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― 正義の味方 -1- ―

 

 ……眩暈がする。
 目を閉じると、瞼の裏で、赤や黄色がくるくる回る。目を開けても、その残像が壁や机の上にちらつく。

 「…気持ち悪い…」
 青い顔をしてポツリと呟く優也を見て、さすがに蓮も心配げに眉をひそめた。
 「大丈夫か? ほんとに」
 「…大丈夫。ちょっと熱中しすぎただけだから」
 「いい加減、ほどほどにしとけよ。こんなフラフラになってまで、バイト先の先生の趣味に付き合わなくても…」
 蓮がそう言うのも無理はない。まったくそのとおり、優也が付き合う義理など、何もないのだ。なのに、必要以上とも言えるほどに付き合ってしまっているのは―――早い話、「楽しいから」だ。
 「でも…穂積も面白いと思ったでしょ? あのゲーム」
 「うん、まあ…でもなぁ…そんな青い顔して動作テストに付き合われても、本人も困ると思うぞ?」
 「……」
 反論の余地なし。優也は、青い顔のまま少し顔を赤くし、俯いた。そのせいで、蓮からは優也の顔色が得体の知れない色に見え、一瞬、何か悪い物でも食べてしまったのか、と、今平らげたばかりのファミレスの夕食にあらぬ疑いをかけてしまったのだが―――自分の顔色など、優也にわかる筈もなかった。


***


 優也が、偶然知り合った塾の数学講師・安城の“その趣味”を知ったのは、アルバイトを始めて間もなくの頃だった。

 「おっ、秋吉君、まだいたの?」
 その日の勤務時間もあと数分で終わる、という頃、講師室に、授業を終えた安城が戻って来た。昨日まではもっと前に帰宅していた優也が、夜9時近くになってもまだ居残っていることに、少し驚いた様子だった。
 「はい。昨日までは研修みたいなもので、今日から正式スタートなんです」
 「あ、そうか。そういやぁ塾長がくっついて何やら説明してたっけ」
 優也の仕事は、主にコピーを取ったり書類や答案を封入したりといった雑用が多い。が、他の主要スタッフの手が離せないと、電話番や見学者の案内、入塾希望者への応対など、優也が苦手としそうな仕事もしなくてはいけない。ここ数日は、主にそういった“接客”的な仕事について、塾長自らレクチャーしてくれていたのだ。
 「塾長の教え方は細かいからなー。大変だっただろう?」
 苦笑しつつそう言う安城に、優也は、とんでもない、とでも言いたげに大きく首を振った。
 「いえっ、そんな…。むしろ、一番偉い人にたかがバイトの指導をさせるなんて、凄く申し訳ない気分だったんですけど…」
 「ああ、気にすることないよ。うちはいつもそうだから」
 「教えたがりなのもあるけど、実際、うちで働いてる人間の中じゃ、塾長が一番暇だからねぇ」
 安城と優也のやり取りを聞いていた別の講師も、カラカラ笑いながらそう言った。仮にも塾長に対してその言い草はないんじゃないか、と心配になったが、その場にいた他の講師も、彼らに苦言を呈するでもなく、ただ黙って笑っていた。
 ―――でも……ちょっと、先生たちにこう言われても、無理ないよなぁ。あの塾長さん。
 日中、他の社員や派遣スタッフがちゃんといたのに、塾長は、「いいからいいから、僕が教えるから」と言って、嬉々として電話応対の仕方やら接客の仕方やらを教えてくれた。自分の仕事は大丈夫なのかな、と内心心配していたのだが、その心配は的外れだったらしい。何故なら、6時になって優也の指導を終えた塾長は、そのまま帰宅してしまったからだ。
 本校があり分校があるような大手で、塾長も本校から派遣されてきた「サラリーマン塾長」(某講師談)だと、個人経営の塾の塾長とは、随分事情が異なるのだろう。ともかく、ここ数日の講師や事務スタッフ、そして塾長の様子を見ている限り、ここで一番仕事がなさそうなのは、間違いなく塾長だ。
 「受験本番が近づいてくると、一番ピリピリして凄まじいオーラを放ってくれるんだけど、まだ夏だから余裕ありげだよな」
 「この間の模試の結果次第では、夏でも神経尖らせるんじゃないかしら。今年のペガサスコース、去年より若干振るわないみたいだし」
 「まあ、塾長が暇そうにしててくれる方が安心ってことだ。塾長が忙しそうにしてるってのは、イコール、講師の出入りがあるか、経営面や実績面で何かトラブルが起きてる時な訳だから」
 他の講師たちが、そんな世知辛い話題を始める中、話題の発端である安城は、その話し合いには加わらなかった。鼻歌混じりに優也の向かいの席に着くと、机の上のノートパソコンの電源を入れた。他の講師は既に帰り支度を始めているのに―――今からパソコンで何をするのだろう? と優也は軽く首を傾げた。
 「あの…まだ、お仕事ですか?」
 「ん? あ、いや、仕事はもう終わりだよ。ここからは趣味」
 「趣味?」
 「見てみるかい?」
 そう言うと、安城は「おいでおいで」という風に優也を手招いてみせた。バイト中に趣味に付き合うのもどうかと一瞬迷ったが、特に頼まれている用事もないので、素直に席を立ち、安城の傍らに移動した。
 何が出てくるんだろう、と画面を覗き込んでいると、数秒後、液晶ディスプレイの真ん中に、カラフルな四角形が積み上がった画像が、軽快な音楽と共にパッと映し出された。そして、数々の四角形に被さる形で、ソフトのタイトルと思しき文字が、ウインドウ上部からスライドインしてきた。
 「……“ゼロリス”??」
 実際には英語で“Zero-ris”とある。なんだか、どこかで聞いたような、聞いたことのないような、妙なタイトルだ。しかも―――背景として映っているカラフルな四角形は、その「どこかで聞いたようなタイトル」を彷彿とさせている。
 「そう、“ゼロリス”。見てのとおり、発想のベースはあの“テトリス”だよ」
 テトリス―――いわゆるテレビゲームの類を禁止されていた優也にとっては、ソリティア、マインスイーパーと並ぶ、数少ない「高校時代に遊んだゲーム」の1つだ。反射神経の求められるゲームが苦手な優也にとっては、正直、あまり得意なゲームではなかったが。
 「これは2、3年前に作ったバージョン1.0」
 「え、安城さんが作ったんですか?」
 優也も一応、大学で専門外のプログラミングの講義をずっと取っている。昨年度は、1年間でゲームソフトか実用ツールを1本完成させる、という課題を与えられて四苦八苦した。蓮がそういったものを作るのが比較的好きな方なので、今も時々それに付き合ってはいるが、優也自身はあまり自分には向かないと思っている。作業自体は楽しいのだが、既存のソフトとは違うものを作りたくても、そのアイデアが思い浮かばないからだ。
 「へえぇ……安城さんの趣味って、ゲーム作りだったんですね……凄いなぁ」
 思わず優也がそう呟くと、安城は目を丸くし、それから大笑いした。
 「えぇ? 別に凄かぁないよ。素人が作ったフリーのゲームソフトなんて、ネット覗けばゴマンと転がってるだろう?」
 「いえ、僕なんて、プログラミング例で載ってるゲームの真似をするのがやっとで、オリジナルを思いつくだけの引き出しがないんです」
 「おっ、ゲームプログラミング経験者か。嬉しいなぁ。まあまあ、座って座って。えーとね、“ゼロリス”はその名のとおり、“テトリス”をベースに飽くまで“算数”を持ち込んだもので―――はい、ゲーム画面は、こんな感じ」
 仲間を見つけたような気分にでもなったのか、やけに嬉しそうにいそいそと説明を始めた安城は、そう言いながらオープニング画面の「スタート」の文字をクリックした。すると、“STAGE-1”という文字が現れ、予想通り、画面上部からブロックの塊がゆっくり落ちてきた。あの“テトリス”と同じだ。
 ただ、始まってみて、ん? と思った点が、2つ。1つは、優也の知る“テトリス”より、ブロックが落ちてくるスピードが尋常じゃないほど遅い。そしてもう1つは―――4つのブロックに、それぞれ、数字が1つずつ書かれている。
 「特徴は、見てのとおり、ブロック1つ1つに1から9の数字が書かれていること。これを、“テトリス”と同じ要領で積み上げていくんだけど……“テトリス”は、横1行ブロックが並んだら消える、っていう方式だろう? でも“ゼロリス”は違う。横か縦、どちらでもいいから、並んだ数字の合計の下1桁が“ゼロ”になったら消えるんだ」
 「ゼロ?」
 「そう。あ、ほら、ちょうど来た」
 説明しているところに、2×2のブロックの塊が落ちてきた。上段に1と2、下段に3と2、が書かれている。最初に落ちてきて既に下に積まれているブロックは、4×1のタイプで、6、2、5、9の横並びだった。
 「さっきのブロック、右に寄せて落としちゃったから、左端の6の横に並べるか、上に積むか、だよね。ブロックは、数字は回転せず、この並び方のまま塊ごと時計回りに回転するんだ。となると、6の上か隣に2・2か3・1を落とすか、5の上に3・2を落とすか…」
 ぶつぶつと言いながら、結局安城は、新しい塊を1度回転させて、上段が3と1、下段が2と2、の状態にして、5と9の上に落とした。
 すると、ピコン、という音と同時に、元々5があった列が、綺麗さっぱり消えてなくなった。
 「はい、5の上に2と3が積まれて、合計10になったから、この列はクリア」
 「あ。だから“ゼロリス”なのか…」
 やっと「“ゼロ”になったら消える」の意味が、ビジュアルを伴って理解できた。と同時に、ゲーム名に込められた意味もわかった。“テトリス”に似ていて「“ゼロ”になったら消える」から、名前ももじって“ゼロリス”なのだろう。
 「今みたいに、手っ取り早く10にしてさっさと消しちゃうのも手だけど、わざと切りの悪い数字にしといて、20や30にしてから消す、ってのもアリだよ。合計が大きいと、その分のボーナスポイントがつくから」
 「う……結構難しそうですね」
 超ノロノロ進行なので計算するだけの時間は十分あるが、これで積まれているブロックの数が増えてきたら、相当大変そうだ。全部の行や列が今合計いくつになっているか、なんて把握しきれる訳がない。優也なら、特定の1列か2列だけを常に把握しておいて、そこだけ消していくやり方に終始しそうだ。
 「きついのは作っててわかったから、1ステージで落ちてくるブロックの数をかなり少なくしてるし、形も2×2と4×1だけに絞ってるんだけど―――うーん、それでも最終ステージに到達するのは相当難しいし、何より、落下スピードを緩くしたせいでテンポの悪いゲームになっちゃってるのが、なぁ……。で、考えた末に、今年の頭に完成したのが、こっちのバージョン1.5」
 そんな説明と共に起動された“ゼロリス バージョン1.5”は、オープニングの見た目はほとんど変わっていなかった。ただ、ゲームがスタートすると、違いは一目瞭然だった。ゲーム画面上に既に何個かブロックが落とされていて、かつ、落ちてくるブロック数が少なくなり、落ちてくるスピードも速くなっていたのだ。
 「スピード感もある程度出したい、なおかつ、しっかり計算もさせたい、と考えた結果、やっぱり4つも落ちてくるのは難しい、って結論になってね。行き着いたのが、1×2。落ちてくるのはこの形だけ。回転させれば4通りの配列になって、そこそこ使い勝手もいいんだよね。その代わり、序盤がだれちゃうんで、始めからランダムでブロックを10個落としてある状態にしてるんだ」
 「ああ、だから、もうブロックが並んでるんですね」
 「そう。これで、かなり遊べるレベルにはなったけど、安全パイを狙えばあっさりクリアできちゃう部分もあるから、今はその辺の改良中。一定条件が揃うとお邪魔ブロックが降ってくるとかね」
 「じゃ、安城先生、失礼しますよ」
 安城の快調な“ゼロリス”解説に、急に画面の外から声が割って入った。
 そういえば、ここは仕事の場だった、と今更ながら思い出し、顔を上げる。と、先ほど塾長について冗談めかしたことを言っていた講師が2名、帰り支度を終え、帰宅しようとしていた。
 「あ、はい、お疲れ様でした」
 安城が笑顔でひょこっと頭を下げると、2人の講師も軽く頭を下げ、いそいそと講師室を出て行った。その向こうでは、他の講師も次々に帰り支度を終え、近くにいる事務スタッフや講師などに挨拶をしながら出て行っていた。その様子を見ていたら、ふいに、疑問が湧いてきた。
 「……このパソコンって、安城さんの私物ですよね?」
 「勿論そうだよ?」
 「……あの、だったらどうして、家でやらないんですか?」
 他の講師を見る限り、皆、残っている仕事がなさそうなら、さっさと家路に着いている。そんな中で、趣味であるゲーム作りのために居残る、という安城の行動は、どうにも不可解だ。
 すると、安城からは、予想外な答えが返ってきた。
 「あー、家ね。家はねぇ、どうにも誘惑が多くて」
 「ゆ、誘惑?」
 「うん。録り貯めたテレビ番組とか、読みかけの雑誌とか、レベル上げしてる最中の某RPGゲームとか」
 「あ、ああ…そういう“誘惑”、ですか」
 一体どういう“誘惑”なのかと一瞬動揺しそうになったが、説明を聞いて、大いに納得できた。優也も、いざ卒研に取り組もうとした時に限って、読みかけのままずっと探していた本がベッドと壁の隙間から見つかって、読みたい誘惑に負けたりしている。よくある話だ。
 「それに、隣の部屋で、妹が遅くまで彼氏とベラベラベラベラ長電話してて、集中できないし。同じ高校に通ってるのに、また夜電話で何時間も話すって、よく話すネタが尽きないよなぁ」
 「はあ…」
 「まあ、それやこれやで、家だとなかなか集中できないんで、大体毎日、1時間か2時間は居残ってここでゲーム制作をやってるんだよ。大学進学コースの先生たちが帰る頃まで居残ると、ちょうどいい感じで集中できるんだ」
 「……」

 ―――なんか、変な話だなぁ。
 趣味、ってことは、「やりたいこと」だし「やらなくても問題ないこと」の筈なのに、「誘惑に負ける」って―――そういう表現って、普通、「やらなきゃいけないこと」がある時に使うんじゃないのかなぁ? たとえば、僕の卒研みたいに。

 趣味なのに「やらなきゃいけない」状態に追い込まれている、ということなのだろうか? などと、優也が密かに首を傾げていると、ふいに、画面ばかり睨んでいた安城の目が、優也に向けられた。
 「あ、そうだ。秋吉君」
 「はい?」
 「この後、まだ時間ある? もしよかったら、キミもちょっとやってみない?」
 「え…っ、やってみる、って、ええと、何を…」
 「そりゃあ勿論、コレだよ」
 コレ、と言って安城が指差したのは、当然ながら、画面の中でスタートボタンが押されるのを待っている“ゼロリス”だった。
 「難易度調整の参考にさせてもらうために、友人・知人含めて大抵の人にはお願いしたけど、現役理数系大学生ってサンプルはまだ1人もいないんだよね。どんなもんか、ちょっとやってみてくれない?」
 「で、でも、あの、僕、数学は得意でも、ゲームはあんまり得意じゃないですよ?」
 「いいよいいよ、得意じゃなくても。ね? 是非是非」
 「…はあ…」


 まあ、別に、この後何か予定が入っている訳でもないし。
 空腹ではあるけれど、どうせすぐゲームオーバーになるから、夕飯のことは別に考えなくてもいいか。

 そんな風に考え、優也は、安城の頼みを軽い気持ちで引き受けたのだが―――これが、大きな間違いだった。
 あっさりゲームオーバーになる筈だった“ゼロリス”を、優也は、初挑戦にもかかわらず、全10面中8面まで進めた。惜しい、もう1回―――これが繰り返され、この2日後、優也はようやく、全面クリアを達成したのだった。

***

 「ほえぇ〜、偉いですねぇ、秋吉君」
 感心したように頷きつつそう言う真琴を、優也はゲンナリ顔で軽く睨んだ。
 「…どこが偉いんですか。趣味のゲーム作りの実験体になってるだけなのに」
 「初めての挑戦で10面中8面まで行けるだけでも偉いけど、そこまでスンナリ到達できたのに、2回目が4面までしかいけなかったら、ワタシなら間違いなくその時点で諦めてしまうナリよ。それでも心折れずに全面クリアまで繰り返し挑戦したなんて、秋吉君は偉いナリよ〜」
 「…諦めが悪いとか、他では弱気な癖に妙なところで負けず嫌いとか、そういう評価になりそうな気がするんですけど…」
 優也自身、たかがゲームで何をやってるんだ、と呆れている部分があるので、いくら真琴に感心されても、すんなりそれを受け入れる気にはなれない。が、真琴は、優也の突っ込みをものともせず、胸を張って主張した。
 「ゲームだろうが何だろうが、最後までやり通すのは、良いことなのです! 妙なところ、などと卑下せず、貫徹したことを誇るべきですっ!」
 「……」
 「ちなみにワタシは、“テトリス”の2面で挫折した猛者ナリよ。自慢じゃないけど、時間制限のあるゲームをクリアしたことは、生まれてこの方、一度もないのです」
 計算は速いがホワイトボードに数式を書くのは遅い真琴なので、ああしたゲームが優也以上に苦手なのは想像に難くない。なるほど、それでやけに、優也が全面クリアしたことを持ち上げている訳だ。逆の立場なら、自分も同じことを言いそうな気がして、優也は思わず苦笑した。
 「僕も、“テトリス”は最終面をまだ拝んだことがないですよ」
 「あれ、そーなのですか」
 「ブロックの数が鍵なのかなぁ…。“テトリス”より“数学パズル”っぽいところが合ってたのかもしれないし。あ、そういえば、やってて“これ、速算のトレーニングに使えそうだな”って思いましたよ」
 「ふーん…やっぱり、数学の先生が作ってるから、そういう要素があるのでしょーかねぇ」
 「……あ、」
 その時、真正面の席に座る真琴の背後に、蓮の姿が見えた。どうやら教授との話が終わって学食に戻って来たらしい。
 優也たちをまだ見つけていないらしい蓮に知らせるために、優也は少し腰を浮かし、蓮に向かって手を振ってみせた。すると、蓮もそれにすぐ気づき、こちらにやって来た。
 「思ったより早かったね」
 優也が言うと、蓮は、優也の隣に腰掛けつつ、うん、と頷いた。
 「あんまり話すことなかったし」
 「教授、なんて言ってた?」
 「このまま続けろって」
 「えっ。それだけ?」
 「うん」
 涼しい顔で蓮は言うが、優也からすれば羨ましいを通り越して妬ましいレベルの話だ。思わず、大きなため息をついてしまった。
 「えー…いいなぁ…」
 「穂積君の卒研って、テーマ、何だっけ?」
 蓮は卒研の途中経過の報告のため研究室に行っている、と聞かされていた真琴にも、「このまま続けろ」の意味がすぐわかったらしい。さすがに驚いたのか、興味津々の目で蓮に問いかけた。
 「“位相幾何学的に見た音の解析手法”です」
 「音かぁ…。難しいのを選んだのに、教授からのお小言ナシですか。いいですねぇ…」
 「音響の専門でもないんで、採点が甘いだけでしょう。幾何音響学の入門編みたいなもんですし」
 入門編、と蓮が称するとおり、蓮の最終目標は「解析ソフト・シミュレーションソフトを作る」ことであり、今回はそれを実現するところまでは行っていない。が、具体的解析方法や数式がみっちりと説明されていて、まだ途中とはいえ、優也から見ても見応えのある内容となっていた。採点が甘い、などと蓮は謙遜しているが、教授が何も言わなかったのは、それだけ中身のあるものだったからだろう。
 これからも追究していきたい明確なテーマがある、という点では、このままだと大学院確定の自分より、蓮の方が、大学院に進む意義があるように思える。
 「穂積こそ、大学院に進んで、そっちの勉強続けたらいいのに」
 つい、優也がそう口にすると、蓮は、ちょっと不思議そうな顔をし、それから優也の意図を理解したように微かに笑った。
 「俺は、研究がしたいんじゃなく実践がしたいんだ」
 「実践、か…」
 実践とはすなわち、スピーカーを作ること―――その原動力は、多分、「あの人」の歌声。
 はっきりとは言わないが、蓮を見ていればわかる。蓮がスピーカーに興味を持ち出したのは、“Jonny's Club”に置かれていた年代物のスピーカーと出会ったから。そして、そのスピーカーを通して聴いた咲夜の歌声に魅了されたからだ。他の店やライブハウスでも咲夜の歌声を何度も聴いたが、あの店のスピーカーで聴く歌声が、一番彼女らしく聴こえる、と蓮は言っていた。あのスピーカーを超えるのが、蓮の目標なのだろう。
 ―――そういう、原動力、みたいなのが、今の僕には、まだないんだよなぁ…。
 卒研こそ「万華鏡と位相幾何学」というテーマを掲げてはいるが、そのテーマにした動機は、単に「面白そうだから」にすぎない。生涯それを研究し続けたいか、と問われたら正直イエスとは答え難いし、他に何かテーマはあるか、と問われたら、答えに窮してしまう。
 「そういえば、秋吉は、教授に何て言われたんだ?」
 売店で買ってきたらしいブリックパックにストローを刺しつつ、蓮が訊ねる。優也と入れ替わりで教授に相談に行ったので、結果を聞いていなかったのだ。真琴には二度目になってしまうのが気まずいが、ボソボソと答えた。
 「…実はこの前、進み具合はどんな感じか、ってもう教授に訊かれてたから、今日は実物見せただけで、アドバイスそのものはほとんど前と一緒だったんだ」
 「前って?」
 「去年のマコ先輩の卒研を意識しちゃうのは仕方ないけど、変に違うものにしようとする必要はないぞ、って」
 「…なるほど」
 「そーですよ。同じテーマなのですから、内容がほぼ同じになるのはトーゼンなのです。ワタシの卒研も、じゃんじゃん参考にでも踏み台にでもすれば良いのです」
 逆の立場だったら、同じこと言えますか? …と言ってみたい気がするが、さすがにその勇気はない。卒研の話をこれ以上続けると墓穴をどこまでも掘ってしまいそうだ。早く別の話に移らなくては、と焦った優也の脳裏に、うっかり忘れていたことがタイミングよく浮かんできた。
 「あ…そっ、そうだ。参考で思い出した。先輩と穂積に、ちょっと頼みたいことがあったんだった」
 「頼みたいこと?」
 優也の唐突な申し出に、2人は同時に、キョトンとした顔になった。

***

 「よしよし、えー、穂積君は6面でギブアップ、と。ポイントは……お、結構いったね。秋吉君よりちょっとだけギャンブルするタイプかな」
 嬉々としてメモを取る安城の隣で、“ゼロリス”初挑戦の蓮が、疲れ果てたように大きく息をついた。傍目にもゲームに集中しきっていたので、その疲労の程は想像できる。安城に気を遣われないよう、優也は小声で「お疲れ様」と蓮を労った。
 そう、頼みたいこと、とは、“ゼロリス”のことだった。初の現役理系大学生サンプルである優也に、「友達とかにも試してもらえないかな」と安城が頼んだのだ。
 塾の近所ということもあり、真琴のバイト先であるフードコートの一角で、真琴の休憩時間に合わせて行われた“ゼロリス”レビュー会(と勝手に安城が銘打った)は、真琴が2面で、蓮が6面でゲームオーバーという結果に終わった。あっという間に終わってしまった真琴は、既に席にはおらず、カウンターの向こうで納得のいかない顔のままホットドックの補充作業をしている。あの様子では、接客態度に支障が出ないか心配だ。
 「うーん…やっぱり、同年代で得意分野の似通った人の中で比較しても、相当な個人差があるもんだなぁ。さっきの藤森さんに合わせるか、それとも秋吉君や穂積君に合わせるかで、難易度が大きく違ってきちゃうよ」
 「確かにそうですね…」
 「いやー、ほんと、いい参考になったよ。ありがとう」
 満足気な笑顔の安城は、そう言ってノートパソコンを閉じ、少々慌てた様子で荷物をまとめ始めた。
 「もうちょっと色々聞きたいところなんだけど、次の授業の準備があるんで、僕は失礼させてもらうよ。ええと、秋吉君は今日はバイトじゃないんだっけ? 次っていつ?」
 「えー…次は、明日です」
 「そっか。悪いけど、明日も帰りにちょっと付き合ってくれるかなぁ? 今日の結果を踏まえて、お邪魔ブロック降らせるタイミングを調整してくるんで」
 「…あ…は、はい。いいですよ」
 知らず、笑顔が微妙にひきつる。蓮は、そんな優也の様子に気づいて、少しだけ呆れたような顔をした。が、安城本人に苦言を呈するほど呆れている訳ではないらしく、すぐに普段の表情に戻り、安城に軽く頭を下げた。
 「たい焼き、ご馳走様でした」
 「あー、いやいや、お礼なんていいって。こっちが頼んだんだから。ところで―――…」
 改まって礼を言われたことに照れた様子の安城だったが、ふいに表情を変え、荷物を抱えたまま、そのヒョロリと高い背を縮め、小声で2人に訊ねた。
 「藤森さんて、どっちのカノジョなの?」
 「え?」
 「……は?」
 優也と蓮の声が、ハモった。が、そのニュアンスは、少し違っていた。優也は本気で意味のわかっていない「え?」で、蓮は意味を理解した上で「何を言っているんだ」という意味の「は?」だ。
 蓮の方の反応で、どうやら自分の質問が的外れだったことに気づいたのだろう。安城はあれっ、という顔をして、屈めた腰を伸ばした。
 「えっ、違うの? てっきりそうかと…」
 「なんで、そう思ったんですか?」
 「いや、その、休憩入った藤森さんがこっちに駆け寄ってくる時、なんか、もの凄く嬉しそうな、ウキウキした顔してたように見えたから」
 「……」
 「秀才カップルか、凄いなー、とか、勝手に思い込んで……あ、あははははは、ごめんごめん、変な勘違いして」
 まだポカンとしている優也と、大変迷惑だ、という顔の蓮を前に、安城は焦ったように大笑いした。そして、突っ込みを入れられる前に退散すべし、とばかりに、じゃあまた、と言って慌しくその場を去って行った。
 「…嬉しそうにしてたっけ? マコ先輩」
 「さあ?」
 安城や真琴の休憩時間がどの程度残っているのか、とそればかり気にしていた優也は、真琴がどんな顔をして駆け寄ってきたかなんて、全く覚えていない。でも、そんな話を聞いてしまうと、急激に気になってきてしまう。
 「も、もしそうだとしたら、なんでそんな顔したんだろう? テストプレイ頼んだ時も、あんまり得意じゃないから、ってちょっと渋ってたのに」
 「さあ?」
 「でも、普段大学で会った時なんかは、そんな嬉しそうな顔しないよね? なんで今日に限って? 話に聞いてた安城さんの実物見れるから、とか?」
 「…俺にはわからないよ。マコ先輩本人に訊けば?」
 一人、あれこれ想像を巡らす優也をよそに、蓮は涼しい顔でそう言い、食べかけのまま放置されていたたい焼きを再びほおばった。俺に訊くな、というところだろう。ごもっともだ。
 「それより、あれって本当に趣味なのかな」
 口をもぐもぐさせつつ、蓮が、安城が歩き去った方角を流し見て、そう呟いた。
 「あれって?」
 「ゲーム。テストプレイしてもらってゲーム難易度の調整するのは、別におかしいことじゃないと思うけど、趣味にしては徹底しすぎじゃないか?」
 「…そう言われてみると、確かに…」
 詳しいことは聞いていないが、安城の口ぶりから、知り合った人の大半に“ゼロリス”をやってもらい、その結果を参考にゲームの改良や調整を行っているらしいことは、想像に難くない。ゲームにデバッグやテストプレイはつきものだが、個人の趣味で、しかも1人で作っているもの(しかも内容は比較的単純なパズルゲームだ)に、そこまで念入りなテストをするのは、稀なのではないだろうか?
 「もしかして、商品化狙ってるとか? いや、それはなんか安城さんらしくないし…うーん…」
 「まあ、何でもいいけど、別にテスターとして雇われてる訳でもないんだし、居残りテストもほどほどにしとけば?」
 「……」
 「あれ、さっきの人、帰っちゃったのですか〜」
 突如、真琴の声が頭上から割って入ってきた。ギョッとして2人揃って顔を上げると、店名ロゴの入ったエプロンを着た真琴が、キョロキョロ辺りを見回しながらそこに立っていた。
 「マ、マコ先輩、バイトは…」
 「お客さんがいないので、イートインコーナーの片付けに出て来たのですよ〜」
 「そ、そうですか」
 少し前の話題が真琴だったことを思うと、かなり心臓に悪いシチュエーションだ。まさか聞かれてはいないだろうが、バクバクいう心臓を押さえ、優也は密かに深呼吸をした。
 「むむぅ…悔しかったのでもう1回チャレンジしようかと思ったのに、帰っちゃったみたいですねぇ…残念ナリよ」
 「仕事中にそんなことしたらクビになりますよ」
 蓮にそっけなく言われ、真琴はますます「むむぅ」と口を尖らせた。
 「そう言う穂積君は、何面まで行ったんですかっ」
 「6面でした」
 「や…やっぱりワタシが最下位ですか〜〜〜。もー、なんでこう、頭で考えたことが手に伝わるまで、人の何倍も時間がかかるんだろう? 自分が情けないナリよ〜〜〜」
 日頃は平然としているが、やはり真琴は真琴で、スローすぎる自分自身にそれなりのコンプレックスを抱いているらしい。嘆く姿はコミカルだが、その口調はあながち冗談とも言えなそうだ。
 多分、複雑な計算をさせたらこの3人の中で真琴が一番早く答えを出すが、その計算過程や答えを紙に書く速度が致命的に遅いせいで、書き終えるタイムは他の2人とトントンか、最後になるだろう。“テトリス”も、ここに当てはめればいい、という判断はすぐにできるが、そこにブロックを移動させるのに時間がかかってしまい、時間切れで意図しない場所にブロックがはまってしまうのだと言う。“ゼロリス”が2面序盤で終わったのも、ほぼ同じ理由からだ。
 「贅沢は言わないから、せめて秋吉君か穂積君の半分くらいの反射神経が欲しいナリよ…」
 本気でそうため息をつく真琴に、優也は慰めるでもなく、これまた本気でこう声をかけた。
 「うーん、マコ先輩は、今くらいがちょうどいいと思いますけど」
 「えっ」
 「このノンビリした感じが“マコ先輩”だから―――計算も行動も速いテキパキしたマコ先輩なんて、想像つかないです。もしマコ先輩がそんな風だったら、ちょっと嫌味で可愛くない…か…も…」

 テキパキしてたら、可愛くない。
 そう口にして初めて、その言葉は、裏を返すと「ノンビリしているところが可愛い」とも取れる、ということに、気づいた。

 しまった、と思って言葉を曖昧にぼやかしたが、時既に遅し。小首を傾げた状態の真琴は、いくら鈍感な優也でもはっきりわかるほど、驚いた顔で頬を赤くしていた。
 「あ、あの、その、だから、ホラ、なんていうか、非の打ち所のないスーパーマンの方が、いわゆる“勝ち組”にはなれるのかもしれないけど、たとえパッとしなくても“愛されるキャラクター”であった方が、最終的には幸せな人生送れると思いませんかっ!?」
 「え…っ、あ、ああ、う、うん、そーですね」
 「ぼ、僕もお世辞にもテキパキしてるタイプではないですけどね」
 「う、うん、でも秋吉君も、そのノホホンとしたムードで“愛されるキャラクター”になれてる部分もありますね、きっと」
 「ですよね。アハハハ」
 「アハハハハハハ」
 「…俺、月見そば買ってくる」
 異様なテンションで乾いた笑いを交し合う2人を完全無視で、蓮は、たい焼きの入っていた袋をくしゃっと丸め、席を立った。勿論、内心では「何やってんだこの2人」と呆れているのだが、口に出すほど野暮ではないのだ。
 蓮が席を立ったことで、その場に漂っていた妙な空気が、上手く消えてくれた。ホッと胸を撫で下ろす優也に、こちらも少し落ち着いたらしい真琴が、くすっと小さく笑った。
 「実質、1面しか遊べなかったけど、なかなか面白かったデスね、あのゲーム。秋吉君が惜しいところまで行って“もう1回”ってなった気持ち、ちょっとわかったナリよ」
 「でしょう? 面白いですよね」
 「うん。でも、そっかー…あの人が“安城さん”だったのかー。何度も顔見てるのに、ちっとも気づかなかったナリよ」
 「え、マコ先輩、安城さんのこと知ってたんですか?」
 「このフードコーナーの常連さんなのですよ。甘いものが好きみたいで、しょっちゅうたい焼き買ってるし」
 考えてみれば、安城と初めて出会ったのも、このフードコーナーだったのだ。塾の近くにあるのだし、軽食からおやつまで幅広く取り扱っているのだから、安城が常日頃から愛用していても不思議ではない。
 「やっぱり、常連さんの顔って、覚えちゃうものなんですね」
 感心したように優也が言うと、真琴はちょっと困ったように笑った。
 「うーん、ワタシも、常連さんなら必ず覚えられる、って訳でもないのですよ〜。中高生とか工事現場の人とか、同じ服着た集団だと、顔のインパクトがなくて、服しか頭に残らないのです」
 「あ…なるほど」
 「それに、あの“安城”さんは、ちょっと印象に残っていたのです」
 「えっ。そんなに印象に残るような風貌でもない気がしますけど…」
 「あー、風貌じゃなくてね。あの人、よく小学生くらいの子供を1人か2人連れて、ここに来るのですよ」
 「子供?」
 「若いお兄さんが、、小学生と一緒にたい焼き買いに来る、なんて、あんまりないですからね〜。しかも、イートインコーナーで、パソコン開いて子供と何かやってるし。子供の顔までは覚えられないけど、どういうグループなんだろう? と前から不思議に思ってたのですよ。塾の講師だってわかって、ちょっと納得ナリ。あれはきっと、生徒さんですね〜」
 「……」

 その話を聞いて、脳裏に浮かんだのは、初めて出会った時に安城から聞いた話だった。
 今年から、数学や算数の苦手な子が通うコースも担当するようになり、どうすれば数学の楽しさが伝えられるか試行錯誤している、という話―――それを思い出したら、ついさっきまで見ていたものが、少々違うものに見えてきた。
 蓮も怪訝な顔をした、あのテストプレイの熱心さ。趣味、と言いつつ、まるで自分にノルマを課してるみたいに、ゲームを作ることにこだわっていたあの姿勢―――…。

 ―――もしかして安城さんの“ゼロリス”って、子供たちに数学教えることと、何か関係があるのかな?

 数学にロマンを感じ、子供たちにそれを伝えたいと願い、ゲーム制作に使命感を覚えている塾講師・安城。
 妙な人物だ、とは思っていたが、優也が本当の意味で彼に興味を覚えたのは、この時からだった。


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