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― Synchronicity -2- ―

 

 思いがけない話を聞かされて、蕾夏は目を丸くした。
 「キャンセル?」
 「そういうことです」
 蕾夏の言葉を、編集長はあまりにもあっさりと肯定した。
 「参りましたねぇ。リビングものの撮影には定評のある人だったんですが、いかんせん、オファーの捌き方が下手というか何というか…。本人の知らないうちに、ダブルブッキングになっていたそうです。まあ、知らないと言えども、ご本人の仕事なんですから、スタッフのせいにはできませんが」
 「は…あ…」
 「それで、うちの仕事の方が切られた、と。大手出版社と中小の広告代理店の仕事で、“見捨てたら代わりがいないだろうから”と後者を選ぶ辺りは、なかなか立派です」
 「…で、私の記事の写真は、どうなっちゃうんでしょうか…」
 そう。カメラマンがキャンセルしたのは、蕾夏が担当する記事、“花とくらす”の仕事なのだ。
 撮影は来月の半ば。マンションやアパート住まいを想定して、室内に花を取り入れ“花とくらす”ことを提案するような記事なので、リビングやキッチンを備えた戸建て形式のスタジオを借りて撮影することになっている。興味のある撮影なので、蕾夏も撮影に立ち会おうと楽しみにしていたのだが―――まさか、向こうからキャンセルされるとは。
 「今、編集側で代わりのカメラマンを探してますよ。けど、なかなか苦戦してるようですねぇ…」
 「そうですか…」
 困ったなぁ、という風に蕾夏が眉を寄せると、編集長は、少し考えた後、何かを思いついたように蕾夏にこう言った。
 「藤井さんも、心当たりはないですか?」
 「え?」
 「代わりのカメラマンですよ。うちは、依頼するカメラマンをある程度固定しているので、一見さんはなかなか頼み難い部分があるんです。藤井さんに心当たりがあれば、推薦してくれるとありがたいんですが」
 「推薦、ですか」
 一瞬、瑞樹のことが頭に浮かんだ。
 瑞樹なら、“A-Life”と契約しているカメラマンだ。1度は助っ人扱いだからカウントしないにしても、“映画(シネマ)ノスタルジー”の写真はそこそこ評価も得られたように思う。たった1度ではあるが―――全くの一見さんよりは、使いやすい筈だ。
 ―――でも…その、たった1度の仕事が、私の記事の写真なんだよね。
 前回は蕾夏の推薦ではないが、同じカメラマンの仕事が連続して蕾夏の仕事では―――しかもそれが、時田の後釜である瑞樹では、あの嫌味な連中に「どうぞ突っ込みを入れて下さい」と言っているようなものだ。まずい。蕾夏は、一瞬考えた可能性を、即座に棄却した。

 瑞樹と2人で決めたのだ。最終目的のためには、焦らず慎重にやっていこうと。
 この年齢で、揃って業界でのキャリアがゼロ。にもかかわらず、こうして恵まれた環境にいることを、“才能”のせいだなどとは、2人共思っていない。本来なら、もっと若い新人と一緒に苦労していて当然―――そうなっていないのは、ひとえに時田や淳也がいい仕事を紹介してくれたからだ。地道にコツコツキャリアを積み上げてきた人間から見たら、さぞ腹立たしい存在だろうことは、蕾夏にも理解できる。
 だから、慎重にしなくては―――2人が写真集を作り上げても誰も文句を言ったり潰そうとしたりしないように、地道に実績を重ね、自分自身の力で認められるようにしなくては。瑞樹との仕事は酷く魅力的だが、周囲が是非と言ってくれるのでなければ意味がない。立場を利用して仲間に仕事を割り振っている、などと陰口を叩かれるのは、どう考えてもマイナスだ。

 「うーん…難しいですね…」
 眉根を寄せる蕾夏に、編集長はなおも食い下がった。
 「時田さんのアシスタントをしていた経験から、多少知ってるカメラマンとかいませんかね。特にジャンルはこだわらないんですが」
 「とはいえ、スポーツ専門のカメラマンとかは、駄目ですよね」
 瑞樹の話によく登場する溝口というカメラマンを思い出し、そう言ってみた。当然だが、さすがに編集長も難しい顔になった。
 「それは、無理でしょうねぇ…」
 「うーん…」
 去年の、時田事務所を使っているカメラマン達によるグループ写真展。あの時見た写真を思い出そうとするのだが、瑞樹の写真ばかり思い出されてしまう。他にどんな写真があっただろう?
 女性ウケしそうな結婚式の写真があったな、と思い出したが、あれは駄目だな、とすぐ却下する。ああいう甘い写真が欲しい訳じゃない。題材は花や家具だが、できれば甘さよりカッコよさに重点を置いたような写真がイメージにしっくり来るような―――…。
 そう考えた時。
 蕾夏の脳裏に、1枚の写真が思い浮かんだ。
 「……あ!」
 「え?」
 急に蕾夏が声を上げたので、編集長がちょっと驚いた顔をした。
 「心当たり、ですか」
 「え、ええ。でも、私が直接知ってる人ではないんですけど…」

 漆黒を背景に、鮮やかに浮き上がった、1輪の真紅の薔薇の花。
 感じ取れた“想い”は、凄絶で、切なすぎる想いだったように思う。けれど蕾夏は、あの写真がなんとなく好きだった。
 その後、「あの写真を撮った奴が請け負ってる雑誌だ」と本屋で瑞樹に教えられた雑誌には、花の写真という言葉から想像する甘さとは一線を隔した写真が載っていた。写真展で見たような強烈さはなかったが―――やはり、個性的な写真だな、と蕾夏は思った。

 あの人が作り上げる“花とくらす”は、どんな感じだろう―――そんな興味が、蕾夏の中に生まれたのだった。


***


 「桜庭は現在撮影に出ておりまして、本日はこちらには寄らずに帰宅することになっておりますが―――はい…、はい…、では、そのように伝えます。どなた宛にお電話さしあげればよろしいでしょう?」
 背後から聞こえる事務の川上の声に、時田は、書類を片付けながら何の気なしに耳を傾けていた。

 それにしても、書類だらけだな―――デスクの上を見下ろして、ため息をついてしまう。
 まあ、1年の大半をイギリスで過ごしていながら、まだ時田は日本人なのだから、留守宅である日本に公的な書類がたまっていくのは当然だろう。仕事関係も、急ぎのものは川上にFAXさせているが、それ以外は山積状態…僅かな帰国の間に片付けるしかないのだ。
 時田が編集者だった時代の同僚でもある川上は、時田の「デスクワーク的なゴタゴタした雑事」を嫌う性格をよく知っている。だから去年、仕事の多くを瑞樹に譲り、ほんの僅かの仕事を残しては日本のクライアントをバッサリ切った時、事務所の機能も全てロンドンに移せばいいのに、と川上は言った。
 もっともな話だ。実際、ロンドンにも時田のオフィスがある。この事務所を畳んでしまえばいいだけのことだ。けれど…なんとなく、時田はここを閉めたくはなかった。
 自分自身の事務所としてであれば、閉めることも考えないでもない。でも、若手のカメラマン達のビジネスツールとしてのここは、どうしても閉める気にならない。それは、彼らのため、というより多分―――彼らと同じ年頃だった頃の自分を忘れたくない、時田自身のためだろう。
 大御所、なんて祭り上げられるのは、はっきり言って嫌いだ。瑞樹や溝口のような連中と、ワイワイガヤガヤやっている方が、断然いい。

 ―――なのに、周りはそうは扱ってくれないんだよな。
 迷惑な話だな、と、時田は顔を顰めた。時田を大御所扱いする連中のことで、少々頭を痛めている今だからこそ、余計に。

 「桜庭君に、仕事の依頼かい?」
 川上が受話器を置く音を耳にして、時田は振り返りざま、そう訊ねた。
 「ええ。結構急ぎみたいだから、携帯にメール入れることになったのよ」
 「どこ?」
 「“A-Life”ですって」
 その返答に、時田は眉をひそめた。
 「“A-Life”?」
 「あそこって、前は時田君が時々撮ってたとこよね? 成田さんには何回か電話が来たと思うけど、桜庭さんは今回が初めてだと思うわ。珍しいわね。確か4、5人、契約結んでるカメラマンがいた筈だけど…それでも間に合わなかった話なのかしら」
 「……」

 『時田さん、誰かいいカメラマン、紹介してもらえませんかねぇ。雰囲気作りが大事な記事なんで、キャンセルされて結構困ってるんですよ』

 昨晩、一緒に飲みに行った際の佐伯の愚痴を思い出した時田は、内心、舌打ちをした。
 ―――あいつ、肝心なとこで押しが弱いなぁ…。
 どうせ、蕾夏の自主性を重んじる、とか何とか考えて、ピンチヒッターとして瑞樹の名を出すことはあえてしなかったのだろう。元々、腹芸の出来るタイプの人間ではないから、いくら時田がアドバイスしたからといって、そう出来なくてもまあ仕方ないのかもしれないが。
 「…ま、事情は知らないけど、あそこの仕事はやって損はないよ。金払いがいいし、“たかが記事のお飾り”扱いしないからね」
 “どっかの誰かとは違って”。
 …と続けそうになったが、やめておいた。まさにこれから、その“どっかの誰か”との対決なのだから。
 「じゃ、出かけるんで、後はよろしく」
 時田がそう言って席を離れると、
 「戻ったら書類、片付けて下さいよ」
 背後から川上に言われた。はいはいはい。ちゃんとやります。心の中でだけそう答え、時田は事務所を後にした。


 春まだ遠い街中を歩きながら、時田は考えを巡らせていた。
 考えるべき事が、多すぎた。瑞樹の仕事のこと、蕾夏の仕事のこと、そして…奏のこと。そのどれもが、根底では1つのものに繋がっていることを、時田は感じていた。
 それは多分、時田があの写真を初めて見た時、真っ先に惹かれたもの。
 2人の間で同調(シンクロ)する、何か―――2人しかいない、2人だけにしか見えない世界。贅沢すぎて、豊かすぎて、誰にもその中には入れない。その世界を守るために、今、必死に戦っている。いつか、誰からも認められる形で2人でいるために。
 ―――奏君も、だから、辛いんだろうな。
 あの2人が普通の恋人なら、まだ楽だったに違いない。
 恋人であり、親友であり、仕事上でも欠くことのできないパートナーであり…1つの枠には入らない関係。あの2人の世界のどこにも、奏の居場所はない。2人だけで完結してしまっている世界に、お互い以外に必要な存在なんて、1人もいないのだから。

 …さて。どうするか。
 帰国以来、何度も繰り返した言葉を、時田はまた、心の中で繰り返した。

 

 敵の陣地に到着したのは、約束の時間の5分後だった。
 「やあ、どうもどうも、お久しぶりです」
 対応に出た“I:M”の編集長は、昔から豪勢に笑いを振りまく男だった。今日も、笑顔の大盤振る舞いをしている。ふくよかな体型も相まって、やたら裕福で、栄養が行き渡っているように見える人物だ。
 会社のケチさ加減とは正反対だな―――そんな風に思いながら、暫しじっと編集長を見つめてしまう時田に、編集長が怪訝そうな顔をした。
 「? どうかされましたか」
 「…いえ、なんでも。どうですか、売り上げの方は」
 「おかげさまで、順調ですよ。ビジネスマン向けの月刊誌では、常にトップ5に入ってますから」
 大黒様のような笑顔で、編集長はそう言って満足そうに体を揺すった。なるほど。去年、瑞樹をここに連れてきた時、「今の編集長、どう思う?」と時田が訊ねたら、瑞樹が「…金の小槌が似合いそうなおっさんでしたね」と無表情に答えていたが、その意味が今になって分かった。時田は、思わず吹き出しそうになって、それを慌てて押し殺した。
 来客用のテーブルの上に出されたコーヒーに、とりあえず口をつける。ほっと一息ついた時田は、ようやく本題を切り出した。
 「それで―――後を任せた成田君は、どんな様子です?」
 「ああ、よくやってくれてますよ。あれ以来、全ての号の表紙をお願いしてます」
 「そうですか。それは良かった。ところで…うちの事務所の川上から話を聞いたんですが、なんでも“I:M”さんから成田君への緊急連絡が、月に2度ほど、必ずあるとか」
 にっこり笑って時田が放った一言に、編集長の表情が、ほんの僅かだけピクリと動いた。
 「成田君から、報告は受けてますよ。なんでも、僕とバトンタッチする少し前に、契約カメラマンが1人辞めたとか。成田君は、こちらでは表紙を撮影するという話だったので、それ以外の仕事を本当に請けていいのかどうか迷って電話してきたようですが」
 「あ…ああ、ええ、そうなんですよ。急に契約破棄した、とんでもない奴が1人いましてね。我々もですが、他のカメラマンも迷惑してるんです」
 「そのようですね。まあ、彼もまだ若いので、自分の得意分野を見極めるためにも請けてやれ、と答えたんですが、」
 そこで一旦、言葉を切る。そして次の言葉を口にする時田の笑顔は、よりにっこりと―――瑞樹曰く「一番信用してはいけない笑顔」になっていた。
 「どう考えても、1人辞めた分を、成田君含め4人で均等割りしたとは、到底思えない分量なのは、何故でしょう?」
 「―――…」
 「しかも、その大半は、カメラマン名も載らない広告記事だそうですね。それだけならまだしも、川上が取りまとめている成田君の収支報告によれば、“I:M”さんからの入金は、僕が表紙撮影をしていた時の金額より下回っているとか。僕は、新人なので多少の減額はやむを得ません、とは言いましたが、あそこまで極端な下げ幅を認めた覚えは全然ありませんよ」
 「いや、あの、ちょっと待って下さい!」
 慌てふためいた大黒様は、大きく手を振って時田を制した。さして暖房も効いていないというのに、その額には既に汗が滲み出していた。
 「そ、それは、成田さんからお聞きになったんですかっ」
 「まさか。事務の川上が、成田君との日頃の会話から事態を察して、心配して僕に教えてくれただけですよ」
 「そ…うですか…」
 「言っておきますが、僕は、だからと言って今すぐ成田君の待遇を改善しろ、なんて言うつもりはありません。これは成田君の仕事ですし、彼が黙ってその仕事を請け続けているのであれば、僕は何も言える立場ではないですからね」
 「…は、あ」
 「ただ、知りたいんです」
 作っていたにっこり笑いを引っ込め、時田は表情を引き締めると、少し身を乗り出した。
 「何故、そういう事態になっているのか―――他のカメラマンは、一体どうしたんです?」
 「―――…いや、なんと言いますか…」
 心底弱りきった表情の編集長は、スーツのポケットからハンカチを取り出すと、額に浮かんだ汗をせわしなく拭った。不意打ちの攻撃に、もはや七福神レベルの笑顔を作れなくなっているようだ。
 「…早い話、時田さんの後、成田さんが表紙を担当するのが、彼らとしては面白くないそうで」
 「は?」
 「いくら有名な写真家の推薦だからって、実績もない新人に表紙を撮らせるなんておかしい、と3人に詰め寄られまして―――中でも1人、時田さんが降りるのなら自分が撮ることになると思っていた人がいましてね。こっちも困ったんですよ。向こうの言い分も一理あるし、かと言って、成田さんの写真に不満がある訳でも、クオリティについてクレームがついた訳でもないんで」
 「……」
 「そんなことがあって、まあ…その3人のプライドと折り合いつけさせるために、成田さんには、ちょっと割に合わない仕事を割り振らざるを得ない部分があるんです。成田さん本人もそれは理解してるみたいですよ。一度、表紙を誰かに譲って、記事側のもっと重要な仕事をやってみないか、と担当者が持ちかけたことがあるんですが、あっさり断ったそうですから。まあ、表紙を飾るのは、カメラマンとしては一種のステイタスですからね。手放す訳がないんですが」
 ―――そんな理由じゃ、ないだろうな…。
 苦い思いに、時田は眉を顰めた。
 瑞樹は、ステイタスにこだわるタイプではない。職人と芸術家に分けるなら、極端な位に芸術家タイプ―――たとえ採算が取れなくても、自分の撮りたいものを追求するタイプだ。表紙撮影といえど、さして凝ったことをする訳でもないこの“I:M”の仕事では、彼には物足りないものだろう。本来なら、こんな理不尽な扱いをされる位なら、さっさと辞めてやる、といったところの筈だ。
 それでも、我慢して撮り続けているのは―――“I:M”の表紙、という仕事が、時田から引き継いだ仕事だからだ。
 自分を信用して明け渡した有名誌の顔という場所を、なんとか守っていこうとしているのだ。ああ見えて、意外に義理堅く責任感の強い男だから。
 「そ、それにしても、成田さんはよくやってくれてますよ。フットワークいいですしね。うちは、情報収集に金をかける分、他が本当に採算スレスレですから、文句ばかり言って単価の高いほかの3人に頼むより、成田さんに頼んだ方が経営面でも正解なんですよ。あ…とはいえ、ちょっと気軽に頼みすぎたとは思ってます。天下の時田郁夫の、唯一のお弟子さんだっていうのに」
 「…そういう問題じゃないだろ…」
 「え?」
 「―――いえ、なんでも」

 駄目だ。
 このままでは、せっかくの本能を削られてしまう。

 瑞樹の危機を感じ取りつつも、時田はとりあえず、またにっこりと笑っておいた。
 「お話は、分かりました。…じゃあ、バックナンバーでも見せていただけますか」

 …さて、どうするか。
 心の中で、また、同じ言葉を呟きながら。


***


 ノートパソコンのキーを叩いていた蕾夏は、ミーティングルームのドアが開いたのに気づき、顔を上げた。
 月に1度の、全部署揃っての企画会議。蕾夏は出席したことがないが、今日はライター代表なのか、瀬谷が出席しているのだ。
 「お疲れ様です」
 隣席に戻ってきた瀬谷に声をかけると、疲れた顔をした瀬谷は、無言で手を挙げて応え、ストン、と自分の席についた。
 「珍しいですね、瀬谷さんも合同企画会議に出るなんて」
 「ああ…まあ、今回は、とても無関係とは言えない話だったからね」
 疲れをほぐすように肩を回していた瀬谷は、そう言って、蕾夏の方に目だけを向けた。
 「来月は、藤井も召集がかかるから、覚悟しとくことだね」
 「……はっ?」
 「外部ライター、2名撤退決定だから」
 「えぇ!?」
 青天の霹靂とは、まさにこのこと。蕾夏は目を大きく見開き、瀬谷に詰め寄った。
 「ど、どーゆーことですか、それっ。誰が撤退なんですか!?」
 「連載コラムやってる女性ライター2名」
 「…てことは、“映画の中のクラシック”と“暇なしグルメ”ですか」
 「そう。“暇なしグルメ”は、タイトル通り暇がないんだ。6月号分で辞めるっていうんだから。“映画の中のクラシック”は少し余裕がある。9月号までらしい。辞める理由が妊娠・出産だから、働けるうちは働く、ってことだろう」
 「えー…、“映画の中のクラシック”、好きだったのになぁ…」
 映画の中に使われているクラシック音楽の雑学を披露してくれる音楽雑学コラムで、個人的に楽しみにしている連載だったのだ。蕾夏は、残念そうに肩を落とした。
 そんな蕾夏を一瞥した瀬谷は、冷ややかな表情で、
 「…おめでたいね、藤井も」
 と一言呟いた。
 「え?」
 「一読者になって、連載終了を悲しんでる場合じゃないだろう? 空いたコラム欄がどうなるのか、ちゃんと想像できてるのか?」
 「…いえ、全然」
 「先に終わる“グルメ”の方は、僕が担当することになった」
 「え、そうなんですか? 新しい外部ライターさんに頼むのかと思った」
 「二色刷り半ページ分だし、前から書きたい企画があったから、今の会議で概略だけ説明したんだよ。次にいつ企画提出の機会が来るか分からないからね。来月の会議に、正式な企画書を提出することになってる。ま、概略段階でほぼOKは出てるから、あのコーナーは僕の取り分ということで」
 では、“映画”の方はどうなるのだろう? カラーページの丸々1ページなのだが―――なんだか嫌な予感がしてきた。
 「で、問題の“映画”の方は―――当然、まずは藤井が企画を出す」
 「!!」
 「それが通らなければ、編集や外部ライターの企画を募って、そこから選ぶことになった。ま、いつもの企画検討会議と同じだな」
 「わ…私のが最優先なんですか!?」
 仰天した顔で蕾夏が叫ぶと、何を言ってるんだ、という顔で瀬谷が蕾夏の顔を睨んだ。
 「喜びこそすれ、そんな慌てふためいた顔をすることじゃないだろう? 自分の書きたい記事をプレゼンできて、しかもそれが認められれば、天下の“A-Life”に連載が1本持てるんだぞ?」
 「そ、そりゃそうですけど…初企画記事が、その天下の“A-Life”だなんて、企画出すのもおこがましいですよっ」
 「何を今更。その天下の“A-Life”のトップ記事を何回も書いた経験があるのに、後ろから8ページ目を書くのを躊躇うのもおかしな話だぞ」
 「…指示された企画で書くのと、自分で企画を立てて書くのじゃ、全然意味が違いますって…」
 「まあ、そう意気込むこともないんじゃないか?」
 サラリとそう言った瀬谷は、
 「藤井の出した企画が通るとは限らないんだし」
 きっちり、そう付け足して、手元の会議資料に目を移してしまった。
 はい、その通りですね―――ガクリとうな垂れた蕾夏は、大きなため息を一つついた。


 ―――自分の書きたいものを―――…。

 本当に好き勝手出してしまっていいのなら…答えは、1つしかない。
 瑞樹の写真に、文章を添える―――それが何の写真かは決めかねるし、ただ漠然と写真、と言うだけでは駄目だということも分かる。でも…どういうテーマにするにしても、そこに瑞樹の写真があれば、そこから自分の中に浮かび上がるものを、いくらでも綴っていくことが出来るから。
 前回の“映画(シネマ)ノスタルジー”の評判が良かったのなら…何かテーマを決めて、その写真の撮影者として瑞樹を推せば―――…。

 「…まずいよね」
 瀬谷には聞こえないほど、小さく呟く。
 瀬谷の言う通り、自分が出した企画が通るとは限らないのだ。通れば、多少の嫌味や妨害、毎月確実に瑞樹と一緒に仕事が出来ることを考えれば、我慢できる。けれど、下手に企画を出して撥ねられた場合―――余計、瑞樹の名前は出し難くなる。
 一番書きたいものだからこそ…今、表に出す訳にはいかない。あの連中の、蕾夏に対する目を変えさせる。それが先でなくては。
 分かっている。今、すべきことは。
 でも―――…。


 机の上に置いてある携帯電話に、ふと、目がいく。
 今日は瑞樹は、例の“Clump Clan”に、時田と一緒に行っている筈。既に5時も回っているから―――そろそろ、終わった頃だろうか。
 暫し、逡巡する。
 そして蕾夏は、思い切って携帯電話を手に取った。


***


 「大丈夫かい、成田君」
 「―――あんまり…」

 頭が、グラグラしていた。
 “Clump Clan”との契約は、1時間ほどで終わった。幸い、対応したのは日本支社の日本人支社長だったので、久々の英語に四苦八苦する羽目にはならずに済んだのだが―――…。
 社長が、自らのインスピレーションで起用を決めてしまった、実績9ヶ月のカメラマン。それを支社長が「はい、そうですか」と受け入れる訳もない。しかもこの支社長、ファッション業界では相当なたたき上げで来た人物らしい。ちゃんと撮れるんだろうな、そのカメラマンは、というムードがびしびし伝わってきた。
 結果、瑞樹が提出した見本写真20点あまりを、支社長はなんと、黙ったまま30分も吟味したのである。その間、瑞樹は勿論、隣にいる時田も、ひたすら立ちっぱなしである。
 そして、30分吟味した後、顔を上げた彼が瑞樹に放ったのは、質問の嵐―――いつ頃から撮っているのか、どういった写真が好みか、好きな色は、好きな音楽ジャンルは、夜間撮影にどの程度慣れているか…等々。時田の紹介だから、とあっさり起用されるよりは数倍ましだが、時々、それが撮影と何の関係があるんだ、という内容まであって、内心首を傾げながら、瑞樹は全部答えた。
 そして、出た結論は。
 『動きのある写真を撮る方ですね。それに、皮膚の下に流れる血をちゃんと感じられる写真を撮っておられる。納得しました。うちもね、よくある無表情でマネキンみたいなファッション写真は必要としてないんですよ』
 そして、ぽん、と提示された額は、実質2回の撮影にしては、相当高額な金額だった。おいおい、時田さんに払う金額と間違ってないか、と目を疑ったが、瑞樹が契約書にサインしてもなお、その金額が訂正されることはなかったのである。

 「そう気負うことはないよ」
 “Clump Clan”を出て、疲れ果てたようにぐったりした様子で歩く瑞樹に、時田は苦笑しながらその肩を軽く叩いた。
 「行くとこ行けば、あれが相場さ。それに今回は、新規展開っていう結構重たいイベントのための写真だし。実質の撮影は2回でも、打ち合わせやら何やらで結構大変だと思うよ。その“苦労代”も入ってる訳だから、トータルすればほぼ納得の金額だよ」
 「…時田さんには納得の金額でも、俺には重たすぎるって」
 「また“新人だから”とか言う気かい? 謙遜や遠慮を美徳と思うほど、優等生とも思えないけどねぇ、成田君は」
 「……」
 からかう時田に、何か返す気にはなれなかった。

 勿論、“新人だから”という気持ちも、少しはある。でも、あれだけきっちりと自分の実績や作品傾向を確かめた上での契約だから、新人なのに…と卑下するつもりはない。キャリア無関係に、純粋に自分の写真を気に入ってくれたのだ、と信じられる。
 だから、この重たさは、キャリアのせいではない。金額に見合う仕事ができるだろうか、という、不安と自信のなさから来る重たさだ。
 満足のいくものが撮れるかどうか…あまり、自信がない。
 何故ならば、それは―――…。

 「でも…成田君の人物写真って、不思議だね」
 唐突に、時田がそんなことを言った。
 「成田君の人物写真を、あんなに沢山見たの、今回が初めてだけど―――“Clump Clan”の支社長も言ってたけど、綺麗なお人形じゃなく、皮膚の下に赤い血が流れてるのを感じるような、温度のリアリティがあるよ」
 「…そうですか?」
 「うん。きついメイクをした顔なのに、表情を見ると素顔を感じる、って言うのかな…なんかこう、日頃、被写体が隠してるような部分を敏感に感じ取って、その瞬間を撮ってる気がする。奏君の写真もそうだった。無機質な人形が板についてた奏君なのに、成田君の写真では、家族である僕らがよく知ってる奏君が、そこにいた―――僕らが好きな奏君の表情が、あちこちに散らばってた。…不思議だね。君は“ポートレートは苦手だ”と言いながら、“人間”に強い感受性を持ってるらしい。いや―――…」
 足を止めた時田は、瑞樹の方を見、その目をまっすぐに見据えた。
 「“人間”に強い感受性を持っているからこそ―――人間を撮ることを恐れるのかな?」
 「……」
 反論のしようも、なかった。
 見えてしまうものはしょうがない、と蕾夏は言ってくれた。見えてしまうものに目を瞑って撮るのは、拷問に近い。けれど…見たくもないような物を、ファインダーの向こうにいる被写体の中に見てしまった時、目を瞑ることができたらどんなにいいか…そう、願う瞬間もある。
 人間を撮ることが、怖い―――母に植え付けられた、もう1つのトラウマ。克服したとはいえ、苦手意識と不安材料は、今も付きまとう。いや…恐らくは、一生。
 「―――奏君を、信じてやってくれ」
 「……っ」
 ふいに口にされた言葉に、瑞樹の目が、さすがにグラついた。
 どういう意味だ、と瑞樹が時田の目を見返すと、時田は、少し寂しげな笑みを浮かべた。
 「姉からの、伝言だよ。どういうことかは、残念ながら僕には分からないけどね。ただ…もし君が、今回の仕事に不安を感じている理由が“奏君”だったら―――信じてやって欲しい。あの子は、君といい仕事ができるのを、楽しみにしてる筈だから」
 「―――…」
 多分、嘘だろう。何も事情を知らない振りはしているが…想像はついているに違いない。千里と話をしたのであれば。
 分かっている。千里の言うことは。
 瑞樹が奏を敵視すれば、奏は追い詰められる―――奏を信じることが、蕾夏を守ることになるのだ、と。
 「…千里さんの伝言の意味、俺にもよく分かりませんが―――俺も、奏を撮るの、楽しみにしてますよ」
 瑞樹はそう言って、ふっ、と口元に笑みを浮かべた。
 「―――なら、いいけどね」
 時田も微かに笑い―――それ以上、その話題には触れず、再び歩き出した。

 嘘ではなかった。
 奏を撮るのは、楽しみでもある。仮面を取った奏は、エネルギーに溢れてて、魅力のある被写体だから。前回の撮影の時も、最初の1度を克服してしまえば、あとはシャッターを迷うことなく押せた。奏は、表情豊かな、天性の被写体だと思う。
 ただ。
 あの時は、傍に蕾夏がいてくれた。
 どんな醜態を晒すことになっても、必ず支えるから―――そう言ってくれる蕾夏が傍にいたから、奏に対するわだかまりを克服できた。
 ふと、渡されたスケジュール表を思い出す。
 6月1日のショーの撮影は金曜日だが、4月上旬のポスター撮影は、土曜日だ。場合によっては、蕾夏が休みの可能性もある。だとしたら―――…。

 「…いや、まずいな」
 思わず、口の中で呟く。
 奏に蕾夏を会わせる機会は、少ないに越したことはない。しかも撮影中だなんて―――奏を動揺させるだけかもしれない。一瞬考えたことを、瑞樹は即座に却下した。

 と、その時―――胸ポケットの中の携帯電話が、鳴った。
 「?」
 誰だろう? 瑞樹は、不審に思いながら携帯を取り出した。
 そして、液晶画面に表示された“rai”という文字を見て―――不覚にも、心臓が止まりそうになった。

***

 「瑞樹! こっち!」
 人ごみの中、蕾夏の姿を探す瑞樹を見つけ、蕾夏は大きく手を振った。それにすぐ気づいた瑞樹は、まっすぐに蕾夏の所へと駆けてきた。
 明日から3月といえども、すっかり日の落ちたこの時間、風は穏やかでも気温はぐっと冷え込んでいる。瑞樹を待つ蕾夏も、駆け寄った瑞樹も、寒さから身を守るように首を縮めていた。
 「悪い、少し遅れた。間に合うか?」
 「うん、大丈夫。でも、あんまり時間はないかも」
 金曜日ならレイトショーもあるが、なんでもない平日の映画の最終上映時間は、ギリギリ19時ちょっと前なのだ。瑞樹もそれは了解しているので、2人並んで、すぐに歩き出した。
 「珍しいな。久しぶりだろ、明日も仕事なのに、映画なんて」
 「ん…、なんとなく。時田さん、気を悪くしてなかった? 本当は瑞樹と飲みに行きたかったんじゃない?」
 「いや。そんな素振りもなかったし」
 「それなら、いいけど」
 「…仕事で、何かあったか?」
 やはり、何となく分かるのだろう。瑞樹が様子を窺うように蕾夏に訊ねた。
 「また、例の連中が何か言ったとか」
 「あはは…、ううん、そんなんじゃないよ。ただ…来月の企画会議にね、書きたい記事の企画案を出せ、って命令が下っちゃったから」
 「ライターも企画案出すことがあるとは知らなかったな」
 「でしょ。今度、ライターさんが辞めちゃうらしくて、カラー1ページ、丸々空いちゃうから、そこを埋めないといけないの。編集さんとか、外部ライターさんからも企画募るけど、私に優先権くれたみたい。別のコーナー、瀬谷さんが企画出して担当することに決まったから、バランス取ったのかも」
 そこまで言って、蕾夏はほっと一息つき、困ったような顔を瑞樹に向けた。
 「チャンスだけど―――なんかこう、困っちゃうよね、荷が重くて。新人なのに、書きたいもん書け、なんて言われると」
 「…確かに、そうかもな」
 瑞樹も、まさに少々荷の重い仕事を請け負ったばかりだ。思わず眉を顰めてしまった。すると、その瑞樹の考えを読んだかのように、絶妙すぎるタイミングで蕾夏が切り返してきた。
 「瑞樹は今日、どうだった? “Clump Clan”と契約できた?」
 「…まあな。金額に度肝抜かれたけど」
 「え、そんなに高額だったの?」
 「無名新人にしては、破格」
 「凄いね」
 「…単純に喜べねーよ」
 感心したような嬉しそうな蕾夏の表情に、瑞樹は正反対の重苦しい顔になった。
 「その金額に見合う仕事、何が何でもやらないとまずいだろ。お前の言葉じゃねーけど、荷が重い」
 「…うーん…確かにそうかも」

 なんとなく、言葉が続かなくなる。
 一時、お互い黙ったまま歩き続ける。沈黙を破ったのは、結局、瑞樹の方だった。

 「―――お前からメールあって、驚いた」
 「え?」
 キョトンとする蕾夏に、瑞樹は苦笑を返した。
 「俺も、後で電話する気でいたから。帰りに、どっかで会えないか、って」
 「ホント?」
 「マジで」
 意外な話に、蕾夏は驚いたように目を丸くしたが、次の瞬間、安堵したようにふわっとした笑みになった。
 「…良かった。明日も忙しいし、遅くなるのはまずいかな、って、ちょっと迷ったんだけど」
 瑞樹も笑みを浮かべ、蕾夏の頭をくしゃっと撫でた。そしてそのまま、蕾夏の肩を抱くようにして、少し歩く速度を上げた。
 「もうちょい急ぐか。“キャスト・アウェイ”、平日でも結構混んでるらしいぜ」
 「みたいだね。やっぱりトム・ハンクスとロバート・ゼメキス監督だから? “フォレスト・ガンプ”が賞を総なめした時のコンビだから、期待が大きいのかな」
 「かもな。俺はイマイチだったけど、“フォレスト・ガンプ”」
 「あはは…、ファンタジー入り過ぎてたかもね。私もゼメキス作品なら“バック・トゥ・ザ・フューチャー”の方が好きかも」


 本当は、お互い、話したい本音があったけれど。
 “来月の企画会議、瑞樹と一緒にする企画を出したいの”。“奏の撮影の時、できればアシスタントとして、一緒に来て欲しい”。…そんな一言を、それぞれ胸の奥に抱え込んでいたのだけれど。
 それぞれの言葉を飲み込んだ2人は、一時、その話は忘れることにした。


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