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― Synchronicity -1- ―

 

 「あなたから、瑞樹に話してもらえないかしら。奏を信用してあげてくれって」
 ロンドンを発つ前、千里にそう言われ、時田は戸惑った。
 「信用、って―――なんでまた、わざわざそんなことを?」
 「……」
 「奏君なら、もう立場を十分わきまえてるよ。吹っ切れた訳ではなさそうだけど―――2人の仲を割いて自分が割り込もうなんてことは考えてない筈だし」
 「…ええ。確かにね」
 ため息をついた千里は、珍しい位に弱気な顔を弟の時田に見せた。常に快活で包容力のある千里のこんな顔は、共に育った時田でさえも、あまり見たことはない。
 「でもね。人間には、コントロールの効かない感情もあるのよ。憎悪、恨み、恐怖…そして、恋愛感情。それは、郁夫が一番よく分かってるんじゃない?」
 「…いや、僕のことを引き合いに出されると、困るな」
 あんな女のことは忘れて、さっさと新しい女性と身を固めて幸せになれ、と千里や淳也が何度も言ったのに、結局時田は、40代も半ばとなった今現在も独身である。特定の恋人もいない。馬鹿な奴だ、と自身に呆れることもままある。
 時田のそんな人生の選択には、いろんな感情が混じっている。それは、憎悪であり、恨みであり、恐怖であり―――そして、恋愛感情だ。絶ちがたい想いが、今も残っているから。気まずさを覚えながらも、時田は、千里の言葉に反論はできなかった。
 「けど…大丈夫だろう? 奏君、成田君のことも慕ってるようだし…帰国前の3人の様子を見ても、これといって不安は感じなかったよ」
 「…表面上は、ね」
 千里の目が、暗く翳った。意味が分からず、時田は眉をひそめた。
 「詳しくは言えないけど―――瑞樹と蕾夏にとって、奏は、凄く複雑な存在なの」
 「え?」
 「2人は奏のこと、多分、怖がってる。特に、蕾夏には…本当は会わせたくない。蕾夏が心配だから」
 「……」
 それは―――どういう意味だろうか?
 何があったのか知らないが、3人の関係は、時田の想像以上に複雑なものらしい。恐らく、第三者に話せるような内容ではないのだろう。時田は、あえて詳しくは聞かないことにした。
 「蕾夏は―――たとえ苦しくても、危険でも、それが強くなるための試練だと思えば、乗り越えようとしてしまう。己の限界を知らない子だから。…瑞樹は、逆。己の弱さをよく知ってる。あの子が受け入れるのは、蕾夏だけ―――他人は一切、拒否してるわ。表面上はそつなく接していてもね。きっと事情があるんだと思うし、瑞樹にもどうしようもないことなんだと思う。だから、唯一の存在である蕾夏を奪われることは、彼にとっては“おわり”に等しいんだと思うわ」
 「…“おわり”、か」
 瑞樹をそんな風に見たことのない時田だが、千里の言うことは、少し分かる気がした。
 驚くほどに大胆で怖いもの知らずな反面、ことが蕾夏に及ぶと、途端に臆病になる。師として尊重している時田に対しても、蕾夏の問題になれば容赦なしに噛み付いてきた。まるで、たった1つしかない拠り所を、誰にも奪われまい、失うまいと、必死になっているかのように。
 「きっと瑞樹は、蕾夏を守る自信があるからこそ、奏が行くことをOKしたんだと思う」
 そう言うと、千里は静かに目を伏せた。
 「でも―――蕾夏が努力して奏を受け入れようとすればするほど、そんな蕾夏を瑞樹が守ろうとすればするほど―――奏の想いは、どんどん行き場がなくなっていく。どうしても手に入れられないものと、どうしても受け入れてくれないものの間で、どんどん追い詰められる。そうなった時、その憤りの矛先がどこに向くか―――それが、私は怖いの」
 「…藤井さんに向くと思ってるのか? 姉さんは」
 まさかそんなことは、という口調で時田が言うと、千里は目を開き、辛そうな目を時田に向けた。
 「―――絵空事じゃないのよ」
 「……」

 どういう意味だ、と訊きたかった。
 けれど、訊けなかった。
 千里が“絵空事ではない”と言い切れる、その理由は―――たった1つしか、あり得ないから。

 「瑞樹に、必ず伝えて。奏を信じてあげてくれ、って」
 痛々しい笑みを浮かべ、千里は再度、時田にそう告げた。
 「奏は、2人の信頼を勝ち取るために、日本へ行くの。だから、私は信じてる。心配するようなことは起こらない―――もう、二度と」


***


 時田が日本に一時帰国したのは、奏が日本に来る約1ヶ月前―――バレンタインデーも過ぎた、とある月曜日のことだ。

 「お久しぶりです。長旅でお疲れでしょう」
 帰国翌日、“A-Life”の編集部を訪れた時田を迎えたのは、十年来の知人である編集長の佐伯だった。
 時田の義兄と立場的には似通っている彼は、年齢そのものは時田とほぼ同じである。お互い独身ということもあり、日本に帰った時には、気軽に飲みに誘い出しやすい相手でもある。自然、時田の顔も穏やかになった。
 「慣れたフライトだから、さほどは。でも、昨日の今日だから、やっぱり時差ボケが辛いね」
 「世界中飛び回ってるっていうのに、慣れませんねぇ」
 「ハハハ…、時差ボケだけは、どうにもね」
 それにしても、相変わらずしゃべり方の丁寧な男だ。部下に対してもこの調子らしいが、噂では怒鳴る時はとてつもなく恐ろしいらしい。そんな佐伯を、時田自身は一度も見たことがないが。
 「一宮さんはお元気ですか」
 「1月から中途で入った編集者が、さっそく大ミスやらかしたらしくて、最近胃薬のお世話になってるらしいよ」
 「…他人事じゃあないですねぇ…」
 お気の毒に、という顔をする佐伯に、時田は苦笑を漏らし、
 「それで? 君んとこの新人は、調子のほどはどうなんだい?」
 と訊ねた。すると佐伯は、気の毒そうに寄せていた眉を下げ、微笑んだ。
 「お訊ねの新人が藤井さんのことでしたら、僕は彼女を新人扱いはしてないですよ」
 「ほー…」
 「勿論、経験は必要ですけどね。書こうという情熱と才能に、新人もベテランもないです。幸い彼女、そこいらのベテランよりずっと精力的に取材も執筆もやってますから、そう遠くない未来に経験値も情熱に追いつきますよ」
 「また随分と入れ込んでるね」
 少しからかうように時田が言うと、佐伯は、一瞬驚いたような顔をして、直後、困ったように眉根を寄せた。
 「いやぁ…そう思われてしまうから、困るんですけどね」
 「え?」
 「極一部、変なやっかみをしている連中が、うちの編集部にもいましてね。僕が新人を分け隔てしないのは、何も藤井さんに限ったことじゃないんですが―――彼女、採用の経緯が、うちとしてはレアケースだったので、色眼鏡で見る奴らもいるんですよ」
 「…なるほど」
 その色眼鏡には、ブリティッシュ版編集長の義兄は当然のこと、恐らく時田自身も相当影響しているのだろう。そう思うと、複雑な心境だ。
 となると、時田の後釜として“A-Life”と仕事をしている筈の瑞樹は、どういう立場なのだろう? 佐伯が編集長なら問題ない、と安心していた時田だが、そういう話を耳にして、少々不安になってきた。
 「まあ、彼女の記事がちゃんと評価を積み重ねていけば、自然と認められるようになるんでしょうが…まだ本契約から半年ほどですからね。そうそう―――…」
 そう言うと佐伯は、背後の書棚から、1冊の“A-Life”を取り出した。チラリと見えたその表紙を目にして、時田はすぐに、それを撮ったカメラマンが瑞樹であることを察した。
 別段、特徴のある写真、という訳ではないが―――時田特有の、一種のセンサーのようなものだろうか。瑞樹の撮った写真は、すぐに分かる。そのアングルや色合い、全体が醸し出すムードから。
 「例えば、この記事ですけどね」
 バサリ、と目の前に広げられた記事は、表紙と同じく、瑞樹の写真が掲載されていた。
 “映画(シネマ)ノスタルジー”と題されたその記事は、最初の数行で蕾夏の記事だと分かる。大体「路地を1本奥に入ると、そこは昭和ノスタルジーに包まれていた」なんて小説じみた始まり方をする記事は、そうそうないだろう。
 つまり、2人のコラボレーション作品―――そう呼べる記事だ。ロンドンで見せてもらった、お手製の“写真集”同様に。
 「これなんか、ちょっと地味な題材なので内部では“どうかなぁ”という予想だったんですが―――思いのほか善戦したんですよ。雑誌記事というより、ちょっとした趣味の本といったムードで、得した気分になるそうで」
 「へぇ…」
 元々“A-Life”は、贅沢な紙面づくりで有名な雑誌である。写真も常に凝ったものを使ってくるし、スタイリッシュさを信条としているので、必要とあらば写真で1ページ全部を割いたり、大胆に空間を作ったりする。
 瑞樹独特の、寂しさと温かさが混在したような写真と、蕾夏の意表をついた表現は、そういう紙面づくりとあいまって、確かに単なる雑誌記事と呼ぶには惜しい記事を完成させていた。
 そう―――時田は、こういうのを期待して、ここの仕事を瑞樹に譲ったのだ。自然、時田の口元に笑みが浮かんだ。
 「彼女、以前から成田君の写真に文章を添えたりしてたからね。やっぱりしっくり来るよなぁ」
 満足げに時田が言うと、佐伯は、意外、という顔をした。
 「え…っ、そうなんですか」
 「は?」
 「いや、藤井さんも成田さんも、そんなことは一言も…」
 「……」
 今度は、時田が意外という顔をする番だった。
 2人の世界を追求しているあの2人のことだ。こんなお膳立てがあれば、最大限利用するだろうと―――2人で仕事ができるよう、精一杯アピールするだろうと思っていたのだが…。
 「藤井さんの記事にも、毎回、それなりに写真がつくんだろう? 誰が撮ってるんだい?」
 「時々により、まちまちですよ。編集から先に指定がついてる場合もありますしね。本人に希望を訊いたこともありますが、大抵は“そちらの都合にお任せします”と言うので、あまり真剣に考えたことはなかったんですが…そうですか。遠慮してるのかもしれないなぁ。元同僚ってことで、また色々詮索されると思ってるのかも」
 「…元同僚…か…」
 それどころか―――…。
 あの2人の関係を表す適切な言葉を、時田は知らない。親友、同志、恋人―――どれも正しいのだろうが、どれも間違っている。その一言に押し込められる関係ではないから。

 「さて…と。とりあえず、出ますか」
 佐伯にかけられた一言に、考え込んでいた時田は、ハッと我に返った。
 「出る?」
 「うちのコーヒーは、時田さんの口には合わないようですから。隣の喫茶店のブレンドが、結構いけますよ」
 「…編集長が、就業時間に留守にしていいのかい」
 「まあ、こういう時位、息抜きさせていただかないと」
 ニッと笑う佐伯に、時田は苦笑し、同意の意をこめて肩を竦めた。そして、佐伯が促すのに従い、ガラス張りのミーティングルームを出た。

 編集部の中を横切る間、あちこちから視線を感じた。
 まあ、テレビにもたまに顔を出している時田なので、好奇心も手伝っているのだろう。けれど、蕾夏が置かれた状況を思うと、自分が注目を浴びるのはあまり喜ばしいことではない。
 ふと、覚えのある視線を感じた気がして、時田は一瞬、足を止めた。
 軽く周囲を見渡す。そしてたどり着いた先には―――何かの資料を胸に抱いた蕾夏が、立っていた。
 時田と目が合うと、蕾夏はニコリと微笑み、深々と頭を下げた。つられたように、時田も頭を下げる。話すべきことは多々あったが―――やめておいた。

 ―――さて…どうするかな。
 再び、前を行く佐伯の背中に視線を戻した時田は、考え込むように僅かに眉を寄せていた。


***


 「僕がイギリスに戻る前に、写真撮りに行かないかい」
 隣に座る時田に小声でそう言われ、瑞樹は危うく、飲みかけたビールを吹き出しそうになった。
 「はぁっ!?」
 「いや、そんなに驚かれると、困るんだけどね」
 ニコニコと、また何をたくらんでるのやら分からない笑い方をする時田に、瑞樹の眉が不審につり上がる。瑞樹は時田を師として尊敬しているし感謝もしているが、全幅の信頼を寄せている訳ではない。騙された経験から、時田は油断ならない男だと肝に銘じているからだ。
 「ロンドンではちょくちょく行ったじゃないか」
 「…あの頃限定ですから」
 ロンドン時代は、時田のアシスタントという立場だったから、時田郁夫というビッグネームと一緒にプライベートな撮影に行ってもあまり違和感は覚えなかった。しかし、一旦その立場を離れてしまえば、「今度撮影旅行にでも」なんて気軽に話す相手とは到底思えない。それに、前回同じ事を言われた結果、一緒に撮影に行った先はイギリスだったのだから、はいそうですね、と答える気になれる訳がない。
 なのに、時田はその辺りの心情を酌んではくれないらしい。
 「冷たいなぁ。久々に“宝探し”する2人を見たいんだけどなぁ」
 「……」
 「お台場行ってみたいんだけどねぇ、僕は。暫く行ってない間に、随分様子が変わったようだし。出発の前日なら丸1日空いてるから、好きなだけ時間費やせるよ。あ、なんなら帰りに飲みに行くのもいいねぇ」
 「―――今度は何、たくらんでるんですか」
 警戒モード120パーセントで横睨みする瑞樹に、時田は、周囲の目も恐れず豪快に笑った。
 「ハハハハハハ、信用ないねぇ、成田君」
 「…自分の胸に手を当てれば分かるんじゃないですか」
 冷たく言い放った時、時田とは反対側の隣の席からの視線を感じ、瑞樹は口に運びかけたグラスを止めた。
 「―――…」
 さっきから、時田と瑞樹の会話に興味を覚えて様子を窺っていた桜庭の視線と、瑞樹の視線がぶつかる。なんだよ、という目を向けると、別に、という、嫌味ったらしい目つきが返ってきた。
 ―――地獄の席だな、ここ。
 早く他の連中が時田に話を振ってくれないだろうか。大体なんで桜庭が隣にいるんだ?―――様々な言葉を心の中だけで吐き出しながら、瑞樹はビールをぐいっとあおった。


 時田が帰国した週の、週末金曜日。時田事務所を利用している主要メンバーがなんとか集まれるので、ちょっとした酒宴が設けられた。現在、その真っ只中である。
 なんだってこんな席に押し込められたのか、その経緯は、若干遅れ気味に会に駆け込んだ瑞樹にはほとんど分からない。とにかく、気づいたら時田と桜庭に挟まれていたのだ。瑞樹としては、1人で勝手に盛り上がってくれる溝口あたりの隣が気楽で良かったのだが…全く、ついていない。

 今回の時田の滞在は、2週間ほどと極端に短い。勿論、時田自身の仕事のための帰国でもあるが―――主要な目的は、実は、例の“Clump Clan”と瑞樹との契約に立ち会うことにある。
 去年の“VITT”のポスターは、表向き、時田が撮ったことになっている。“Clump Clan”側も、そのつもりでいるので、当然今回の話は時田の所へ行った。
 ここまでは、想定通り。問題は、その先だ。
 瑞樹は「適当な理由をでっちあげてくれ」と言ったのだが、時田は「僕は正直さが信条だから」と、瑞樹からすれば抱腹絶倒もののセリフを吐いて、ロンドン本社にいる“Clump Clan”の社長に、事の真相を洗いざらい話してしまった。つまり、「あれは僕が撮ったもんじゃないんですよ、実は…」と、瑞樹が撮ったことを「ここだけのオフレコで」を条件に暴露してしまったのだ。
 そんな真似したら、仕事そのものがキャンセルになるぞ、と瑞樹は思ったのだが―――これも、想定外。“Clump Clan”のオーナーは、「ああ、そうなんですか」と言って、あっさり瑞樹との契約を希望し、時田に立会いを依頼したのだ。
 あれだけの有名ブランドなのに―――時田の名前に釣られていない点では表彰モノだが、無名カメラマンの起用をあっさり決めるその豪胆さに、さすがの瑞樹も頭がクラクラした。もっとも、その位の大胆不敵さがないと、世界規模での成功なんて収められないのかもしれないが。


 「あ、そうそう」
 やっと落ち着いて酒や食べ物にありつけた頃、まだ隣にいた時田が、今思い出した、というように瑞樹に話しかけた。
 「来週、“Clump Clan”行く前日に、“I:M”にも挨拶に行くから」
 「……」
 不意打ちな話だ。時田の意図が見えず、瑞樹はまた眉をひそめた。
 「なんでまた、“I:M”に?」
 「いけないかい? あそこ、毎回僕が表紙を担当してたのを君に任せたから、バックナンバーとか見せてもらいたいと思ったんだけどね」
 ―――ほんとにそれだけかよ。
 “I:M”には思うところの多い瑞樹だけに、時田の唐突な一言に、何か裏があるのではないかと勘ぐりたくなる。
 とはいえ、やめてくれ、と言うような理由は何もない。
 「…俺、その日は朝から他との打ち合わせなんで」
 ご一緒はできません、と言外に告げると、時田はニコニコ笑いながら、
 「ああ、いいよ。僕ひとりで十分だから」
 と答えた。時田のニコニコ笑いは、危険のシグナルだ。瑞樹は、更に警戒を強めて、飲み食いに没頭することにした。

 時田は、その話を終えるとすぐ、「ちょっと電話する所があるから」と唐突に席を立った。
 ホッとしたのも束の間。
 「ねえ」
 今度は、桜庭が話しかけてきた。
 ―――落ち着いて食わせろよ、頼むから。
 うんざりしながら、瑞樹は不機嫌な目だけ桜庭の方に向けた。
 「……何」
 「時田さんと何話してたのよ」
 「別に」
 「気になるじゃないの、時田さんほどの大御所相手に、あーんな険悪な目つきするなんてさ」
 「あんたと関係ある話じゃねーから、気にすんなよ」
 「…あのね。こういうのは、関係あるとかないとか、そういう問題じゃ、」
 「ええーっ! 本気かよ!」
 突如、少し離れた席から溝口の大声が上がり、桜庭の言葉が止まった。
 何事かと思い、2人がそちらに顔を向けると、自分たち以外の参加者は、皆溝口らを中心とした話に参加していたらしい。長細いテーブルの端の方に座っていたので気づかなかった。
 しかし、話の中心にいるのは、溝口本人ではなかった。溝口の隣に座る、溝口と同い年のデザイナーだ。
 「こちとら独り身だってのに、この贅沢モンがっ。あんな美人の女房に可愛い娘までいるのに、何が不満なんだ、何がっ」
 「そうは言うけどさぁ〜。結構イロイロ難しいんだぜ? 結婚てのも」
 憤慨する溝口に、彼は「これだから独身は分かってないね」という顔で、ぶちぶちと反論していた。よく分からないが、家庭問題らしい。
 「ねえ。何の話?」
 桜庭が声をかけると、他の10人ほどの目が、一斉にこちらに向いた。自分の問題でもないのに、説明したのは、何故か溝口だった。
 「いや、もー、成田も桜庭も聞いてよ。こいつってば、メチャクチャ美人の元モデルと結婚して、4歳になるすんげー可愛い娘もいるってのに、離婚するって言うんだぜ?」
 「離婚?」
 「そ。しかもその理由が、こいつの浮気が奥方にバレて、それが発端となった泥仕合の夫婦喧嘩だってんだから、聞いて呆れるだろ?」
 「あのなー。それは単なるきっかけ。元々、あいつがまた働き出した頃からギクシャクして、もう1年近くもめてんだぞ」
 溝口の説明に憤慨したかのように口を挟んだ当人は、ビールを一気にグラス半分まであおり、イライラを吐き出すように続けた。
 「そりゃあさ。オレにも悪いところがあったと思うよ? けどあいつ、オレの仕事に理解なさすぎなんだよ。こういう仕事は、自宅とか出先とか関係なく、デザイン思いついた時が勝負だろ? だから、頼むから仕事に集中させてくれ、って言うのに、やれ非協力的だとか、家族より仕事が大事なのかとか―――浮気の話だって、たった1回きりの話だぜ!? どうにも仕事が上手くいかないし、家帰っても喧嘩ばかりでムシャクシャしてたから、パーッと気晴らししただけじゃねーか。しかも相手、素人じゃないんだし―――オーバーだっつーの。自分だってブティックの同僚と飲み歩いたりしてる癖に…」
 「あーあー、やだね、男の嫉妬。自分より若いイケメン店員と奥方が仲良くしてるからって」
 「溝口いぃ! 貴様、なんて友達甲斐のない奴なんだっ!」
 個人的にも付き合いのある2人の会話は、ほとんど掛け合い漫才である。内容の深刻さの割には、周りで聞いている連中の顔は面白がっていた。
 「んで、どうするんだよ」
 「うー…、現在、夫婦で協議中。娘はあっちが引き取るって言い張るんだけど、オレだって娘とは離れたくないよ」
 「いやいや、再婚とか考えたら、身軽でいた方がいいぞ」
 「ええ、僕なら身軽さより子供選ぶなぁ」
 「なぁなぁ、桜庭はどう思う?」
 「え?」
 それまで傍観していた桜庭は、急に話を振られて、一瞬ぽかんとした顔をした。
 「どう思うって?」
 「こいつ、別れた方がいいと思う? それとももうちょい我慢して様子見ろ、って思う?」
 シンプルな質問に、桜庭は、不愉快そうに顔を顰めた。
 「そんなこと言ったって、本人たちが別れる気満々なんだから、周りがどう言ったってしょうがないんじゃないの?」
 「いや、だから、本人たちを後押しするか引き止めるか、って話」
 「―――そういうことなら、あたしは止めるかな」
 おお、意外、と周囲から声が上がる。桜庭の顔が、余計不愉快そうになった。
 「何よ、何が意外なのよ」
 「いえいえ。で、なんで? 講釈をどうぞ」
 おどけて溝口が促すと、桜庭は、ちょっと言葉に詰まった後、言いにくそうに口を開いた。
 「…あたしは、父と死別してるから」
 「―――…」
 その一言に、場の温度が、一気に下がった。
 「もう結構大きかったけど、それでもあの時は、凄く寂しくて辛かった。…子供、まだ4つなんでしょ? “パパなんて大嫌い”って日頃から公言してるような子供ならどうだか分かんないけど、極普通に育ってる子なら、辛いんじゃないの。どっちが引き取るにしてもさ」
 「…そ…それは、重たいセリフだなぁ…」
 離婚問題の当人の顔が、引き攣る。“パパなんて嫌い”も“ママなんていらない”も聞いたためしがないので、余計に。
 「母親と2人きりになった時の寂しさをよく覚えてるから、多少ムカつくところあっても、子供が泣くこと考えて我慢しろ、って怒鳴りたくなるのよね。だから、反対」
 経験に裏打ちされた言葉は、重い。無責任な発言を重ねていた連中が、咳払いしながら黙り込んだ。
 そんな中、離婚反対派の溝口は、桜庭の加勢に気を良くしてか、比較的明るい顔をしていた。そして、桜庭より奥の席で、桜庭以上に不愉快そうな顔をしてビールをあおっている瑞樹に向けて、
 「なあ、成田は?」
 と訊ねてきた。
 正直、この話は、瑞樹にとっては最高レベルにムカつく話題だった。既にそっぽを向いているに等しい状態だった瑞樹だが、それでも、溝口の声に僅かに顔をそちらに向けた。
 「何が」
 「だから、こいつの離婚。賛成? 反対?」
 そう問われた瑞樹は、皮肉っぽく口の端を上げた。
 「―――…くだらねぇ」
 「は?」
 「子供に同情するね。そんなくだらねー親を両親に持って」
 これ以上下がることはないと思われていたその場の温度が、がくんと一気に下がる。今度はさすがに、溝口の顔までもが引き攣った。
 「ちまちました浮気や嫉妬で、1年近くも痴話喧嘩かよ。それを延々見せつけられてる子供の身になれ。そもそも、その程度のことで、子供のことも忘れてくっつくの離れるのギャンギャン騒ぐ程度の覚悟なら、ガキなんか作るんじゃねーよ。避妊もできねーほど盛ってんのか、貴様らは」
 「……」
 「あんたらには色恋沙汰の方が子供1人の命より重いらしいから、子供のためにもさっさと別れろ。低俗な喧嘩見せられる苦痛が長引く分だけ、不幸だろ」
 スッパリと斬り捨てるように瑞樹が言うと、半ば、顔が青褪め始めてしまっている当人が、ぎこちない笑みを作って口を開いた。
 「い、いや…けど、娘は、まだ4つだし」
 そこまで分からないだろう、ということを滲ませたセリフに、瑞樹は、余計皮肉っぽく笑った。
 「4つだからって、ガキをなめんなよ。案外、結構なことを理解してるもんだぜ」
 「―――…」
 今度こそ、誰も言葉を発しなかった。
 ただ1人、当事者だけが、
 「ど…どうすりゃいいんだ〜〜〜!? な、なあ、どう思う!? お前もうちの子がオレたちの痴話喧嘩に愛想尽かしてると思うか!? なあ、どーすりゃいい!?」
 と騒いでいたが、誰一人、彼と目を合わせようとする者はいない。それどころか、その話題から逃げるように、全く別の仕事の話などを始めてしまった。
 「成田っ! お前、罵倒したからには知恵貸せよっ!」
 半泣きで噛み付いてくる相手に、瑞樹は、けっ、という顔でそっぽを向いた。言いたいことは全部言ったが、近年稀に見るほど、気分は最悪だった。

 ―――くだらねぇ。
 吐き気がしてくる。
 桜庭が言うまで、一度として「子供の意思」について触れることのなかったあの男に、心底吐き気がしてくる。たった4つの子供には、意思を決定する力もなければ、痴話喧嘩の意味を理解する頭もないと思っているのだろうか。

 目の前で翻る、浴衣に描かれた藍色の朝顔の花。
 振りほどかれた手が、遠ざかる―――どんなに呼んでも、一度として振り返ることのなかった、華奢な背中。自分の3倍もある背丈の人間に囲まれて、妹と2人、どうすればいいのか分からず呆然としたあの日…瑞樹は、4歳だった。
 そう―――たった4つでも、結構なことを理解しているのだ。

 焼け付くような胸を鎮めるように、瑞樹は、手にしたグラスを一気にあおった。

***

 会がお開きになると、溝口達は二次会とやらに流れてしまった。
 時田が「明日の朝が早いから」と言って帰ってしまったので、瑞樹もそれに倣い、二次会はパスした。例の離婚でゴタゴタしている男が縋るような目で「お前も来い」と訴えかけていたが、そんなことは知ったことじゃない。深酒になって絡まれては敵わないので、あっさり無視するに限る。

 「成田っ!」
 駅に向かって1人で歩いていたら、背後から聞き覚えのある声が追いかけてきた。
 瑞樹が振り返るより早く、声の主は、瑞樹に追いつき並びかけた。珍しく皮肉を含んでいないその微かな笑顔に、瑞樹は怪訝そうに眉をひそめた。
 「桜庭―――二次会、行ったんじゃなかったのか?」
 「あたしもパスした。人生相談の相手させられるのは、真っ平ごめんだから」
 「…だろうな」
 「駅まで、一緒していいかな」
 「……」
 どういう風の吹き回しだろう? 普段の桜庭は、瑞樹の顔を見れば必ず、ケチをつける部分を無理にでも探し出しては、何か一言言わないと気が済まない、といった感じなのに。
 「…どのみち、駅に行くには、この道しかないだろ」
 「そりゃまあ、そうだけど」
 よく分からない。瑞樹は、とりあえず突っぱねるのも面倒なので、それ以上何も返さずに再び歩き出した。そんな瑞樹に、桜庭もそれ以上言わずに並んで歩き出した。
 少しの間、無言のまま歩く。口火を切ったのは、桜庭だった。
 「あのさ―――さっきの話だけど」
 「さっきの話?」
 「離婚の話。…もしかして成田って、親が離婚した経験アリ?」
 珍しく、気を遣ったような口調で訊ねる桜庭に、瑞樹は無表情に、
 「まあな」
 と短く返した。
 すると桜庭は、少し気まずそうな顔をして、視線を落とした。
 「…あたしもさ。親の離婚の経験者なんだ」
 「は?」
 それは、さっき聞いた話と矛盾するのではないだろうか。瑞樹は眉をひそめた。
 「死別って言ってただろ」
 「…死別は、子供の時。あたしが高1の時、再婚したんだ。で、うまくいかなくて、1年で離婚」
 「……」
 なかなか―――桜庭も、複雑な家庭に育ってきたらしい。
 「子供の歳が4歳って聞いて、つい父親と死別した時のこと思い出して“我慢してでも両親揃っていてやって”なんて言っちゃったけど―――ちょっと、後悔。離婚の時は、とっとと別れて正解だ、って思ったし、実際、別れた時には気分爽快だったもの」
 「…ふうん…」
 「あんたは、そんなこと、なかった?」
 「俺?」
 どう…だっただろう?
 気分爽快、という気分とは、かなりかけ離れていたように思う。
 一番強かったのは、安堵感。もう大丈夫、もう安全だ―――母に殺される危険も、思い余って母を殺してしまう危険も、もうなくなった。そのことに関する安堵感だ。
 それと、不安―――母はちゃんと海晴に“母親”らしく接してくれるだろうか? 自分が必死に海晴の目を背けさせて隠してきたものを、ちゃんと隠しおおせるだろうか? …そういう不安。
 そして、最後に、妙にサバサバとした開放感。もうこの家には、父と自分しかいない。父は瑞樹にとって、一緒に戦ってきた“同志”だったから、ここには味方しかいないんだ、と思うと、楽に呼吸ができた。
 一言で言うのは、難しい。
 けれど、言葉を重ねて説明するほどの相手でもない。桜庭に同意を求める気など、瑞樹には全くなかった。
 「…忘れたな。昔すぎて」
 結局そう、答えていた。


 これまで周囲に離婚した親を持つ知人や友人がいなかった、と打ち明けた桜庭は、仲間を見つけたと感じたのか、妙に嬉しそうだった。
 一方の瑞樹は、たとえ同じ「離婚した親」を持っていようとも、桜庭を仲間とは思えなかった。いつもの無表情のまま歩きながら、1時間ほど前、ビールと一緒に飲み込んだ筈の焼け付くような何かを、また胸の辺りに感じていた。


 何故か無性に、蕾夏に会いたかった。

 たとえ会えなくても―――1秒でも早く、蕾夏の声が聞きたかった。


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