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― Realistic Nightmare -2- ―

 

 ―――どこかで、誰かが泣いてる声がする―――。

 誰だろう―――何故か、よく知っている声のような気がする。

 霧がかかったような視界の中、その姿を探す。そして、やっと目が慣れてきた頃―――視線の先に、子供の姿を2つ、見つけた。
 そして、2人の子供から少し離れたところに、1人の女を見つけた。

 子供のうち1人は、小さな女の子だった。
 頼りない色をした髪を短く切り揃えたその子は、まだ2つか3つだろうか。泣きじゃくり、目に手を当てているので、顔はよく分からない。けれど―――誰なのか、本能的に分かった。
 何故なら、2人の子供を前に、呆然と座り込んでいる女を、瑞樹はよく知っているから。
 記憶よりはるかに面やつれし、髪も乱れているが―――知っている。あれが、誰なのか。

 それならば。
 女の子を庇うように抱きしめながら、女のを方を見ている、あの子供は―――…。

 ―――俺…か。

 なんて、無表情な目をしているのだろう。
 妹を必死に庇いながらも、その目は、ゾッとするほどに何の感情も表してはいない。実の母と対峙しながら、まるで他人を見るような目をしている。
 女が、何か叫んで、手元にあった雑誌を投げつけた。
 一瞬、体を縮める。耳元に容赦なく当たった雑誌は、バサリと足元に落ちた。
 痛い―――なのに、その目は、少しも変化しない。
 痛い、という感覚が、どこかで麻痺しているのかもしれない。痛みに耐えるために、スイッチが切られている状態―――だから、何をされても、無表情のまま。笑うことも泣くこともない。

 ―――…夢…かな…。

 ……夢、だよな。

 けれど、現実だ。
 瑞樹自身が体験してきた、現実だ。

 いつだって、どこかが痛かった。
 幼い頃は、物理的な痛み。そして4歳のあの夏祭り以降は、もっと精神的な痛み―――1つ1つ、痛みを覚えていたら、耐えられない。だからいつだって、封じ込めていた。“痛い”と感じる自分を。
 俺…あんな目をしてたんだな、あの頃。
 初めて知った、幼い頃の自分の目。でもそれは、成長した暁に、瑞樹が鏡の中に見つけた自分自身の目と、さして変わりないように思えた。

 『…そんな目で、見ないで』
 女が、震える声で呟く。
 『やめて、瑞樹、そんな目で見ないで―――!』

 やめろ、と、思わず叫びそうになっていた。
 けれど、声は出なかった。瑞樹はただ、彼女が無抵抗な子供へと手を伸ばすのを、凍りついたまま見ていることしかできなかった。
 細い首を、白い手が捉える。それでも、感情を失った目は、恐怖を顕わにすることはなかった。むしろ、その首を絞めあげる彼女の目の方が、恐怖と混乱にぐらぐらと揺れていた。

 …やめろ。
 やめろ、やめろ、やめろ。頼むから、やめてくれ。

 以前だって、この光景は耐えられなかった。けれど―――今はもっと、耐えられない。
 何故なら、知ってるから。
 命を奪いゆく、この手の感触―――寒気がするほど、リアルに蘇る感触。そして、その瞬間を思い出した時に襲い来る、全身に震えが走るほどの後悔―――それを全て、知っているから。

 『―――お前も、お前の母親と同じなんだよ』

 誰かが、耳元で囁いた。
 低く、冷たい声―――瑞樹の知らない声。

 『お前とあの女の、何が違うって言うんだ? 理由はどうあれ、あの時、お前は、無抵抗な命を奪おうとした―――お前も所詮、エゴイズムから人を殺せる類の人間なのさ』
 ―――…黙れ。
 『今度は、俺を殺してみろよ』
 黙れ。挑発するな。
 『“あいつ”を俺から引き剥がしたいんだろ。殺せよ―――今度こそ』

 やめろ―――“佐野”。

 もう、俺達を縛ろうとするな―――…!

 


 「瑞樹!!」

 蕾夏の声に、瑞樹は鋭く息を吸い込み、目を開けた。

 「―――…」
 息を詰め、目を見開いた瑞樹のこめかみを、汗が一筋伝う。血が凍ってしまったかのようなその表情に、蕾夏は思わず眉をひそめた。
 「大丈夫…?」
 蕾夏が訊ねると、瑞樹はゆっくりと目を閉じ、やっと息を吐き出した。膝の上に投げ出されたまま強張っていた手がぎこちなく動き、ぐしゃっと乱暴に髪を掻き上げた。
 「―――いつの間に…」
 「…15分位前、かな。ちょっと眠い場面だったから、私もウトウトしかけてたんだけど…」
 映画を見ながら、ふと隣を見たら、瑞樹はベッドにもたれたまま、居眠りしてしまっていた。
 結構タイトなスケジュールでの撮影を終えたばかりなので、やっぱり疲れてるんだろうな、と蕾夏は思い、あえて起こさなかったのだが―――途中から、眠っている瑞樹の様子があまりにも苦しそうで、呼吸まで乱れてきたので、さすがに起こしてしまったのだ。
 「水、いる?」
 蕾夏の問いかけに、髪を掻き上げた手に額を押し付けていた瑞樹は、1度だけ頷いた。確か冷蔵庫にボルヴィックが入ってたな、と考えた蕾夏は、即座に冷蔵庫に向かった。

 ―――やっぱり、あれが原因なのかな…。
 冷蔵庫を開けながら、蕾夏は、数時間前のことを思い浮かべた。
 今日、瑞樹は、いつもと何ら変わりなかったように思う。ただ1度―――食事前、パソコンの前に、難しい顔をして座っていた時以外は。
 帰宅後、メールチェックをする習慣は、瑞樹も蕾夏も同じだ。だから、あの時瑞樹が見ていたのは、十中八九、誰かからのメールだろうと蕾夏は考えている。その内容までは、さすがに分からないが…何か、瑞樹を動揺させる類のメールであることは、なんとなく分かる。あれから暫く、瑞樹は、どことなく心ここにあらずだったから。
 一体、誰からの、何のメールだったのだろう―――今、いつになく酷く夢にうなされていた原因も、やっぱり、そのメールが原因なのだろうか。

 無理に訊くのもまずいので、とりあえず蕾夏は、ボルヴィックのペットボトルの蓋を開け、瑞樹に渡した。
 「はい」
 「…サンキュ」
 差し出されたペットボトルを素直に受け取った瑞樹は、それを、一気に半分近くまであおった。真冬だというのに、真夏みたいなその飲み方が、瑞樹の動揺の大きさを表してるような気がした。
 「…悪い夢、見てたの?」
 「―――まあな」
 「…そっか」
 「映画、どうした?」
 真っ黒な画面に、左上に“VIDEO1”とだけ表示されたテレビをチラリと見遣る瑞樹に、少しは落ち着いたらしいことを悟り、蕾夏は少しだけ安堵した。
 「あ…うん、私だけ先見ちゃっても、なんだかな、と思って。ひとまず、止めちゃった」
 「ふーん…じゃあ、もうちょい止めといて」
 「え?」
 「シャワー浴びてくる」
 不快そうに軽く眉を顰めてそう言うと、瑞樹は弾みをつけて立ち上がった。夢にうなされたせいで、嫌な汗をかいてしまったらしい。
 「私もボルヴィック、貰うね」
 瑞樹がテーブルの上に置いたペットボトルを手に取りながら蕾夏が言うと、瑞樹は僅かな笑みを返した。
 ――― 一旦、リセット、ってことかな。
 蕾夏が何を聞きたがっているか、瑞樹には十分、分かっている。返された笑みに、蕾夏はそれを感じた。そして、それを話す用意が、瑞樹にあることも。
 ならば、今は何も訊くまい―――そう思って、蕾夏も瑞樹に、笑みを返した。

***

 瑞樹に借りたコットン地のシャツを羽織りながら、蕾夏は、くしゃみをひとつした。
 ―――やっぱり今度、パジャマか何か、置かせてもらおっかな…。
 この家でシャワーを使うことなど、滅多にない。ビデオやDVD鑑賞でほぼ徹夜してしまうので、そんな暇がないのだ。
 極たまに使うことになった時は、日頃瑞樹が着ていない服を借してもらう。といっても、サイズが合う筈もないので、シャツ1枚だけ―――当然、膝頭から下は素足のままだ。夏場や秋口はそれで良かったが、さすがに冬場は寒すぎた。暖房の行き届いていない脱衣所の空気に、足元からゾクゾク寒気を感じてしまう。
 もうちょっと厚手のを借りようかな…と考えつつ、蕾夏はバスタオルを頭から被り、脱衣所のドアを開けた。

 「ねえ、瑞―――…」
 声をかけようとして―――思わず、言葉を飲み込んだ。
 蕾夏がいない間に、電源を入れていたのだろう。瑞樹は、パソコン画面をじっと見詰めていた。何かを考え込むように、眉根を寄せて。
 「……」
 声をかけるタイミングを逸し、迷っていた蕾夏だったが、額にかかった髪の先から雫が落ちるのと同時に、また小さなくしゃみをしてしまった。
 瑞樹の肩が、僅かに揺れた。
 驚いたように蕾夏の方を見た瑞樹、何かを誤魔化すみたいに、まだ乾ききらない髪を掻き上げた。
 「…ああ、なんだ。あがってきてたのか」
 「うん。…随分難しい顔してるから、声かけそびれちゃった」
 「―――…ハ…、そんなに酷い顔、してたか?」
 「…凄く、って訳じゃない、けど…」
 さして長い時間、瑞樹を眺めていた訳ではないけれど、声をかけずに様子を窺っていたのは、ちょっと気まずい。蕾夏は、瑞樹の傍にぺたんと座り込むと、バスタオルに半ば顔をうずめるようにしながら、水を含んで重くなった長い髪を丁寧に拭き始めた。
 「寒そうな格好してんなぁ、お前…。大丈夫か」
 「うー…、大丈夫。他の服着てなんて眠れそうにないし。今度、パジャマか何か持ってくるから、置いとかせて」
 「それはいいけど―――なんだよ、そのタラタラした拭き方は」
 「あ!」
 横からバスタオルをひったくられた。
 と思ったら、直後、そのバスタオルで、かなり乱暴にがしがしと頭を拭かれた。
 「きゃーっ、ひどいーっ」
 「酷くて結構。冬場はこの位ダイナミックにやらねーと、風邪ひくぞ」
 「あ、あははははは、くすぐったいくすぐったいくすぐったいっ! もー、乱暴すぎっ。瑞樹、美容師さんになれないよっ」
 「アホか。こんな美容師、どこにいるんだよ」
 頭を拭くあまりの勢いに、蕾夏は声をたてて笑い転げてしまった。
 瑞樹も笑いながら、ふざけるように蕾夏の頭を抱え込んで拭いていたが―――その手が、ふいに止まった。
 「―――…」
 「…瑞樹?」
 唐突に変わった空気に、蕾夏は、バスタオルに包まったまま、不思議そうな声で瑞樹を呼んだ。
 背後にいる瑞樹の顔は、蕾夏からは見えない。今、どんな顔をしているんだろう―――不安になって、蕾夏が振り向こうとした刹那、呟きのような一言が、タオル地を隔てた耳元に、届いた。

 「―――…奏が、仕事でこっちに来たい、って言ってる」
 「……」
 一瞬、意味が、分からなかった。
 奏が、こっちへ―――日本へ、来る。そういう意味が頭の中できちんと形になった時、さっきまで瑞樹が見ていたメールの主に、やっと思い当たった。
 「…奏君からの、メールだったの…」
 それで、あんな難しい顔をしていたのか―――蕾夏は、露わになった膝に掛かるタオルの端を、思わずギュッと握り締めた。
 「私も、読んでいい?」
 僅かに振り返って蕾夏が言うと、瑞樹は無言のまま、蕾夏の頭をぽん、と叩き、パソコンの前の席を譲った。ベッドに腰掛ける瑞樹を視界の端に見ながら、蕾夏は外したタオルをテーブルの上に置き、スクリーンセーバーが作動し始めていたパソコンに向き直った。

 奏からのメールは、思いのほか長文だった。
 彼の弟・累は、文筆業をしているだけのことはあって、結構まめに手紙をよこす。そしてその文面は、彼の性格を表すようにいつもノホホンとしていて、のんびりした語り口だった。
 一方、奏の文章は、双子とはいえ、累とはまるで違っていた。ぶっきらぼうで、不器用な文面―――でも、それもまた、彼の性格をよく表している文章だ。
 簡単な挨拶から入った文は、すぐに本題に入っていた。“Clump Clan”というブランド名は、ブランドに疎い蕾夏でもよく知っていたので、そのイメージモデルとして抜擢されそうだ、という話には、少し驚いた。いくら日本向け戦略とはいえ、トップモデルというところまではいっていない奏を起用するのは、結構冒険なのではないだろうか。
 メールは続いて、奏の現状に触れていた。
 フリーになったが、元いたエージェントの妨害に遭って、思うように仕事ができずにいること、モデルの仕事もあと2年程度と割り切っていること、黒川というスタイリストに半ば弟子入りに近い状態にあること―――その文面からは、必死に自分の進む道を模索している奏の姿が読み取れた。
 それに続いたのは、“Clump Clan”の現オーナーと、黒川とが知り合いであること。オーナーが、去年の“VITT”の秋冬コレクションのポスターを気に入ったこと、あのポスターが理由で奏の起用を思いついたこと…そして、もしも奏を起用するなら、あのポスターを撮ったカメラマンに依頼したい、と思っていること―――…。


 『黒川さん達は、あれを撮ったのは郁だと思ってる。だから多分、オレがオファーを受けたら、この話は郁のところに行くと思う。
  郁は、多分、受けないだろう。オレも、あれはあんただから撮れたものだと思ってるし、できることなら、あんたに撮って欲しい。

  オレは、この仕事、死ぬほど受けたいんだ。
  あと2年、限られた時間だからこそ、納得いく仕事を集中してやりたい。そのためにも、今回の仕事はどうしても受けたい。
  それに…勝手だ、って言われるかもしれないけど、オレは、あんた達に会いたい。会って、一緒に仕事がしたい。あれからずっと、そう思ってた。
  だから、今回の仕事が、喉から手が出るほど、欲しい。それがオレの、正直な気持ちだ。ごめん。虫がいいよな。

  オレは、あんた達にとってオレがどういう存在か、自覚してるつもりだ。
  凄く、会いたい。でも、オレがあんた達にもう1度会うなんて、許されないんじゃないか、って思ってる。
  母さんは、反対だ、とはっきり言ってた。ただ―――成田が来ていいと言うなら、行ってみればいい、とも言ってくれた。
  オレは、その言葉に賭けることにした。

  黒川さんからは、1週間程度で返事をくれるように、と言われてる。
  あんたがダメだと言うなら、諦める。諦めなきゃいけない理由があることを、オレはわかってるから。
  もし返事がもらえない場合は、返事する気にさえなれない、ってことだから、答えは“NO”だと受け取ることにする。
  でも、それはあまりにも寂しいから、できることなら、どんな結論でも返事を送って欲しい。
  勿論、“OK”の返事であれば、最高に嬉しいけど―――とにかく、返事が来るのを待ってるから 』


 「……」
 正直だな―――奏君は。
 最後まで読んで、蕾夏はそう感じ、薄く微笑んだ。
 以前は、もっと意地っ張りだったように思う。いきがって、強がって、いつもどこかで無理をしているような人だった。何が奏を変えたのか、それは蕾夏にも分からないが…大人になったんだな、と、素直にそう思った。
 「瑞樹は…どう、返事するつもりなの?」
 振り返り、蕾夏がそう訊ねると、蕾夏をじっと見ていた瑞樹は、僅かに目を逸らし、小さく息をついた。
 「まだ、迷ってる」
 「…そっか」
 「お前は、どう思う?」
 切り返され、蕾夏もちょっと迷った。
 奏のためを思えば、多分、迎え入れてやるべきだろう。断って、奏のプラスになることは何もない筈だ。
 でも―――もし奏が日本に来れば、蕾夏も完全無視という訳にはいかない。正直、奏と再会した時、自分がどんな感情を抱くのか…それは、蕾夏にもあまり予想がつかない。けれど、不安だからといって避けるような真似をすれば、奏は今よりも萎縮し、罪悪感に縛られながら生きることになる。
 縛られたくないし、縛りたくもない―――奏に自由に生きてもらうためには、むしろ会う方がいい気がする。
 「私は…反対しない」
 少し考えた後、蕾夏はそう結論づけた。
 「奏君のこと、許せた訳じゃないけど…もういいや、って思ってる。傷を放置しないで、ちゃんと話し合えたから―――奏君が何を考えてたのか、私もちゃんと理解できたから、まだ残ってる痛み、ちゃんと少しずつ小さくなってきてると思う。だから、奏君に会うのは怖くない。不安は多少あるけど…奏君に“来るな”って言えるほどの不安、て訳じゃないよ」
 「……」
 「だからもし、瑞樹が、私のこと心配して迷ってるなら…」
 「…そうじゃない」
 瑞樹は、掠れた声でそう呟くと、ぐしゃりと髪を掻き混ぜた。
 瑞樹が迷う理由は多分そこにあるんじゃないか、と思っていた蕾夏は、意外な言葉に、少し目を丸くした。
 「もしかして…奏君が、また何か問題を起こすとでも思ってるの?」
 「…いや。違う」
 「じゃあ、何?」
 「―――俺が迷うのは、俺自身のせいだ」
 「瑞樹の?」
 大きなため息をついた瑞樹は、意を決したように顔を上げると、蕾夏を見据えた。
 その目が、眇められる。何かの痛みを堪えるかのように。

 「お前が奏に襲われた時―――俺は、あいつを殺しかけた」
 「……えっ」
 「許せなくて―――精神的に追い詰められて耳を患うほどの傷を、お前に負わせたあいつが、許せなくて―――奏を、絞め殺そうとしたんだ」
 「……」
 喉が、渇く。
 知らなかった。そんなことが、2人の間にあったなんて。だって―――2人は、その後も時々顔を合わせていたし、“VITT”の撮影もやり遂げていた。勿論、あんなことがあった後だから、酷く気まずい思いをしながらではあったが、でも…少なくとも奏は、さっきのメールの文面からも、今も瑞樹を慕っているのだと分かるし、あの時もやっぱりそうだった…筈、だ。
 「…あれ以来…何度か、その場面を、夢に見た。思い出す度、鳥肌が立つ。あまりにも、リアルで―――手に残ってる感触や、殺されて当然だ、と諦めてる奏の目が。リアルすぎて…いまだに、時々、蘇る」
 「…もしかしてさっきも、そういう夢、見てたの…?」
 貼りついてしまったような喉をなんとか湿しながら蕾夏が問うと、瑞樹は力ない笑いを見せた。
 「いや―――さっきのは、もっと最悪」
 「……何?」
 「…あの女に首絞められる自分を、止めることもできずに見てる夢」
 「……」
 「首絞められてんのは俺なのに、手に感じるんだよな、リアルに。…あの女も、こんな記憶に苦しめられた時期もあったんだろうか、って思うと…余計気分が悪くなる。俺もあの女も、結局同じなのか―――自分のエゴのためなら人の命を奪うことも厭わないような、そんな人間なのか、って」
 「ち…違う! そんなことない、絶対に!」
 「でも、俺は―――」

 言いかけて。
 瑞樹が、はっとしたように、口を噤んだ。
 動揺に、ダークグレーの瞳が揺れる。その様子に、蕾夏は嫌な予感を覚えて、少し瑞樹の方へと身を乗り出した。
 「何?」
 「……」
 「もしかして―――私の同窓会以来、見るようになった夢のこと…?」

 去年の夏の、同窓会。
 過去の記憶を克服するため、1人で訪れた“あの場所”―――埃っぽい倉庫の中は、まるで時計の針が止まってしまったかのように、十数年の時を経ても、何一つ変わっていなかった。
 もう、誰も、いない―――あれは、過去のこと。その事実を、何度も何度も心に刻み、蕾夏はそれで全てを終わりにしようとした。
 …なのに。
 たった1つ、不自然に残されていた、煙草の吸殻―――本能に限りなく近い部分で、蕾夏はそれが意味することを感じ取っていた。

 以来、蕾夏は新たな悪夢を見る。
 けれど…それを知った瑞樹もまた、悪夢を見ると言っていた。瑞樹が決して語ろうとしないその夢の内容に、蕾夏はいつも、理由のよく分からない不安を感じていたのだ。
 「…言って」
 無言の瑞樹に、自分の予想が当たっていたことを感じ、蕾夏は瑞樹の足元へ座りなおした。
 「言ってよ、瑞樹。…何の夢を見るの?」
 ぐらつく瑞樹の瞳が、観念したように、蕾夏の瞳を捉える。
 最後の戒めを解くように、一度、僅かの時間目を伏せた瑞樹は、目を開けると同時に、低く告げた。
 「…顔も知らない“佐野”を、この手にかける夢」
 「―――…」
 「お前を縛りつけようとするあいつを―――俺からお前を奪おうとするあいつを、殺そうとする夢だ。まだこの手に、あの時の感触が残っているのに…奏の時に後悔してるのに、自分も命を奪われる恐怖を知ってるのに、それでも―――…」
 もし、蕾夏に何かあったら。
 どれだけ後悔していても、自分もその恐怖と痛みを知っていても―――今度こそ、何をするか、分からない。
 「…会うのが怖いのは、俺の方だ」

 自嘲気味に、少し寂しげな笑みを口元に浮かべる瑞樹に、蕾夏は耐え切れず、僅かに震えている瑞樹の手を両手で包み込んだ。
 何故なら―――それは、蕾夏自身、全く身に覚えのない悪夢ではないから。
 今もこの手に残る、掴んだナイフの冷たい感触―――自分を守るため、人に容赦なく刃を向ける、あの一瞬の狂気。10年以上苦しめられた記憶の半分は、与えられた暴力の記憶ではなく、自分が人を傷つけた時の記憶だった。
 でも、それでいいと言ってくれたのは、瑞樹だ。
 蕾夏の弱さを強さに変えてくれたのは、瑞樹の言葉だったのだ。

 「…瑞樹のそれは、エゴなんかじゃないよ」
 瑞樹の手を包む手に、力をこめる。蕾夏は、僅かに微笑み、瑞樹の目を見据えた。
 「瑞樹が奏君に与えた傷は、瑞樹のエゴなんかじゃない。ううん、エゴだったとしても…私は、私だけは、絶対責めない。だって、もし瑞樹をボロボロにする人がいれば、私もきっと、その相手に刃を向けるもの。佐野君を斬りつけた記憶が、まだ消えていなくても―――瑞樹を傷つける相手にだけは、どれだけでも残酷になれる」
 「……」
 「信じて。奏君に会っても、私、絶対に取り乱したりしないから」
 「…でも、万が一 ―――また、あの時みたいなことになったら」
 音を、失ってしまったら。
 瑞樹の懸念は、よく分かる。蕾夏も、その可能性を100パーセント否定はできない。でも―――…。
 「…言ったでしょ?」
 くすっと笑った蕾夏は、瑞樹の手を握ったまま、その額に自分の額を寄せた。
 「もしも、どうしてもダメだったら―――もし、私が呪縛に囚われてしまったら…その時は、瑞樹が私をがんじがらめにして、って。決して誰にも奪われないように」
 「…蕾夏…」
 「大丈夫」
 そう、絶対に。
 「何があっても、瑞樹から離れることだけは、絶対にない。だから―――信じて」
 「―――…」

 直後、フワリと、背中が温かくなった。
 背中に回った腕に、抱きとめられる。僅かに唇が触れ合った後、頬と頬が触れた。
 信じてもらえたんだ―――そう感じた蕾夏は、自らも瑞樹の背中に腕を回した。抱きしめ返す―――離れないから、その言葉を、体温で伝えようとするかのように。

 「―――俺も、奏には、会った方がいいと思ってる」
 「…うん」
 「会わないままでいれば、奏も、俺も、感情の整理が上手くつかない。会って、お前が“もういい”って思えたのと同じように、“もういい”って思えるようになれば―――…」
 「…うん…私も、その方がいいと思う」
 悪夢に、うなされ続けるよりは、多少の荒療治であっても、3人、顔を合わせて―――新たな関係を、もう一度築きなおした方がいい。
 奏に対してなら、まだ、それができる段階にあるのだから。
 倖や佐野のように…もう今更取り返しのつかない相手とは、違うのだから。
 「…必ず、守る」
 背中に回った腕に、力がこもった。
 「必ず、守るから―――無理だけは、するな。取り乱したって構わない。俺が、必ず傍にいるから」
 「―――うん…」

 ―――きっと、大丈夫。

 抱きしめられる暖かさに、蕾夏はそっと、目を閉じた。

 2人でいれば、何が起こっても、きっと大丈夫。
 こうして抱きしめあえば―――何も、怖くない。誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることも。


 目を閉じた暗闇の中―――蕾夏は、何かを見た気がした。

 こうして触れ合うその先に―――無限の世界が広がっているのを、確かに、見た気がした。

 

 

***

 

 

 『―――奏へ
 

  もしかしたら俺達は、お前を傷つけることしかできないかもしれない。

  俺達に“会いたい”と言ってくれるお前に、かえって残酷なことしかしてやれないかもしれない。


  それでもよければ―――東京で、待っている 』


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