←BACKInfinity World TOPNEXT→




― ヒロ -1- ―

 

 電話を終え、撮影現場に戻った桜庭は、瞬間、足が凍り付いて地面にくっついてしまったかのような錯覚を覚えた。

 「あ、どうも、こんにちは!」
 桜庭に気づいたらしき男が笑顔で会釈する。先日、打ち合わせの時に会った編集者だ。桜庭が所用の電話をしている間に到着していたらしい。咄嗟に平然とした顔を作った桜庭は、軽く頭を下げ、「おつかれさまです」と挨拶した。
 しかし、実際に桜庭がその編集者に目を向けたのは、ほんの一瞬だけだ。視線は既に、彼の隣にいる女性の後姿に向けられている。
 まさか、と思った。似たような後姿はいくらでもいる。まさか、それはないだろう、と。
 が、桜庭のその期待は、大きく裏切られた。
 編集者と桜庭のやりとりに気づいた彼女が、くるりと振り向いたのだ。

 黒い瞳が、桜庭の姿を捉え、数度瞬きをする。
 そして、目の前にいるのが今日の撮影を担当するカメラマンだと理解したらしく、彼女は静かに微笑むと、軽く会釈をした。
 「はじめまして」
 「…どうも」
 たった一言が、酷く言いにくかった。なんでこの子がここに、という言葉しか、頭に浮かんでこなくて。
 実物の彼女を見るのはこれで2度目だが、桜庭は彼女の顔を、よく知っている。“月刊フォト・ファインダー”に掲載された1枚の写真―――その、モデルとして。そして、その写真の中の彼女の印象からも、前回、写真展で見かけた時の印象からも、桜庭は漠然と、彼女のことを“学生”だと思っていたのだ。
 ―――なに、この子って、社会人だったの? それに…社会人だとしても、なんでこの現場にいる訳?
 そんな桜庭の疑問をよそに、微笑を浮かべたままの彼女は、肩から提げた大振りなバッグから名刺入れを取り出し、1枚の名刺を桜庭に差し出した。
 「当日のご挨拶で申し訳ありません。先日の打ち合わせの日、あいにく留守にしていたものですから…。今回の“花とくらす”の記事を担当する、ライターの藤井です」
 「……」
 反射的に受け取った名刺をまじまじと確認すると、確かに、そこには彼女の身分が書かれていた。

 『World Explorer社“月刊A-Life” 専属ライター 藤井蕾夏』

 漢字の氏名の下に書かれた「RAIKA FUJII」というローマ字で、咄嗟に読めなかった名前が「らいか」だと分かった。
 藤井蕾夏―――初めて知った。どこの誰だか分からなかった、あの写真のモデルの名前。まさか…まさか、こんな形で言葉を交わすことになろうとは、想像もしなかった。
 「今日は、よろしくお願いします」
 ニコリ、と微笑む蕾夏に、桜庭も慌ててバックポケットから名刺入れを取り出し、蕾夏に渡した。
 「桜庭です。こちらでの仕事は初めてですが、よろしくお願いします」
 名刺を受け取った蕾夏は、その名刺をじっと見つめた後、顔を上げてくすっと笑った。
 「咲子、って名前、花を専門に撮ってる桜庭さんには運命的な名前ですね」
 「―――…」
 蕾夏は褒めたつもりらしいが、昔から、“桜”庭“咲”子という文字の並びは目を惹くらしく、失礼なガキ大将などに「似合わねー」と言われ続けたので、大嫌いな名前なのだ。実は生まれたのが3月で、たまたま窓から桜が咲いてるのが見えたからついた名前なのだが、もうちょっと将来の娘の容姿をイメージしてつけて欲しかったと、切に思う。
 「へー、そう言えば、藤井の名前にも“蕾”って字が入ってるよなぁ。2人揃って、今回の企画にはピッタリな名前で、良かった良かった」
 何が良かったのかよく分からないが、編集者が機嫌よくそんな事を言って笑った。どう返していいのやら分からないので、桜庭は曖昧な笑みを返しておいたが、蕾夏も似たような、困ったような笑いを編集者に返していた。

***

 今日の撮影現場は、いわゆる「ハウススタジオ」の一種で、小ぶりなキッチンに10畳程度のフローリング床が続いてる、南向きの部屋だった。
 撮影するカットは、全部で5種類。“花とくらす”というテーマなので、生活の中にさりげなく取り込まれた花、というコンセプトで撮る。桜庭には、そこそこ慣れた撮影スタイルかもしれない。
 「そっちのリビングセットの映りこみが、結構ありますけど…」
 「あっていいんじゃない? 一般家庭なら、インテリアが映りこむのが自然だし」
 「あー、そうっすね」
 空のグラスをキッチンカウンターに置いて、周囲の映り込みをスタジオマンと共に確認する桜庭の横では、花専門のスタッフが、大量に用意された花をグラスに手際よく活けていた。
 「こんな感じでどうでしょう?」
 「ああ、いいんじゃないかな。藤井、どう思う?」
 編集者の声に、桜庭はファインダーから目を離し、花の準備をしている一角に視線を移した。
 真剣な面持ちの蕾夏は、資料を胸に抱いたまま、じっと出来上がったアレンジメントを見つめていた。社会人だと分かってもなお、見た目がどうしても学生っぽい蕾夏だが、ああして真剣な顔をしていると、やはり社会人なんだな、と改めて認識する。
 それにしても、一体何歳位なのだろう? “フォト・ファインダー”の写真を見た時には、間違いなく10代だろうと思っていたのに―――ビジネスシーンでの挨拶などに慣れた人間らしき名刺交換の仕方だけ見ても、新人でないことがすぐ分かる。
 「うーん…華やかで見映えはするんですけど、キッチンに置くには、ちょっと重たくないですか?」
 「そうですか? 色は淡色で抑えたんですけどねぇ」
 「色はいいんですけど―――ええと、ガーベラをもう少し減らして、その分アイビーをもうちょっと増やすとか」
 ―――へー、意外。結構ずけずけ意見するなぁ、あの子。
 大人しい優等生に見えたので、フラワーコーディネーターの納得いかない顔にもびくともせず意見する蕾夏に、桜庭はちょっと驚いていた。
 桜庭も、なんだか周囲にそぐわないな、と思うアレンジメントを撮影する羽目になることが度々あるが、あえて意見したことはほとんどない。プロは口出しされるのを一番嫌うのだと、よく分かっているから。作った本人が良しとしていて、周囲もそれに文句を言わないのなら、まぁいいか、というのが桜庭のスタンスなのだ。
 「でも、ただでさえ淡くて、周りのキッチンの色に沈んじゃいそうなんですから…。これ以上色を削ると、地味になっちゃいますよ」
 蕾夏の意見に、フラワーコーディネーターも簡単に折れはしなかった。確かに、見映えという点では、こちらの意見に分があるかもしれない。
 しかし、その意見に蕾夏は、ニッコリ微笑んでこう返した。
 「ちょっと参考に伺いますけど…もしこのままだったら、コーディネーターさん、自分の家のキッチンに飾りますか?」
 「えっ」
 「今回のテーマ、“花とくらす”であって、“花”じゃないんです。私も、読者さんが読んで“ステキ”って憧れるようなイメージより、自分も実践してみよう、って思える、ナチュラルな感じをイメージして記事を構成してます。色が与えるリラクゼーション効果とか、さし色として使う花の効果とか。だから、同じ花を使ったアレンジメントでも、読者さんが“華やかで綺麗”と思うことより、“この位なら自分でも真似ができるかも”と思えることを優先したいんです。私も、お花の写真としては、このままの方が断然綺麗だと思います。でも…記事のためには、多少地味になっても構わないから、読者にとって敷居の低いアレンジをお願いしたいんです」
 「……」
 穏やかな口調ではあるものの、理路整然と意見する蕾夏に、コーディネーターも、傍で見ていた編集者も、少し唖然とした顔になった。桜庭も呆気にとられたが、不思議と「生意気なヤツ」とまでは思わなかった。
 言葉を失ったままのコーディネーターに、蕾夏は困ったような笑みになり、アレンジメントをテーブルの上でくるっと回し、コーディネーターの方に向けた。
 「ある程度の見映えは保って、でも、数日で枯れるお花にポンとお金を出すのは躊躇っちゃうような女の子でも実践できそうなアレンジメント―――素人だから無茶なこと言ってるのかもしれませんけど、是非作っていただきたいんです。…ダメですか?」
 このセリフは、かなり、効いた。
 職人気質とは妙なもので、高いハードルを「無理かもしれませんけど…」と遠慮がちに提示されると、是が非でも越えてやろう、という変なチャレンジ精神が芽生えてしまうのだ。
 「―――分かりました。使う素材は同じでいいですよね?」
 捲り上げていたシャツの袖を更に引き上げたコーディネータが、さっそくアレンジメントを手に取って、蕾夏に確認した。ニコリと笑った蕾夏は、少しホッとしたような表情になると、
 「はい。お願いします」
 と晴れやかに答えた。


 その後も桜庭は、撮影準備をしながら、蕾夏の様子をチラチラ窺った。
 そして、ものの10分で、最初に抱いた印象がものの見事に全て覆るのを感じた。
 華奢で、儚げで、少女のような脆さを感じさせる外見をしているくせに―――藤井蕾夏の中身は、とてつもない目的意識を持った、妥協を知らないライターだ。
 挨拶をしてから30分ほどの間に、蕾夏が何かをメモ帳に書きなぐる姿を見たのは、既に3回。どうやら、準備作業を見学しているうちに記事に関するアイディアが浮かんだらしく、何かぶつぶつ言いながら素早くメモを取っていた。撮影同行ライターなんて、イメージ確認だけのためにいるんだろう、と思ってきた桜庭は、あんなにフル回転しているライターもいるのか、と少々驚いた。
 被写体である花についても、インテリアの配置にも、臆せず意見してくる。かと言って、周囲を無視して暴走している訳ではない。その都度編集と意見交換し、最終的な指示は編集に任せる場面が多い。恐らくは先輩格であろう彼を蔑ろにしてしまったらまずいことを、ちゃんと理解しているのだ。

 ある一部の人種には嫌われるタイプだな、と、桜庭は思った。
 柔らかな外見と、セラミック並みに鋭く堅い中身。外見に騙されて侮った人間は「可愛げがなくて生意気」と言うだろうし、その鋭さに対抗できない人間は「外見で得をしている」と陰口を叩くに違いない。

 “男のあんたに、何が分かるのよ! 差別されない立場のあんたに、分かる訳ない! 女だってだけで、この世界じゃどれだけ生き難いか…!”
 “知ってる。その不条理と本当の意味で戦ってる奴を、身近に見てるから。”

 ―――この子のことだったのか。
 直感的に確信した。以前、瑞樹が言っていたのは、蕾夏のことだったのだ、と。
 確信すると同時に、妙に苛立った気分になった。自分だって、自分なりに戦っているのに―――それが瑞樹の主義と合わないにしても、蕾夏と比較してバッサリ斬り捨てられるなんて、なんだか納得がいかない。
 彼女だもんだから欲目が入ってんじゃないの、と、少々ささくれ立った気分になりながら、桜庭はできるだけ淡々と、準備作業を進めていった。

***

 全てのセッティングを終えると、撮影前の一時休止となった。
 廊下に出て、自販機でコーヒーを買った桜庭は、無意識のうちに蕾夏の姿を探していた。別に話がしたい訳ではないが、どうしても1つ、確認しておかなくてはならないことがあるのだ。
 プルトップを開けながらキョロキョロ辺りを見渡すが、蕾夏の姿はなかなか見つからない。外に出たのかな、と考えながら、何の気なしにスタジオの中の覗き込んだら、なんのことはない、蕾夏は、まだスタジオの中にいた。
 大きな窓の傍に設置された、作業用の台。そこにもたれかかるようにして、また資料やメモを睨んでいる。色々考えを巡らせているのか、右手に持ったペンが、メトロノームよろしく一定のリズムを刻んでいた。
 スタッフの大半は、入り口付近や廊下に散っているようだ。ちょうどいい―――桜庭は思いきって、蕾夏の傍へと歩み寄った。
 「藤井さん」
 5メートルほどの距離から名前を呼んだが、蕾夏は反応しなかった。
 聞こえていないのだろうか。怪訝そうに眉をひそめた桜庭は、更に近づき、もう少し大きな声で呼んだ。
 「あの、藤井さ―――…」
 「ちょっと待って!」
 ペンを持った手が、“待った”の形で、桜庭を制した。
 条件反射的に、つい、足を止める。息まで詰めてしまった桜庭をよそに、資料から全く目を外そうとしない蕾夏は、重ねて持ったメモに、物凄い勢いで何かを書きつけ始めた。
 「……」
 桜庭の位置からでは、何を書いているのやら、さっぱり見えない。何を書いているのか気になりながら、この“だるまさんが転んだ”みたいな状態、一体いつまで続けりゃいいのよ、と桜庭は焦れた。
 そして待つこと、1分。
 「―――…はー…、こんなもんかなー…」
 書けたらしい。明らかにホッとした表情になった蕾夏は、やっとペンと資料類を下し、桜庭の方に顔を向けた。
 そして、呆れたような顔で立ち尽くしている桜庭の様子に気づき、ちょっと頬を赤くした。
 「…あ…、ごめんなさい。私、思いついた時に書き出しちゃわないと、気が済まない方なんで…」
 「―――別に、いいけど」
 「やっぱり現場に来て写真イメージが具体的に掴めると、面白い位に色々思いついちゃいますね」
 そう言ってあははと笑った蕾夏だったが、桜庭がリアクションに困っているのに気づくと、バツが悪そうに姿勢を正して、まっすぐ桜庭に向き直った。
 「で、なんでしょう?」
 「―――そう改まる話でもないんだけど…あの、ちょっと確認したくて」
 「はい?」
 「今回のこの撮影―――あたし、“A-Life”とは全然コネがないから不思議に思ってたんだけど…もしかして、藤井さんが推薦した?」
 桜庭の問いに、蕾夏はあっさり、笑顔で答えた。
 「ええ。去年、たまたま写真展で桜庭さんの写真を拝見して」
 「写真展?」
 「時田事務所の。あの写真が印象的だったので、よく覚えてたんです」
 途端―――脳裏に、去年の写真展で耳にした蕾夏の言葉が、はっきりと蘇った。

 『何ていうか―――切ない写真だよね。なんか…必死さっていうか、壮絶さを感じる。背景のせいかもしれないけど―――見てて、苦しくなる。こういう“想い”もあるんだな、って思って、ちょっと悲しくなった。―――私の気のせいかな』

 ―――あの写真を見て、依頼してきた―――…?
 思わず、目を見張る。あの陰湿で重苦しい写真を見て、こんなライトタッチな仕事を依頼しようと思うなんて。一体、何を期待して自分に依頼しようなどと考えついたのだろう? 不思議でしょうがない。
 しかし、桜庭の疑問をよそに、蕾夏は桜庭の写真の何を気に入ったのか、その辺はさっくり省略してしまった。
 「…あの、ご迷惑でしたか?」
 「えっ」
 蕾夏の表情が少し心配げになるのを見て、桜庭はにわかに焦った。
 「いえ、その、別に迷惑だった訳じゃないけど」
 「あ…、そうですか。良かった。実は、知人が時田事務所を利用してるので、花を専門に扱ってらっしゃることも聞いてたんですから、ちょうどいいなと思って…」
 「…知り合いって、成田のことでしょ?」
 あ、しまった。
 と思った時には、既に、言うつもりのなかった言葉が飛び出していた。
 ホッとしたような蕾夏の笑みが、瞬間、固まった。驚いたように目を見開いた蕾夏は、別人みたいに慌てふためき始めた。
 「あ、あの―――なんで? なんで、ご存知なんですか?」
 「え、なんで、って…」
 「もしかして、成田さんから聞いてたんですか? “A-Life”にライターの知り合いがいるとか、何とか」
 「いや、そうじゃなくて―――あたし、前からあなたの顔、知ってるから」
 「え?」
 失敗した。こんな話、するつもりは無かったのに。
 内心舌打ちするが、もう遅い。桜庭は、自分のコンプレックスをチクチクと刺激するネタを、あえて口に出した。
 「―――“フォト・ファインダー”で、時田賞取った写真。成田が撮ったっていうやつ。…あの写真、成田が時田事務所使うようになる前から見てたから。よく覚えてる写真だったから、今日も一発で分かった。あなたが、あの写真のモデルだって」
 ぽつぽつと桜庭が言うと、蕾夏は、丸くなっていた目を更に丸くし、桜庭の顔を凝視した。
 「すごい…! あの写真だけで、私だって分かったんですか!?」
 「うん、まあ」
 「それに、あの写真が掲載されたのって、結構前なのに…。よく覚えてましたねぇ。やっぱり写真やってる人って違うのかなぁ」
 「……」
 ―――覚えてるに決まってるじゃないの。
 苦い思いが、喉の奥に広がる。
 あの写真は、桜庭にとっては、憧れと憎しみの対象だ。桜庭が必死になっても出来なかったことを、あの写真はやってのけた―――自分の写真をあっさり無視する“彼”の目を、こんなにも長い間、釘付けにしているのだから。あの写真は。
 「…あたし、あの写真見て、てっきりプロのモデルさんだと思ってた」
 心の内に湧き上がった暗いものを誤魔化すように、桜庭はわざと笑顔を作って、蕾夏にそう言った。
 蕾夏は、そんな桜庭の内心には気づかずにいてくれたようだ。桜庭の笑顔につられたように苦笑を浮かべると、とんでもない、と首を振った。
 「まさか。この容姿でモデルなんてやってたら、世の中のモデルさん達から袋叩きに遭っちゃいますよ。あれは、仲間達と一緒に屋久島旅行に行った時のスナップなんです」
 「ふーん…」
 グループ交際からカップルが誕生した、といったところなのだろうか。そういう青春ドラマっぽい設定は、瑞樹には全然似合わないが、目の前にいる少女っぽい容姿の彼女ならあり得る気がした。
 ちょっと、好奇心が湧いた。桜庭は、少し声をひそめると、内緒話でもするように蕾夏に訊ねた。
 「…ねえ。成田のやつは真相を語ろうとしないけど…どうなの?」
 「え?」
 「ここだけの話、やっぱり藤井さんって、成田の彼女なんでしょ?」
 「―――…」
 ええそうなんです、と返ってくるものと思っていた。
 ところが蕾夏は、桜庭の顔を暫し見つめ、それから難しい顔で首を傾げてしまった。
 「うーん…彼女、かあ。難しいなぁ…」
 「は?」
 「その2文字で終わりにされちゃうのもなぁ…」
 「???」
 なおも、うーん、と首を捻り続けた蕾夏は、結局、桜庭の言葉を肯定はしなかった。
 「やっぱり私達の基本は、親友同士、かなぁ…」
 「親友?」
 「私達の関係は、一言では表せないんです。でも、あえて1つに絞るなら、まずは“親友”ってことかなぁ…。ごめんなさい、抽象的で」
 「……」

 ―――“親友”?
 男と女の間に、そんな関係、ある訳ないじゃない。本気で言ってんの、この子。

 皮肉っぽくそう考える桜庭にも、かつて、男女の友情を信じていた時期があった。でも、そんなのはまだ子供だった頃だ。男女の間にあるドロドロした愛憎を知ってからは、所詮男は男、女は女なんだ、という事実を悟ったのだ。
 なのに―――そんなことを、この歳になってまだ言っているのか。桜庭は、急激に冷めた気分になった。
 「でも、桜庭さん、凄いですね。若いのにもう、カメラマンとして専門分野を見つけてるなんて」
 あまり長引かせたくない話題だったのか、蕾夏はそれ以上自分と瑞樹の関係についての言及を避け、笑顔でそんなことを言ってきた。
 桜庭にしても、あまり気分のいい展開ではなかった。蕾夏がスルーしてしまったのをいいことに、桜庭もその話はそのまま流すことにした。
 「ああ、まあ…。別に花好きでも何でもないんだけどね。でも、花って題材だと、結構女性カメラマンでも依頼があるし」
 「え? 他の題材だと、男女差あるんですか?」
 「クライアントによるんだろうけど、同じ条件なら大抵、男の方に頼んじゃうんじゃない? 普通。カメラマンに限らず、そういう傾向はあると思うけど」
 「……」
 「藤井さんも、結構バリバリやってるタイプみたいだから、そういう不条理に出くわすことも多いんじゃない?」
 すっかり飲むのを忘れていた缶コーヒーを思い出したように口に運びながら、桜庭がそう言うと、蕾夏は少し眉を寄せた。
 「…まあ、それなりに、ありますけど」
 「やっぱり? あーあ、嫌になるわよねぇ…。女だってだけで差をつけられたんじゃ、たまったもんじゃないわよ。こんな世の中なら、あたし、男に生まれてきたかった。そうじゃなければ、明日から、男より女が偉いって思想が定着した社会にコロッと変わってくれたらいいのに」
 「―――…」
 「藤井さんも、そう思わない?」
 桜庭の問いかけに、蕾夏は眉根を寄せたまま、暫し、黙っていた。
 やがて、口を開いた蕾夏は、なんとも形容し難い笑みを浮かべた。
 「―――私は、女である私を認めてもらいたいとは、あんまり思ってないんです」
 「……え?」
 「男とか、女とか、そんな風にカテゴライズするんじゃなく、ただの人間として―――私という人間を認めて欲しいだけなんです。だから、不条理は許せないけど、ちゃんと理由があるのなら、男の人に負けても平気です。それと同じように、納得できない理由であれば、相手が女性でも負けるのはイヤです」
 「……」
 「“男”より上に立ちたいとも思わないし、“男”になりたいとも思いません。私は、“女”を認めて欲しい訳じゃない―――ただの“藤井蕾夏”として認められたいんです」


 まっすぐに自分の目を見てそう語る蕾夏に、桜庭は、何も反論できなかった。

 “本当の意味で戦ってる奴”―――瑞樹の言葉を思い出して、ただ、言い様のない悔しさと苛立ちを覚えて、蕾夏を見下ろすことしかできなかった。


***


 ―――ああ、疲れた…。
 事務所のドアノブを握った桜庭は、はああぁ、と盛大にため息をついた。
 撮影自体は、最近の撮影では一番スムーズにいった。現場のムードも良かったし、アシスタントをしてくれたスタジオマンも使えるタイプだったし、まさに言うことなしの撮影だった。
 こんなに疲れた理由は、ただ1つ―――写真から抜け出てきた、あの女のせい。

 理屈じゃなく、嫌いだ、と思った。
 嫉妬も入っているのかもしれない。不条理に対する怒りが強すぎて、自分にはあの境地には達することができない。あんな風に、性差を超えた次元で信念を語れるような強さ、自分にはない―――そのことに関する嫉妬は、認めざるを得ない。
 けれど、嫉妬は憧れの裏返しでもある。ああ言い切れる蕾夏は、妬ましくはあるが、嫌いではない。
 嫌いなのは―――もしかしたら、あの外見かもしれない。

 真っ直ぐで癖のない、艶やかな長い黒髪。
 その髪と対比を成す、淡雪みたいな儚さを持った白い肌。
 まるで、“清廉”という言葉を絵にしたみたいな、世の中の全ての穢れとは無縁に思えるその姿は、ある種類の人間にとっては、憎しみの対象だ。純粋無垢だった時の自分を忘れてしまった人間―――そう、桜庭のような人間にとっては。
 あの容姿で、“男女の間にある友情”なんて言葉を吐かれると、虫唾が走る。何一人でいい子ぶってんの、あんただって恋人とは、他人には見せられないような浅ましい行為をやってるくせに―――そういう汚い自分を認めようとしてないみたいで、ムカつく。
 しかも、“彼”が、そういう女の写真に魅せられてしまってるのを思うと―――余計、イライラする。たとえ“彼”を惹きつけたものが、彼女の外見ではなく写真そのものだとしても…イライラする。

 ―――…ああ、疲れた。
 もう一度、短いため息をつき、桜庭はようやくドアを開けた。
 そして、開けた途端―――追い討ちをかける人物がそこにいるのを見て、肩からかけたカメラバッグを落としてしまいそうになった。

 ドアの開く音に、事務所内にあった見覚えのある背中が振り向いた。
 携帯で通話中らしい瑞樹は、桜庭の顔を見て、僅かに眉をひそめただけだった。何らリアクションをとることなく、また桜庭に背を向けてしまった。
 「それで? ……ああ、……そうか。大丈夫か、お前。無理すんなよ」
 電話相手にそう言う瑞樹の声は、普段、桜庭に対して何かを返す時の声より、なんだか柔らかに感じられた。あの子に電話してるのかな、と、つい2時間ほど前まで現場で顔を合わせていた清楚な姿を思い浮かべた桜庭は、また嫌な気分になった。
 「で、また神戸には行くのか? ……そっか……そうだよな。―――え? ……バカ、海晴は海晴の気の済むようにしろ。俺に遠慮する必要なんてねーんだから」
 みはる?
 予想とは違う名前に、桜庭は少々拍子抜けした。と同時に、ちょっとした好奇心―――明らかに女性と思われる名前なのだから。ドアを閉め、瑞樹のいる席からは離れたデスクの上に荷物を置きながらも、耳だけは瑞樹の電話の方を向いてしまう。
 しかし、電話は、そう長くは続かなかった。
 「……うん、……うん、分かった。じゃあな。気をつけて」
 その瑞樹の言葉を最後に、電話は終わってしまったのだ。

 パチン、と携帯を閉じた瑞樹は、少し疲れた表情で髪をぐしゃっと掻き混ぜた。机の上の紙を見る限り、どうやらここで香盤表(こうばんひょう)を作っていたところに、電話がかかってきたらしい。
 「…お疲れ」
 桜庭がそう声をかけると、瑞樹は髪を掻き上げたまま、目だけ桜庭の方に向けた。
 「―――ああ、お疲れ」
 「香盤表?」
 「まあな」
 「まだまだかかんの?」
 「もう終わった」
 「ふーん…いつの撮影?」
 「今月末」
 ―――なんて、短い会話。
 さっきの電話の声が幻聴だったみたいに、無愛想でそっけない声だ。愛想が良くないのは自分も同じだからどうこう言うつもりはないが、同じ女なのにこうも差をつけられると、さすがにちょっとムッとくる。
 「今日、撮影現場で、凄い人に会ったんだけど」
 気分を害しついでに、桜庭が含みを持たせた口調でそう言うと、携帯をシャツの胸ポケットにしまった瑞樹は、やっと桜庭の方に顔を向けた。
 「誰」
 「誰だと思う?」
 「さぁ?」
 「成田のカ・ノ・ジョ。藤井さんて人、“A-Life”の。あの子、例の写真のモデルだった子でしょ? 現場で顔合わせてびっくりしたわよ。げ、本物、って思って」
 「…で? 上手いこといったのかよ、“花とくらす”は」
 ―――なんだ。やっぱり知ってるんじゃない。
 サラリと返された言葉に、桜庭は面白くなさそうに口を尖らせた。と同時に、“彼女”という部分を特に否定しなかったことに気づき、少し身を乗り出した。
 「やっぱ、彼女なんだ?」
 ガタリ、と音を立てて椅子に座った瑞樹にそう言うと、瑞樹は、出来上がった香盤表をクリアケースに入れながら、
 「あいつ、何て言ってた?」
 と訊き返した。
 「誤魔化されたわよ。一言では言えない、あえて1つに絞るなら“親友”かな、だって」
 蕾夏の言葉を要約してやると、瑞樹はくっと小さく笑った。
 「―――あいつらしいな」
 「は?」
 何それ、と怪訝そうにする桜庭に、瑞樹は、軽く肩を竦めただけで、何ら説明は返してくれなかった。
 「何、それって、肯定してんの? それとも否定してんの? どっちよ」
 「さぁな」
 「変なの…なんで2人揃って誤魔化すわけ? 恋人同士だってバレるとまずいことでも、何かあるの?」
 「変なのはあんただろ。俺達の関係が何なのか、そんなに重要かよ」
 「そ……」

 そんなことは、ない。けれど。
 ない、けれど―――そういえば、何故そのことに、こんなにこだわっているのだろう?

 「…そんなに、重要な訳じゃ、ないけどさ」
 自分でもよく分からないまま、桜庭は、ちょっと勢いを削がれた感じで、呟くように答えた。そんな桜庭に苦笑した瑞樹は、香盤表をデイパックに突っ込みながら、一言、答えた。
 「あいつは、最高最強の親友だ」
 「―――成田は、親友をモデルに、あんな写真が撮れるんだ?」
 カメラマンの熱い視線を感じる写真だった。
 なんだか、いろんな感情が盛り込まれた作品で、どれを感じ取ればいいのやら分からなかったのだが―――桜庭が真っ先に感じたのは、カメラマンの、被写体に対する愛情。憧れや切望やもどかしさが混ぜこぜになった、強い愛情だ。
 すると瑞樹は、桜庭の方を振り返り、ふっと笑った。
 「恋人になったら、親友やめなきゃならない法律なんて、あったか?」
 「……」
 「あいつも言ったんだろ、“一言では言えない”って。そういうことだ」

 ―――あり得ない。
 反発心だけが、ジリリと、胸の奥を焦がす。
 瑞樹のような男が―――“STUDIO ACTS”でバイト時代、言い寄る女を涼しい顔でポイポイ投げ捨てていたような男が、蕾夏のような人間と同じことを言うなんて。あまりにも、ミスマッチだ。

 「―――ふーん…とりあえず、彼女ではあるわけだ」
 親友、の部分には、あまり触れたくない。若干力のない声でそう言った桜庭は、それでも皮肉っぽく、ささやかな反撃を試みた。
 「あーんな可愛い彼女いるのに、他の女の電話であーんな優しい声出すような奴だったんだ。成田は」
 桜庭の皮肉に、瑞樹は「は?」という顔をして、眉を顰めた。
 「何だそりゃ」
 「さっきの電話。あたしや川上さんと話す時とじゃ、全然声のトーンが違ってたじゃん。悪い奴ぅ。女いるのに、他の女にもいい顔するなんて」
 「……」
 瑞樹の顔が、呆気にとられたような表情になった。
 暫し唖然としたまま、桜庭の顔を凝視する。そして次の瞬間―――今世紀最大のジョークでも聞いたみたいに、派手に吹き出した。
 「!? な、なによ!?」
 「…バ……」
 「ば?」
 「バッカじゃねーの?」
 笑いながら放たれた一言は、疲れた桜庭の脳を直撃した。
 「はぁっ!? あ、あたしのどこがバカなのよっ!」
 思わず席を立って桜庭が怒鳴ると、瑞樹はまだ可笑しそうに笑いながら、まあ待て、と桜庭を手で制した。そして、ある程度笑いが収まった段階で、やっと顔を上げた。
 「あんたの頭ん中では、男と女の関係って、それしかねーのかよ」
 「え?」
 「さっきの電話は、妹」
 「……」
 いもうと?
 「…成田って、妹いたの?」
 「いちゃ変か?」
 「でも、この前―――…」
 時田が帰国して、時田事務所の面々で飲みに行った時。互いに親の離婚を経験していると分かって、帰り道で、瑞樹と少し話をした。その時、桜庭が「片親でよかったことって言ったら、料理が上手くなったことかな」と言ったところ、瑞樹は、自分も父親と自分だけの男所帯だったから、料理のできない男にはならずに済んだ、と言っていたのだ。
 桜庭の釈然としない顔の意味を察したのか、瑞樹は、ああ、と思い出したように呟き、説明を加えた。
 「両親離婚して、妹は母親と、俺は親父と住むようになったから」
 「…じゃあ…離婚で、離れ離れになって、ってこと?」
 「まぁな」
 「まだ、交流あるんだ…離れ離れになっても」
 「最近な。去年、10年以上ぶりに再会するまでは、ほぼ音信不通だった」
 「―――…」

 10年以上ぶりに再会して―――それでも、きょうだいとして、接することができるんだ…。

 ズキリ、と、みぞおちの辺りが痛くなった。
 離れ離れになった、異性のきょうだい―――それは、桜庭がずっと抱えている痛みだから。


 誰にも、話したことはなかった。
 母にも話していない。母が、再婚相手と離婚した経緯を、桜庭はよく理解している。だから、“彼”の話をした時、母がそれをどう受け止め、どれほど自分を責めるか―――それが、手に取るように想像ができるから、到底話せなかった。
 高校時代の友人も、写真学校時代の仲間も、比較的平和な、幸せな家庭に育った子が多かった。その実態がどうであれ、とりあえず片親の子は誰もいなかった。自分達の家族の実態からはかけ離れた話を、彼らに理解できるとは思えなかった。だから、話せなかった。

 でも。
 もしかしたら、瑞樹には―――妹という、自分より小さな存在と、親の都合で離れて暮らさざるを得なくなった瑞樹には、理解できるかもしれない。
 話したところで、どうなるものでもないし、アドバイスが欲しい訳でもない。
 でも―――ただ、話してみたかった。“彼”のこと―――離れ離れになった、元弟・ヒロのことを。


 「…ねえ、成田。この後、時間ある?」
 決心する前に、言葉が、口をついて出てきていた。
 「もし少し時間あるなら、さ―――ちょっとだけ、飲みに行かない? 成田の彼女と知り合いになったのを記念して」


←BACKInfinity World TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22