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― Synchronicity -3- ―

 

 土曜日のお台場は、家族連れやカップルで賑わっていた。
 「これは、40半ば過ぎのおじさん1人がカメラ片手にうろつける場所じゃあないねぇ。良かった良かった。若者が一緒で」
 時田はご機嫌でそう言い、瑞樹と蕾夏の背後を、悠々とした足取りで歩いている。が、2人とは歩く速度が違うので、多分傍目には「40半ば過ぎのおじさんが1人でカメラ片手にうろついてる」ようにしか見えないだろう。だからと言って、周囲から浮いてるとは、2人は思わないのだけれど。

 このノホホンとしたおじさんが、世界的写真家の時田郁夫だなんて、道行く人々は全然知らない。
 なんだかなぁ…と、瑞樹も蕾夏も、複雑な心境になる。
 勿論、世界的写真家にも、プライベートはある。撮る本能を失った、なんて言っていた時田を考えれば、愛用のライカM3を持ってぶらぶら歩くようになったのは、むしろ喜ぶべきことだろう。プロなのに、日曜カメラマンに混じって金にもならない写真を撮るなんて、などと、桜庭が言いそうなことを言う気は全くない。
 けれど―――やっぱり、どうにも納得いかない。なんでわざわざ、俺達を誘うんだよ、と。

 「向こう(ロンドン)でも、最近はこうやってのんびり撮りに行くこと、あるんですか?」
 時田の魂胆を警戒してか、あまり会話をしようとしない瑞樹に代わり、蕾夏が気を遣って話を振った。BMXの曲乗りをしている子供に興味深そうな目を向けていた時田は、その問いに、苦笑いを返した。
 「いやぁ、あんまりないね。藤井さんなんかが“趣ビルだ”って感動しまくってる風景も、僕にはもう“日常”と化してるし。刺激を受けないと、撮りに行きたいって気分も盛り上がらないし。だから、海外に撮影に行く時限定で、ライカ持ってぶらぶらしたりするよ」
 「うーん…そういうもんかも知れませんねぇ…」
 「むしろ、最近の僕にとっては、そこいらの海外の風景より、祖国である筈の日本の方が刺激的だよ。ミックスカルチャーというか、なんというか…独特の文化だよね。東洋と西洋がごちゃ混ぜになっているのに、誰も疑問を抱かない―――ビルの谷間に神社があったり、そこから徒歩1分に教会があったり…それでいて、宗教戦争も起こらない。島国根性とか言われてるけど、案外懐の深い文化だよ」
 「……」
 その言葉に、蕾夏は、一瞬息を飲んだ。
 “八百万(/やおよろず)の神々が住まう国”―――中学生でアメリカから帰国した時、その言葉を知って、蕾夏はいたく感銘を受けた。道端の石にも、草にも、木にも花にも風にも、この国ではいたる所に神様がいる―――なんて豊かで自由な思想なのだろう、と嬉しくなった。
 クリスマスにケーキを食べ、大晦日にお寺の鐘を聞きながら年越しそばを食べ、正月には神社に初詣に行く。そんなミックスカルチャーが当然のように成り立ってしまうのも、この国の基礎にそういう豊かで自由な部分があるからだ―――蕾夏はそう感じて、時には日本人批判の対象にもなるこうした風潮を、日本らしくていいな、と思っていたのだ。
 思わず、瑞樹の顔を見上げる。瑞樹も、蕾夏のそういう嗜好は知っているので、蕾夏の目が訴えていることはすぐ理解できた。
 「ここに、“同じこと考えてる人がいた”って無言で喜んでる奴が1人いますよ」
 ポン、と蕾夏の頭に手を置いて瑞樹が言うと、時田は、少し驚いたように蕾夏を振り返り、それから嬉しそうに笑った。
 「そりゃあ光栄だ。ふーん、今度、プライベートで帰国しようかな。藤井さん連れて日本列島縦断したら、新しい日本を発見できるかもなぁ」
 「―――“連れて行ければ”ね」
 釘を刺すようにそう言って口の端を冷ややかに上げる瑞樹に、時田は「冗談だよ」と苦笑を返し、またぶらぶらと歩き出した。


***


 時田からすれば、お台場など、さして撮りたいスポットでも何でもなかった。
 単純に“撮りたい場所”なら、他にいくらでもある。浅草の昔ながらの下町、銀座の味わいのある街角、足を伸ばして奥多摩の渓谷―――なのに、あえてお台場を選んだのは、ここが時田が知る限り、最も“風情”のない場所と思われたからだ。
 ぶらぶらと歩きながら、時田が常に見ているのは、数メートル先を行く瑞樹と蕾夏の背中―――ポーズとしてカメラを提げてはいるが、撮るつもりはあまりない。被写体を探してか、あちこちに視線を向けながら、何やらポツポツと話をする2人を、飽きることなく観察していた。
 踏みしめる地面までもが人の手によるものである、この人工の島。見渡す限り、新しくて無機質な巨大な建物だらけのこの風景の中、瑞樹や蕾夏が何に反応を示すのか、それを見たかったのだ。


 最初に2人が見つけたのは、ごつごつした岩の上にとまっている、海鳥だった。
 蕾夏は、他のところを見ていた瑞樹の腕を軽く引き、何か短い言葉を投げかけた。それだけで、どこにいる何を蕾夏が見つけたのか、瑞樹にはすぐ分かったらしい。即座に120ミリのレンズに付け替え、じっとどこか遠くを見据えている海鳥の様子を、カメラに収めていた。
 次に目をつけたのは、背中合わせで座って、それぞれ手元の本を読むのに熱中している、高校生位のカップル。すぐ傍に、女の子の膝枕で彼氏が寝ている、という分かりやすいカップルがいたにもかかわらず、そっちには全く興味がないようだった。
 しかし、その“分かりやすいカップル”は、その後、全く違う意味でいい被写体となった。たまたま、彼らの座るベンチの前を通りかかった家族連れの中で、5歳児位の男の子が、ベンチの前で立ち止まり、興味津々で彼らをじっと眺めていたのだ。なのに、カップルは全く気づいていない。その様子に吹き出しそうになりながら、瑞樹と蕾夏は、何枚かのカットを収めていた。
 慣れない砂浜で転んだ子供を見つけた時は、ちょっと意外な展開になった。
 父親が、慌てて駆けつけて起き上がらせたのだが、そうしたシーンでは、2人とも反応を示さなかった。2人が動いたのは、その後―――再び、おぼつかない足取りでヨチヨチ走り出した子供の後を、父親がハラハラしながら追いかけ始めた時だった。
 転んでいる子供を抱き起こすのは、大人として当たり前。ああして、また転ぶんじゃないかと気を揉みながらウロウロするのは、親ならではの表情だ。そうしたことを、無意識のうちに理解してるのだろうか。苦笑のような、微笑ましいものを見たような笑みを浮かべる蕾夏の横で、瑞樹は、中腰で息子の後を追う父の横顔を、何枚も撮っていた。

 ―――面白い。

 あの2人の答えは、いつも、標準的で分かりやすい答えから1歩離れた所にある。
 分かりやすい答えは、外向きの答え、とも言える。1歩離れた所にある答え―――たとえば、ベタベタすることより、一緒に休日の午後を共有することを楽しんでいるようなカップルの姿とか、愛や恋なんて全然知らない子供の興味津々の目とか、「ダメじゃないか」と息子を叱った父親の動揺した顔とか―――そういうものには、それぞれの人間の本質があるような気がする。
 周囲の人間が興味を失って目を他に向けた瞬間、思いがけずに見せる顔―――そう。“素顔”だ。
 お台場というシチュエーションは、あまり意味がないのかもしれない。ただ、この景色や状況を楽しみ、そこに溶け込んでいる人々の素顔を撮る。それが、2人の興味のありか。これがワイキキビーチであろうが富士山の山頂であろうが、違いはないのだろう。

 つくづく、面白い。
 自分達だけで完結している2人。お互い以外、誰も必要としない2人。その2人が、この場所に放り込まれて、一番カメラを向けた被写体が“人間”だなんて。


 この日、2人が目を留めたのは、アスファルトの地面に映った自分たちの影ぼうし。誰かがベンチの上に置き忘れていったサイダーの瓶。風に飛ばされ、もう手の届かない高さに上がってしまった七色の風船。ビルの建設予定地の地面にはびこった、生命力豊かな(つた)―――…。
 何でもない、ありふれた風景。
 そこに、2人は、何かを見ている。何か―――切り取っておかずにはいられない、大切なものを。
 時田にも、他の人々にも見ることの出来ない、何か。“それ”を、瑞樹はフィルムに焼付け、蕾夏は言葉として綴る。

 「…なるほど、ね」
 “2人で作る写真集”がどんな写真集になるかが、はっきり見えた気がして、時田は小さく呟き、口元を綻ばせた。

 それは、写真と言葉とが共鳴しあっているような―――同調(シンクロ)した世界だった。


***


 「ところで2人は、結婚はしないの?」
 時田の言葉に、それぞれ自分の飲み物を口に運ぼうとしていた瑞樹と蕾夏は、全く同じタイミングでその手をピタリと止め、向かいに座る時田の顔を凝視した。
 「「―――…は?」」
 同時にそう言う2人に、時田は思わず吹き出してしまった。
 「た、頼むから、そっくり同じこと、並んでやらないでくれるかなぁ。君ら、きっと前世で双子か何かだったに違いないよ。あはははは…」
 「…すみません」
 別にわざとではなかったし、こんな場合、どの道同じような反応になるのではないか、と思うのだが―――蕾夏はちょっと頬を染めて頭を下げ、瑞樹はむっとしたように眉を寄せた。
 「そんな顔する話かねぇ? 僕に言わせれば、君らがバラバラに暮らしてること自体、凄く不自然な感じがするんだけどなぁ。ほら、ロンドンでは、常に2人セットで見てたから、片方だけだと、どうにも落ち着かなくて」
 「セット、って…」
 「それに、君ら2人とも、いい歳なんだし。いつ出てもおかしくない話だと思うんだけどねぇ」
 「―――時田さんにだけは言われたくないですね」
 サラリと瑞樹に言われ、さすがの時田も、一瞬ぐっと言葉に詰まる。が、ハハハハ、と乾いた笑い声をあげ、表面的には平然と話を続けた。
 「ま、まあ確かに、僕は更にいい歳で、しかも独身主義だったりするけどね。…ま、いいや、結婚の話は」
 「……」
 それだけじゃなく、実は瑞樹や蕾夏と2つ3つしか違わない双子の息子もいる上、“運命の女性”もいたりする上での“独身主義”だったりするのだが…それは指摘するのが憚られたので、瑞樹も蕾夏も黙っておいた。

 時田が墓穴を掘ったところで、ちょうど料理が運ばれてきたので、暫し会話は中断された。
 「ああ、そういえば―――藤井さん、今度、桜庭さんと仕事するんだって?」
 サラダを取り分けながら時田にそう言われ、蕾夏は、ちょっと驚いた顔になった。
 「え、ええ。でも…どうして時田さんがご存知なんですか?」
 「偶然、依頼の電話が入った時に事務所にいたんだ。それに、藤井さんとこの編集長と、その後飲みに行ってね。“桜庭さんが君んとこの仕事を請け負ったみたいだけど”って話をしたら、藤井さんの記事だ、って教えてくれたんで」
 「そうなんですか…。でも、良かったです。引き受けてもらえて」
 「それにしても、なんで桜庭さんに?」
 「うーん…カメラマンの知り合いって、瑞樹以外全然いないし、誰も推薦なんてできないなぁ、と思ってたら、ふいに去年見に行った時田事務所の写真展を思い出して―――あの時の桜庭さんの作品、結構好きだったんです。それに、“花とくらす”ってテーマだから、花を専門に扱ってる人の方が安心だし。面識はないけど、それはどのカメラマンさんでも同じですしね」
 「性格悪いけど、腕はそこそこだからな、桜庭は」
 興味なさそうな声でそう言う瑞樹に、蕾夏は「そういう事言わないのっ」という顔をして、テーブルの下で瑞樹の足を軽く蹴った。
 「一応、褒めただろ」
 「褒める前に、けなしてるじゃん」
 「でも、マジな話、花に関しちゃ俺よりあいつに頼んで正解だと思うぜ」
 でしょう? という目を瑞樹が向けると、時田は僅かに微笑み、
 「確かに、成田君は、花はあまり得意じゃないかもしれないね。ロンドンでも、花の写真より、花を添え物にして他のもん撮ってる写真が圧倒的に多かったからね」
 と相槌を打った。
 が、そこまで言い終えると、何故か時田は、渋い顔で首を傾げた。
 「けど―――ちょっと、意外だったね」
 「え?」
 「藤井さんが、桜庭さんを推薦したことだよ。僕はてっきり、そういうチャンスなら、絶対に成田君を推してくると思ったんだけどなぁ…」
 「……」
 「いや、勿論、偉いと思うよ。私情に流されずに、よりいい写真を撮りそうな人間を選んだ訳だから。でも、なぁ…。駄目もとで、名前を出す位のことは当然するだろうと思ったのに、佐伯編集長の話じゃ、成田君の名前は一切出なかったそうだね」
 「…それは…」
 「―――まあ、理由は、大体想像がついてるけどね」
 にっ、と油断ならない笑いを見せた時田は、戸惑った顔をする蕾夏や、訝るような顔をする瑞樹をよそに、涼しい顔で取り分けたサラダを口に運んだ。
 「成田君の“I:M”での仕事の請け方も、同じ理由だろう? 新人の分際で何を言ってやがる、と、僕の名前やら義兄(あに)の名前やらに過剰反応する連中に言われるのが嫌だし、新人なのは事実なのだから、ここは一つ大人しくしていよう、腹が立つけど我慢していよう…そう思って、ひたすら耐えてる。全ては、たった1つの夢のため―――いずれ、“本当にやりたいこと”を実行する時、誰からも邪魔されないために」
 箸を置いた時田は、硬い表情で並んで座っている瑞樹と蕾夏を、正面から見据えた。
 「…そんなに、自分たちの世界が壊されるのが、怖いかい?」
 「―――…」

 それは―――当然だ。
 2人で作る写真集は、2人にとって、たった1つの夢だ。誰にも邪魔されたくないし、邪魔はさせない。そのために、今は、多少理不尽なことも耐えよう…そう思うのは、極当たり前のことなのではないだろうか?
 そもそも、夢を実現するために必要なことを、瑞樹に教えたのは、他ならぬ時田自身だ。

 『こういう世界は、駆け出しの芸術家は食っていけないと相場が決まってるんだよ。本当に撮りたい写真を撮るためには、そのための土台を作らないといけない。ある意味、職人に徹して、撮りたくない物も撮り、魅力を感じないものにもカメラを向けなくてはいけない。…僕が君に叩き込んでたのは、結局、そのことだけだよ』

 もっともだ、と思った。土台のない自分達が、情熱を過信して突っ走ってしまえば、金銭的にも立場的にも失敗するだろう。だからこそ、あの“I:M”の仕事だって投げ出さずにこなしているのだし、蕾夏にしても、自分自身の力を認めてもらえるまでは、あえて瑞樹の名前は出さないようにしているのだ。
 いつか、誰からも邪魔されることなく、2人で大きな仕事をするために。
 今は、耐える時期だと―――そう考えるのは、間違っているのだろうか?

 時田の真意が測れず、眉をひそめて黙っている2人に、時田は苦笑を漏らした。
 「言っておくけど、別に責めてる訳じゃないよ。目標のために冷静に計算を働かせることは、とても重要なことだ。目的意識に溺れて、そうした計算を忘れて失敗した例は、枚挙に暇がないからね」
 「…の割に、不満げですね」
 警戒した声で瑞樹が言うと、時田は肩を竦めた。
 「とんでもない。不満な訳じゃないよ。ただ―――君達らしくない、と思うだけさ」
 「俺達らしくない?」
 「君達なら、自分自身が認められることより、“2人”が認められることを優先する筈だと思ったんだよ」
 「……」
 「慎重になることも、謙虚になることも、悪いことじゃない。むしろいいことだ。でも…君らは、もう歩むべき道を見つけてるんだ。“2人”でやっていく、という道をね。だったら―――同じ不条理に耐えるのも、“自分”に対する不条理じゃなく、“2人”に対する不条理に耐えればいい。そうすることが、結果的には“自分”を認めさせることにもなる筈だ」
 「で、でも―――2人を認めさせるって言っても、どうすれば…」
 戸惑ったように言う蕾夏に、時田は小さく笑った。
 「それは、藤井さんにも、見当がついてるだろう?」
 「…見当…?」
 「チャンスを、掴むんだよ。誰に何と言われようと、2人でやれるチャンスを」
 思わず、息を飲んだ。
 今の蕾夏には、まさにそのチャンスが到来しているのだから。
 自分の書きたい企画を打ち上げる―――採用されるかどうかは分からないが、もし採用されれば、二度とあるかどうか分からないほどのビッグ・チャンスだ。
 同じことに思い当たった瑞樹も、思わず蕾夏の横顔に視線を移した。企画を提出しなければならない、という話を聞いた時―――そのことを微塵も考えなかったと言ったら、嘘になるから。
 「僕は、そのつもりで“A-Life”の仕事を成田君に残したんだけど…思いのほか、2人とも慎重だねぇ。利用できるもんは何でも利用する貪欲さがなけりゃ、世知辛い世の中で成功は収められないよ? 勿論―――僕のことも、義兄のことも、じゃんじゃん利用すればいい。逆に、僕らの名前が道を邪魔しているようなら、遠慮なく排除していいよ。僕らを立てようとか、そういうことは考えて欲しくない」
 「…は…あ…」
 「まあ、騙されたと思って、発想転換してご覧。君ら1人1人が認められるよりずーっと早く、君ら“2人”は認められる筈だから」
 「…その自信の根拠、伺ってもいいですか?」
 「簡単さ」
 蕾夏の問いに対する時田の答えは、実に明確だった。
 「成田君以外のカメラマンの写真が添えられた藤井さんの記事は、よく纏まっているけど、何か足りない。藤井さんのいない成田君の撮影現場は、手際はいいけど、何か足りない」
 「……」
 「君ら1人1人の才能も、勿論認めてるけどね。“2人”なら最強だ」

 本当に―――そうだろうか?
 なんだか、持ち上げられ過ぎのような気もするが。

 それでも…試してみる価値はある気がした。
 ここ数日、見えない壁を前に苛立っていた瑞樹も蕾夏も、時田の言葉の中に、その答えを見つけた気がしたのだ。

***

 「だ…大丈夫ですか? 時田さん…」
 瑞樹の肩を借りてもなお千鳥足の時田に、隣を歩く蕾夏は、心配そうにその赤くなった顔を覗き込んだ。
 「大丈夫、大丈夫。ハハハ、でも、ちょっと飲みすぎたかもなぁ。空腹に日本酒はまずかったか」
 ―――だから、飲みすぎるなっつったのに。
 元々、時田はあまり酒に強いタイプではないのだ。自分の肩に掴まってふらふら歩く時田を横目で睨み、瑞樹は呆れた顔をした。
 「でもこれで、やっとぐっすり眠れるよ。実はホテルの枕が合わなくて、帰国以来ずっと、いま一つ寝不足だったんだ」
 「…明日のフライト、乗り過ごしても知りませんよ」
 「午後便だから、問題ないさ。…ああ、ここまででいいよ」
 地下鉄の駅に着くと、時田はそう言い、足を止めた。
 確かに、ホテルまでは、この地下鉄で2駅ほどだが―――こんな酔っ払い状態の時田を、1人で地下鉄に乗せる気など、瑞樹も蕾夏もなかった。当然ホテルまで送るつもりだったので、時田の言葉には大きくかぶりを振った。
 「私達、ホテルまで送りますから…」
 「いや、いいよ。見た目ほど酔ってる訳じゃないんだ。ちょっと足にきてるだけでね」
 はーっ、と大きく息を吐き出した時田は、瑞樹の肩を借りるのをやめ、傍にあったどこかの店の立て看板に軽く手を添えた。顔を上げた時田を見ると、なるほど、その表情は“酔っ払い”からは程遠い、理性を持った顔だった。

 瑞樹の顔を見、それから蕾夏の顔を見た時田は、なんとも言えない笑みを浮かべ、思いがけないことを口にした。
 「実はね。日本に来る前、酷く迷ってた仕事があったんだけど…君らを見て、やっと決心がついた」
 「え?」
 「来期の“VITT”の撮影、引き受けることにしたよ」
 「―――…」
 意外な話に、瑞樹も蕾夏も目を丸くした。
 「来期の“VITT”って―――まさか、モデルはまた奏ですか」
 「いや、違うよ。モデルは“僕ら”とは関係のない、ロンドンではかなり有名な女性モデルだ。来期はレディースを大々的に打ち出すらしいからね。僕も1度撮ったことがあるけど、なかなかいい被写体だ」
 「…でも、なんで、急に」
 瑞樹の問いにふっと笑った時田は、何かを吹っ切ったように、穏やかな口調で続けた。
 「プライベートでは、まだサラとは色々あるけどね。ビジネスパートナーとしては、彼女は合理的で、センスが良くて、僕と嗜好も似通っている、非常にやりやすい相手なんだ。オファーが来た時は、正直、もうよしてくれよ、と思ったんだけど―――彼女は純粋に、僕の写真に惚れてるから依頼してきたんだ。“元恋人”の僕にじゃなく、写真家としての僕にね。彼女と会って話して、それを理解した時…過去にこだわってるのは、今じゃむしろ僕の方だと気づいた。…情けないね」
 「……」
 「君達が“一緒に仕事したい”と思っているのと同様に、僕もサラと仕事がしたいと思っていることを、君らを見ていて再認識した。だから、共にいい作品を目指すパートナーとして―――オファーを、受けることにしたよ」
 「…そうですか…」

 その結論に至る時田の葛藤は、瑞樹にも、蕾夏にも分からない。
 けれど、時田の表情が、これまでで一番清々しいものに見えるのは、気のせいではないだろう。2人は自然、笑顔になった。

 「君らも、もっと貪欲になれ」
 最後に、時田はそう言った。
 「僕からも、世間の嫉妬や偏見からも解放されて―――自由になれる道を選べ」

***

 時田と別れた2人は、言葉少なだった。
 ちょっと歩きたい気分だ、と言う蕾夏に、瑞樹も同意し、本来電車に乗るべき駅の前を通過し、隣の駅まで歩く。その間も、酷く静かだった。
 それぞれに、考えていた。
 この先、自分達が、どうすべきなのかを。

 「―――蕾夏」
 考えに耽っていた蕾夏は、瑞樹に名を呼ばれて我に返り、顔を上げた。
 「なに?」
 「1つ、頼みがある」
 「頼み?」
 「…“Clump Clan”の撮影。ショーのスナップ撮影は金曜日だけど、ポスター撮りは土曜日だろ」
 「うん」
 「もし、お前がオフの日だったら―――俺のアシスタント、やって欲しい」
 その言葉に、蕾夏の足が、ピタリと止まった。
 蕾夏に合わせ、同じく足を止めた瑞樹は、思いのほか穏やかな、決心のついたような顔をしていた。驚いたように目を見開く蕾夏に、苦笑いを返す。
 「奏を撮るには、俺1人じゃ、力が足りない」
 「……」
 「お前には、酷かもしれない。俺も、もし何かあったら、って心配が先にきて、お前を頼るのだけは止めようと思った。でも―――奏の写真は、やっぱり、お前と一緒に撮りたい。仕事仲間として―――俺と、蕾夏と、奏と。3人で1つの仕事をやり遂げたい」
 「…瑞樹……」
 「駄目か?」
 少し心配げに瑞樹が眉をひそめると、蕾夏は慌てて、大きく首を振った。
 「まさか! そんなことないっ。だって私、いつだって、瑞樹の撮影に立ち会いたいって思ってるんだもの。で、でも…本当に、いいの?」
 「当たり前だろ」
 「…ショーの撮影の方も、休み取って、参加したいんだけど…」
 おずおずと言う蕾夏に、瑞樹はホッとしたように表情を緩めた。
 「そうしてもらえるなら、助かる」
 「…良かった…」
 瑞樹の返事に、蕾夏も嬉しそうに笑った。が、直後、急に表情を引き締めると、真剣なまなざしで瑞樹を見上げた。
 「私も瑞樹に、お願いがあるの」
 「何?」
 「この前言ってた、コラム企画案のこと。あれ―――去年やった、“映画(シネマ)ノスタルジー”みたいな企画を考えたい」
 「……」
 「瑞樹の写真に、私が文章を添えたいの。企画が通るかどうか、分からないけど―――もしアウトだと、次にチャンスが来た時、瑞樹の名前を出し難くなっちゃうかもしれないけど―――でも、試す価値はあると思う。…瑞樹、協力してくれる?」
 「―――当たり前」
 ふっと笑った瑞樹は、蕾夏の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 「…もし駄目でも、次の機会にまた、俺の名前出せよ。何度でも―――チャンスがある限りは」
 「―――うん」
 蕾夏もホッとしたようにそう答え、フワリと微笑んだ。

 コツン、と額と額を合わせた2人は、思わずクスクスと笑ってしまった。
 笑えるほど同じタイミングで、同じようなジレンマに陥って、それぞれ鬱々と考え込んでしまっていた自分達に気づいたから。
 全く―――こんな所まで、シンクロしなくてもいいのに。つくづく、似た者同士なのかもしれない。


 “いい写真、撮ろう”。

 明日に続く一歩を、2人は、見つけた。


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