Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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カメラバッグが、ずっしりと重い。
気が重いと、それに比例して荷物まで重くなる。ついでに足も重くなる。うんざりした気分で、瑞樹は機材を床に下ろした。
「えーと、ここの取材は15分予定ですんで。ちゃっちゃと終わらせましょうね、ちゃっちゃと」
「……」
―――たった15分で何を撮れってんだよ。
という瑞樹の本音はとりあえず置いておくにしても、店舗取材だというのに、15分で一体何を聞き出そうと言うのだろう? この、見るからに軽薄そうな、怪しげな服装のライターは。
疑問に思うと同時に、激しい憤りを感じる。が、彼がどんな記事を書こうが、それは瑞樹には関係ないことだ。とにかく時間を無駄にはしたくないので、瑞樹は無言のままカメラバッグを開け、機材のセットを始めた。
若いビジネスマンが好みそうな、洒落たムードのショット・バー。
開店前なので、店内には誰もいない。内装を写真に収めるには好都合かもしれないが、ムードもへったくれもないショットになることは間違いなさそうだ。
店の賑わいも写真の味だと思うが、そんな理屈は「取材効率のため」の一言でおしまい。だから、“I:M”のショップ情報の写真は、客のいない店内写真や店の外観写真が多いのだ。
こうなる事情を、瑞樹はよく知っている。このライターに同行するのも、これが2回目だから。
“I:M”は、情報雑誌ではあるが、その中心となっているのは商品情報―――ビジネスシーンで使うものやパソコン関連商品、スーツやビジネスバッグといった小物関係の情報が多い。いわゆる“新規オープンの店”や“お勧めの店”コーナーもあって、毎月10店舗、必ず紹介が掲載されるのだが、その扱いはあまり大きくない。予算も少ないであろうことは、紙面構成からも一目瞭然だ。
専属カメラマンを持たない“I:M”だから、こういう場合、ライターがデジカメを持ってパパッと撮っておしまい、というケースもあるらしい。でも、このコーナーの場合、夜の店などは素人カメラマンでは上手く撮れず、以前店側から「あまりにも酷い、写真を差し替えろ」とクレームが入ったことがあったので、以来、一応カメラマン同行が慣習となったのだという。
外部カメラマンは、長時間拘束すればするほど、金がかかる。
だから、拘束時間は、1分1秒でも短い方がいい。
―――ケチった結果が“こんな閑散とした店、行きたくねーよ”って読者反応でも、俺は責任取らねぇからな。
シャッターを切りながら、心の中でそうひとりごちた。
そう愚痴る一方で、たとえそういう読者反応でも、編集者側は別に何とも思わないのだろう―――そうも考え、余計虚しくなった。
『このコーナーの写真は、とりあえずどんな店か分かれば、それでいいんで。過度に期待感を煽る必要もないですよ。どのみち、掲載サイズが小さいですから』
…ああ、そうかよ。
だったら、その言葉に素直に頷ける奴を、今すぐ専属に雇え。
実質、シャッターを切れた時間は、10分にも満たなかった。
ライターは、店のパンフレットとメニューのコピーを貰い、店主に短い質問を形ばかりして、“取材”は終わった。
***
うんざり気分で事務所に立ち寄った瑞樹は、1日の最後に顔を合わせる羽目になった人物に、余計うんざりした気分になった。
「…おつかれ」
無表情な声で瑞樹が言うと、FAXの前で気まずそうな顔をしていた桜庭は、視線を逸らしつつも、
「…そっちこそ、おつかれ」
とぶっきらぼうに返した。
どうやら桜庭は、FAXを受信している最中だったらしい。ガサガサ音を立てながら送られてきた原稿をチェックする桜庭を横目に、瑞樹は荷物をデスクの上に置き、買ってきたボルヴィックの蓋を捻じ切った。
時田事務所を利用するカメラマンやライター、デザイナーは、現在20人弱といった数になる。その中でも、桜庭や溝口は、瑞樹同様、事務所を利用する頻度の比較的高いメンバーと言える。
野球やサッカーのナイター取材に飛んでいく溝口とは、あまり顔を合わせる機会がないが、共に雑誌社をクライアントに持ち、スタジオ撮影や店頭撮影の多い桜庭とは、不本意ながら行動時間帯が同じになってしまう。特に、桜庭が今年から新たなクライアントを持つことになったせいなのか、まだ2月に入ってから2週間弱なのに、今月桜庭と事務所ではちあわせになるのは、これで二度目だ。
正直、あまり愉快になれるとも思えない相手だった。
普段でもそうなのだから、今日のように疲れ果てている時は、余計、勘弁して欲しい相手だ。
「取材帰り?」
FAXに目を落としたまま、桜庭がそう切り出した。
日頃、デイパック1つという軽装の瑞樹が、ストロボやら何やらと重装備でいるから、分かったのだろう。どうでもいい話だが、返事をしないとまた絡んでくることは必至だ。
「まあな」
「随分多いんじゃないの、出動回数。川上さんも、“成田さんはなかなか捕まらないから大変だ”ってぼやいてたし。1年目から商売繁盛で結構な話だけど」
「……」
“I:M”の仕事の単価は、はっきり言って、安い。とはいえ、回数をこなしているし、仕事はここ1件だけではないので、収入面では確かに、フリーランス1年目にしては相当恵まれている方だろう。
けれど―――金で割り切れない部分は、どうすればいい…?
「あーあ…、バレンタインデーは、夜まで仕事か」
瑞樹が何も答えないので、先の話は終わらせてしまったらしい。桜庭は、瑞樹とは反対側のデスクへと戻りながら、ため息混じりにそう愚痴った。どうやら、手にしているFAXの件らしい。
「しかも、よりによって“ウエディング用ブーケ特集”の撮影ときてるんだから、余計ムカつく…。イベントの日位、少しは気ぃ利かせてくれりゃいいのに」
「利かせる必要もないと思ったんじゃねぇの」
涼しい顔で瑞樹が入れたツッコミを、一旦はそのままスルーした桜庭だったが、やがてその意味を理解すると同時に、むっとしたように眉を上げた。
「…ちょっと。あたしにはバレンタインデーは無関係って、なんで決めてかかる訳?」
「担当者に訊けよ」
「あんたも決めてかかってんじゃないのっ」
―――やっぱ、疲れてんなぁ…。
桜庭に絡むきっかけを与えるとは失敗だった。噛み付いてくる桜庭の言葉はあっさり無視し、瑞樹はペットボトルをあおった。
「言っとくけどね。あたしにだって、バレンタインチョコの心配をする相手位、それなりにいるんだから」
「…“それなりに”、な」
「…うるさい」
「なんにせよ、バレンタインなんてのは、単なる製菓メーカーの戦略だろ。乗るだけバカだ。仕事しろよ」
カメラバッグからカメラを取り出しながら瑞樹が言うと、桜庭は嫌味な笑い方をした。
「そういうあんたは、14日は働くの? それとも、製菓メーカーの戦略に嵌って、彼女お手製のチョコでも食べて楽しく過ごすの?」
「仕事」
「あらら…お気の毒。でも、チョコ位は貰うんでしょうが。やっぱお手製? それとも市販?」
「それもナシ」
「…随分、ドライなカップルだね」
「嫌いだから」
「は?」
「甘いもの全般」
「…それでも、可愛い彼女からのチョコなら、無理してでも食べたいとか思わない訳?」
―――甘いもの全般がダメな奴に、それでもチョコ送るような奴だと思ってんのかよ。
想像力ねぇな、と思いながらも、もう面倒だったので、瑞樹は肩を竦めるだけの反応に留めておいた。そのあっさりしすぎな反応に、桜庭が更に口を開きかけたのだが。
その時、携帯電話が瑞樹のポケットの中で震えた。
「……」
静かな事務所内、桜庭もそれに気づいて、口を閉ざした。随分と中途半端な時間に電話がかかってきたものだ。誰だよ、と眉をひそめながら、瑞樹は携帯を胸ポケットから取り出した。
開いて液晶画面を確認するが、未登録の番号らしく、名前は出ていない。無視する訳にもいかないので、そのまま電話を取った。
「―――はい」
瑞樹の声に、電話の相手は、すぐには返事をしなかった。
妙な間が空く。そして、やっと返ってきた声は、意外な声だった。
『…お兄ちゃん?』
おずおずとした、遠慮がちな声。
さすがに、目を丸くする。携帯を握り直した瑞樹は、思わず姿勢を正した。
「あ…ああ。俺。久しぶりだな。元気か?」
『うん。あの―――もしかして、仕事中?』
「いや。まだ家じゃねーけど、雑用やってるだけだから」
興味ありげに見ている桜庭の方をちらりと見遣ると、視線が一瞬、ぶつかった。プライベートな電話を聞かれるのも嫌なので、瑞樹は席を立ち、廊下に出た。
「で…どうかしたのか?」
事務所のドアを閉めながら瑞樹が訊ねると、電話の向こうの海晴は、また少し言いよどむようなムードを漂わせた。
「なんだ?
まだ1歳に満たない海晴の息子のことを思い出してそう言ったが、どうやら違ったらしい。意を決した海晴が告げた内容は、突然の電話以上に意外なものだった。
『あのね。実は―――窪塚のお
「え?」
『くも膜下出血。神戸の家出たところで、道端でバッタリ倒れて…一応、一命は取り留めたけど…意識が、まだ戻らないの』
「……」
窪塚―――瑞樹にとっては、この世で2番目に嫌いな奴だ。いや、今は、3番目かもしれないが。
言葉を交わしたのは、ただ1度だけ。母の病状を伝えに来た時だけだ。
記憶の中では瑞樹のはるか頭上にあった筈の彼の目は、瑞樹の視線のずっと下にあった。父よりは線の細い男だと記憶していたが、十数年の年月の中、瑞樹が彼の背丈を追い越した分だけ、彼は随分と小さく縮まったように見えた。
窪塚がいようがいまいが、父と母は、どのみち破綻していただろう。
瑞樹が母に初めて叩かれたのも、幼いきょうだいが母から
そう思ってもなお、窪塚は、やはり“敵”だった。
“お父さんには、内緒にしてね”―――幾度となく押し付けられた共犯者の役割は、あの男がいてこそのことなのだから。
けれど、八方丸く収めるために海晴を母に託さざるを得なくなった時、不思議と窪塚のことは心配しなかった。母がボロを出して海晴を幻滅させるのではないか、という懸念はあったが、窪塚は決してヘマはしないだろう、という確信が、瑞樹にはあった。
温厚そうな顔をして、あの男は相当執念深く、大胆で、かつ用意周到だ。でなければ、神戸まで夫も子供もいる女を追ってきたりはしないだろう。子供の出来ない彼にとって、海晴は唯一の存在である上に、愛した女に瓜二つだ。決して粗末には扱うまい―――そう思ったからこそ、海晴を手放せたのだ。
どうやら、瑞樹の確信は、正しかったらしい。少なくとも海晴は、義父の体調を心配している―――瑞樹が、ああそう、勝手に倒れるなり死ぬなりすればいい、と思うのとは裏腹に。
『お兄ちゃん?』
「―――ああ。なんでもない。お前、今どこにいるんだ?」
『あ、うん…今は、神戸。うちの主人は、仕事があるから来られないけど…容態が落ち着くまで、私がこっちにいるつもりなの』
「落ち着くまで、って―――どの位の見込みなんだ?」
『…分からない。さっきまで、神戸でお義父さんと仕事してた人とかと一緒に集中治療室にいたんだけど、後はその人たちが見ててくれるって言うから、私だけ出てきたの。今も予断を許さない状態なのに変わりはないし…比較的病院にも近いから、今夜は、お父さんのマンションに泊まる』
「親父んとこか」
『うん。窪塚のお義父さんのマンションもこっちにあるけど…やっぱり、ちょっと泊まる気になれなくて』
「…そうか」
たとえ、既に人生の半分を窪塚の娘として過ごしてきていようとも―――年に数度の手紙のやりとりだけになっていた父の方が、海晴にとっては“父”と感じるらしい。
当然かもしれない。窪塚と海晴の親子関係は、母がいてこそ成り立つものだったのだろうから。
『ごめんね。お兄ちゃんに電話しても、どうなるもんでもないんだけど―――なんか、ちょっと、混乱しちゃって』
海晴の声は、少し震えていた。泣きたいのに、泣けない…そんな状態なのかもしれない。
「…バカ。謝ったりするな」
『でも…私には大学まで出してもらった恩があるけど、お兄ちゃんからしたら腹の立つ相手でしかないもんね。分かってるんだけど…お父さんにとっても、そうだろうし』
「……」
『なんか、このままお父さんに会ったら、お父さんを頼っちゃいそうで―――酷いよね。お母さんのこと奪った人なのに、私がお父さんの前で取り乱したりしたら』
―――お前が罪悪感を感じることは、何もない。
壁に寄りかかった瑞樹は、思わず目を伏せた。
海晴を手放したのは、瑞樹自身だ。決して母が戻ってこないように―――二度と、母と会わずに済むように。海晴は、何も知らない。瑞樹と母の間の取引の駒に使われただけだ。
「…勘違いするな、海晴」
奥歯を噛み締め、目を開けた瑞樹は、低く告げた。
「窪塚が、あの女を奪ったんじゃない。…親父が、あの女に見切りをつけて、捨てたんだ」
『……』
「…窪塚には、お前を大切にしてくれたこと、感謝してる。俺も、親父も。だから―――遠慮するな。親父は、そんな了見の狭い男じゃねーから」
『…うん…』
「抱え込んで、無理するなよ」
『うん―――ありがと、お兄ちゃん』
そう答える海晴の声は、完全に涙を含んでいた。
海晴にこんな複雑な涙を流させたのも、あの日の自分の選択のせいなのか―――そう思うと、胸が痛かった。
***
『そっか…窪塚さんまで倒れちゃったんだ…』
その日の夜の電話で、瑞樹から事情を聞いた蕾夏は、沈痛な声でそう言い、ため息をついた。
『海晴さん、大変だね。晃君が生まれたことで、お母さんの遺品の整理もまだまともにやってない、って言ってたのに―――今度は窪塚さんが重体だなんて』
「…あいつも随分たくましくなったとは思うけど―――さすがに、厳しそうだよな」
『一度、顔を見に行ってあげた方がいいんじゃない?』
「いや。俺もそう言ったけど、それはいい、って言ってた。親父もいるし―――窪塚の親族が出入りすること考えると、俺は行かない方がいいしな」
『そうなんだ…。複雑だね。血の繋がったきょうだいなのに』
もどかしげな蕾夏の声に、瑞樹は苦笑しながら、冷蔵庫から取り出したカクテルバーを一口あおった。事態を複雑にした責任は、自分にもあるのだから、苦笑するしかない。
「結構、酷い奴だな。俺も」
『……え?』
「“早く目を覚ますといいな”くらい、思ってなくても言うだろ、普通」
『……』
「二度と目ぇ覚ますな、とは思わねーけど―――このまま逝っちまうなら、それはそれでいい、ってのが本音だからな」
自嘲気味な瑞樹の言葉に、蕾夏はくすっと笑い、応えた。
『うん。私は、そういう正直な瑞樹でいた方が、いいと思う』
「……え?」
『海晴さんも、そうだと思う。本音を晒せるのは、信頼してくれてるからだと思うから。嘘ついて励まされたりしたら、きっと怒るよ。“そんな見え透いたこと言って、私のこと侮ってるの!?”って』
「……」
『無理に窪塚さんを許したフリすることないよ。海晴さんにはきっと、分かってる筈だから。瑞樹の本音』
―――だって、海晴さんは、瑞樹に育てられたんだもの。
付け加えられたその言葉に、負けたな、と思った。
「…サンキュ」
苦い笑いを浮かべ、瑞樹は蕾夏にそう言ったが。
「けど、目を覚ましやがれ、って部分も、嘘じゃなくあるぜ」
『そう?』
「あの世に行く前に、一発ぶん殴りたいから」
『あはは、そうだね。海晴さんのことを差し引いても、ぶん殴られても仕方ない立場だもんね、窪塚さんは』
軽い調子でそう相槌を打たれると、心のしこりが小さくなっていく気がした。これかだら、蕾夏には敵わない―――いつだって。
ふいに、奇妙な間が空いた。
時計を見ると、結構な時間になっていた。多分…蕾夏も今、時計を見ているのではないだろうか。
「…そろそろ、切り上げるか」
『……』
「お前、明日朝イチで取材だろ」
早朝の取材のため、5時起きだと聞いていたのだ。助けるつもりで瑞樹がそう言うと、受話器の向こうの蕾夏の気配が、少し躊躇った。
もう少し―――そう思うのは、どちらも同じだけれど。
『…うん。じゃあ―――そろそろ、寝るね』
「おやすみ」
『―――おやすみ』
そして、どちらからともなく、電話を切った。
蕾夏の声がなくなると、部屋の中は、静寂に包まれた。
ベッドの上に仰向けに寝転んだ瑞樹は、暫し天井を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。
こんな日は―――足りなくなる。
声だけでは、言葉だけでは、足りなくなる。体中が悲鳴をあげるほど、苦しくなる―――ここに、自分しかいないことが。
「……貪欲な奴」
思わず、呟いた。重症だな―――苦笑が、口元に浮かんだ。
これは、病だ。
狂うほどに、欲しくて欲しくてたまらなくなる―――終わりの見えない、狂気の病だ。
***
瀬谷の机の上に置かれたものを見て初めて、蕾夏は今日が14日であることを思い出した。
「―――…」
目が疲れたので、眼鏡を一旦外して目頭を押さえていた瀬谷は、机の上の一点を見つめて固まっている蕾夏に気づき、不審げに眉をひそめた。
「? 何固まってるんだ、藤井?」
「えっ? あ、ええと、いえ、その…」
慌てた蕾夏は、咄嗟に言葉が出てこなかった。余計怪訝そうな顔になった瀬谷だったが、蕾夏の視線を辿り、とりあえず蕾夏が何に反応したのかだけは理解した。
「…僕がバレンタインチョコを貰ったら、そんなにおかしいもんかね」
「…そういう意味じゃないんですけど」
別に、瀬谷が貰うなんて意外、という意味で固まった訳ではない。バツが悪そうな顔をした蕾夏は、ちょっと背を屈め、周囲に聞こえないよう小声になった。
「あの―――私、義理チョコはあげない主義で27年貫いてるんです」
「は?」
「ケチってる訳じゃなく、ポリシーなんで―――ですから、時候の挨拶もしない失礼な奴、とか思わないで下さいね」
「……」
妙に真面目な蕾夏の口調に、瀬谷は一旦、呆気にとられたように目を丸くし―――そして、派手に吹き出した。
「ハハ…、なるほど。藤井にとってバレンタインデーは、時候の挨拶な訳だ」
「…義理チョコは、それに近いと思うんですけど…。瀬谷さん、堂々と机の上に置いてるから、きっと義理だろうな、と」
「ご明察だけど、社内の人間からじゃないから。ここ、基本的にそういうイベントごとには無関心だからね。記事にはするけど」
「あ…、そうなんですか。良かった…」
だから、どの机の上にもそれらしき包みがなかったのか―――蕾夏は、ホッと胸を撫で下ろした。
今年に入って、社内の配置換えがあり、蕾夏は瀬谷の隣に移動した。ライターはライターで固まることになったのだ。
カメラマンの小松などもこの一角に席を構えているのだが、いかんせん留守が多い。そのほかの連中も席にいないことが多い。そして蕾夏は、原稿を書いている間は、この席からほとんど動かない。
だから、気づかなかったのだ。
今日がバレンタインデーであることにも、その割には男性の机の上にチョコなどの包みが少ないことにも。
―――ちょっとトラウマ入ってるなぁ…。
以前務めていた会社では、義理チョコを渡さなかったせいで、気が利かない奴と陰口を叩いた輩がいたのだ。勿論、そんな馬鹿馬鹿しいことを言うのは、蕾夏の天敵営業マンただ1人と決まっているのだが。
「まあ、義理チョコボイコットは、賢明な選択だな。義理と本命の区別のつかないバカな男も、結構いるようだし」
「あ…あはははは、そうですね」
瀬谷の一言に、蕾夏はぎこちなく笑った。大学時代、その日が2月14日であることを忘れて、うっかり後輩にもらいもののチョコを分けてあげたら、思い切り誤解された経験があるのだ。
「藤井の場合、例の彼氏がいることだし」
意味深な笑いを見せる瀬谷に、
「…例の、って冠は、いりませんから」
蕾夏は、軽く睨むようにしてそう言った。“例の”が意味するのが“キスマーク”であることは、あれ以来、時折出てくる“例の”の使い方で、身に沁みてよく分かっているから。
そして、瑞樹の顔が頭に浮かんだ途端、数日前のことが思い出されて、蕾夏の表情が僅かに曇った。
「―――あの、瀬谷さん」
「ん?」
「瀬谷さんて、ここ来る前も、雑誌社でしたよね、確か」
ヘッドハンティング組である瀬谷は、ここが2つ目の職場だと聞いている。蕾夏が確認すると、再度眼鏡をかけた瀬谷は、その言葉に軽く頷いた。
「そうだけど、それが何?」
「私、ここのやり方しか知らないんで、参考までに伺いたいんですけど―――店舗取材なんかで、写真撮影も含めて、取材時間を1店舗15分しか取らないって…どう思います?」
「どう、って…」
少し呆れたような顔をした瀬谷は、椅子をくるりと回して、蕾夏の方へしっかり向き直った。その眉は、不愉快なニュースを聞かされたみたいに気難しげに顰められていた。
「無茶の一言で終わりだな、それは」
「…ですよねぇ…」
「まあ、百歩譲って、ライターの取材オンリーなら、分からなくもないよ。何度か行った経験のある店だと、10分の取材で終わり、なんてことも過去にあったし…。でも、写真ありとなると、そうはいかないだろ? 小松同行で行った取材は、最低でも1軒30分は確実にかかってる筈だ」
取材の速い瀬谷と、フットワークの良い小松でも、最低でも30分かかるのだ。つまり―――普通、ありえない話だということだ。1軒15分なんて。やっぱりな、と思って、蕾夏は知らずため息をついた。
「察するに、単なるたとえ話じゃなさそうだな。実話か」
「…ええ、まあ」
「どこの三流紙だ?」
「…いえ。結構、メジャーです」
「“A-Life”レベルに?」
「…国内だけなら、“A-Life”より、ある意味メジャーかも」
「もしかして、情報量に比べて、かなり安い?」
「…確かに」
“I:M”は、“A-Life”と同じ月刊誌だが、価格は“A-Life”の半額以下。週刊誌と同じ位だ。それでいて、詰め込まれている情報は“A-Life”より相当多いように思う。全ページ、無駄な空間は勿論のこと、必要と思われる空間すらない。
「安いせいか、売り上げは結構順調みたいなんですけど」
「となると、経営的には正しい戦略なんだろう。雑誌全体の質より、メイン記事に金かける分他のコストを削る、って方針のとこもあるし。やってるこっちは面白くなくても、それで雑誌が売れてるんなら仕方ないな」
「……」
「言っておくけど、どっちが正しいとか、どっちが間違ってるとか、そういうことじゃない。人間に人種があるように、ライターや編集やカメラマンにも人種があるってことさ。儲からなくても納得のいかない仕事はしたくない人種と、たくさんの人に買ってもらってじゃんじゃん儲けなくては仕事をする意味はない、と感じる人種―――どっちも正しいよ。僕から見ればね。…ま、藤井のようなタイプは納得できないだろうけど」
ふっ、と笑って言われた言葉に、蕾夏は眉根を寄せた。
「瀬谷さんなら、それで売れてるなら、黙って書き続けますか?」
「書くね」
「……」
「やりきれなさや怒りを、やりがいや収入と天秤にかけて、折り合いがつく限りはね。書くよ。どんな馬鹿げた記事でも」
…そう、言えるのだろう。瀬谷には。
自分を裏切って名声を得た“彼女”の作品を、誌上で褒めちぎってみせたことのある瀬谷だ。あの記事以上に残酷な仕事など、瀬谷にはもうないだろう。なんだって書ける―――あんなものが書けたのだから。
「はーい、配本ですよー」
蕾夏が言葉に詰まったところで、第三者の声が割り込んできた。
瀬谷と2人して顔を上げると、製本したての雑誌独特の紙とインクのにおいが降ってきて、雑誌の表紙のどアップが迫ってきた。
「2月号配本でーす」
「…あ、どうも」
―――そっか。14日ってことは、配本の日だった。
“A-Life”は毎月15日発売だが、社内にいる契約社員や外部クリエーターには、こんな雑誌になりましたよ、ということで前日の14日に1冊ずつ配られるのだ。
蕾夏は、この配本の瞬間が結構好きだ。勿論、社内にいるので、印刷所へと回される前の最終原稿まで目にしているのだが―――やはり、紙に印刷された状態を目にするのは、感慨深いものがある。営業部の担当者が渡してくれた2月号を手に取り、蕾夏は思わず、思い切り口元を綻ばせてしまった。
「…いまだにそういう顔するかね。もう何度目の配本か分からないのに」
僕はトキメキも何も感じないね、という口調で、瀬谷が蕾夏にそう呟く。
「だって、SEの時にはなかったトキメキですよ、これって。納品の時はそれなりに感動があったけど、その後にクレーム処理や再インストが待ってるから、単純に喜べなかったし」
「ふーん…そんなもんかね」
2月号の巻頭特集は、瀬谷と蕾夏で分担して書いた記事だった。その出来具合を見ようと机に向き直った蕾夏だったが―――目次のある1行に目が留まった時、ドキリとした。
『新連載:スロー・ダウン〔第1回〕 蘇芳せな』
「―――…」
“蘇芳せな”―――瀬谷を裏切った“彼女”だ。
チラリと、瀬谷の方に目を向ける。蕾夏同様、机に向き直って2月号を広げている瀬谷は、目次は飛ばしたのか、それとも既に目を通したのか、いつもと変わりない顔で巻頭特集を開いていた。
事の顛末を、蕾夏はあえて訊ねてこなかったが…蘇芳せなが新しい連載小説を担当している、ということは、瀬谷が蘇芳に連絡を取り、書くよう頼んだ、ということに他ならない。そうなればいいな、とは思っていたが、頑なな瀬谷のことだから、決心してくれるかどうかは五分五分だと思っていたのだが…。
「瀬谷さん」
「ん?」
「蘇芳さんの連載、始まったんですね」
「……」
ページをめくりかけた手を止め、瀬谷は、目だけを蕾夏の方へ向けた。
「ああ。2月だからね」
「…会ったんですか? 蘇芳さんに」
「会ったよ。連絡したのは電話だけど、打ち合わせのためにここに来たからね。ちょうど藤井がいない日だったから、気づかなかっただけだろう」
「そうだったんですか…」
複雑な気分だった。
瀬谷の書いた小説を盗用した作品で名声を得、プロの作家になった蘇芳せな。彼女の存在が、瀬谷から“書きたい”という本能を奪い去り、何年も瀬谷を縛り付けていた。瀬谷のシニカルな性格は生まれつきだろうが、捻じ曲がった部分があるのは、蘇芳がその原因の大半だ。
瀬谷には、解放されて、自由になって欲しいと思った。
それが、蘇芳せなを許すことなのか、それとも罪を告発して蘇芳せなを失墜させることなのか…それは分からないけれど。でも、できることなら、双方笑顔でいられるようなエンディングが迎えられれば―――そう思った。
けれど―――こうして、何事もなかったかのように目次に載っている彼女の名前を目にすると、なんとも複雑な、苦い思いがこみ上げる。罪を犯したというのに…こんな風に、許されてしまっていいんだろうか、と。
「…凄く久しぶりの、再会だったんですよね」
「まあね」
「何か言ってましたか? 蘇芳さん」
蕾夏が訊ねると、瀬谷は、皮肉っぽい笑いに口元を歪めた。
「今更、何を言えって言うんだ? そういう段階にないのは、向こうもこっちも納得済みさ」
「……」
「僕は、編集長が困ってるから、自分にできる範囲のことをやっただけだよ。憤りや怒りを、連載に穴を開けた時の損害や会社に対する思いと天秤にかけて、折り合いがついただけだ」
「じゃあ…許した訳じゃ、ないんですね」
「ああ」
「…いつかは来ると思いますか? 許せる日が」
瀬谷はその問いかけに、僅かに目を細め、軽く首を傾けた。
「藤井は?」
「……えっ」
「誰だか知らないけど―――許したいと思ってるのか?」
「―――…」
…分かってしまうのは、当たり前だ。あまりに、この件に執着しすぎた。蕾夏は、気まずそうに視線を落とし、小さく首を振った。
「藤井も、模索中…か」
「…多分」
「全く―――面倒な生き物だな。人間なんてもんは」
ため息混じりにそう言った瀬谷は、2月号のページをパラパラとめくり、残り3分の1辺りで手を止めた。
2色刷りの見開きページの右側に、“スロー・ダウン”という題字が見えた。そして、その下に“蘇芳せな”の文字と、囲みで彼女の略歴も。
瀬谷は、冷ややかな表情で最初の数行を読み、
「…多少は、成長したかもな」
と、本当に小さな声で呟いた。
―――“許したいと思っているのか?”
―――“許したくない。…でないと、その後の俺の人生、一体なんだったのかわからなくなる”。
机の上のカレンダーの右肩には、3月のカレンダーが小さく印刷されている。蕾夏はその小さな数字の羅列を見つめた。
3月17日、土曜日―――奏が、日本に来る日。それまで、あと1ヶ月。
―――大丈夫…。
奏君は、奏君。佐野君じゃない。
きゅっ、と唇を噛むと、蕾夏は2月号の目次を、少し乱暴にめくった。
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