再婚相手の苗字なんだよ」
 ということは、父とは血縁関係のない、元々は赤の他人だった人の苗字だったのか―――全く知らなかったし、想像したこともなかった。
 「パパのお母さんとは、正真正銘、実の親子なんでしょ? それでもやっぱり、そんな手続きしないと、同じ苗字にならないの?」
 「うん。日本の戸籍制度の厄介なところだよねぇ…」
 「…あれ、でも、さっきのパパの話だと、別に養子縁組しなくてもいいんじゃない? 入籍すれば」
 「入籍は、いちいち家庭裁判所に申し立てなきゃいけない上に、籍を入れただけじゃ“姫川家の子供”とは認められないし、で、メリットがあんまりないんだよ。多分、子連れ再婚の場合は、大体が養子縁組を選ぶんじゃないかな」
 そこまで言うと、父はどことなく皮肉めいた表情になり、小さくため息をついた。
 「中には連れ子に遺産なんか渡したくない、なんて理由で入籍の方を選ぶような再婚相手もいるだろうけど―――再婚相手の人は、老舗の呉服問屋の跡取り息子なのに、大病患って子供ができなくてね。跡継ぎ目的の再婚だから、妻以上に子供が必要だった訳だから、養子縁組は当たり前だっただろう。まあ、母さんの方も、養育費もまともに払わない実の父親とはさっさと縁を切って、裕福な再婚相手の子供にしたかったんだろうし。入籍しただけじゃ、子供たちを養う義務はないからね」
 「……」
 なんとなく―――薄ぼんやりと、父が母親の再婚についてどう思っているかが、今の話しぶりから透けて見える気がした。後継者のため、生活費のため―――そんな理由での再婚を、中2という思春期真っ只中だった父が“不純”と感じるのも無理はない。
 「再婚相手はいい人だったけど、パパも難しい年頃だったからねぇ…。なんとなく居づらくて、学生寮のある高校を選んで、家を出ちゃったんだ。大学も下宿生活になって、そのまま社会人になって……結局、呉服問屋は、弟が継いでるよ。あいつは、まだ無邪気な年頃に再婚したからね」
 そこまで話すと、父は、はあっ、と大きく息を吐き出した。
 「ママと結婚しようって話になった時、自分の戸籍に“養子”って記載があるのを思い出して、絶対突っ込まれるだろうから、事情を説明したんだよ。離婚した母親が再婚する時に養子縁組した、って。驚いてたよなぁ…ママも、リカと同じで、子供は引き取られた方の苗字に自動的になるし、再婚すればその苗字に勝手になると思ってたから」
 「そうなんだ…」
 「まあ、あの説明だけ聞いてたら、入籍すればいい、なんて考えつかなくてもしょうがないよ。ママの周りじゃ、子連れ離婚なんて皆無だし。それに、ママは、知らないことを教えてもらうと、素直に信じちゃうタイプだから。…そういうところは、ちょっと、リカもママに似たかもしれないな」
 「……」
 ―――なんだ、ママもよく知らなかったんじゃないの。しかも間違ってるしっ。その上あたしまで鵜呑みにしちゃったしっっ。
 なんだか、母と一緒に自分も恥をかいたような気分になって、理加子は気まずさを誤魔化すかのように、ロイヤルミルクティーのカップを手に取った。
 部下が何人もいて、海外にまで出向いてバリバリ働いている母が、こんな勘違いをするなんて―――そう思う一方、父の言う“素直”という部分には、ちょっと頷けるかもしれない。
 母の話す言葉の中には、時々、祖母の受け売りと思しきフレーズが出てくる。それとわかるのは、理加子自身、祖母に育てられたからだ。朝蜘蛛を殺すのはタブーだとか、夜爪を切ると親の死に目に遭えないだとか―――非科学的なことはナンセンスと割り切りそうな母なのに、祖母が語った迷信を、素直に守っている。
 でも、母も単なる“素直”ではないだろう。素直に信じ、守っているのは、多分、“祖母が”言ったことだからだ。そして、離婚にまつわる勘違いも―――それが、“父が”言ったことだから。
 今はどうあれ、やはり父は、母にとって、その言葉を全面的に信じ込んでしまう位に、大切で絶対的な存在だったのかもしれない―――そんなことを考えたら、ふと気になった。
 「ねえ。おばあちゃんは、パパのそういう話、知ってたの?」
 「ああ…、結婚前に、ママが話したらしいよ」
 「おばあちゃんは、何て?」
 「やっぱりいい顔はしなかったみたいだね。どういう理由で離婚したのか、そこを気にしてたらしい。離婚原因にも色々あるから、親が気にするのも無理はないよ」

 『リカが何か悲しい目に遭ったり苦労させられたりしたら、やっぱり少し考えちゃうかもしれない。円満な家庭に育ってないから、家族愛とか夫婦愛とかを持てないんじゃないか、とか……親の離婚原因がギャンブルとかお酒だったら、やっぱりそういう気質を受け継いでるのかな、とかね』

 ―――そっか…ママのあの言葉って、実体験だったんだ。
 体面を何より重んじた祖母。一流大卒で大企業勤めの父は、大事な一人娘の相手として合格点だっただろう。が、幼い頃に両親の離婚を経験し、どこか打算的な匂いのする再婚の果てに、新しい家庭に馴染めず実家を飛び出してしまった、と聞けば、あの祖母が眉をひそめるだろうことは想像に難くない。家庭内不和が原因でグレてしまい、悪い仲間と付き合うようになる、などといった話は世間にゴロゴロ転がっている。離婚や再婚に金銭問題が絡んでいれば、新婚家庭にまでそれが及ぶ可能性だってある。再婚相手に虐待されて家を飛び出す、なんてテレビドラマも前にあった。大丈夫なの、ちゃんとした人なの、真っ当に育ってるんだろうね―――父に対してはさすがに言わなかっただろうが、母にはあれこれ言っただろう。比較的若い年齢での結婚だったから、尚更に。
 「じゃあ、もしかして、パパが急に、あたしが結婚するまでは別居のままで…なんて言い出したのも、自分たちがおばあちゃんからいい顔されなかったのを思い出したから?」
 理加子が訊ねると、父は苦笑気味に頷いた。
 「まあ、そんなところかな。正確には、リカの“叔父さん”がきっかけだよ」
 「おじさん?」
 「パパの、弟。母親や養父とは今もぎくしゃくしてるけど、弟とはそこそこいい付き合いができてるんだ。その弟から、この前、自分自身が親のせいでケチをつけられたのを忘れたのか、せめてリカが結婚するまで体裁くらい整えとけばいいのに、って随分言われてね」
 「……」
 「同じ境遇でも、夫婦円満で実家を継いでる弟ならまだしも、親と同じように離婚しようとしているパパが、“親の離婚歴ごときで子供の結婚相手にケチをつけるな!”なんて偉そうなこと、とても言えないよなぁ…」
 確かに―――今、祖母が生きていたら、破局寸前の両親を見て「そら見たことか、あたしが心配したとおりだ」と言うかもしれない。まさか、祖母はずっと、父をそんな懐疑の目で見ていたのだろうか? そういう祖母の視線を感じて、父はあの家から自由になりたくなったのだろうか?
 「…やっぱり、おばあちゃんのせい、なのかな」
 手元に置かれたティーカップが、ぼやけて見える。そんなつもりはなかったのに、何故か理加子は、目に涙を浮かべていた。
 「おばあちゃんと同居してなければ、上手くいってたのかな。あたしがいなければ、同居なんてしなかったんだもん。あたしが生まれなければ…」
 「えっ。い、いや、それは違うよ、リカ」
 今にも泣き出しそうな理加子の様子に、父は慌てて、口に運びかけていたコーヒーカップを置き、身を乗り出した。
 「そりゃあ、リカの学校のことや習い事のこと、相談なしに1人で勝手に決めちゃって、家計管理も財産管理も何から何までおばあちゃんが仕切ってたんだから、パパもママも不満に思うところはあったよ。でも―――あの人はあの人なりに、上手くやっていこうとしてたんだよ。その証拠に、おばあちゃんがパパを悪く言うところなんて、聞いたことないだろう?」
 「…でも…」
 「それに、その……本音を言えば、パパは、どっちでもよかったんだ」
 急に、父の喋り方が、妙に言い難そうなものに変わった。え? と理加子が涙の溜まった目をパチリと見開くと、父はますます気まずそうに、訥々と続けた。
 「ママは常に、おばあちゃんの好き勝手させちゃいけない、って思ってたし、姫川の実家も、姫川家の孫なのに伊藤家に勝手をさせてたまるか、なんて息巻いてたけど―――パパは、家が安泰で、リカがきちんと育つなら、おばあちゃん任せでいいじゃないか、と思ってたんだ。ママと険悪になってからは、売り言葉に買い言葉で姫川の両親の受け売りみたいなこと言ったりもしたけど……他人との同居は気が休まらない、って部分と、金銭以外は全部おばあちゃんに頼ってる、っていう肩身の狭さの方がキツくて、正直、おばあちゃんの専制君主ぶりにさほど不満はなかったんだ」
 「……」
 「…情けない話だけど、どこか自分にとって“他人事”だったんだ。子育てにしろ家計のあれこれにしろ、誰が担うにしても、その中心になるのは“自分”じゃないから」

 ―――ああ……。
 ああ、そういうことか。

 父は、祖母の専制君主ぶりを不満に思っていたのだろうと思っていた。自分の無関心振りを棚に上げて、理加子が母の実家に独占されていることにも不満を持っていたのだろうと、そう思っていた。けれど―――事実は、逆だった。
 母や父の実家は、父も自分たちと同じ意見だと信じて、祖母のやり方に文句を言っていたのだろう。勿論、父にもそういった不満はあったのだろうが、それは、誰かと争ってまで解決するような問題ではなかった。教育のことも、家計のことも、不満をぶつけて軋轢を生むより、祖母の言うとおりにした方がいい、と思っていたのだ。むしろ―――そういう問題で、自分の気持ちや生活が乱されることの方が嫌だったのだ。
 弱腰な父の方からたびたび離婚話が出ていた、と聞いて、なんだかピンと来なかったが、今ならなんとなく想像できる。「勘弁してくれよ、そんなに揉めるなら離婚しようよ」と言い出す父の姿が。

 「ママと上手くいかなくなったのは、おばあちゃんのせいでも、リカのせいでもない。…いや、多分、みんながみんな、ちょっとずつ未熟で、ちょっとずつ努力や妥協が足りなかったせいだよ。特に、パパは―――父親、なんて名乗るだけのことは、なんにもしてこなかった」
 そう言うと、父は、泣き笑いのような笑みに顔をくしゃっと歪めた。
 「ごめん―――もっと早く、リカとこうやって話をすれば良かったな。でも……おばあちゃんが亡くなった時、これからリカにどう接すればいいのか、わからなかったんだよ。パパにとってリカは、ずっと、娘である以上に“おばあちゃんの孫”だったから」
 「…パパ…」
 ―――それは、あたしも、同じだよ。
 父が“父親”にならないまま時が過ぎたのと同じに、理加子もまた“子供”にならないまま高校生になった。そして多分…母も、同じ。祖母が亡くなって、初めて親子3人向き合った時、どうやって“親”をやればいいか、どうやって“子供”をやればいいかわからなかった。“親子”をゼロから始めるには、あまりに理加子が大きくなり過ぎていて。
 けれど、そんな気持ちを、咄嗟には上手く言葉で表すことができない。何と答えればいいか迷っていたら、溜まっていた涙がポロポロこぼれてきた。それを誤魔化すかのように、理加子は慌てて笑顔を作った。
 「あ…あたし、全然、知らなかった」
 「え?」
 「家で、喋ってるとこ、あんまり見たことないから。パパって、こんなに喋る人だったんだ」
 理加子がそう言うと、父は、微かに苦笑した。
 「本当は、あまり喋るのは得意じゃないよ。どうすりゃいいかわからなくて、とりあえず自分のことを喋りまくってるだけで」
 「そ…、う、なんだ」
 「…リカも、パパに言いたいことがあるなら、遠慮なく言いなさい。不満も文句も、いっぱいあるだろう?」
 「……」
 父に、言いたいこと―――たくさんある、と思っていたけど、実は大してないような気もする。テーブルの上の一点を見つめ、暫し考え込んだ理加子は、数秒後、目を上げて答えた。
 「あたしが言いたいことは、この前、パパたちが離婚する、って言った時、全部言ったから。だからあたし―――今日は、パパの話が聞きたくて、ここに来たの。知りたかったから。パパとママがどうして離婚するような状況になったのか、とか、どうして急に別居を続ける気になったのか、とか」
 「じゃあ、今話したこと、少しは役に立った……ってこと、なのかな?」
 「うん。まだ、考えが上手くまとまらないけど―――1つだけ、はっきり言える」
 「ん?」
 「自分自身がもう結婚できる年齢になってるっていうのに、親の離婚に難癖つけるなんて、あたし、凄く子供だったと思う」
 父の目が、意外そうに見開かれる。離婚問題を話し合った時とは正反対に近いことを言うのは、理加子自身、気まずいものがある。が、それが今の、自分の本当の気持ちだ。
 「そりゃ、両親には仲良くいて欲しいし、離婚するなんて聞いたら悲しいし、止めて欲しいと思う。でも、もし自分が結婚して、相手と一緒に暮らすのがどうしても嫌になったとしたら、誰かが“離婚して欲しくない”って言ってるからって、我慢して一緒に暮らし続ける、なんてこと、絶対できない」
 「……」
 「…忘れてたの。パパとママも、あたしと同じ誰かの“子供”で、あたしの両親である前に、ただの男の人と女の人だ、ってこと。子供が小さいなら、簡単に離婚を決めちゃいけないのかもしれない。けど、こんなに大きくなったんなら、もう“親”を卒業したようなものでしょ。いくら子供でも、男女の仲にあれこれ口出しするのは、よくないよね」
 「リカ……」
 「この先、パパとママが離婚しても、このまま別居状態を続けても、それがパパとママ自身のためなら、あたし、もう何も文句言わない。どんな状態になっても、あたしのパパとママであることに変わりはないんだもん。でも……“リカのため”ってのは、やめて。それって、裏を返せば“リカがいるせいで自由にできない”って言ってるのと同じだよ」
 理加子が本心からそう言っていることは、父にもちゃんと伝わったらしい。父は、どことなく寂しげな、けれど少しほっとしたような笑みを見せ、頷いた。
 「わかった。もう一度、よく考えてみるよ。…でもね。リカには信じてもらえないかもしれないけど―――こんな、なりそこないな親でも、子供には苦労をさせたくないし、幸せになってもらいたいと思ってるんだよ」
 100パーセント、信じるなんて、到底できない。
 けれど、理加子は父の言葉に、コクン、と頷いていた。素直に頷ける自分が、自分でも不思議だった。

 数ヶ月前なら、絶対、考えなかったようなことを考え、頷けなかったようなことに頷ける自分。
 どうして変わったのだろう? 何が変わったのだろう? それはは、自分でもよくわからないけれど……1つだけ、わかることがある。
 離婚なんて絶対許さない、と泣いて訴えていた数ヶ月前より、両親の離婚を冷静に受け止められている今の方が、理加子は、両親のことを好きになっている。母と共に過ごし、父とこうして話をして、父や母ではなく「1人の人間」としての彼らを知って、未熟で情けないけれど、どこか憎めないその素顔に触れることができたから。
 もしかしたら、好きになったから―――好きになって、両親の気持ちが理解できるようになったから、離婚に賛成できるようになったのかもしれない。そんなことを、父のほんの少し安堵した顔を見ながら、思った。

***

 ―――や…やっと終わったぁ…。
 答案を提出すると同時に、どっと疲れが押し寄せてきた。はあっ、と大きく息を吐き出すと、理加子は机の上に突っ伏した。
 高校卒業以来の「期末試験」を体験した感想は、ただただ、こんなに大変なものだっけ? の一言に尽きる。さほど真面目な生徒とは言えず、成績もそこそこ程度だったので、高校時代を振り返ってもあまり勉強をしたという記憶がない。あの頃に、この位頑張っていたら、その後の人生も大きく違っていたのかもしれない―――なんて思ったら、なんだか言い知れぬ虚しさを覚えた。
 やっと明日から、夏休み―――といっても、バイト以外の予定が入っていない。もっとも、以前から予定なんてものは元々入っていなくて、その日その日で暇な人間が適当に集まって、いつもと変わらないバカ騒ぎをして、その繰り返しで夏が終わっていたのだが。
 さて、明日からどうしようかな……などと考えていたら、
 「あのー、姫川さん」
 後ろの席から、いきなり声をかけられた。
 振り返ってみたら、真後ろの席ではなく、斜め後ろの席が、声の主だった。名前は忘れたが、前に須賀と再会することとなったあの飲み会の時、女性陣が「○○君が、姫川さんが行くなら行くって言ってるから〜」と言っていた、あの「○○君」だ。
 「…何?」
 個人的に話をするのは、これが初めてだった気がする。幾分身構えつつ訊ねると、名前不詳の彼は、緊張したようなぎこちない笑みを顔に貼り付けた。
 「いや、その、試験終わったし、明日から夏休みだし」
 「……??」
 「で、その……きょ、今日ってこの後、暇?」
 ―――ああ、なんだ、そーゆーことね。
 例の女性陣がこの場面を見ているかどうか、ちょっと気になりはしたが、わざわざ確かめるのも面倒くさい。理加子は真っ直ぐ彼を見、きっぱり言い放った。
 「ううん、暇じゃない」
 「……あ……そ、そう。じゃあ、あの、夏休みの間って、」
 「ずっと暇じゃないから」
 「……」
 実際、“今日は”暇ではないのだ。あまりの取り付く島のなさに呆然としている彼をよそに、理加子は、机の上の荷物を手早くまとめ、ガタン、と音を立てて立ち上がった。
 「じゃ、さよなら」
 「…あ、ああ、うん。さよなら」
 このシーンを目撃したら、例の連中は、どう言うだろう? お気に入りを振ってくれてありがとう、と思うか、はたまた、相変わらず嫌な女、とますます悪口を言うか―――どっちにしろ、好かれようと努力するほどの興味はない連中なので、好きに思ってくれればいい。それ以上、教室の中の様子に目をやることもなく、理加子は学校を後にした。

 

 「夏休みって、何か予定立ててる?」
 隣を歩く須賀から訊かれ、何故かドキリとした。
 「う…うーん、今のところ、特に何も」
 「え、そうなの?」
 理加子を見下ろす須賀の目が、意外そうに丸くなった。何の予定もないなんて寂しい奴、と思われていそうな気がして、妙に焦りを覚えた。
 「うん。バイトあるし。…えっと、須賀君は? 何か予定とかあるの?」
 「いや、まあ、俺もあんまり…。卒論がまだほとんど手付かずだしなぁ…」
 今日、期末試験が終わったばかりの理加子とは違い、須賀はこれから期末試験があり、夏休みは7月末からだそうだ。優也たちの大学もそんな日程なので、それが大学に多いパターンなのかもしれない。
 就職も決まり、特に講義をサボるようなこともせずそこそこ真面目に大学に通っている須賀だが、卒論だけはどうにもやる気が起きないのだという。器用なたちの須賀は、「広く浅く」は得意だが、卒論のような、テーマを絞って「狭く深く」追究するのは苦手なのだそうだ。まだ提出まで時間はあるが、夏休みを丸々のんびりと過ごせるほどの余裕はないのかもしれない。
 「秋吉君は? 彼とどっか行ったりしないの」
 「なんだか、バイト先の夏期講習だか何だかで、夏休みいっぱい忙しいみたい。優也自身の卒研もあるし」
 「ふーん…」
 短い相槌を打つと、須賀は前を向き、暫し黙り込んだ。そして、再び理加子を見下ろすと、予想外なことを切り出した。
 「…姫川ってさ、海、行ったりとかする?」
 「うみ?」
 「そう、海。夏といえば、海だろ。あとプールとか」
 確かに―――夏、と聞けば、思い浮かぶのは青い空と白い波、色とりどりの水着姿が散らばった海岸……といった光景かもしれない。が、いくら記憶を遡ってみても、理加子がそうした光景を実際に見た覚えはなかった。
 「…あたし、海で泳いだことなんて、1回もないかも」
 「えっ」
 「なんかね、イメージじゃないみたい。水着着て炎天下で健康的に泳ぎ回ってるとか、全然似合わない、って、かなーり前に取り巻きの子に言われたことある。実際あたし、日焼けすると水ぶくれっぽくなっちゃうし」
 「ああ…色、白いもんなぁ…」
 「うちの高校、水泳なかったから、最後に泳いだのって中学よね。うわー…あの色気ゼロのスクール水着が最後の水着かぁ…なんか悲しい」
 「だったら、行ってみる?」
 さりげなく―――もの凄くさりげなく言われたので、一瞬、どこに? と首を傾げてしまった。それが、「海に」という意味だと気づいて、思わず立ち止まり、須賀を見上げた。
 「え……っ、あ、あたしと?」
 「うん。せっかく夏なんだし、行ったことないなら、行ってみない? 日焼け気にするんだったら、屋内プールって手もあるし」
 「……」
 「…ええと、嫌、かな」
 返答がないのを否定的に取ったのか、須賀が少し落胆したような顔をした。はっ、と我に返った理加子は、慌てて首をぶんぶん横に振った。
 「う、ううん! そうじゃないの。想像したこともなかったから、ちょっと……ちょっと、呆然としちゃった、だけ」
 「…そんな、呆然とするようなこと?」
 「だって―――モデルやってた時も、“リカのイメージを壊すから、肌の露出の多い仕事はNG”って言われて、水着とかキャミソールなんかの仕事、1回もやったことなかったし、そもそも屋外での撮影もほとんどゼロだったし……太陽とか、海とか、空とか、そういうのとあたしって、なんか似合わないのかもしれないな、って…」
 我ながら、支離滅裂。でも、理加子の気持ちが少しは伝わったのか、須賀はちょっと吹き出し、それから面白そうに笑った。
 「あはは…、うん、とりあえず、別に俺と遊びに行きたくない訳じゃないのは、わかった。えーと、どこに行こうかな……車持ってないけど、レンタルすれば結構遠出も出来るよ」
 「…あたしの行動範囲って、ほとんど都内だから。須賀君が決めてよ。色々知ってるんでしょ?」
 「えっ。あ、いや、言うほど知ってる訳でも―――あ、ほら、例えばあの辺とか」
 そう言って須賀が指差したのは、ちょうど2人が立ち止まった場所にあった、旅行のパンフレットがズラリと並んだラックだった。偶然にも、ちょうど旅行代理店の前で立ち止まっていたようだ。須賀が「あの辺」と言ったのは、どうやら、入り口に一番近い所に置かれたバスツアーのパンフレットのことらしい。
 「海水浴でいくと、やっぱり房総半島かな。白浜とか。レンタカー借りれば、福島の方にでっかいハワイアンリゾートみたいなのがあるし…」

 「―――直人?」

 突如、割って入った声に、須賀の表情が凍りついた。
 声のした方に目を向けると、そこには、パンフレットを山ほど抱えたスーツ姿の男性が、こちらを見て、驚いたように立ち尽くしていた。見た感じから受ける印象からすると、年齢は20代半ばあたりだろうか。旅行代理店の入り口、という場所と抱えている物から考えて、恐らく、この旅行代理店の人間なのだろう。
 “彼”から名を呼ばれた須賀は、理加子より少し遅れて、彼の方に目をやった。その動きは妙にぎこちなく、まるで油を差し忘れたロボットが首を回しているかのようだった。
 「ああ…、やっぱり直人か。びっくりした」
 須賀の顔を真正面から確認した彼は、少し表情を和らげ、数歩、2人の方へと近づいて来た。それに応えるかのように、須賀の顔にも、笑みが浮かぶ―――バイト先やコンパの席で頻繁に目撃したことのある、須賀お得意の営業スマイルだ。
 「…久しぶり。俺もビックリしたよ。ここで働いてるなんて、知らなかった」
 「ああ、お前には言ってなかったもんな。旅行代理店だって話は、聞いてたか」
 「うん、まあ。…どう? 仕事は」
 「まずまずだよ。そういえばお前、来年卒業だよな―――就職は?」
 「大丈夫。もうだいぶ前に内定取ってるよ」
 「そうか。なら、良かったな」
 一見、穏やかな、ありふれた知人同士の会話―――だが、その光景を少し離れた場所から眺めていた理加子は、2人の間に流れる異様に気まずい空気を感じ取っていた。どういう知り合いなのだろう? 声をかけて、紹介をしてもらいたいが、口を挟める空気でもなさそうだ。
 「…で、そっちは、変わりないか?」
 彼に訊ねられ、須賀の眉が僅かに反応を示した。が、微かに笑みを保ったまま、はっきりと1回、頷いた。
 「ああ。相変わらずだよ。そっちはどう?」
 「こっちも相変わらずだ。まあ…なんとか、上手くやってる」
 「…そっか」
 そこで、急に会話が途切れた。落ち着かなく彷徨った彼の視線が、ふいに、須賀の背後にいる理加子に向けられた。
 ―――う…うわ、ど、どうしよう。
 しっかり目が合ってしまい、何故か動揺してしまう。チラリと須賀の様子を窺いつつ、理加子は彼に、軽く会釈をした。すると彼も、ひょい、と僅かに頭を下げ、すぐに須賀の肩の辺りをポン、と叩いた。
 「おい、もしかして、カノジョか?」
 「「えっ」」
 須賀と理加子の声が、被った。思わず顔を一瞬見合わせた2人だったが、すぐに須賀が彼の方を見、焦ったように彼の二の腕の辺りを叩き返した。
 「な…何だよ、急にっ」
 「いや、だって―――凄い美少女じゃないか」
 「…カノジョなんかじゃないよ、まだ」
 ―――“まだ”って、何? “まだ”って。
 理加子の眉がピクリと上がったが、当然、そんな突っ込みを実際に入れることはできない。反射的に顔を少し赤らめる理加子を見て、彼もなんとなく、2人の間柄を察せられたのだろう。それ以上突っ込んで訊くような真似はせず、「そうか」と言ってちょっとだけ笑った。
 「日帰り旅行のパンフレットなら、今、新しいの出してきたから、こっちを持ってけよ」
 彼が抱えていたのが、ちょうど、バスや電車を使った日帰りツアーや割引パックのパンフレットだったのだ。気まずそうにしつつも、須賀は素直に、彼の差し出したパンフレットを受け取った。
 「じゃあ…ちょっと、急ぐから」
 須賀が言うと、彼も引き止めることなく、笑顔を返した。
 「ああ。あの人にも、よろしく言っといてくれ」
 「……」
 その言葉には何も返さず、須賀はぺこりと頭を下げ、理加子に向かって「行こう」と小声で促した。なんだかよくわからないが、理加子も彼に小さく頭を下げ、早くも歩き出した須賀に並びかけるように、速足で歩き始めた。


 なんとなく話がし難くて、暫く、そのまま黙って並んで歩いた。
 今日、一緒に行く約束をしていたファッションビルは、もう目の前にあったが、今の雰囲気で楽しくショッピングなんて無理だ。どちらからともなく、ビルの入り口手前で立ち止まってしまった。
 「…あの、須賀君?」
 「……」
 「さっきの人って…」
 「…うん」
 少し俯き加減だった須賀は、理加子の問いかけに、なかなか答えなかった。が、いつまでも黙っている訳にもいかないので、目だけを理加子に向け、言い難そうに答えた。
 「あの人は、俺の―――俺の、兄貴なんだ」
 「え…っ、須賀君て、お兄さん、いたの?」
 まだ小学生の弟がいる、という話は聞いたが、今まで兄の存在を須賀から聞いたことがない。第一、さっきの話しぶりからすると、あの人物があの店に勤めていることすら知らなかったようだ。兄弟なのに、そんなことがあるのだろうか?
 理加子の疑問は、須賀にも十分わかっていたらしい。少し苦笑すると、今度はちゃんと顔を上げて、はっきりと答えた。
 「兄貴だけど、一緒には住んでないんだ。あの人は、親父の方に引き取られたから」
 「…えっ」
 ほんの2、3日前、父から聞かされた話が、瞬時に頭に浮かんだ。
 父親の方に引き取られた―――それが意味するのは、つまり……。
 「…うちの親、俺が中1の時に、離婚したんだ」
 「……」
 「いわゆる“嫁・姑問題”で揉めに揉めちゃって―――兄貴は長男だから絶対に渡さない、って父さんたちが主張したんで、母さんは俺ひとり連れて家を出たんだ。こっちも再婚したし、あっちも再婚したけど、節目節目に連絡は取ってるから、兄貴が就職したのとかは知ってる。あの店だとは、さすがに知らなかったけど」
 「…そ…そ、っか」
 心臓が、やけに、速い。
 では、父にとって“姫川”が他人の苗字であったのと同じように、須賀にとって“須賀”は、本来は何の縁もない他人の苗字なのか―――当たり前のように呼んでいた名前が、突如として、別の意味を伴って、頭の中に響いた。
 「ま、まあ、今の時代、親の離婚なんて珍しい話じゃないし。そんなの、どうでもいいよな。ごめん、なんか辛気臭い態度とって」
 変に深刻な様子を見せてしまったことに照れたのか、須賀は少し顔を赤らめて、ことさらに明るくそう言った。いつもの彼らしい、陽気な笑顔―――けれど、それを額面どおり受け取ることは、理加子にはできなかった。
 「……あたしも……」
 無意識のうちに、言葉がこぼれ出した。
 「あたしの両親も、離婚寸前なの」
 「……」
 須賀の顔から笑みが消え、その目が大きく見開かれた。須賀のリアクションを見て、自分が何を口にしたのか気づいた理加子は、しまった、と思いつつも、それを撤回せず、更に話を続けた。
 「今、別居中。色々あって、まだ結論は出てないんだけど―――多分、近いうちに離婚ってことになると思う。もしそうなったら、あたし、今一緒に住んでるお母さんと同じ苗字を名乗ろうと思ってるの」
 「え…、な、なんで?」
 「あたしが“姫川”のままだと、玄関の“姫川”の表札、残さなきゃいけないでしょ? 離婚した相手の表札を掲げとくなんて、あんまり気分いいものじゃないと思うし、それに……あたし、嫌いだから。この苗字」
 「嫌い、って…」
 「もう、“お姫様”は、嫌なの」

 お人形のような、左右対称に整った、綺麗な顔。
 可愛いね、綺麗だね、お姫様みたいだね、と言われて育ってきた。“姫”川という苗字も、「お姫様みたいなリカちゃんにピッタリ」と言われた。日焼けなんてあり得ない、ジーンズを穿くなんて似合わない、ロックもパンクもイメージじゃない―――お姫様は、お姫様らしく、高貴で美しい存在であって欲しい。そんな期待をいつも背負わされ、その期待どおりに生きてきた。
 けれど……ずっと、嫌だった。お姫様扱いも、それを象徴するかのような“姫”という苗字も。高飛車なお嬢様を演じれば演じるほど周りは「イメージどおり」と喜んだが、そんな自分が大嫌いだった。
 変わりたい―――そう思って、人形扱いしかしないモデル事務所を辞め、髪を切り、取り巻き連中とも決別したけれど、“姫川”という名はついて回る。
 もし変えられるのなら、変えたい。そう漠然と思っていたが……両親の離婚を肯定的に考えられるようになって初めて、それが実現可能な望みだということに気づいた。
 親の身勝手に振り回されて変わるのではなく、理加子自身が、自分の呼び名を選択できる。それならば―――“姫川”が、ただの父の養父の苗字に過ぎない、とわかった今、“姫川”を選ぶ意味など、理加子にはない。父と苗字が異なってしまうが、逆を選べば母と苗字が異なってしまうのだし、苗字が変わっても、自分が2人の子供であることは変わらない。それで十分だ。

 「名前が変わったからって、中身まで変わる訳じゃないのは、わかってるけど……名前が変わることで、気持ちや見方が変わることだって、あるかもしれないでしょ」
 「…うん。そうかもな」
 そんな理由で名前を変えたいとかアホか、と一蹴されてもおかしくないのに、須賀は、神妙な面持ちで理加子の言葉を聞き、頷いた。詳しいことまではわからないが、理加子が、これまでの自分のキャラクターに強いコンプレックスや嫌悪感を持っていることは、十分理解してくれたらしい。
 「ちなみに、なんて名前になるの?」
 「伊藤。普通でしょ」
 「伊藤、かぁ……びっくりするほど普通だな」
 そう言うと、須賀は小さく息をつき、微かに笑った。
 「じゃあ、今のうちから“リカ”って呼ぶようにしといた方がいいな。いきなり“伊藤”とか呼んでも、ピンと来ないし」
 初めて名前で呼ばれて、ちょっとドキリとした。
 他の人からは、当たり前のように呼ばれているのに―――むしろ、“姫川”と呼ぶのは、今では須賀ただ1人だけだったのに。当たり前の呼び名に、こんなに胸がザワつくとは思わなかった。
 「……じゃあ、あたしも、名前で呼ぼうかな」
 「えっ」
 「あたしだけ名前で、須賀君だけ苗字って、変じゃない? だからあたしも、名前にする。“直人”とか“直くん”とか」
 「な……“直くん”、か……幼稚園以来だな、それ」
 そう言って、須賀は力が抜けたような笑い声を立てた。が、どことなく、少し嬉しそうな顔をしていた。


 本当は、色々聞いてみたかったけれど。
 兄との間の、あの妙に気まずい空気の理由とか、今の話に全く出てこなかった「弟」のこととか―――いつも朗らかな須賀が、別人のように顔を強張らせたから、気になって仕方ないけれど。
 でも、今は、いい。この先、ゆっくり聞けばいい―――そんなことを思いながら、理加子は、初めて差し出された右手を、ためらいがちに握り返した。


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